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    太田殿許御書 文永一二年一月二四日  五四歳 (「許(もと)」とは、影響が及ぶ範囲の意で、ここでは、大田乗明にあてて送られた御手紙ではあるが、対象は大田乗明一人ではなく、より広い範囲の門下であると考えられることから「大田殿許御書」と後人が名づけたもの。本抄の最後にも「予が門家等深く此の由(よし)を存ぜよ」と広く門家に呼びかけられている御文がある。)

 新春の御慶賀自他幸甚幸甚。

 抑(そもそも)俗諦(ぞくたい世間の事相を明らかに知る)・真諦(しんたい仏が説きあらわそうとした究極の真理)の中には勝負を以て詮(せん)と為(な)し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか。

而るに諸経・諸宗の勝劣は三国の聖人共に之を存じ、両朝(りょうちょう(日本と中国))の群賢(ぐんけん)同じく之を知るか。
法華経と大日経と天台宗と真言宗の勝劣は月支(がっし)・日本に未だ之を弁ぜず、西天(せいてん)・東土(とうど)にも明らめざる物か。
所詮天台・伝教の如き聖人、公場に於て是非を決せず、明帝(めいてい(二八年〜七五年)。中国・後漢第二代皇帝。光武帝の第四子。廟号(びょうごう)は顕宗。諡(おくりな)は孝明皇帝。内治外征に力を尽くし、班超(はんちょう)を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。仏祖統記巻三十五によると明帝七年(六四年)、帝は丈六の金人(こんじん)が項(うなじ)に日光を佩(お)びて庭を飛ぶ夢を見た。醒めて群臣に問うたが、だれも答えられなかった。その時、太史傅毅(ふき)が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人(しょうにん)が出現し、その名を仏と聞いていると進言した。そこで帝は、中郎将の蔡?(さいいん)、秦景(しんけい)、博士の王遵(おうじゅん)ら十八人を西域に遣わし、仏道を求めさせた、とある。また、金湯編(こんとうへん)には、これらの十八人が天竺の隣の月氏国に行ったとき、摩謄(まとう)(摩謄迦(まとうか))と竺法蘭(じくほうらん)の二人に会い、仏像および梵語の経典六十万言を得、それらを白馬に載せ、ともに洛陽に戻った。帝は摩・蘭二人を鴻臚寺(こうろじ)に迎え、翌年、洛陽の西に白馬寺を建てて仏教を流布させたという。)・桓武(かんむ(七三七年〜八〇六年)。第五十代桓武天皇のこと。光仁天皇の第一皇子。東北蝦夷を討ち、都を長岡京から平安京に遷して律令制の再建に努めるとともに、伝教大師最澄の天台宗を鎮護国家の法として重んじた。)の如き国主之を聞かざる故か。
所謂(いわゆる)善無畏三蔵(ぜんむいさんぞうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%84%A1%E7%95%8F)等は法華経と大日経とは理同事勝(りどうじしょう)等と、慈覚(じかく)・智証(ちしょう)等も此の義を存するか。

弘法大師は法華経を華厳経より下(くだ)す等、此等の二義共に経文に非ず、同じく自義を存するか。
将又(はたまた)慈覚・智証等表(ひょう)を作って之を奏(そう)す。
申すに随って勅宣(ちょくせん)有り。
聞くが如くんば真言・止観(しかん)両教の宗をば同じく醍醐(だいご)と号し倶(とも)に深秘と称す。
乃至譬(たと)へて言はヾ猶(なお)人の両目(りょうもく)、鳥の双翼(そうよく)の如き者なり等云云。
又重誡(じゅうかい)の勅宣(ちょくせん)有り。
聞くが如くんば山上の僧等専ら先師の義に違して偏執(へんしゅう)の心を成ず、殆(ほと)んど以て余風を扇揚(せんよう)し旧業(くごう)を興隆することを顧(かえり)みず等云云、余生まれて末(まつ)の初めに居し学を諸賢の終はりに禀(う)く。
慈覚(じかく)・智証(ちしょう)の正義(しょうぎ)の上に勅宣方々これ有り、疑ひ有るべからず、一言(いちごん)をも出だすべからず。
然りと雖(いえど)も円仁(えんにん)・円珍(えんちん)の両大師、先師伝教大師の正義を劫略(こうりゃく・脅かして、かすめ取ること。)して勅宣を申し下(くだ)すの疑ひ之有る上、仏誡(ぶっかい)遁(のが)れ難し。
随って又亡国の因縁、謗法の源初(げんじょ)これに始まるか。
故に世の謗(そし)りを憚(はば)からず、用(ゆう)・不用(ふゆう)を知らず、身命を捨てヽ之を申すなり。

 疑って云はく「善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち金剛智
(六七一年〜七四一年)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。十歳の時那爛陀(ならんだ)寺に出家し、寂静智(じゃくじょうち)に師事した。三十一歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき七年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元八年(七二〇年)唐都の洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
〈追記〉
 金剛智が密教を教わったとされる竜智は、竜樹の弟子といわれるが、竜樹は二世紀中ごろから三世紀中ごろの人である。つまり竜智は、八世紀に金剛智と出会うまで何百年も生き続け、金剛智が亡くなってからもその弟子・不空を教導したことになる。真言家では、竜智は七百歳生きたと伝えられるが、密教の系譜とは、これほどまでに胡散臭いものなのである。)・不空(ふくう不空
(七〇五年〜七七四年)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目?跋折羅(あもきゃばしゃら)、意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。十五歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家。開元二十九年(七四一年)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、六年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。「金剛頂経」三巻など多くの密教経典類を翻訳し、羅什、玄奘、真諦(しんだい)と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。)の三三蔵(さんさんぞう)、弘法・慈覚・智証の三大師、二経を相対して勝劣を判ずるの時、或は理同事勝(りどうじしょう)或は華厳経より下(おと)る」等云云。
随って又聖賢(せいけん)の鳳文(ほうもん)聖賢の鳳文(ほうぶん)
 聖人・賢人の書いた文のこと。ここでは鳳文とは善無畏らの三三蔵、弘法らの三大師の説を正しいとして宣揚した高僧や学者の著述、さらには天皇の勅宣を、このように表現されたと拝される。これ有り、諸徳之を用ひて年久し。
此の外に汝一義を存して諸人を迷惑せしむ。剰(あまつさ)へ天下の耳目(じもく)を驚かす。豈(あに)増上慢(ぞうじょうまん)の者に非ずや如何。

答へて曰く、汝等が不審(ふしん)尤最(もっとも)なり。
如意論師(にょいろんし如意論師
 生没年不明。世親菩薩の師とされる。大唐西域記巻二には「室羅伐悉底(しらばして)国の王(超日王)は、私怨をいだき、如意論師をはずかしめようと、外道の学者等百人を集めて論師と討論させた。そのうち九十九人が屈服したが、最後の一人は、王とともに強固に論師を辱しめた。論師は『党援の衆と大義を競うことなかれ、群迷の中に正論を弁ずることなかれ』と世親に遺誡し、みずから舌をかみ切って死んだ。世親はその遺誡を守って、新しい王の時に如意論師の名誉は回復され、改めて世親はその外道たちと論議し、これを打ち破った」と記されている。
〈追記〉
 室羅伐悉底(しらばして)は、コーサラ国の首都・舎衛城である。講義文中に「室羅伐悉底(シラーヴァスティー)国のヴィクラマーディティヤ王(唐に超日(ちょうじつ)という)」とあり、これは古代インドのグプタ朝第三代の王・チャンドラグプタ二世(在位三七六年〜四一五年)のことで、自らをヴィクラマーディティヤ(武勇の太陽の意)と名乗ったと伝えられる。また「間もなく超日王は国を失った」とあるが、チャンドラグプタ二世(超日王)は北インドを統一し、王朝の最盛期を築いたが、国を失った等の事実は存しない。また超日王に代わって「興国の王が運にあたり」とあり、幼日(ようじつ)王と記している。幼日王は梵名バーラーデイトヤ(B?l?ditya)、婆羅阿迭多(ばらあてつた)と音写し、the morning sun(朝日)の意により、幻日王、新日王、幼日王とも訳す。しかし歴史上、超日王の後を継いだのは幼日王ではなく、帝日(ていじつ)王である。すなわちグプタ朝第四代の王・クマーラグプタ一世(在位四一五年〜四五五年)、またの名をシャクラーディトヤ王(音写して鑠迦羅阿僧迭多、唐に帝日という)。大唐西域記巻三には、シャクラーディトヤ王がナーランダー寺院を創建した事跡を記し、後代に幼日王がナーランダー寺の東北方に伽藍を建立したとある。大唐西域記の記述によると、グプタ王朝の系譜は以下の通りとなる。
 ヴィクラマーディティヤ王(超日王)チャンドラグプタ二世 
 シャクラーディトヤ王  (帝日王)クマーラグプタ一世  
 ブッダグプタ王
 タターガタ王
 バーラーデイトヤ    (幼日王)
 なお、仏教徒を弾圧した王が国を失った話として、大唐西域記巻四に、仏教徒の幻日王が仏教を弾圧した大族王を捕らえた話がある。北インド結迦(けつか)国(磔迦(たくか)(Ceka)国)の摩醯邏矩羅(まひらくら)(大族王)は国内の仏教を弾圧し、あるとき摩竭陀(まがだ)国を攻めたが仏教徒の幻日王に捕らえられた。大族王は幻日王に放逐され、流浪の末、加弥羅国(かしゅみらこく)(カシミール)に投じ、以後も悪事を働いたとある。前出の幼日王とこの幻日王とは同一人物で、新日王ともいい、漢訳の違いである。大族王は梵名ミヒラクラ(Mihirakula)といい、ガンダーラ・北インドを支配したエフタル(古代中央アジアの遊牧民族国家)の王(在位五一二年〜五二八年頃)で、大規模な仏教弾圧を行なった。しかし当時の碑文によると五二八年(五三三年とも)、インド中央西部、デカン高原北端のマールワ(M?lw?)地方のマンダソールを都とするアウリカラス(Aulikaras)国の王、ヤショーダルマン(Ya?odharman)がミヒラクラを破り、カシミールに敗走させたとある。このヤショーダルマンの出自は不明であるが、年代的にはバーラーデイトヤ(幼日王)が登場した時代に相当すると思われる。こうした歴史的事実をもとに、大唐西域記では幻日王が大族王を敗走せしめた話となったと推測しうる。また仏教徒にとって英雄である幻日王(すなわち幼日王)が、超日王の後を世襲して世親菩薩を擁護した話が成立した、と推測することも無謀ではないと思われる。)の提婆菩薩(だいばぼさつ提婆菩薩
 付法蔵第十四祖・迦那提婆(かなだいば)のこと(第三祖に末田地(までんち)を当てると第十五祖)。三世紀ごろの南インドの人。提婆菩薩伝等によると、バラモンの出身で竜樹の弟子となった。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。昔、大自在天の請(こ)いによって一眼を供養したため片眼となったという。また、一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。諸国を遊化して広く衆生を救い、あるとき南インドで外道に帰依していた王を救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて恨みを懐き、提婆を刺した。しかし提婆は命尽きる前に、その外道の愚かさをあわれみ、自分を殺そうとした者をも救ったといわれる。)を灼誡(しゃっかい明らかないましめのこと。また強い処罰のこと。炳は明らか、誡はいましめの意。なお、御真筆には「灼誡(しゃくかい)」とある。「灼」も明らかとの字義がある。)せる言は是なり。
彼の状に云はく「党援(とうえん)の衆と大義を競(きそ)ふこと無く、群迷(ぐんめい)の中に正論(しょうろん)を弁ずること無かれと言ひ畢(おわ)って死す」云云。
(※大唐西域記には「提婆菩薩」ではなく「世親菩薩」への戒めとして説かれている)
御不審(ふしん)之に当たるか。
然りと雖(いえど)も仏世尊は法華経を演説するに一経の内に二度の流通これ有り、重ねて一経を説いて法華経を流通す。
涅槃(ねはん)経に云はく「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るベし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり」等云云。
善無畏・金剛智の両三蔵、慈覚・智証の二大師、大日の権経を以て法華の実経を破壊(はえ)せり。

 而るに日蓮世を恐れて之を言はずんば仏敵(ぶってき)と為(な)らんか。
随って章安大師(しょうあんだいし)末代の学者を諌暁(かんぎょう)して云はく「仏法を壊乱(えらん)するは仏法の中の怨(あだ)なり、慈(じ)無くして詐(いつわ)り親(した)しむは是彼の人の怨(あだ)なり、能(よ)く糾治(きゅうじ ●ただす ●糾罪治罰の義で、罪を糾弾し調べ、法によって治めること。)する者は即ち是彼が親なり」等云云。
余は此の釈を見て肝に染むるが故に身命を捨てヽ之を糾明(きゅうめい)するなり。

提婆菩薩は付法蔵(ふほうぞう)の第十四、師子尊者(ししそんじゃ師子、師子比丘ともいう。六世紀ごろの中インドの人で付法蔵の最後の伝灯者。付法蔵の第二十四にあたる。ただし、釈尊を第一祖とすると、第二十五にあたることとなる。付法蔵因縁伝巻六によると、?賓国(けいひんこく)でおおいに仏事をなしたが、国王弥羅掘は邪見の心が盛んで敬信せず、仏教の塔寺を破壊し、衆僧を殺害し、最後に利剣で師子尊者の頸(くび)を斬った。その時一滴の血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。これは尊者が白法(びゃくほう)(正しい教え)をもっていたこと、また成仏したことをあらわすとされる。摩訶止観巻一では、弥羅掘王を檀弥羅(だんみら)王としている。景徳伝灯録巻二によると、師子尊者を斬ったあと、王の右手は地に落ち、七日のうちに王も死んだという。)は二十五に当たる。
或は命を失ひ或は頭(こうべ)を刎(は)ねらる等是なり。

疑って云はく、経々の自讃(じさん)は諸経の常の習ひなり。
所謂金光明(こんこうみょう)経に云はく「諸経の王」と。
密厳(みつごん)経の「一切経中の勝」と。
蘇悉地(そしっじ)経に云はく「三部の中に於て此の経を王と為す」と。
法華経に云はく「是諸経の王」等云云。
随って四依(しえ

)の菩薩、両国の三蔵も是くの如し、如何。

答へて云はく、大国小国・大王小王・大家小家・尊主高貴各々分斉有り。
然りと雖も国々の万民皆大王と号し同じく天子と称す。
詮(せん)を以て之を論ぜば梵王(ぼんのう)を大王と為し、法華経を以て天子と称するなり。

求めて云はく、其の証如何(いかん)。

答へて曰く、金光明経の「是諸経之王(ぜしょきょうしおう)」の文は梵釈の諸経に相対し、
密厳経の「一切経中勝(いっさいきょうちゅうしょう)」の文は次上(つぎかみ)に十地(じゅうじ)経・華厳経・勝鬘(しょうまん)経等を挙げて彼々の経々に相対して一切経の中に勝ると云云。
蘇悉地経の文は現文之を見るに三部の中に於て王と為す等云云。
蘇悉地経は大日経・金剛頂(こんごうちょう)経に相対して王と云云。
而るに善無畏(ぜんむい)等或は理同事勝(りどうじしょう)或は華厳より下(おと)る等云云。
此等の僻文(びゃくもん  僻 正常でないこと。妥当でないこと。まともでないこと。)は蛍火(けいか)を日月に同じ大海を江河(こうが)に入るヽか。

 疑って云はく、経々の勝劣之を論じて何か為(せ)ん。

答へて曰く、法華経の第七に云はく「能く是の経典を受持する者有れば亦復(またまた)是くの如し。一切衆生の中に於て亦為(こ)れ第一なり」等云云。
此の経の薬王品(やくおうほん)に十喩(じゅうゆ法華経が諸経の中で最も勝れていることを示すために、法華経薬王菩薩本事品第二十三で説かれた十種類の譬喩のこと。@水喩(諸水の中で海が第一であるように、法華経も諸経の中で最も深大である)A山喩(諸山の中で須弥山が第一であるように、法華経も諸経の中で最上である)B衆星(しゅしょう)喩(諸星の中で月天子〔月〕が第一であるように、法華経も諸経の中で最も明るく輝いている)C日光喩(日天子〔太陽〕が諸の闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を除く)D輪王喩(諸王の中で転輪聖王が第一であるように、法華経も諸経の中で最も尊い)E帝釈喩(帝釈天が三十三天の王であるように、法華経も諸経の王である)F大梵王喩(大梵天王が一切衆生の父であるように、法華経も一切の賢聖や菩提の心を起こす者の父である)G四果辟支仏喩(しかびゃくしぶつゆ)(一切の凡夫の中で四果の声聞・辟支仏が第一であるように、法華経も諸経の中で第一である)H菩薩喩(一切の声聞・辟支仏の中で菩薩が第一であるように、法華経及びこれを持つ者は人法ともに第一である)I仏喩(仏が諸法の王であるように、法華経も諸経の中の王である)をいう。)を挙げて已今当(いこんとう)の一切経に超過すと云云。
第八の譬へ、兼ねて上の文に有り。十喩のなかの第八の譬である四果辟支仏喩は、法華経が一切経の中で最高の経典であることとあわせて、法華経を受持する人は一切衆生の中で第一であることが説かれており、経が勝れる故に人もまた勝れるとの理が併(あわ)せて説かれている、との御指摘と拝される。薬王品には「又(ま)た一切の凡夫人(ぼんぶにん)の中に須陀?(しゅだおん)・斯陀含(しだごん)・阿那含(あなごん)・阿羅漢・辟支仏は為(こ)れ第一なるが如く、此(こ)の経も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切の如来の説きたまう所、若(も)しは菩薩の説く所、若しは声聞の説く所、諸の経法の中に、最も為(こ)れ第一なり。能(よ)く是(こ)の経典を受持すること有らん者も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切衆生の中に於いて、亦(ま)た為(こ)れ第一なり」とある。ゆえに次下に「経の勝劣を詮ずるのみに非ず法華経の行者は一切の諸人に勝(すぐ)れたるの由之れを説く」と示されたのである。
所詮仏意の如くならば経の勝劣を詮(せん)とするに非ず。
法華経の行者は一切の諸人に勝れたるの由(よし)之を説く。
大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民なり。
法華経の行者は須弥山(しゅみせん)・日月・大海等なり。
而るに今の世は法華経を軽蔑(けいべつ)すること土の如く民の如し。
真言の僻人(びゃくにん)等を重崇(じゅうすう)して国師と為(す)ること金(こがね)の如く王の如し。
之に依(よ)って増上慢(ぞうじょうまん)の者国中に充満す。
青天瞋(いか)りを為(な)し黄地夭aiおうじようげつ「黄地」は、一般には大地のことで、中国北部の土地が黄土であることからこう呼ばれる。「夭」は妖(あやかし)の意で不吉な災いのこと、また「?」もわざわいのことである。)を致す。
涓(したたり)聚(あつ)まりて傭塹(ようぜん)を破るが如く、民の愁(うれ)ひ積りて国を亡す等是なり。細く流れる水があつまって城の壁や堀を破るように、民衆の嘆きや悲しみが積もって国を滅ぼす等というのはこれである。

問ふて云はく、内外の諸釈の中に是くの如きの例これありや。
答へて曰く、史臣呉競(ごきょう(六七〇年〜七四九年)。唐代の歴史家。?(べん)州(河南省開封)の人。史館に入って国史を編修した。編纂した書は、貞観政要十巻など多数がある。なお御書全集には「呉競」とあるが、御真筆には「呉兢」とあり、史料にも「呉兢」とあるのでこの字に統一する。)が太宗(たいそう(五九八年〜六四九年)。中国・唐王朝の第二代皇帝(在位六二六年〜六四九年)。姓名は李世民。太宗は廟号(びょうごう)。高祖・李淵(りえん)の次子。隋末、天下おおいに乱れたとき、父とともに太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、兄の一派による自分への暗殺計画を事前に察知し、逆に兄を殺害、高祖より王位を受けた。房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)・魏徴(ぎちょう)らの名臣を用いて貞観(じょうがん)の治を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。)に上(たてまつ)る表(ひょう天皇や君主、国王に上奏する文書のこと。中国では漢代以後、上奏文のうち封をせずに外部に見られてよいものを表といい、おもに陳情に用いた。

史臣呉兢(ごきょう)が太宗に上(たてま)つる表史官である呉兢が太宗に上奏した文書、との意。後出の「表」の記述は、貞観政要のもの。
〈追記〉
 貞観政要は、唐の太宗が貞観年間に群臣と交わした政治上の問答や名臣たちの事績等を編纂した書。呉競は太宗没後の人で、貞観政要を上進したのは中宗であり、のちに修訂して玄宗に再進した。すなわち上記の文は、太宗に直接上奏した表ではなく、「亡き太宗に献じた表」の意である。再説すれば、太宗の治世を賛嘆して時の皇帝(中宗)に上奏した文書、と解するのが妥当である。に云はく
「竊(ひそ)かに惟(おもんみ)れば太宗・文武皇帝の政化、曠古(こうこ)よりこのかた末だ是くの如くの盛んなる者有らず。唐(とう)の尭(ぎょう唐堯(とうぎょう) 中国古代の伝説上の帝王。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。堯は諡号。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。徳をもって天下を治め、中国の皇帝の模範とされた。史記では五帝の一人に数えられている。)、虞(ぐ)の舜(しゅん虞舜(ぐしゅん)
 中国古代の伝説上の帝王。姓は虞(ぐ)、名は重華(ちょうか)。舜は諡号。三十歳で堯王の信任を受けて後に摂政となった。王の死後、人心が舜に傾いたので位に就き、八元八ト(はちげんはちがい)という十六人の人材を起用しよく善政を行なったという。史記では五帝の一人に数えられている。舜は孝に徹した人で、頑愚(がんぐ)な父が後妻のことばに迷い、たびたび舜を殺害しようとした。あるときは屋根にのぼらせて火を放ち、あるときは井戸に生き埋めにしようとしたが果たさなかった。ついに父は盲目になったが、舜は最後まで孝養をつづけたという。堯典、報恩伝等にある。
)、夏(か)の禹(う夏禹(かう)
 中国古代の伝説の国・夏(か)の国の王。姓は?(じ)、名は文命。禹は諡号。洪水を治めた功によって前王・舜から位を譲られたとされる。)、殷(いん)の湯(とう殷湯(いんとう)
 中国・殷王朝初代の王。成湯ともいう。史記などによると、亳(はく)に住んでいたが、隣国を討って強大となり、夏(か)の桀王(けつおう)を倒して殷王朝を創始した。また名臣・伊尹(いいん)を用いて政治の業績をあげ、高徳の王であったといわれる。
〈追記〉
 湯が都としたという亳(はく)の所在については古来異説が多いが、一九八三年、河南省偃師(えんし)県西の尸郷溝(しきょうこう)に、殷代初期と推定される城壁が発見された。南北約千七百メートル、東西約千二百メートル、面積約百九十万平方メートルの都城址(とじょうし)で、『漢書』地理志の「尸郷、殷湯の都せしところ」など、古文献に多く「西亳」とする地がこれであろうと推測されるに至った。(日本大百科全書(ニッポニカ)より一部抜粋))、周の文・武周の文武(ぶんぶ)
 中国・周の文王と武王のこと。文王は中国・周王朝の基礎をつくった君主。理想の名君とされる。姓は姫(き)、名は昌。武王の父。自らを西伯と号し、都を?(?邑(ほうゆう))と定め、周囲の諸族を征服して陝西(せんせい)地方などを治めた。太公望をはじめ多くの賢者、英傑を集め、諸候の信頼を得て、周王朝の基礎をつくった。死後、子の武王が殷王朝を滅ぼし、周王朝を創建して、文王と諡(おくりな)した。武王は、中国・周王朝初代の王。文王の子。姓は姫、名は発。父の遺志を継ぎ、父の没後、殷の紂王を討って天下を統一、鎬京(こうけい)を都として周王朝を創建した。呂尚(りょしょう)(太公望)を斉に、弟の周公旦(たん)を魯に封じ、後事を託し没した。、漢の文・景漢の文景(ぶんけい)
 中国・前漢の文帝と景帝のこと。文帝(在位前一八〇年〜前一五七年)は高祖・劉邦の庶子。姓名は劉恒(りゅうこう)。代王に封建されたが、朝政を専断した呂后が没し、呂氏一族が族誅され、陳平、周勃らに新皇帝として迎えられ即位した。農業を重んじ、民衆を安心させた。次代の景帝とあわせて文景の治と称され、その仁政をたたえられている。景帝(在位前一五七年〜前一四一年)は文帝の五男で嫡子。姓名は劉啓(りゅうけい)。文帝の善政によって養われた国力をさらに充実させ、次の武帝時代の発展の基礎を築いた。
と雖(いえど)も皆未だ逮(およ)ばざる所なり」云云。

今此の表(ひょう)を見れば太宗(たいそう)を慢(まん)ぜる王と云ふべきか。
政道の至妙、先聖(せんしょう)に超えて讃(ほ)むる所なり。今、この文書を見て、太宗皇帝を慢心の王というべきであろうか。(太宗の)政治の行われ方は、極めて巧みで優れたものであることを、先代の聖人に超えていると讃歎しているのである。

章安大師天台を讃(ほ)めて云はく「天竺の大論すら尚其の類に非ず、真丹の人師何ぞ労(わずら)はしく語るに及ばん。此誇耀(こよう)に非ず法相(ほっそう)の然らしむるのみ」等云云。
従義法師(じゅうぎほっし従義(じゅうぎ)法師
(一〇四二年〜一〇九一年)。中国・宋代の天台宗の学僧。名は従羲、謚号は神智。温州平陽の人。十七歳で扶宗継忠に仕え、天台を学んだ。ついで諸国を巡り、大雲・真白・五峰・宝積・妙果の五寺に歴住した。二十七歳の時、妙果寺で四教義を教え、「天台四教儀集解」三巻を著した。晩年、寿聖寺で宗勢を振るい、禅・華厳・法相等を破折した。初め山家説(天台の正統を継承した四明知礼の流れを汲む説)を支持したが、後世離反したので山外派と呼ばれた。著書に「法華三大部補注」十四巻等がある。)重ねて讃(ほ)めて云はく「竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)も未だ天台には若(し)かず」と。
伝教大師自讃(じさん)して云はく「天台法華宗の諸宗に勝るヽことは所依(しょえ)の経に拠(よ)るが故なり。自讃毀他(じさんきた)ならず、庶(こいねが)はくば有智(うち)の君子、経を尋ねて宗を定めよ」云云。
又云はく「能(よ)く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり、已(すで)に仏説に拠(よ)る、豈(あに)自讃(じさん)ならんや」云云。

今愚見(ぐけん)を以て之を勘(かんが)ふるに、善無畏(ぜんむい)、弘法、慈覚、智証等は皆仏意に違(たが)ふのみに非ず、或は法の盗人或は伝教大師に逆(さから)へる僻人(びゃくにん)なり。
故に或は閻魔(えんま)王の責(せ)めを蒙(こうむ)り、或は墓墳(ぼふん)無く墓墳(ぼふん)無く
 ここでは、慈覚についての仰せと考えられる。慈覚大師伝など山門の記録には、慈覚は比叡山で死に、寺北の天梯の尾の中岳に葬り、この地を華芳と名付けたとされている。しかし、別の説(山門秘伝見聞など)によれば出羽国・立石寺(山形県山形市)で死んだともされており、立石寺には慈覚大師の入定窟といわれる洞窟があってそこに金棺(人骨と木掘りの頭が入っているという)もある。また、叡岳要記下には「慈覚大師。円仁。前唐院に於いて御入滅。御廟不分明(ふふんみょう)。或は花方峯か」とあって、墓墳の所在が不明であることを記している。、或は事を入定(にゅうじょう)に寄せ事を入定に寄せ

 報恩抄には「弘法大師も又跡なし(中略)去(いぬ)る承和二年三月二十一日に死去ありしかば・公家より遺体をば・ほうぶ(葬)らせ給う、其の後誑惑(おうわく)の弟子等集りて御入定(にゅうじょう)と云云」(三一一n)とある。入定とは @禅定に入ること。心を一処に定めて、身・口・意の三業(さんごう)の働きを止めること。あるいは、A得道者(仏道を悟った者)が死去すること、をいう。真言宗の主張する「入定」は、この@の意を含んだものであったと考えられる。
 真言宗では、弘法の死は通常人の死に当たる入滅説を否定し、弘法は入定されたのであると主張する。この入定説の主張は「弘法大師御入定勘決記」等に記されている。
 入滅説を裏付ける資料には次のようなものがある。続日本後紀巻四の「法師の喪を弔い、並びに喪料を施す」との記述や、高野物語の「只世常人ノ入滅ノヤウトコソ見テ侍レ」などである。
 一方、入定説は、確かに史料もあり真言宗の信仰の枢要(すうよう)となってはいるが、極めて非現実的なものである。
 報恩抄に「或はかみをそりて・まいらするぞと・いゐ或は三鈷(さんこ)をかんど(漢土)より・なげたりといゐ或は日輪・夜中に出でたりといゐ或は現身に大日如来となりたりといひ」(三一一n)と仰せのように、入定している弘法の髪が伸びたので剃ってきたとか、生前の所行についても、中国から投げた三鈷が高野山の地に留まったとか、現身に大日如来になられたなどというものである。このうち、遺骸の髪をそったことについては「今昔物語・三」の「弘法大師、始建高野山語第廾五」にも記されている。、或は度々(たびたび)大火・大兵に値(あ)へり。
権者は恥辱(ちじょく)を死骸(しがい)に与(あた)へずといへる本文に違するか。
(善無畏は)閻魔王の責めをこうむり、あるいは(慈覚は)墓がなく、あるいは(弘法は)通常人と同じように死去したにすぎないにもかかわらず弟子らが入定したと言い張ったり、あるいは、(慈覚の門家・比叡山延暦寺と智証の門家・園城寺は)たびたび大火災にあい、また多数の兵・大軍に攻められている。(弘法や慈覚のこうした姿は)仏・菩薩が衆生救済のために仮の姿をもってあらわれた存在であるならば、屍(しかばね)が辱(はずかし)められることはない、との古人の言葉に反するではないか。

疑って云はく、六宗六宗
 南都六宗のこと。奈良時代に、奈良(南都)を中心に興隆した倶舎・成実・三論・律・法相・華厳の六宗。当時は、宗派というよりも学派であり、各寺院では多くの宗派の教義を研究していた。南都六宗は南都七大寺(東大寺・西大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺)を中心に研究された宗派である。東大寺では六宗すべてが成立していたが毘盧遮那仏(大仏)ができて華厳宗が中心となった。三論宗は元興寺・大安寺が中心であり、法相宗 は元興寺・興福寺が中心であった。成実宗・倶舎宗はそれぞれ三論宗・法相宗とともに研究され、独自に発展することはなかった。律宗は鑑真が来朝してから形成された。の如く真言の一宗も天台に落ちたる状これありや。
答ふ、記の十の末法華文句記の巻十の末に之を載(の)せたり。
随って伝教大師、依憑集(えひょうしゅう)を造って之を集む。
眼有らん者は開いて之を見よ。
冀(ねがわしき)かな末代の学者、妙楽妙楽
(七一一年〜七八二年)。妙楽大師のこと。中国・唐代の天台宗中興の祖。天台大師より六世の法孫。諱(いみな)は湛然(たんねん)。姓は戚(せき)氏。常州晋陵県荊渓(けいけい)(江蘇省)の人。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元十八年(七三〇年)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝七年(七四八年)三十八歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。禅・華厳・真言・法相などの隆盛の陰に天台宗が衰退していたなかにあって、妙楽大師は、天台大師の法華三大部の注釈書を著し、各宗を論破するなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴(ぶつろう)道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻など多数ある。・伝教の聖言に随って、善無畏・慈覚の凡言(ぼんげん)を用ふること勿(なか)れ。
予が門家等深く此の由を存ぜよ。今生(こんじょう)に人を恐れて後生(ごしょう)に悪果を招くこと勿れ。恐惶謹言
 正月廿四日             日  蓮 花押
太田金吾入道殿

史臣呉兢が太宗に上(たてま)つる表に云く

 貞観政要からの一文を引用されているところである。史料によれば、呉兢は貞観政要の編纂者ではあるが、上奏した相手は、唐の中宗に対してであって、太宗ではない。太宗の生没年が五九八年から六四九年で、呉兢は六七〇年から七四九年であるから、生存年代から考えても、呉兢が太宗に上奏することはありえない。
 そこで、この部分の「太宗」は「中宗」の誤りとする説がある。確かに、史料と本文の記述からすれば、そのように解するほかないようにも思える。
 しかし、日蓮大聖人は、唐初期の治者である太宗、則天武后、玄宗等について諸御抄で言及されており、その政治の混乱の状況等についても御存知であったと考えられる。また、貞観政要の内容が太宗の政治哲学を記したものであることは、よく知られているところである。
 したがって、史臣である呉兢が太宗の治世を賛嘆して中宗に上奏した文書、と解するほうがより妥当ではないか、と考えられる。
 すなわち、上奏の相手は中宗ではあるが、その内容に着眼すれば、すでに亡き太宗に献じた文書である、との視点から「太宗に上(たてま)つる表」と表現されたとも考え得る。
 唐初期の治者の在位は、@高祖(在位六一八年〜六二六年)、A太宗(在位六二六年〜六四九年)、B高宗(在位六四九年〜六八三年)、C中宗(在位六八三年〜六八四年)、D睿宗(えいそう)(在位六八四年〜六九〇年)、則天武后(在位六九〇年〜七〇五年、国号・周)、中宗(在位七〇五年〜七一〇年、重祚)、睿宗(在位七一〇年〜七一二年、重祚)、E玄宗(在位七一二年〜七五六年)である。
(追記 則天武后は武周を建国したため、唐の治世者の代数に入らない。中宗・睿宗の重祚も皇帝の代数から外すと、玄宗は第六代皇帝である。ただし後述に示す通り、本抄では重祚も代数に加えられ、「第八代玄宗皇帝」とされている)
 そして、C中宗は、則天武后が皇后・王氏を廃して立てた者であり、則天武后はやがて中宗、睿宗を廃して自ら皇后となった。
 また、則天武后の後に復位した中宗は皇后・韋氏に殺され、E玄宗は韋氏を廃して睿宗を復位させた後まもなく即位した。
 すなわち、@高祖、A太宗、B高宗、C中宗、D睿宗、則天武后、中宗(重祚)、睿宗(重祚)、E玄宗、と皇帝及び実質的な治者が錯綜している。また、中宗は治者としては優れていたとはいえず皇后・韋氏に殺されている。そこで呉兢は、玄宗に再び上奏した、との史料もある。
 こうした政治の混乱を踏まえて、日蓮大聖人は、あえて中宗の名を挙げられなかった、と考え得る。なお、曾谷入道殿許御書に「太宗より第八代玄宗皇帝の御宇(ぎょう)に真言始めて月氏より来れり」(一〇二九n)と記されている。
 これは、上記のA太宗からE玄宗までを、@高祖、A太宗、B高宗、C中宗、D睿宗、E中宗、F睿宗、G玄宗として「第八代玄宗皇帝」とされたのではないかと考えられる。

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記の十の末に之を載せたり
 
「之を載せたり」とは、このこと、すなわち真言宗が天台宗より劣っていることが記されている、との意。
法華文句記巻十には
「適(たまたま)、江淮(こうわい)の四十余僧と往きて台山に礼す。因って不空三蔵の門人・含光(がんこう)の勅を奉じ山に在って修造するを見る。
云く『不空三蔵と天竺に親しく遊ぶ、彼に僧有って問うて曰く大唐に天台の教迹(きょうしゃく)有り、最も邪正(じゃしょう)を簡(えら)び偏円を暁(あきら)むるに湛(た)えたりと。
能(よ)く之を訳して将(まさ)に此の土に至らしむ可(べ)けんや≠ニ』、豈(あに)、中国に法を失い之を四維(しい)に求むるに非ずや。
而も此の方に識(し)ること有る者は少なし、魯人(ろひと)の如きのみ。
故に、徳に厚く道に向かう者は之を仰がざる莫(な)かれ。
敬(つつし)んで願(ねがわ)くは学者・行者は力に随って称讃せよ」とある。


 この文は、不空の門人・含光が台山(五台山)で修行中に妙楽大師と会見した。
その折に含光が、妙楽大師の問いに応じて、西域における仏法弘伝の様子を語った。
それによると「(不空と含光が)天竺(インド)を訪問した折、ある天竺の僧が、大唐(中国)には仏法の正邪と偏円を正しく判別した天台大師の教迹(論釈)があるから、それを翻訳して此の土(インド)に伝えてほしい」と頼んだ、という。
この含光の話を受けて妙楽大師は、唐の時代においては中国(仏教発祥の中心地・インド)では既に仏教が廃(すた)れ、そのために逆に四維(天地の四隅の意。ここでは唐代の中国)に求めようとしていたのである、と記しているのである。


 この含光の話は、含光及び不空が天台大師の法門が、真言宗より勝れていることをわきまえていたことを意味する。

同趣旨の文は宋高僧伝巻二十七にも
「代宗(だいそう)の光(こう)を重んずるや、不空を見るが如くし、勅委して五台山に往きて功徳を修せしむ。
時に天台の宗学湛然(たんねん)、禅観を解了(げりょう)して、深く智者の膏腴(こうゆ)を得。
嘗(か)つて江淮(こうわい)の僧四十余人と、清涼(しょうりょう)の境界(きょうがい)に入る、湛然、光と相まみえ、西域伝法の事を問う。
光の云う、一の国の僧あり、空宗を体解すと。
問うて智者の教法に及ぶ。
梵僧云う、曾つて聞く、此の教、邪正を定め、偏円を暁(さと)り、止観を明らかにすと。
功第一と推(お)す。
再三光に嘱して、或は因縁重ねて至らば為(ため)に唐を翻じて梵と為して附来せよ。
某(それがし)、願くば受持せんと。
しばしば手を握って叮嘱(ていしょく)す。
詳(つまびらか)にするに、その南印土、多く竜樹の宗見を行う。
故にこの願有って流布するなり」とある。


 なお、含光は、唐代の真言僧で、生没年は不明である。
不空の嗣法六大弟子の一人で、出身は明らかではないが、開元年間(七一三年〜七四一年)に不空の弟子となり、師に従って西域地方を回(めぐ)り、後、獅子国(スリランカ)へ行き、尊賢阿闍梨から真言五部の灌頂を受けた。
唐に帰って大興善寺に住み、不空の訳経を助けた人物である。


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 伝教大師・依憑集を造つて之を集む

 依憑集は詳しくは、大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集という。そのなかで伝教大師は「天竺の名僧大唐の天台の教迹最も邪正を簡(えら)ぶに湛(た)えたりと聞き、渇仰訪問の縁」と題して、法華文句記巻十の末の文を引用している。また、「大唐南岳の真言宗の沙門一行(いちぎょう)、天台の三徳に同じて、数息(すそく)、三諦の義」と題した文では、真言宗の一行が天台の三徳に同じた義を述べているが、中国真言宗の開祖であり、日本の台密・東密両方の淵源である善無畏三蔵自身、一行を唆(そそのか)して「理同事勝」の義を展開させたのは、真言宗の義そのままでは天台宗に適(かな)わないことを知っていたからにほかならない。