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    弁殿御消息 文永一二年三月一〇日  五四歳

出筆の経緯:大聖人はこの消息を記された丁度三ヶ月後の六月十日に、御書五大部の中で最も長文の全五巻百十紙の『撰時抄』を書き上げておられます。
恐らく本消息はそのための資料として、天台の法華玄義六の本末(全て)、法華文句十、その他の疏(しょ)等を身延の草庵に持参するよう弁殿(のちの六老僧の一人日昭)に依頼した書であると思われます。
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日蓮聖人が他所にいる日昭上人に、三月一〇日付けにて書籍を借覧したいと伝えた手紙です。『対照録』は文永一二年としており、身延に入られて約一年後となります。池上本門寺に真蹟二紙が所蔵されています。

日昭上人に、天台僧で内供奉十禅師に加えられた千観(九一九〜九八四年)の、内供『五味義』と『盂蘭盆経疏』、『法華玄義』六の本末を、持参してほしいとお願いしています。また、『法華文句』の十を少輔殿に借りてほしいと、書籍の差配を指示しています。千観は浄土教の信奉者で『十願発心記』を著し、源信の『往生要集』に引用されています。この書籍の収集からうかがえることは、天台大師講が盛んにおこなわれ教団が大きくなっていたということです。しかし、幕府内に信徒がふえることは、反勢力者たちや幕府の危惧することとなっていました。

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千観内供(せんかんないぐ内供 宮中の内道場に奉仕する僧官の略称で、「内供奉(ないぐぶ)」の略)の五味義、盂蘭経の疏(しょ)、玄義六の本末、御随身有るべし。文句十、少輔殿へ御借用有るべし。恐々謹言。
三月十日            日  蓮 花押 
弁 殿

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「五味義」とは、天台の「論義」における「義科」+六題の一 つであり、「即身成仏義」もまた、その一っに当たる。
このように、「義科」に対応した千観の著述『五味義」を実際に日 蓮が読んでいるのであれば、同じく「義科」に対応した千観の著述である『即身成仏義私記』にも、日蓮の読書が及んで いた可能性は高い、といわねばなるまい。
もとより、千観自身、「龍宮・無垢界」の「二処に於て倶に即身成仏す」とい うこの説が「先徳」の義であると述べている以上、千観より前にこの説を唱えていた者がいた可能性は否定できない。
そ れでは、その「先徳」が誰なのかということについては、今のところ特定されているとはいえないのであるが、それにし ても、「龍女成仏」の理解において、千観の採用した系譜と日蓮とが直接的に結びついてくる可能性は十分にある、とい えるであろう。
ただし、千観(九一八?ー九八――-?)と日蓮(―ニ――――ー―二八二)との間に時代的な開きが相当あるこ とにも、やはり留意する必要がある。
千観と日蓮とを直接的に結びつける以外にも、千観と日蓮との間に、千観の見解を (15) うけた注釈書・論義書が介在する可能性を、決して排除するべきでないことは明言しておきたい。
以上みてきたことは、日蓮における「龍女成仏」理解の特徴〈――-〉についてもそのまま当てはまる。特徴の〈――-〉とま さに合致する事柄を、千観は端的に次のように述べている。 [-――六] 問ふ。龍女成仏の所依の身、これ男子なるや、これ女身

千観(読み)せんかん

朝日日本歴史人物事典 「千観」の解説

千観

没年:永観1.12.13(984.1.18)
生年延喜18(918)
平安中期の天台宗の僧。橘敏貞の子。浄土教の民衆布教のため『阿弥陀和讃』を作り,応和3(963)年,宮中清涼殿で行われた南都・北嶺高僧による応和宗論に選ばれたが,これを固辞したことなどで有名。はじめ運昭に師事して顕密の学を学び,やがて摂津国箕面(大阪府箕面市)に隠遁して学問と往生行に専念し,さらに同国島上(高槻市)金竜寺に移住し,天禄1(970)年,行誉に三部大法を受けた。彼は,念誦読経を怠らぬこと,専ら興法利生,往生極楽を願うべきこと,戒律を護るべきことなど8カ条から成る制戒や『十願発心記』を著し,都鄙の老若男女が愛唱したという上記の『和讃』を作って上下に浄土教を広めたが,自身も往生極楽の夢想を得,没後は,彼を師と仰ぐ権中納言藤原敦忠の娘の夢に現れ,極楽往生の様を示したという。<参考文献>井上光貞『日本浄土教成立史の研究

(小原仁)