ではこれにお答えしていきましょうか。
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> DATE: 2月22日(木)16時28分55秒
> TITLE: 樋田さん。
> NAME: 卞氏 MAIL:
>
●> >要は”日蓮正宗と創価学会のどちらが大聖人の仏法の本義を正統に受け継ぎ、
> >実践しているのか。”ということを「法論」に依って決しようということ
>
▼> それが趣旨ですか?
>
●> >創価学会が新たな本尊を作出した限りには、その本尊の意義についての解釈などは現在の創価学会の最高責任者等の発言が大聖人の御教えに則しているかどうかを検証しなければならない。
> >しかも、かつての創価学会の最高責任者が「絶対してはならない」と厳命していたことを為したのであるからその理由については「文証」「道理」において厳格に証明しなければならない。
>
▼> これなら樋田さんが直接学会本部に見解を求めればそれですむ事と思いますがね?
> ▼1「そもそも、御本尊授与にかんする専権事項についての大聖人の文証が存在しないでしょう。」
>
> ▼2「下記が後加文であると日亨上人が定めていたことぐらいご存知のはず。
> 誰が書いたのか解りません。が座主に匹敵するくらいの立場ではないかとは思えますがね。
> つまり門内で座主という立場にあるものは、大事なことだから、
> しっかり伝えていいきなさい。
>
> と門内での話じゃないですか?
>
> ■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。
>
> >との御文のごとく、大聖人の仏法は相伝仏法であるから、
> >こと御本尊に関しては特にも相伝を受けられた御歴代上人の御指南を拝する必要があるのである。
>
▼> それを外に向けて「私たちはこうしているから、決着をつけよう」ってどういうことでしょうね?
> 一緒の時代なら、御本尊に関することは法主の専権事項とした。学会もそれに倣った。
> 平成以降、宗門とは分かれたため、学会は会長がその任にあたることになった。」
> ▼3「で、結果としてどちらが布教拡大に勤しんでいるか。」
> これで充分と思いますが、なぜにこの後加文に拘るのでしょう?
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▼1 当然ですね。
しかし、「文証」そのものがなくとも、「道理」として、義に於いて、こと即身成仏の根本対境である「本尊」に関して全く説き置かれていないはずはないですね。
■1「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」
@ この御文の「仏宝・法宝」とは三大秘法→一大秘法→人法一箇の戒壇の大御本尊 に究竟せられる。
A 煎じ詰めれば大聖人の仏法とは戒壇の大御本尊。
【文証】
■「余は二十七年なり(=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる)」(聖人御難事)
■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(三大秘法抄)
B 三大秘法(本門の本尊・戒壇・題目)整足してはじめて即身成仏の功徳を成ずる。
■但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(観心本尊文段上)
■但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。(観心本尊文段上)
■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。
この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。(法華取要抄文段)
C つまり本門の戒壇で本門の本尊に本門の題目を唱えてはじめて三大秘法が整足する。これに事と義がある。
■『法華取要抄文段』日寛上人
広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。
→上古に於いては、戒壇の大御本尊は日興上人へ密付せられ秘蔵厳護されていたのであるし、また中世以降でも門徒・信者が毎日戒壇の大御本尊へ参詣する訳にはいかず、ここに、戒壇の大御本尊の書写という尊行があられる。
では、誰が書写できるのか。
■2「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」
■3「日蓮一期弘法付嘱書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日 日蓮 花押 血脈の次第 日蓮日興」
■4「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。」
■1〜4をよくよく拝すれば、仏宝・法宝である戒壇の大御本尊は大聖人様の御命であり、それは大聖人の己心=内証であり、その内証ははそのまま日興上人へ唯授一人で血脈相承されたのであり、それはそのまま日目上人へ唯授一人・血脈相承され、その後次第して御歴代上人へ相伝・伝持されているのである。
■「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」との御文は元意の辺に於いては、
「戒壇の大御本尊の己心=内証は必ず日興上人を首とする御歴代上人に依って住する」という意義となる。
であるから戒壇の大御本尊と御歴代上人とは三宝一体なのである。
御本尊を御歴代上人が書写されることが正統であるとの証明する現実の事例は、上古に於いて日興上人・日目上人の御書写御本尊がその証拠である。
であるから、
■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。
との御文は後加文であるが、義に於いて正当であるが故に「一重線」であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。
つまり道理・義理に於いて、御歴代上人以外の者が「本尊」を私に作出することなど、大聖人の仏法として全く不可なのである。
その証拠として大聖人は本尊と為すには必ず開眼が必要と仰せられているのにも拘らず、創価学会が販売する掛け軸には間違いなく「開眼供養」が為されていない。
■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638
であるから、▼2「」の主張は失当ですね。
▼3について。
これは上記のごとくの大聖人以来の戒壇の大御本尊の内証を書写され、開眼供養された正当な御本尊を広めることが三大秘法を広めることであり、真の「広宣流布」という意義である。
それ以外の何物が広まっても、”広宣流布”ではない。
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