日精上人関連・法論資料 中野法論テキスト
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百六箇対見記は正当な資料か?
付録は元禄11年以降の記述
日舒が御本尊造立に携わった資料は富士宗学要集8巻201〜202頁
御本尊造立は、寛文十二年六月十三日。
この時、松園日俊師(後の日俊上人)は35才、日仁は26才である。
この時期の御当代御法主上人は第二十世日典上人。
この頃は、日俊上人(当時はもちろん猊下ではない)を法兄として、日仁も常在寺などで日精上人の膝下で研鑽していた時期である。
因みに寛文十二年当時、日精上人は72才である。
日仁の底意として造読思想を持っていたとしても、志をもって行学に励む法類であれば、御本尊造立に一緒に携わることは何ら不自然ではないし、もちろん謗法ではない。
しかし、そのような大石寺の訓育を受けて居たにもかかわらず、日仁はやはり造読の執着は抜けなかった。
元禄2年・・まさに元禄の出入りの起こった年
■「日舒(寿円日仁)京要法寺に住す。(寺誌)(富士年表261)」日舒43才。
当時造読色前面の要法寺三十一代貫首となり、いよいよの造読の宗風となっていくのである。
「百六対見記」は先ほどの御本尊造立の年、寛文十二年に著わしているが、日精上人が造仏をしたと指弾している問題の箇所は、本論の付録であり、この文章は、本文から分るとおり、元禄十一年以降に付加されたものであり、日仁が52才以降の記述である。
つまり、日仁が造読思想を中心に要法寺を運営している最中であり、そのような状況での記述が果たして正当な資料として採用できるのか?ということである。
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中野対決 003 ずる賢く作成年代をすり替える学会
「百六箇対見記」の本論が書かれた寛文十二年(1672年)日仁26才の時と、その「付録」が付け足された元禄十一年(1698年・日仁52才)以降とを故意に混ぜて正当な資料価値があると無理矢理論じているのである。
元禄の出入り(北山との訴訟問題)はまさにその名の通り、元禄二〜三年のことであり、この問題箇所の「付録」が書かれたのはその九年以降も後のことである。
北山の出入りの事件後に、しかも大石寺の僧侶が要法寺の造仏を破折したのでその意趣返しとして造読家日仁(この時は日舒)が悔し紛れに書いたのである。
「元禄第十一の比(ころ)大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々」
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中野対決 百六箇対見記 004 日舒の精師への憎悪を暴く
この百六箇対見記の付録の趣意は、造読主義者・要法寺第三十一代貫主日舒が悔し紛れに書いている反論内容である。
わかりやすく言えばこのような内容である。
「元禄十一年の頃、大石寺の僧侶が、要法寺がしている造仏・一部読誦へ難癖をつけてきた。笑っちゃうよ。そもそもお宅の貫首であった日精上人は、そこらじゅうで造仏してきたじゃんか。」
そもそも、この日舒は、日精上人に対してどのような感情を抱いている人物であったのか。
日舒の『当今現証録』には日精上人の御ことについて、このように軽侮して悪口しいる。
「大石寺日精ハ当寺日瑶師ノ弟子ナリシガ、学ヲ志シ、関東ニ下ル。資縁不如意ニシテ紙子ニテ一夜寒ヲ凌グ程ノ貧僧ナリ、常ニ紙子ヲ着ス。仍ッテ而ル二沼田宮谷之所化、紙子了賢ト呼ブ、故二子賢謂フ当宗ハ易行ナリ十一日ヨリ十七日迄或ハ失念セバ十二日ヨリ十八日迄身行清浄小読誦三年之間之ヲ行ジタリ、此年阿州太守ノ母儀敬台院ノ資助有ツテ相応過分所化トナリヌ、医師小姓侍迄、勤檀ノ節、召遣フタリ」(本宗史綱613頁)
紙子とは 紙子紙(厚手の和紙に柿渋を引き、日に乾かしてよくもみやわらげ、夜露にさらして臭みを抜いたもの。)で作った衣服。
安価なところから貧しい人々の間で用いられた。
上記の文訳。
「大石寺の日精は要法寺第二十代貫主日瑤師の弟子だったが、学を志して関東へ下って行った。
資金的な援助をする人がいなかったので経済的に苦しい状況で、紙子で一晩中、寒さを凌ぐほどの貧乏な僧であった。
一年中、昼も夜も、常にこの貧しい者達が着る紙子を着て過ごしていた。
それによって「沼田宮谷の所化、紙子了賢」と呼ばれていた。
故に(そのような貧僧だから)子賢(了賢の「了」を小馬鹿にして「子」と読み替えて揶揄している。)と呼ぶ。
その子賢は謂う。
「大石寺の修行は楽な修行だ。十一日(これは十一日に因む重要な儀があるのであろう)から始める十七日までの間の一週間の重要な行を、始めるべき十一日を、たまたま忘れていても、十二日から一週間、身も行も清浄にして、法華経一部読誦(全巻読誦)ではなくして、方便品・寿量品の二品だけを唱えればそれでいいのだから。」と。
このように子賢は三年間修行した。
この年、徳島藩主の母上、敬台院からの資金的援助があって、身分不相応に恵まれ過ぎた所化となった。
医師や小姓侍まで、勤行や法要の折りに召し使いのように扱っていた。」
日舒より46才も年長の日精上人、しかもその大先輩の元で宗学の研鑽に励んだこともあるにもかかわらずこのような悪言を為すほど日舒は日精上人を憎んでいたのである。
このような日精上人に悪意と憎悪を持った人物が、日精上人の御事跡に対して正確な評価をするであろうか?
常識で考えれば分ることである。
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中野対決 要法寺貫主・日舒と池田大センセ〜〜はそっくり?005
御本尊造立の願主として日舒が名を連ねているが後に付録で日蓮正宗を誹謗
これは彼の池田大作大センセ〜が、昔からどんな悪心の底意を持っていたとしても、破門前に願主となって造立された当宗末寺の御本尊が、池田センセ〜破門後も、全く問題なく末寺の根本の御本尊として御安置され信敬の対境であらせられるのと同じ原理である。
こうしてみてくるとまさに日仁と池田センセ〜は実によく似ているではないか!
日仁も若き頃は一応まじめに日精上人の下で当宗の教義を研鑽していたのである。
しかも御本尊造立という最重大事にまでその名を遺している。
しかし、やはり過去からの謗法の悪因縁はいかんともしがたく、大石寺の正しい教義・信条が身に染まず、後に”一流の造読家”として要法寺の貫主にまでなる・・・
翻って池田センセ〜もまた、若き頃は一応、日蓮正宗の信仰をまじめにしているフリをしていた。
更には当宗末寺の御本尊の願主にまでなを遺している。
しかし、やはり過去世の謗法の悪因縁いかんともしがたく、?慢謗法をはじめとして十四誹謗の底意を露骨に顕し、とうとう破門にまでされ、「新興教団・創価学会宗」の実質上の教祖とおさまるのである。。。
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中野対決 寛文12年と元禄11年では日舒は真逆 006
寛文十二年当時には常在寺などで大石寺教学を学びながら、それなりに正しい信行をしていた日仁が、16年後には造読主義の要法寺貫首になった。
造読主義の要法寺貫首が正しい大石寺教学を身に体しているはずはなく、この時点では日仁改め日舒は完全に謗法者であり、むしろ大石寺を憎み嫉む邪教徒と成り果てているのである。
絶対確かな分岐点で言えば、日仁が要法寺貫首になる以前と以後では、決定的に教義信条が真逆になっているのである。
であるから、正しい大石寺の教義を学んでいる寛文十二年の時期に御本尊造立に加わっているからと言って、その後の記述が全て正しい、と言うことにはならないのである。
特に、16年後に要法寺貫首になってからの著述は、造読思想を中心に宗派を主催する責任職であるが故に、大石寺への憎悪があるから、正資料として扱える代物ではない、ということをいい加減素直に認めるべきである。
それはまさに池田大作が、破門以前、日蓮正宗信徒であった時に、いくら御本尊の願主にまでなったことがあるとしても、破門後の発言は全て大石寺を憎み怨嫉する謗法者の言であるから、正確な歴史を論じる場合、正資料として全く採用できないのと同様である。
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中野対決 結論・百六箇対見記は正資料としての価値無し 007
論題を簡単にまとめる。
一
1、寛文十二年、日仁が真光寺の御本尊の施主として名を連ねたのは26才。常在寺などで大石寺教学を研学中。
2、造読主義の要法寺貫主になるのが、元禄2年、日仁(日舒)43才。
3、百六箇対見記・付録を書いたのは元禄11年以降。日仁(日舒)52才以降。
2をさかいに1の時期と、2の時期では本尊観・修行の方法の考え方が全く違う。
二
日仁(日舒)は『当今現証録』に見られる如く、日精上人(及び、方便品・寿量品の二品読誦の大石寺)を強く蔑視し、憎悪していた。(因みにここでも日精上人がお若い所化時代から法華経一部読誦主義ではなかったことが例証される)
一、二の状況から、日舒が書いた文献は、造読思想に偏って、自宗を正当化するために書かれた文章であるから、日精上人の事跡に対しての歴史的事実を正確に伝えている正資料としては到底採用できない。