優気氏へ 1  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月11日(日)21時48分56秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  優気さんへ。

今までご挨拶せず、また貴殿からの問いかけにもお返事できなかった非礼をまずお許しください。
当板での私の姿勢は、一人の人物と対論している期間は、その一点に集中するために、基本的に他の方との往還はしない方針で臨んでおりました。
以後、よろしくお願いします。
今までの流れを知りませんので、以下の投稿から、いささか唐突ではありますが、思うところを発言いたします。
尚、73氏のお答えと重複するところもあるかもしれませんがお許しください。

―――――――――――――――――――――――――
73さんへ  投稿者:優気  投稿日:2007年11月11日(日)00時17分0秒 ntoska417248.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp   返信・引用

  73さんへ

再掲です。

▼73さん言
>『質問の意味もあまりわからないし、第一、
そのような日本昔話のようなおとぎ話にはお付き合いできません。』

★優気言
御返事の内容は、もう一つと言いましょうか、申し訳ない言い方で悪いのですが、「逃げの一手」の言葉ですね。
そう逃げないで下さい。質問の意味もあまりわからないとのことなので、もう一度質問内容を掲載致します。

@.素朴な疑問。
では、こういう質問を致します。
「たとえ話で恐縮ですが、時の法主から、総本山に呼び出され、「神札を受ければどうか、」と言われたとしましょう。
この場合、貴方はどうされますか。」
との質問に対し、

貴方は「、一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。です。」
と、明確に答えられた、

それに、対して私は、

「その時の法主については、貴方はどのように思われますか。
貴方の主張『大聖人門下として、師匠が大聖人様であることは当たり前です。
大聖人様と御法主上人猊下は、先に議論したように御内証において一体であり、
「代代の聖人悉く日蓮なり」『御本尊七箇之相承』と文証も明確です』

との関係で、いえば、その時の法主については、貴方はどのように思われますか。
このような法主においても、貴方は、「大聖人様と御内証において一体である」と主張されますか。
違うのであれば、その法主は何なのでしょうか。謗法者なのでしょうか。
その時の血脈は、その時の法主に流れているのでしょうか。
又、流れていないのでしょうか。どうでしょうか。ご返事お待ち致します。」

これでも、質問の意味が解らないと強弁なさいますか。頭がよほど悪いのか、答えたく無くて逃げているのかの、どちらかでしょう。

貴方が言う、「そのような日本昔話のようなおとぎ話」では、ありません。
つい最近、といっても、
昭和18年、
創価学会初代会長、牧口先生、当時理事長の戸田先生、が総本山富士大石寺に呼び出され、
時の法主猊下様から、「神札を受ければどうか、」(趣旨)
といわれたのです。これは、昔のおとぎ話ではなく、現実そのものの話、出来事なのです。現実から目をそらさないで下さい。
貴方の真摯な、真っ正面からのご返事お待ち致します。
―――――――――――――――――――――――――

↑この件に関しては、長くなりますので、↓にまとめておきましたので、これをもって反論させてください。

http://toyoda.tv/kamihuda.htm

では、この件に関して、ご返答お待ちしております。
尚、今までの投稿に関しても順次、反論させていただきますので、ご了承下さい。

http://toyoda.tv

優気氏へ 2  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)00時21分15秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  開眼について  投稿者:優気  投稿日:2007年10月 7日(日)03時27分1秒 ntoska341088.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp   返信・引用

  開眼について
@.御書には「法主の開眼」など一切無い
むしろ、真言密教を例に挙げ、「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり」と、開眼は法華経の力によるべきであると強調されている。信心をもって拝していけば特別な開眼の儀式など一切必要ない。
―――――――――――――――――――――――――

http://toyoda.tv/okiura.siryo2 をご覧下さい。
これについて教義的に正当な反論をいただきたいと存じます。

http://toyoda.tv

優気氏へ 3  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)00時31分29秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  A.戦後〜昭和50年代
末寺(法道院)で印刷、本山に輸送されることなく(開眼無く)全国へ発想。
―――――――――――――――――――――――――
http://toyoda.tv/kaigen.hodoin をご覧下さい。
これについても教義的な反論をお待ちします。

http://toyoda.tv

優気氏へ 4  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)10時13分24秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > [投稿日時] 2007年11月12日(月)06時28分2秒
> [題名] 樋田昌志さんへ
> [投稿者] 優気

> 樋田昌志さんへ
>
> ▼樋田昌志さん言
> >『では、この件に関して、ご返答お待ちしております。』
>
>
> ★勇気言
> 「慧妙誌の記事を元に多少の編集をしたもの」お読み致しました。
>
> 素直な感想を言わせて頂ければ、「いやー、口は便利なモノ、何とでも、言いつくろうことが出来るものだなー」といったところでしょうか、
> 確かに、当時の法主猊下の苦衷は、にじみ出ております。
> 日蓮正宗創価学会だった頃、宗門外護の立場から、そのように思っていた時期もありました。
> しかし、今は、時が違います。
▼@「> 阿部日顕さんは、民衆の和合僧団である、創価学会を、切る、
> CUTするという、大謗法を犯し、」大御本尊様を偽物呼ばわりし、
> 法主詐称という、天魔の悪行を犯したのです。
―――――――――――――――――――――――――

↑では、一つづつ丁寧に見ていきましょうか。

▼@ 「> 阿部日顕さんは、民衆の和合僧団である、創価学会を、切る、CUTするという、大謗法を犯し、」

これは、そもそも、宗教法人創価学会は、日蓮正宗の法規に定めるところの法華講支部ではありません。
その創価学会に対し、宗門が、現在まで本宗の信徒団体として認容してきた所以は、昭和二十六年、創価学会の宗教法人設立申請時における、

  @ 折伏した人は信徒として各寺院に所属させること。
  A 当山の教義を守ること。
  B 三宝(仏法僧)を守ること。

という、宗門に確約した三原則の遵守を条件とするものであります。
この三原則が遵守されなくなれば当然、日蓮正宗の信徒団体としては認証できなくなります。

伝統ある校風を重んじる学校の校則が守れない。となればその生徒は退学処分になりましょう。
そういうことですね。
↓ここに詳しいですよ。
http://toyoda.tv/kaisankankoku.htm
今、よく読み返してみても、実に正論だと思いますよ。

あと、反論は、感情論・不確かな伝聞・事実と証明できない内容 などはできるだけ避けていただき、あくまで教義的に法義としてどうなのか、でお願いしたいのですが。

では、よろしくお願いします。

http://toyoda.tv

優気氏へ 5  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)11時48分11秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ▼A「大御本尊様を偽物呼ばわりし、」

http://toyoda.tv/kawabe.memo  に詳しく反論しております。
これについても、教義的かつ事実に基いた反駁をお願いします。

http://toyoda.tv

優気氏へ 6  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)13時22分13秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ▼B「法主詐称」

↑日顕上人が「法主詐称」していると断定する、その

@ 客観的事実
A 証言者の実名とその現時での立場

をまず明示してみてください。
それを見てから、その一つ一つを詳細に検証していきましょう。

http://toyoda.tv

優気氏へ 7  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)14時36分35秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ▼> どんなに言いつくろっても、牧口先生、戸田先生に対して日蓮正宗の対応は、自己保身である、
> としか言いようがありません。信徒を護るべき立場の法主が、謗法を強要・指示した、ことには、代わりはありません。
―――――――――――――――――――――――――

↑これでは、”ただ頑迷に思い込みでそう言い張っている。”としか言えませんよ。
もちろん、現時の宗教と政治の分離・宗教の自由などを憲法で保障されている平和な社会で、仮初にも神札をとりあえず受け取る。という行為がそのまま公然と認知され得ないことは当然です。
しかし、当時では、「伊勢の大麻」(神札)を焼却する。という行為はそのまま国禁に触れた訳ですね。
つまり、神札を祀ることは国の法律で定められてしまっている状況下で、宗門がされた指導とは
「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」ということですね。
この指導でもわかるように、御宗門として指導したのは「国禁に触れぬよう」ということであって、「神札を杷(まつ)れ」という指導ではなかったわけです。
 それ故、戸田城聖氏の『人間革命』には、この指導に続く言葉として
■「一度神札を受けてそっと処分すると云う様な方法か、又積んで置いても、それほどの害はありますまい」(『聖教新聞』昭和ニ十八年十二月六日付)と描写されており、宗門が神札を「唯々諾々と受諾」したわけでないことがわかります。
(「受諾」したのであれば「処分」する必要などなく、実際、当時の法華講員の多くは、この指導どおりに神札を処分してきたのです。)

しかも、この時期、辛うじて収まっていた身延との合同問題。
何か些細な一時でもあれば国圧によって身延と合同(=戒壇の大御本尊即日蓮大聖人が謗法者の手に落ちる。謗法者どもに弄ばれる。あるいは身延の謗法者どもに奪取される。)させられる、という、万々が一にもあってはならない極悪大謗法の事態を回避するための一大緊急時において為された当時の宗門のご判断は全く謗法行為ではありません。
絶対にあってはならないことを回避するのに細心の注意を払い、あらゆる善処策を講じなくてはならないことは戒壇の大御本尊即日蓮大聖人様を厳護する僧俗の最も先に心がけなければならない最重要な課題です。

■法華経の薬王品
  「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」(開結六〇五n)

↑絶対に”断絶”させてはならない。戒壇の大御本尊様に絶対に何か不測なことが起こってはならないのであります。
この大前提に立てば、神札を一応受けて、あと、それを捨て置く。もしくは隠れて焼却する。という行為は謗法でも何でもありません。
むしろ、わざわざ官憲の目の前で国禁を破り、憲兵や司法当局を過剰に刺激し、戒壇の大御本尊への危機を招来することの方がよほどの大謗法行為であります。
ですから、以下の日達上人のお言葉はまさに正論ですね。

■ 「このとき、宗門としても神札を祀るなんてことはできないからね、一応うけるだけうけ取って、住職の部屋のすみでも置いておこうという話になったわけです」(日達上人全集一―五―六四六n)

『日達上人全集』
■「総本山において、天照大神のお札を貼ったことは一度もありません。(中略)別に我々がその天照大神のお札を拝んだことなどありもしない。また、実際その中(※軍部が強制的に使用していた書院)へ入って見たこともない。入れてくれもしない。まあ借家同然で、借家として貸したんだから向こうの権利である。そういうような状態であって、決して我々が天照大神のお札を祭ったとか、拝んだとかいうことは、事実無根であります。(中略)決して天照大神のお札を祭ったこともなければ、またそういう社を造ったこともない。また、間違ってそういうことをするのを、これを謗法といって、大聖人、日興上人、日目上人の歴代において少しもそういう謗法を、本宗においてはしたこともないし、もちろん信者にそういうことを勧めたこともない」(二―五―六〇七〜六〇九n)

以上の事実に基づく状況と、日達上人の御指南を拝して、こういう事情が理解できないとしたら、

■客明らかに経文を見て猶(なお)斯(こ)の言(ことば)を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。(立正安国論)

と大聖人様から、頑迷固陋の妄執の愚人 と言われてしまうのではないでしょうか。

しかも、もし、このとき宗門が謗法ならば、その後、戦後になぜ戸田会長は、その謗法であるはずの日蓮正宗の信仰を継続し、その謗法であるはずの日蓮正宗の普及に命がけに御奉公されたのか?
もし、日蓮正宗が謗法ならば、戸田会長率いる創価学会は全員、謗法与同罪でやはり謗法であります。
この矛盾は解けますか?

では、論理的に明快な反論をお待ちしております。

http://toyoda.tv

優気氏へ 8  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)15時27分48秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 宗門は、謗法厳戒と口では言いながら、実際には謗法を容認してきたし、このような、謗法を強要・指示するようなことが起こるのです。
―――――――――――――――――――――――――
↑これは前段で説明致しました。

―――――――――――――――――――――――――
> それが証拠に、大石寺近郊の根檀家は、謗法だらけです。
―――――――――――――――――――――――――
↑これについては、その証拠資料を提示していただけますか?
それを見ながら詳細に検証していきましょう。

http://toyoda.tv

優気氏へ 9  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)17時10分53秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 昭和16年8月24日、弾圧を恐れ、御書の字句を削除する。宗務院の院達で、御書の発刊を禁止。本地垂迹説の引用を禁止。さらに、
> 昭和16年9月29日、日蓮正宗教学部長名で、御書の本地垂迹説にかかわる14箇所の字句を削除し、法話等に引用しないよう決定、通達を出す。削除された中には、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」の御文もはいっていた。
> 昭和16年8月22日、の院達では、御観念文を天照大神を尊崇するものに改ざん。
> 昭和16年12月8日、日恭法主は、「訓諭」を発表。開戦を賛美・鼓舞。
> 昭和17年1月、日恭法主の新春の挨拶、戦争への協力を強く訴える。
> 昭和17年10月10日の院達で、毎年10月17日に行われる伊勢神宮の神嘗祭の当日御前10時を期していっせいに各在所において「神宮を遙拝(遠くから拝むこと)せしむる様に」檀信徒に徹底するように通達。
> 昭和17年11月1日の院達で、明治節には、神社に参詣して必勝を祈願することを徹底。

―――――――――――――――――――――――――
↑以上の件については、http://toyoda.tv/sensoukyoryoku.htm に反論をUPしておきました。

中でも、当時の牧口会長も交えた創価教育学会の大善生活実証座談会での発言や記録は、「戦争賛美」の証拠 ではないのでしょうか?

▼「創価教育学会第四回総会は、昭和十七年五月十七日東京市神田区一橋教育会館に開催された。出席者は約四百名、午前十時宮城遥拝、黙祷の国民儀礼の後、左記順序によって会議を続けた。(中略)次いで牧口会長の発声で、天皇陛下の万歳を三唱し奉って午後四時散会した。」 (『大善生活実証録』第四回総会記録)

▼『大善生活実証録―第五回総会報告―』創価教育学会発行
「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島附近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問はず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、只管に目的達成に邁進しつゝあることは、すでに皆様熟知されるところである」(四八n)

(他にも多数あります。ご確認ください。→http://toyoda.tv/sensoukyoryoku.htm

さて、その上でお聞きしますが、前段と同様、もし、この件で日蓮正宗が謗法ならば、戦後、戸田会長は日蓮正宗を信仰する必然性はないはずですね。
それほど謗法厳誡の厳格な戸田会長ならば、なぜ貴殿が言うような”謗法にまみれた日蓮正宗”を戦後信仰したのでしょうか?
もし、日蓮正宗が謗法にまみれていたのなら、それを信仰した戸田会長以下全ての創価学会員は全員、謗法与同罪で、やはり『謗法』ですよね?
この矛盾は今まで誰からも教義的に論理的な回答をいただいておりません。
もし、これが整合性をもって説明できないときは、日蓮正宗に謗法は無かった。とお認めいただき、上記の非難を謝罪して撤回していただけますか?
その点、重要ですので、よろしくお願いします。

http://toyoda.tv

優気氏へ 10  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月12日(月)21時40分14秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > このような史実の中で、当時の法主猊下の苦衷と言っても、にわかには信じられない。そうであったろうな、と言った作文でしかない。池田先生の言葉も、当時は、私も含めてすっかり騙されていたので、宗門外護の立場からそのような言葉になったものと思われます。
> 作文でなく、貴方の仰るような証拠があれば、是非、教えて下さい。過去に信じていたモノをそのまま素直に信じられる方がいいに決まっておりますから。
―――――――――――――――――――――――――

↑これは、今まで示した状況と、証拠文献を再度熟読せられまして、再考ください。

―――――――――――――――――――――――――
>
> 日恭法主の焼死にしても、伝えられるところによると、事実は、貴方の言われるここと大分違っているようです。
> 昭和20年6月17日、大石寺の対面所の裏から出火した火災は、大奥・大書院・六壺・大客殿など5百余坪を消失、出火の原因は、「所化によるタバコの火の不始末」のようです。
> 午後10時半頃出火し翌朝4時頃まで燃え続け、火がおさまった時、大奥の焼け跡から、二階に泊まっていた日恭法主の焼死体が発見されました、しかも、一階の食堂の竈の中に、下半身がはまりこんだまま焼け死んでいたそうです。これは、前日に静養先から大石寺に戻ってきて大奥に泊まったもので、巨体と病気によって歩行も困難だった為に逃げることが出来なかって、おそらく二階の床が焼け落ちて、一階の竈に入り込んで逃げられないまま焼け死んだのではないかと推定されております。

―――――――――――――――――――――――――
↑この件も http://toyoda.tv/nikkyosyonin.htm に詳細に破折してあります。
特に、竈云々の件は、当時の見取り図 http://toyoda.tv/mitori.jpg を良くご覧になって、熟考されたほうがよろしいかと、思います。

http://toyoda.tv

優気氏へ 11  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)00時00分6秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ▼ なお、「通諜」は戦後、法華講員の捏造であります。以下のホームページでご理解頂けるものと思います。これは、週刊誌ネタ、謀略文章です。

http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20051021/p1

http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20051022/p1

http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20051023/p1

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/02/061.html

http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20050524

―――――――――――――――――――――――――
↑そうでしょうか?

上記の内容は完全に破折され尽くしていると思うのですがどうでしょうか。

http://www5.tok2.com/home2/sudati/senjika.html

http://toyoda.tv/tutyo.htm

を熟読してみてください。
その上で、もし論理的な反論があればお聞きしたいと思います。

http://toyoda.tv

優気氏へ 12  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)13時18分26秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > [投稿日時] 2007年11月12日(月)12時19分43秒
> [題名] 樋田昌志さんへ
> [投稿者] 優気

> 樋田昌志さんへ−No.3(2)

―――――――――――――――――――――――――>
> ▼樋田昌志さん言

> >『■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、云々』との御文と併せ拝すれば、
> ■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」と
> ■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養」とは同義ですから
> 「印する」とは「開眼・開眼供養」の意義であることが分かります。
>
> ここで分かる事は、
> 【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。草木成仏をした”木絵二像”は生身の仏”になる”
> ということでしょう。』
―――――――――――――――――――――――――
>
> ★優気言

> そうでしょうか、すこし、違うように思います。
> ■ 木絵二像開眼之事「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり、故に天台は「一色一香無非中道」と云云、妙楽是をうけて釈に「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云云、・・・・・・然りと雖も一念三千の肝心草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり、今の天台の学者等我一念三千を得たりと思ふ・・・・・・・法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ」
>
> 要点をいえば、「無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」、つまり、草木に仏性があり、一念三千の、御本尊様御図顕の依文であると言えましょう。
―――――――――――――――――――――――――

↑ある面では正しいと言えるかも知れませんが、もう一面が理解されていない、ということですかね。

@ まず、「■「無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」
とは、天台大師(それは法華経の一念三千)の法義からすれば、無情(=非情 心がない、と思えるもの。分かりやすく言えば、切っても「痛い!」と直截に言わないような類のもの。)にまで、仏になる性分がある。=衆生を救済して下さる「仏」となれる。との結論が導き出だされるが、その辺の石や木や草が、仏となって、我ら衆生をお救い下さるなんて驚天動地の信じられないことである。
ということですね。

ですから、正確に言えば、文字曼荼羅御本尊の「依文」ということならば、むしろ、この妙楽大師の御文より前の、
■「一色一香無非中道」=一色一香中道に非ざることなし  であり、
更に言えば、
■「草にも木にも成る仏なり」 ■「如来秘密意神通之力」(草木成仏口決)
ですね。

【文証】

■ 第廿五 建立(こんりゅう)御本尊等の事
 御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是(これ)なり。日蓮慥(たし)かに霊山に於て面授口決(めんじゅくけつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(就註法華経口伝)

細かいようですが、こと大事の御本尊について軽々に即断してはいけないと思うわけです。

A 次に、では、何でも草木が全て「仏」と成り得るのか?という問題ですね。
もし「成り得る」というのなら、その辺のどの石ころでも「仏」ということですから、拝めばこちらも成仏できるということになってしまいますから、わざわざ、本尊など必要なくなるということになり、それは有り得ません。

B では、どういう草木が仏=本尊 と成り得るのか?
大聖人様が御顕示なされた御曼荼羅御本尊は?→これは当然、「仏」が顕わされたのだからそのまま「仏」=御本尊ですね。
(※ただ、現時においては http://toyoda.tv/miyage.htm である。)

C では、大聖人御真筆御本尊をいただけない者はどうしたらいいのか?(今の世のほとんどの人はそうですが。)
大聖人御真筆御本尊を印刷したものでもいいのか?

↑これは

■一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

との日興上人の厳戒に背いた五老僧と同じ行為となり、謗法ですね。
たとえば身延のみやげ本尊です。

D では大聖人様の文字曼荼羅を真似して書けば、誰が書いても、それをコピーしたものでも「仏」=本尊 と成り得るのか?
もしそうなら、http://toyoda.tv/syosya.htm ということになってしまい、そんな「本尊」は有り得ない。

E では、一体、誰が大聖人様亡き後、御本尊を授与してくださることができるのか?

さて、優気さん、他、創価学会や顕正会の皆様はどうお考えですかね?

つづく。

http://toyoda.tv

優気氏へ 13  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)15時41分15秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 「開眼供養」のところは、「人木絵二像の全体生身の仏」にかかってきており、「草木成仏」には、リンクされていないと捉えるべきでしょう。
>
> つまり、釈迦の仏像や釈迦像の絵画は、「法華を心得たる人」が、「開眼供養」しなければ、「全体生身の仏」には、ならないと仰せられているところであり、「草木成仏」そのものである、御本尊様を、「開眼供養」しなければならないと言うことではない。
―――――――――――――――――――――――――

↑さあ?どうでしょうか?
はじめから”「開眼」など認めない!”という強い思い込みで恣意的に読んでいるのではないですかね。
では、細かく見ていきましょうか。

@ ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

【訳】 「ある人」が「法華経を心法」(=色法である法華経の文字がそのまま仏の御心)と定めて、「三十一相の木絵の像」に「印すれば」、その「木絵二像の全体」は「生身の仏」となり、それが「草木成仏」ということである。

A ■木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

【意味】→「木絵二像の全体」が「生身の仏」となること=「草木成仏」

↑構文的にも意義としてもそれ以外には読めませんね。

B ここで大いに問題になるのが、「木絵二像の全体」が「生身の仏」になってしまう。ということですね。
では「生身の仏」とは一体何でしょう?

■今我等天に向かって之を見れば生身(しょうじん)の妙覚の仏が本位(ほんい)に居(こ)して衆生を利益する是なり。(法華取要抄      文永一一年五月二四日  五三歳)

■一、若し爾れば今我等文。
 「今」とは末法なり。「我等」とは日蓮なり。日月はこれ日蓮体具の日月なり。これ則ち日天と月天とは観心の本尊の本地、自受用の本仏なり。「生身の妙覚」とは名字の妙覚なり。「本位」とは本因妙の位なり。これ名字の妙覚、末法の大闇を照らしたまうなり。依って今末法に、日蓮等天に向ってこれを見れば、生身妙覚の本仏、名字の本位に居して、末法の衆生を利益するなりという事なり。(日寛上人・法華取要抄文段)

↑「生身の仏(=妙覚)」とは、一往、附文の辺では、「生身の教主釈尊」ですが、釈尊は熟脱の仏であり、末法の衆生を直接に済度される教主ではありません。
ですから、再往、元意の辺において上記の法華取要抄の↑御文と日寛上人の御指南から、まさに「生身の久遠元初・本有無作の自受用身如来」ということですね。

すると、上記の■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」との御文はどうなるのか?

●「ある人」が「法華経を心法」(=色法である法華経の文字がそのまま仏の御心)と定めて、「三十一相の木絵の像」に「印すれば」、その「木絵二像の全体」は「生身の仏」=「生身の久遠元初・本有無作の自受用身如来」となり、それが「草木成仏」ということである。

↑そうしますと、「木絵の二像」を優気さんが言うように、単純に▼「釈迦の仏像や釈迦像の絵画」と見なすことはできません。
何故かならば、そう解釈すると、
”ある人が「法華経を心法とさだめて▼「釈迦の仏像や釈迦像の絵画」に印すれば▼「釈迦の仏像や釈迦像の絵画」がそのまま、「生身の仏」=「生身の久遠元初・本有無作の自受用身如来」となってしまう。”
ということになり、釈尊の仏像や画像が「生身の久遠元初・本有無作の自受用身如来」となることなど有り得ないからです。

ですから、この「木絵二像」とは、文義から必然的に「板・紙幅の文字曼荼羅御本尊」ということになります。

【文証】

日寛上人文段 観心文段
■ 二に木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。
二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」と云云。
文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。
また三十一巻二十骨目抄に云く「三十一相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」と云云。
若しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。
またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

↑この日寛上人の御指南に明々白々ですね。

つづく。

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優気氏へ 14  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)16時53分15秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  ただし、当時一宗の草創であるがために、未だ迹仏である釈尊に執着の深い機類のためには、一往方便、■「月の待つ片時の蛍火」として、釈尊像における開眼供養の義が存したことも事実である。
が、それは表面上の暫時の方便であって、その再往真実の本義とするところは、

■「五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」
→若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ。(日寛上人)

との御指南のごとくである。

【図示】

法華を心得たる人
→「魂魄と申す神を入るる」=「法華経を心法とさだめて印する」=「開眼供養」→非情である木絵二像(方便→釈尊像  真実→板・紙幅の文字曼荼羅)
⇒草木成仏⇒生身の仏
=本有無作の一念三千の生身の御仏
=正統な御本尊

この鎌倉往時の方便の義のみに囚われて、像法過時・末法無益の迹仏・釈尊像に関しての一義しか見えず、末法万年の真実の本尊相が読み取れないのは、まさに法義の片面しか見えていない、浅薄で未熟な法門理解ということですね。
日寛上人仰せの、
■若し草木成仏の両義を暁れば、云々
つまり、草木成仏義を未だ明らめていない、領解していない、草木成仏義に未だ暗い、法門未熟の者ということでしょう。

つづく

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優気氏へ 15  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)18時53分26秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 法体の広宣流布は大聖人によって、▼@「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊様御図顕により完成」されており、▼A「その意義を留める御本尊様」であれば、▼B「すでに開眼は含まれてと捉えるべき」であり、その御本尊様を開眼しなければならないと言うのは邪義である。
―――――――――――――――――――――――――

↑さてさて?

▼@「」とは、具体的にどの御本尊のことですか?

▼A「その意義を留める御本尊様」とは?

 誰が書写した「御本尊」ならいいのしょうか?
 その「御本尊」のどいうところが「その意義を留める」ことになるのしょうか?
 そもそも「その意義」とは具体的にどういう「意義」ですか?

▼B「」そういえる根拠を、文証を示し提示できますか?

こと、御本尊の御大事ですので、細かいようですが、これら↑が明確にならなくては、開眼の要否を云々するまず前提の根拠が不明瞭となりますので、よろしくお願いします。

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優気氏へ 16  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)19時15分17秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > ▼樋田昌志さん言
> >『■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決  文永九年二月二〇日  五一歳)
>
> 草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。
> しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。
> そこでここをまとめると、
> 【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が”仏と成る”ということである。』
>
―――――――――――――――――――――――――
> ★優気言
> 「しかし、ここで注意を要するのは、【1】”「開眼供養」により「草木成仏」する。”ということです。」
>
> これは、貴方の説ですか。「開眼供養」と言う儀式的なことでは無く、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」と仰せのように「魂入魂により」、非情の草木が”仏と成る”つまり、御本尊様となると言うことです。御本尊御図顕により、すでに、「魂入魂」は、されているのであります。よって、(後からの)御本尊様の「開眼」は必要ありません。
>
―――――――――――――――――――――――――
↑それはおかしいですね。
大聖人様御真筆御本尊なら、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」との御文の意義から、優気さんの言われることもある意味理解できますが、
今、法華講でも、創価学会も、顕正会でも、正信会・・・でも、大聖人御真筆御本尊を日常的に自宅で拝して修行している人はまず居ません。
つまり、それぞれ、大聖人以外の方のお手になる御曼荼羅を御安置して修行しているわけです。
ですから、大聖人が仰せになるような、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」との意義は直接にはありません。

もし、大聖人のお手にならない御本尊に「魂入魂」の意義がある!と強弁するとしたら、それはただ「相貌とか座配が似ている」ということだけでしょう。
そうであるならば、誰でも、大聖人御真筆御本尊に似せて書き写せばそのまま、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」ということになってしまうので、それは全くの痴論ですね。→ http://toyoda.tv/syosya.htm

また、身延系日蓮宗などでは、大聖人御真筆御本尊を写真撮影して印刷して”御本尊”としているところもありますが、これなども「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、」となって、正統な御本尊なのですか?→ http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/105.html

これは、大いに矛盾しているところなので、再度、もう少し論理的に、文証を引いて御説明願います。

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優気氏へ 17  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)19時26分48秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > ▼樋田昌志さん言
> >『此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。』
>
―――――――――――――――――――――――――
> ★優気言
> と仰せのように、「開眼」云々ではなく、大御本尊様にはすでに、「魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)」は、すでにはいっているのであって、特別に「開眼」する必要はない。その、意義を留める御本尊様、勿論、日寛上人の御書写の御形木御本尊様においても、同じ事が言えます。

―――――――――――――――――――――――――
↑前段同様ですね。

「日寛上人の御書写の御形木御本尊様において」 大聖人様が直接お書きになったわけではないのに、どうして、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と断言できるのですか?

大聖人様と日寛上人は別人ですよね?
「日蓮(大聖人様)が魂」 を大聖人と全く別人の日寛上人が、大聖人滅後450年ほど後に、どうやって、「墨に染め流して書く」=魂入魂することができるのですか?
優気さんが重視する”普遍妥当性”を以って、万人が理解できるように説明してください。
よろしくお願いします。

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優気氏へ 18  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)20時36分12秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > [投稿日時] 2007年11月13日(火)09時50分56秒
> [題名] 樋田昌志さんへ
> [投稿者] 優気

> 樋田昌志さんへ−No.4a(3a)
>
> ▼樋田昌志さん言

> 1.「総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。
> 2.式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていた
> 3.血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり
―――――――――――――――――――――――――>
> ★優気言

> 「開眼に対する疑難を破す」読みました。
> 強弁・強釈、何でもありですね。こんなことが、一般世間の常識と言いましょうか、
> 普遍妥当性の論理的な観点から大きく逸脱いており、
> 日蓮大聖人の理論整然とした仏法から大きく外れていることが、おわかりにならないのでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――
↑随分と感情的ですね。
およそ”理路整然”とはしていませんね。

反論するなら、きちんと文証を引いて、「普遍妥当性の論理的な観点から」「理論整然と」するべきですね。
もう、既に、何か条も反詰しておりますので、それら全てに、文証を引き、論理的な返答をしてみてください。
まず間違いなく、「開眼」を否定される御文はありませんよ。
また、優気さんの矛盾点も何点も挙げておりますので、その件の明答を楽しみにしております。
では、よろしくお願いします。

その上で、今回の疑難について、少々論駁しましょう。

1、について

■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)

↑このまま素直に拝すれば、御歴代上人(の御内証)は、日蓮大聖人である。ということですね。

■     真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳
但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

↑これは、(迹仏への執着がある機類への一往方便の意義ではあるが、)開眼供養を弟子の伊予房へ代参させておられる。

大聖人→伊予房
  師 →弟子
御法主上人→末寺御住職

全く同じ関係性であり、
「総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。」
その主張に全く遺漏はない。
もし、「問題がある」というのなら、正当で的確な文証をあげて反論してみてください。

つづく

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優気氏へ 19  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)20時51分21秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  2、『以前、法道院では、当時の日達上人の御命によって法道院主管であった観妙院日慈上人が御形木御本尊のお取り次ぎをなされ、全国の寺院に送付していたことについて、これは正式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていたのであるから、なんら総本山の正しい化儀に反してはいない、との御指南なのである。』に対しての疑難について。

開眼の義に於いての時間的空間的迷妄を破す。

■総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。
-----------------------
ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。
つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は成り立つのである。
その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。

ここも、反論されるなら、的確な文証を引証してください。
よろしくお願いします。

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優気氏へ 20  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)21時18分37秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  3.『血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり』に対しての疑難について

ここは、池田大作氏監修の「仏哲」から「血脈相承」の項を挙げてみますので、優気さんには以下の内容について『破折』していただきましょうか。

―――――――――――――――――――――――――
【血脈相承】

師資相承ともいう。
1人の大導師から唯一人の弟子に秘伝されるのが血脈相承である。
相承とは、相対授承のことで伝授法である。
仏法のみならず、世法のうえでも、秘法として、その道が絶えないように、ひとりの後継者をえらんで相伝されている例がよくある。
 『仏法は、三世にわたって、一切衆生を救うべき大法であるから、血脈相承の付属が大原則であり、清純に後世へ伝弘されていくのである。』
ゆえに正像末の三時にわたり、釈迦も、天台、伝教もこの方程式によって法を伝えた。
すなわち釈迦は迦葉に、天台は章安に、伝教は義真に、その所持の大法を伝授した。
このように、『仏法を流通するには師匠から弟子への、唯授一人の血脈相承によるのである。』
 『日蓮正宗の法門は、日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日日上人へと、その後、代々と相承され、法燈連綿として、七百有余年間、広宣流布、王仏冥合の時を待ちつつ、清らかに伝授され、血脈相承されているのである。』
 日蓮大聖人はこの血脈相承について、
本因妙抄(八七七) に
■「日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」とあり、また、
御着口伝(七八三) に
■「秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず」と、
『唯授一人の血脈相承であることは明々白々である。』
日蓮大聖人から、二祖日興上人におゆずりなされたことは、身延相承書に「血脈の次第 日蓮日興」とおしたためになっている。
『血脈相承の大事なことは、
立正観抄(五三〇)に
■「当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり」とある。』
大聖入滅後百年ごろ、日什が現われて、経巻相承の邪義を立てた。
すなわち経巻を読んで大聖人の御真意を相承した、というのであるが、それは一方的なもので、相承とは、ゆずった者とゆずられた者がなくてはならない。
このような邪義はすでに破折しつくされている。
『仏法の奥義は、あくまでも師弟相対のうえに立っての、唯授一人の血脈相承以外にないのである。』 以上(『』等は便宜上添加した)
―――――――――――――――――――――――――

優気さんの見解では、この↑仏哲の記述(池田氏の監修→池田氏の主張・意見・論)は

> 強弁・強釈、何でもありですね。こんなことが、一般世間の常識と言いましょうか、
> 普遍妥当性の論理的な観点から大きく逸脱いており、
> 日蓮大聖人の理論整然とした仏法から大きく外れていること

ということになりませんかね?
ただし、”池田先生のかつての方便だった。”なんて言い訳は通りませんよ。
「血脈相承」とはおよそ教義の根幹部分であり、もしこの↑内容が間違っていたならば、池田氏は800万信徒に向かって、”普遍妥当性””不変性””正当性”などを最重要な課題として尊重しなければならない、「辞典」という媒体で、教義的な真っ赤なウソを公然と主張し、間違った教義的解釈を教え信徒に謗法を犯させた、ということになりますから、その仏法的・道義的・社会的責任は重大と言わざるを得なくなります。
それだけで大罪・大謗法ですよ。

■一、門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、(有師化儀抄)

さて、ではこの仏哲の記述が「正しい」というのなら、昨今の池田発言はまさに、↑の御指南の通りに、やはり大謗法行為になりますね。
この辺のまさに「矛盾」を、優気さん、どうか、きちんと文証を引いて、「普遍妥当性の論理的な観点から」「理論整然と」解説してみてくださいませんか。
よろしくお願いします。

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優気氏へ 21  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)21時45分2秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 「許認可」イコール「開眼」と言われているのでしょうか。御法主上人が認めたから、開眼は無くてもいいと言われているのでしょうか。
> 「総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていた」に至っては、開眼の儀式も必要なし、と言っているのであり、そんないい加減なものでもいいのである、と言っているのに等しい。
―――――――――――――――――――――――――

↑ここも何やら感情的ですね。
内容については、既に前数段に亘って破折済みですね。
その上で、「開眼の義」については、何も今急に言い出したことではないですね。

■22世『本門如来寿量品廿三座』日俊上人
「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三n)

■26世『観心本尊抄文段』日寛上人
「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

■31世『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

■56世『法之道』日応上人
「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

↑そもそも、もし「開眼」を云々することが謗法ならば、戸田会長はこの時点で、そんなオカルチックなことを言う宗派に入信する必然性は全くなかったはずですね。
どこか別の宗派に入って、謗法厳誡の精神から、日蓮正宗を徹底的に破折するべきだったのではないですか?
繰り返しになりますが、戸田会長はなぜこの開眼を明確に説く日蓮正宗へ入信したのでしょう?
そして、開眼をされた御本尊をなぜ拝んだのでしょう。
そして、その開眼された御本尊に対する深い信心の数々の言葉を残されたのでしょう?
開眼をされた御本尊は「謗法」であるはずなのになぜ戸田会長は大きな功徳を感じ、深い感謝をされたのでしょう?
開眼を主張する御法主上人へ戸田会長はなぜ深い尊信の姿を示されたのでしょう?

・・・全く謎です。

優気さん、ここもどうか分かりやすく説明してください。

■67世『日顕上人御講義』
「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。」(偽造本尊義を破す五九n)

↑開眼の深義はまさにこの御指南に明白です。
読めないのは正しい信心がなく、正しい行を積んでなく、そして正しい教学力がない、ただそれだけのことですね。

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優気氏へ 22  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)22時02分29秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > いいですか、御本尊様は、もともと、大聖人魂入魂の御本尊様です。そのことを理解するならば、開眼・許認可云々は必要なしです。
―――――――――――――――――――――――――
↑破折済みですね。明答を楽しみにお待ちしておりますよ。

―――――――――――――――――――――――――
> 一閻浮提総与で、全世界民衆に開かれた大御本尊様です、勿論、信心によって信受することが大前提でありますが、「血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ」の、独占が許される大御本尊様ではありません。
> 大聖人の仏法を食い物にする、魔仏・魔僧であります。
―――――――――――――――――――――――――
↑これは、これは。少し不勉強に過ぎませんか?

■    日蓮一期弘法付嘱書    弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日   日蓮花押    血脈の次第 日蓮日興

↑「日蓮一期(いちご)の弘法」のその究竟するところの法体とは、まさに戒壇の大御本尊様であらせられます。
その戒壇の大御本尊は、日興上人お一人に御付嘱なされている事実はどう見るのでしょう?

■一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事    元弘二年一一月一〇日)

↑更に、この御文は明白です。その大聖人様出世の御本懐であらせられる戒壇の大御本尊様は日興上人の御身に御付嘱なされ、今度は、まさに日目上人御一人へ御付嘱なされているのですね。
この事実はいかが思われますか?
そもそも、三大秘法は上行菩薩即日蓮大聖人御一人に付嘱されたのではないですか。
その別しての血脈があってこそ総じての「全世界民衆に開かれた」血脈が生じるという、道理・教理を知りませんか?
もう少し素直に勉強しましょう。

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優気氏へ 23  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)22時08分58秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 要するに、日蓮大聖人の相伝とは「南無妙法蓮華経」「御本尊」に尽きるのである。それ以外の、秘密めいた相伝など、無いのである。それ以外あるというのは、禅宗の教外別伝の言葉を思い出します。天魔日顕さんらしい言い方ではありますが。
―――――――――――――――――――――――――

↑おやおや。

「南無妙法蓮華経」など世界中でそれこそ多くの宗派が唱えていますが、それらはみんな大聖人から「相伝」があって、全て「正しい」とでもいうのですか?
「御本尊」といっても、大聖人御真筆御本尊も百数十幅あらせられるし、一体、どの「御本尊」を言っているのですかね?
身延・北山・西山・・・・どの貫主も「御本尊」を書いてますけど、どれが正しい「御本尊」なんですか?

ここも、きちんと文証を引いてお答えくださいね。
それと、少し冷静になったほうがお体のためかと思いますよ。

http://toyoda.tv

優気氏へ 24  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)22時23分43秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 「血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり」、つまり、日顕さんは、教学もあまりない、学問もあまりない、癇癪持ちである、人もあまり、自分を尊敬しない、信心もない、そんな自分を、自分を特別視することにより、偉く見せようとした、それが今回の本質です。
> それによって、あなた方、は踊らされている、そんなところでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――
↑そのようなことを軽々に言っていますと、↓こうなりますよ。

http://toyoda.tv/batsu.htm

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優気氏へ 25  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月13日(火)22時41分43秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 日達法主までは、「血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり」、とは、あまり強調されなかった、それだけ、代々の猊下は、尊敬されていた証拠でしょうね。
> 天魔日顕宗は、大聖人の仏法とはあまりにも、大きく外れてしまいました。天台宗が三代で真言宗の邪義を取り入れて変節したように、
> 又、それ以上に大聖人の仏法から大きく外れてしまった。糾弾しなければ、大聖人の仏法は、守れません。
―――――――――――――――――――――――――
↑そうでしょうか?
大聖人以来、唯授一人・血脈相承については縷々文証がありますよ。

http://toyoda.tv/ketsumyakusojo.htm

ここも、少し勉強なさって↑の文証全てに反論してみて下さい。

では、今までの全ての投稿に反詰よろしくお願いします。

http://toyoda.tv

優気氏へ 26  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月14日(水)01時18分51秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > [投稿日時] 2007年11月14日(水)00時12分35秒
> [題名] 樋田昌志さんへ
> [投稿者] 優気

> 樋田昌志さんへ−4b(3b)
>
> ▼樋田昌志さん言

> 総本山第二十二世日俊上人は、
> ■「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」
> と、開眼の意義と必要性をご指南されています。」
―――――――――――――――――――――――――>
> ★優気言

> 「魂なければ眼は開くべからず」、御本尊様はすでに、魂入魂であります。故に、目はすでに開かれております。
> 後は、信心が大切なのです。
―――――――――――――――――――――――――

↑だめですね。優気さん。
これでは、反論不能なのに、ただ同じことを口をあけてパクパク繰り返しているだけですよ。

もう一度だけ、ここの基本的な、子供が聞いても分かる優気さんの矛盾を示しますよ。
それにきちんと答えてくださいね。

http://toyoda.tv/konpaku.htm

↑この単純明快な反問にきちんと論理的に答えてくださいね。
ただ、同じ妄執の際限ない繰り返しは時間の無駄、スペースの無駄ですから、ご遠慮下さいね。

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優気氏へ 27  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月14日(水)01時33分22秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  > 大聖人の仏法における御本尊の本義は、法本尊開顕の書『観心本尊抄』の題号に示されているように「観心の本尊」、即ち「信心の本尊」ということにあるからである。
> 同抄には、「観心」の意義について、「我が己心を観じて十法界を見る」(御書二四〇ページ)と示されている。
> この「我が己心を観じて」とは、
> 「本尊を信ずる義なり」(日寛上人文段集四七一ページ)と日寛上人が述べられているように、
> 要するに「信心」のことである。
―――――――――――――――――――――――――
↑ここもおかしいですね。いけませんね。のっけから無茶苦茶ですよ。

■観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す

夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。
 (中略)
これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。
(中略)
これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。

↑一読して通常の読解力と基礎教学がある人なら分かるところですが、「観心の本尊」とは、寿量品の文底、独一本門の人即法・法即人の三大秘法随一の戒壇の大御本尊の御事ですよ。

▼「観心の本尊」、即ち「信心の本尊」ということ  などという曖昧なものではありませんよ。

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優気氏へ 28  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年11月27日(火)22時53分45秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  質問会などで忙しくしておりまして、返答が遅れてすみませんでした。
では、続きを検証していきましょう。

――――――――――――――――――――――
樋田昌志さんへ  投稿者:優気  投稿日:2007年11月14日(水)02時50分31秒 ntoska417248.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp   返信・引用

  樋田昌志さんへ−4d(3d)

▼樋田昌志さん言
日蓮大聖人は『本尊問答抄』に
■「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」

★優気言
「唯法華経にかぎるべし」と言われており、「法主上人にかぎるべし」とは、言われていない。ここのところは、真言を破折され、「法華経にかぎるべし」と言われたところである。
――――――――――――――――――――――

↑私はこの御文だけで論じているのではありません。
こういう出し方を「切り文」というのではないでしょうか?
論証している全体の論旨を把握してから反論していただきたいものですね。

以下にまた別角度からの開眼の論証をUPしましたので、よろしくお願いします。

http://toyoda.tv/kaigen.htm
優気氏へ 29  投稿者:管理人(樋田 昌志)  投稿日:2007年12月 5日(水)12時25分10秒 p3117-ipbf302yosida.nagano.ocn.ne.jp   返信・引用
  遅くなりすみません。
――――――――――――――――――――――
▼樋田昌志さん言
と説かれ、
『四条金吾釈迦仏供養事』には
■「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」
と説いて、開眼にかかわる甚深の意義をご教示されています。

★優気言
「開眼にかかわる甚深の意義をご教示されています。」のではなく、御本尊様の甚深の意義をご教示されているところです。勝手に解釈しては、なりません。
――――――――――――――――――――――
↑「勝手に解釈して」いるのはやはり貴殿の方ではないでしょうかね。
では、貴殿の根拠のない妄執を破すために、まず、原文を拝してまいりましょう。

■「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。」

少なくともここで、まず、開眼供養の大事をお説きですね。
大聖人が、する必要のないことをわざわざお説きになる道理はないでしょう。
つまり、まず第一義として 「画像・木像の仏」には「開眼供養」が必要である。 との仰せを素直に拝すべきでしょう。
ただし、ここではいまだ迹仏の釈尊への執着が晴れない機根であった四条殿が、釈尊像を建立することへの、一往善巧方便の意義において、その造立を一旦はお許しになられるが、しかし、「開眼供養」は必要である旨を仰せであります。

さて、では、なぜ「開眼供養」が必要か?といえば、後半にその意義が明確に説かれておられます。

■草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。

つまり、画像も木像もそもそも草木(非情の物質=活動が無感情・無意識的な存在物)から出来ている。
しかし、この草木自体そのままでは「本尊」とは成り得ない。
これは、子供でも分かる道理です。
もし、草木・木石・泥砂・大地などがそのまま「本尊」となるのであれば、その一々に「南無仏」とでも唱えればこちらも成仏することとなり、ならば、阿弥陀仏でも何でも、みな元草木ですから、全部「本尊」として許容されることになってしまいますね。
そのような馬鹿げたことになるはずもなく、またそのような馬鹿げたことにならないけじめは何か?といえば、一念三千の悟りによる、「開眼供養」なのですね。
ですから、

■此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。

と、大聖人様は明確に、誰かが能動的にその草木に「魂魄と申す神を入るゝ事」を為さねばならないことをお説きです。
ここで、「開眼供養」と「魂魄と申す神を入るゝ事」とは同義であることは文意明白であります。
それは以下のように御文を並び拝すれば誰人も理解できるところですね。

A ■画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。
B ■此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。

御文の対照

  A                 B

画像・木像        =    画木
開眼供養         =   魂魄と申す神を入るゝ事
法華経          =    法華経の力なり
天台宗にかぎるべし  =   天台大師のさとりなり

そして、この段の結論として重要な御指南へと続きます。

■此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

この御文によって、

開眼供養 → 画木 → 草木成仏 → 本尊 という方程式が明確です。

さて、ここでは一往善巧方便による釈迦像開眼供養の事ですが、ではこの原理は、大聖人様御図顕の曼荼羅御本尊に関してはどうなのでしょうか?
確かに大聖人様御自筆の曼荼羅御本尊は、

■ 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。

との御文のごとくに、大聖人様御自ら「魂魄と申す神を入るゝ事」=「開眼供養」を為されておられますから、とりたてて問題にすることはないと思いますが、(その意味では優気さんの仰る事も一理ありますが。)しかし、問題は、大聖人様以降の曼荼羅御本尊のことですね。

今、優気さんが拝している御本尊は少なくとも、大聖人様の御真筆御本尊ではありますまい。
日蓮正宗の御歴代上人が書写為された御本尊を印刷した御形木御本尊でしょう。
つまり、大聖人様が直接、「魂魄と申す神を入るゝ事」=「開眼供養」を為されていないことは誰が聞いても明白ですね。
優気さんには、大聖人様が直接お書きでない曼荼羅御本尊に大聖人様がどうやって■「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながし」たか、説明できますか?
大聖人様が御筆もお墨も使っていらっしゃらないんですよ。お宅の御本尊には。
大聖人様とどうやって繋がるんですか?
ここに、優気さん他、多くの創価学会員の絶対的な自己矛盾があるんですね。
ここは一つ、きちんとした文証を引いて、誰もが納得できる証明をお願いしたいものです。

さて、一方その優気さんが拝する御本尊は、やはり、元草木=非情で構成されていることは間違いない事実であり、草木であるからには上記の御文の原理から言って、そのままでは草木成仏せず、本尊と成り得ないのですね。
ここの簡単至極な道理が理解できませんかね?

もし、この明快な道理が理解できずに、仮に曼荼羅御本尊の開眼供養を認めなければ、どうなるか?
つまりは、この世に存在する大聖人様が御図顕された曼荼羅御本尊に似てさえいれば全て「本尊」として成立してしまう。ということになってしまう。いかがですか?

1、「違う!」とういうのなら、ここも的確な文証を引いて証明してください。
2、「そうだ!」というのなら、以下の戸田氏の発言と大いに矛盾するその理由を説明してください。

http://toyoda.tv/syakubukukyoten.htm