●現罰のいわれ

▲前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ず。これを世間の失によせ、或は罪なきをあだすれば、忽(たちま)ちに現罰あるか。(開目抄上   文永九年二月  五一歳 571)

▲順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提人これなり。571

▲いたう(甚)の大悪人ならざる者、正法を誹謗すれば即時に夢みてひるがへる心生ず。571

▲上品(じょうぼん)の一闡提(いっせんだい)人になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。571

▲守護神此の国をすつるゆへに現罰なきか。
謗法の世をば守護神すてゝ去り、諸天まぼ(守)るべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還って大難に値ふべし。
「善業(ぜんごう)を修する者は、日々に衰減(すいげん)す」等云云。悪国悪時これなり。571

▲法華経第八に云はく「頭破れて七分と作らん」と。第五に云はく「若し人悪(にく)み罵(ののし)れば口即ち閉塞す」等云云。如何ぞ数年が間罵(の)るとも怨(あだ)むとも其の義なきや。
「答ふ、反詰(はんきつ)して云はく、不軽(ふきょう)菩薩を毀・(きし)し罵詈(めり)し打擲(ちょうちゃく)せし人は口閉頭破(くへいずは)ありけるか如何。
「問ふ、然(さ)れば経文に相違する事如何。
「答ふ、法華経を怨む人に二人あり。
一人は先生(せんじょう)に善根ありて、今生に縁を求めて菩提心を発こして、仏になるべき者は或は口閉ぢ、或は頭(こうべ)破(わ)る。
一人は先生に謗人なり。今生にも謗じ、生々(しょうじょう)に無間地獄の業を成就せる者あり。是はの(罵)れども口則ち閉塞せず。譬へば獄に入って死罪に定まる者は、獄の中にて何なる假事(ひがごと)あれども、死罪を行なふまでにて別の失なし。ゆ(免)りぬべき者は獄中にて假事あればこれをいまし(戒)むるが如し。823