沖浦対樋田法論を検証する 105 投稿者:管理人(樋田 昌志) 投稿日:2007年10月22日(月)22時40分33秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp |
沖浦君、いよいよ騒がしいですね。 「まともに反論できないが、しかし悔しい!俺が負けているように見えるじゃないか! 何でもいいから、言いがかりを吐きつけておけば何とか体裁は保てるか・・・・」 との動揺振りがひしひしと伝わってきますね。 呵々大笑 さて、ではまた以下の 痴言 を掃除していきますか。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ●> >さて、沖浦説だと、 > ▼「二つの宗教あっても、それぞれ別の教義なのだから、それは東芝とSONY、それぞれ二つの会社の社是・社訓が相手側の社員に通用しないように、それはそれでお互い干渉せず、またお互いの教義に束縛もされず、別々の道を行けばいいではないか。」 > ということである。 > ▼> いいえ、勝ち負けは厳然としてあるんですよ。 > 東芝とソニーは売り上げで戦っているでしょう。 > 御書読まないんですね〜。 > あなた。 > > ▼1 『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。]』 > (百六箇抄) > > 大聖人様の仰せです。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ ↑ほとほと、可愛そうになるくらい 馬鹿 ですね。 1、▼「」の引文について。 @ この箇所は、創価学会版には「後加文」として、その一番後尾に記載されている。 もし、沖浦君がこの箇所を文証として用いるのなら、その直ぐ10行ほど前に同じく「後加文」として記載されている以下の御文をも素直に文証として、正義として認めなくてはならない道理である。 ■「直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」 これで、沖浦君、この御指南通りに、鎌倉時代、日蓮大聖人を総貫主・御法主と尊仰したと同じように、御歴代上人を日蓮大聖人御在世の時と同じく、尊仰しなくてはならない。 もしこの御指南に従えないとするならば、それは、沖浦君が我慢偏執の邪心の塊でしかない、ということを、自らの引文によって証明したようなものである。 もしそれが嫌なら、”この▼「又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。」の引文は間違いでした。”と正式に謝罪し、頭を下げ、侘びを入れ訂正するか? 当方はどちらでもいいが?呵々大笑 しかし、自分が否定していた「後加文」を引文し、それを根拠としてとくとくと自説を述べ立てるなどとは、まことに 馬鹿 である。 さもなくば、もはや 狂人 である。 まことに三宝誹謗の惨めな、なれの果てである。 沖浦君?この件、まともに反論できるかね?呵々大笑。 |