禅 宗

  一、成立の歴史

 禅宗の始祖は、五二〇年に中国に来た南インドの僧・菩提達磨(〜五二八年?)であるとされているが、達磨の行蹟そのものがあまり明らかではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5世紀後半から6世紀前半の人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中国最初の弟子が腕を切り落として入門

揚子江の北側は北魏の国でした。
北魏の都、洛陽に着くと、南東にあった嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に滞在することになりました。
武術で有名な少林寺です。
達磨大師が武術を伝えたという伝説もあります。
少林寺は山の北側にあり、洛陽の都を一望することができます。
ここで達磨は、壁に向かって座禅の修行をします。
これを「壁観(へきかん)」といわれます。
いつしか人は達磨大師を「壁観婆羅門(へきかんばらもん)」と呼ぶようになりまとした。

しばらくすると、インドから高僧がやってきたという噂が広まります。
当時洛陽の都で、仏教の研究に打ち込んでいる一人の僧侶がありました。
しかし、知識の理解だけでは仏教の目的である生死の解決はできません。
そんなとき、少林寺に高僧がやって来たことを聞き、ぜひ教えを受けたいと訪ねます。
ちょうどお釈迦さまが悟りを開かれた12月8日のことでした。
雪がしんしんと降っています。
達磨大師に挨拶をしても、壁に向かったまま振り向きもせず、一言も言葉を発しません。
言葉が通じないのかなと思いましたが、試されているに違いないと思い、扉の外で待つことにします。
一晩立ち尽くして待っていると、明け方には、降り積もる雪は、膝の高さになりました。
そのとき達磨大師が
「お前まだいたのか。何しに来た?」
と声を発しました。
「仏の教えを受けたく参上いたしました」
「仏教はそんなに軽々しく聞けるものではない、命と引き換えに聞かせて頂くものだ。
出直してこい」
それを聞いて感激したその僧侶は、ここで仏教を聞かせて頂くことができなければ、死んで永劫に苦しみの世界を迷い続けていかねばならないと思い、持っていた短刀で左腕を切り落とし、達磨に突き出します。
それを見た達磨大師は、
「その真剣さならよかろう」

と、初めて弟子にして「慧可えか」という名前を与えたのでした。
この話は世間に広まり、達磨の名声は北魏の皇帝の耳にも達します。
時の孝明帝は、三度も招待の使者を出しましたが、達磨はもはや皇帝の招待に応じませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後も達磨大師は壁観を続け、その厳しさは、手足がくさって切り落とさねばならないほどだったと言われます。
達磨大師の名声をねたむ者からは、殴打されたり、石を投げつけられることもありました。
それでも達磨は微動だにもしません。やがて投石は顔に当たって歯が欠けたといわれます。
さらには毒をもられたりもしますが、それでも修行を続けます。

達磨大師はたいてい怖い顔で描かれていますが、あれは、他人をにらみつけているのではありません。
手足が腐るほどの修行に、くじけそうになる自分の心を見つめて苦しみに耐えているのです。

このように、自分の心を見つめ、壁に向かって9年間修行をしたので、これを「面壁九年めんぺきくねん」といわれます。
そんな厳しい修行をして、禅宗を開いた達磨大師でも、30段しか悟れなかったといわれます。

こうして最後に弟子達を集めて試問し、慧可に対して
「お前は私の教えの骨髄を得た」
とほめたといわれます。 このように達磨大師の教えを受け継いた慧可が、禅宗の第二祖とされています。
少林寺を引き払うと、洛陽の都へ行き、最後は念仏三昧を行じ、528年10月5日、150歳で亡くなりました。
死を惜しんだ時の皇帝から大師号が贈られ、「達磨大師」となりました。

達磨大師がなくなった10月5日を、日本の禅宗では、「達磨忌だるまき」といって、達磨大師の命日の法要を行います。
また、奈良で聖徳太子に出会ったと伝えられる達磨大師が亡くなったのは12月1日なので、達磨忌を12月1日にしている場合もあります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 禅宗では達磨を天竺の二十八祖と称し、付法蔵経に載せられているところの迦葉尊者から師子尊者に至る二十四人に、婆舎斯多(ばしゃした)、不如密多(ふにょみった)、般若多羅(はんにゃたら)の三人を加え、その次に達磨を置いてインドにおける第二十八祖、禅宗の開祖としているのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
師子(しし)
?アーリヤシンハのこと。付法蔵の最後の人(第23)。6世紀ごろの中インドの人。?賓国(カシュミール)で仏法を流布していた時、国王・檀弥羅[だんみら]の仏教弾圧により首を斬られたが、師子尊者の首からは一滴の血も流れず、ただ白い乳のみが流れ出たという。?檀弥羅王
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そして中国における禅は、第二祖の慧可、僧燦(そうさん)、道信、弘忍(こうにん)へと伝わったとされ、七世紀後半、弘忍門下で六祖とされる慧能と神秀が出て大成した。
が、慧能と神秀は互いに対立して、前者は華南を中心に布教したため南宗禅と呼ばれ、後者は華北を基盤としたため北宗禅と呼ばれた。

 さらに慧能の弟子である行思と懐譲(えじょう)の系統から、それぞれ曹洞宗・臨済宗が生じた他、五家七派と呼ばれる七つの宗派に分かれたが、結局、栄えたのは曹洞宗と臨済宗の二門であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 日本においては、嵯峨天皇の代に、懐譲派の義空が初めて禅宗を日本に伝えたが、当時、伝教大師の日本天台宗が広く流布していたため、受け入れられず空しく帰国した。

その後、鎌倉時代の僧・栄西(えいさい・ようさい)(一一四一−一二一五年)が、中国(宋)に渡って禅宗を学び、建久二年(一一九一年)、日本に臨済宗を伝えたのが始まりとなった。

 もともと栄西は、十四歳にして比叡山に登って天台宗を学び、中国の天台山にまで足を伸ばしているが、帰国後、(すでに真言密教を取り入れ邪教化していた天台宗に満足できなかったのか、)疑問を起こして禅宗を学びたいと欲した。
そして、再び宋に渡り、臨済宗の万年寺に身を寄せること数年、臨済宗の法義を相承して帰国したのである。

 栄西は、初めは九州・博多を中心に布教し、後に京都へ進出しようとしたが、比叡山の禅宗停止の訴えにより、建久五年、停止を命ぜられた。
栄西は禅宗擁護のために、さまざまに活動し、天台宗からの圧力を逃れて鎌倉へ向かった。
鎌倉では、北条政子の帰依を得て寿福寺を建てて住持となり、さらに建仁二年(一二〇二年)には、源頼家が京に建仁寺を建てたので、住持として迎えられている。

 だが栄西は、建仁寺を比叡山の末寺とし、天台・真言・禅を兼修する寺として、自らの保身の手段としてしまった。
その他、栄西は名誉欲も強く、大師号を得るために賄賂をばらまいて嘲笑されるなど、栄西の伝えた禅宗は、自己保身と名聞名利を根底としたためもあってか、思想的にも純粋な禅宗ではなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この、栄西によって伝えられた臨済宗に対し、今日の曹洞宗を日本に開いたのは道元(一二〇〇−一二五三年)である。

 道元は幼時に父母を失い、十三歳で比叡山に登ったが、(※比叡山で天台教学を学んだが「人は皆、元来仏であるならば、なぜ修行をするのか」との疑問を抱き、解答を得ることができず一八歳のときに下山した。)後になって、当時、名を高くしていた栄西の門流・建仁寺に入門した。
そして、本格的に禅の法門を学ばうとして入宋した道元は、坐禅修行中に豁然と悟りを開いたと称し、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道元は如浄の「参禅はすべからく身心脱落なるべし」すなわち「坐禅そのものは全ての煩悩をはらって、自由の境界に至る」との如浄の言葉で悟りを開いたという。
こうして如浄から只管打坐の重要性を教えられた道元は、曹洞宗の印可を得てその法を嗣ぎ、安貞元(一二二七)年に帰朝した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
安貞(あんじょう)元年(一二二七年)帰国して曹洞宗を弘め、現在の総本山となっている永平寺を開創した。

道元は、自己の悟りを仏からの正伝の仏法と信じ、仏教全体を禅に統合しようという考えを懐いていたようである。
また、前の臨済宗が貴族武士階級に弘まったのに対し、曹洞宗は後世になって庶民の間に浸透していった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「臨済将軍、曹洞土民」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この後、江戸時代に入って、明の僧・隠元が黄檗宗を日本に伝えたが、その宗旨は臨済宗とほぼ同様のものであり、念仏も混ざっている。
(※インゲン豆を伝え、定着させた)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 現在は、
臨済宗が十数派に分派して檀家数百五十万程度、
曹洞宗が檀家数七百五十万程度といわれ、
黄檗宗ははとんど衰微してしまっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  二、教義と本尊

 禅宗においては、教外別伝・不立文字をことさらに標榜する。
というのは、枯華微笑という説 
− 釈尊が霊鷺山において、ただ黙然として一本の華を括って弟子達に示したが、誰もその暗示を理解する者がなかった。
その時、摩訶迦葉がただ一人、微笑を浮かべて釈尊の真意を悟った、という説−
によって、禅宗では、釈尊の真意である禅の法門が、まったく経典に依らず、釈尊から迦葉へと以心伝心をもって伝授された、と主張するのである。

 それ故、禅宗においては、釈尊の一代聖教には真実が顕わされていない、真実の法は迦葉一人に不立文字(文字を立てず)で教外別伝(教えの外に別に伝える)されたのであるから、釈尊の経典や文字には依らず、坐禅を組んで静かに観念を凝らすところに、自力による解脱が得られる、としている。

 しかして、経典は月(己心に仏性を具えていることを月にたとえた)をさし示す指のようなものであり、月がわかってしまえば指には何の値打ちもないとして経典を捨て去り、これに対して禅宗は直指人心・見性成仏である、と説いている。
つまり、教理分析などしなくとも、坐禅修行はただちに己心を指すもの(直指人心)であり、我が己心に仏性を具えていることを知覚(見性成仏)できる、とするのである。

 これを端的に標榜する言葉として、中国の慧能の弟子・荷沢(かたく)が、南宗禅を宣揚するために立てた『即心是仏・是心即仏(我が心がそのまま仏であり、仏はそのまま我が心である)』説があり、以来、禅宗の表看板となっている。

 以上のごとく、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏等の教義を立てる禅宗においては、元来、経典は一切用いないはずであるが、楞伽経・諸法無常経・円覚経・首楞厳経三昧経・金剛般若経等々の経典を依経として用い、いちおう本尊としては釈迦を立てているようであるが一定していない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  三、破 折

    禅宗には正しき伝法なし

 まず禅宗の起源とされている枯華微笑の説であるが、これは、『大梵天王問仏決疑経』の

 「梵王、霊山会上に至り、金色沙羅華(※蓮華・睡蓮(または金婆羅華という美しい金色の花)を献ずるを以て、仏に群生の為に説法せんことを請う。
世尊、座に登り華を括って衆に示し、青蓮(仏・菩薩の目にたとえてもいう)の目瞬(まばた)き、天人百万悉く皆措(お)くこと(※ふるまうこと)罔(な)し、独り金色頭陀(※摩訶迦葉のこと)のみ破顔微笑す。
世尊の云く、吾に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相の微妙の法門有り、文字を立てず、教外に別伝し、摩訶迦葉に付嘱す」
等の文に依るものである。

 しかしながら、この『大梵天王問仏決疑経』は、経典の二大目録といわれる貞元録(永平十年(西暦67年)、後漢の明帝の時に中国に仏教が渡来してから貞元十六年(八〇〇年)に至るまでの、七百三十四年間に翻訳された大小の経典を勅命によって集録したもの)や
開元録(開元十八年(七三〇年)、唐の玄宗の時に、勅命によって編集された一切経の総目録)にも名すら見えず、そのうえ訳者も訳された年代も共に不詳であるところから、古来、偽経として有名である。

 いまや禅宗においてさえ、この経を信用する者は少ないであろうが、この経が偽経である以上、真実の法は文字を立てずに迦葉に教外別伝されたとする、禅宗の起源そのものが崩壊してしまうのである。

 このことについては、宗祖日蓮大聖人も、
 「件の経は何れの三蔵の訳ぞや。貞元・開元の録の中に曽て此の経無し、如何。禅宗答へて云はく、此の経は秘経なり。故に文計り天竺より之を渡す云云。問うて云はく、何れの聖人、何れの人師の代に渡りしぞや、跡形無きなり。此の文は上古の録に載せず、中頃より之を載す。此の事禅宗の根源なり、尤も古録に載すべし、知んぬ偽文なり」(御書二六)と批判あそばされている。

 この決定的な弱点を隠そうとして、禅宗では、『涅槃経』の
 「我、今所有の無上の正法、悉く以て摩訶迦葉に付嘱す」
との文を引くが、実際に釈尊が迦葉に付嘱したのは小乗の法である。
「無上の正法」という表現については、大聖人が

 「無上の言は大乗に似たりと錐も、是小乗を指すなり。外道の邪法に対すれば、小乗をも正法といはん」(御書二六)
と仰せのごとく、所対によって用いられた表現であることを知らなくてはならない。

 もし禅宗の法門が、釈尊より迦葉へと付嘱されて伝承した法門だというならば、それは一代聖教中の小乗教であり、これを教外別伝された真実の大法などと説くのは誑惑の至りである。

また、釈尊入滅後の弘通は、迦葉より次第次第に受け継がれて、いわゆる、付法蔵の二十四人によってなされたが、これとて『付法蔵経』に

 「比丘有り名けて師子と曰う…法を相付する人、是に於いて便(すなわ)ち絶える」
と記されているごとく、第二十四祖にあたる師子尊者を最後として弘通が絶えたのである。

 しかるを中国の禅宗第六祖といわれる慧能が、『六祖大師法宝壇経』と称する書の中で、師子尊者と達磨との年代の隔りを覆い隠すために、まったく縁もゆかりもない三師を創作して間に入れ、自分勝手に天竺の二十八祖などという僻見を打ち立ててしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『壇経』の成立について疑いを抱く人も多い。道元は偽書だと言っている。

六祖壇経に、見性の言あり、かの書、これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、曹渓(慧能のこと・慧能の別名「曹渓大師」)の言句にあらず。仏祖の児孫、またく依用せざる書なり。 『正法眼蔵』「四禅比丘」巻
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この説を立てること自体が、すでに付法蔵経の文にも背いており、また何の根拠も実証もないところから、すでに中国においても「慧能の私情による臆測の弁」として非難されたのである。

 ゆえに禅宗には、仏が教外別伝した大法など伝わっていないし、正しき法統もないことが明らかである。
もし、このうえ禅宗において伝持している法門があるというならば、それは仏語ではなく、外道から伝わった妄説に違いない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    仏教を破壊する天魔の所業

 また、禅宗では不立文字を主張して、仏の金口より説かれた金言を捨てる。その根拠としては、前に掲げた『大梵天王問仏決疑経』の一節(これはもとより偽経であるが)、そして菩提留支三蔵・訳の「入楞伽経」に
 
「我れ、何等の夜に大菩提を得、何等の夜に涅槃に入る。法の中間に一字を説かず。」

とある「一字不説」の句に捉われて、仏の説法は対人的な仮説であり、仏の真実の悟りは一字も説いていないのである、と主張する。

 しかしながら、一字不説の義については、他の経々にも説かれており、『法華経方便品』にも、

 「是の法は示すべからず 言辞の相、寂滅せり・・・一切の声聞、辟支仏の及ぶこと能わざる所なり…止みなん止みなん説くべからず 我が法は妙にして思い難し 諸の増上慢の者は 聞いて必ず敬信せじ」(法華経九一)

と述べられているが、これは、一字一句の文字に捉われて経全体の義を誤解してはならぬことを誡められたもので、後には

 「汝已に慇懃(おんごん)に三たび請じつ。豈(あに)説かざることを得んや」 (法華経一〇〇)

との大慈大悲をもって、ついに

皆此の経に於いて宣示顕説」(513)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法華経の第七神力品(じんりきほん)
「要(よう)を以て之(これ)を言(いわ)ば如来の一切の所有(しょう)の法如来の一切の自在(じざい)の神力(じんりき)如来の一切の秘要の蔵(ぞう)如来の一切の甚深(じんじん)の事(じ)皆此(この)経に於(おい)て宣示顕説(せんじけんぜつ)す」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
せられたのである。

 こうした、一字不説の句を説いた仏の本意を曲解し、仏の説いた経文を捨て去るところに、仏法を破壊する禅宗の邪義が存する。

大聖人は、
「文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。(諸宗問答抄 建長七年 三四歳 36)

「教を離れて理無く、理を離れて教無し。理全く教、教全く理と云ふ道理、汝之を知らざるや。拈華微笑(ねんげみしょう)して迦葉に付嘱し給ふと云ふも是教なり。不立文字(ふりゅうもんじ)と云ふ四字も即ち教なり文字なり。此の事和漢両国に事旧(ふ)りぬ。今いへば事新しきに似たれども、一両の文を勘(かんが)へて汝が迷ひを払はしめん。補註(ふちゅう)十一に云はく(※補註(ふちゅう)法華三大部補註の略。北宋・神智従義の著。天台・妙楽の各三大部に注釈を加えた書)「又復若(も)し言説に滞ると謂(い)はゞ、且く娑婆世界には何を将(もっ)て仏事と為るや。禅徒豈(あに)言説をもて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずること無し、豈聞かざらんや」(395 聖愚問答抄 文永五年 四七歳)

等と仰せであるが、所詮、仏の真実の悟りも経文によってて顕わされ、伝えられるのである。
これを不立文字として捨て去ることは、まさに涅槃経の

 「仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是れ魔の眷属なり」

との誡めに背き、仏教を破壊する天魔の所業といわざるをえない。

 いわんや、教外別伝と称しながら『楞伽経』等を依経とし、不立文字と称しながら文字・言語によって布教・説法・読経を行なうあたり、支離滅裂、自語相違の極みである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   即心是仏・是心即仏 は大慢心

 次に、禅宗で強調する即心是仏・是心即仏であるが、なるはど理においては、十界の衆生のすべてが仏であるといえよう。
しかし、これは単に仏性が内在しているということであって、実際に仏性が顕現しないかぎりは、仏とはいえないのである。
ゆえに『涅槃経』には、

 「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」

と説かれており、愚痴迷妄の凡夫を、ただちに仏と等しい、即心是仏である等と論ずることは、犬や猫を仏であるというのと同じで、甚だ道理に外れた偏見であり高慢である。

 このことを大聖人は、

 「只不二を立てゝ而二を知らず。謂己均仏の大慢を成せり」(御書三九七)

と批判せられている。

 さらに付け加えておくならば、凡夫に内在する仏性は、即身成仏の実義の存する法華経を信受し、修行することによってのみ、事仏として顕現するのである。
それは、禅宗で祖師に数える迦葉尊者等、二乗の成仏が、法華経にのみ説かれることからも明らかといえよう。
その一代仏教の骨髄である法華経を信ぜず、背くことこそ魔の所為なのである。

 近頃は、禅宗でも『法華経寿量品』の自我偈を読んだりしているが、末法における法華経の付嘱を無視している以上、これが法華経を正しく信じ行じていることにならぬのはもちろんである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   禅宗の害毒で慢心−堕地獄

以上、種々述べてきたように、禅宗を修する者は天魔の所為である(天魔とは天子魔の略で、正しい仏道に入らんとする者を妨げる働き)。

彼らの標榜する教外別伝・不立文字は仏教を破壊する邪説であり、直指人心・見性成仏・即心是仏は上求菩提の求道心を失った増上慢に他ならない。

 その教えは、詮ずるところ、
 「座禅を組んでいる自分自身こそが、仏であり、絶対者である。したがって、もはや仏教典も不要である」
というものであるから、これを信仰していくと、自分の力だけで生きていくという強さが身についてくるように見えるが、反面、思い上がりの強い、傲慢な人格が形成されていってしまうのである。

 日蓮大聖人は、禅宗信仰の末路を

「彼の月氏の大慢が迹(あと)をつぎ、此の尸那(しな)の三階(さんがい)禅師が古風を追ふ。然りと雖も大慢は生きながら無間(むけん)に入り、三階は死して大蛇と成りぬ、をそろしをそろし。(御書三九七)

と示されている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

禅宗

【沿革】

現在日本では、禅系の宗派として
「臨済宗」
「曹洞宗」
「黄檗宗」
の三宗があり、これらを総称して「禅宗」と呼んでいる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参照
このほかにも、平安末期に大日能忍が起こした日本達磨宗、鎌倉初期に心地覚心が起こした普化宗などがあったが、これらの宗派は現在廃絶している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

禅宗は、中国の菩提達磨(〜五二八)を始祖として、「教外別伝・不立文字」を標榜し、仏の説いた経論にはよらず、坐禅によって悟りを得ようとする宗派である。

仏心を悟ることを目的とすることから「仏心宗」ともいい、また達磨を始祖とすることから「達磨宗」ともいう。

 禅宗で拠り所とする『大梵天王問仏決疑経』によれば、
「釈尊が涅槃のとき、聴衆の一人が一枝の睡蓮(または金婆羅華)を釈尊に捧げた。
釈尊は黙ってそれを受け取り、粘(ひね)って大衆に示した。
その場の大衆は、釈尊の意図するところがわからなかったが、摩訶迦葉一人がそれを理解して破顔微笑した(拈華微笑)。
そこで釈尊は、『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附嘱す』
といって、仏の悟った深遠微妙の法門は経論・言辞によらず、ただちに以心伝心をもって法を摩訶迦葉に付嘱した」
という。

これが「教外別伝・不立文字」のはじめであり、禅宗はここからはじまったとしている。
そして、その法は摩訶迦葉から阿難・商那和修と師資相承し、付法蔵の二八祖として達磨に伝えられたとする。

 南インドの僧であった達磨は、この教えを中国に伝えようとして、染の武帝のとき(五二〇年頃)北魂に入った。
そして、嵩山(すうざん)少林寺の石窟で面壁九年の坐禅を修し、中国禅宗の開祖となった。
達磨は、坐禅の入門書『楞伽経』四巻と禅法を二祖慧可(四八七〜五九三)に相伝し、さらに三祖僧?(さん)(〜六〇六)、四祖道信、五祖弘忍(こうにん)(六〇一〜六七四) と次第した。

 弘忍門下に慧能(六三八〜七一三)と神秀(〜七〇六)の高弟があり、弘忍は慧能に法を付嘱し六祖とした。
しかし、慧能と神秀は禅の正統について争い、これ以後、禅宗は南北両宗に分かれることとなる。 

 慧能は、湖南の山岳を中心として南方広東曹渓(そうけい)山に住して禅を弘め、無師独悟(頓悟(とんご))を主張したので、この法系を南宗禅・頓悟禅といった。

これに対し神秀は、洛陽(長安)にあって則天武后の国師となり、次第に独自
の法系を形成するようになった。
この一派は漸悟を主張し、北方に勢力を得たので北宗禅・漸悟禅といわれた。

この両法系を称して「南頓北漸」といったが、その後、慧能の南宗禅の法系が大きく発展し、中国禅として大成した。

 南宗禅は六祖の慧能のとき、南嶽懐譲(なんがくえじょう)(六七七〜七四
四)と青原行思(せいげんぎょうし)(〜七四〇) の二系統に分かれ、これがもととなってさらに分派し五家七宗を形成した。

五家とは、

●南嶽派の?山霊祐(いざんれいゆう)と仰山慧寂(ぎょうざんえじゃく)が立てた?仰宗、
●臨済義玄が立てた臨済宗

の二宗と、

●青原派の洞山良价(とうざんりょうかい)と
●曹山本寂が立てた曹洞宗、
●雲門文偃(ぶんえん)が立てた雲門宗、
●法眼文益が立てた法眼宗の三宗

をいう。

七宗とは、これらの五家に、
●臨済宗から分かれた楊岐派と、
●黄龍慧南(おうりょうえなん)が立てた黄龍派を加えたものをいう。

その後、雲門宗は法系が絶え、?仰宗・法眼宗は臨済宗に統合された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 日本へ禅宗がはじめて伝来したのは、奈良時代の道昭によるものであった。道昭 (六二九〜七〇〇) は、孝徳天皇の白雉四(六五三)年に入唐し、法相・成美の両宗を学ぶとともに、達磨の弟子・相州隆化寺の慧満について禅も学んだ。

帰朝後、法相・成実を弘めるとともに、飛鳥(奈良県)の元興寺に禅院を建てて禅法を修した。
                  
 次いで天平八(七三六)年には、唐僧道?(どうせん)(七〇二〜七六〇)が来朝し、華厳・律宗とともに北宗禅を伝えた。

 このように禅宗は当初、他宗に付随する形で伝えられたが、鎌倉時代に至り●栄西(一一四一〜一二一五)が臨済宗を、
●道元(一二〇〇〜一二五三)が曹洞宗を、
●さらに江戸時代には、明の隠元(いんげん)(一五九二〜一六七三) が来朝して黄檗宗を伝えた。

このうち、
●臨済宗は天竜寺・妙心寺・建長寺など一四派に分かれ、

●曹洞宗は永平寺・総持寺の二本山(二派)に分かれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【教義の概要】

 「禅」とは、サンスクリット語の「ディヤーナ」やパーり語の「ジャーナ」の音写、「禅那(ぜんな)」の略で、「心を静めて思惟する」との意である。この「禅」という音訳と、「静心」の意味を併せて「禅定」という。

 禅宗では、仏の悟りを「月」に、経典を「月を差す指」に誓え、仏の悟り(月)を得た後は、経典(月を指す指)は必要ないとし、その教義は達磨の「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」の四聖句によって代表される。

不立文字・教外別伝とは、釈尊の教えの真意は文字などで表現できるものではなく、以心伝心といって、経典とは別に心から心へと伝えられるという。

直指人心・見性成仏とは、教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ、自己の本性が仏そのものであると知ることをいう。

これらのことから禅宗では、禅宗以外の仏教は釈尊の教えを基とするので「教宗」といい、禅宗は釈尊の悟りの内容をもととするので「仏心宗」といっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(本尊と所依の経典)

禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張するが、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗とも一応の義として本尊と所依の経典を定めている。

本尊は、釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として、宗派によってそれぞれ異なったものを立て、一定していない。

また、所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』等で、宗派によってさまざまである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(坐禅方法)

 禅宗の修行は、座して禅定を得ることから坐禅という。
坐禅の修法は、
●臨済宗は壁を背にして座るが、
●曹洞宗は中国以来の面壁を守り、壁に対面して座る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(看話(かんな)禅と黙照禅)

● 看話禅とは、古人の遺した公案(禅問答)を工夫思惟して、本来の自己(仏心)に目覚め、悟りを開こうとする坐禅のことである。
日本臨済宗はこの看話禅を受け継いでいる。

● 黙照禅とは、黙々と壁に向かって坐禅し、坐禅の姿そのままが仏の行(悟りの姿)とみるものである。
日本曹洞宗の道元はこれを受け継ぎ、「只管打坐(しかんたざ)」「修証不二」の禅を主張した。

● 臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層に、
● 曹洞宗は一般民衆に広まったため、俗に「臨済将軍、曹洞土民」
といわれている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 臨済宗

[開 祖](中国)臨済義玄
    (日本)明庵栄西(千光国師・一一四一〜一二一五)
[本 尊]釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩等
[経 典]金剛般若経・観音経・般若心経・楞厳呪等
[大本山]妙心寺・建長寺・円覚寺・南禅寺等一四派本山
[寺院教会数]五、七〇〇
[教師数]五、五〇〇
[信徒数] 一、〇三〇、000

 日本の臨済宗は、栄西を開祖とし、中国の南宗禅に属する臨済禅の流れを汲む宗派である。

 栄西は、永治元年、備中(岡山県)吉備の神職の家に生まれ、二歳のときに出家し、天台宗寺門派の教えを学び、一四歳で比叡山に入り、台密の修行をした。
仁安三(一一六八)年、二八歳のとき入宋し、中国の天台山に登り天台の典籍を持ち帰った。
文治三(一一八七) 年、四七歳のとき再入宋し、臨済宗黄龍派万年寺の虚庵懐敞(きょあんえしょう)から臨済宗の禅を学び、五年目に印可を得てその法を嗣いだ。

 建久二(二九一)年に帰国して、九州を中心に禅の布教を開始し、建久六(二九五)年、博多に日本最初の禅寺である聖福寺を建立した。
その後、京都での布教を試みるが、比叡山の画策によって、朝廷より栄西に禅停止の命が下された。
これに対して栄西は『興禅護国論』三巻を著して、叡山の禅宗批判に抗するとともに、「禅の興隆は天台宗の開祖である最澄の真意にもかない、国家に寄与するものである」と反駁した。

 まもなく栄西は京都での布教をあきらめ、鎌倉を拠点とし活動するようになった。

 正治二(一二〇〇)年、北条政子の発願で鎌倉に寿福寺が建立され、栄西は開山として迎えられ、さらに建仁二(一二〇二)年、土御門天皇の発願により、将軍源頼家が京都に建立した建仁寺の開山ともなった。
しかし栄西は、叡山への配慮から純粋な禅寺にはせず、建仁寺の山内に止観院・真言院を置いて、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とした。

 このように栄西は、叡山の排撃を受けるなかで、不本意ながら教禅兼修の禅を修したが、密教的性格の強い黄龍派の禅を宣揚しようと努力した。
そして建保三(一二一五)年七月、七五歳で寿福寺において寂した。

 栄西没後、さらに円爾弁円(えんにべんねん)(聖一国師・一二〇二〜一
二八〇)が宋にわたって臨済禅を伝え、京都に東福寺を開いた。
鎌倉時代の半ばからは、宋から禅僧も多く迎えられ、北条時頼に招かれた蘭渓道隆(一二一三〜一二七八)は建長寺を、北条時宗に招かれた無学祖元(一二二六〜一二八六)は円覚寺をそれぞれ開創し、日本の臨済禅の興隆に尽くした。
このころから兼修禅から禅宗専修・純粋禅となり、臨済禅が根付いていった。

 室町時代は臨済宗が全盛期を迎えた時代である。
臨済宗は、朝廷と幕府から庇護を受け、中国の南宋で設けられた五山制度を移して多くの寺院が建立された。
そして、五山制が定めら、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五寺を鎌倉五山とし、天龍寺・相国(しょうこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五寺を京都五山とした。
さらに、南禅寺を京都五山の上の別格寺院とした。
ここに禅宗建築、庭園、禅宗文学が誕生することになった。

一方、鎌倉時代末期より室町時代にかけて、権力者とは関わりを持たず修行に専念した建長寺の南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)、大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)、妙心寺の関山慧玄(無相大師)の系統があった。
これらは「応燈関の一流」と呼ばれ、後世まで勢力を持ち、現在の臨済宗はすべてこの応燈関の後継者によって占められている。

 特に、禅の中興の祖といわれる江戸時代の白隠慧鶴(関山系・一六八五〜一七六八)によって日本の臨済禅が確立された。

妙心寺派・南禅寺派・東福寺派などの現在の臨済宗一四派は、白隠の法系で占められている。
そのなかで最も大きな勢力を有しているのが妙心寺派である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(臨済宗の特徴)

 臨済宗の教えの特徴は「脚下照顧・衆生本来仏」にある。
これは、凡夫は本来仏であるから、坐禅の修行によって具わっている仏性を見出し、日常生活において自己の宗教的人格を実現していくという教えで、作務(労働)を尊び、坐禅を重んじるものである。

 また、臨済宗の坐禅は「公案禅・看話禅」ともいい、禅問答をして公案(勝れた禅者の言葉・悟りへ導く課題)と一体になるように工夫し坐禅を組むものである。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 曹洞宗

[高 祖]希玄道元(一二〇〇〜一二五三)
[太 祖]瑩山紹瑾(けいざん じょうきん(一二六八〜一三二五)
[本 尊]釈迦牟尼仏が多く、特にこだわりはない
[経 典]法華経・涅槃経・華厳経・般若経等
[大本山]永平寺 福井県吉田郡永平寺町志比
    総持寺 神奈川娘鶴見区鶴見二−一−一
    宗務庁 東京都港区芝二−五−二
[寺院教会数]一四、五二九
[教師数]一六、五九五
[信徒数]一、七一六、九五一


 日本曹洞宗は、鎌倉時代、五年間宋に留学した道元によって伝えられた。

 道元は、正治二年、京都で生まれ、父は内大臣久我通親(みちちか)、母は摂政関白の藤原基房(もとふさ)の娘である。
幼くして両親を失い、建暦二 (一二一二)年、一三歳のとき比叡山に登り、翌建保元年、第七〇代天台座主公円を師として出家し、仏法房道元を名乗った。
叡山で天台教学を学んだが「人は皆、元来仏であるならば、なぜ修行をするのか」との疑問を抱き、解答を得ることができず一八歳のときに下山した。
その後、三井寺の公胤(こういん)のすすめで栄西の高弟である建仁寺明全の弟子となり、臨済宗黄龍派の禅を学んだ。

 貞応二(一二二三)年、二四歳のとき、本格的に禅の学問を修めるために、明全に随行して入宋した。
中国に渡った道元は諸寺を歴訪して臨済禅を学んだが納得できず、続いて天童山景徳寺の如浄に師事し曹洞宗を学んだ。

道元は如浄の「参禅はすべからく身心脱落なるべし」すなわち「坐禅そのものは全ての煩悩をはらって、自由の境界に至る」との如浄の言葉で悟りを開いたという。
こうして如浄から只管打坐の重要性を教えられた道元は、曹洞宗の印可を得てその法を嗣ぎ、安貞元(一二二七)年に帰朝した。

 道元は京都建仁寺に身を寄せ、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』一巻を著し坐禅を勧め、寛喜二(一二三〇)年、京都の深草に移り、のちに興聖寺を創して十一年間止任し、独自の禅風を作り上げた。
このとき曹洞宗の根本聖典である『正法眼蔵』を著述しはじめ、その「弁通話」の中で、道元は天台宗・真言宗の兼修禅を否定し、只管打坐の専修禅・純粋禅を強調した。

 道元は寛元元(一二四三)年、四四歳のとき、師である如浄の教えを実践するため越前(福井県)志比の山間にこもり、そこに大仏寺を草創し、曹洞宗の根本道場と定め日本曹洞宗の礎を築いた。
大仏寺は寛元四(一二四六)年に吉祥山永平寺と改称され、現在、本山となっている。

 これ以後、道元は越前のこの地を拠点とし、弟子の育成と僧団の確立に努め、禅の集大成である『正法眼蔵』の執筆に励んだ。
建長四(一二五二)年から病いにかかり、翌年、孤雲懐奘(こうん えじょう)(一一九八〜一二八〇)に永平寺を譲り、療養のため上洛したが八月二八日、五四歳で没した。

 道元没後、二代懐奘は一五年間在住したが、文永四(一二六七)年、病いにかかったため徹通義介(てっつうぎかい)に永平寺を譲った。
その後、教団の発展を目指す義介の派と、只管打坐の伝統を固守しようとする義演の派との間に確執が起こった。
それから五年後、義介は永平寺を出て、加賀の大乗寺に移った。
この両派の争論は五〇余年にわたって続いた。

 その後、義介の門下から瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)が出て、能登櫛比(しっぴ)(現石川県門前町)に総持寺を開いた。
しかし総持寺が明治三一年、火災のため諸堂伽藍が消失したことにより、同四三年には横浜鶴見に移転復興した。
現在は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとっている。

 なお、曹洞宗には臨済宗のような分派は見られない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(曹洞宗の特徴)

 曹洞宗の『宗憲』第三条には、「本宗は、仏祖単伝の正法に遵(したが)い、只管打坐、是心是仏を承当することを宗旨とする」と規定している。

曹洞宗の教えは臨済宗とは異なり、文字や知識は修行の妨げになるとし、公案を用いない。
無所得・無所悟の立場から只管(ただひたすら)黙々と、何ら意義や目的を持たず求めず坐禅をする「只管打坐」を重んじ、坐禅修行の姿そのものが仏・悟りであるという「修証不二」を説く。
すなわち修行の成果として仏になるのではなく、修行することが仏の行であると説くのである。

 この曹洞宗の坐禅は、臨済宗の公案を中心とした峻烈な坐禅に対し、「見性禅・黙照禅」と呼ばれ、ひたすら坐禅することによって、自身の中に仏性を見出し、自らが本来仏であるとの悟りを得ようとするものである。

また、『宗憲』第五条には、「本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、
修証不二の妙諦を実学することを教義の大綱とする」とあり、坐禅行のほかに日常生活において、懺悔滅罪・受戒入位・発願利生・行持報恩の教えに則り、禅戒一如・修証不二を実践することを教える。

臨済宗が朝廷や幕府や豪族などを中心に布教したのに対し、曹洞宗は、道元の「一生不離叢林」(生涯、禅の修行の場を離れるな、世俗から離れよ)という教えにより世俗の権力に近づくことなく、一般民衆に浸透していった。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 黄檗宗

[宗 祖]隠元隆g(いんげんりゅうき)(大光普照国師・一五九二〜一六七
     三)
[本 尊]特定の本尊を崇拝しない。個々の寺院の縁によって釈迦牟尼仏・観音像・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩等が祀られる
[経 典]心を宗とし無門を法門とする。化法として大小乗経論を用いる般若心経・阿弥陀経
[大本山]万福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割三四
[寺院教会数]四六三
[教師数]四六二
[信徒数]三五〇、000

 黄檗宗は、明から来朝した隠元が京都宇治に黄檗山万福寺を開創したことにはじまる。
黄檗宗の名称は明治九年に公称したものである。

 隠元は、明時代の末、中国の福建省で生まれ、二九歳のとき、同省福州の臨済宗黄檗山万福寺に入り、鑑源について得度し禅を修行した。
また中国の各地を訪れ、密雲円悟や費隠通容(ひおんつうよう)のもとで修行を重ね、四三歳のとき、費隠のあとを受けて黄檗山万福寺を継いだ。

 その後、肥前(長崎県)の興福寺(俗称・南京寺)逸然などの請いによって、承応三 (一六五四)年七月、隠元六三歳のとき、万福寺を弟子の慧門に譲り、二〇余人の弟子とともに日本に渡来した。

 隠元は、万治元(一六五八)年一一月、将軍徳川家綱より宇治の土地を与えられ、寛文元(一六六一)年八月、その地に黄檗山万福寺を建立し、この山号にちなんで黄檗宗という日本独自の宗派を開いた。
なお日本の黄檗山に対して、中国の黄檗山を古黄檗という。

 寛文四(一六六四)年、隠元は万福寺を木庵に譲り、延宝元(一六七二)八年四月、八二歳で入寂した。

 隠元没後の黄柴宗は、上皇や幕府の帰依を受けて全国に寺院が建立され、宗勢は大きく発展し、最盛期には末寺三、五〇〇を数えたという。
黄檗宗の僧は明からの留学生が多く、万福寺の第二一代までは一人を除き渡来憎が住持を務め、二二代以降は日本の僧が住職となっている。

 明治時代になり黄檗宗は、帰依していた諸大名の没落と廃仏毀釈の施策によって、廃寺となる寺院が続出した。

 明治七(一八七四)年、太政官令布告(明治五年発布)により臨済宗に合併したが、二年後にはまた黄檗宗として分離独立し、今日に至っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(黄檗宗の特徴)

 隠元の教えは、人が生まれながら具えている仏心を坐禅によって見出し、仏と同じ境地を体得させようとするものである。

 黄檗宗では坐禅を重視するとともに、作務、朝夕の念仏、写経、食事の作法など生活のすべてに精進し、実践による錬心を中心とした修行で仏の世界に至れるように努力すべきである、と説いている。

 黄檗宗の第一の特徴は、念仏禅といわれるものである。
黄檗禅は本来臨済禅の一つであるが、臨済宗や曹洞宗の禅とは異なり、禅のなかに念仏を取り入れた念禅一致を説いている。
黄檗禅でいう浄土は、浄土教でいう浄土ではなく、己の心のなかにあるとする天台・真言で説くような浄土である。

 隠元は、朝夕の勤行に、浄土讃、阿弥陀経などを読誦し、参禅で仏心をきわめ、念仏によって阿弥陀を体得することを主張した。

 第二の特徴は、読経の発音である。
一般仏教では呉音であるが、黄檗宗の読経は唐音を用いている。
たとえば「南無阿弥陀仏」も、読み方は「ナムオミトーフー」と読む。
また木魚・磐子(けいう)・銅鑼(どら)・引磐(いんきん)等の鳴り物を使い、リズムにのって経を読むことから、「黄檗の梵唄(ぼんぱい)」といわれ
る。

 第三の特徴は、黄檗山万福寺に見られる建築の様式である。
寺院のたたずまい、窓の形、壁の色彩等は、すべて中国の明朝時代の様式が取り入れられている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【破折の要点】

■ 禅宗の付法蔵は欺瞞

 曹洞宗の道元は「単伝正直の仏法」といい、釈尊から付嘱を受けた迦葉より、第二八祖達磨が相承して中国に伝えた禅が仏法の正統であり、その教えが自らに伝わったとする。

しかし釈尊からの付法は、第二祖迦葉・第三祖阿難と次第して第二四祖師子尊者に至ったが、師子尊者はダンミラ王に殺されたので付法蔵はそこで断絶して
いる。

 しかし禅宗では、付法蔵の断絶後も、勝手に婆舎斯多・不知蜜多・般若多羅と次第させ、第二八祖菩提達磨に付嘱されたとしている。

これは何の根拠もない後世の偽説にほかならない。

■「粘華微笑」について

 道元は『大梵天王問仏決疑経』の「粘華微笑」の説話を『正法眼蔵』の中に引用し、自宗の拠り所としている。

釈尊が、迦葉に付法蔵の第一として小乗の法を付嘱されたことは事実であるが、禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたという。

 しかし釈尊の涅槃のときには、迦葉はその場にいなかったのである。
ゆえに『大梵天王問仏決疑経』のように、釈尊が華を粘って迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、まったく根拠のない作り話である。

■ 教外別伝・不立文字

 禅宗で主張する教外別伝の根拠は、『大梵天王問仏決疑経』の「仏言はく、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り、文字を立てず、教外に別伝し(中略)摩訶迦葉に付嘱するのみ」という文である。

 禅宗では、これを根拠に「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないか。

また不立文字とは文字を立てないことであるから、当然、経典等は用いないことになるが、教外別伝の根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違である。

 しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、唐時代の末の慧炬(えこ)の『宝林伝』の中に記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその名称はない。
このことからも『大梵天壬問仏決疑経』は古来偽経扱いされているのである。

 また、達磨は『楞伽経』四巻を註釈した書五巻を作り、第二祖慧可に禅の法を正しく伝えたとしているが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違している。

一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の脊属なり」と説かれるように、天魔の所業といわざるをえない。

■ 直指人心・見性成仏

 禅宗では、「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとする。
たしかに円教の理においては十界の衆生はすべて仏といえるが、しかしこれは単なる理仏であって実際の仏ではない。

 三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできない。
だからこそ、釈尊は『涅槃経』に「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきではない、と誡められているのである。

 完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚痴無漸の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは、増上慢以外の何ものでもない。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■