一番「おめでたい」のは法華講の考え方よね(〃^^)o_彡  投稿者:一支国  投稿日: 1 1()112132 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

●謹賀新年  投稿者:73  投稿日: 1月 1日(月)10時30分23秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp    引用
   法華講員の皆様、「行動の年」おめでとうございます。
      清清しく新年が明け、
      本年も御法主上人猊下の御指南のままに
      正法を伝持し、
      平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年
      をめざして邁進して参りましょう。

▽初笑いありがとう!73くん。

「御法主上人猊下の御指南のまま」ということは

1.『七万五千人の結集』まで信者を減らすのか(現在十五万人位から)
2.『七万五千人の結集』まで信者を増やすのか(現在七万五千人以下しかいない)

のどちらなんだい?

 

一支国 君へ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1 1()15270 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

貴公はかつて当方から呵責され尽くされて、全くの反論不能状態になった経緯がある。
    
http://toyoda.tv/ikikoku.tonso.htm

その時の宿題がまだ片付いていないが、これをきちんと返答してから、次に何か言うのが筋ではないか?
創価学会ではそういう礼儀は教えないのか?
再掲するので、まずこれを返答してから、悩乱したすり替え書き込みを続けたまえ。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
一支国君へ。更に宿題追加。 投稿者:管理人(樋田昌志)投稿日:2005/07/25(Mon) 13:07  No.488      [返信]

ついでにこれについても宿題にしましょう。
理解力のなさを露呈すればするほど、このように宿題が増えることを学びなさい。

@学会の本尊模造の文証は?
 『本因妙抄』に「血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡(ちゃくちゃく)座主伝法の書・塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」とあるように、御本尊のことは代々の御法主上人にすべて譲られていることが明白です。学会が自由に御本尊を模造したり授与してもよい、という御書の文証を挙(あ)げてください。

A学会に金口嫡々相承はあるの?
 五十六世日応上人は「金口(こんく)嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能(あた)わず」と仰せられていますが、学会には「金口嫡々相承」があるのでしょうか。あるとすれば、誰から授けられたのでしょうか。

B身延の本尊とどこが違うの?
 信心をもって拝すれば、身延や池上の御真筆本尊を拝んでも功徳があるのでしょうか。

C学会の血脈は誰が判定?
 「学会にのみ信心の血脈が流れている」とは、誰がそれを判定したのでしょうか。

D猊下に背いて血脈が流れるの?
 学会で発行した『生死一大事血脈抄』の講義では、「御法主上人の御指南に従うところに、信心の血脈が流れる」とあります。それでいくと、御法主上人に従わない今の学会には信心の血脈が流れないことになりますが、この講義は学会の己義(こぎ)・謗法だったのでしょうか。

E私にも造れます?コンビニ本尊
 「自分には信心の血脈が流れている」と思える人なら、学会が配布した御本尊≠コンビニエンス・ストアでコピーし、一閻浮提に配布してもよいでしょうか。

F信心で拝せば功徳が出るの?
 また、信心をもって拝すれば、そのコピー本尊にも御本尊としての力用(りきゆう)が具(そな)わり、功徳が出てくるのでしょうか。

G重ねコピーした本尊の功徳は?
 また、コピー本尊を繰り返しコピーしても、功徳は変わらないのでしょうか。それとも、二分の一、三分の一と、次第に薄まっていくのでしょうか。

HTVに映る本尊でもいいんだね?
 御本尊をビデオカメラなどで撮(と)り、画面に映った御本尊を拝んでも功徳はあるのでしょうか。また、その場合、テレビそれ自体が御本尊になってしまうのでしょうか。

I御本尊写せば大謗法なんでしょ?
 御本尊を、写真に撮ることもテレビに映すことも、大謗法だ」と言って大騒ぎをした覚えはありませんか(覚えがない人は『地涌からの通信』を開いて思い出してください)。それなのに、学会自らが御本尊を写真にとって複写・模造することは、「大謗法」ではないのでしょうか。矛盾していると思いませんか。

J開眼なく魂は入らないんだよね?
 開眼について、『本尊問答抄』や『四条金吾釈迦仏供養事』によれば、草木の本尊に神(たましい)を入れる(※開眼する)のは法華経の力である、と示され、『木絵二像開眼之事』によれば、開眼供養ができるのは「法華を悟れる智者」であると示され、さらに、三十一世日因上人は、その「智者」が大聖人以来の御歴代上人方であることを示されています。学会のニセ本尊には、この正しい開眼がありません。ならば、そのニセ本尊には、仏の魂が入っていないことになりますが、替わりに入っているのは、「法盗っ人」の魂と「鬼神」の魂の、いずれでしょうか。

Kワープロ本尊じゃダメなの?
 「御本尊は、書き示されている内容だけが大事なのであって、特別な血脈だとか、開眼だとかは必要ないし、誰が書いてもよい」といいますが、それなら、ワープロの文字や、あなたの手書き文字で、自由に本尊を作ってもよいのでしょうか。

L離脱僧の申し出なら許されるの?
 Aさんから「自由にお使いください」と一万円を提供されたBさんが、これを複写して大量のニセ一万円札を作り、警察に捕まりました。しかしBさんは、「Aさんからの申し出で行なったことですから、私の責任ではありません」と言い、せせら笑っています。こんな子供だましの責任逃がれが、通用すると思いますか。また、この話、最近、どこかで全く同じような理屈を聞いたことがありませんか。

M「日蓮が魂」は「ただの物」?
 大聖人は「日蓮が魂を墨に染め流して」と仰せられ、御自身の魂魄(こんぱく)を御本尊として顕わされましたが、池田大作は大御本尊を「ただの物です。いちおうの機械です」と軽しめています。「日蓮が魂」とは、「ただの物」「いちおうの機械」でしか、なかったのでしょうか。

Nこれを「大御本尊根本」というの?
 大御本尊を「ただの物だ、いちおうの機械だ」と思いながら拝むのを、大御本尊根本≠フ信心というのでしょうか。

O大御本尊謗じて血脈が流れるの?
 日寛上人は『文底秘沈抄』に「根源とは何ぞ。謂(い)わく、本門戒壇の本尊これなり」と仰せですが、池田は戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と誹謗(ひぼう)しています。根源≠スる大御本尊を否定し、他の御本尊を拝んでも、血脈は流れるのでしょうか。

P大聖人の御遺命はどうするの?
 大聖人の御遺命として、広布の事相における「事(じ)の戒壇建立」がありますが、学会はそれをどのようにして実現するのでしょうか。また、『三大秘法抄』に「三国並に一閻浮提(いちえんぶだい)の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏(ふみ)給うべき戒壇なり」とありますが、学会の広布実現のときには、世界中の学会員を「事の戒壇」のもとへ連れてくるのでしょうか。それとも「義(ぎ)の戒壇」で満足させるのでしょうか。

Q三本立て本尊はご都合で遊ぶの?
 学会では、しばしば「御本尊がなくても、大宇宙に遍満(へんまん)する妙法と合致すれば功徳が出てくる」あるいは「己心(自分の生命)の中の御本尊を信じて題目を唱えれば、それでよい」などといいますが、これでは御本尊∞宇宙の妙法∞己心の妙法≠ニいう三本立てになります。このうち、どれでも好きなものを選んでいいのでしょうか。

R大御本尊から盗んで怖くないの?
 日寛上人は、本門戒壇の大御本尊のみを「一閻浮提総体の本尊」「一閻浮提の一切衆生の本尊」であると規定され、その他の御本尊は全て「別体の本尊」「面々各々の本尊」である、と仰せです。それなのに、「別体」「面々各々」の本尊をコピーして、全世界にバラまけば、それが「一閻浮提総与の意義」になるのだ、というのは、畏(おそ)れ多くも本門戒壇の大御本尊から「一閻浮提総与の意義」を盗み取ることではないでしょうか。

S勝手に広く授与できぬハズだよね?
 学会では、今回、模造した日寛上人の御本尊(享保五年に日寛上人が浄圓寺住職・日證師に授与した御本尊)を、「一機一縁ではない。他の人に授与してもよいのだ」といっていますが、では、ある人が受けた御本尊を、勝手に他の人に譲ってもいいのでしょうか。大聖人は『阿仏房御書』で「子にあらずんば譲る事なかれ」と仰せのハズですが。それとも、学会で授与するのは、模造したニセ本尊だから、本来の授与者たる日證師以外の人々に広く与えてもいいのでしょうか。だとすれば、やっぱりニセ本尊だったのですね。

では、この宿題の設問が解けたらお相手してあげましょう。
頑張んなさい。

 

自分のことは棚にあげてさ(〃^^)o_彡  投稿者:一支国  投稿日: 1 1()182126 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

●一支国 君へ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 1日(月)15時27分0秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp    引用
   貴公はかつて当方から呵責され尽くされて、全くの反論不能状態になった経緯がある。

▽やまいぬ殿に返答不能のくせにさ(〃^∇^)o_彡☆

沖浦殿にも負けたくせにさ(〃^∇^)o_彡☆

マグマグ殿にも負けてたくせに(〃^∇^)o_彡☆

宿坊殿には言うに及ばず(〃^∇^)o_彡☆


大聖人の本尊を「木絵二像」としか捉えられない境涯である時点で、「開眼が必用」としか捉えられない境涯である時点で、樋田さんの負けなんですよ。ご愁傷さま(〃^∇^)o_彡☆

そもそもそんな己義がまかり通るのであれば・・・

「印と真言があるから法華経より優れてる」のか?(〃^∇^)o_彡☆
法華講には信心がない証拠でしかありませんね。「大聖人の言われることが信じられない」んですから・・・。

そういえば・・

「大聖人の本尊は密教によって顕された」と言ってた法華講員もいたよね。「法よりも人(法華講員の我見)を根本」にしている証拠。

ついでに・・・

日顕のご指南『信徒倍増60万』をそちらの「開眼した木絵二像」に祈っても何故叶わないのかな?(〃^∇^)o_彡☆
それは「法華講員に信心がない」からですね。
「信心がない」法華講員が仏説を解釈しようとしても、せいぜい古典文学の学者程度しかできないでしょうね。
つまり、法華講員の己義は「仏説」には程遠いんです。
その己義で勝った勝ったと言われてもねぇ・・・(〃^∇^)o_彡☆

◇◇────────────────────────────────◇◇

そもそもそんなにその己義が正しいのであればさぁ
なぜその己義で広宣流布できないんだ?(〃^∇^)o_彡☆

◇◇────────────────────────────────◇◇

諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切聲聞。辟支仏。所不能知。
↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑
樋田さん及び法華講にぴったり キャハハ o(>▽<o)(o>▽<)o キャハハ

 

一支国くん、何か悪いものでも飲んでいるのか(〃^^)o_彡  投稿者:73  投稿日: 1 1()191637 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

キミの悪いクセは
過去、法華講員が書き込んだなことを固執して、
いつまでもいつまでも
こじつけて書き込むところだ。(〃^∇^)o_彡☆

こじつけ教学じゃ、
樋田さんには歯が立たないよ(〃^∇^)o_彡☆

20の宿題は進んでいるのか?

Fボーイ板で、キチンと御挨拶もしなさいよ。
(ヤレヤレヽ(~〜~ )ノ )のマグマグ様は御不在であられるのだから、
副のキミがしっかりしなきゃ。
(〃^∇^)o_彡☆

 

一支国君の幼稚極まりない言い掛かりを叱る 1  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1 1()221348 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、始めましょうか。

> DATE:  1月 1日(月)18時21分26秒
> TITLE: 自分のことは棚にあげてさ(〃^∇^)o_彡☆
> NAME: 一支国  MAIL:
―――――――――――
▼> 大聖人の本尊を「木絵二像」としか捉えられない境涯である時点で、「開眼が必用」としか捉えられない境涯である時点で、樋田さんの負けなんですよ。ご愁傷さま(〃^∇^)o_彡☆
―――――――――――
↑相当に頭破七分が進んでいる模様である。
―――――――――――
1、「御本尊」と為るためには「開眼」が必要である。

■画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』御書993)

→「草木」(非情)である曼荼羅も「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(開眼)によって「草木成仏」する。
―――――――――――
■木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり(『観心本尊抄』)

→「木画の二像」を「本尊と為す其の義」は、「天台一家より出でた」ものであり一念三千の法門である。「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」とあるように、草木成仏の原理によって本尊の義が具わるのである。それには以下の御文のごとくに「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(開眼)必要である。
―――――――――――
※4■木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり(中略)草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち※5「今安置し奉る処の御本尊」の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。※6「謹んで文字及び木画と謂うことなかれ」云云。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』)

→日寛上人は、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)についても「一念三千の仏種の魂魄を入るる」こと(開眼)によって「草木成仏」すると明言されている。つまり、「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。
―――――――――――
※1■※2「法華」を心得たる人、※3「木絵二像」を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

→「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。
―――――――――――
では「法華を心得たる人」とは誰か。

@「法華」とは御本尊、就中、戒壇の大御本尊の御事である。
↑の証明は http://toyoda.tv/yamainu2.htm   2 26 38 119 段 等に詳述済み)

→であるから、「法華を心得たる人」 とは御本尊を顕せる方 = 大聖人 である。
―――――――――――
A※3「木画の二像」「木絵二像」「画木」等 とは、権実相対に於ける一往、附文の辺では、仏像・画像の本尊であるが、再往、元意の辺では、大聖人御顕示の曼荼羅御本尊のことである。
それは、
「木絵二像開眼の事」の前半に

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

とあり、この御文をただ表面的な「文」だけで読めば、

→「仏像の前に法華経を置けばその仏像は本尊と為る」

また、

→「法華経を御仏の心法と心得て、仏像・画像の前で開眼供養すれば仏像・画像がそのまま生きた仏身となり本尊となる」

との解釈になってしまい、甚だ不可である。
大聖人様がそのようなことを本仏の真意として仰せに為るはずがないのである。
であるから、※3「木絵の二像」 とは 大聖人の御本意の法門、三大秘法から開会して拝せば、まさに「文字曼荼羅御本尊」となるのである。
更に詳細に閲すれば、※3「木絵二像」の
木像 とは 板曼荼羅
絵像 とは 紙幅の御本尊 と拝せよう。

それは、上記日寛上人の観心本尊抄文段 ※4に依って明証される。
@ 日寛上人の時代に於いては※5「今安置し奉る処の御本尊」はまさに「文字曼荼羅御本尊」でしかありえない。
A その「文字曼荼羅御本尊」を※5「謹んで文字及び木画と謂うことなかれ」=「単純に「板」とか、「画」=文字による図 等と決して思ってはならない。」
B つまり、木像=板曼荼羅
       絵(画)像=紙幅の曼荼羅  ということになるのである。

@Aから、※1の御文を会通すれば、

『御本尊を書き顕せる方=大聖人=当時の御当代「法主」が曼荼羅本尊の開眼供養をしなければ、その曼荼羅本尊には、盗賊のような魔やら、鬼神らが入り込む。』ということである。
―――――――――――
2、この「開眼」の義は唯授一人で血脈相承される。

その根拠の一端を明かせば、同じく「木絵二像開眼の事」に

■一念三千の肝心、草木成仏 云々 とあり、

この草木成仏の開眼の義は、一念三千の御法門の「肝心」である、と仰せである。
肝心=最も重要なこと。肝要。
という意であるから、大聖人の御法門の最要深義こそ、唯授一人で口伝・相伝・相承為されているのである。
(唯授一人・血脈相承 に関しては、
http://toyoda.tv/yamainu2.htm の76〜78 に詳述してある。)

であるから、開眼の義を唯一領せられる御歴代上人の御指南にのみ、その深義の一端が拝せられるのである。

■『本門如来寿量品廿三座』日俊上人
「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三n)

■『観心本尊抄文段』日寛上人
「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

■『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

■『法之道』日応上人
「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

■『日顕上人御講義』
「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。」(偽造本尊義を破す五九n)
―――――――――――

→凡そ以上であるが、これらに対して、道理・文証・現証 に即して、反論してみたまえ。
出来なければ、謝罪し、出来るならば脱会、もしそれをする勇気と信心がなければ、二度と当板へ出入りすることを自粛したまえ。

謝罪文 案

★「私ことHN「一支国」は、樋田昌志氏が運営する掲示板上で、「開眼」について全く反論不能になりました。
これは、私こと一支国が、教義的に未熟、かつ、信心の根本を見誤っていた証拠です。
大変、申し訳ありませんでした。
他にも、かつての回答不能の論題もあり、それも全て私こと一支国が反論不能状態に陥ったことを改めて認めます。
本当に、申し訳ありませんでした。
これを反省して、もう二度と邪義は述べません。
貴板へも、二度と投稿を致しません。
ですから、どうかお許し下さい。
脱会だけは勘弁してください。
宜しくお願い致します。
一支国」

では、一支国君、新年早々、破折トレーニングの素材を与えてくれてありがとう。
以上の論題の回答、お待ちしている。
期限は、2日午前0時。
頑張りたまえ。

 

「御本尊に『開眼供養』が必要」と言った時点で  投稿者:一支国  投稿日: 1 2()150319 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

樋田さんの負けなんですよ。何故なら「御本尊が仏」という『信』が欠けてるからです。

1.『信』がない人には「仏説は理解不能」です。だから
2.己義を構えるしかない。しかしその己義を文証にしたところで
3.「現証」がない。「三証を否定する」しかないのであれば樋田さんはすでに
4.大聖人の弟子ではない。大聖人の弟子ではない樋田さんの己義では
5.身延すら破折できませんね。それが「現証」\_(・ω・)

140あまりの己義を構えても時間の無駄でしたね。ご愁傷さま(〃^∇^)o_彡☆


◇◇────────────────────────────────◇◇

「開眼した本尊」に祈った結果が『信徒半減』じゃね・・・間違ってる「現証」
にしかなりませんでしたね。まず己義を「現証」で証明しましょうね(〃^∇^)
o_彡

◇◇────────────────────────────────◇◇

『〜若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり〜』
             
せめて「樋田さんの己義」で身延から日蓮正宗へ改宗する人が陸続と顕れる位の『現証』が出たら、その時にでも相手してあげますよ!(〃^∇^)o_彡☆

まず「現証」を出しましょうね。『僻事をのみ構へ申す・邪教』の樋田さん!?キャハハ o(>▽<o)(o>▽<)o キャハハ


<学会員、日寛上人の立場>

■木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり(中略)草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』)


御本尊は、「日蓮がたましひを・すみにそめながして・かきて候」であり、「法華経の肝心」であり、事の一念三千の当体と顕してくださったのでありますから、木製の仏像や仏の姿の画像とは全く違います。

 よって御本尊には開眼は必要ありません。

『草木成仏の両義を暁(さと)れば、文字及び木画と謂う』必要なぞありません。

       
       

<法華講、宗門の立場>

1.御本尊は文字だ。どう見ても仏には見えない。
2.しかも御本尊は木画の二像だ。なぜなら『草木成仏の両義を暁れない』から
3.だから「開眼が必要」だ。
4.「御本尊が仏と思えない境涯」では、大聖人や日寛上人の言も自分の境涯でしか
  解釈できない。←これを己義という(〃^∇^)o_彡☆

◎最後に

大聖人や日寛上人の言を仏の立場で理解できるレベルになったら、質問に答えてあげますよ。己義根本の輩じゃ何を言っても、どうせ理解できる能力がないんでしょ?

『諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切聲聞。辟支仏。所不能知。』
↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑
樋田さん及び法華講にぴったり キャハハ o(>▽<o)(o>▽<)o キャハハ

「140もの僻事を構へなければ」相手に勝ったように見せかけれないほど、ちっこいんですね。あわれあわれ・・・。

 

一支国君の幼稚極まりない言い掛かりを叱る 2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1 2()16527 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここまで壊れているとどこから手をつけていいか一瞬見当がつかないな。
つまり、手の付け所が無いほど→原型を留めないほど脳髄が溶解している、とでも言った所か。
ここまで腐敗していればまとまな道理・文証・現証 等を引いても理解不能であろう。
当人が理解できなくとも構わないので、これを閲覧される良識ある方々が、創価学会が如何に人間の正常な思考をとことんまで腐敗させてしまうか、それを参照するために徹底的に砕いていきますか。
―――――――――――
※1『> DATE:  1月 2日(火)15時03分19秒
> TITLE: 「御本尊に『開眼供養』が必要」と言った時点で
> NAME: 一支国  MAIL:
>
> 樋田さんの負けなんですよ。何故なら「御本尊が仏」という『信』が欠けてるからです。
>
> 1.『信』がない人には「仏説は理解不能」です。だから
> 2.己義を構えるしかない。しかしその己義を文証にしたところで
> 3.「現証」がない。「三証を否定する」しかないのであれば樋田さんはすでに
> 4.大聖人の弟子ではない。大聖人の弟子ではない樋田さんの己義では
> 5.身延すら破折できませんね。それが「現証」\_(・ω・)
>
> 140あまりの己義を構えても時間の無駄でしたね。ご愁傷さま(〃^∇^)o_彡☆』
―――――――――――
▼御本尊に『開眼供養』が必要」と言った時点で樋田さんの負けなんですよ。何故なら※6「「御本尊が仏」という『信』が欠けてるからです。」

→最近はこの手の恥犬が増えてきているようである。

まず、この恥言を道理と文証に依って粉砕する。

文証

■されば※1「画像・木像の仏」の※2「開眼供養」は※3「法華経・天台宗」にかぎるべし。※4其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

※1「画像・木像の仏」 については、四条殿の機及び領解に合わせられ、一往の義として暫時容認された造像のことである。
再往、観心から拝すれば、「本尊」就中「文字曼荼羅本尊」との御心である。

※2 ”「本尊」には「開眼供養」が必要である”との仰せである。

※3「法華経・天台宗」も、※1と同様、一往の義であり、再往は「大聖人様の三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊と、その戒壇の大御本尊を伝持・相伝する宗派」 ということである。現時に於いては日蓮正宗以外には存在しない。

その前提の上で、※4以下を、簡単に通解させていただけば、
「一念三千の法義(一往は天台の一念三千の法理、再往は大聖人様の事の一念三千=戒壇の大御本尊の御事)は、三世間から成り立っている。
その中で第三の国土世間のことをいえば、それは草木の世間相である。
本尊といってみても、その素材そのもの(一往は仏像・絵像の木材や色彩・紙・布等を仰せであるが、再往は曼荼羅御本尊の紙や木や墨等であることは言うまでもない)は全て元はただの草であり、木である。
であるが、この草木(紙や木等)に御仏の御魂を入れる(=開眼)ことができるのは法華経(再往は戒壇の大御本尊)の力である。
これは天台大師(=法華経の極理を悟られた方=再往末法においては日蓮大聖人)の悟り=内証である。
この原理は衆生の信心修行に約せば、即身成仏であり、元草木である「本尊」に約せば、草木成仏である。(この草木成仏の義によって帰命依止の対境である「本尊」との意義が生じるのである)」
ということである。

まさに、紙、もしくは板に御文字が曼荼羅状に書かれて(もしくは印刷・彫刻されて)あっただけでは、草木成仏しておあらず「本尊」とは成り得ない、との大聖人御自ら明かされた明確なる文証と道理である。

一支国とかいう恥犬の言によれば、まさに大聖人に向かって、

▼御本尊に『開眼供養』が必要」と言った時点で「日蓮」さんの負けなんですよ。※5

と嘯いているに等しい。
しかるに、この※5の発言はまさに大謗法の言であって、開眼のない模造・変造のニセ本尊などを拝んでいるとこのように頭破七分となり、支離滅裂するというよき標本である。(やまいぬ。君といい、妄犬マゴマゴ君といい、沖浦君といい、実に頭破七分のオンパレードである。呵々)

因みに、
▼※6「「御本尊が仏」という『信』が欠けてるからです。」
との言は、創価学会販売のニセ本尊 と 日蓮正宗から正式な手続きを以って下付された、まさに御仏の御命としての御開眼された御本尊 とを混同・錯乱しているが故に出てきた恥言である。
当方らは「御開眼」された「御本尊」を、まさに御仏の当体=戒壇の大御本尊として深く尊信申し上げて信行に励んでいる。

恥犬が拝んでいる
『本尊に関しての権能を一切待たない、ただの謗法者が
勝手に撮影・文字削除・文字改竄・色調補正等して、
大量に販売している、一枚多色刷りで、あたかも掛け軸状に見せかけている まがい物・詐欺的代物のニセ本尊』

とは、天地雲泥の相違である。まだ言い足りない。霊山と無間地獄 天空の輝く雲と糞尿 との相違である。

▼> 1.『信』がない人には「仏説は理解不能」です。だから
> 2.己義を構えるしかない。

とは蓋し名言である。

日蓮正宗から下付された御本尊(かつて恥犬ら創価学会員も拝んでいた日顕上人御書写の御形木御本尊)を御仏の当体と拝せなかったが故に、大量に不敬した▼「1.『信』のない」ものどもには▼「仏説は理解不能」です。だから 『上記の如く大聖人開眼の意義を明確に仰せになっているにも拘らず「開眼は不要」との』▼「2.己義を構えるしかない。」

実にその通りである。
頭破七分者の割りには時に正論を吐くではないか。呵々大笑。

この余りに幼稚な恥犬に一つ、宿題を追加して置こうか。

このかつて創価学会員らが拝んでいた日顕上人の御書写の御形木御本尊は「仏」なのか、どうか。

1、はい →ならば何故大量に不敬したのか。それこそ不信謗法の最たるものではないか。
2、いいえ →@その理由は何か。教義的に証明せよ。
        Aではなぜ日顕上人御当座以降この御本尊で創価学会員に功徳が生じたのか。
         その理由を同じく教義的に説明してみよ。

恥犬にはまだ宿題がたくさん残っているが?
以下の問題も未回答であるから、頭破七分の頭で必死に回答を出してごらん?呵々大笑

@学会の本尊模造の文証は?

 『本因妙抄』に「血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡(ちゃくちゃく)座主伝法の書・塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」とあるように、御本尊のことは代々の御法主上人にすべて譲られていることが明白です。学会が自由に御本尊を模造したり授与してもよい、という御書の文証を挙(あ)げてください。

A学会に金口嫡々相承はあるの?

 五十六世日応上人は「金口(こんく)嫡々相承を受けざれば、決して本尊の書写をなすこと能(あた)わず」と仰せられていますが、学会には「金口嫡々相承」があるのでしょうか。あるとすれば、誰から授けられたのでしょうか。

B身延の本尊とどこが違うの?

 信心をもって拝すれば、身延や池上の御真筆本尊を拝んでも功徳があるのでしょうか。

C学会の血脈は誰が判定?

 「学会にのみ信心の血脈が流れている」とは、誰がそれを判定したのでしょうか。

D猊下に背いて血脈が流れるの?

 学会で発行した『生死一大事血脈抄』の講義では、「御法主上人の御指南に従うところに、信心の血脈が流れる」とあります。それでいくと、御法主上人に従わない今の学会には信心の血脈が流れないことになりますが、この講義は学会の己義(こぎ)・謗法だったのでしょうか。

E私にも造れます?コンビニ本尊

 「自分には信心の血脈が流れている」と思える人なら、学会が配布した御本尊≠コンビニエンス・ストアでコピーし、一閻浮提に配布してもよいでしょうか。

F信心で拝せば功徳が出るの?

 また、信心をもって拝すれば、そのコピー本尊にも御本尊としての力用(りきゆう)が具(そな)わり、功徳が出てくるのでしょうか。

G重ねコピーした本尊の功徳は?

 また、コピー本尊を繰り返しコピーしても、功徳は変わらないのでしょうか。それとも、二分の一、三分の一と、次第に薄まっていくのでしょうか。

HTVに映る本尊でもいいんだね?

 御本尊をビデオカメラなどで撮(と)り、画面に映った御本尊を拝んでも功徳はあるのでしょうか。また、その場合、テレビそれ自体が御本尊になってしまうのでしょうか。

I御本尊写せば大謗法なんでしょ?

 御本尊を、写真に撮ることもテレビに映すことも、大謗法だ」と言って大騒ぎをした覚えはありませんか(覚えがない人は『地涌からの通信』を開いて思い出してください)。それなのに、学会自らが御本尊を写真にとって複写・模造することは、「大謗法」ではないのでしょうか。矛盾していると思いませんか。

J開眼なく魂は入らないんだよね?

 開眼について、『本尊問答抄』や『四条金吾釈迦仏供養事』によれば、草木の本尊に神(たましい)を入れる(※開眼する)のは法華経の力である、と示され、『木絵二像開眼之事』によれば、開眼供養ができるのは「法華を悟れる智者」であると示され、さらに、三十一世日因上人は、その「智者」が大聖人以来の御歴代上人方であることを示されています。学会のニセ本尊には、この正しい開眼がありません。ならば、そのニセ本尊には、仏の魂が入っていないことになりますが、替わりに入っているのは、「法盗っ人」の魂と「鬼神」の魂の、いずれでしょうか。

Kワープロ本尊じゃダメなの?

 「御本尊は、書き示されている内容だけが大事なのであって、特別な血脈だとか、開眼だとかは必要ないし、誰が書いてもよい」といいますが、それなら、ワープロの文字や、あなたの手書き文字で、自由に本尊を作ってもよいのでしょうか。

L離脱僧の申し出なら許されるの?

 Aさんから「自由にお使いください」と一万円を提供されたBさんが、これを複写して大量のニセ一万円札を作り、警察に捕まりました。しかしBさんは、「Aさんからの申し出で行なったことですから、私の責任ではありません」と言い、せせら笑っています。こんな子供だましの責任逃がれが、通用すると思いますか。また、この話、最近、どこかで全く同じような理屈を聞いたことがありませんか。

M「日蓮が魂」は「ただの物」?

 大聖人は「日蓮が魂を墨に染め流して」と仰せられ、御自身の魂魄(こんぱく)を御本尊として顕わされましたが、池田大作は大御本尊を「ただの物です。いちおうの機械です」と軽しめています。「日蓮が魂」とは、「ただの物」「いちおうの機械」でしか、なかったのでしょうか。

Nこれを「大御本尊根本」というの?

 大御本尊を「ただの物だ、いちおうの機械だ」と思いながら拝むのを、大御本尊根本≠フ信心というのでしょうか。

O大御本尊謗じて血脈が流れるの?

 日寛上人は『文底秘沈抄』に「根源とは何ぞ。謂(い)わく、本門戒壇の本尊これなり」と仰せですが、池田は戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と誹謗(ひぼう)しています。根源≠スる大御本尊を否定し、他の御本尊を拝んでも、血脈は流れるのでしょうか。

P大聖人の御遺命はどうするの?

 大聖人の御遺命として、広布の事相における「事(じ)の戒壇建立」がありますが、学会はそれをどのようにして実現するのでしょうか。また、『三大秘法抄』に「三国並に一閻浮提(いちえんぶだい)の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏(ふみ)給うべき戒壇なり」とありますが、学会の広布実現のときには、世界中の学会員を「事の戒壇」のもとへ連れてくるのでしょうか。それとも「義(ぎ)の戒壇」で満足させるのでしょうか。

Q三本立て本尊はご都合で遊ぶの?

 学会では、しばしば「御本尊がなくても、大宇宙に遍満(へんまん)する妙法と合致すれば功徳が出てくる」あるいは「己心(自分の生命)の中の御本尊を信じて題目を唱えれば、それでよい」などといいますが、これでは御本尊∞宇宙の妙法∞己心の妙法≠ニいう三本立てになります。このうち、どれでも好きなものを選んでいいのでしょうか。

R大御本尊から盗んで怖くないの?

 日寛上人は、本門戒壇の大御本尊のみを「一閻浮提総体の本尊」「一閻浮提の一切衆生の本尊」であると規定され、その他の御本尊は全て「別体の本尊」「面々各々の本尊」である、と仰せです。それなのに、「別体」「面々各々」の本尊をコピーして、全世界にバラまけば、それが「一閻浮提総与の意義」になるのだ、というのは、畏(おそ)れ多くも本門戒壇の大御本尊から「一閻浮提総与の意義」を盗み取ることではないでしょうか。

S勝手に広く授与できぬハズだよね?

 学会では、今回、模造した日寛上人の御本尊(享保五年に日寛上人が浄圓寺住職・日證師に授与した御本尊)を、「一機一縁ではない。他の人に授与してもよいのだ」といっていますが、では、ある人が受けた御本尊を、勝手に他の人に譲ってもいいのでしょうか。大聖人は『阿仏房御書』で「子にあらずんば譲る事なかれ」と仰せのハズですが。それとも、学会で授与するのは、模造したニセ本尊だから、本来の授与者たる日證師以外の人々に広く与えてもいいのでしょうか。だとすれば、やっぱりニセ本尊だったのですね。
―――――――――――
さ、頑張んなさい。
支離滅裂で意味不明な駄文を書いている場合じゃないでしょう。呵々大笑

 

おバカ様な一支国くんを叱る 別角度編  投稿者:73  投稿日: 1 2()17413 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

このおバカ様は、

大聖人様の出世の本懐であられる本門戒壇の大御本尊様も

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」

以前は「草木」だったことも理解できないんでしょうね。
要するに「おバカ様」だから。

樋田さんの文章なんか理解出来ないんでしょうね
「おバカ様」だから(〃^∇^)o_彡☆

よくそれで
板の副を張っておるよな

自分の板でご挨拶も出来ない「おバカ様」のくせに(〃^∇^)o_彡☆

ご愁傷様〜(〃^∇^)o_彡☆
「あわれあわれ・・・。」は
そっくりそのまま冷凍して、
ノシをつけて一支国クンにお返します。
解凍して食してください。




  樋田さんも
  バカ
  相手に大変です。

 

功徳満載!開眼本尊  投稿者:一支国  投稿日: 1 7()234931 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

信徒倍増を願ったらなんと!「信徒半減」(〃^∇^)o_彡☆

すばらしい「現証」ですね。

だから「開眼が必要」なんだね、宗門は(〃^∇^)o_彡☆

 

日蓮正宗の教義は・・  投稿者:一支国  投稿日: 1 8()061811 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

●よお!一支国くん  投稿者:ほととぎす  投稿日: 1月 8日(月)00時00分7秒 zaq3d2e0287.zaq.ne.jp    引用
   おいおい!ボコボコにされてまたヒョッコリ出てきたね。(笑)
それと、いつまで『一支国』の読み方を待たせるのかなぁ?
自分の「無知ぶり」をいい加減認めなよ?(笑)

▽諸法であって実相ではない。学会は大聖人の教えが基準。法華講みたいに諸法が基準ではないんだよ。身延すら破折できない日蓮正宗の教えじゃぁねぇ・・(〃^∇^)o_彡☆

樋田さんも『一支国』を読めないんだよね。そのレベルじゃ大聖人の教えが解るはずがありません。ご愁傷さま(〃^∇^)o_彡☆

ところでほととぎすくん、なぜ「信徒半減」したことを喜ばないのかな?「開眼した本尊」を拝んだ功徳なんだろ?これが「法華講の大勝利した現証」なんだろ?

「開眼本尊のお力は偉大です!なぜなら法華講が半減したからです。皆も開眼本尊を拝みませんか?」って他の宗派にアピールすれば?(〃^∇^)o_彡☆

●おいおい!ボコボコにされて・・・

▽読む価値が無いから読んでないんですがね(〃^∇^)o_彡☆

樋田さんはね、「一人相撲に勝った」だけなんですよ。

「開眼本尊を拝んで信徒半減した現証」を勝ったと主張するのは法華講ぐらいでしょう。

例えて言うならば、

三振の山を築いたチーム(信徒半減した宗門)が「こちらのバッティング理論の方が正しい(本尊は開眼が必要)、だからうちの勝ちだ」と主張しているようなものですね。しかしそれが勝ちでないことはいうまでもありませんね。


『諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切聲聞。辟支仏。所不能知。』
↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑   ↑
これは心読できるようになったかな? キャハハ o(>▽<o)(o>▽<)o キャハハ

 

だから樋田さんの己義って言ってるじゃないか!(〃^^)o_彡  投稿者:一支国  投稿日: 1 8()13290 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

●「『御開眼の深義は御法主上人しか知り得ない』が正解である。」

▽信徒の分際で「御開眼の深義」を語れるはずがない。それとも「俺(樋田)は御法主上人しか知り得ないことを知ってるんだぞ」とでもいうのかな?(〃^∇^)o_彡☆

 

開眼本尊の「三証」  投稿者:一支国  投稿日: 1 8()214455 softbank220054228068.bbtec.net

  引用

 

 

「文証」
大聖人が”「開眼供養」をしなければ本尊としては成立しない”と御教示されていることは紛れもない事実である
「理証」
御本尊は木絵二像だ
「現証」
その御本尊を拝んだ結果「信徒半減」

樋田さん及び法華講は、なぜ「信徒半減」したことを喜ばないのかな?「開眼した本尊」を拝んだ功徳なんだろ?これが「法華講の大勝利した現証」なんだろ?


『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』

と現証が一番大事と仰せである。であるならば、

日蓮正宗は『大願とは信徒半減』なのだろう。ちなみに

大聖人は『大願とは法華弘通なり』である。

つまり

「信徒半減≠法華弘通」といえる。

<結論>

宗門・法華講が「御本尊の開眼が必要だ」といくら主張したところで、大聖人の大願ではない「信徒半減」が現証ではそれが間違いということが解る。

◇◇────────────────────────────────◇◇

   いくら己義を140言えども仏説にはならない

◇◇────────────────────────────────◇◇

以上のことにより、「御本尊の開眼が必要だ」は大聖人とは無縁の邪義であることが証明されました。

もっとも

日蓮正宗の教え=諸法だから別に邪義唱えてもいいんだけどね(〃^∇^)o_彡☆

 

一支国君の幼稚極まりない言い掛かりを叱る 3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1 9()132657 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この恥犬はもはや殆ど狂人(犬)の”域(いき)”のようである。
その狂人ぶりを暴いて、以って『ニセ本尊を拝むと斯様に狂気に為る』という恐怖を世に示してまいりましょう。
―――――――――――
> DATE:  1月 8日(月)21時44分55秒
> TITLE: 開眼本尊の「三証」
> NAME: 一支国  MAIL:
>
> 「文証」
> 大聖人が”「開眼供養」をしなければ本尊としては成立しない”と御教示されていることは紛れもない事実である
>※1『 「理証」
> 御本尊は木絵二像だ』
>※2『 「現証」
> その御本尊を拝んだ結果「信徒半減」』
>
>※3『 樋田さん及び法華講は、なぜ「信徒半減」したことを喜ばないのかな?「開眼した本尊」を拝んだ功徳なんだろ?これが「法華講の大勝利した現証」なんだろ?
>
> 『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』
> と現証が一番大事と仰せである。であるならば、
> 日蓮正宗は『大願とは信徒半減』なのだろう。ちなみに
> 大聖人は『大願とは法華弘通なり』である。
> つまり
> 「信徒半減≠法華弘通」といえる。』
>
※4『> <結論>
>
> 宗門・法華講が「御本尊の開眼が必要だ」といくら主張したところで、大聖人の大願ではない「信徒半減」が現証ではそれが間違いということが解る。
> ◇◇────────────────────────────────◇◇
>    いくら己義を140言えども仏説にはならない
> ◇◇────────────────────────────────◇◇
> 以上のことにより、「御本尊の開眼が必要だ」は大聖人とは無縁の邪義であることが証明されました。』
> もっとも
> 日蓮正宗の教え=諸法(←註 謗法の誤記か)だから別に邪義唱えてもいいんだけどね(〃^∇^)o_彡☆
―――――――――――
※1 『理証』とは、”道理による明証”との意義であり、この恥犬が喚いている箇所は全く意味不明な狂人の言である。
※2
@ 『信徒半減』=信徒が”半分”に減る とは、一体、いつの出来事を指すのか。
現実には平成2年以降、法華講は年々歳々増加しているが?
当方が所属する支部でも昨年は60世帯、一昨年は約47世帯、等と確実に増加している。
また、平成3年から当方はほぼ毎月一回の総本山大石寺へ参詣させて頂いているが、登山者数が増加してきていることは、現実にこの目とこの肌で見極めているが。
しかも、
平成2年 3万人(一日の結集)
平成6年 6万人(同上)
平成10年 10万人(約10日間ほどでの登山者数)
平成14年 30万人(ほぼ半年を通しての登山者数・ただし事情がある場合の付き添い等の複数登山者数も含む)
と総登山者数が増加しているではないのか。

で、いつ『半減』したのか?

A 創価学会を破門したことをいうのか?
であるならば、それは事項に述べるが末法万年の広宣流布に於いては実に慶事であった。
しかも、それは『半減』どころではない大謗法根性の者、大謗法者に誑惑されてる者全てが破門されたのであるから、『大半』の不信者が一掃されて、日蓮正宗が実に清浄となったのである。

※3 ここが恥犬の浅はかで幼稚、頭が相当に悪い、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという』ことが明瞭にわかる箇所である。

上記@の簡単な論証から、『信徒半減』は創価学会破門以後の法華講のことを指すことにならない。
ということは、Aの事案に当て嵌まるということになる。(別件でも、以下の論証に於いては別に構わないが。)

この恥犬の言い分だと、謗法の山と化した身延山から日興上人が離山されたことも、この恥論でいうと以下のごとくになる。

>※3『『日興上人』は「信徒半減」させた。これが「『日興上人』の大勝利した現証」なんだろ?
>
> 『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』
> と現証が一番大事と仰せである。であるならば、
> 『日興上人』は『大願とは信徒半減』なのだろう。ちなみに
> 大聖人は『大願とは法華弘通なり』である。
> つまり
> 「『日興上人がした』信徒半減≠法華弘通」といえる。

『信徒半減』 に拘る恥犬、一支国君は、↑このように身延離山によって「信徒半減」となった日興上人へもろに唾を吐きかけて揶揄していることになるのである。
まさに『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜。

※4、

<結論>
※3 で例示したごとく、この※4と結論する、前提根拠が総崩れであり、全くの一人よがり・一人遊び・一人相撲 の惨めな空回りである。
大変惨めな”結論”である。呵々大笑。

<感想・激励>

馬鹿が何か書けば書くほど、笑わせてくれる。
一支国君程度では、当方からの詰問に回答は絶対無理であろうから、せめてこのように、馬鹿丸出しのお笑い芸でもやって、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』の痴態を晒して、創価学会のニセ本尊の猛毒を世に知らしめてくれたまえ。
恥犬の、その頭の悪さで生まれた”使命・役割”は、そこにあるのかもしれない。
引き続き頑張れ。
応援しているぞ。