つづき@
名前:エロ如68号 日付:3月26日(日) 5時56分
▼戒壇の大御本尊にお目通りできないからとか眠たい事言いたいんでっしゃろ でも君や愚かな単なるハゲのように正しい信仰心を持たぬものがいくら大御本尊にお目通りできようが御書に照らして堕地獄なんだよん!
●その「御書」を挙げてみよ。
痴犬の引文など今まで全て的外れである。
その破折に対しての反論は?
さあ、頑張れ。
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▼国情等により御本尊が下附されない純真な海外信徒は成仏できないのか?決してそうではないんだよ
●もともと、戒壇の大御本尊へ参詣できる立場を総本山から与えられた方(=日蓮正宗の正式な御僧侶より御受戒を授けられた方で、しかも現時に於いても創価学会のように「破門」になっていない方)が、国情等により御本尊が下付されなくてもそれは当然、即身成仏の果報を得ることができる。
創価学会の海外会員は三宝誹謗・ニセ本尊販売の団体の構成員であるから、決して「純真な海外信徒」ではなく、むしろ堕獄必定の哀れな方々である。
因みに 「創価学会販売の掛け軸状のぶら下げ物はニセ本尊」との指摘に教義的に明解な反論は?
痴犬、ダメじゃないか。もう少し頑張らないと。
早く、そのニセ本尊の正当化を試みよ。
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▼御本仏・日蓮大聖人の教法を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人々を、御本仏の慈悲は温かく包んできた。
●”大聖人の教法を信じ”?
笑わせてくれるではないか。
http://toyoda.tv/tciken15.htm
↑これについて明確に反論が成功してから「痴犬らが日蓮大聖人の教法を信じ」などという寝言は言いなさい。
創価学会など、全く「日蓮大聖人の教法を信じ」てなどいないことは、上記アドレスでの破折で完摧。
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▼御本尊を有しない海外信徒の功徳に満ちた体験は、数限りなくある。
●”魔の通力”の”体験=功徳話”ならば、立正佼成会・霊友会・顕正会・はたまた天理教・真光・・・などなど、枚挙に暇が無い。
そんなことが正邪の判定基準にならないことぐらい、仏教の初門のレベルである。
■権経に宿習ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。
ここは付文の辺では権実相対に即して仰せであるが、その元意を拝すれば、真の三大秘法へ信解が進まない、信仰が透徹しない者には、魔の通力が働き、功徳らしきものがでる、と仰せである。
であるから、そんなことを以って法の正邪を判じてはならないのである。
あくまで法門の正邪による。
さ、教義的に今まで全ての当方からの詰問へ返答せよ。
http://toyoda.tv/tciken.mokuji.htm
http://toyoda.tv/neirakuji.htm
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▼御本尊を所持するかしないかということは、功徳の有無に直接、影響しない。
●その前に、戒壇の大御本尊⇒御当代上人⇒末寺⇒末寺の指導教師 との信心の筋目に則った信仰をしているかどうかである。
■よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。
⇒檀那(=在家信者)以外にきちんと「師」を戴かなくては祈りは叶わない。⇒功徳はない。
ただの強欲・破廉恥な一在家信者を「師」と仰ぐものどもがいかに「御本尊」を「所持」しても功徳はない。
■『佐渡国法華講衆御返事』日興上人
「この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにもちがい候へば、おなじ法華をたもちまいらせて候へども、無間地獄におち候。(中略)案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これが大謗法にて候なり」(歴全一―一八三〜一八四n)
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▼「御本尊」は、神札のような魔除けの札ではない。
●当たり前である。破門されニセ魔仏を拝んでいる痴犬に今更言われる筋合いは無い。
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▼御本仏・日蓮大聖人の教えに随い、純真なる信心を貫くことが、なによりも肝要である。
●痴犬は自分たちが「御本仏・日蓮大聖人の教えに随い、純真なる信心を貫」いていると思い込んでいるようであるが、とんだお門違いである。
それは身延・池上・中山らの僧俗が「日蓮聖人の教えに随い、純真なる信心を貫」いていると思い込んでいるのと五十歩百歩である。
大聖人様滅後の仏法の一切は第二祖日興上人へ相伝され、日興上人亡き後は日目上人へ相伝され、・・・順次次第して御当代上人へ伝持されているのである。
それを定められたのは他ならぬ日蓮大聖人である。
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#16
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#18
異論があるのなら、↑に教義的に反論してみよ。
その末法万年への内証相伝が日蓮大聖人の下種仏法の真髄である。
ここに根本の信を以って信行に励まない限り、それは大聖人の仏法でもなんでもない。
ただ大聖人の御名だけ詐称した新興宗教である。
■65日淳上人
「仏教は必ず相伝による」(日淳上人全集七四四n)
●65『日淳上人全集』
「大聖人様が『血脈の次第日蓮日興』と仰せ遊ばされてございますが、今日その血脈を承継致しましてただ感激に打たれる所でございます」(一八四n)
●65『日淳上人全集』 194
真に大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でございまする。で私共は未熟でありましても宗開両祖、歴代上人の御跡を継ぎまして仏法の正統の家にあるのでございますから、この身の有難さをつくづく思いまして信心に励まねばならないと強く考へる次第でありまする。
●65『日淳上人全集』1442
「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。
大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。御文中「血脈の次第日蓮・日興」とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。
しかしてそのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。
内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。
(中略)
大聖人が「経を手に握らない法門は信ずるな」と仰せられしは「仮令師資相承があると言っても経文にないことは信ずるな」との聖訓であらせられる。経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には「此経は相伝に非ずんば知りがたし」と仰せられて居る。
(中略)
信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。法華一会の時一切の菩薩や人天の方々を、「止みなん善男子」といって制止し給ひ、上行菩薩に付嘱し給ひしは、信心の有る無しにより給ひしものか。
(中略)
また大聖人が「仏法―最大深秘の正法」と仰せ給ふ秘法、また「末法には持ち難し」と仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう?倒(てんどう)の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。
●65日淳上人猊下
仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。
● 仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。
●65『日淳上人全集』聖典相伝部に寄せて
「申す迄もなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切でありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります」(一一五〇n)
さあ、痴犬ども、この日淳上人のお言葉からすれば、痴犬たちは、間違いなく、仏法に混乱している、魔の所行のものども、ということだが。
何か反論できるか?
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▼信心がなくて「御本尊」のみあっても功徳はないんだわ。
●その通り。上記日淳上人が仰せの相伝仏法への「信心」がなく、しかも正統な「御本尊」のない創価学会などに「功徳」などある訳が無い。
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▼日蓮大聖人の御真筆の御本尊が日蓮宗の他派にあっても、功徳がないのと同じなんだよん。
●まさにその通り。ではその「御真筆」を撮影印刷した身延みやげ本尊と、創価学会発売の掛け軸状の魔仏との違いは?
早く回答せよ。
痴犬がいう「信心」とは、ただ自分が大聖人の仰せ通りに信仰していると「信」じている、思い込んでいる、だけのことである。
こうして少しでも正統な文証と付き合わせればボロボロ鍍金が剥げる代物である。
そういうものを正しい「信心」とは誰も呼ばない。
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▼もちろん、信心なくして成仏はおぼつかない。
●その通り。であるから、痴犬には正統な「信心」がないのであるから、「成仏はおぼつかない」どころか、堕獄必定である。
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▼御本仏・日蓮大聖人は御本尊について、
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)
と認められている。この御本仏の民衆救済の心を殺し、
●は〜〜?論理飛躍。なんでここで急に「民衆救済の心」などという語句が出てくるのか。
全く頭破作七分である。
ここは別段、”民衆”がどうのこうのという所生についての談道ではない。
この御文は、「曼荼羅本尊に、大聖人の久遠元初の自受用報身、十界本有常住・事の一念三千・三身即一身・一身即三身の一切の御悟りの御魂魄を篭められた御心を顕わされた」と拝するのである。
つまり能生の御本仏と御本尊の御事について御述べであり、所生である衆生とかをこの御文で云々している箇所ではないのである。
痴犬はそういう法門が説かれる筋目に対してのけじめが全くついていない。
未熟である。
こんなことでよく「御本仏・日蓮大聖人の”教え”に随い、純真なる信心を貫くことが、なによりも肝要である。」などと言えたものである。
そういう台詞は、このような引文の不適格さが直ってから言いなさいね。
噴飯ものとはまさにこのことである。
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▼御本尊を道具に仏子の集まりである創価学会を破壊しようとする(「破門」による御本尊下附の停止、添書登山の一方的実施など)、創価学会員を苦しめる日顕宗こそ、御本仏・日蓮大聖人の心を殺す魔にほかならないわな。
●まさに莫迦である。
こういう莫迦には一言。
http://toyoda.tv/tciken1.htm
http://toyoda.tv/tciken2.htm
これで十分。直ぐに反論せよ。
できなければ、非を認め三門前で頭を擦り付けて詫びよ。
更に、顕正会でも痴犬とほぼ同じ事を言っているが、
@顕正会は謗法か?
YES⇒創価学会とどこがどう教義的に違うのか。明確に説示せよ。
NO⇒では創価学会と何故異体同心で一緒に手を組んで活動しないのか。
さあ、痴犬には教義的な「宿題」が増えるばかり。
下らない遠吠えをしている暇はないぞ。
一層、不惜身命・止暇断眠で頑張れ。
「御本仏・日蓮大聖人の教えに随い、純真なる信心を貫くことが、なによりも肝要である。」なんであろう?
さあ、教義として反論せよ。急げ。急げ。
みな見ているぞ。
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