随宜論

「随宜論」にしても、既に宗門から解釈されてい

るように、敬台院の造仏の執着に対して日精上人がまさに"随宜方便"を用

いられ、造仏を一時容認されたのことに対しての批判に、体を張って敬台

院を庇われた論である。

それが

「右の一巻(随宜論)は予、法詔寺建立の翌年、仏像を造立す。」

との一文を深く紙背に徹して読めば見えて来るのである。

「法詔寺建立」の翌年に「仏像を造立」したのである。

では法詔寺完成落慶時には本尊は何もなかったのか?

寺院建立落慶法要に本尊がないなどいうことはあり得ない。

では初めから仏像だったのか?

これもあり得ない。

もし初めから仏像のみが本尊であったならば、たった一年後にもう一度同

じ仏像を作るはずはない。

日精上人は

(報恩抄などの御文を依文として仏像を本尊として立てるのは)常途の本

尊に違せり(富要5・118)

として当流の常の本尊は十界文字曼荼羅本尊であることを明言されている



であるから、法詔寺完成落慶時には曼荼羅本尊が御安置されていたことが

知れるのである。

しかし、造仏の執着強い鏡台院は、このままでは納得がいかない。

敬台院の権威(徳川家康公の曾孫)・財力に物を言わす横暴ぶりは、上記

の書状
等に明白である。

しかも、先ほどの敬台院書状後半に

「法詔寺の住寺(持)は日詔(敬台院)にて候云云」

と在るが如く、形式上あるいは対外・対面上、一応正式な大石寺からの住

職を立てるが、実質・本音では「法詔寺は自分の寺!」との意識が濃厚で

あった。

法詔寺建立の翌年、敬台院の強い要望を、その時の青年住職日精上人(24

才)が一応受けて、当然総本山第十六世日就上人の御指南を仰ぎつつ、造

仏を容認されたのである。
(それはもし、この時、若き日精上人が自分の判断で勝手に造仏などとい

う大それたことを容認していたら、後に第十六世日就上人から正嫡第十七

世嗣法に指名されるはずもないからである)


しかも、

ここで注意すべきことは、この時の本尊式は中央に曼荼羅本尊を御安置し

、その前座に教主釈尊、もしくは中央曼荼羅本尊、その脇士として釈迦・

多宝・四菩薩等を配したであろうことである。

その根拠は

1,日精上人の教義信条として十界曼荼羅本尊を当流の「常途の本尊」と

お考えになっていたこと。

2,今回再考察する「百六箇対見記・付録」には以下の如く記述されてい

る。(この該文は、大石寺の要法寺造仏を破折したことへの批判文である

から、悪意を持って書かれているとしても、不確かな事実を根拠にしては正当な批判にならないとの配慮から、表面上の事実をある程度正確

に指摘している。という面があると考えられる。その水面下の深い経緯に

ついては後述する)

○ 法詔寺の「造仏」千部あり、
○ 鎌倉鏡台寺の「両尊・四菩薩・御高祖」の影
○ 牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に「造仏」す、
○ 下谷常在寺の「造仏」は日精上人造立主、実成寺「両尊」の後響
○ 日俊上の時下谷(したや)の「諸木像両尊等」土蔵に隠し常泉寺の「両尊」を持仏堂へかくし(隠)たり、
○ 大石寺門流僧要法の「造仏」を破す一笑々々

この文献と、要法寺の本尊観・本尊形式とを合わせ解釈すれば、「造仏」

という語に、

@ 教主釈尊
A 釈迦・多宝の両尊
B @Aに四菩薩も含む

の三意が認められる。

要法寺日辰の説

◆日辰が記に云わく、「唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或

は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の

左右に書き作り立て奉るべし」(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富

士宗学要集』第3巻158頁)

この1,2,の資料と法詔寺建立時の事実から考察されるのは、随宜方便

の本尊式は全て、

中央に当流の正統な十界曼荼羅本尊

@ その前座に教主釈尊
A 脇士に釈迦・多宝
B その脇士に四菩薩
C @〜Bの適宜組み合わせ。

という姿であったと推定される。

つまり、中央十界曼荼羅本尊に対して、暫時の方便としての、本門の教主

釈尊・釈迦・多宝の二仏・四菩薩等の造立であったのである。

であるから、釈迦の仏像を根本の信仰対象として、直ちに拝んだ訳ではな

いのである。


本題に戻る。

しかし、この暫時方便としての十界曼荼羅本尊に造仏添加は宗門内外で論

議の的となり、当然非難も集中した。

しかも、この時期、日精上人の教導により、あるいはまた敬台院の縁故に

も依るか、江戸界隈の他門流寺院の帰伏が相次いだ。

しかし、その寺院、彼の寺院にも当然のごとく敬台院と似通った有力大檀

那がいるわけで、当然法詔寺と同じような事例が相次いだと推測されるの

である。

そこで帰伏親である日精上人は、法詔寺と同様に、檀那の教導の為の暫時

の方便として造仏を容認され、しかもその責任を全てご自分で背負い、

「余(日精)、仏像を造立す」

という立場を宗門内外にとられたのではないかと拝察するのである。

ここのところを、寿円日仁等が論って、百六箇対見記・付録に

「寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実

成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御

高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に

造仏す、又下谷(したや)常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の

後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然

るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へか

くし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第

十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々(要法寺寿円日仁『百六

箇対見記』/『富士宗学要集』第9巻70頁)」

というような記述となったのではないかと推察するのである。

因みに第二十二世日俊上人が上記の各末寺などの仏像などを撤廃していっ

たのは、

遠くは要法寺との通用が始まった第十五世日昌上人時代から、特には第十

七世日精上人の時代に、要法寺系を主とする他門からの多くの寺院の帰伏

に伴い、他門流の造仏に馴染んだ大勢の檀信徒が大石寺信徒となった。

これに伴い、時々の御法主の御裁断で、造仏の執着を持つ檀信徒も大きな

御心で迎え入れられていったが、当然当門としては当宗の正統な本尊義を

徐々に推進していき、その結果、何十年かの歳月のうちに、大石寺の十界

曼荼羅本尊正意を受け入れることができ得た檀信徒の系列と、結局は造仏

の執着強く受け入れることが出来なかった檀信徒の系列とが、第二十二世

日俊上人時代には大別されてきて、長年の善導に大きく決着がついてきた

ので、仏像撤去という明確な方向を打ち出しても大過ない時代となったた

めと拝する。

こうして見ていくと上記の寿円日仁の百六箇対見記・付録も強ちに全くウ

ソでたらめではなく、こうした時代の複雑な背景があったものと見ること

ができるのである。

こうして考察していけば、日亨上人がこの「百六箇対見記・付録」を資料

として採用されておられる意義も、一応矛盾なく領解できるのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※1 ではまず「随宜論」の総論から。

「随宜論」は寛永10年の書である。
続家中抄には、日精上人が第16世日就上人より御相承を受けられたのは寛永9年であるが、御当座さ

れたのは寛永14年とある。(この説は日亨上人も用いられている)
つまり随宜論は御当座以前の書である。
しかも、第14世日主上人時代から、大石寺と要法寺との通用が始まり、大石寺門下へ要法寺信徒が流

入してきた時代である。
元要法寺信徒の中には釈尊像への執着が深い信徒達も相当数居た事は十分に推定できる。
その中での善巧方便による善導の意を含む書であることを汲み取らなくてはならない。
―――――――――――
■『随宜論』の目的と曼荼羅正意

<要法寺系の考え>

・久成釈尊造立は広布達成後が基本であるが、広布達成前であっても本尊としての造仏は許される

<大石寺系の考え>

・広布達成前であろうと後であろうと、仏像の安置自体が謗法
------------------------------------------------------------
<『随宜論』等による方便の善導>

・本尊としての造仏は広布達成後、現在は曼荼羅正意である。ただし、強執の徒のためには脇士として

の造仏も止む無し
―――――――――――
詳細注釈

【要法寺の思想】

◆『末法相応抄』内の日辰の義↓
「真間供養抄三十七に云わく、釈迦御造仏の御事無始昿劫より已来未だ顕われ有さぬ己心の一念三千の

仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ候わばや、欲令衆生開仏知見乃至我実成仏已来は是れな

り云云 又四条金吾釈迦仏供養抄二十八に云わく、御日記の中に釈迦仏の木像一体と云々、乃至此の仏

は生身の仏にて御座候へ云云。 又日眼女釈迦仏供養抄に云わく、三界の主教主釈尊一体三寸の木像之

れを造立し奉る、檀那日眼女、現在には日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏と成る可し云云(『

富士宗学要集』第3巻158頁〜)

◆『末法相応抄』内の日辰の義↓
若し一機一縁ならば何んぞ真間・金吾・日眼の三人有るや。次ぎに継子一旦の寵愛とは宗祖所持の立像

の釈尊なり、何んぞ当宗の本尊に同じからんや。(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻

159頁)
◆興師の御筆の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり云云(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集

』第3巻176頁)
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広蔵日辰は、大聖人が信徒に対し、「釈迦御造仏」を容認されていたことを盛んに挙げ、「興師の御筆

の中に造仏制止の文全く之れ無き所なり」と述べている。このことからも日辰が広布達成前の本尊とし

ての造仏を肯定していたことが分かる。
―――――――――――
◆日辰から第13世日院上人への状

尊師の内証を推するに造仏読誦は且は経釈書判の亀鏡に依憑し且は衆生済度の善巧を施設するか、願く

は憐愍(れんみん)を垂れ通用の御一札を賜はば本末の芳契慈尊の暁に及ばん者なり(『富士宗学要集

』第9巻64頁)

●第13世日院上人から日辰への返答

本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり照り光の仏は迹門能説の教主なれば迹

機の熟脱二法計り説き給ふなり(『富士宗学要集』第9巻65頁)
-----------------------
この日辰と第13世日主上人との往還をみれば、日辰は日尊の造仏などについて擁護し、日院上人に「

願くは憐愍(れんみん)を垂れ」と理解を求めている。その上で大石寺との「通用」を求めている。こ

れに対して日院上人は「照り光の仏は迹門能説の教主」として破折されている。このことから、日辰は

色相荘厳の仏に執着し、これを造立礼拝していたことが分かる。
―――――――――――
◆広蔵院日辰が貫首となる頃には、釈迦仏像を本尊とし、一部読誦(法華経一部八巻二十八品を全て読

誦する修行)を行なうなど、大石寺と異なる教えも混在するようになったのである。
当然、法詔寺等の中の要法寺系信徒の中にも、本尊としての仏像に執着していた者がいたことは容易に

推定できる。
日寛上人が『末法相応抄』において、日辰の造読義に限って破折されたのも、そのような背景事情があ

ったものと推測される。
―――――――――――
【方便の義『随宜論』】

<広布達成前は曼陀羅正意>

『随宜論』から

◆日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの

大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の

御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為

す可きなり。(第17世日精上人『随宜論』)

◆日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。(「相違」=正義に違う

ということ。)
―――――――――――
<本門寺には仏像(久成釈尊)を安置>

◆本堂には本尊の如く仏像を安置す可し。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡尊像之有る

可し。其の上戒壇堂を建立し、中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る
――――――――――――――――――――――
御当座前の日精上人は、『随宜論』において、釈尊像に執着する本尊としての造仏は広布達成後のこと

として、これを制止されたのである。
しかも、以下の末文

■右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を到す故に朦霧を散ぜんが

為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。  寛永十戊年霜月吉旦

から考えられることは、

1、法詔寺建立の願主は元要法寺信徒であった敬台院殿である。
2、建立当時(元和9年。御当座の寛永14年より15年前)は造仏はなかった。
3、御本尊がなく落慶法要が為されるはずもなく、その時は当然板曼荼羅本尊が本堂の御本尊であった

と推定できる。
4、落慶1年後の造仏である。→願主敬台院殿の強い要望によって後から造立された可能性が濃厚であ

る。
5、寛永8・9年から10年ごろまでに、造仏に対する疑問・非難が挙がったことが推測される。
6、日精上人は自ら造仏したわけではないが、敬台院殿を庇護されて「予法詔寺建立の翌年仏像を造立

す」と仰せである。
7、造仏への執着が未だ残る要法寺からの僧俗群と、生粋の大石寺信仰の僧俗群とが混在していた複雑

な時代状況の中で、大きく全ての僧俗を包み込んで善導するために用いられた善巧方便としての書が『

随宜論』なのである。

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●「随宜論」については総論→http://toyoda.tv/chiken.tetsui84.htmで述べたとおり、当時の時代状況は深く鑑みて拝考しなければならない。

日精上人当時の日本は、徳川時代の最初期であり、大坂夏の陣を経て、徳川政権がやっと安定化する兆しを見せはじめたばかり。
信長の比叡山焼き打ちに見られるような武士たちの信仰心の荒廃は、すぐに修復されるものとも思えず、一種の悪国状態に近いものがあった。
つまり、いつ何時、為政者が一宗を壊滅するか予断が許されない時代状況にあった。
更に、元は造読を是認もしくは積極的に信仰していた多くの要法寺系僧俗がこの次期、大石寺門流となり、富士派内では、相当の軋轢があったことは想像に難くない。
従前の大石寺の清純な教義信条を当然の如く信行していた僧俗内に、釈尊像や法華経一部読誦等に未だ執着する僧俗が流入してきた訳である。何も問題が生じなかったはずが無い。
そして、その要法寺系信徒の中でも格段の大檀越が敬台院殿なのである。
敬台院は、徳川家康の曾孫だが、大藩とはいえ外様大名である蜂須賀家に嫁ぐという立場。
さらに元和6年(1620)には、不幸にも29歳にして、夫の至鎮を亡くしている。
強大な権力を持つと同時に、微妙な心理状態の女性であった。
かつまた、ここでは省略するが、手紙などの書き物を検証すると、かなりの感情の起伏の激しい、また、我侭な性格であったことも窺える。
そのような立場の敬台院の言動は少なからず大石寺門流内に波紋を起こした事であろう。
この随宜論が書かれた背景には、このような実に微妙な宗内の空気があったことが十分推測される。
つまり、寛永元年(日精上人まだ御歳24歳の時)に敬台院の自寺・私寺ともいえる法詔寺内に、持ち主である敬台院の強い要望により、釈尊像が造立されたことに対する批判が、折に触れなされ、寛永8年くらいから、特に激しくなってきたのであろう。
それに対して、敬台院をはじめとする要法寺系の僧俗が本宗からの大退転を防ぐために、日精上人は御自ら擁護されなければならない状況になったのであろう。
そういう流れの中で著されたと考えられるのが「随宜論」なのである。

当然、造仏・読誦等は大聖人の化儀ではない。
要法寺日辰のようにそれが大聖人の御本意のごとくいうならば、徹底して破折せねばならない。
しかし、日精上人が、その深意の上から、門内をあるいは敬台院等を将護されるために、暫時の善巧方便としての御化導をされることは、法相の上からも穏当なことと拝される。
すなわち文底下種三段においては、文底体内の文上の法華経は流通の一分を成じる。
その中に迹門(安楽行品)の摂受と本門(不軽品)の折伏があり、ともに三大秘法弘通の上の法相であり、段階的化導とししての摂受は当然必要。
つまり四悉檀(ししつだん)の法門のうち、世界悉檀・為人悉檀は摂受に相当。
対治悉檀とは折伏。
この摂折二門の善導によって、第一義悉檀、入理の益を得ることができる。
この摂折二門は折伏に邁進する僧俗が常に心がけているところ。

ただし、宗門全体的な化導としての摂受・折伏の取捨は、常に御法主上人の裁量による。
一般の僧俗は、その根本的な御指南に信伏随従していかねばならない。
なぜならば、末法は基本的に折伏が表だが、摂受すべき場合も一時的にある。
この時、一般僧俗においては、摂折の是非を巡って見解が分かれることがあり、未熟な部分的見解に陥ると、折伏正意を大義名分として、御法主上人に背反することになる。
池田大作が正本堂の意義を曲げようとしたり、無許可で御本尊を模刻する等した際に、御法主上人が創価学会を善導されようとしたことに対して、顕正会や正信会が反抗して異説を唱えるまでに脱線したのは、この筋道を弁えなかったからである。
日精上人の御化導は特殊といえるが、それだけに筆舌に尽くしがたい御苦労があったと拝察されるのである。

 

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痴犬へ鉄槌 89 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日: 6月13日(火)15時09分9秒 p2253-

ipbf11yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用

●さて、以上の背景(痴犬へ鉄槌88)を念頭において随宜論を通読すれば分かることだが、造像を容認

しつつ、その実は結局、広宣流布の暁まで制止されているのである。

■ 日代上人の御書に云く「仏像造立の事は本門寺建立の時なり。未だ勅載無し。国主御帰依の時三ケ

の大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり」文。此の文、実録の内の

興師の御義に符合す。然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて、而して後に三ケの大事一度

に成就為(ナ)す可きなり。若し此の義に依らば、日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立し給ふ

は、一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば、未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは、又一箇

相違なり。罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば、造

不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【通解】 また日代(日興上人新六(新弟子六人)の一人。後年、富士河合に帰り、西山本門寺を創す

。)の書(「宰相阿闍梨御返事」のこと。「日蓮宗宗学全書」第二巻二三四頁。)に「仏像造立は本門

寺が建立されるときである。いまだに天皇帰依の上の裁決はない。国主ご帰依のとき三箇の大事は、一

度に成し遂げられるべきである。曼荼羅の図はそのときのためである」とある。
この文は、尊師実録のなかの日興上人の義に符合している。
よって富士門流の義は、今は造像せず、戒壇建立の勅許を得たとき三箇の大事を一度に成し遂げるとい

うものである。
この意義よりすれば、日尊が本門寺建立以前に、先んじて仏像の造ったのは、一箇の相違である。
その罪を問うべきかというならば、いまだ本門寺建立の時ではないにもかかわらず本門寺と称するのは

誤りである。
罪に問うべき誤りとするべきか。
しかし、それは本論の論ずるところではない。
後世の学者に対して願うところは、造像・不造像の二義を会通せば、この二義は矛盾なく両立するもの

であり、これまでの誤った義を止め、自他ともに成仏を期すということである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●かくのごとく、■「富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて、而して後に三ケの大事一度に成就

為(ナ)す可きなり。」と、広宣流布達成の暁に仏像等を造立すべきである、として現時の造立を制止さ

れている。
そのことはさらに以下の文でも領解できる。
■「日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立し給ふは、一箇の相違なり。」
つまり、広宣流布達成し本門寺建立前に造仏することは法門上の誤りである。と穏健な言回しではある

が、明確に造仏を制止されているのである。

では、この随宜論の大綱を理解した上で細目を見ていこう。
―――――――――――
痴難→>※1 ■「問うて云く、第六天の魔王堤婆達多等を造立すべきか如何。答えて云く、力有らば、

魔王堤婆を作るべし」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●※1ここは、一端は容認しておられるようだが、しかし、その実は、その「魔王提婆」の造像も、上

記のごとく、広宣流布達成まではできないとの結論に導かれるのである。

―――――――――――

痴難→> ※2■「本門心底抄に云く「本門の戒壇其れ豈立たざらんや。仏像を安置すること本尊図の如

し」文。此の文を以て推するに戒壇成就の日は仏像を造立すること分明なり」
※3> 「本堂には本尊の如く仏像を安置すべし。祖師堂は日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡の尊像

之有るべし。其の上に戒壇堂を建立して中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉らんこと是

即ち法華本門の大戒なるべきか」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●※2は「戒壇成就の日は仏像を造立すること分明なり」とあるがごとく、上述の義と同様で、広宣流

布達成の日までは造像は制止されている意である。
※3もこの文の前に「若し此の義に准ぜば、」とあり、「此の義」とは※2のことであるから、やはり

現時での仏像建立の意ではないのである。
―――――――――――
痴難→>※4 ■「富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ヶの大事一度に成就為すべ

きなり」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●痴犬はよく読まずにただコピペしているから、こういうバカ丸出しの醜態を晒すのである。
この文は既述のごとくむしろ、広宣流布にことを寄せて造仏制止の文証となるのである。
ほんとバカである。自分の挙げた文証で自分の立論が斬られるとは。呵々
―――――――――――
痴難→>※5 ■「願くば後来の学者二義を和會せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他

ともに成仏を期するのみ。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●※5 ここも、別に問題など全くないではないか?
狭義には、今後、敬台院のような造像に執着する、しかし社会的立場といい、性格といい、信仰上の領解の度合い

といい、大変難しい

信徒が現われてきても、この「随宜論」のごとくに善巧方便を用いて宗内を教導していくことができる

だろうし、広義には今後も、敬台院のような、大変難しい信徒が現われてきても、四悉檀を最大限駆使して善導し、宗内を円満に収める方途

としての参考と言う意において「随宜論」は活用できる。との御心ではないか。
―――――――――――

日寛上人

■問う、日尊実録に云わく、日興上人仰せに云わく、末法は濁乱なり三類の強敵之れ有り、爾るに木像

等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華灯明の供養も称うべからず、広宣流布の時まで大曼荼羅を安置

し奉る可しと云云。若し此の文に准ぜば広宣流布の時には両尊等を造る可きや。
 答う、広布の時と雖も何んぞ之れを造立せん。故に此の文亦事を三類の強敵等に寄せて広宣流布の時

に譲り、而も其の意実には当時の造立を制止するなり。
―――――――――――
日寛上人 ■問う、三位日順の心底抄に云わく、戒壇の方面は地形に依る可し、安置の仏像は本尊の図の如し云云


 又日代師日印に酬うる書簡に云わく、仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅許有らず、国主御

帰依の時三箇の大事一度に成就せしむべきの由の御本意なり、御本尊の図は其の為めなり、只今仏像造

立過無くんば私の戒壇又建立せらる可く候か云云。此等の師の意豈仏像造立を広布の時に約するに非ず

や。
 答う、亦是れ当時の造立を制せんが為めに且く事を広布の時に寄するか。
 応に知るべし、開山上人御弟子衆に対するの日仍お容預進退有り、是れ宗門最初の故に宜しく信者を

将護すべき故なり。
―――――――――――
ここも、また前段と同様、随宜論での善巧方便を駆使された後の結論的主張と意を同じくしているので

ある。



しかも末法相応抄の冒頭には斯く↓あり、日寛上人よりやや前時代である日精上人に時代を含め、「吾

(大石寺門流)に於て害無き」と仰せなのである。
―――――――――――
■客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門

葉の学者四に蔓り其の間一人も之れに酬いざるは何んぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見るこ

と闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬ひざるか。(第26世日寛上人『

末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
-----------------------
『末法相応抄』は日辰の造読義を破折するための書である。
これまでに宗内において完全な破折がなかったのは「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」と仰せである


つまり、"これまでは宗内に、日辰の義による害がなかった"とされている。

「随宜論」をいかに痴犬でもが「造仏容認」と邪難しようが、「造仏。一部読誦について日辰の思想に

よる悪影響がなかった」と日寛上人が仰せなのであるから、その善巧方便の意は、広く宗内に理解され

ていたということである。
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■客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑も生ずる者無きに非ず那んぞ

之れを詳らかにして幼稚の資と為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。(第26世日寛上人『末法相

応抄』/『富士宗学要集』第3巻138頁)
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「後生の中に惑も生ずる者無きに非ず」とあるとおり、これまでは、日辰の義が宗内に害をもたらすこ

とはなかったが、後の世のために書き残されたのが『末法相応抄』なのである。
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『随宜論』の善巧方便の部分の文義がそのままでは正義でないことは当然である。

だからこそ第31世日因上人も第59世日亨上人も、文面に表れた"邪義"を単純に破折されたのである


しかし、繰り返すが当時の時代状況は、現代の安逸な政治形態での信仰生活を享受する我々には想像を

絶する複雑さが存したのである。

日精上人は、当時要法寺との交流によって、大石寺の化儀に暗い要法寺系信徒の指導に苦慮された。
とくに敬台院は徳川家康の曾孫という大檀那であり、しかも要法寺出身でありながら大石寺への強い信

仰心を有していたが故に、その善導に四悉檀を駆使された。
つまり、日精上人は"現場の責任者"として、信徒の善導と謗法厳戒の両立という困難な問題に直面し、

その解決のための"苦肉の策"を模索されたと思われる。

また、檀家が寺から離れるのを禁じられた(寺請制度)のは、寛永15(1638)年頃である。
つまり、随宜論が出された寛永10年はその前夜である。
幕府が"自讃毀他"を禁止することに意思決定する時代状況にあった。
故に、謗法厳戒、破邪顕正を旨とする宗門は、他宗から"自讃毀他の宗門"として幕府に讒言される危険

性は既に始まっていたと考えられる。
自讃毀他を禁止しようとする幕府の政策方向と、大石寺の折伏、大石寺の折伏を憎む邪宗の画策、化儀

に暗い要法寺系信徒の善導、このような事情が複合的に絡み合っていたのが「随宜論」の時代背景であ

る。
当然、表面きっての大上段に振りかぶった邪義破折が出来かねる厳しい状況であったわけである。

しかし、 第26世日寛上人は第17世日精上人と同時代の方であり、日寛上人が入信・出家を決めら

れたのは日精上人の御説法聴聞が契機であった。
そのような日寛上人であれば当然、当時の状況を直接見聞されていたはずであり、法詔寺の造仏の経緯

、それにともなう混乱、その混乱を歴代上人がいかに収拾されたかなどについては、現代の我々が乏し

い文献から類推する以上に詳しく真実を御存知だったはずである。

では日寛上人の御指南から当時の造仏についての意義付けを見ていこう。
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■問う、日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定

むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし、又堪えたらんは十方の

諸仏・普賢菩薩等をも書き造り奉るべし已上、此文の意は両尊四菩薩を法華経の左右に或は書き或は作

り立て奉るべしと見えたり云々此義如何、

答う、此れは是れ佐渡已前文応元年の所述なり、故に題目を以って仍お或義と為す、本化の名目未だ曾

って之れを出ださず、豈仏の爾前経に異ならんや。日辰若し此の文に依って本尊を造立せば須く本化を

除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加するや云云。(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要

集』第3巻158頁)
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問いの中味は造仏論であるが、中央の本尊が法華経または題目の場合である。
これについては「釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉る」ことを否定されていない。
「豈仏の爾前経に異ならんや」とは、『唱法華題目抄』が所謂佐渡已前の御書だからである。
また、釈迦・多宝を脇士とすることを容認しつつも「本化を除くべし、何んぞ恣に四大菩薩を添加する

や」と言われたのは、『唱法華題目抄』には「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」とあっ

て「四大菩薩」の名がないから、御文に忠実であるべきであるとされたのである。

 そもそも『末法相応抄』の趣旨は本尊としての仏像を否定・破折するところにある。
だから、必ずしも正義ではないが中央に法華経(曼荼羅)を安置した場合の釈迦・多宝添加を一往容認

されたのであろう。
このことと、■「吾に於て害無きが故に酬ひざるか」の語を考え合わせるとき、法詔寺の奉安形式もま

た、中央本尊が曼荼羅であったことが分かるのである。




 尚、『末法相応抄』には別の箇所においても「釈迦・多宝を作る可し」との問を構えられ、これを否

定されている。
その理由は問の文証が『観心本尊抄』の曼荼羅の相貌を示す部分であったからである。
すなわち曼荼羅の中に「釈迦・多宝」が認められていることを示した文証をもって「釈迦・多宝を作る

可し」としたことへの破折である。
だから曼荼羅の脇士に釈迦・多宝を安置することを示した上記の問とは異なるものである。
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■問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、

答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見

えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又

たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし(『唱法華題目抄』)

■開山上人御弟子衆に対するの日仍容預進退有り是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり。(

第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻177頁)
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日寛上人は大聖人・日興上人時代の造仏については「是宗門最初なる故に宜く信者を将護すべき故なり

」と容認されている。
その趣旨からいえば、「宗門最初」とはいえない日精上人の時代に仏像を本尊とすることは許されない

であろう。
しかし、法詔寺の仏像は本尊としてではなく曼荼羅本尊の脇士として安置されていたのである。
その意味では、大聖人・日興上人時代の造仏容認とは次元が異なることを知るべきであろう。
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『当流行事抄』
■開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり(第26世日寛上

人『当流行事抄』/『富士宗学要集』第3巻211頁)
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「四百余年全く蓮師の如し」とあるから当然、日精上人の時代も含まれる。
「開山已来」の「化儀」に造仏の有無、一部読誦の有無等が含まれることは当然である。
ここに、日寛上人は明確に日精上人の化儀・化法を全面的に肯定されているのである。
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『文底秘沈抄』
■而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが

如く清浄の法水断絶せしむる事無し(『六巻抄』65頁)
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第26世日寛上人に至るまで血脈法水は清浄に相伝されていることを教示されている。
この清浄の法水を継承された御歴代上人の中に日精上人が在しますことは当然である。
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【日精上人に対する日寛上人の尊崇】

総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、

開眼遊ばされている。
久成坊の御本尊造立は亨保6年4月、寂日坊の御本尊造立は亨保7年5月のことであり、その時期は日

寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。
にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が日精上人お認めの御本尊を自ら造立・開眼なされたことは、発心

の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。
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―「方便」と「邪義」の違い―
同じ論であっても、日辰の場合は本心から述べたものであり謗法である。
他方『随宜論』は、日精上人が方便のために一時的・例外的に用いた義に過ぎない。
もし、『随宜論』を著したことを謗法というのであれば、日興上人の造仏容認も、大聖人の仏像開眼も

、釈尊が爾前権経を説いたことも謗法になってしまう道理になる。
 しかも日興上人の造仏容認や大聖人の仏像開眼は、実際に一時的化儀として広く行われたものである


それに対して『随宜論』は本尊としての造仏を広布達成の時のこととして、婉曲的ではあるが制止され

ているのである。