●戒め
▲天親(てんじん)菩薩の仏性論縁起分(ぶっしょうろんえんぎぶん)の第一に云はく「如来五種の過失を除き、五種の功徳を生ずるが為の故に、一切衆生悉有仏性と説きたまふ。謂(い)はく、五種の過失とは、一には下劣(げれつ)心、
二には高慢(こうまん)心、
三には虚妄執(こもうしゅう)、
四には真法を謗じ、
五には我執(がしゅう)を起こす。
五種の功徳とは、
一に正勤(しょうごん)、
二には恭敬(くぎょう)、
三には般若(はんにゃ)、
四には闍那(じゃな)、
五には大悲なり。
「生ずること無し」と疑ふが故に菩提心を発すこと能(あた)はざるを下劣心と名づけ、
「我に性有って能く菩提心を発す」と謂へるを高慢と名づけ、
一切の法無我(むが)の中に於て有我(うが)の執を作すを虚妄執(こもうしゅう)と名づけ、
一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗(いぼう)するを謗真法(ぼうしんぽう)と名づけ、意唯己(ただおのれ)を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執(きがしゅう)と名づく。
此の五に翻対(ほんたい)して定めて性(しょう)有りと知りて菩提心を発こす」と。爾前二乗菩薩不作仏事   正元元年  三八歳 182

▲慈悲を観じて嫉妬(しっと)を治す。一代聖教大意   正嘉二年二月一四日  三七歳 85

▲修羅道とは、止観の一に云はく「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」(十法界明因果抄 209)

▲只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし。(持妙法華問答抄 296)

▲上根に望めても卑下すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても?慢ならざれ。上根ももるゝ事あり、心をいたさざるが故に。(持妙法華問答抄 297)

▲設ひ善を作す人も一の善に十の悪を造り重ねて、結句は小善につけて大悪を造り、心には「大善を修したり」と云ふ
慢心を起こす世となれり。(月水御書 301)

▲仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当たれり。此の戒の心は、いたう事かけざる事をば、少々仏教にたがふとも、其の国の風俗に違ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり。
此の由を知らざる智者共、「神は鬼神なれば敬ふべからず」なんど申す強義を申して、多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり。(月水御書 304)

▲前車のくつがへ(覆)すは後車のいまし(誡)めぞかし。兄弟抄 建治二年四月  五五歳 982

▲一をもって万を察せよ。庭戸(ていこ)を出でずして天下をしるとはこれなり。報恩抄  建治二年七月二一日  五五歳  1001

▲極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功に及ばず。報恩抄  建治二年七月二一日  五五歳 1036

▲賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をを心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまぼ(守)らせ給ふなり。しかるをひり(非理)に主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まぼ(守)り給ふ事なし。四條金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳 1117)

▲夫(それ)賢人は安きに居て危ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲(おも)ふ。富木殿御書  建治三年八月二三日  五六歳 1168

▲我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ。1169

▲殿は一定腹あしき相(そう)かを(面)に顕はれたり。いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ。(崇峻天皇御書  建治三年九月一一日  五六歳 1171

▲蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。1173

▲いかにわろ(悪)くともわろ(悪)きよし人にも又上(かみ)へも申させ給ふべからず候。「よ(良)きところ(処)よきところ」と申し給はヾ、又かさねて給(た)ばらせ給ふべし。「わろき処徳分なし」なんど(抔)候はヾ天にも人にもすてられ給ひ候はむずるに候ぞ。御心へあるべし。四条金吾殿御返事   弘安元年一〇月  五七歳 1287

▲孔子と申せし賢人は九思一言とて、こヽのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す。周公旦(しゅうこうたん)と申せし人は沐(もく)する時は三度(みたび)握(にぎ)り、食する時は三度は(吐)き給ひき。たしかにき(聞)こしめ(食)せ。我ばし恨みさせ給ふな。仏法と申すは是にて候ぞ。崇峻天皇御書  建治三年九月一一日  五六歳 1174

▲一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。
賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。1174

▲さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。1179

▲敵と申す者はわす(忘)れさせてねら(狙)ふものなり。四条金吾殿御返事   弘安元年閏一〇月二二日  五七歳 1291

▲八幡の御誓願に云はく「正直の人の頂を以て栖(すみか)と為し、諂曲(てんごく)の人の心を以て亭(やど)らず」1542

▲忠言は耳に逆らひ良薬は口に苦しとは先賢の言(ことば)なり。やせ病の者は命をきらう、佞人(ねいじん)は諌(いさ)めを用ひずと申すなり。八幡宮造営事    弘安四年五月二六日  六〇歳 1556

▲第五 比丘比丘尼 有懐増上慢(うえぞうじょうまん) 優婆塞(うばそく)我慢(がまん) 優婆夷(うばい)不信(ふしん)の事  文句の四に云はく「上慢と我慢と不信とは四衆通じて有り。但し出家の二衆は多く道を修し禅を得、謬(あやま)って聖果(しょうか)と謂ひ、偏に上慢を起こす。在俗は矜高(こうこう)にして多く我慢を起こす。女人は智浅くして多く邪僻(じゃへき)を生ず。自ら其の過を見ずとは、三失をもって心を覆ふ。?(きず)を蔵(かく)して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙(むざん)の人なり。若し自ら過を見れば是有羞(うしゅう)の僧なり」。記の四に云はく「?(きず)を蔵(かく)す等とは三失を釈せるなり。?(きず)を蔵(かく)して徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省みること能はざるは我慢を釈し、無慙(むざん)の人とは不信を釈す。若し自ら過を見るは此の三失無し。未だ果を証せずと雖も且(しばら)く有羞(うしゅう)と名づく」と 就註法華経口伝 上 1730

▲七宝とは聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慙(ざん)なり。又云はく、頭上の七穴なり。1752

▲総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同有り。其の故は火の如きの行者は多く、水の如きの行者は希(まれ)なり。火の如しとは、此の経のいわれを聞きて火炎のもえ立つが如く、貴く殊勝に思ひて信ずれ共(ども)、軈(やが)て消え失ふ。此は当座は大信心と見えたれ共、其の信心の灯(ともしび)消ゆる事やすし。さて水の如きの行者と申すは、水は昼夜不退に流るゝなり。少しもやむ事なし。其(そ)の如く法華経を信ずるを水の行者とは申すなり。1856