0766
    立正観抄 文永一二年二月  五四歳
立正観抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪中に起きた、他宗の僧らとの法論(塚原問答)を聞いて弟子となった、同じく流罪中の身だった最蓮房(天台宗の学僧)からの問いに答えた書となります。
その問いとは、当時の比叡山・天台宗が「天台の摩訶止観の修行は法華経に勝っているゆえに法華経を捨ててよい」という教義を打ち出した事に対し、「この教義ははたして正しいか否かについて御教示願う」という内容でした。
尚本抄の概要は次の通りです。
【立正観抄(りっしょうかんしょう】
■出筆時期:文永十二年二月(西暦1275年)、五十四歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵。※大聖人は前年に佐渡から鎌倉に帰還され、その後、身延山中に草庵を構えます。また最蓮房はこの年の末頃に赦免され京に戻ったと思われます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日蓮正宗第三祖・日目上人の弟子・日朝筆(日蓮正宗・富久成寺所蔵)


   日蓮選 
 法華止観(しかん)同異決

 当世(とうせい)天台の教法を習学するの輩、多く観心(かんじん)修行を貴んで法華本迹(ほんじゃく)二門を捨つと見えたり。
今問ふ、抑(そもそも)観心修行と言ふは天台大師の摩訶止観の説己心中所行法門(せっこしんちゅうしょぎょうほうもん)の一心三観(いっしんさんがん)・一念三千の観に依るか、将又(はたまた)世に流布せる達磨(だるま)の禅観(ぜんかん)に依るか。

天台大師
(五三八年〜五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱(いみな)は智(ちぎ)。字(あざな)は徳安。荊(けい)州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、侯景の乱によって国が乱れ、父母はこの間に没した。十八歳の時、湘州(しょうしゅう)果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、次いで慧曠(えこう)律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(五六〇年)、北地の難を避け南渡して、光州の大蘇山に仮寓していた南岳大師慧思(えし)を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来(またきた)る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五n 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、三十二歳(あるいは三十一歳)の時、陳都金陵(南京)の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建七年(五七五年)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を創建した。天台山の最高峰、華頂峰で一心に修禅していると、雷鳴が轟き山地が振動し、大師の修行を妨げようと魔が出現したが、これに屈せず、明けの明星を見て開悟したという。この第二の開悟を華頂降魔(かちょうごうま)という。至徳三年(五八五年)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(五八七年)法華文句を講説した。開皇十一年(五九一年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、維摩経疏を献上した。揚州に留まるよう懇請されたが、天台山に再入した。開皇十七年(五九七年)、晋王広の求めに応じ下山を決意、天台山西門まで下りたが疾重く、石城寺で入寂した。享年六十歳。彼の講説は弟子の章安灌頂(かんじょう)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、和漢王代記で伝教大師を「天台の後身なり」(六一一n)とされている。

摩訶止観

 天台大師智(ちぎ)が隋の開皇十四年(五九四年)四月二十六日から一夏(げ)九旬(じゅん)にわたって荊州(けいしゅう)玉泉寺で講述したものを、弟子の章安大師灌頂(かんじょう)が筆録した書である。本書で天台大師は、仏教の実践修行を止観≠ニして詳細に体系化した。それが前代未聞のすぐれたものであるので、サンスクリットで偉大なという意の摩訶≠ェつけられている。止≠ニは外界や迷いに動かされずに心を静止させることであり、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを観≠ニいう。内容として、法華経の一心三観・一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示しており、天台大師の出世の本懐とされる。構成は、章安大師の序分と天台大師の正説分からなっている。正説分として@大意、A釈名(しゃくみょう)、B体相、C摂法(しょうほう)、D偏円、E方便、F正修、G果報、H起教、I旨帰(しき)、の十章が立てられており、これを「十広」ともいう。しかしながら、F正修章において十境を立てるなか、十境中の第八増上慢境以下は欠文のまま終わっている。

一心三観(いっしんさんがん)

 一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。

一念三千
 天台大師智が『摩訶止観』巻五で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。三千とは、百界(十界互具(じっかいごぐ))・十如是(じゅうにょぜ)・三世間(さんせけん)のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、十種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す十種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。

達磨(だるま)
 生没年不詳。五〜六世紀の人。梵名ボーディダルマ(Bodhidharma)の音写・菩提達磨(ぼだいだるま)の略。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ二十八代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国の第三王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山(すうざん)少林寺で壁に向かって九年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという。

若し達磨の禅観に依るといはヾ、教禅とは未顕真実・妄語方便の禅観なり。
禅観
 坐禅観法のこと。坐禅を修して深く心を一処に定めて、悟りを観ずる修行をいう。禅観には如来禅と祖師禅の二種がある。「如来禅」とは楞伽経(りょうがきょう)巻二に説く四種禅の一。如来地に住して聖智三種の楽を証し、衆生を利益するために不思議の業用(ごうゆう)を示現することをいう。「祖師禅」とは達磨所伝の禅法という意である。教外別伝・不立文字を教義とする。

教禅
 釈尊の教説によって立てた禅のこと。如来禅と同意。すなわち、楞伽経や金剛般若経等によって立てた禅であるから教禅といい、それはまた如来の説教をもとにしているから如来禅ともいう。

教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり
 教禅の根拠となっている楞伽経・金剛般若経等が未顕真実・妄語方便の経であることから、教禅とは未顕真実・妄語方便の禅観にすぎない、との意。

法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるヽ禅なり。

祖師達磨禅とは教外別伝(ぎょうげべつでん)の天魔の禅なり。
共に是無得道(むとくどう)・妄語(もうご)の禅なり。仍(よ)って之を用ふべからざるなり。

若し天台の止観の一心三観に依るとならば止観一部の廃立(はいりゅう)、天台の本意に背くべからざるなり。
若し止観修行の観心に依るとならば、法華経に背くべからず。止観一部は法華経に依って建立(こんりゅう)す。
一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり。
故に知んぬ、法華経を捨てヽ但観(かん)を正(しょう)とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為(しょい)なることを。
其の故は天台の一心三観とは、法華経に依って三味開発(さんまいかいほつ)するを己心証得(こしんしょうとく)の止観と云ふ故なり。

 問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観(みょうかん)は、併(しかしなが)ら法華経に依ると云ふ証拠如何(いかん)。

答ふ、予反詰(ほんきつ)して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。

人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。
或は又「故に止観に至って正しく観法(かんぽう)を明かす、並びに三千を以て指南と為(な)す。乃(すなわ)ち是終窮究竟(しゅうぐうくきょう)の極説(ごくせつ)なり。
故に序の中に説己心中所行法門と云へり。良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」文。

難じて云はく、此の文は全く法華経に依らずと云ふ文に非ず。既に説己心中所行法門と云ふが故なり。
天台の所行の法門は法華経なるが故に、此の意は法華経に依ると見えたる証文なり云云。
但し他宗に対するの時は問答大綱(もんどうたいこう)を存すべきなり。
所謂(いわゆる)云ふべし、若し天台の止観、法華経に依らずといはヾ速(すみ)やかに捨つべきなりと。
其の故は天台大師兼ねて約束して云はく「修多羅(しゅたら)と合せば録(ろく)して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず」云云。
伝教大師の秀句(しゅうく)下に云はく「仏説に依憑(えひょう)して口伝(くでん)を信ずること莫(なか)れ」云云。
竜樹(りゅうじゅ)の大論に云はく「修多羅に依るは白論(びゃくろん)なり修多羅に依らざるは黒論(こくろん)なり」云云。
教主釈尊云はく「法に依って人に依らざれ」文。
天台は法華経に依り竜樹を高祖(こうそ)ともし乍(なが)ら経文に違し、我が言を翻(ほん)じて外道(げどう)邪見の法に依って止観一部を釈する事全く有るべからざるなり。

問ふ、正(まさ)しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや。

答ふ、余りに多きが故に少々之を出ださん。
止観に云はく「漸(ぜん)と不定(ふじょう)とは置いて論ぜず。今(いま)経に依って更に円頓(えんどん)を明かさん」云云。
漸(ぜん)・不定(ふじょう)・円頓(えんどん)
 摩訶止観巻一上の章安大師の序に説かれる三種止観(慚次止観・不定止観・円頓止観)のこと。
天台大師が師の南岳大師から伝授されたもの。「天台は南岳大師より三種の止観を伝えたもう。一には漸次、二には不定、三には円頓なり。皆是れ大乗にして、具(つぶさ)に実相を縁じ、同じく止観と名づくなり」とある。
漸次止観とは「初め浅く後深し」とあり、下根の修行者のために浅い段階から深い段階へと止観を行じていくものであり、
不定止観とは「前後更互す」とあるように、中根のために時と所に応じて浅深、前後を交互に行ずるものである。
円頓止観とは上根のために終始、実相を観じ一念三千の理を体得する止観である。
なお、天台大師の著書の中では、慚次止観を中心に説くのが「次第禅門(詳しくは釈禅波羅蜜次第禅門)」十二巻(あるいは十巻)、不定止観が「六妙法門」一巻、円頓止観が「摩訶止観」十巻である。

弘決(ぐけつ)に云はく弘決(ぐけつ)
 止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)のこと。十巻。中国・唐代の妙楽大師湛然(たんねん)の著。天台大師の摩訶止観の注釈書。内容は題号の釈出をはじめ、無情仏性に関する十難や華厳宗の法華漸頓(ぜんとん)・華厳頓頓(とんとん)説を打ち破るなど、摩訶止観の妙旨を明らかにするとともに、天台宗内外の異義に破折を加えている。
「法華経の旨を攅(あつ)めて不思議・十乗十乗
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた十種の観法のこと。十法成乗観(じっぽうじょうじょうかん)・十重観法・十乗観心・十観ともいう。所観の境である十境のそれぞれに対して十乗の観法が成されるところから、百法成乗(ひゃっぽうじょうじょう)ともいう。@観不思議境、A起慈悲心、B巧安止観(ぎょうあんしかん)、C破法遍、D識通塞(しきつうそく)、E修道品(しゅどうほん)、F対治助開、G知次位、H能安忍、I無法愛をいう。
〈追記〉
 十種の観法は@の観不思議境が根本となり、他の九乗はそれを修するために補助として立てられたものである。観不思議境は、止観巻五上に「心は是れ不思議の境なりと観ず」とあるように、衆生の一念に三千の諸法が具足していることを観ずることである。
 これを行者の上・中・下の機根のうえからみると、十乗の@観不思議境は上・中・下根通じての観法であるが、A起慈悲心からF対治助開に至るまでは中根の観法で、G知次位から?無法愛までは下根の観法となる。
 すなわち、上根の行者は@観不思議境で得道できるが、中根の行者は@観不思議境からF対治助開までの観法によって得道でき、下根の行者は@観不思議境からI無法愛まで、全部修することによって得道できるとされる。
 また、十乗観法を正行・助行に分ければ、@観不思議境からE修道品までが正行となり、F対治助開からI無法愛までが助行になる。
 正観の行を修しても、なお正観に達しない行者は、その原因が鈍根のゆえであるとして、正行の他に助行として六波羅蜜などを修し、正行まで引き上げてから観行を成就させようとするものである。浅近の具体的な行を助けとして、悟りの妨げとなるものを除くわけである。
 つまり、十乗観法はどんな下根・鈍根の行者でも「薩雲」すなわち一切智に到り初住位に入ることができる仕組みになっているのである。
(『日蓮大聖人御書講義』第四巻上「八宗違目抄」第十章の講義より一部抜粋)
 しかしながら、これは像法時代の人のことで、しかも「法華経を持(たも)つにおいては深く法華経の心を知り止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は実に即身成仏し解(さとり)を開く事もあるべし」(法華初心成仏抄・五五三n)と仰せのように、必ずしも確実ではないことは勿論である。
・十境十境
 天台大師が摩訶止観のなかで説いた止観修行の十種の対境のこと。@陰界入境(おんかいにゅうきょう)、A煩悩境、B病患境(びょうげんきょう)、C業相境、D魔事境、E禅定境、F諸見境、G増上慢境、H二乗境、?菩薩境をいう。
〈追記〉
 観法には、能観と所観があり、能観が十乗で、所観の境が十境である。まず行者の機根の高低を問わず、初めに所観の対境として@の陰界入境を選び、これに対し、十乗の観法を一つ一つ行っていくのである。陰界入境とは五陰・十八界(六識・六根・六境)・十二入(六根と六境を合わせたもの)の略で、行者自身の色心とその知覚・認識活動の総体をさしているが、行者自身の日常において現前している最も身近な生命の働きを観法の対境とする、ということである。そのなかでも、とくに五陰という色心を選び、更に五陰のなかでも識陰を観法の対境として、十乗観法を次々と修していくのである。
(『日蓮大聖人御書講義』第四巻上「八宗違目抄」第十章の講義より一部抜粋)
・待絶滅絶(たいぜつめつぜつ)・寂照(じゃくしょう)の行を成ず」文。待絶滅絶・寂照の行
 一心三観のこと。天台大師が立てた一心三観の修法を要約した文。「待絶」は諸法の相待差別の相を絶すること。「滅絶」は相待差別の相を絶することをも滅するという完全な絶待の境地。「寂照」の寂は止、照は観の意。すなわち絶待止観の修行こそ、前代未聞にして究竟の天台大師の悟りであること。このような止観にあっては、時間空間のすべての相絶を絶し、一切が円融相即し自在無碍である。これを一心三観、円融三観、円頓止観ともいう。
止観大意止観大意
 一巻。妙楽大師の述作。天台大師の摩訶止観の要点を説いたもの。この書は在家の李華(りか)のために書かれたもので、止観の入門書として、古来から初心者必読の書とされた。
〈追記〉
 李華(七一五年?〜七六六年)は中国・唐代の詩人。
に云はく
「今家の教門は竜樹を以て始祖(しそ)と為(な)す。
慧文(えもん)慧文(えもん)
 生没年不明。中国・北斉(ほくせい)代の僧。天台宗の今師相承では、竜樹を高祖と仰ぎ、北斉代の慧文、陳代の南岳大師慧思、陳・隋代の天台大師智と相承したとしている。仏祖統紀巻六等によると姓は高氏。竜樹の流れを受け、中論を読んで空・仮・中の三諦の理を悟り、また大智度論によって一心三智を悟って南岳大師慧思(えし)に伝えた。
は但内観(ないかん)を列(つら)ぬるのみ。
南岳南岳(なんがく)
(五一五年〜五七七年)。中国・南北朝時代の北斉の僧。名は慧思(えし)。天台大師智の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文(えもん)のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、「立誓願文」(五五八年、大蘇山にて)を著した。この立誓願文には正法五百年、像法一千年、末法一万年の三時説にたち、自身は末法の八十二年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著「法華経安楽行義」では、法華経安楽行品第十四に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は二十三歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」(六〇四n)、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」(六〇八n)とされている。
天台にw(およ)んで復(また)法華三昧(ざんまい)に因(よ)って陀羅尼(だらに法華三昧陀羅尼)を発し(※現文 法華三昧陀羅尼を発するに因つて)、義門(ぎもん)を開拓するに観法周備(しゅうび)す。観法周備す
 慧文は内観の修行のみであったが、南岳大師、天台大師にいたって三種止観(慚次止観・不定止観・円頓止観)の観法を整足したことをいう。とくに、天台大師は十乗観法を完成し、一念三千の当体を証得する観法を明らかにした。
若し法華を釈するには弥須(すべからく)権実本迹を暁了(ぎょうりょう)して方(まさ)に行を立つべし。
此の経独り妙と称することを得(う)。
方に此に依って以て観道(かんどう)を立つべし。
五方便五方便
 止観に入るための準備的な修行方法のこと。
摩訶止観巻四等に説かれる。
その一一の方便の修行はまた五つの項からなることから二十五方便ともいう。
すなわち具五縁・訶五欲・棄五蓋(きごがい)・調五事(じょうごじ)・行五法の五方便である。
第一に具五縁とは五縁を具すこと。
@持戒清淨(自己をいましめつつしむ)、A衣食具足(衣服を調える)、B閑居靜處(環境を静かにたもつ)、C息諸縁務(もろもろの雑事をさしひかえる)、D近善知識(善知識に親近する)。
第二に訶五欲とは五欲(色欲・声欲・香欲・味欲・触欲)を訶すこと。
第三に棄五蓋とは貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔(じょうけ)・疑の五つの蓋(障(さわり))を棄てること。
第四に調五事とは五事を調えることで、調食・調眠・調身・調息・調心の五種をいう。
第五に行五法とは、欲・精進・念・巧慧(ぎょうえ)・一心の五法を行ずることをいう。

及び十乗軌行(きぎょう)と言ふは即ち円頓(えんどん)止観は全く法華に依る。
円頓止観は即ち法華三昧の異名(いみょう)なるのみ」云云。

文句(もんぐ)の記(き)に云はく
「観と経と合すれば他の宝を数ふるに非ず。
方に知んぬ、止観一部は是法華三昧の筌蹄(せんてい筌?(せんてい)
 筌(せん)(魚を採る道具)と?(てい)(兎を捕らえる網)のこと。物を捕らえ手に入れるための道具で、転じて目的に達するための方便という意に用いる。)なり。
若し斯(こ)の意を得れば方に経旨に会(かな)ふ」云云。

唐土の人師行満(ぎょうまん行満(ぎょうまん)
 生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。妙楽大師湛然に師事。伝教が入唐したときは、道邃(どうずい)が天台山国清寺を領し、行満が天台山仏隴(ぶつろう)寺を住持していた。仏隴寺は天台山の仏隴峰の北峰の銀地に位置し、国清寺より約二十里上にある。延暦二十三年(八〇四年)九月から翌月にかけ、伝教に数多の天台学の書籍を与え、天台法門を伝授した。著書に「六即義」一巻等がある。)の釈せる学(がく)天台宗法門大意学天台宗法門大意
 一巻。行満著。天台大師所立の五時八教の大意、一心三観の要略を述べている。伝教大師が入唐の際、貞元二十年(八〇四年)十月二十日に行満から授けられた天台三大部、涅槃経疏をはじめとする八十二巻の一つ。に云はく
「摩訶(まか)止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず。経に依って観を修す」云云。

此等の文証分明(ふんみょう)なり、誰か之を論ぜん。

問ふ、天台四種の釈四種の釈
 天台大師が法華経の文々句々を釈するために法華文句で用いた因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈の四釈をいう。
「因縁釈」とは四悉檀(世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀)をもって仏と衆生との関係・因縁を四種に釈し、
「約教釈」とは化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)に基づいて四種に釈し、
「本迹釈」とは本地と垂迹の二義によって二種に釈し、
「観心釈」とは経文を一心の法として観ずるように釈したことである。
を作るの時、観心の釈に至って本迹の釈を捨つと見えたり。
又法華経は漸機(ぜんき漸機(ぜんき)
 五時八教をはじめとする教相を学して後、観心に入る機根の衆生のこと。直機に対する語。「機」は機根のことで,仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の生命の可能性をいう。)の為に之を説き、止観は直達直達(じきたつ)の機
 直(ただ)ちに得脱する機根のこと。漸機に対する語。の機の為に之を説くと如何(いかん)。

答ふ、漸機の為に説くは劣り頓機(とんき)の為に説くは勝るとならば、今の天台宗の意は華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云ふべきや。
今の天台宗の浅猿(あさまし)さは真言は事理倶密(じりぐみつ)の教なる故に法華経に勝れたりと謂(おも)へり。
故に止観は法華に勝ると云へるも道理なり道理なり。

天台の四種釈について
 
 天台大師自身が法華文句において四種釈について次のように説いている。
「今文を帖(じょう)するに四と為す。一には列数、二には所以、三には引證、四には示相なり。列数とは、一には因縁、二には約教、三には本迹、四には観心なり。
始め如是より而退(にたい)に終わるまで、皆四意を以って文を消(しょう)す。
二に所以とは……因縁は亦、感応と名づく。衆生機無ければ近しと雖(いえど)も見ず。慈善根の力は遠くとも而も自ら通じ、感応道交す。故に因縁の釈を用うるなり。夫(そ)れ衆生は脱を求む。此の機衆(おお)し。聖人の応を起こす。応も亦衆し。此の義更に広し。処中何れにか在る。然れば大経に云く『慈善根の力に無量の門あれども、略すれば則ち神通なり』と。若し十方の機感ずれば曠(ひろ)きこと虚空の若くならん。今、娑婆国土を論ずるに音声(おんじょう)仏事を為すに即ち甘露の門開く。教に依って釈すれば処中の説明らかなり。若し機に応じて教を設くれば、教に権、実、浅、深の不同あらん、須(すべか)らく指を置いて月を存し、迹を亡じて本を尋ぬべし。故に肇師の云く『本に非ざれば以って迹を垂るること無く、迹に非ずんば以って本を顕すること無し』と。故に本迹の釈を用うるなり。若し迹を尋ぬれば迹広く、徒(いたず)らに自ら疲労す。若し本を尋ぬれば本高く、高うして極むべからず。日夜に他の宝を数うるに、自ら半銭の分無からん。但、己心の高広を観ずれば、無窮の聖応を扣(たた)く。機応じて感を致し、己利を逮得す。故に観心の釈を用うるなり」と。


〈注記 肇師とあるのは、鳩摩羅什の弟子・僧肇(そうじょう)(三七四年〜四一四年)。彼の選述した『注維摩詰経』第一序註に「本に非ざれば以て跡を垂れることなく、跡に非ざれば以て本を顕すことなし。本跡殊なりと雖も而も不思議一なり」とある。「跡」は「あと」の意で「迹」と同義。天台大師は僧肇の本迹説を入れて、法華経を本迹二門に分類した〉

 ここで、因縁の釈は、仏と衆生との感応道交として説かれている。「衆生は脱を求む。此の機衆(おお)し」とあるのは、衆生が得脱≠求める機≠ヘさまざまで多種多様である、ということで、したがって「聖人の応を起こす。応も亦衆し」とあるように、聖人が応じていくのも、衆生の機がさまざまであることに対応して多種多様な在り方がある、ということである。
このような仏と衆生の関係性を踏まえて、法華経を解釈していくのが因縁釈である。


 次に、仏が衆生の機に応じて音声の仏事≠なし、甘露の門として教≠説いたのであるが、前述のように、衆生の機根も多種多様であるから教にも「権、実、浅、深の不同」があることになる。
 このことを前提として、法華経の文々句々を、蔵、通、別、縁、更には権、実と、浅いものから深いものへと解釈していくのが第二の約教釈である。

 更に、法華経の文々句々を本門と迹門の二門から解釈するのが本迹釈である。
垂迹としての仏陀が説く迹門中の文々句々は本地の仏陀が存在するゆえであり、また、本地の仏陀の説く本門中の教えも、垂迹した仏陀の教えからあらわす以外に方法がないからである、と説いている。


 最後に観心釈とは「若し釈を尋ぬれば迹広く、徒らに自ら疲労す。若し本を尋ぬれば本高く、高うして極むべからず。日夜に他の宝を数うるに、自ら半銭の分無からん」とあるように、迹門は森羅万象がことごとく平等実相であることを説いているゆえに広く、本門は仏陀の久遠なる境地を明かしていて、その境地が余りに深遠で高いゆえに極めることが難しい、したがって、いかに約教釈や本迹釈によって深遠で高度な解釈を施しても、それはまだやはり観念的であることを免れず、かえって疲労し、日夜に他人の宝を数えていても半銭も得ることができないのと同じ結果になる。そこに、観心釈が必要になるというのである。


 すなわち、法華経に説くところの文々句々を自らの己心に表しつつ己心が高く広大なことを観ずれば、それが聖人の応を扣(たた)く≠ツまり聖人の応ずる働きを観心の己心に引き寄せることができると述べている。


 例えば、法華経に出てくる「王舎城」についての法華文句の四種釈をみると、因縁釈では大智度論や諸経に出てくる、人肉を常食とした駁足王の故事を引いて王舎城の名の由来を説明している。

〈追記 駁足王は斑足王、班足王、鹿足王とも書く。足に斑点があり、そこから斑足王と名づけられた。邪師の教えにより千人の王の首を得ようとして九百九十九王を捕えた。その千人目として捕えられたのが普明王であった。須陀須摩(しゅだしゅま)王、須陀摩(しゅだま)王ともいい、釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜(しらはらみつ)(持戒)の修行をしていた時の名である。須陀須摩王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修した。斑足王に捕えられ、他の九百九十九人(一説には九十九人)の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の婆羅門への供養をする約束を果たすために七日間(一日間とも)の猶予を乞うた。そこで、斑足王は、帰国を許した。須陀須摩王は、かの婆羅門に供養をし、王位を太子に譲って約束どおり斑足王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、須陀須摩王だけでなく他の九百九十九人の王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある〉

 約教釈では像法決疑経に説かれている沙羅林が、見る人の境地によって異なって見えたことを紹介している。すなわち、ある者は土砂、草木、石壁と見、ある者は七宝によって清浄荘厳されたものと見、ある者は三世諸仏の遊行する所と見、ある者は不可思議諸仏の境界である真実の法体と見た、と。
この沙羅の四見を王舎城にあてはめて、蔵、通、別、円の四教により所見が異なると解釈している。なお、本迹釈は省略されている。


 観心釈では「王舎城」の王≠ェすなわち心王、舎≠ヘすなわち五陰、そして心王が五陰を造っていると観じていく。
 もし五陰の舎を析して空じて、空を涅槃の城と観ずれば浅い蔵教の観心となり、五陰の舎をそのまま空なりとして、空を涅槃の城と観ずれば通教の観心であり、五陰の舎を観じて常楽我浄と通達するのが別教の観心であり、五陰即法性、一切衆生即涅槃、と観ずれば円教の観心となる。
 このように、観心釈とは、王舎城という法華経に出てくる城を通じて、修行者の己心の広大さと高さとを観じるためのきっかけとするのである。

 次に観心(かんじん)の釈の時本迹(ほんじゃく)を捨つと云ふ難は、法華経何(いず)れの文にか人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや。
設(たと)ひ天台の釈なりとも釈尊の金言に背(そむ)き法華経に背かば全く之を用ふべからず。
依法不依人(えほうふえにん)の故に、竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり。
其の上天台の釈の意は、迹(しゃく)の大教起これば爾前の大教亡(ぼう)じ、本(ほん)の大教興(おこ)れば迹の大教亡じ、観心(かんじん)の大教興れば本の大教亡ずと釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心の修行を詮(せん)と為(な)す。
迹を尋(たず)ぬれば迹広し、本を尋ぬれば本高ふして極(きわ)むべからず。故に末学機に叶(かな)ひ難し。
但己心(こしん)の妙法を観ぜよと云ふ釈なり。
然りと雖(いえど)も妙法を捨てよとは全く釈せざるなり。
若し妙法を捨てば何物を己心として観ずべきや。
如意宝珠(にょいほうじゅ)を捨て貧窮(びんぐ)を取って宝と為すべきか。
悲しいかな、当世(とうせい)天台宗の学者は念仏・真言・禅宗等に同意するが故に、天台の教釈を習ひ失って法華経に背き大謗法の罪を得るなり。

若し止観を法華経に勝ると云はヾ種々の過(とが)之有り。
止観は天台の道場所得の己証(こしょう)なり。
法華経は釈尊の道場所得の大法なり是一。
釈尊は妙覚果満(かまん)の仏なり。
天台は住前末証(じゅうぜんみしょう初住以前の未だ証せざる位)なれば名字(みょうじ)・観行(かんぎょう)・相似(そうじ)には過ぐべからず。
名字(みょうじ)・観行(かんぎょう)・相似(そうじ)
 天台大師智が摩訶止観巻一下で、円教(法華経)を修行する者の境地を立て分けた六即位(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)うち、名字即・観行即・相似即のこと。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。
 @理即(りそく)とは、迷いの凡夫であっても、理の上では仏界を具している。だが、いまだ仏界の顕現されざる位。十八円満抄(一三六四n)には「自性清浄にして泥濁(でいじょく)に染まず」とあり、自己の本性は清浄で、いかなる泥濁にも染まらない仏界の生命が具している状態が理即であると説かれている。すなわち、生命の本性(理)としては仏の境地をそなえているが、それが迷いと苦悩に覆われている段階。現在、信心に約していえば、いまだ御本尊を受持していない人である。
 A名字即(みょうじそく)は、天台によると「三諦の名を聞く」位、また「一切の法は皆是れ仏法なりと通達(つうだつ)し解了(げりょう)する」位とされる。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。信心に約していえば、御本尊を戴(いただ)き、信心した人。
 B観行即(かんぎょうそく)とは、天台によれば「所行は所言のごとく、所言は所行のごとし」とあり、実践がともなうことが示されている。観行とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、観行即は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。信心に約していえば、観とは信であり、観行とは信行であり、信行具足して功徳を得ていく人をいう。
 C相似即(そうじそく)とは、天台によれば「八十八使(し)の見惑を断じ、八十一品の思惑を断じ、九品の塵沙(じんじゃ)を断じた」位とされる。修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる段階。信心に約していえば、自己における、三障四魔と戦い、これを粉砕していく人。
 D分真即(ぶんしんそく)とは、天台によれば、四十二品の無明のうち最後の一品(元品(がんぽん)の無明(むみょう))だけを残して、あと四十一品を断じた位とされる。真理の一部分を体現している段階。信心に約していえば、折伏に励み、民衆救済のために邁進(まいしん)する人。
 E究竟即(くきょうそく)とは、天台によれば、元品の無明を断じた極聖(ごくしょう)の位をいい、完全なる覚りに到達している段階。信心に約していえば、永遠の生命を感得し、成仏の境涯に達することをいう。究竟即の仏とは、末法今時においては、別しては日蓮大聖人の御事である。
四十二重(じゅう)の劣四十二重の劣
 釈尊と天台大師の勝劣を菩薩の五十二位(十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚)によって判ずると、天台大師は釈尊よりも四十二位劣ること。釈尊は初住位から仏果に至る四十二品の無明惑を断じた妙覚位の仏であり、天台大師は初住位にも至らないので四十二位の差がある。なり是二。

法華経は釈尊乃至諸仏出世の本懐(ほんがい)なり。止観は天台出世の己証なり是三。

法華経は多宝の証明あり。来集の分身は広長舌(こうちょうぜつ)を大梵天に付く皆是真実の大白法(だいびゃくほう)なり。止観は天台の説法なり是四。

是くの如き等の種々の相違之(これ)有れども仍(なお)之を略するなり。

又一つの問答に云はく、所被(しょひ)の機、上機なる故に之を勝ると云はヾ実(じつ)を捨てヽ権(ごん)を取れ。
天台云はく「教弥(いよいよ)権(ごん)なれば位弥高し」と釈し給ふ故なり。
所被の機下劣なる故に劣ると云はヾ権を捨てヽ実を取れ。
天台の釈には「教弥実なれば位弥下(ひく)し」と云ふ故なり。
然るに止観は上機の為に之を説き、法華は下機(げき)の為に之を説くと云はヾ、止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞こえたり。実にさも有るらむ。
天台云く「教弥弥(いよいよ)権なれば位弥弥(いよいよ)高し」
 妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六の四の「教弥(いよいよ)実なれば位弥下(ひく)く、教弥(いよいよ)権なれば位弥高し」の文である。真実の教えであればあるほど、その教えで救われるのは機根の劣った下機の人にまで及び、教えが方便・権教であるほど、機根の勝れた上機の人しか救われない、との意。この文は、天台大師の摩訶止観巻六下の「前教に其の位を高うする所以は、方便の説なればなり。円教の位の下(ひく)きは、真実の説なればなり」の文を釈したものである。

天台大師は霊山(りょうぜん霊山(りょうぜん)
 霊鷲山(りょうじゅせん)のこと。中インド・摩竭提(まかだ)国(ガンジス川の下流域)の首都である王舎城の丑寅(うしとら)(東北)の方角にある。法華経の説処。梵名グリドゥラクータ(G?dhrak??a)、音写して耆闍崛山(ぎしゃくつせん)。その南を尸陀林(しだりん)といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので「霊山」という。末法においては、御本尊のましますところこそ、霊鷲山であり、また、御本尊を受持する者の住所も、霊鷲山である。)の聴衆、如来出世の本懐を宣(の)ベたまふと雖も、時至らざるが故に妙法の名字を替(か)へて止観と号す。
迹化の衆なるが故に本化の付嘱を弘め給はず。
正直の妙法を止観と説きまぎらかす。
故に有りのまヽの妙法ならざれば帯権(たいごん)の法に似たり。
故に知んぬ、天台弘通(ぐづう)の所化(しょけ)の機は在世帯権の円機(えんき)の如し。
本化弘通の所化の機は法華本門の直機(じっき)なり。
止観・法華は全く体(たい)同じと云はん。

尚(なお)人師の釈を以て仏説に同ずる失(とが)甚重(じんじゅう)なり。
何に況(いわ)んや止観は法華経に勝ると云ふ邪義を申し出だすは、但是(これ)本化の弘経(ぐきょう)と迹化の弘通と、像法と末法と、迹門の付嘱と本門の付嘱とを末法の行者に云ひ顕はせんが為の仏天の御計(はか)らひなり。

爰(ここ)に知んぬ、当世の天台宗の中に此の義を云ふ人は祖師(そし)天台の為には不知恩の人なり。豈(あに)其の過(とが)を免(まぬか)れんや。

夫(それ)天台大師は昔霊山に在っては薬王薬王
 薬王菩薩のこと。衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第十などの対告衆。勧持品第十三では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第二十三には、過去世に一切衆生憙見菩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では七万二千歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている。ちなみに経文には「臂(ひじ)」(『妙法蓮華経並開結』五九一n〜五九二n 創価学会刊)を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる。と名づけ、今漢土に在っては天台と名づけ、日本国の中にては伝教と名づく。
三世の弘通倶(とも)に妙法と名づく。
是くの如く法華経を弘通し給ふ人は在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず。
有り難く御坐(おわ)します大師を、其の末学(まつがく)其の教釈を悪(あ)しく習ひて失(とが)無き天台に失を懸(か)けまつる、豈大罪に非ずや。

 今問ふ、天台の本意は何(いか)なる法ぞや。
碩学(せきがく)等の云はく、一心三観是なり。碩学(せきがく)等の云く「一心三観是なり」
 この文の典拠未詳。

今云はく、一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚是(これ)行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。
慈覚(じかく)大師慈覚大師
(七九四年〜八六四年)。平安初期の天台宗の僧。第三代天台座主。諱は円仁(えんにん)。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている(二八一n、三〇五n以下など)。報恩抄に「第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり、御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而(しか)れども円頓(えんどん)の戒計りは又御弟子ににたり蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし鳥にもあらず・ねずみ(鼠)にもあらず梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり日をい(射)るとゆめ(夢)に・みしこれなり」(三一〇n)と説かれている。主著に「金剛頂経疏」「蘇悉地経疏」など。唐滞在を記録した「入唐求法巡礼行記」は有名。
の釈に云はく「三観とは法体(ほったい)を得せしめんが為の修観(しゅかん)なり」云云。
伝教大師云はく「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云。伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」
 この文の典拠未詳。
故に知んぬ、一心三観とは果地(かじ)・果徳(かとく)の法門を成ぜんが為の能観(のうかん)の心なることを。果地・果徳の妙法
 元意では日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。「果地」は仏果の地位のこと。果位・果上・果成(かじょう)ともいう。因地・因位に対する語。因地(因位)の修行をして得た仏の位・成仏の境地をいう。「果徳」は果報の福徳のこと。因行によって得た果上の功徳のこと。南無妙法蓮華経が仏法の究極の果であり、果徳を具えた法門であるとの意。
何に況んや三観とは言説に出でたる法なる故に、如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観可思議の三観
 思惟・説明できる三観のこと。天台大師所立の一心三観を破した言葉。「可思議」は不可思議に対する語で、思議可能なこと。天台大師の一心三観は言説をもって示されるものであるから可思議である。しかし三観を修して悟る所詮の法体である妙法蓮華経は、法華経方便品第二に「我が法は妙にして思い難し」(『妙法蓮華経並開結』一一七n 創価学会刊)と説かれているように、言説などをもって述べられるものではなく、幽冥不可思議の法である。なり。

 問ふ、一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや。

答ふ、此の事誠に一大事の法門なり。
唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の境界なるが故に、我等が言説に出だすべからざるが故に是を申すべからざるなり。
是を以て経文(方便品)には「我が法は妙にして思ひ難し言(ことば)を以て宣ぶべからず」云云。
妙覚果満の仏すら尚(なお)不可説・不思議の法と説き給ふ。
何に況んや等覚(とうがく)の菩薩已下(いげ)乃至凡夫をや。

問ふ、名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや。

答ふ、天台己証(こしょう)の法とは是なり。
当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。
相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。

然りと雖も汝の志(こころざし)神妙(しんみょう)なれば其の名を出だすなり。
一言(いちごん)の法是なり。
伝教大師の「一心三観一言に伝ふ」と書き給ふ是なり。

問ふ、未だ其の法体(ほったい)を聞かず如何(いかん)。

答ふ、所詮一言とは妙法是なり。

問ふ、何を以て知ることを得ん、妙法は一心三観に勝れたりと云ふ事を。

答ふ、妙法は所詮(しょせん)の功徳なり。三観は行者の観門(かんもん)なるが故なり。
此の妙法を仏説いて言はく「道場所得法(どうじょうしょとくほう)、我法妙難思(がほうみょうなんし)、是法非思量(ぜほうひしりょう)、不可以言宣(ふかいごんせつ)」方便品第二に「道場にて得し所の法」「我が法は妙にして思い難し」「是の法は思量(分別の能(よ)く解(げ)する所)に非ず」「言(ことば)を以て宣(の)ぶ可(べ)からず」云云。
天台云はく「妙とは不可思議(ふかしぎ)・言語道断(ごんごどうだん)・心行所滅(しんぎょうしょめつ)なり。
法とは十界十如・因果不二の法なり」と。
三諦(さんたい)と云ふも三観(さんがん)と云ふも三千と云ふも不思議法と云ふも、天台の己証は天台の御思慮(しりょ)の及ぶ所の法門なり。

此の妙法は諸仏の師なり。
今の経文の如くならば、久遠実成(くおんじつじょう)の妙覚極果(ごくか)の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏・菩薩の境界に非ず。
経に「唯仏与仏、乃能究尽(ないのうくじん)」とは、迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟(くきょう)の辺を説けるなり。
本地難思(ほんちなんし)の境智(きょうち)の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや。
止観の二字をば「観名仏知(かんみょうぶっち)、止名仏見(しみょうぶっけん)」「仏知を名づけて観といい、仏見を名づけて止という」と釈するも、迹門の仏智・仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり。
其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為(な)す、迹門の正意是なり。
故に知んぬ、迹仏の知見なりと云ふ事を。
但止観に絶待不思議の妙観を明かすと雖も、只一念三千の妙観に且(しばら)く与へて絶待不思議と名づくるなり。

 問ふ、天台大師真実に此の一言の妙法一言の妙法
 第十章既出の「一言の法」と同じ。再説すると、伝教大師が修禅寺の道和尚から相伝した法門を記したと伝えられる修禅寺決に「玄師の伝に云く『一家の本義はただ一言を以って本と為す。謂く、寂滅不二の一言なり』と」等とあり、究竟の法を「一言」で伝えるという表記が見られる。を証得したまはざるや。

答ふ、内証は爾(しか)なり。外用(げゆう)に於ては之を弘通したまはざるなり。
所謂(いわゆる)内証の辺をば秘して、外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給ふなり。

問ふ、何が故ぞ知り乍(なが)ら弘通し給はざるや。

答ふ、時至らざるが故に、付嘱に非ざるが故に、迹化なるが故なり。

問ふ、天台此の一言の妙法之(これ)を証得し給へる証拠之有りや。

答ふ、此の事天台一家の秘事なり。世に流布せる学者之を知らず。
灌頂玄旨(かんじょうげんし)の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り。天台大師自筆の血脈一紙
 天台家の秘本である「天台灌頂玄旨」をさすが、現存しない。
天台御入滅の後は石塔の中に之有り。
伝教大師御入唐の時伝教大師御入唐の時……
 一代聖教大意には山門秘伝見聞(けんもん)を引用して「日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰(かぎ)を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚(どうずいかしょう)に値(あ)い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦(よろこ)んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一(ひとつ)の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚(すいかしょう)云く「此の一蔵は開く可き鑰(かぎ)無し天台大師自ら出世して開き給う可し」と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本(もと)を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身(ごしん)と云云」(四〇二n)と述べられている。八舌の鑰(かぎ八舌(やつした)の鑰(かぎ)
 舌状のもの(出っ張り)が八つ刻まれた鍵。この八舌の鑰にまつわる話は、山門秘伝見聞に出ている。)を以て之を開き、道邃(どうずい)和尚道邃和尚(どうずいかしょう)
 生没年未詳。中国・唐代の天台宗の僧。諡(いみな)は興道尊者。妙楽大師湛然(たんねん)に師事。貞元二十年(八〇四年)に龍興寺(浙江省臨海市)に住す。同年より翌二十一年にわたり、最澄と通訳僧であった義真に天台法門を伝えた。道邃が最澄に出会った時の興味深い逸話が「一代聖教大意」(四〇二n)に説かれる。天台山国清寺で入寂した。より伝受し給ふ血脈とは是なり。
此の書に云はく「一言の妙旨、一教の玄義」文。

伝教大師の註血脈伝教大師の註血脈
 伝教大師が天台家の秘本である天台灌頂玄旨を注したものを注血脈という。現存しない。に云はく
「夫(それ)一言の妙法とは、両眼を開いて五塵(ごじん)の境五塵(じん)の境
 色・声・香・味・触の五境のこと。眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の五識が対象とする五種のもの。「塵」は五識の対象として煩悩を起こし、汚染することがあたかも塵埃(じんあい)のごときゆえに五塵という。を見る時は随縁真如(ずいえんしんにょ)なるべし。
五眼を閉じて無念無念
@「むねん」と読み、念慮の作用のないことをいう。有念(うねん)の対語。妄念(迷いの心)を離れて無我の境地に入り、何事も思わないこと。に住する時は当(まさ)に不変真如なるべし。
不変真如・随縁真如
 不変真如の理・随縁真如の智(ずいえんしんにょのち)ともいう。不変真如とは不生・不滅にして常住不変の真如の法理・根本原理をいう。随縁真如とは刻々と変化していく事象(縁)に随って顕現する真実の智慧をいう。
故に此の一言を聞くに万法茲(ここ)に達し、一代の修多羅(しゅたら)一言に含(がん)す」文。

此の両大師の血脈の如くんば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。
一心三観とは所詮(しょせん)妙法を成就せんが為の修行の方便なり。
三観は因の義、妙法は果の義なり。
但(ただ)因の処に果有り、果の処に因有り、因果倶時(いんがぐじ)の妙法を観ずるが故に是くの如き功能(くのう)を得るなり。
爰(ここ)に知んぬ、天台至極(しごく)の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立て、最秘(さいひ)の上法とすと云へる邪義大いなる僻見(びゃっけん)なりと云ふ事を。
四依弘経(しえぐきょう)の大薩・(だいさった)は既に仏経に依って諸論を造る。
天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てんや。
若し此の止観は法華経に依らずといはヾ天台の止観は教外別伝(きょうげべつでん)の達磨(だるま)の天魔の邪法に同ぜん。
都(すべ)て然るべからず。哀れなり哀れなり。

 伝教大師云はく「国主の制に非ざれば以て遵行(じゅんぎょう)すること無く、法王の教に非ざれば以て信受すること無し」文。伝教大師の云く「国主の制に……信受すること無けん」
 この文は伝教大師の大乗戒壇建立に反対する南都の僧綱(そうごう)である護命(ごみょう)等の主張であり、伝教大師が顕戒論巻上に引用したもの。ここでは、天台宗が正式に国主(桓武天皇)の勅許を得て開宗し、その教説は釈尊の教えに基づくものであるとの意で用いられている。
又云はく「四依(しえ)、論を造るに権(ごん)有り実(じつ)有り。三乗の旨を述ぶるに三有り一有り。
所以(ゆえ)に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め、一実の道(どう)に依って一仏乗を建つ。
六度六度
 六波羅蜜(ろくはらみつ)のこと。大乗の菩薩が実践し獲得すべき六つの徳目。波羅蜜は梵語パーラミター(P?ramit?)の音写で、度・到彼岸(とうひがん)などと訳す。檀那(だんな)(布施)・尸羅(しら)(持戒)・?提(せんだい)(忍辱(にんにく))・毘梨耶(びりや)(精進)・禅那(ぜんな)(禅定)・般若(智慧)の五種の波羅蜜をいう。に別有り、戒度何ぞ同じからん、受法同じからず、威儀(いぎ)豈(あに)同じからんや。
是の故に天台の伝法は探く四依四依の菩薩に依り亦仏経に順(したが)ふ」文。

本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む
 遣唐使船で入唐した栄叡(ようえい)、普照の請いによって、鑑真が天平勝宝五年(七五三年)に日本に来た時に、多くの仏典等とともに「天台の止観法門・玄義・文句各十巻、四教義十二巻、次第禅門十一巻、行法華懺法一巻、小止観一巻、六妙門一巻」(唐大和上東征伝)等を将来したが、天台法門が興隆することはなかった。伝教大師が延暦二十三年(八〇四年)に入唐して道邃・行満に天台の相承を受け、翌年帰国後、勅許を得て天台宗を開創したのが日本における天台宗の始まりである。
若し天台の止観、法華経に依らずといはヾ日本に於ては伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。
両大師の伝法既に法華経に依る。豈其の末学之に違(い)せんや。
違するを以て知んぬ、当世の天台家の人々、其の名を天台山天台山
 中国浙江省東部の天台県の北部にある山。天台大師智が入山した。仏隴峰(ぶつろうほう)の南麓(なんろく)に国清寺(こくせいじ)がある。大師の死後、その遺志を受けた晋王楊広(ようこう)(隋の煬帝(ようだい))が創建した。大師は三十八歳の時、天台山仏隴に入り修行し、後に寺域を定めて殿堂厨宇などの建設を計画したが、実現せずに亡くなった。大師の亡くなる時、晋王楊広に手紙を送り、寺院の建立を頼んだ。晋王は即座に寺院の建立に着手し、隋の文帝仁寿元年(六〇一年)に完成した。当初、天台寺と名づけられたが、大業元年(六〇五年)に国清寺と改められた。中国天台宗の根本道場として栄え、代々の天台座主が住して多くの弟子を育成した。日本から渡った伝教大師最澄や義真などがここで学んだ。に借(か)ると雖も所学の法門当世の天台家の……所学の法門
 日蓮大聖人御在世当時の天台宗のなかに、真言宗第一、禅宗第二、法華宗第三とする説があった。これは安然(あんねん)(八四一年〜没年不詳)が教時諍論(きょうじじょうろん)一巻を著して、独自の教時論(教判論)を展開し、諸宗派を九宗に分類してその勝劣を立て、真言宗を第一、仏心宗(禅宗)を第二、法華宗を第三と判釈した影響があったと思われる。
〈追記〉
 安然は比叡山の学匠。伝教大師の同族といわれる。はじめ慈覚の弟子となり、顕密二教を学び、後に元慶寺の遍照(へんじょう)について胎蔵界の法を受けた。元慶元年(八七七年)唐に渡ろうとしたが果たせなかった。元慶八年(八八四年)元慶寺の座主となり、更に伝法阿闍梨に任じられた。晩年、比叡山に五大院を建て、著作に励んだ。台密の大成者といわれる。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵(しったんぞう)」八巻など多数ある。語訳に「真言宗」とあるのは「密教」のことで、台密の意。東密に対しては弘法の十住心論を破しているが、不徹底であると撰時抄におおせである。同抄には「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(二八六n)と破折されている。は達磨の僻見達磨の僻見(びゃっけん)
 達磨が教外別伝・不立文字との邪義を立てて、釈尊の教説を否定したこと。と善無畏(ぜんむい善無畏(ぜんむい)
(六三七年〜七三五年)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名シュバカラシンハ(?ubhakarasi?ha)、音写して輸波迦羅(ゆばから)。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。宋高僧伝によれば、東インド烏荼(うだ)国の王子として生まれ、十三歳で王位についたが兄の妬(ねた)みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀(ならんだ)寺で、達摩掬多(だつまきくた)に従い密教を学ぶ。唐の開元四年(七一六年)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経(そばこどうじきょう)」「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」などを翻訳、また「大日経疏(しょ)」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てた。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。)の妄語(もうご)善無畏の妄語
 善無畏が大日経に説かれていない一念三千の法門も大日経の阿字本不生に説かれていると嘘をついたこと。善無畏は法華経と大日経を比較すると、理は同一であるが、事においては大日経が法華経に勝れているとする。これは大日経に説く阿字本不生等の理と法華経の諸法実相・一念三千の理を同一として、しかも印(印契。仏・菩薩の悟りの内容を表示する外相)と真言(仏・菩薩の誓いや徳を示す秘密語)の事相は法華経には欠けるから大日経が勝れているとしたもの。
〈追記〉
 阿字本不生とは、阿の字はすべての文字の始めであるとみて、これに「本」の義「不生(ふしょう)」の義があるとし、ここから阿字は、一切が不生不滅すなわち空(くう)であるという真理を表わすとしたもの。(精選版 日本国語大辞典の解説より)
とに依ると云ふ事を。

天台・伝教の解釈(げしゃく)の如くんば己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり。
然るに当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、錦(にしき)の袋に入れて頚(くび)に懸(か)け、箱の底に埋めて高直(こうじき)に売る故に、邪義国中に流布(るふ)して天台の仏法破失せるなり。
天台の本意を失ひ、釈尊の妙法を下(くだ)す。
是偏(ひとえ)に達磨の教訓、善無畏の勧(すす)めなり。
故に止観をも知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待(そうたい)・絶待(ぜったい)の二妙をも知らず、法華の妙観(みょうかん)をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、五時・五味の施化(せけ)をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。

天台・伝教の所伝は禅・真言より劣れりと習ふ故に、達磨の邪義、真言の妄語(もうご)真言の妄語
 真言宗の開祖である弘法大師空海等が法華経を大日経、華厳経より劣る「三重の劣」といったこと、また法華経の教主である釈尊などの仏を大日如来に対比して「無明の辺域」と呼んだことをいう。に打ち成りて権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂(しょう)せざるなり。
故に大謗法罪顕はれて止観は法華経に勝ると云ふ邪義を申し出だして、失(とが)無き天台に失を懸(か)けたてまつる。
故に高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。

 夫(それ)天台の観法を尋(たず)ぬれば大蘇(だいそ)道場大蘇道場(だいそどうじょう)
 中国・光州(河南省商城県)の大蘇山において天台大師が行じた修行のこと。道場は仏道を成ずるための修行の意。隋天台智者大師別伝によると、天台大師が陳の天嘉元年(五六〇年)大蘇山に南岳大師慧思(えし)を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来(またきた)る」と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。天台は大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五n 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。
〈追記〉
 道場は、サンスクリットの原語では「覚りを開いた場所」の意。また広く、法が説かれる場、修行する場を意味するようになった。ここでは「仏道を成ずるための修行」の意。
 語訳に「南岳は天台に普賢道場を示し」とあるのは、普賢菩薩勧発品第二十八に従って法華経を読誦する有相行で、「四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた」とは、安楽行品第十四に基づいて修禅する無相行のこと(『続・私の仏教観』池田大作/野崎勲/松本和夫「南岳慧思と法華経」より編集)。に於て三昧開発(かいほつ)せしより已来(このかた)、目を開いて妙法を思へば随縁真如(ずいえんしんにょ)なり、目を閉じて妙法を思へば不変真如なり。
此の両種の真如は只一言(いちごん)の妙法に有り。
我妙法を唱ふる時万法茲(ここ)に達し、一代の修多羅(しゅたら)一言に含(がん)す。目を開いて妙法を……一代の修多羅一言に含す
 伝教大師が天台大師の灌頂玄旨に注をほどこした書で注血脈といわれているもののなかで、一言の妙法について説明を加えている文に拠られている。すなわち「夫(そ)れ一言(ごん)の妙法とは両眼を開いて五塵(じん)の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法?(ここ)に達し一代の修多羅(しゅたら)一言に含(がん)す」とある。

所詮迹門を尋ぬれば迹広く、本門を尋ぬれば本高し。
如(しか)じ己心(こしん)の妙法を観ぜんにはと思(おぼ)し食(め)されしなり。

当世の学者此の意を得ざるが故に、天台己証(こしょう)の妙法を習ひ失ひて、止観は法華経に勝(まさ)り禅宗は止観に勝(すぐ)れたりと思ひて、法華経を捨てヽ止観に付き、止観を捨てヽ禅宗に付くなり。

禅宗の一門の云はく「松に藤懸(か)かる、松枯れ藤枯れて後如何(いかん)。上らずして一打」なんど云へるは天魔の語を深く信ずる故なり。
修多羅の教主は松の如く其の教法は藤の如し。
各々に諍論(じょうろん)すと雖も仏も入滅し教法の威徳(いとく)も無し。
爰に知んぬ、修多羅の仏教は月を指す指なり修多羅の仏教は月を指す指なり
 禅宗の邪義。円覚経に「修多羅の教は月を標(ひょう)する指の如し」とある語。禅宗では、修多羅の教え、つまり経文に説かれた教えは、月をゆびさす指のようなものであり、月を見れば指は無用であるように、禅法によって真如の月を悟ればよいのであって、指である経文は不用である、と主張する。
〈追記〉
 日蓮大聖人はこの謬義を破折して「修多羅の教は月をさす指の如しと云うは、月を見て後は徒者(いたずらもの)と云う義なるか。若(もし)其義にて候わば、御辺の親も徒者と云う義か、又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば、父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習い取るまでこそ用なれ、習い取つて後は無用なり。夫(そ)れ天は雨露を下(ふら)すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり、大地は草木を出生せんが為なり草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し。是を世俗の者の譬に、喉(のど)過ぬればあつさわすれ病愈(い)えぬれば医師をわすると云うらん譬に少も違(たが)わず相似たり。所詮修多羅と云うも文字なり、文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり。天台は震旦(しんたん)・禅宗の祖師の中に入れたり、何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の色心なり、凡(およ)そ一切衆生の三世不断の色心なり。何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字と云うや、是れ昔し移宅(わたまし)しけるに我が妻を忘れたる者の如し、真実の禅法をば何としてか知るべき哀(あわれ)なる禅の法門かな」(諸宗問答抄・三八〇n)と仰せである。禅宗が典拠とする円覚経は、詳しくは大方広円覚修多羅了義経という。一巻。唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされるが、中国選述の偽経(ぎきょう)ともいわれる。、禅の一法のみ独(ひと)り妙なり。
之を観ずれば見性(けんしょう)得達するなりと云ふ大謗法の天魔の所為を信ずる故なり。

然るに法華経の仏は寿命無量、常住不滅の仏なり。
禅宗は減度(めつど)の仏と見るが故に外道(げどう)の無の見(けん)なり。
是法住法位世間相常住(ぜほうじゅうほういせけんそうじょうじゅう「是の法は法位に住して 世間の相は常住なり」)の金言に背く僻見なり。

禅宗は禅は法華経の方便、無得道の禅なるを真実常住の法と云ふが故に外道の常見(じょうけん//世界やあらゆる存在は永久不変で、人の死後も我は消滅しないとする見方。断見とともに、一方的な極端説として否定される。)なり。
若し与(あた)へて之を言はヾ仏の方便三蔵の分斉(ぶんざい)なり。
若し奪(うば)って之を言はヾ但外道の邪法なり。
与(よ)は当分の義、奪(だつ)は法華の義なり。
法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云ふなり。

問ふ、禅を天魔の法と云ふ証拠如何。
答ふ、前々に申すが如し。
 立正観抄