■ 造仏の文証

造仏の文証

1◆予 法詔寺建立の翌年、仏像を造立す。(第17世日精上人『随宜論』/『富士宗学要集』第9巻69頁)
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 日精上人御登座より8年も前のこと。
当時、日精上人は法詔寺の住職。
建前上、法詔寺の造仏は日精上人が「造立」したことになる。

正本堂の建立
発願から計画、資金調達に至るまで学会主導で実施。
公式には日達上人の建立。

徳川家康の曾孫で大檀那である敬台院の強い意向で造立。


3◆付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々(要法寺寿円日仁『百六箇対見記』/『富士宗学要集』第9巻70頁)
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寿円日仁は造読家。
この記述は元禄11年(日精上人御遷化後15年)の頃、大石寺の僧侶が要法寺の造読を破折したことについて、大石寺および富士各山にも造読があったとして反論し、大石寺には造読を破折する正当性はないと主張するもの(『大白法』H16.5.1)。
大石寺側を快く思わない者の記述。この文書も鵜呑みにはできない。


▼「寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり」
『随宜論』に述べられた法詔寺での造仏を裏付けるかのようである。

▼「細草檀林」
延宝6年10月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を細草遠霑寺の常住板御本尊として造立されているにもかかわらず、これについては書かれていない。

▼「常在寺」
延宝8年8月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を本堂の板御本尊として造立され、しかも日蓮大聖人の御影が日精上人によって御開眼されている。

が、この御本尊のことも御影のことも書かれていない。
御影が安置されていれば、仏像は存在し得ない。
この点は嘘であることが明白。

常在寺に仏像があったなどという根拠はどこにもない。
日精上人の御存生中である延宝8年に大曼荼羅と御影の安置が確実。
万が一、それ以前に仏像撤去の事実があったと仮定しても、それは日精上人御自身がされたのであって第22世日俊上人が撤廃したというのはあり得ないこと。(中略)

日仁は、なぜ事実に反する記述を残したのか。
日仁が造読家だからである。
日仁の執筆の動機は、大石寺から要法寺の造仏読誦を破折されたために、なんとか造仏読誦を正当化したい、
そのために事実を曲げて書き記している。
一見正直そうに書いているが、じつは狡猾。

寿円日仁の記述。
約80数年以前よりの大石寺と要法寺との通用という特殊な状況の中で、日精上人が要法寺系の僧俗を包容しつつ造仏廃棄へと慈折善導されていた御化導を歪曲して、あたかも日精上人が造仏読誦を唱導していたかのように表現することによって、要法寺の造仏読誦を正当化しているのである。(『大白法』H16.5.1)

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1◆下谷常在寺ハ大石寺先代日精開基ニ而釈迦多宝ノ両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕数十年之間令(二)安置(一)候処ニ、日俊造仏堕獄之邪義を盛ニ申立彼仏像を悉令(二)去却(一)候、加(レ)之牛島常泉寺ニも古へより両尊四菩薩を令(二)安置(一)候処に、是をも頃年日俊悉令(二)去却(一)候、拙僧檀那伊右衛門之仏像ハ去年中令(二)去却(一)候事(北山『本宗史綱下』671頁)

3◆又精師関東奥方の寺々に皆釈迦多宝四菩薩造立を許す(第31世日因上人『日因随宜論批判』)
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上記1◆〜3◆は日精上人時代の末寺において仏像があったことを示す文証。

「釈迦多宝ノ両尊」
「両尊」
→中央の曼荼羅本尊の脇士としての仏像であった。


<造仏家・日辰も「釈迦多宝」を本尊とせず>

●日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし(『報恩抄』全集328頁)

◆日辰が記に云わく、唱法華題目抄に云わく、本尊は法華経八巻一巻或は題目を書きて本尊と定むべし、又堪えたらん人は釈迦・多宝を法華経の左右に書き作り立て奉るべし(第26世日寛上人『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻158頁)

4◆本尊とは久成の釈尊也(日辰『開迹顕本法華二論義得意抄』/日蓮宗宗学全書3-294頁)

『随宜論』では、法詔寺造仏を容認する方便として日辰の義を利用。
日亨上人『日蓮聖人年譜』「此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり」(『富士宗学要集』第5巻118頁)と批判。
日辰は、本尊として法華経を用いる場合でも仏像を用いる場合でも、釈迦・多宝を脇士としていた。
この場合、中央の本尊としての仏像は「本門の教主釈尊」=「久成釈尊」(上記4◆)であって釈迦・多宝ではない。
上記1◆〜3◆に「釈迦・多宝」の語はあっても「久成釈尊」の語がないことから、法詔寺での仏像は曼陀羅の脇士であったことが分かる。


<法詔寺建立の時点には仏像がなかった>

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法詔寺建立の時点では仏像はなかった。
寺院建立の時点で本堂に本尊が在さないはずはない。
法詔寺本堂の本尊は仏像ではなく、曼荼羅御本尊。


<法詔寺信徒も曼荼羅を拝んでいた>

●我等持仏堂には開山様の曼荼羅を掛け置申し候(敬台院状・寛永17年『富士宗学要集』第8巻58頁)
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この状は法詔寺造仏より15年も後。
法詔寺の檀那も「曼荼羅」を拝んでいた。
「持仏堂」が法詔寺の仏像安置の場所だとすれば、仏像は曼荼羅の脇士であったことが明白となる。
仏像があったとしても拝む対象ではなかった。

<御法主上人が開眼された>

・客殿の宗祖大聖人、2祖日興上人の御影も、万治2、3年の20世日典上人の代に、日精上人の造立。
総本山塔中・了性坊の御影は天和元年(1681)22世日俊上人の代に日精上人が御開眼。牧口初代会長の家には、日精上人の御開眼の御影様がましました。仏像ではない。(法義研鑚委員会『大日蓮』H10)

・当時の御法主上人が誰一人、日精上人を批判されていない。
第16世日就上人は日精上人を後継者とされた。
そのことを誰一人非難されていない。

★以上のことから推測するに、法詔寺の仏像は邪宗のものではなく、新しく鋳造されたものであり、御法主上人による開眼がなされたものであろう。

●興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝(下)』203頁)



8●日精 敬台院殿日詔の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる(寛永14=1637年『富士年表』)
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この頃はまだ、日精上人と敬台院の関係良好。

●大石寺後住の所法詔寺より永代継ぎ申し候筋目に相定められ候書付此の右両三人持参致し慥に請取申し候(敬台院日詔状・寛永15=1638年『富士宗学要集』第8巻55頁)
●(※上記文書について)敬台院日詔より大石寺衆檀へ状、祖滅三百五十七年、法詔寺より精師を晋山せしめ永代総本山の後見せんとの意にて、大石寺衆檀より後住は法詔寺より迎ふるの請書を出さしめ、其返礼に七百余両を提供して総本山方丈の維持を謀られし文書なり(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第8巻55頁)
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猊座に口出しするというのは正しい信心ではない。

★法詔寺の仏像造立は元和10(1624)年。
史実より、寛永14年ころまでは、日精上人と敬台院との関係は良好だったことが伺える。
もし、敬台院自身が寄進した法詔寺での仏像造立が敬台院の意向に反するものであったならば、敬台院が日精上人に帰依し厚遇するはずがない!

9●法詔寺の住持は日詔にて候(敬台院日詔状・寛永17年頃『富士宗学要集』第8巻58頁)
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敬台院の慢心が文面に表れている。
御法主上人より任命された住職を差し置いて、"自分が住職"だと公言して憚らない、それが敬台院だったのである。
日精上人御登座前、法詔寺落慶法要の翌年に安置されたという仏像も、自分を住職だと思い込んでいた敬台院の強い意向があったことは明らかである。
もし、仏像が本堂中央の本尊であり、住職の意向によるものであったならば、"寺の魂"とも言うべき本尊が出来上がる前に、寺の落慶法要が実施されるはずがない。
また、弟子である末寺住職が勝手に化儀を改変したとなれば、当時の御法主上人が、日精上人を解任しないはずはないし、ましてや、後に総本山の管長に登用されるはずもない。

 "日精(上人)の後任の法詔寺住職は、日精(上人)と同じように釈迦・多宝・四菩薩像を造立したという記録"(旧sf)こんな記録があるのであれば、尚更、法詔寺の造仏は、住職の意思によるものではなく、住職が代わっても居続けていた"影の住持"=大檀那=敬台院の意思によるものであったことが、一層明確となる

 このように、造仏は、公式的な住職以上に権威権力をもった"影の住職"ともいうべき敬台院の意向であったことは明らかである。

10●我等持仏堂には開山様の曼荼羅を掛け置申し候、此(精師筆)曼陀羅は見申す度毎に悪心も増し候まゝ衆中の内に帰し申し候(敬台院状・寛永17年『富士宗学要集』第8巻58頁)
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この状は法詔寺造仏より16年もあとに書かれたもの。
造仏に関係するトラブルでないことは明らか。
法詔寺造仏は日精上人御登座より8年も前のこと。
もし、敬台院が造仏に反対であれば、日精上人を法詔寺から追放していたであろうし、御登座自体にも反対していたであろう。
事実、このときの敬台院は、日精上人の法詔寺住職兼務を拒絶したのだ。↓

●祖滅三百五十九年(※寛永17年)比 敬台院は精師の山持ぶりに慊たらず此が排斥に出でたれども寺檀那の動揺を案じて遂に精師の本尊を本山衆檀に返却して公然改易を謀るのみならず、晋山当時兼務の儘の法詔寺にも一命に懸けて精師を拒絶し(第59世日亨上人著『富士宗学要集』第8巻56〜)
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敬台院と日精上人の軋轢は、最初の御登座から8年後、法詔寺造仏の15年以上後のことである。
だから、軋轢の原因が造仏にあったとは考えられない。
もし、造仏問題であったとすれば、法詔寺で許された仏像を、敬台院が大石寺にも寄進しようとして日精上人に拒否され、感情的になったと考えられる。
「精師の山持ぶりに慊たらず」とは、まさに本山における日精上人の振る舞い(化儀)に対するものであろう。

1.法詔寺が建立された時点では仏像がなかった。(7●)
2.法詔寺において仏像が安置されて以降も、敬台院は日精上人を信頼されていた(8●)。
3.日精上人と敬台院との間にヒビが入ったのは、寛永17年(1640年)頃であり、日精上人御登座より8年後、法詔寺造仏より約15年後のことである(9●10●)。
4.日精上人時代の大石寺には、造仏や一部修行、色袈裟などの形跡がまったくない。
5.敬台院とその関係者(法詔寺信徒)以外に、日精上人を批判する者がいない。
6.敬台院は、もともとは要法寺の信徒であった。

★以上のことから推測するに、造仏は、敬台院の意向によるものである。
末寺においては例外的に容認された日精上人も、総本山大石寺においては化儀の原則を貫かれた。
そのために、敬台院との間に隙が生じたものと考えられる。
しかも、敬台院が曼荼羅を拝んでいた事実(10●)から考えて、仏像は、中央曼荼羅の脇士であったことが分かる。