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新尼御前御返事 文永一二年二月一六日 五四歳
本抄は、文永十二(一二七五)年二月十六日、大聖人様が五十四歳の御時、新尼御前より海苔の御供養と御本尊授与の願い出があり、それに対する返書として、身延において
本抄を賜った新尼御前は、大聖人様の故郷である安房国
次に、本抄において問題とされる大尼御前は、『清澄寺大衆中』に記された
また、大尼御前にとっても大聖人様は重恩の人でした。東条郷の地頭である東条
こうしたこともあり、大尼御前は大聖人様に帰依するようになったのですが、
大尼御前は、肝心なときに法華経を捨てた身でありながら、大聖人様が佐渡配流を
本抄は、大尼御前に対する御本尊授与の問題をはじめ、御本尊に関する深義を中心として御指南あそばされています。
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あまのり(海苔)一ふくろ送り給(た)び了(おわ)んぬ。又大尼御前よりあまのり畏(かしこ)まり入って候。
此の所をば身延の岳(たけ)と申す。駿河の国は南にあたりたり。
彼の国の浮島(うきじま)がはらの海ぎはより、此の甲斐国波木井郷身延の嶺(みね)へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづら(煩)はし。
富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風(びょうぶ)を立て並べたるがごとくなり。
河の水は筒の中に強兵(がっぴょう)が矢を射出したるがごとし。
此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵(みじん)となる。
かヽる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。
東は天子の嶺、南は鷹取(たかとり)の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つついたて(衝立)たるがごとし。
峰に上りてみれば草木森々たり。
谷に下りてたづぬれば大石連々たり。
大狼(おおかみ)の音(こえ)山に充満し、猿猴(えんこう)のな(鳴)き谷にひヾき、鹿のつま(妻)をこうる音(こえ)あはれしく、蝉のひヾきかまびすし。
春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。
たまたま見るものは、やまがつ(山賤)がた(焚)き木をひろうすがた、時々(よりより)とぶらう人は昔なれし同朋(どうぼう)なり。
彼の商山の四皓(しこう
漢の高祖・劉邦は性格の柔弱な盈(えい)太子に譲位しないで、戚(せき)夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂(りょ)皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡をやめ、帝位を譲り、第二代恵帝とした。
が世を脱(のが)れし心ち(地)、
竹林の七賢
(中国,3世紀後半に河南省の竹林に集って遊んだ阮籍,王戎,山濤,向秀,?康,劉伶,阮咸の 7人をさす。彼らは,老荘道家の思想(→老荘思想,道家)の影響を受けて,礼教を軽視し,世俗に背を向けて,竹林で気ままな生活を送ったと伝えられる。虚無厭世家の集団ともいわれ,清談の象徴的人物とみなされている。しかし,そのような見方は,西晋(→晋)の滅亡の原因を道家思想に転嫁しようとしたときに生まれた虚構の伝説である。実際には,七賢の大部分は高級官僚としての定職にあったのであり,竹林に遊んだという史実は見出せず,タケの林は北中国には存在しない。しかし,後世になると,世俗のわずらわしさから逃れて生きた賢者の集団として,中国人の生き方の一つの理想像となった。
酒と音楽と清談に興じた)
が跡を隠せし山もかくやありけむ。
峰に上りてわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらび(蕨)のみ並び立ちたり。
谷に下りてあまのりやを(生)いたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげ(茂)りふ(伏)したり。
古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今此のあまのりを見候ひて、よしなき心(※つまらない考え。たわいもない気持ち。)をもひいでてう(憂)くつらし。
かたうみ(片海)・いちかは(市河)・こみなと(小湊)安房国の東条郷にあった地名。大聖人の御聖誕の地であり、幼年期を過ごされた地である。大聖人御在世当時は安房国長狭郡東条郷の漁村であり、東条景信が地頭職にあった。なお、かたうみ、いちかはの地は、ともに明応・元禄の両度にわたる地震と津波で海中に没したといわれている。
の磯のほとりにて昔見しあまのりなり。
色形あぢ(味)わひもかはらず、など我が父母かはらせ給ひけんと、かた(方)ちが(違)へなるうら(恨)めしさ、なみだをさへがたし。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまわれたのだろうと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。
此はさてとヾめ候ひぬ。
但大尼御前の御本尊の御事、おほせつかはされておも(思)ひわずら(患)ひて候。
其の故は此の御本尊は天竺(てんじく)より漢土(かんど)へ渡り候ひしあまた(数多)の三蔵、漢土より月氏(がっし)へ入り候ひし人々の中にもしるしをかせ給わず。
西域(さいいき)等の書(ふみ)ども開き見候へば、五天竺の諸国寺々の本尊皆しるし尽くして渡す。
又漢土より日本に渡る聖人、日域(にちいき)より漢土へ入りし賢者等のしるされて候寺々の御本尊皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺(がんごうじ)・四天王寺等の無量の寺々の日記、日本紀と申すふみ(書)より始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺々の御本尊又かくれなし。
其の中に此の本尊はあ(敢)へてましまさず。
人疑って云はく、経論になきか、なければこそそこばく(若干)の賢者等は画像(えぞう)にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめと云云。
而(しか)れども経文は眼前なり。御不審の人々は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。
前代につくりかヽぬを難ぜんとをも(思)うは僻案(びゃくあん)なり。
例せば釈迦仏は悲母孝養のために・利天(とうりてん)に隠れさせ給ひたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。
但目連尊者一人此をしれり。此又仏の御力なりと云云。
仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いた(到)らざればひろ(弘)まらざる事法爾(ほう※真理にのっとって本来あるがままであること、自然(じねん))の道理なり。
例せば大海の潮(うしお)の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかく(盈虧)るがごとし。
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫(じんでんごう)より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累(ぞくるい)品に事極まりて候ひしが、
金色世界(金色の世界。
兜史多(とした)天宮(六欲天の第四天。内院と外院があり、内院は将来仏となるべき
補陀落(ふだらく)山の観世音、
日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ法華経薬王菩薩本事品第23に説かれる過去世の仏(法華経582n以下)。薬王菩薩が過去世に一切衆生憙見菩薩[いっさいしゅじょうきけんぼさつ]として修行をしていた時の師。)の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。
是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひヾ(響)けども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。
我(われ)五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづ(譲)るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。
末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星(すいせい)は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉(ききん)・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑(かっちゅう)をきて弓杖(きゅうじょう)を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。
乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。
而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほヾ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。
此の法門弘通せんには「如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」と申して、第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等なり。
此又第二第三の僧侶がうったへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈(めり)し、或は刀杖等云云。
而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。
其の故は天照太神「あまてらすおおみかみ」といい、大日?貴(おおひるめのむち)・日の神とも呼ばれる。伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の第一子で、大和朝廷の祖先神とされ、日本書紀、古事記などでは主神となっている。仏法上では守護神の一人とされる。跡を垂(た)れ給へり。
昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は
八幡天照太神と並んで広く崇拝された神で、古くは農耕を守る神であったが、日本国百代の王を守護する請願を立てたと伝えられる。仏教との混淆のなかで正八幡大菩薩とも呼ばれるようになった。また、武士の台頭とともに、武士の守護神とされ、とくに源氏に厚く信仰された。仏法においては、諸天善神の一人とし、法華経の守護神としている。・
加茂京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷(かもわけいかずち)神社と同市左京区下鴨泉川にある賀茂御祖(かもみおや)神社とを総称して賀茂神社という。両社はそれぞれ賀茂川の上流と下流にあり、それぞれ上賀茂社・下賀茂社、または上社、下社などと呼ばれる。上社の祭神は賀茂別雷命で、下社はその母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)と外祖父・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭る。社伝によると、社殿の創建は天武天皇の六年(六七八年)とされ、この地方の豪族賀茂氏が奉斎していた。平安遷都の後はとくに皇室の崇拝をうけ、王城鎮護の神とされ、伊勢神宮に準ずる規模と待遇を誇った。
等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋(いか)りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをか(会加)の小大夫会賀の小大夫とも書く。会賀次郎大夫生倫のこと。東条御厨(とうじょうのみくりや)の神主。吾妻鏡巻三には「安房国東条御厨、会賀次郎大夫生倫に付せられ訖(おわんぬ)」とあり、源頼朝より東条御厨の神主として委託された人。に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。
此の人東条郡を天照太神の御栖(おんすみか)と定めさせ給ふ。
されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。
例せば八幡大菩薩は昔は西府律令制下に西海道(九州)総管と大陸に対する外交折衝のうえで重要な役割をもっていた九州・筑前の大宰府のこと。この近くの宇佐八幡宮が八幡信仰の最古の中心で総本社とされる。にをは(御座)せしかども、中比(なかごろ)は山城国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡相模国(神奈川県)の鎌倉にある鶴岡八幡宮のこと。康平六年(一〇六三年)に源頼義が安倍貞任征伐に向かった時、京都の石清水八幡宮の分霊を由比郷の鶴岡に祀ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。以後、鎌倉幕府の庇護を受けて栄えた。祭神は応神天皇、比売神(ひめがみ)、神功皇后(神社によっては比売神、神功皇后に代えて仲哀天皇、武内宿禰等を祀る)。に栖(す)み給ふ。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。随って地頭敵(かたき)となる。
彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。
領家はいつわりをろ(癡)かにて、或時は信じ或時はやぶる。
不定なりしが日蓮御勘気を蒙(こうむ)りし時すでに法華経をすて給ひき。
日蓮先よりげざん(見参)のついでごとに難信難解と申せしはこれなり。
日蓮が重恩の人なれば扶(たす)けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹(じゅうらせつ)定んで偏頗(へんぱ)の法師(ほっし)とをぼしめされなん。
又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとが(咎)をばしらせ給はずしてうら(恨)みさせ給はんずらん。
此の由をば委細に助阿闍梨(すけのあじゃり安房国長狭郡東条郷の領家に親しく出入りしていた人であろうと思われるが、詳細は不明。大聖人の御弟子と思われるが、清澄寺の高僧であるという説もある。)の文にかきて候ぞ。
召して尼御前の見参(げんざん)に入れさせ給ふべく候。
御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候。
さど(佐渡)の国と申し、此の国と申し、度々の御志ありてたゆ(弛)むけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。
それも終にはいかんがとをそれ思ふ事、薄氷(うすらい)をふみ太刀(たち)に向かふがごとし。くは(詳)しくは又々申すべく候。新尼御前は大尼御前とご一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心尽くしといい、この国(身延)までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。詳しくは、また申しあげよう。
それのみならず、かまくら(鎌倉)にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候人々も、いまは世間やわ(和)らぎ候かのゆへに、く(悔)ゆる人々も候と申すに候へども、
「此はそれには似るべくもなく、いかにもふびん(不便)には思ひまいらせ候へども、骨に肉をばか(替)へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給ひ候はん事を叶ふまじき由、いつまでも申し候べく候。大尼御前はそれらの人々と全く違っているので、いかにもかわいそうだとは思うが、骨に肉を換えられない道理であるから、法華経に違背された人に御本尊をさしあげることはできないと、どこまでもお伝えください。恐々謹言。
二月十六日 日 蓮 花押
新尼御前御返事
東条景信は、領家を未亡人とあなどってか、執権北条長時の父・極楽寺重時をうしろだてにして武力で圧迫し、領内を支配下において自由にしようとした。
こうした状況下で起きたのが、清澄・二間の二か寺の支配にかかわる対立抗争である。この時、大聖人は領家に味方され、景信の野望を打ちくだいて、二か寺を領家に取り戻している。