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立正観抄送状 文永一二年二月二八日 五四歳
今度の御使ひ誠に御志の程顕はれ候ひ了んぬ。
又種々の御志慥(たし)かに給(た)び候ひ了んぬ。
抑(そもそも)承り候当世の天台宗等、止観(しかん)は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心(かんじん)の大教興(おこ)る時は本迹(ほんじゃく)の大教を捨つと云ふ事。
先づ天台一宗に於て流々各別なりと雖も、慧心(えしん)慧心(えしん)
(九四二年〜一〇一七年)。恵心のこと。慈慧大師良源の弟子。天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡に生まれ、九歳で比叡山に登り、十三歳で得度し源信と名のった。以後、横川(よかわ)の恵心院に止住。権少僧都(ごんのしょうそうず)という位を与えられたため、恵心僧都と通称される。四十四歳のときに著した往生要集は、後年、法然が浄土信仰に入る動機の書ともなっている。元来、恵心の本意は、爾前の念仏の利益と法華経の一念信解(いちねんしんげ)の功徳を較べて、一念信解のほうが念仏三昧より百万倍もすぐれると結論するためのものであったが、往生要集は、念仏臭が強かったのである。このことに気づいた恵心は、六十五歳のときに一乗要決を著して、法華最勝の深義を論じている。以後、弟子の訓育と著述に努め、天台の観心の法門を宣揚した。行年七十六歳。・檀那(だんな)檀那(だんな)
(九五三年〜一〇〇七年)。覚運(かくうん)のこと。慈慧大師良源の弟子。天台宗檀那流の祖。京都に藤原貞雅(さだまさ)の子として生まれ、池上の皇慶(こうけい)について受戒し、比叡山東塔南谷の檀那院に止住。檀那僧都と呼ばれた。天台の始覚教相の法門を伝えた学匠。天台教学の双璧として恵心と並び称された。著作は「玄義鈔」など。行年五十五歳。没後、権僧正を追贈された。の両流を出でず候なり。
慧心流の義に云はく、止観の一部は本迹二門に亘(わた)るなり。止観の一部は本迹二門に亘るなり
文永八年(一二七一年)御述作の十章抄には「但止観は迹門より出(いで)たり・本門より出たり・本迹に亘(わた)ると申す三つの義いにしえ(古)より・これあり」(一二七三n)とあるように、止観が迹門から生まれたものか、本門から生まれたものか、あるいは本迹二門にわたっているものである、との説を比叡山で遊学された大聖人は聞かれていた。このうち、止観が本迹二門にわたるというのは慧心流の説であるとされている。
謂(い)はく、止観止観
摩訶止観のこと。天台大師智(ちぎ)が隋の開皇十四年(五九四年)四月二十六日から一夏(げ)九旬(じゅん)にわたって荊州(けいしゅう)玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂(かんじょう)が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を止観≠ニして詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の摩訶≠ェつけられている。止≠ニは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを観≠ニいう。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として@大意、A釈名(しゃくみょう)、B体相、C摂法(しょうほう)、D偏円、E方便、F正修、G果報、H起教、I旨帰(しき)、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、F正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。の六に云はく
「観は仏知に名づけ、止は仏見に名づく。念々の中に於て止観現前す。乃至三乗の近執(ごんしゅう)三乗の近執(ごんしゅう)
三乗の衆生が始成正覚に執着すること。「三乗」は仏弟子のうち、声聞・縁覚・菩薩の三乗をいう。「近執」は近成(ごんじょう)に執するの意で、釈尊がインドに応誕して三十歳で初めて成道したと執着すること。を除く」文。
弘決(ぐけつ)の五に云はく「十法既に是(これ)法華の所乗(しょじょう)なり。是の故に還って法華の文を用ひて歎ず。
若し迹に約して説かば、即ち大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)の時
法華経化城喩品第七に説かれる大通智勝仏が、三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いた時をいう。劫を大相、国を好成(こうじょう)といい、十六人の王子がいた。魔軍を破し終わった後、十小劫じっと坐ってついに悟りを得た。成道後、十六王子や諸梵天王の請いによって四諦・十二因縁の法を説き、十六王子もまた出家した。更に二万劫を経て十六王子の請いによって法華経を説いた。その後八千劫の間、法華経を説いたが、十六王子と少数の声聞以外はだれも信解せず、ついに静室に入り、八万四千劫の間、禅定に住した。その間、十六王子はそれぞれの場所で広く法華経を説き、おのおの六百万憶那由他恒河沙等の衆生を成仏させた。これを大通覆講(ふこう)といい、この時、法を聞いた衆生を大通結縁の衆という。大通智勝仏は八万四千劫の禅定の後、法座に登って十六王子の法を信受した者は成仏すると説いた。この十六王子の九番目の王子が阿弥陀仏、第十六番目が釈尊である。
)の時を指して以て積劫(しゃっこう)と為(な)し、寂滅(じゃくめつ)道場寂滅道場
寂滅は覚りの境地。道場は覚りを得る場所。釈尊が今世ではじめて覚りを開いた、伽耶城(ガヤー)の菩提樹の下のこと。華厳経が説かれた所としても知られる。を以て妙悟と為す。
若し本門に約せば、我本行菩薩道(がほんぎょうぼさつどう)我本行菩薩道(がほんぎょうぼさつどう)
法華経如来寿量品第十六の文。「我れは本(も)と菩薩の道(どう)を行じて」(『妙法蓮華経並開結』四八二n 創価学会刊)と読み下す。この文の前後で釈尊は、自身が久遠実成という本来の境地を明かした後でも、もともと菩薩道を実践して、成就した寿命は今なお尽きていないと述べている。これは、釈尊の一身の生命において、仏界の境地が常住であるとともに、九界の境地も常住であることを示している。天台大師智は法華玄義巻七上に「文に云わく、『我本、菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命、今猶(な)お未だ尽きず』とは、即ちこれ本の行因妙なり」と述べて、我本行菩薩道を本因妙の文としている。の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。
本迹二門は只(ただ)是(これ)此の十法を求悟(ぐご)す」文。
始めの一文は本門に限ると見えたり。
次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。止観は本迹に亘ると云ふ事、文証此(これ)に依るなりと云へり。
次に檀那流に止観は迹門に限ると云ふ証拠は、
弘決の三に云はく
「還って教味を借りて以て妙円を顕はす。故に知んぬ、一部の文共に円乗(えんじょう)の開権(かいごん)妙観(みょうかん)を成ず」文。
講義
初めに、大聖人御在世当時の叡山天台宗にはさまざまな流派があって、それぞれが別々の見解を立てて論議しあっていたが、根本的には慧心流と檀那流の二流に収まることが明かされ、次いで、その両流の義を紹介されている。
初めに慧心流の義は、天台大師の摩訶止観は法華経の本迹二門にわたっている、ということであると仰せられている。彼らがそのために用いている文証として、摩訶止観巻六の文と止観輔行伝弘決巻五の文とを引用されている。
次に、檀那流の義は、止観の出処は法華経迹門の教えに限る、とするところにあると仰せられ、その文証としているのが止観輔行伝弘決巻三の文であるとして示されている。
以上に明らかなように、慧心、檀那両流のあいだには、主張の異なりはあっても、いずれも止観が法華経の本迹二門の教えに基づいて立てられた修行である、とする点では共通している、とおおせられている。
慧心流と檀那流について
比叡山延暦寺の第十八代座主・慈慧大師良源(九一二年〜九八五年)の弟子に、慧心僧都源信(九四二年〜一〇一七年)と、檀那院覚運(九五三年〜一〇〇七年)の二人が出て、それぞれが慧心流、檀那流の祖となった。
伝説によれば、伝教大師最澄が入唐したとき、天台山で行満からは本迹二門の教相を、道邃(どうずい)からは天台大師内証の止観をそれぞれ相承したとされている。
本迹二門の教相は宗教(文や言葉による教え)とも顕説法華(仏の根本的立場を明らかに説き顕した法華経)ともいい、これはまた六識修行、従因至果の始成正覚とされる。これを継承したのが檀那院覚運で、その流れが檀那流となるのである。
これに対し、天台大師の内証の止観は宗旨(文や言葉を超えた悟りの内容を扱うもの)とも根本法華(三乗に分けて説く以前の仏の根本的立場をさし、一仏乗ともいう)ともいい、また九識修行、従果向因の本覚法門とされる。これを継承したのが慧心僧都源信で慧心流となる。
日蓮大聖人は、文永九年(一二七二年)五月にあらわされた四条金吾殿御返事で、「第十八代の座主・慈慧大師なり御弟子あまたあり、其の中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜(ぜんゆ)等と申して四人まします、法門又二つに分れたり、檀那僧正は教を伝ふ、慧心僧都は観をまなぶ、されば教と観とは日月のごとし教はあさく観はふかし、されば檀那の法門は・ひろくして・あさし、慧心の法門は・せばくして・ふかし」(一一一六n)と仰せられている。ここで、日蓮大聖人は、教相を継承した檀那流について、「ひろくして・あさし」と評され、天台大師の内証の止観を継承した慧心流について、「せばくして・ふかし」と評されている。
しかし、「教と観とは日月の如し」と仰せられているように、教は浅く観は深い、ということはあっても、両者は本来天台宗においては教観双美とも称されるごとく、日月、車の両輪、鳥の両翼の関係にあって優劣を論ずるものではなかった。したがって、教観双美を前提にしつつ、慧心流は止観を主として継承し、檀那流は本迹の教相を継承した、というのが真実のところであったように思われる。そのことは本送状の以下の展開を拝していくとき、おのずから明瞭となるであろう。
慧心流の義に云く止観の一部は本迹二門に亘るなり……文証此に依るなりと云えり
慧心流が天台大師の摩訶止観は法華経の本迹二門の教えに基づくとする主張のよりどころとした文証を挙げられている。
初めに「止観の六に云く」の文は「観は仏知と名づく。止は仏見と名づく。念念の中に於いて止観現前す」とある止観巻六下の文と、止観輔行伝弘決巻六の四からの取意と思われる「三乗の近執(ごんしゅう)を除く」の文とが合成されたものである。
すなわち、止観巻六の文(「立正観抄」第十一章の講義参照)に対する妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六の四の釈文が、慧心流の義の文証とされていたのである。
さて、その止観輔行伝弘決巻六の四の文をいま引用してみよう。
「凡(およ)そ一念起こるに我を離れず。我は即ち衆生なり。念念の心を違するに寂にして照らす。寂なるが故に止と名づけ、照らすが故に観と名づく。一心既に爾(しか)り。諸心例して然る。止観を因と為し、眼智を果と為す。一一の念の中、止観の眼智に非ざること無きが故なり。何ぞ必ずしも初住を方に開と名づけんや。三乗を開するが如きは但是れ彼の近執の謂を開く。謂は即ち衆生なり。亦是れ謂情の寂照を点示するに即ち是れ三乗の仏知見を開く」とある。
ここでは、止観を因として眼智を果としている。つまり、己の念々の心を対象化して観ずる修行を因として、その修行の結果、顕現してくる眼智を果とするのである。
更に、摩訶止観で「念念の中に於いて止観眼前す。即ち是れ衆生が仏知見を開くなり」とある文の「仏知見を開く」という句を釈して「何ぞ必ずしも初住を方に開と名づけんや。三乗を開するが如きは但是れ彼の近執の謂を開く」と説いている。この釈文から大聖人は意を取られて本文で「三乗の近執を除く」と引用されたと考えられる。
すなわち、衆生が仏知見を開くということは、三乗の衆生が「近執」(釈尊が今生に応誕し修行して仏陀となった、という始成正覚への執着)の情を除き開くことにあるということで、仏陀の始成正覚に対する衆生の執著を破り除くことこそ法華経の本門の教えの眼目であり、このことから止観は法華経の本門の教えに基づいて立てられたということになるのである。
次の引用文は同じく止観輔行伝弘決巻五の二の文である。
これは摩訶止観巻五において十乗観法の名目を述べた後、この観法が縦横に収束し微妙で精巧な法門であるとするとともに「如来の積劫(しゃっこう)の勤求(ごんぐ)する所に由る、道場の妙悟する所」と説いている。
すなわち、十乗観法は如来が何劫も修行を積み重ね勤求したところ(因)であり、またその結果、菩提道場で悟ったところ(果)である、ということである。
この文を釈して弘決では、まず「十法既に是れ法華の所乗なり。是の故に還って法華の文を用いて嘆ず(止観の十乗観法の十法は既に法華経の教理=能乗=に依って立てたところの所乗であるから、十法を賛嘆するのに、かえって法華経の文をもってするのである)と述べ、その後に引用文の内容にあるように、如来が「積劫」して修行した時と、その結果として「妙悟」した時とが、法華経の迹門の教説に約す場合と本門の教説に約す場合とでは、それぞれ異なることを述べている。
すなわち、迹説(迹門の教説)に約すと、大通智勝仏の時が「積劫」して修行した因にあたり、菩提樹下の寂滅菩提道場の妙悟した時が果となる。
これに対して、本門の教説に約すと、如来寿量品第十六の「我本行菩薩道(我れは本(も)と菩薩の道(どう)を行じて)」(『妙法蓮華経並開結』四八二n 創価学会刊)が因としての「積劫」にあたり、「本成仏」すなわち久遠五百塵点劫の成道が「妙悟」すなわち果にあたる。
このように時≠フ違いはあるが、いずれも十乗観法の因(求)と果(悟)であって、十乗観法の止観は本迹にわたる、というのである。そこから慧心流は、これを止観一部は法華経の本迹二門に基づいて立てられた≠ニの義の文証としたのである。
次に檀那流には止観は迹門に限ると云う証拠は……文に在りて分明なり
それに対して檀那流は、止観の出処については慧心流よりはるかに厳密で、止観の出処は迹門に限る、と限定して釈している。彼らは弘決巻三の一の文を文証としたのである。
その引用文の意味内容は、止観は法華経の立場から還って「教味」(四教五味)を借りて「妙円」(法華経の不思議円頓)をあらわしたものである、したがって止観一部は法華の円頓一仏乗に依り、開権顕実(権を開いて実を顕す)の妙観を成就するためにある、というものである。
此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云ふ事、文に在って分明なり。
両流の異義替はれども倶(とも)に本迹を出でず。
当世の天台宗何(いず)くより相承して止観は法華経に勝ると云ふや。
但予が所存は止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。
若し与へて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉(ぶんざい)に似たり。
其の故は天台大師の己証(こしょう)とは、十徳
十徳 章安大師灌頂が法華玄義の私記縁起で天台大師の十徳を挙げている。
すなわち、
第一・自解仏乗。師匠から講義を受けずに、自ら法華一乗の機を悟ったこと。
第二・得陀羅尼。南岳大師慧思のもとで法華三昧を開悟し、禅定に入って陀羅尼を得たこと。
第三・帝京弘二法。定慧を具えたうえに、帝京(金陵)で定慧の二法を弘めたこと。
第四・隠居山谷。盛んに講説を行ったが、後に名利を捨て修行のために天台山に隠居したこと。
第五・為二国師。世を避けて隠遁していたが、召されて陳隋二国の師となったこと。
第六・講仁王般若。陳朝の正殿で天子に対して仁王般若を講義したこと。
第七・為主上三礼。正殿で講義したうえに天子に親しく三度も礼されたこと。
第八・弾指喧殿。天子をはじめ殿内の多くの高官も称美賛嘆したこと。
第九・玄悟法華円意。五時あるいは五味の教判によって法華の玄意を定め、法華は諸教を開会して純円一実とする円融円満な教えであることを悟ったこと。
第十・楽説弁流潟。法華経の本意を得て楽説弁(菩薩が楽しんで法を説くこと)をもって早瀬に水が昼夜に流れて尽きないように法を弘め伝えたこと。
の中の第一は自解仏乗(じげぶつじょう)、第九は玄悟法華円意(げんごほっけえんい)なり。
霊応伝(れいおうでん
霊応伝 十巻。伝教大師編。天台霊応図本伝集の略。天台霊応伝などともいう。「霊応」は霊験ともいい、仏に祈り、経を受持することによって現れる験。伝教大師が入唐中に、天台の霊応図を模写して集めたもので、図像に説明や諸人の述作が添えられている。現存するのは二巻。
)の第四に云はく「法華の行を受けて二七(にしち)日境界(きょうがい)す」文。
止観の一に云はく「此の止観は天台智者、己心中所行の法門を説く」文。
弘決の五に云はく「故に止観の正(まさ)しく観法を明かすに至って、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云はく、説己心中所行法門(せっこしんちゅうしょぎょうほうもん)」文。
己心所行の法門とは一念三千・一心三観(さんがん)なり。
三諦止観の名義(みょうぎ)は瓔珞(ようらく
瓔珞 瓔珞経のこと。正しくは菩薩瓔珞本業経という。後秦(姚秦)の竺仏念訳。八品からなり、菩薩の本業を説いたもの。菩薩の五十二位や十無尽戒(梵網経の十重禁戒と同義)などが説かれている。天台大師は、瓔珞経には五十二位の名義がそろっており、菩薩の行位の最も具備したものであるとした。
)・仁王(にんのう仁王経のこと。二巻八品。鳩摩羅什訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、不空訳の「仁王護国般若波羅蜜多経」がある。五時八教のうち般若部の結経であり、わが国では法華経・金光明経と合わせて護国三部経と称され、鎮護国家の経とされた。内容は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政治を行なえば、三災七難が起こらず、万民豊楽、国土安穏となると説かれる。また正法が滅して思想が乱れる時に正法誹謗の悪業によって起こる七難を示し、この難を逃れる行法として五忍(伏忍・信忍・順忍・無生忍・寂滅忍)を説いている。 )の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門の十如実相の文を依文として釈成し給ひ了んぬ。
爰(ここ)に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云ふ事を。天台大師の一念三千の法門は法華経迹門方便品第二の十如実相の文を依文として立てた法門であるから、説かれている法理が迹門の内容に似ているとの意。
若し奪って之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教別教
化法の四教、すなわち釈尊の一代の教えをその内容によって四種(蔵教・通教・別教・円教)に分類した天台宗の教判のうちの一つ。前の蔵教・通教とも後の円教とも別なので別教という。界外の事である菩薩の歴劫修行の様相を明かし、空仮中の三諦のそれぞれが但空・但仮・但中であるという隔歴(きゃくりゃく)の三諦を説く。二乗を除いて特別に菩薩のために説かれる。
の分斉なり。
其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。
所謂天台大師、大蘇(だいそ)の普賢(ふげん)道場
大蘇(だいそ)の普賢道場
中国・光州(河南省商城県)の大蘇山において天台大師智(ちぎ)に、師の南岳大師慧思(えし)が示した、賢菩薩勧発品第二十八、および法華経の結経である観普賢菩薩行法経をもとにした修行のこと。道場には@仏の成道の場所、A仏道を成ずるための修行、B仏道を修する場所、などの意があるが、ここではAの意。隋天台智者大師別伝によると、天台大師が陳の天嘉元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師を訪れた。南岳大師は初めて天台大師と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来(またきた)る」と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳大師は天台大師に普賢道場を示し、安楽行品第十四に基づく四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。天台は大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五n 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。
に於て三昧(さんまい)を開発(かいほつ)し、証を以て師に白(もう)す。
師に白(もう)す
「師」とは南岳大師慧思(えし)(五一五年〜五七七年)のこと。中国・南北朝時代の北斉の僧。天台大師智(ちぎ)の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文(えもん)のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山(こうざん)を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、「立誓願文」(五五八年、大蘇山にて)を著した。この立誓願文には正法五百年、像法一千年、末法一万年の三時説にたち、自身は末法の八十二年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著「法華経安楽行義」では、法華経安楽行品第十四に基づく法華三昧を提唱した。「白す」は「もうす。のべる。上へ向かって意見を陳述する」の意。
師の曰く、法華の前方便陀羅尼(ぜんほうべんだらに)なりと。
法華の前方便(ぜんほうべん)陀羅尼
天台大師が証得した禅定の世界とは法華三昧の前段階であって、法華三昧そのものではなく、初旋陀羅尼であったことをいう。「前方便」は五十二位の十信以前の五品弟子位をさす。「陀羅尼」は総持の意味で、すべての仏の教えを深く心に記憶して忘れず、悪法を生じさせない能力のこと。
霊応伝の第四に云はく「智・(ちぎ)・師に代はって金字経(こんじきょう金字経(こんじきょう)
南岳大師が造った金字の経典(金粉を膠(にかわ)でといた金泥で書かれた経典)で、大品般若経をさしている。章安大師の隋天台智者大師別伝には「思師(=南岳大師)、金字の大品経を造り」とある。
)を講ず。
一心具足(ぐそく)万行の処に至って、・(ぎ)、疑ひ有り。
思(し)、為に釈して曰く、汝が疑ふ所は此(これ)乃(すなわ)ち大品
大品(だいぼん)
大品般若経のこと。般若経の漢訳には大小多数あるが、このうちもっとも大なるものを「大品般若」と名付けた。大品般若では玄奘訳の「大般若波羅蜜多経」六百巻が最大で、それ以前は鳩摩羅什訳の「摩訶般若波羅蜜経」二十七巻または三十巻を主にしていた。
次第の意次第の意
次第行の意のこと。大品経では、乾慧地(けんねじ)などの十地を次第に行じて、次第に学ぶ次第道が説かれている。したがって、「一心具足万行」とはいっても、法華経の説く一心具足万行とは、全く異なるのである。
なるのみ。
未だ是(これ)法華円頓(えんどん)の旨(むね)にあらざるなり」文。
霊応伝(りょうおうでん)の第四に云く「智……あらざるなり」
あるとき、師の南岳大師に代わって大品般若経を講義していた天台大師が、疑問にぶつかったことをいう。
それは、この一心具足品の直前にある「次第学品」に、乾慧地などの十地を次第に行ずるなどの次第道が説かれているのに、この品で一心に万行を具足するとあったからである。
これに対して、南岳大師は大品般若経に一心具足とあっても、それはあくまでも大品般若経に説かれる次第の意に解釈すべきであり、法華円頓の意ではない、と述べたことをいう。
講ずる所の経、既に権大乗経なり。又「次第」と云へり、故に別教なり。
開発せし陀羅尼、又法華の前方便と云へり。
故に知んぬ、爾前帯権(たいごん)の経爾前帯権(にぜんたいごん)の経
爾前であり、権を帯びている経のこと。止観一部は円教の法門であるが、その依拠となる経典が、仏の本地の明かされていない大品般若経等の爾前帯権の経であるから、奪っていえば、止観そのものも爾前帯権の教えとなってしまうのである。
は別教の分斉なりと云ふ事を。
己証(こしょう)既に前方便の陀羅尼なり。止観とは「説己心中所行法門」と云ふが故に。
明らかに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云ふ事を。何(いか)に況んや本門をや。
通解
もし、奪ってこれを論ずるならば、止観は爾前の権大乗経、つまり別教の分斉である。その理由は、天台大師が己心に証得した止観とは、普賢道場で証得した悟りである。
天台大師が、大蘇山の普賢道場で三昧の境地を開いて証得した悟りを、師の南岳大師に申し上げたところ、南岳大師は「その証得した悟りは、法華三昧の前方便にあたる陀羅尼である」といわれているからである。
このことを、天台霊応図本伝集の巻四には「天台大師智が南岳大師に代わって金字の大品般若経を講じた。そのとき、『一心具足万行』のところに至って、智に疑問があった。南岳大師慧思はそのために釈して『なんじの疑問のところは、大品般若経の次第行の意なのである。これは未だ法華経の円頓の意味ではない』と述べた」とある。
講義した経典が既に権大乗経である。また「次第行」といっているのだから別教である。開悟した陀羅尼は、また法華経の前方便であるといっている。ゆえに、爾前の権教を帯びた経や別教の内容であるということが明らかである。
己心に証得した悟りが既に前方便の陀羅尼であり、止観は己心の中に行ずる法門を説いたものであるというのだから、止観は法華経の迹門に及ばない。まして法華経の本門に及ばないことを明らかに知ることができるのである。
若し此の意を得ば檀那流の義尤(もっと)も吉(よ)きなり。
此等の趣(おもむ)きを以て止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有るべく候か。
委細の旨は別に一巻書き進(まい)らせ候なり。
又日蓮相承の法門血脈、慥(たし)かに之を註(ちゅう)し奉る。恐々謹言。
二月二十八日 日 蓮 花押
最蓮房御返事
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講義
止観は、与えていえば法華経の迹門の領域であるが、奪っていえば、爾前、権大乗教の別教でしかない、と破折されている。
その理由について日蓮大聖人は、天台大師の己心の証悟とは、大蘇山での開悟であるが、この天台大師の開悟について、師の南岳大師は法華前方便であると述べたことが、文証としてあることを示されるのである。
すなわち、天台大師が大蘇山での普賢道場において法華三昧を開いて証悟したのであるが、そのことを師匠である南岳大師に告げたところ、師は智の証悟が法華経の前方便陀羅尼である、と判断したという。
また、霊応伝巻四に伝えられるところでは、智が師・南岳大師に代わって金字の大品般若経を講義したときに、「一心に万行を具足す」という経文のところで疑いを起こした。
そのとき南岳大師は、その疑いに対して、それは大品般若経に説く次第差別、隔歴(きゃくりゃく)の法門の立場から「一心具足万行」の経文を読んでいないから分からないのであり、智の開悟が、まだまだ法華円頓の不次第の妙旨には到達していないからである、と述べたという。
このように、智の講義していた経典が大品般若経という権大乗経であり、智の疑いの原因が次第差別にとらわれていたことにある、とする南岳大師の判断や、更に大蘇開悟の己心の悟りの内容も、南岳大師が法華経の前方便の段階にすぎない、と判断したことなどから、日蓮大聖人は次のように結論されている。
すなわち、天台大師の止観は、天台大師の己心のなかで行じて悟った法門を説いたものであるが、その己心中の悟り(己証)が法華の前方便の陀羅尼にすぎないのであり、また大品般若経の次第、隔歴の法門にとらわれていたということから、結局、止観は法華経以前の権を帯びた別教の分斉である。
また、別教の分斉である以上、法華経の迹門に及ばないこというまでもなく、ましてや法華経本門に及ばないことは論ずるまでもない、と。
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所謂天台大師・大蘇の普賢道場に於て……師の曰く法華の前方便陀羅尼なりと
天台大師は二十三歳の時、北州・大蘇山で南岳大師慧思に出会ったが、そのとき、慧思は智に普賢道場を示し、四安楽行について説いたという。
普賢道場とは、法華経普賢菩薩勧発品第二十八および観普賢菩薩行法経に従って、散心のまま読誦して六根懺悔を有相行といわれるものであり、四安楽行とは法華経安楽行品第十四によって、禅定修行する無相行といわれるものである。
智はこの慧思の教えに従って、昼夜、法華三昧の行法に精進していたが、三七日(二十一日)の間に法華経二十八品を読誦し終わろうと決意し、修行に励んだ。
二七日を過ぎた頃、薬王菩薩本事品第二十三を読誦していたが、同品の
「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)
(其(そ)の中の諸仏は、同時に讃(ほ)めて言(のたま)わく、『善(よ)き哉(かな)、善き哉。善男子(ぜんなんし)よ。是(こ)れ真(しん)の精進(しょうじん)なり。是れを真の法もて如来を供養すと名づく)」(『妙法蓮華経並開結』五八五n 創価学会刊)という句に至って、突如として身心豁然(かつねん)となり入定し、証悟を得たのである。
このとき、南岳大師慧思は次のように語ったという。
「爾(なんじ)に非ずんば、証せず。我に非ずんば識(し)ること莫(なか)らん。所入の定は、法華三昧の前方便なり。所発の持は、初旋陀羅尼なり。
縦令(たとい)、文字の師、千群万象、汝が弁を尋ぬるも窮むべからず。説法の人の中に於いて、最も第一なり」(隋天台智者大師別伝)と。
すなわち、智の悟りの境地は、智でなければ悟ることができず、慧思でなければ判定できないものである。
智の入定した世界は法華三昧の前方便の境地であり、発したところの総持(陀羅尼)は初旋陀羅尼である、という意味である。
法華の前方便とは、法華三昧に至る前段階ということであり、智の大蘇山での開悟が未だ法華三昧の究極には到達していなかった、ということである。
また初旋陀羅尼とは、法華経の普賢菩薩勧発品第二十八に説く旋陀羅尼(せんだらに)、百千万億旋陀羅尼、法音方便陀羅尼の三種陀羅尼の最初の旋陀羅尼をさしている(法華経・六六九n)。
陀羅尼とは総持と漢訳し、仏の法の肝要を保持し、記憶して忘れない力をいい、またそのための呪句や呪文をもさす。
ここでは、呪文の意よりも、保持し記憶している法の力、の意をさしているといってよい。
法華経普賢菩薩勧発品第二十八によれば、仏滅後の五百歳濁悪世中において、もし法華経を読誦し思惟する者があれば、普賢菩薩は白象に乗ってその人の前に現れるであろう、そのときに法華経の修行者が普賢菩薩の身を見るをもってのゆえに、直ちに三昧および前述の三種の陀羅尼を得る、と説いている。
この三種の陀羅尼について智は、法華文句巻十下において
「(旋)陀羅尼は仮を旋(めぐら)して空に入るなり。百千旋(陀羅尼)とは、空を旋して仮に出づるなり。(法音)方便(陀羅尼)とは、二(ふたつ)を方便道と為し、中道第一義諦に入ることを得るなり」と説いている。
この意からすれば、旋陀羅尼は空観(従仮入空)、百千万億陀羅尼は仮観(従空入仮)、法音方便陀羅尼は中観(仮空一心)となる。
ここからも明らかなように、智が大蘇開悟で得た初旋陀羅尼とは、仮を旋(めぐら)して空に入る、いわゆる従仮入空の空観を獲得したということであるから、まさしく法華の中道実相観に入る前提であり、法華三昧の前方便なのである。
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霊応伝の第四に云く「智・師に代つて金字経を講ず……未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文
引用文は前述と同様、天台霊応図本伝集巻一の天台山国清寺智者大師別伝第二からの取意の文であり、今、この部分を紹介すると、次のとおりである。
すなわち、
「恩師、金字の大品を造り竟(おわ)り、自ら玄義を開き、命じて代わって講ぜしむ。
是れを以って、智は日月に方(たくら)べ、弁は懸河に類す。
巻舒(けんじょ)、称い会して理の存する有り。
唯、三三昧及び三観智のみ、用い以って諮(と)い審(つまび)らかにす。悉く、自ら裁す」と。
これと、本抄での引用文での内容とは、天台大師智が、師である南岳大師慧思から大品般若経の講義を代講するように命じられた、というところまでは同じであるが、智が疑問に思った内容についての記述が異なっている。
本抄の引用文では、大品般若経の「一心具足万行(一心に万行を具足す)」という経文に出会って疑いを抱いた、ということになっているのに対し、今の文では、三三昧と三観智についてのみ南岳大師慧思に尋ねたが、それ以外はすべて自分で裁断した、となっている。
三三昧とは空・無相・無願の三つの三昧のことであり、三観智とは、一切智、道種智、一切種智の三智にあたる。
この三観智と大品般若経との関連であるが、大品般若経巻二十三の一念品では、菩薩が般若波羅蜜を行ずるとき、一念のなかに三観の智、六波羅蜜、四禅、四正勤、四無量心、四無色定を具すなどと説き、要するに般若波羅蜜を行ずるとき、一念、一心に万行を具足することを説いているのである。
智は、一念品に至ったとき、何ゆえに一念や一心に万行を具足するのか、という疑問をもつに至ったという。
というのは、大品般若経の一念品の直前の品が「次第学品」であり、ここでは菩薩の十地の階梯を一つ一つ次第に行じて学んでいく次第道が説かれている。
にもかかわらず、次第道が説かれた直後の「一念品」で突然、「一念・一心に万行を具足する」と、次第行とは逆の道が説かれているのに疑問をもったとされている。
つまり、このときの智は未だ法華三昧に達しておらず、したがって次第差別、隔歴の考え方をしていたので、次第道を説いていない「一念品」の内容に疑問をもったといえる。