返答させていただきます。
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DATE: 2月23日(金)03時25分48秒
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TITLE: Re: 卞氏の問難へ反論す 1
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NAME: ジダン
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管理人様
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ジダンと申します。以前に書き込ませていただいた者です。その節は、73様にお返事をいただいて有難うございました。仕事で多忙のため、久しぶりの書き込みですが、お答えいただけると幸いです。以下の部分で少々、疑問に思った部分がありましたので、質問させていただきます。
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■1「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」
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@ この御文の「仏宝・法宝」とは三大秘法→一大秘法→人法一箇の戒壇の大御本尊 に究竟せられる。
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A 煎じ詰めれば大聖人の仏法とは戒壇の大御本尊。
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この『戒壇の大御本尊』に関しての質問です。
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そもそも仏法における基本概念として、『無常』というものがありますよね?
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『成住壊空』は、この世に存在するすべての物質(失礼は承知の上で表現します)に対して逃れようのない法則であると思います。そこで疑問に思ったのですが今、大石寺にある大御本尊は絶対に壊れない、絶対に常住のモノなのでしょうか?
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【文証】
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■「余は二十七年なり(=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる)」(聖人御難事)
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■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(三大秘法抄)
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B 三大秘法(本門の本尊・戒壇・題目)整足してはじめて即身成仏の功徳を成ずる。
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■但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(観心本尊文段上)
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■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。(観心本尊文段上)
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■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。
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この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。(法華取要抄文段)
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C つまり本門の戒壇で本門の本尊に本門の題目を唱えてはじめて三大秘法が整足する。これに事と義がある。
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『無常』という観点から考えるといわゆる『大御本尊』とは、大石寺に御安置されている『常住』の『大御本尊』のことではないと思われるのですが如何?
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『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり』(日女御前御返事)
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上記の『すりかたぎ(摺形木)』という御言葉からも察するに、『日蓮大聖人の大御本尊』とは、あくまで御本仏の生命が「五陰仮和合」して顕されたものであり、『分身散体』の義からしても『大石寺にある大御本尊』を指したものではなく、文字通り一切衆生に授与される「お形木」も含めた御本尊こそが「本門の本尊」あると思います。また「本門の戒壇」についても、『法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり』(御講聞書)との御文から、如説修行の行者の住処を「本門の戒壇」というのではないでしょうか?それに、管理人様の引かれた上記の御文も『大石寺にある大御本尊』の御図顕以前の御書があり、直接にその正統性を証明する御文にはならないと思うのですが、如何でしょう?
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教学の無い、無智無学の私の質問ですが後学のためにも、お答えいただければと思います。
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では、何点かに分類して整理しましょう。
【1】、戒壇の大御本尊も「物質」であるから、無常→成住壊空 を免れないのではないか?
これは以前既にある方へ返答してある内容と同様なので、その論文を編集再掲します。
【編集再掲】
1、
この宇宙(といってもビッグバンで始まったところのこの宇宙を包含する時空も含めての「宇宙」なのですが)にはまさに「法」があり、その法はまた存在そのものの本源である。と。
そして、その法はただ法として存在しているだけではなくてそこにまた自ずからその法を覚知する智慧の働きも備えていた。と。
そしてこの法と智慧が相冥合するところ自ずからその法を説かれる「人」としての働きが生じる。
その方が様々な深い因縁によって再びこの地球と言う天体の日本と言う国にお生まれになって、日蓮と名乗られ、その根本・本源の法を戒壇の大御本尊様というお姿で顕された。と。
そこでこの戒壇の大御本尊様は今後どうなるのであろうか?
ということですよね?
まずその本源の法を覚知して御図顕できる方は日蓮大聖人様以外いらっしゃらないと思います。
「御本仏」と言う存在の約束事として、今も今後も永劫とも言える年月、現れないのですね。
しかもその御本仏日蓮大聖人は究極唯一根源の御本尊として戒壇の大御本尊を顕されていらっしゃるので、この御一体しかこの世で我々一般の衆生が宇宙本源の法に触れ、その本源の妙法を覚知することのできる御本尊はいらっしゃらない。(※これは根源の事としての意義であり、この根源の戒壇の大御本尊からの枝葉の関係である正統な御本尊は義の戒壇である)
ただしここに大聖人が定められたことは、この戒壇の大御本尊の御内証を唯授一人の血脈相承で一人から一人へと相承なされ、その方がこの根本の戒壇の大御本尊を書写した御本尊(※あるいは、御法主上人の御允可為された御形木御本尊)の前で唱題をするならば、同様の悟りを得ることができるということです。(※義の戒壇の意)
そこで戒壇の大御本尊様自体はどうなっていくのかという疑問が生じるわけですね。
こと戒壇の大御本尊のことに関しては軽々に語るのは真に憚られるのですが、根本的には大聖人様即戒壇の大御本尊様ですから、龍ノ口の御法難の如くに、また「草木成仏」の義により、不思議なる御加護があらせられるということだと思います。
そこに加えて今後その時代時代の唯授一人の血脈相承をお受けになられた御法主上人が最新の保存技術を駆使されながら厳護なされていくことと拝察申し上げます。
現に七百年間には幾度か、御衣替え、お色直し等の儀も行われてきました。
これらの意義を大聖人は端的に
■「仏法法宝は必ず僧によて住す」と仰せです。
これ以上の解釈はさすがに憚られますので割愛しますが、いずれにせよ、戒壇の大御本尊を離れて大聖人様の御悟りはないのであります。
また、我々も妙法の悟りを得ることは不可能かと思います。
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2、
今後の時代によって、その時代の最先端の科学技術を駆使し保存厳護申し上げていけば、想像出来ない位未来まで御護り申し上げることは不可能じゃないと思いますよ。
歴代の御法主上人が時に宣しきを得た方途で久住せしむることは科学的にも矛盾はないと思います。
ではたとえば「地球だっていつかは太陽に飲み込まれてしまい無くなってしまうではないか?」との疑問も生じましょう。
これは何もこの「地球」という小さな天体に拘る事は無い訳で、それなりのテクノロジーを用い、他天体への御遷座もありえましょう。
ですから、結論として、常に唯授一人・血脈相承の御法主上人が久住せられ、ありとあらゆる方途を用いても、仏宝・法宝であれせられる戒壇の大御本尊様は厳護せられていく、ということです。
ですからそういう意義も含められてと拝しますが、こういう御文があるのです。
■「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」
決して現時の科学的な常識を無視した形での戒壇の大御本尊様の永存を主張しているのではないのですよ。
今まで申し上げてきたように、戒壇の大御本尊様は血脈相承されたその時代時代の御法主上人の御裁断によってあらゆる形をとって永存されるでしょう。
ですから、貴方の心配は杞憂ということになると思います。
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3、
●貴方の前提が「戒壇の大御本尊はいつか滅びる」ですが、このことに関しては既に詳述してあります。
結論から言えば、滅びないように僧俗相和してあらゆる方途をも講じていくのです。
それが僧俗共に為して行く広宣流布への道程なのです。
法華経とは観念的な何物かではありません。
■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘す可し秘すべし。
つまり戒壇の大御本尊様こそが法華経の本体・実体なのです。
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4、
●ここの疑問が実は真に深く、大重要事だと思います。
ここが難信難解・難解難入 なんだと思うのですね。
つまり、宇宙の法そのものが永遠、というのは信じ易い。理解し易い。⇒ 法身如来 なんです。
で、この法そのものを悟る働きとしての智慧の永遠性・・ここもまぁ、何とか信じれる。 ⇒ 報身如来 ですね。
で、ここです、ここが大問題なのですね。
この法身如来と報身如来が相合するところに衆生を救う具体的な仏様の働きが現れる。 ⇒ 応身如来 です。
この応身如来様も永遠なのです。・・え??!となるんですよね。真面目に考えると。
この三身は即一身で、そのまま大聖人様であり、大聖人様の御身御一身はそのまま即三身なのですね。
そしてその大聖人様はそのまま戒壇の大御本尊様なのであります。
戒壇の大御本尊様は報身如来様を表に顕されていらっしゃいますけれども、一身即三身・三身即一身の御本仏であらせれられ、三世常恒なのです。
つまり永遠に存在されるのです。
ここが信じれるか否かの具体的な面での瀬戸際です。
この一身即三身・三身即一身の仏様の寿命は永遠無限であると、釈尊は寿量品で説かれた。
ここは到底信じがたいけどもしかし信じなさいよ、と。
それが開目抄に
■「本門十四品も涌出・寿量の二品を除きては皆始成を存せり。雙林最後の大般涅槃経四十巻、其の外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず。」
とあるところだと思います。
根本的にはそう信じ拝しまさに血統正しい御本尊様と境智冥合した時に、真の成仏の悟りがえられるのだと思います。
今現時にある物質だけを考えれば、確かに変化していくことは当然ですが、現の戒壇の大御本尊様も御衣替えや御化粧直しをされて、大聖人様御建立当時そのままではないですから、今後も、あらゆる手立てを尽くして、厳護されていくのです。
でも、その為には新たな保存の為の物質も加わっていきながら、しかし厳然と御護りされていくのです。
つまり変化しながら永存していただくのです。
貴方が戒壇の大御本尊様に絶対信をとれる、一段階として、今までの状況と今後の状況を説明しました。
今直ちに永劫の未来まで想いを馳せてしまうと確かに貴方の言うような気持ちになりますが、ここはしかし、凡慮を絶した仏の智慧を、そして御指南を勇気を出して心開いて信じる以外ないのですよ。
そして信じて戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経を唱えたとき、間違いなく生まれてから今までに感じたことのない境地を感得することができるのです。
貴方が私と共々に戒壇の大御本尊様を拝する日を祈っていますよ。
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つづく。
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