6・30逸脱教義の是正(抜粋)
昭和53年6月30日
特別学習会テキストより
途中の人師論師
◇問題資料
「先師の御弘通」の「先師」とは、御本仏日蓮大聖人のことであります。したがって「日蓮大聖人の御弘通」そのままにということになるのであります。すなわち日蓮大聖人の正真銘の門下であるならば、日蓮大聖人の振る舞いと、その精神を根本にすべきなのであります。それは、途中の人師、論師ではないということなのであります。途中の人師、論師が根本でないということは、人師、論師の場合には、いろいろな時代背景のもとに、生き延びなければならなかったが故に、令法久住を願ってさまざまな知恵をめぐらした場合があるからであります。 (池田会長講演 聖教新聞52年2月17日付)
◇宗門質問
途中の人師論師とはだれを指すのですか。
◇学会回答
「途中の人師、論師を根本とすべきでない」と表現したことについては、この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではありません。我ら末弟は「日興遺誠置文」の「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味でありました。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の御法主日達上人猊下の御内証に流れていることはいうまでもないことであります。したがって、こうした唯授一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたいと存じます。
大聖人直結
◇問題資料
この日我々は「本陣の男子部」として、日蓮大聖人直結の創価学会を厳護し、魔軍に指一本たりともふれさせない戦いを展開していくことを決意したのである。 (大白蓮華52年2月号)
◇宗門質問
日蓮大聖人直結とはどういう意味なのですか。
◇学会回答
「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものであります。したがって、唯授一人、遣使還告であられる御法主上人猊下を通しての大聖人への直結であることは当然であります。
血脈
◇問題資料
血脈相承といえばよく既成宗教などにみられるように神秘的に高僧から高僧へ、深遠甚深の儀式を踏まえて流れるものであると思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたにちがいない。しかし大聖人の仏法の本義はそんなところにあるのではない。我が已心の厳粛な信心のなかにこそあるといわれているのです。大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人は人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。というよりも、我が生命の中にある、大聖人のご生命、仏界の生命を涌現させる以外にないのです。 (池田会長講義「生死一大事血脈抄」大白蓮華52年6月号)
◇宗門質問
ここでは既成宗教に血脈相承があることをのべ、かつ大聖人の仏法の本義は『そんなところ』(高僧から高僧への血脈相承)にあるのではないと論じられているが、それは日蓮正宗に血脈相承があることを否定することともとれますが、その意味なのですか。他宗でも血脈ということは言うが血脈相承とはと言いません。また、法体の血脈相承と生死一大事の信心の血脈とはその意味に違いがあります。しかるに学会で大聖人直結の血脈というところに、おのずから本宗の唯授一人の血脈を否定するかのようです。そこであえて質問いたしますが、学会では生死一大事の血脈のみを血脈として、身延相承書の「血脈の次第日蓮日興」の文義を否定するのですか。
◇学会回答
血脈については、法体の血脈と信心の血脈等があります。御書に「生死一大事血脈抄」があります。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法華経是なり」と仰せであります。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味であります。この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのであります。ゆえに、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の存り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となるのであります。ゆえに、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたいと思います。一昨年、発表された第三代会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理をふまえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものでありますが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もありました。これについては、第三代会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行しましたのでご了承をお願い申し上げます。
人間革命は御書
◇問題資料
私は再び繰り返したい。「人間革命」は現代の御書である。「人間革命」を通して御書を拝読すると、大聖人の大精神がより鮮明に、私の心を打つ。更に御書を通して「人間革命」を読むと、学会精神が体内により強烈に脈打ってくる。御書から「人間革命」へ、そして「人間革命」から御書へと。この往復の中に、の揺がぬ確立があるのではなかろうか。「人間革命」はそのような一書である。大聖人との不可思議な血脈の相承がある。不思議な書といわざるをえない。 (「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
前進のNO204では大聖人の教えの真髄は御本尊と御書であるといっている。が、ここでは人間革命が御書であるとしています。それでは人間革命が大聖人の教えの真髄ということになりますが、そうお考えなのですか。
◇学会回答
「人間革命は現代の御書」という発言については、第三代会長もすでに明確にしているように、明らかに誤りであります。
帰命
◇問題資料
一、この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。(中略)妙法広布の大願に身命を削る戸田前会長と生死を共にしていくとの、生命の奥底からの深く厳しい決意にたった実践。これが山本伸一青年の「革命は死なり」という意味であった。 (「小説人間革命第3巻に学ぷ」聖教新聞49年11月8日付)
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一、まさしく、現代における、人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されていることから考えても、必然的にそうなるのである。 (「ひのくに」10号)
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一、戸田先生のとらえ方が、"希有の師"なのです。"希有の師という言葉が初めて出てきたのです。「希有の師への帰命」ということを、御義口伝をひっぱり出して読んだのです。いずれにしても、これはついていくというようなものではない。師弟不二だから、生命次元の問題だ、と。 (「潮流」第9号)
◇宗門質問
御義口伝における人と法は釈尊と法華経であるが、本宗では人とは文底本因妙の釈尊で、法とは御本尊であります。しかるに学会では帰命する人とは戸田会長であり、また池田会長であるというのは、まさに戸田・池田会長が人の仏となります。戸田・池田会長に南無し皆に拝ませるというのですか。また「大聖人の御書を寸分たがわずに身に移し、実践きれている」との言も行き過ぎであると思います。
◇学会回答
「帰命」という言葉は、正宗では仏に対してのみ使う言葉であります。当初は「妙法への帰命」を大前提として「師への帰命」といっておりましたが、それが一部で「人への帰命」といった表現にまでエスカレートして、会長が本仏であるかのような使われ方がなされました、これは誤りであり、帰命という言葉を安直に使用しては絶対にならないものであります。なお「ひのくに」については「会長が久遠の師」とか「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」「大聖人の御書を寸分たがわず身に移し実践されている」等の趣旨の、かなり逸脱の部分があったので、すでに廃刊処分にしました。
大導師
◇問題資料
御書「今日蓮等の類いは善の導師なり」(御書全集721P)とあるごとく、別しては日蓮大聖人こそ末法の大導師であられるが、総じて民衆を幸福へと指し導いていく指導者こそ、この「導師」「大導師」の今日的な謂でもあると明示。さまざまな世界の指導者のなかにあって、牧口初代会長こそ、真実の成仏即幸福の道を指し示し、広宣流布の大願へ民衆を導いていった指導者であり、大導師であると論じた。 (池田会長指導聖教新聞52年6月2日付)
◇宗門質問
大導師に関して総別を立てていますが、宗門では総別ともに大導師とは大聖人と血脈付法の日興上人等であります。
◇学会回答
「大導師」という表現を使ったこともありました。御書に「日蓮等の類いは善の導師なり」とありますように、仏法弘通の人は「導師」であります。ただし「大導師」という言葉は正宗では総別ともに、大聖人と血脈付法の日興上人等であられます。ゆえに今後、たとえば初代会長を大導師と呼ぷような表現は使わないようにしてまいります。
主師親三徳
◇問題資料
主徳-----眷属を守る力。現在でいえば、社会それ自体。しかし民衆の犠牲のうえで成り立っている主徳を失った社会もあり、その民衆は不幸です。真に人々を根底から幸福にするには、妙法を根底とした社会以外にない。全日本を、そして世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。
師徳-----眷属を指導する力。師とは、知識を教えるのみでなく、智慧を開かせてあげる者でなければならない。現代の教育は、知識に終始した師徳なき姿である。以信代慧の妙法によらねば、真実の師徳はありえない。私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。
親徳-----眷属を慈愛する力。親の愛は、相対的であり、子の発展をさまたげる場合がある。身命を惜しまず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ親徳兼備でいらっしゃる。 (「講師筆記試験答案」から大白蓮華41年2月号)
◇宗門質問
日蓮正宗で主師親三徳のお方は日蓮大聖人お一人であります。
◇学会回答
十数年前に、ある教学部講師が、筆記試験に際し、主師親三徳を現代生活のうえから説明するにあたって、第三代会長と結びつけた表現のものがありましたが、これら行き過ぎについて、今後十分注意してまりいます。
久遠の師
◇問題資料
この決意に対して、ただ今拝読されましたごとく、久遠の師・池田会長より、メッセージが寄せられたのであります。 (「ひのくに」11号)
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師匠に人法があります。師匠の一つ一つの振る舞い、指導を通して師匠の偉大さを知りそして心から慕い心から尊敬し、更にもう一歩進んで、帰命していこうと決意するに至ります。それは"人"であります。その"人"としての師匠の振る舞いは一体いかなるものであるか、いかなるものから発せられるものであるか、それが"法"であります。まさしく、われわれの師弟の道はその人法一箇としての師匠というものを、学び取っていかねばならないと私は訴えておくものです。 (「ひのくに」11号)
◇宗門質問
文中「久遠の師池田会長」とありますが、本宗で久遠の師とは大聖人のことであります。故に池田会長が久遠の師なら池田会長は即ち大聖人ということですか?また本宗で帰命とは人法一箇の本門の本尊への帰命てすが、文中でいうように池田会長の振舞いが法であり、それに帰命するということは日蓮正宗の教えと全く違っているように思いますがいかがですか。
◇学会回答
第三代会長に関して「久遠の師」という言葉を使った場合がありますが、これは師弟の縁が深いことを述べようとするあまり行き過ぎた表現でありました。正宗では久遠の師とは大聖人のことであり、今後、こういう表現を用いないことにします。
また「会長の振る舞いが法でありそれに帰命する」といった表現も、帰命の質問に対する答えの中で述べた通り、明らかな逸脱であります。
本門弘通の大導師
◇問題資料
池田先生こそ本門弘通の大導師であります。私達は、かかる希有の師と会うことのできた幸運をかみしめると同時に、必ず師の心にかなう弟子として生涯を貫き、学会総体に久遠元初の生命活動を確立し、広宣流布達成を決意するものであります。 (文集「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
本門弘通の大導師とは大聖人日興上人であり、ここに日蓮正宗の血脈の意義があります。学会では池田会長がそうだというのですか、もしそうなら日蓮正宗とは全く異質となります。また「学会総体に久遠元初の生命活動を確立し...」ということはどういう意味ですか。
◇学会回答
これらは明らかな誤りであります。基本的な考え方については、大導師の質間に対する答えの中に述べている通りです。
境智冥合
◇問題資料
昭和38年頃の夏季講習会で、八矢教授(現壮年部長、師範)より「生死一大事血脈抄」の講義を受けたとき、「生涯、池田先生と生死一大事血脈抄でいこう。池田先生と境智冥合できる人材になろう」と強く訴えられたことは、強く私の脳裏に焼きついて忘れられない。 (文集「教学と私」第一巻)
◇宗門質問
池田会長と境智冥合というなら、池田会長は仏ということになりますがそうなのですか?
◇学会回答
「境智冥合」とは、境とは御本尊であり、智とは信心であります。したがって、会長と呼吸を合わせることを境智冥合などと、安易に使ってはなりません。
寺院、会館混同
◇問題資料
いわゆる正宗の寺院は、授戒とか葬式とか法事などの儀式の場であります。社会のためとか、広宣流布とか、人間革命という御本仏直結の脈動の場は、もはや現代においては創価学会しかないのです。 (文集「女子部と私」)
◇宗門質問
正法をもって行う授戒、葬式、法事、結婚式等は衆生済度のための大切な行事であります。これを行っている寺院が広宣流布のため活動していないと、どうしていえるのですか。また学会の会館や研修所でも聞く処によると、法事や結婚式などをしているではありせんか。特に創価学会のみが広布の場として区別する必要がどこにあるのですか?
◇学会回答
正宗寺院においては正宗をもって授戒、葬式法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行っています。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識すべきであります。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎであります。
寺院軽視
◇問題資料
したがって、信心の血脈こそ大事なんです。われわれの次元に於いてはそれでいいんです。生死一大事血脈抄、その他の御書を拝読すれば全部それは明快である。形式は必要ない。 (池田会長「昭和52年元旦勤行あいさつ」)
◇宗門質問
「形式は必要ない」といわれているが世間の事でも形式は必要であります。結婚式でも葬式でもそれがなければ、人間生活における秩序が立ちません。従って寺院における各種法要、授戒、結婚式等の儀式が形式だから必要ないという考えは成立しません。
◇学会回答
寺院における法要・儀式についての考え方は宗門からの質問に対する答えの中で述べた通りであります。なお「形式は必要ない」と述べている点については、創価学会員の実践においては、特に広宣流布への使命感と情熱とが肝要であることを強調したものであり、言葉がたりませんでした。
供養(財務)
◇問題資料
更に、。この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと、前にもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が「維摩詰経」に記されております。(中略)つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります。 (池田会長講演「仏教史観を語る」大白蓮華52年3月号)
◇宗門質問
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく、仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外にない。在家はどこまでも資生産業にはげみ、仏に供養するべきであります。
◇学会回答
維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味であります。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえません。経文に応供とあるのは仏のことで供養を受ける資格かあるのは仏以外はないのであります。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改めます。
三宝
◇問題資料
▼仏法に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この「僧宝」が問題なのである。「僧宝」と言っても僧侶を意味するのではなく、社会のなかで実践し「法」を正しく伝持する人々のことである
▼(中略)今日における「僧宝」つまり仏法実践の組織としては創価学会があるのであり、その組織こそ、仏法を厳しき人間の打ち合いのなかで実践している「和合僧」なのである。 (聖教新聞「名字の言」49年5月27日付)
◇宗門質問
日蓮正宗でいう三宝は法宝御本尊。仏宝大聖人。僧宝日興上人であります。正法を伝持してきた僧を僧宝ということは当然であります。又七百年来学会では「僧宝といっても僧侶を意味するものでない」として、日蓮正宗の三宝のたて方を無視し、自分達創価学会が僧宝であるというが、これは日蓮正宗の法義からは大変な逸脱だと思いますがいかがでしょう。これについて再度学会の意見をお聞かせ下さい。
◇学会回答
「僧宝」とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また第三代会長も発言しておられるごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられます。従ってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては絶対に混同するようなことがあってはなりません。また広義においても、学会を「僧宝」という言い方をしてはならないことであります。
僧俗
◇問題資料
しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていくのであります。在家の供養で支えられた僧院の中で、学問的に語られるにすぎないものとなっていったことは、皆さんもよくご承知のことでしょう。
(中略)これによると、在家はもっぱら唱題に励み、供養し、そのうえ、力にしたがって仏法を語るべきであるとされているのであります。僧侶がもっぱら折伏に徹し、三類の敵人と戦い、広宣流布するのに対して、在家は自身の成仏のため唱題し側面から僧侶を応援する立場である。その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果しているといえましょう。(中略)私ども学会員は、形は在俗であろうとも、その精神においては出世間の使命感をもって誇りも高く...。 (池田会長講演「仏教史観を語る」聖教新聞52年1月17日付)
◇宗門質問
この文では「在家の供養で支えられる僧院」と言いながら前に在家も供養を受けてよいと言うのは、何か話しがチグハグなようです。このように一連の出家仏教を否定する表現から考えると創価学会では在家仏教を立てる方針なのですか?
文中「その本義に立てば現代において創価学会は在家出家の両方に通ずる役割を果してる...、私ども学会員は形は在俗であろうともその精神においては出世間の使命感をもって誇りも高く云々」とあるが、このことは結局学会幹部もみずから有髪の僧侶たることを認めているようであります。
つまり創価学会は今の僧侶は駄目だとして自分の方の在家教団でやって行くという考えのように思われます。もしそうでないといわれるならば、日蓮正宗には七百年来僧侶が存在しているのですから、その意義を充分にわきまえたかたちでの発言をなすべきであると思いますがいかがですか。
◇学会回答
一昨年の1月15日の第九回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものであります。今日、これだけの在家集団ができあがったことは、仏法史上、画期的なことであります。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾であります。そうした考えはもとよりありません。