稚児貫主破折

●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)

●↑この御指南には稚児貫首といわれる御法主上人も含まれている。


付弟一人が貫首となり、一宗を統率されている姿そのものが、唯授一人の血脈相承がなされた何よりの証拠である。
だからこそ、宗門700年以上の歴史の中にあって、付弟が御登座されたその時点で、血脈相承に疑義を唱えた者は1人としていなかったのである。血脈に疑義を唱える者達は、決まって、御登座から何年何十年も経過したあとで、自己の立場を正当化するために疑義を唱えるのである。そのような者は、仮に師による直筆の証明があったとしても、偽書であるといって血脈を否定したであろう。
五老僧の門流がそのよい例である。


●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻94頁)
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参考 唯授一人の経文による傍証。

●終ニ不(下)自言(二)我眞ノ阿羅漢(一)。泄(二)(※モラス) 佛ノ密因(一)輕言(中)末學(上)。唯除(三)命終陰有(二)遺付。(『注法華経』法蔵館蔵版・上巻・400頁)

【通釈】=終(つい)に自(みずか)ら我れ眞の菩薩、眞の阿羅漢と言ひて佛の密因(みついん)を泄(もら)して 軽々しく末学のものに言わず、唯(ただ)命終の時陰(ひそ)かに遺付(いふ)するあるを除く

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<稚児貫主>

<第8世日影上人への付嘱>
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4●(※日影上人が)会津実成寺に住居すの時 日時上人御遷化なり、之によって日阿代官として当山大坊に居住して日影上人を請す、然るに会津雪国にして翌年応永十四年(1406)四月御登山なり、日阿代官老衰病に遭い応永十四年三月十日遷化なり、此に於いて天台御相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す
(第31日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』/『富士宗学要集』第1巻222頁)
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第6世日時上人が御遷化の時、第8世日影上人は会津に居られた。
だから、第7世日阿上人が代官された。
御遷化前に血脈相承が内付されていたことを否定するものではない。
その証拠に、柚野某が仲立ちしたという相承は「天台御相承」であって、文底下種仏法の血脈ではないのである。

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●1404(応永11)5.1 日時 日影に法を内付し本尊を授与
(8−193・宮城上行寺蔵本尊脇書・聖744)(『富士年表』)
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御遷化のとき、師のもとにいなくても、それ以前に相承を受けていたのである。
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●釈の日影、俗姓は南条なり、日時に随順して法華を習修し又御書を聴聞す故に当家に於いて精(くわ)しきなり、殊に道心益深くして昼夜誦経、四威儀に題目を唱ふ
(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)

四威儀=行住坐臥のこと。ただし、特に四威儀という場合には、戒律に契った仏道修行者の行いを指すこともある。

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<第9世日有上人への付嘱>
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●影公大衆に語って云く血脈を伝ふべき機なき是我が悲嘆なり、終に応永二十六年己亥病気の時油(柚)野浄蓮に血脈を授けて云く、下山三位阿闍梨日順は血脈を大妙に伝ふ其の例なきに非ず、公白衣たりと雖も信心甚だ深き故に之を授く伝燈を絶えざらしめよと教示して、八月四日没したまふ。(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)
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 「油(柚)野浄蓮に血脈を授け」とあるが、日精上人は「血脈」という語を広い意味で捉えており、必ずしも唯授一人の金口相承ではない。
実際、当時、歴代上人への相承には、金口相承以外にも種々の相伝書があったようであり、その一部が現在、複数の相伝書(『御本尊七箇相承』など)として公開されているのであろう。(<『家中抄』と血脈>参照)

 また、日精上人の著書には俗説をそのまま書き残したものが多く、そのまま信用することはできない。
日精上人御自身も、その点は認められている(下記6●)。

また、第31世日因上人は上記記述について、「恐くは時人の口伝を記するものか」(下記5●)と疑問視されている。

第59世日亨上人も「惑説」と一蹴されている。↓

●柚野浄連の事本師何に拠りて此惑説を為すか(第59世日亨上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻255頁)

●油野浄蓮という人は日有上人に関係の深い人であった。
ですけれどもね、その年代が、日有上人の晩年に、油野浄蓮がいたんですからね。
ですから、その浄蓮に影師が血脈を伝えるとなると年代があわない。(第59世日亨上人『大白蓮華』S31.11/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)

5●精師家中抄日影伝記には(乃至)血脈を伝うべき器なき故に柚野の浄蓮に血脈を授く、下山日順血脈を大妙に伝うるに例す、此則白衣なりと雖深信の故に之を授け御弟子日有をして御成人の時を待たしむるか(乃至)今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐くは時人の口伝を記するものか
(第31日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』/『富士宗学要集』第1巻222頁)
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「初説を実義となすべき」という「初説」とは、上記4●のことである。

●応永27(1420)年4.15 日有、黒須野妙法寺本尊(宗祖本尊模刻)造立(8−194・同寺蔵)(『富士年表』H2)
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日影上人が御遷化あそばされた応永26年8月のわずか8ヵ月後に日有上人が脇書きをなさった御本尊が存するのだから、日影上人から日有上人へ御相承があったとみて差し支えない。

日亨上人もその御本尊の脇書きに「大伴浄蓮」なる名が見えることにより、後世に「柚野浄蓮へ相承」云々の伝説となったのであろうと推測されている。(『大白法』H16.2.1)
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●釈の日有、俗姓は南条、日影の弟子なり、幼少にして出家し師の訓育を受け法華を習学し又御書を聴聞す。(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻256頁)
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(柚野浄連の事が事実だとしても)日影上人は「切紙」などの「血脈」を柚野浄連に預けた前後に、金口相承を直接日有上人に授けたと考えるべきである。(<『家中抄』と血脈>参照)
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6●然るに祖師の伝文不同なきには非ず、日順の血脈抄極略にして未だ窺ひ測りやすからず、日時(※日道)三師の伝はわずかに一二の行業をあげて未だ詳審ならず、日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり亦富士五所の所伝にすこし差会あり。 是れに?(よ)って予寛永庚辰の春、日瑶中陰のうち別に報謝の儀なく此の三伝を集めて一巻として報恩謝徳の一分に擬したてまつりき、其の後御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、爰を以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をたゞす、猶恨むらくは御筆記文は多く天下の大乱に散失し或は国々門徒へ持参し所伝の法門は住侶闕減に習ひ失ひ唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり、豈?(むなし)く興師の道を尽すにたらんや、庶幾(こいねがわく)は所所散失の御筆並びに本尊・記文等見聞にしたがって之れを記して其の欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり
(第17世日精上人『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻180頁)
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「遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」とあることから、『家中抄』の編集態度は、引用であってもある程度は日精上人の本意が表れていることが分かる。
しかしながら、
「唯見聞の及ぶ所、纔(わずか)に之を記録して未だ精密ならざるなり」
「欠を補い給わば是れ吾がねがう所なり」とあるように未だ正確ではなく、後世の補正を求められている。

 「此の三伝」とは「日順の血脈抄」「日時(※日道)三師の伝」「日辰祖師伝」のことか。

当該御文は日興上人伝の末文であり『家中抄上』の末文である。
「然るに祖師の伝文不同なきには非ず」から始まる文である。
このことから、日興上人の伝に関する記述であることは明らかである。
従って狭義には『家中抄上』=日興上人伝、の編集態度である。
 しかしながら、「御筆本尊并びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せ
ざる行相幾許(いくばく)ぞや」という状況は他師に関する資料についても同様のはずである。
そのことは、日目上人や日尊師などについて書かれた「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり」とあることからも容易に推測できる。

であればこそ、日亨上人も上記跋文が『家中抄』全体に及ぶものであるとの考えから、「本師の跋文に合ふもの」として『家中抄』全巻に亘って天註を加えられたのである。↓

●天註に批訂する所あり、先師に対して恐れありと云へども却って是れ本師の跋文に合ふものにして、地下の冥諾を受けんこと必せり、但し中下巻には此事を贅せず(第59世日亨上人/『富士宗学要集』第5巻180頁〜)

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▼56世日応上人がこれに関して、在家相承でも何ら問題ないとしている。(『法主詐称』)
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これは万々が一、柚野浄蓮への御相承ということが仮にあったとしても、それで本宗の血脈相承が途絶えたことにはならないということを強調されたものと拝すべきだね。
特に創価学会が鬼の首でも取ったかのように「日応上人が血脈は在家に相承してもよいと言った」と言うのけまったくの誤解だよ。
たしかに相承すべき相手がなければ、俗男俗女であってもよいと述べられ、柚野浄蓮は白衣(在家)であったとされている。

それは何としても日蓮正宗の血脈法水を絶やしてはならぬが故の仰せだが、ただし、もし在家の浄蓮が本当に相承を受けるとすれば、それは当然出家した後でなければならぬとの意味を、

「浄蓮の新発意」

とのお言葉で示されているんだよ。

要するに緊急やむを得ぬ場合は、信心のある者を出家せしめてでも、血脈相承を継がせなければならないとの意味であり、絶対に日蓮正宗の血脈法水が途絶えることはないことを仰せられた御指南と拝すべきことは言うまでもないね。
(早瀬日如御尊能化『大白法』H16.2.1)


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▼宗門の『富士年表』によれば、12世の日鎮上人は14歳、13世の日院上人に至っては10歳で登座している。
10歳といえば、小学校4年生。そんな子どもにも、大聖人の法魂が宿っていたというのか。
(『創価新報』H18.9.20または10.4)
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 結論から言えば「しかり」。
 慣用句にも
「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」
とあるように、大成する人は、若年であっても、すでにその才気を漂(ただよ)わせているものである。
 また、仏法でも「生智の妙悟」と説かれるように、若年で猊座に登られた方々は、しかるべき御命と因縁を持ってお生まれになり、若年期においても、将来の宗門を背負って立たれる才気に満ちた、まさに大聖人の法魂を継がれるにふさわしい方々であったに違いない。(『慧妙』H18.11.1)

―第12世日鎮上人―

◆12世日鎮上人は、幼い年齢で血脈相承を受けました。血脈相承を受けた年齢については3説があります。「4才」「10才」「16才」です。(<nbのページ>WS)

●釈の日鎮、俗姓知らず下野ノ国ノ人たり、十六歳にして付属を受ケ明応三年甲寅十月十九日富士を発して東国に下向するなり(第17世日精上人著『家中見聞下』/『富要』第5巻257頁)

●第12代日鎮上人は、文明4年、16歳で血脈相承をうけられているので、日有上人が御入滅の時は、ちょうど26歳であった。(第66世日達上人著『(略解)有師化儀抄』22頁)

●日鎮上人は14歳で日有上人から御相承を受けられたわけだが、法体の御相承については、年齢のお若いことは何も問題ではないし、御法門についても、よく少年の神童ぶりがニュースの紙面を賑わす例もあるように、優れた知性と能力をお持ちであられたことを否定はできない。
まして当時は南条日住等の補佐役もいたことだし、何よりも日鎮上人はその後45年もの長きに亘り、宗門を董(とう)されたことが、お若い頃から御法主上人とされての優れた器の御方であられたことを雄弁に証明していると思うね。(八木日照御尊能化『大白法』H16.2.1)

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―第13世日院上人―

◆日院上人が日鎮上人から血脈相承を受けた年齢については、諸説があります。
「13才」「20才」「32才」などです。
堀上人は苦労して会通をつけられ「32才説」にこぎつけられています。
そして「決してバカにされるような稚児貫主じゃない」と言われています(<nbのページ>WS)

●良王殿(※後の日院上人)の事幼少の御方に御座候、然(しか)りと雖(いえど)も信心御志候て勢仁(成人か)致され候はゞ当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍(よっ)て後日の為め件(くだん)の如し(『富士宗学要集』第8巻35頁)
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 12世日鎮上人は、日院上人に相承される約1年前に、後の日院上人を指して、「●」と、幼少ではあっても、信心の志(こころざし)の深い良王殿(日院上人)こそが、大石寺を背負っていくべき御方であることを、大石寺に有縁の人々や檀信徒に向け、宣せられているのである。

 しかして、これを受けた当時の僧俗も、若年の日院上人をしっかりとお支えし、介添え申し上げ、本宗の唯授一人の血脈は絶えることなく護持されて、御当代・68世日如上人まで連綿と伝わってきているのである。

◆[日院上人]=当時、良王童といわれ幼少であったが、信心強盛であったことが、日鎮上人附弟状に記されている(『新版仏教哲学大辞典』初版第2刷1320頁)
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第13世日院上人に法を附属されたのが第12世日鎮上人。

アメリカなどでは、十代前半にして大学に合格してしまう天才もいる。
そこまででなくとも、幼少にして利発な方もいたであろう。
まして、仏法は以信代慧である。
純粋に御本尊を信じている者であれば、幼少であっても立派な法器というべきである。


●釈の日院、俗姓等日鎮伝に出づ、出家して右京と号す、十三歳にて富士に登り当家を習学す、十七歳にして相州土屋に往て台家を受く、又武州仙波に往イて実海の座下に於て広く修学す。富士に帰り大石寺に往する六十年なり、其ノ間常に題目を唱ふ一生三衣身を離さず云云、七十に及ひ中風を患ふ終に天正七己卯七月六日没す行年七十二歳。(第17世日精上人著『家中見聞下』/『富要』第5巻258頁)
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 さて、日鎮上人が御自身の後嗣(こうし)を選ぶについては、土佐国幡田(はただ)の庄まで遊化され、吉奈図書助(ずしょのすけ)高国の13歳の子息という、地位・家柄ある人を付弟として出家せしめ、後に第13世日院上人とされています。
 出家された日院上人は、17歳で相州土屋の檀林で天台学を学び、また武州仙波檀林では実海の許(もと)で更に修学を積まれた後に、日鎮上人より相承を受け登座されています。(榎木境道著『富士門流の歴史 重須篇』124頁)


●請う、妄弁者よ、もし我が山に、万に一にも要山(要法寺)または某山のごとく、唯授一人・金口嫡々の相承なかりせば、(中略)底師(第11世日底上人)は若年の鎮師(12世日鎮上人)に伝うるの必要あらんや。(中略)これ一時の衰退を徴するに似たりといえども、かえって唯授一人・金口嫡々相承の現存せる一つの実証とするにたるべし(第56世日応上人/『慧妙』H9.11.16)
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若年の御法主を選定しなければならなかったということは、当時の御宗門が衰退して人少であったことを窺わせるが、かえって、そのような状況下にあっても、どうしても後世に伝えなければならない法体相承が、厳然として富士大石寺に存在することを証明している、といえるのである。

★法体相承が大御本尊の伝持だけであるならば、わざわざ、若年の御法主を選定する必要などない。

●「児」とはちごとよむ童子にして寺院の召使なり、当時一般の寺院に童体の弟子あり、召し使はれながら修学を励みて後に剃髪出家す、中には十七八歳まで児姿なるあり、此の児の中に俗性高貴なるは・非常に喜ばれ殊に容色学才あるは・一山の珍重する所にして・此が争奪の為に干才を交へたる事珍しからず(第59世日亨上人著『有師化儀抄注解』/『富士宗学要集』第1巻122頁)
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大石寺派の僧侶というのは、頭脳明晰であることは当然であり、容姿も勝れ、顔立ちも良い方が尊ばれたものである。
天下の師範たる資格であるのだ(<清流山荘>WS)。

●法華経では、竜女は8歳で即身成仏しているのである(同)。

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―第67世日顕上人御指南/H4.8.28全国教師講習会―

 「9世日有上人(18歳)、12世日鎮上人(14歳)、13世日院上人(10歳)、14世日主上人(19歳)が、いずれも年少で付嘱をうけていること」
と、問題にしているわけです。

特に、10歳という年齢では何も判りはしないではないかという考えがあるのでしよう。

 これは、先程も申し上げたように、金口から金口ヘ嫡々相対の上に直接、話をし、その場において信解が得られなければ相承ではないというように短絡的に考えるから、このような質問が出てくるのです。

本来ならば、御相承ということに関して、他の人は漏れ聞くこともできないのでありますから、この質問がもっともだと思う人こそ誤りであって、基本的には、やはり未来永劫にわたる御仏意の貫きということを考えていただきたいと思います。

 さらに申し上げれば、時代背景として稚児貫首ということが行われた時代があるのです。

老僧、あるいは分別のある僧侶はいくらでもいたのでありますが、わざわざ稚児を選んで次の貫首に定めるという、そのような宗門伝承の在り方が存した時代があるのです。

 したがって、宗門の集団全体がそのような考えでいるわけですから、その稚児貫首が、「汝こそ法主となるのだぞ」との始めにおける上人の言を根本として成長する過程において、法門の学習とともに、法主たる自覚のもとに先師の金口の言辞を元に金紙を拝しつつ、この場合は相承の内容において金口が金紙に代わる意味も一部、存するわけで、また、古来の法に詳しい老僧からの話を聞きつつ、真に法を正しく伝えていくという、このような介添え人をも含めての相承の在り方も存したわけです。

 しかし、そこには金口を元とする金紙が厳然として存し、その金紙の内容にまた、金口の意義における厳然たる伝承が存するという上からの稚児貫首という在り方であったのです。

それを宗門の僧団全体が考え、支え、血脈を伝持していくという時代状勢であったわけです。

 ですから、そのような時代背景、状況、慣習等を全く無視して、まして僧侶でもない、また、信心で拝することもできないような創価学会の在家の人間の考えで、唯授一人の血脈相承の内容について、「これは10歳だから、相承が伝わるというのはおかしいではないか」と質問してくるのは、信を見失った全くの見当違いであり、謗法なのです。

その辺のところを皆さん方もしっかりと信解していただきたい。必ず血脈は伝持されているのであります。

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<第15世日昌上人への付嘱>
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▼日主上人から日昌上人への御相承について、代官の寂日坊への「死活相承」の話があった。(『法主詐称』)
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●これは取るに足りないまったくの誤伝です。
日昌上人のお筆による、日主上人から日昌上人への御相承が厳然と行われたことを証明する確実な史料が、現に小金井蓮行寺に存在していることを日亨上人が仰せられているね。(藤本総監『大白法』H16.2.1)

■文禄三甲午八月に当山に移る同四年下野国に往き日主に随ツて直授相承を受く、(家中抄・富要5−260)(※日付の差在り)

■金井蓮行寺の仏前に於嫡々の御相承、日主上人より請取り申す処実正明白なり、後日の為の証状件の如し。文禄第五丙申天九月朔(ついたち)日 大石寺日昌在り判。(8−47 中欠部分)

日昌上人について「正反対の教義を学んだ者」というが、当時の要山系の中に造像の正否を巡って意見が分かれ、特に出雲地方に見られるごとく「日尊師の遺風を汲んで大石寺を本寺と仰ぐべし」の意識が強く、相互の人的交流も盛んであった。
要法寺開祖の日尊師は日興上人の弟子として布教に精励せられ、三十六箇寺建立で知られる方。
日尊師は生涯自らは御本尊書写をされなかった方。
心中、大石寺を本寺と仰いでいたことがわかる。
随って当時の尊門流全体は「正反対邪教義」などという意識は極めて希薄。
また八宗兼学の気風も残っており、幼少に他門の教学や外書を学んだからといって正法伝持の資格なしとは言えない。

要法寺僧の招来について、当時は封建体制による家柄や教育の問題等が強く影響したであろうし、血脈相承と御法体のみならず教義と大石寺及び門末寺院を守り、広布を待つべく令法久住のために、当時としては最善の手段として要法寺僧招来の手段を講じられた。
その御先師の御苦心と意義は謗法者にはまず判るまい。
また正法を守らんがために京都から草深い大石寺に赴かれ、しかも心ない者からの冷笑や蔑視に耐え忍びながら一切の名利を捨て正法厳護と衆生救済の決意を持って、法水を伝持遊ばされた要山出といわれる御先師方があったればこそ、現在我々は本門戒壇の大御本尊を親り拝し奉り、正法正義に浴しうるのである。
▲「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべし」との御聖訓のごとく、我等正宗僧侶こそこれらの恩徳に感謝すべきである「正反対の教義を学んだ者」とか「断絶した血脈相承」「信者教導の方便のための血脈相承」等と罵る者はまさに忘恩の徒でしかない。
そんな者に血脈相承を論ずる資格もないし、正信の道など判ろうはずがないではないか。

大石寺と要法寺が当時種々交流があり、当時の要法寺は大石寺を本寺と仰ぐ日尊師の遺風も強かった。
要法寺において後の目昌上人が、幼少より外典・経籍から法華経・御書等の基礎的学問に永年研鑚を積まれたことは当然である。
 しかも『家中抄』には「良に末世の竜象と謂つべき者か」5−260と、その俊才を称えられる昌師が、学成りて大石寺へ登られたのが三十三歳の時、その後の二年間でいかに大石寺の正義を身につけられたかは、後世の末輩が云々してもはじまらないこと。
一言すれば画竜点晴の時であったと拝し奉る。日主上人は、三十五歳の日昌上人へ相承を授けられた後も二十一年間の長きに亘り御隠尊として控えておられたのであるから、法義的にも何ら心配することはなかったのである。

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<第16世日就上人への付嘱>
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●慶長十二年昌公病気の時付嘱を定めんと欲し書状を日就に賜ふ、師匠の日?(しゅう=「貝」+「周」)の云く師弟合して本末相承を継く冥慮に相叶ふ者か、即日?領承して返札を賜ふ、堅約以後猶昌公在位なり、元和年中終焉の後、同年四月二十三日入院し理境坊日義に随ひ相承を継ぐ
(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第5巻260頁)
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 この資料を見る限り、第16世日就上人は、第15世日昌上人御遷化後に御登座されたことになる。
しかしながら、血脈相承に対して疑義を差し挟む者は当時からいなかったようである。
 「昌公病気の時付嘱を定めんと欲し書状を日就に賜ふ」
とあるから、御病気になる以前から日昌上人は日就上人と面識があられたのであろう。
さらに「堅約以後猶昌公在位なり」とあるから、付弟が日就上人に定まってからも、日昌上人は御健在であられたのである。
以上のことから推察するに、御登座は師の滅後であっても、内付という形で相承が行われていたのである。
だからこそ、当時、血脈に疑義を差し挟む者はいなかったのである。

尚、この時の相承は、師の滅後に付弟が御登座したこと、相承が内付という形で行われたこと、という点において第66世日達上人から第67世日顕上人への御相承と同じである。

 「理境坊日義に随ひ相承を継ぐ」の記述であるが、日精上人のいう「血脈相承」とは文書化されたものであり、必ずしも唯授一人金口相承のことではない。(<『家中抄』と血脈>参照)

●法を日道に付す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用(証)外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝えず
(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻216頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「金口の智識なり」とあるように、これこそ日寛上人仰せの金口相承である。
金口相承については「其の器に非ずんば伝えず」と断言されている以上、理境坊日義が継いだという「相承」と金口相承は別物であると考えるべきである。

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堀上人は「理鏡坊日義相承預りの事実」として、18世日盈上人が書き残した

「寂日坊日義が血脈相承を預かり相伝をした」

という文書を紹介して、15世日昌師の臨終に日就師が間に合わずに、理鏡坊日義が相承預かりをした事実について、

「この点において血脈断絶法水壅塞の形ありといわばいえるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は、殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやという問題が起こるべきであろう。
しかして法式と実人とは何れが主なりやということを決定してかかる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法はこれを結成するの型式に過ぎざるから、就師のやうな場合でも、血脈断絶法水壅塞の不都合は無いわけである。

若し然らずして作法のみ大権威存在して実人は何人でも宜いということならば、この場合の如きは血脈断絶の悲事となるわけである。

また作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作るという事ならば、この場合は少なくも法水一次枯渇の状を呈する不祥事となるであろう。」
(血脈相承の断絶等に就いて史的考察及び辨蒙)と述べられています。(sf:1719)
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これは、第15世日昌上人が御遷化された際、第16世日就上人への御相承を理境坊日義師が預かったとの説があることについて、日亨上人(※御登座前)が、

●血脈断絶法水雍塞の形ありと云はゞ云へるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやと云ふ問題が起るべきであらう、而して法式と実人とは何れが主なりやと云ふ事を決定してかゝる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法は此を結成するのに型式に過ぎざるから就師のやうな場合でも、血脈断絶法水雍塞の不都合は無い訳である。若し然らずして作法にのみ大権威存在して実人は何人でも宜いと云ふ事ならば、此場合の如きは血脈断絶の悲事となる訳である。又作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作ると云ふ事ならば、此場合は少くも法水一時枯渇の状を呈する不祥事となるであらう。(第59世日亨上人「史的考察及び弁蒙」『大日蓮』大正12年4月号16頁)
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と述べられた中にある。

このお言葉の前提として、日昌上人は御遷化の15年も前に日就上人に法を内付されているのであり、日昌上人と日就上人の間に血脈断絶などということはありえない。

その上でちなみに、御相承に関して、法式(授受の形式作法)と実人(御当人)のどちらが主であるかという、議論をなされたのである。
つまり日亨上人が御相承において「実人に権威がある」と仰せられたのは、たとえ御相承の儀式が無い場合でも、内付によって御相承を受けられる方の境界に実人としての適確の権威が具わっており、血脈断絶などということはない、という意である。(『大白法』H16.6.16)

●私の未決定の史論を盲信して濫りに此から割出した御議論を為さらぬやうに願ひたい(第59世日亨上人「史的考察及び弁蒙」『大日蓮』大正12年4月号10頁)

●此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い。(同16頁)
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つまり信仰的次元においては、御相承の「形式」が大事か「実人」が大事かなどということは、全く議論の余地はない。


―第67世日顕上人御指南/H4.8.28全国教師講習会―

 このお言葉の底意は、
「形としてはそういう形式・作法の在り方があるから、そういう在り方が存在する例を考えるならば、そのような形式として存在することは結構である。
しかし、それがなければ血脈が伝わらないとか、断絶したというようなことではない」という意味を、敢えて反問の形で言われるところにあるのです。
しかし、そこのところを、
「相承は御仏意の上に、形式の有無にかかわらず伝承されている」
と、もっとはっきりと仰せになっていただければ、疑問を持つ者も、より少なかったと思います。

 それから、「御当人に権威ありや」。
これは、権威といってはおかしいかも知れないがその承けたところの意義において、おのずから当人の命のなかに生ずるものがあるのです。

 小乗に無表色という語があります。
小乗仏教の倶舎七十五法の十八界のうちの色・声・香・味・触・法の六境中、法境のなかの部分的内容としての無表色であります。
この無表色において、ある善や悪の表業を受ければ受けただけの地水火風の色法が未来から来たって、その善、あるいは悪、あるいは無記の内容として身内に成するということがあります。
まして、大乗仏教の真実・最高の教えの血脈をお承けするという上から考えれば、尊い業による結果が身に当たって生ずることも、当然といえば当然であります。
要するに、「日蓮 日興」の御相伝を拝しても、本当の意味の唯我与我、また、さらに言うならば、授受感応における深いお心というものがあるのです。
 特に、重大な意味を持つ代々上人の血脈を譲るというような場合には、幼いから疑わしいとか、最後にお会いになっていないから変だとか、あるいはこの形式がないから違うなどというような、凡眼凡智で量れるものでは絶対にないという次第であります。

 私の時にも、血脈相承の儀式がなかったなどと言う者もありましたけれども、今、けっしてそのことを弁護するつもりはないのです。
ただ、形だけのところを見て、「あれがあった、これがなかったと言う、その短絡的な考え方は、本宗の法脈伝持に関しては間違っておるということ、大聖人様からの御仏意による御指南、御相承というものは厳然と伝わるのであるということを、特に血脈という問題が色々と誤って喧伝されておる今だからこそ、皆さんに申し上げておきたいのであります。(『大日蓮』平成4年10月号39頁)



<要法寺出身御法主>
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当時の大石寺の人材不足の状況については、おそらく現在と同様なレベルだったのでしょう。他山から

法主をスカウトせざるを得なかった訳ですから。邪宗門も人材枯渇が著しいですね(sf)
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 成人した方が要法寺から大石寺に登られたのは、第15世日昌上人と第16世日就上人の2人だけで

ある。

あとの方は幼少期から大石寺に登り、大石寺が人材育成された方。

「人材不足」が原因でなかったことは明らかである。

むしろ、大石寺側としては要法寺を教導して宗勢を拡大しようという意図もあったのではないか。

そのように考えられる背景としては、当時の要法寺が大石寺を「本寺」と仰いでいたことが挙げられる



そのことは『富士門家中見聞』という名の書に、要法寺の高僧の名が列せられていることからも分かる



 現に日精上人の時代には、信教の自由が十分認められていなかったにも拘わらず、多くの寺院が帰伏

している。

そのために還って、法詔寺のように、化儀を理解していない檀那との間に軋轢が生じた、という負の部

分もあったようである。

この辺の複雑な状況を理解せずに、残された僅かな史料の文面のみに捕われると、学会のように、多く

の疑問や矛盾(学会の主張に反する疑問点や矛盾点)を棚上げしたまま、日精上人や大石寺を短絡的に

誹謗することになる。


(前略)天正15(1587)年、大石寺では日院上人を嗣いだ14世日主上人と、要法寺では日辰の

後を嗣いだ日?との間で、通用の申し合わせが整いました。

 日主上人は同年5月8日、大石寺重宝であった日目上人真筆御本尊に、奥書を加えた上で要法寺に授

与され、翌年、要法寺よりは日興上人の御本尊が大石寺に納められています(『富要』第8巻199頁

)。

 こうした経緯の後に、日主上人の後嗣として15世日昌上人が大石寺に晋山されました。

日昌上人は京都要法寺で出家の後、下総国飯高檀林で修学された方でした。

それより以後、23世日啓上人まで9代にわたる法主上人は、要法寺本末を縁として出家された方で、

およそ百年間にわたって、大石寺の法燈を嗣がれる時代が続きました。(『富士門流の歴史 重須篇』

392頁)

●師弟和合して本末相承を継ぐ、冥慮に相叶う者か(日?より日就上人への書状)
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師(日?)と弟子(日就上人)が揃って、本寺(大石寺)と末寺(要法寺)それぞれの相承を承けるこ

とは、大聖人の冥慮に叶うことであると、祝福した内容です。(『富士門流の歴史 重須篇』393頁



当時の要法寺は、大石寺の末寺という感覚であったのだ。

●それから9代。
9代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で、相當でき上つた人がきたです。
後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上つてきたんじやないのです。
若いとき、きたのです。
そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなつた。
精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなつた成人した人がき

たんです。 
精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなつた。
所化できたのが多いですね。
ですから要法寺からきたといつても、たゞその、身體をもらつただけです。(第59世日亨上人『大白

蓮華』S31.11/『地涌』第125号)
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9代の間は要法寺から来られた方が大石寺の法主となられた。
しかし、最初のお二方(第15世日昌上人と第16世日就上人)以外は、幼少にして大石寺に登られ、

大石寺において修行されたのである。
そうであれば、出身は要法寺であっても実質は"大石寺が生み育てた法主"である。

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<『家中抄』と血脈>

7●(※日行上人は)日道の付嘱を受く其の時本尊を日行に授与す其の端書に云く「暦応二大才巳卯年

六月十五日、日道在判日行に之を授与す一が中の一弟子なり」(已上此の本尊当山に在なり)、

8●又興目両師に従って血脈を禀承する等を日行に伝授す(相伝切紙等其外相伝書籍等手取引様示給書

物等森殿に之を預け置く趣行公自筆状に見たり往見)、

9●行公此の付嘱を受け大石寺に住持し・・・(第17世日精上人『家中抄下』/『富士宗学要集』第

5巻250頁)
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「日道の付嘱を受く」とは金口の相承である。「又興目両師に従って血脈を禀承する」という「血脈」

の内容とは「相伝切紙等其外相伝書籍等」「手取引様示給書物等」である。

この「血脈」=「相伝切紙等其外相伝書籍等」「手取引様示給書物等」を「森殿に之を預け置く」とあ

る。

「行公此の付嘱を受け大石寺に住持」とあるのは、「切紙」などの相伝書を森殿より受け取った後に御

登座されたということであろう。

いずれにせよ、8●では「血脈」=「相伝切紙等其外相伝書籍」等であり、金口の相承ではない。

このことは、この切紙について日精上人御自身が、「当宗嫡々法門相承」ではない、と仰せになってい

ることから明らか(下記13●)。

しかも、この「血脈」は、第三者に預けても不都合がないことが分かる。

★日精上人は唯授一人金口の相承以外の相伝書を「血脈」と称し(8●)、さらに相伝書の授受を「付

嘱」と仰せである(9●)。

10●此の日産湯相承を記録す、同十日には本尊七箇相決并に教化弘教七箇の決を記し給ふ、十一日に

本因妙抄を日興に付与し給ふ、其の文に曰く又日文字の口伝産湯口決の二箇は両大師の玄旨にあり、本

尊七箇口伝は七面決を表す、教化弘教七箇伝は弘通する者の大要なり、又此の血脈并びに本尊大事は日

蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人血脈なり、相構へ相構へ秘す可し伝ふ可し云云。誠に日

興は多聞の士、自然に仏法の深義を解了せる故に仏法の大海水、興師の心中に流入するにより斯の如き

甚深の血脈を禀承し給ふ(第17世日精上人『家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻154頁〜)
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「産湯相承」「本尊七箇相決」「教化弘教七箇の決」「本因妙抄」=伝法の書=甚深の血脈であることが

分かる。
「秘す可し伝ふ可し」とはあるものの、後に徐々に公開されたものである。しかし、唯授一人の血脈相

承は、これら相伝書のみではなく、金口相承こそが根幹なのである(下記14●〜16●)。

11●亦天王鎮守の神(たましい)と申すは祖師御相伝の秘書当家代々の秘書なり、日興日目相続して

房州妙本寺に之れ有るなり。常随給仕の功と云ひ問答第一と云ひ旁々の勲功により甚深の血脈禀承した

まふ(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻185頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「秘書」とあるように文書である。
金口相承ではない。
第59世日亨上人は、「今無し」(頭注)と仰せである。

12●大聖より禀承の一紙血脈を以って日目に授く其文に云く。(中略)右二通の御血脈等とは日蓮、

日興、日目御相承にして御正筆房州妙本寺に之れ有り(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要

集』第5巻186頁)
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ここでいう「相承」とは文書のことであり金口相承ではない。また、下記13●の「切紙」とも違うよ

うである。日亨上人は「此の文今無し」(頭注)と仰せである。

13●当宗嫡々法門相承どもを日道に付嘱す、其の外高開両師よりの相伝の切紙等目録を以て日道に示

す、其の目録に云く。(第17世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻213頁)
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「当宗嫡々法門相承」こそが唯授一人金口の血脈相承であり、「其の外高開両師よりの相伝の切紙等」

とあるように、「高開両師よりの相伝の切紙等」と唯授一人の金口相承とは別個のものである。

●当家甚深の相承の事。全く余仁の一言半句も申し聞く事之れ無く、唯貫主一人の外は知る能わざるな

り。(中略)又本尊相伝、唯授一人の相承なるが故に、代々一人の外、書写すること之れ無し。(第1

7世日精上人『歴全』第2巻314頁/『大白法』H16.6.16)

14●法を日道に付す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用(証)外用

金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝えず(第1

7世日精上人『家中抄中』/『富士宗学要集』第5巻216頁)
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ここでいう「甚深の血脈」とは「金口の智識なり」とあるように、これこそ日寛上人仰せの金口相承で

あり、上記「血脈」=「相伝切紙等其外相伝書籍等」(上記9●)とは別物である。

★日精上人のいう「血脈」とは文書化されたものを含んでおり、必ずしも唯授一人金口相承のことでは

ない。
この文書化された血脈を第5世日行上人は、森殿(在家信徒?)を経由して受け取られたのである。

油(柚)野浄蓮が第8世日影上人または第9世日有上人に伝えたという「血脈」「相承」もまた金口の

相承ではない、と考えるべきである。

★日精上人自身、金口相承の他に相伝書(上記13●)のあることを認められている。

しかも金口相承については「其の器に非ずんば伝えず」(14●)と断言されている。

このような日精上人が、金口相承が在家等に伝えられたり、途中で断絶したという意味の記録を掲載さ

れるはずがない。


15●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師

より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上

人『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)

16●仮令(たとい)、広布の時といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず(第

56世日応上人・『弁惑観心抄』212頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』212頁