痴犬→> この人間としての振る舞いの正反対に、顕ちゃんは全国の教師の前で、有名な御指導を垂れたんや。
> 「信心がいやになろうが、何しようが、そんなことは関係ないんだ、君にとっては!そんなこと、そんなくだらないこと言っておってはダメだってことを、頭からカマシテやればいいんだ!!そんな者に対しては!」(平成3年8月29日全国教師講習会 日顕指導)
> ホウボウやカマスばかりの魚屋さんでっか、日顕宗は。腐り果てていて、とても食べられまへんわ。
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●よくもこんなまあ、破折され尽くされた古い話を恥ずかしげもなく持ち出してこれるな。
痴犬の頭の中では時間が止まっているんじゃないのか?
それもニセ本尊の害毒と三宝誹謗の極悪果のせいか。
こんな旧式で回転の鈍い頭では現代の時勢について来れないのではないか?
では破折。
既に終わっている内容である。
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【疑念】
八月二十九日の教師指導会で、猊下が「信者の信心なんか、どうなってもいい。ともかく脱会者作りをすることが大事だ」との、冷酷(れいこく)で乱暴な発言をされたが、これについて、どう思うか.
【回答】
まず、初めにハッキリ申し上げておきたいことは、日顕上人猊下は「信者の信心なんかどうなってもいい」などとは仰せられていない、ということです。
あなた方は「しかし録音テープでそのように聞いた」と言うのでしょうが、それは明らかに受け取り方の誤りです。
そもそも、教師指導会とは、御僧侶方のうちでも教師の資格を持った方を対象として行なわれる会合であり、広く一般信徒を対象として行なわれるものではありません。したがって、教師御僧侶であればここまでは判(わか)らなければならない、という前提で指導がなされますので、その内容を一般信徒が聞いても、信解未熟の故に誤解を招く場合があります。ましてや今回のケースのように、悪意をもった幹部が、一般学会員を誤解せしめるよう解説を加え誘導すれば、なおさらでありましょう。
さて、八月二十九日・教師指導会での猊下のお言葉は、ある御尊師が、今回の学会問題の渦中にあって「もう悪口を聞くのがイヤだ、信心もイヤになってきた」という信徒に対してどうしたらよいか≠ニの質問をされたことにつき、叱責(しっせき)されたお言葉です。
この質問が何故、叱責の対象となったか、ということですが、ます、我が日蓮正宗は『折伏の宗』であります。
折伏とは、申すまでもなく、相手の邪義・悪義を見逃がさす、その誤りを指摘して折り伏すことでありまして、これが、末法における正法修行の基本となります。
このことをよく胸に納め、日頃から邪宗・謗法に対する折伏(※耳ざわりのよい事を言って入会を勧める勧誘″ではありません)を実践してきた正信正行の人ならば、このたびの学会問題に対する宗門の言論が、まさに謗法に対する折伏であるということが、当然のこととして信解できるはすであり、間違ってももう悪口を聞くのはイヤだ、信心もイヤになってきた″等と言うわけがありません.
そのような受けとめ方は、ちょうど『佐渡御書』に、
「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなつり鳥鵠(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」(全集九六一頁)
と誠められている、摂受(しょうじゅ)を好む緩(ゆる)い信者と大同であり、けっして正法を正しく信じ行じている者とは言えないのです。
こうした緩い者″の声を聞いたなら、本宗の教師御僧侶としては、きっちりと正しく教導できなくてはならない、場合によっては、その緩い姿を厳しく叱(しか)ってでも教導しなくてはならない、それで相手が信心がイヤになってきた″と言ったとしても、元々、それ自体が正しい信心の在(あ)り方ではなかったのだから、そのような言葉にとらわれずに、どこまでも謗法を嫌い折伏していく信心を教えなくてはならない−――、しかるに、教師指導会での質問には、こうした教師御僧侶としての在るべき姿・道念というものが欠如(けつじょ)している、として、猊下は質問に立った御尊師を叱責なさったのであります.
それも、猊下と御僧侶方との御関係は、それぞれ別個の生活をもった信徒間の先輩・後輩という関係とは異なり、まさに師弟にして親子そのものでありますから、近しい身内に対する遠慮会釈のない厳しい叱責をなさっておられるのであります(これは、御先師日蓮上人の御所作におかれても、まったく同様でありました)。
これをテープに録音して広く部外者に聞かせ、「猊下が『信徒の信心なんか、どうなってもいい』との冷酷で乱暴な発言をした」などと歪(ゆが)んだ宣伝をなし、信解未熟の一般会員達を誤らせるとは、じつに許し難い悪業ではありませんか。
これを取り上げた創価新報(十月十六日号)の見出しを御覧なさい。
「全国で驚きと怒りの声『まるで暴力団。あきれました』
『ペールがはがれ、本質はっきり」
『修行が足りず、気が短いの?」
「少しも信徒の幸福を考えていない』
『信心なんか関係ない″とは何だ」
このような見出し記事で誤った観念を植え込んだ後に、「教師指導会のやり取り」なるカコミ記事を載(の)せれば、多くの人々は必然的に誤った方向へと誘導されていってしまいます。
これが、学会の得意とする、会員洗脳の手口なのであります。
ちなみに、教師指導会で、猊下よりお言葉を頂戴した御尊師御本人は、それをどう受けとめられ、その後どう行動されたのでしょうか。
尊くも、この厳しいお言葉に我が身を従えられ、謗法破折を悪口″と間違えていた学会員さんを、謗法と化した学会から脱会せしめ、寺院所属信徒へと立派に導かれているのです。
あたかも、御説法の途中でよそ見をしただけで日興上人より叱責されて破門に処され、その厳しい御処置を逆(さか)怨みするわけでなく、じつに十二年間を謝罪・懺悔に費やして許された日尊師の例と同様、日興上人門流の厳格な師弟相対信を垣間見る思いがいたすではありませんか。このような厳格な御法主上人であられ、また純真な御尊師であられるからこそ、私達は心より信伏随従できるのであります。
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