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顕立正意抄 文永一一年一二月二五日 五三歳
日蓮去ぬる正嘉(しょうか)元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘(かんが)へ定めて書ける立正安国論に云はく「薬師経の七難の内五難忽(たちま)ちに起こって二難猶(なお)残れり。所以(いわゆる)他国侵逼(たこくしんぴつ)の難・自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難なり。大集経の三災の内二災早く顕はれ一災未だ起こらず。所以(いわゆる)兵革(ひょうかく)の災なり。金光明(こんこうみょう)経の内の種々の災禍(さいか)一々に起こると雖も、他方の怨賊(おんぞく)国内を侵掠(しんりょう)する此の災未だ露(あら)はれず此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内六難今盛(さか)んにして一難未だ現ぜず。所以(いわゆる)四方の賊来たりて国を侵(おか)すの難なり。加之(しかのみならず)国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るヽが故に万民乱ると。今此の文に就いて具(つぶさ)に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難(せんなん)是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難、悪法の科(とが)に依(よ)って並び起こり競(きそ)ひ来たらば其の時何(いかん)がせんや。帝王は国家を基(もとい)として天下を治め、人臣は田園を領して世上(せじょう)を保つ。而るに他方の賊来たりて此の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆(じかいほんぎゃく)して此の地を掠領(りょうりょう)せば豈(あに)驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何(いず)れの所にか世を遁(のが)れん」等云云已上立正安国論の言なり。
今日蓮重ねて記して云はく、大覚世尊記して云はく、苦得外道(くとくげどう 苦行によって得道すると説く外道のこと。釈迦在世のインドの六師外道の1つ。この派をジャイナ教とも呼ぶ。教祖はマハーヴィーラ(大雄)といわれ、ジナ(勝者)とも呼ばれる。現世に苦行を行うことによって、未来に楽果を受けることができると説いて苦得外道の祖となった。別名を裸形外道ともいい、裸で灰や棘(いばら)のなかに寝るなど、さまざまな苦行を行なった。釈尊の出家前の子で、仏の弟子となりながら外道に近づいて退転し、現身に地獄の大苦を受けた善星比丘も、この勒娑婆の一派とされる。因中亦有果亦無果(いんちゅうやくうかやくむか)論を説いた。)は七日有って死すべし、死して後食吐鬼(じきとき 人が吐き出したものを食らう食吐餓鬼(じきとがき)のこと。三十六種の餓鬼の一人。正法念処経には「前世で夫婦でありながら、夫または妻を誑(あざむ)き、慳貪(けんどん)・嫉妬の心が強く、また自分一人だけ美食を食べた者が堕ちる」(取意)とある。この者は餓鬼から畜生、畜生から人間へと生まれ変わっていくが、つねに飢渇に悩み、人が吐き出したものを乞い求めるという。
〈追記〉
涅槃経巻三十三迦葉菩薩品に食吐鬼の話が説かれる。
釈尊と善星比丘とが王舎城に住んでいたころ、苦得という一人の尼乾外道(ジャイナ教徒)がいた。
苦得はいつも「衆生の煩悩や解脱のどれにも因や縁などの因果は無い」と言っていた。
善星は苦得の説に感心して、釈尊に向かって「世の中にもし阿羅漢がいるとすれば苦得こそ第一である」と述べた。
これに対して釈尊は「苦得はとても阿羅漢などではない」と否定すると、善星は「どうして世尊は苦得に嫉妬するのか」と言った。
これに対し、釈尊は「自分は嫉妬心を生じてはいない。あなたが間違った邪見を抱いているだけだ。もし苦得を阿羅漢と言うならば、今より以後七日経って宿食(しゅくじき)(消化不良で食物が胃に溜まること)を病んで腹痛を起こして死に、死んでから食吐餓鬼(人が口から吐き出したものを食べる餓鬼)として生まれ変わることになるから、同僚たちによってその屍を寒林の中に置かれることになるだろう」と予言した。
善星は釈尊の予言を苦得に伝え、それが嘘であることを証明すべく頑張ってほしいと願う。
苦得は直ちに断食に入ったが、七日目に黒蜜を食し、冷水を飲んだところ、腹痛を起こして死去した。
屍は同学の者によって寒林の中に置かれ、食吐餓鬼となって生まれ変わり、屍の傍らにうずくまるようにして座っていた。
善星が食吐餓鬼となった苦得を見にいったとき、苦得から「善星よ、よく聴け。如来は実語を語る。どうしてあなたは如来の言葉を信じないのか。信じないと自分と同じように食吐餓鬼の身を受けることになるぞ」と戒められたにもかかわらず、善星は釈尊の所に来て「苦得は死んだ後、三十三天に生じた」と言った。
これに対して釈尊は「阿羅漢は次に生まれる処はないのだ。どうして三十三天に生ずることがあろうか」と答えたところ、善星は「実のところ、苦得は現在、食吐餓鬼の身を受けている」と白状した。
更に釈尊が「如来には二言はないのだ」と改めて述べたが、善星は「世尊の言葉を全面的に信ずることはできない」と答えて、以後、「仏無く法無く、涅槃も因果も有ること無し」という外道の邪見を主張し続けた。
哀れに思った釈尊は迦葉とともに善星の住んでいる所に行ったが、これを見た善星は釈尊とその教えに対して悪心を生じ、そのために生きながら無間地獄に堕ちていった、というものである。
この涅槃経の説法をとおして、大聖人は悪知識の恐ろしさを教えておられるのである。
釈尊の出家以前の子であるということに加えて、善星自身、出家後も十二部経(一切経)を読誦し、かなりの修行を積んですら、邪悪見をもつ外道の苦得に迷わされて退転した。
しかも、亡き苦得が餓鬼道に堕ちたと自ら告白しているにもかかわらず、善星が釈尊のもとに戻って「三十三天に生じた」と言い、それを破折されてもなお邪見を改めなかったということは、ひとたび染めつけられた悪知識の影響がいかに命を濁らせていくかを表しているといえよう。
(『日蓮大聖人御書講義』第一巻下「守護国家論」第六十二章講義より一部抜粋))に生まれん。
苦得外道(くとくげどう)の言はく、七日の内には死すべからず、我羅漢(らかん)を得て餓鬼道(がきどう)に生まれじ等云云。
瞻婆城(せんばじょう瞻婆は梵名チャンパー(Camp?)の音写。長阿含経等に説かれる古代インドの十六大国の一つ、中インド鴦伽(おうが)国(アンガ。A?ga)の首都。ガンジス川とチャンパー川の間でモンギールの東南東のところに位置し、釈尊在世にはインドの六大都市の一つとして、諸都市との交易があって栄えていたといわれる。釈尊は、しばしばこの地を訪れ、説法している。)の長者の婦(つま)懐妊(かいにん)す。
六師外道の云はく、女子を生まん。
仏記して云はく、男子を生まん等云云。
仏記して云はく「却(さ)って後三月あって我当に般涅槃(はつねはん)すべし」等云云。
一切の外道云はく、是妄語(もうご)なり等云云。
仏の記の如く二月十五日に般涅槃し給ふ。
法華経の第二に云はく「舎利弗(しゃりほつ)、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫(ふかしぎこう)を過ぎて、乃至当に作仏するを得(う)べし。号(な)をば華光如来(けこうにょらい)と日(いわ)ん」等云云。
又第三の巻に云はく「我が此の弟子摩訶迦葉(まかかしょう)未来世に於て当に三百万億に奉覲(ぶごん 仏を見奉ること。)することを得べし。乃至最後身に於て仏と成ることを得ん。名をば光明如来と日ん」等云云。
又第四の巻に云はく「又如来滅度の後に若し人有って、妙法華経の乃至一偈一句(いちげいっく)を聞いて一念も随喜(ずいき)せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記を与へ授く」等云云。
此等の経文は仏未来世の事を記したまふ。
上に挙ぐる所の苦得外道等の三事、符号(ふごう)せずんば誰か仏語を信ぜん。
設(たと)ひ多宝仏証明を加へ、分身の諸仏長舌を梵天に付け給ふとも信用し難きか。
今亦以て是くの如し。
設ひ日蓮富楼那(ふるな)の弁を得て目連の通(つう)を現ずとも、勘(かんが)ふる所当たらずんば誰か之を信ぜん。
去ぬる文永五年に蒙古国の牒状(ちょうじょう)我が朝に渡来する所、賢人有らば之を怪(あや)しむべし。
設ひ其れを信ぜずとも去ぬる文永八年九月十二日御勘気(ごかんき)を蒙りしの時吐(は)く所の強言(ごうごん)、次の年二月十一日に符号せしむ。
情(こころ)有らん者は之を信ずべし。
何に況んや今年既に彼の国災兵(さいひょう)の上二箇国を奪ひ取る。
設ひ木石たりと雖(いえど)も、設ひ禽獣(きんじゅう)たりと雖(いえど)も感ずべく驚くべし。
偏(ひとえ)に只事に非ず。天魔の国に入って酔へるが如く狂へるが如し。歎くべし哀むべし、恐るべし厭(いと)ふべし。
又立正安国論に云はく「若し執心(しゅうしん)飜(ひるがえ)らず、亦曲意(きょくい)猶存せば早く有為(うい)の郷(さと)を辞して必ず無間(むけん)の獄(ひとや)に堕ちなん」等云云。
今符号するを以て未来を案ずるに、日本国上下万人阿鼻大城(あびだいじょう)に堕(だ)せんこと大地を的(まと)と為すが如し。
此等は且(しばら)く之を置く。
日蓮が弟子等又此の大難脱(のが)れ難きか。
彼の不軽軽毀(ふきょうきょうき)の衆は現身(げんしん)に信伏随従の四字を加ふれども猶先謗(せんぼう)の強きに依って先づ阿鼻大城に堕し、千劫(せんごう)を経歴(きょうりゃく)して大苦悩を受く。
今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或は一無間(いちむけん)或は二無間(にむけん)乃至十百無間疑ひ無からん者か。
是を免(まぬか)れんと欲せば各薬王(やくおう 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩[いっさいしゅじょうきけんぼさつ]として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂[ひじ]」〈法華経591,592n〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。)
・楽法(ぎょうぼう
釈尊の過去世の姿の一つ。『大智度論』巻49に登場する。これを踏まえ「日妙聖人御書」(1213~1214n)によると、楽法梵志が、渇して水を求めるように仏法の教えを求めていた時に、バラモンに出会う。バラモンは、あなたの皮を紙とし、骨を筆として、血を出して書くのであれば、法を教えようと説く。楽法梵志は、言われるままに、わが身を捧げて、法を聞く準備を整えた。ところが、忽然とバラモンは消えてしまう。天を仰ぎ地に伏す楽法梵志。そこへ、仏陀が現れ、求道の心に応えて法門を教える。それを聞いて、楽法梵志は仏に成ることができたという。)
の如く臂(ひじ)を焼き皮を剥(は)ぎ、雪山(せっせん)
・国王
(阿私はサンスクリットのアシタの音写。法華経提婆達多品第12に説かれている仙人。提婆達多の過去世の姿。釈尊は、はるかな過去から国王と生まれ、退転なく覚りを求めてきたが、さらに王位を捨てて法を求めていた。その時、阿私仙人が「我は大乗の妙法蓮華経と名づくるものを有てり。若し我に違わずは、当に為に宣説すべし」(法華経397n)と述べたので、王は歓喜して仙人に従い、1000年の間、身命を尽くして仙人に仕え、ついに妙法を得て成仏することができた。その時の王が釈尊であり、仙人は今の提婆達多であると説かれ、さらに提婆達多は未来には天王如来となると説かれている。?提婆達多/提婆達多品)
等の如く身を投げ心を仕(つか)へよ。
若し爾(しか)らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢(ぬひ)となって持者に奉(つか)へよ。若し爾らずんば等云云。四悉檀を以て時に適(かな)ふのみ。我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄(あびごく)の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云云。
文永十一年大歳甲戌十二月十五日 日 蓮 之を記す