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    聖人知三世事  文永一一年一一月  五三歳

 聖人と申すは委細(いさい)に三世を知るを聖人と云ふ。
儒家(じゅけ)の三皇(さんこう)
(※伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさすが、それは諸書によって一定ではなく、燧人ではなく女?(じょか、楽器を作った)をあげることも多い。)

・五帝(ごてい)
※五帝は戦国時代に五行説から生まれ,『史記』では黄帝・?? (せんぎよく) ・帝? (ていこく) ・堯 (ぎよう) ・舜 (しゆん) をさす。)

並びに三聖(※老子・孔子・顔子)は但現在を知りて過(か)・未(み)を知らず。
外道は過去八万・未来八万を知る。一分(ぶん)の聖人なり。
小乗の二乗は過去未来の因果を知る。外道に勝れたる聖人なり。
小乗の菩薩は過去三僧祇(さんそうぎ)の菩薩、通教の菩薩は過去に動喩塵劫(どうゆじんこう)を経歴(きょうりゃく)せり。
別教の菩薩は一々の位の中に多倶低劫(たぐていこう)(※きわめて長い期間のこと。多劫と略す。倶低は千万、或は億の意。)の過去を知る。
法華経の迹門は過去の三千塵点劫(じんでんごう)を演説す。一代超過(ちょうか)是なり。
本門は五百塵点劫・過去遠々劫(おんのんごう)をも之を演説し、又未来無数劫(むしゅこう)の事をも宣伝す。

之に依って之を案ずるに、委しく過・未を知るは聖人の本(もと)なり。
教主釈尊は既に近くは去って後三月の涅槃之を知る。
遠くは後五百歳広宣流布疑ひ無きものか。
若し爾(しか)れば近きを以て遠きを推(おも)ひ、現を以て当を知る。如是相乃至本末究竟等是なり。

 後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知るべきや。
予は未だ我が智慧を信ぜず。然りと雖も自他の返逆(ほんぎゃく)・侵逼(しんぴつ)、之を以て我が智を信ず。敢へて他人の為にするに非ず。
又我が弟子等之を存知せよ。
日蓮は是(これ)法華経の行者なり。
不軽(ふきょう)の跡(あと)を紹継(しょうけい)するの故に。
軽毀(きょうき)する人は頭(こうべ)七分に破れ、信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん。

 問うて云はく、何ぞ汝を毀(そし)る人頭破七分(ずはしちぶん)無きや。
答へて云はく、古昔(こしゃく)の聖人は仏を除きたてまつりて已外(いげ)、之を毀る人頭破(ずは)但一人二人なり。
今日蓮を毀砦(きし)する事の非は一人二人に限るべからず。日本一国一同に同じく破(わ)るヽなり。
所謂(いわゆる)正嘉(しょうか)の大地震文永の長星は誰が故ぞ。
日蓮は一闇浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり。
上一人より下万民に至るまで之を軽毀(きょうき)して刀杖(とうじょう)を加へ流罪(るざい)に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之を逼責(ひつせき)するなり。
大集経に云はく、仁王(にんのう)経に云はく、涅槃経(ねはんぎょう)に云はく、法華経に云はく。
設(たと)ひ万祈を作(な)すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐(いき)・対馬(つしま)の如くならん。

 我が弟子仰いで之を見よ。
此偏(ひとえ)に日蓮が尊貴(そんき)なるに非ず、法華経の御力の殊勝(しゅしょう)なるに依るなり。
身を挙(あ)ぐれば慢(まん)ずと想ひ、身を下せば経を蔑(あなず)る。
松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し。
幸いなるかな楽しいかな、穢土(えど)に於て喜楽(きらく)を受くるは但日蓮一人なるのみ。