●御供養の精神
▲滝王丸之を遣使さる。
 昔国王は自身を以て床座(しょうざ)と為し、千才の間阿私仙(あしせん)に仕(つか)へ奉り妙法蓮華経の五字を習ひ持つ、今の釈尊是なり。今の施主妙一比丘尼は貧道の身を扶(たす)けんとて小童に命じ、之を使はして法華経の行者に仕へ奉らしむ。彼は国王此は卑賤。彼は国に畏(おそ)れなし、此は勅勘の身。此は末代の凡女、彼は上代の聖人なり。志(こころざし)既に彼に超過す。来果何ぞ斉等ならざらんや。何ぞ斉等ならざらんや。(さじき殿御返事   文永一〇年四月二六日  五二歳 663

▲凡夫はたヾひとつ(一領)き(着)て候かたびらなどを法華経の行者に供養すれば、皮をはぐうちに仏をさ(収)めさせ給ふなり。(さじき女房御返事  建治三年五月二五日  五六歳 1125

▲設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しきの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。(衆生身心御書   弘安元年春  五七歳 1217

▲法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば、悪道に行くべからず。何に況んや、十度・二十度、乃至五年・十年・一期生(ごしょう)の間供養せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。(新池御書    弘安三年二月  五九歳 1456

▲無益(むやく)の事には財宝をつ(尽)くすにお(惜)しからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものう(物憂)く思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきを(競)ふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。(新池御書    弘安三年二月  五九歳 1457

▲御心ざしの候へば申し候ぞ。よく(慾)ふかき御房とおぼしめす事なかれ。
 仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。
仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)にかわ(渇)けるものに水をあた(与)へ、寒氷にこゞ(凍)へたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のた(絶)ゆるに人のせ(施)にあふがごとし。(上野殿御返事    弘安三年一二月二七日  五九歳 1528

▲尼ごぜんの一文不通の小心に、いまヽでしり(退)ぞかせ給はぬ事申すばかりなし。其の上、自身のつか(仕)うべきところに、下人を一人つけられて候事、定めて釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか。(弁殿尼御前御書  文永一〇年九月一九日  五二歳 686

▲人にもの(物)をせ(施)する人は、人のいろ(色)をまし、ちからをそえ、いのちをつぐなり。
人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあか(明)し。
されば人のいろをませば我がいろまし、人の力をませば我がちからまさり、人のいのちをのぶれば、我がいのちのの(延)ぶなり。(上野殿尼御前御返事 文永一一年  五三歳751

▲かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ。新池御書    弘安三年二月  五九歳 ≒1456)

▲財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへ(古)の聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。(中略)
▲たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心(かんじん)の法門なり。観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。(白米一俵御書    弘安三年  五九歳 1544)