第一節 最後の遺戒
                                  
 在富中期より臨時の制誠誡多かりしことは前のごとし、極老前途を鑒(かんが)み、万年のために二十六箇の遺誠を残されたり、
この置文は大小・軽重・常非常にわたりて遺漏なく、末法弘通の道路の安全を期し、法運の隆盛を希わんがためなるのみ。

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 正史料    日興遺誡置文    元弘三年一月一三日

  夫(それ)以(おもんみ)れば末法弘通の慧日は、極悪謗法の闇を照らし、久遠寿量の妙風は伽耶始成(がやしじょう)の権門を吹き払ふ。於戯(ああ)仏法に値(あ)ふこと希(まれ)にして、喩(たと)へを曇華(どんげ)の萼(はなぶさ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足(た)らざる者か。爰(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを得(う)、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、偏(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

★ 一、富士の立義聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。
★ 一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。
  ▲  一、御抄何(いず)れも偽書に擬(ぎ)し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、若し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。
  ▲  一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得(う)べき事。
 ○ 一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯雑談(ゆげぞうだん)の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。
★ 一、檀那の社参物詣(ものもう)でを禁ずべし、何(いか)に況(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是(これ)全く己義(こぎ)に非ず、経文御抄等に任す云云。
 ○ 一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣(さしお)き、御抄以下の諸聖教を教学すべき事。
 ○ 一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予(よ)が末流に叶ふべからざる事。
 ○ 一、予が後代の徒衆等権実を弁へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証道(しゅつりしょうどう)の為に本寺に詣で学文すべき事。
 ○ 一、義道の落居(らっこ)無くして天台の学文すべからざる事。
 ○ 一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理(ごくり)を師伝して若し間(いとま)有らば台家を聞くべき事。
 ○ 一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。
★ 一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事。
 ○ 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏(とうにょきょうぶつ)の道理に任せて信敬(しんぎょう)を致すべき事。
 ○ 一、弘通の法師に於ては下輩たりと雖も、老僧の思ひを為すべき事。
 ○ 一、下劣の者たりと雖も、我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
  ▲ 一、時の貫首(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。
  ▲ 一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事。
 ○ 一、衣の墨、黒くすべからざる事。
 ○ 一、直綴(じきとつ)を著すべからざる事。
 ○ 一、謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。
 ○ 一、謗法の供養を請(う)くべからざる事。
  ▲ 一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。
  ▲ 一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事。
  ▲ 一、先師の如く予が化儀も聖僧たるべし。但し時の貫首或は習学の仁に於ては、設(たと)ひ一旦のh犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。
 ○ 一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)すべき事。

 右の条目大略此(か)くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、敢(あ)へて疑惑を生ずること勿(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。仍(よ)って定むる所の条々件(くだん)の如し。

  元弘三年癸酉正月十三日               日興花押    

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この置文は、いずれかに現存すべきであるが、大石にも、重須にも、四、五百年以前の写本すら現存せぬのは遺憾である。
あるいは、あまりこの法文に屈託し、常用したので、御正本またほ時代写などを破失したのではないか。
ただ愚僧が寓目したのは房山にありし日我の天文五年の記ある本である。
要山にも辰師の写本があると聞いておるが、時代は少しおくれておろう。

さて、御文体であるが、序文の方は、三位日順の筆致に似ており、入文の通用態よりも修飾がある。
ただし、ここにはあえて注釈するの必要はなかろうが、このなかにおいて、

第一に万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの、
すなわち五人所破抄の要部、または門徒存知の重点と共通するものがある。

第二に、同じく永遠性を帯びても普通の一般的なものがある。

第三に、その件の軽重にかかわらず、一時的のものもある。

条文について、一々解明する煩雑を省くが、ために三段に活字を組ませておいた。

すなわち、頭罫に繋けた

「富士の立義聊も○」 と
「五人の立義一一に○」 と
「檀那の社参物詣を禁ず○」 と
「身命を捨て随力弘通○」 

の項は、重要、永遠的の第一法則であり、

二字目に繋けておいた

「謗法を呵責せず○」 と
「器用の弟子○聖教を教学す○」 と
「学文末練○」 と
「御書を心肝に染め○」 と
「論議講説を好んで○」 

等の多くの箇等ほ、容易に起伏する一般の法則であり、

三字目に繋けたる

「御書何れも偽書に擬し○」 と
「偽書を造って○本迹一致」 と
「時の貫首為りと雖○」 と 
「衆議為りと雖も○」 と
「刀杖等に於ては○」 と
「若輩為りと雖も○」 と
「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し○」 

の各項は、軽重の差はありとも、かならず永久に続くべきものでないとみた。

その見地よりして三段に大別したが、かならずしも拘泥(こうでい)するものでもあるまい。

一々の条文の解説はさし控えるとしても、この三段目の分だけは、少解を加えておく必要があろうと思う。

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 一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。

この項について御書の文字のなかに、御状(御消息等)もこもっておるとみてさしつかえなかろう。
「三大秘法抄」に本門戒壇の重要最難の事項があるためか、後世の五老門下の多分は偽書と称しており、
百六・本因の両相伝書をまた偽書といっておる。

ただし、ぜんぜん偽書というに理由のないことでもない。
それは、本因・百六の御相伝の現文が、反対者を圧伏するにたらざるところを補うた後人の註釈が、かえって他門より攻撃の基となっておる。
それは、高妙な道理より、むしろ平凡な史実がしかりである辺もある。

また二個相承の破文に「本門寺戒壇」の本門寺という寺号を、宗祖御在世に本門寺なし、重須の本門寺は御滅後十余年後に建立せられた史実により、形もない本門寺に戒壇を建つべしと仰せあるべきでなく、まったく富士一流の偽文書というのが、主要なまた多数者の難点である。
これもまた、一応ごもっとものことで、畢竟富士のある方面人がみずから招いた禍でいたし方もあるまい。

すでに、本伝でしばしば記したように「本門寺に戒壇」をと住所を固定しておる執見がよくない。
「富士山に」というならばどこからも点は打てない。
山は動かず、厳然と聳(そび)えておるからである。
形も無き「本門寺に」と指定するのが間違っておる。
大聖人は、本門戒壇のあるべきところを「富士山に」と定めて日興上人に内示せられたけれども、将来のことであるから、三大秘法抄にも「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を」等と、下総の太田殿に示された。
日興上人はまた、富士を四神相応の霊地として戒壇のあるべき仏都も、また政府皇城も、富士にあるべきと示されておるが、何郷何村何字ということは明示せられてなく、自身もまた「本門寺」とも「大本門寺」といわれるところが、かならず重須本門寺の城門とも定められてない。
ゆえに、つねに開山上人の旨を受けて文筆せる三位阿闍梨日順も、しばしば「大本門寺の建つを待つ」等といっておる。
そこで、大石寺でも「本門寺」を公称せず、地名をそのままに、「大石の寺」といわれたのであるから、御譲状の読み方でも「富士山に本門寺の戒壇を」等と無難に読んでおる。

これに反して、我執な読み方に固着して、八方より攻撃を受けて明快な答弁もなしえぬ集団の人々は、偶然にもこの御条目の 「悪侶」 に準似して、日興上人の御門より擯斥せらるべきことが、また本因・百六の両巻抄に無意識浅愚の註釈を加えて、一時を痛快がった某僧も、また知らず、謀らず、期せずして反忠漢に擬せられても文句はあるまい。

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 ー、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

 一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

この二条は、上下の差別こそあれ、常にあるべきことでない。
時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者が、にわかに無上位に昇るべき時代はおそらくあるまい。
一分の信あり、一分の行あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。

また、多数の衆徒が連合して、みだりに非違の言行をたくましゅうしようか。
いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不詳事であるとしか思えぬ。

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 一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

この条もまた、恒久に継続して起こるべき問題でない。
時の平嶮にかかわらず、また地方の習慣などで、自然僧分に権威なき時には、まずありがちと思わるる。

日有上人の化儀法則のなかにもこれがある。
戦国時代、武士万能で、宗教家でも凡庸なる者は生活に難儀で、自然豪族を大事に扱ったから、武人をいばらせた傾向となった。
徳川幕府の制度上から、いかに平凡無智無能であっても、目立った犯罪さえなければ、四民の上座におる慣例であったと、明治維新になってこの扱いが解放せられ、各宗僧侶の反省も、努力も、熱誠も減退して、しだいに成り下れる今日の否運の僧侶の状態では、自然に有力な資産家・政治家の信徒などに頭が上らぬ。

日有上人のその当時の東山時代を、とくに末法の直中と警告せられたごとく、現代もまたしかりで、僧侶の反省・努力・自尊心を高むるためには、開山上人のこの法度を生かすべきである。
しかし、この趨勢も一時的で、決して恒久なものでほない。
もし、この状態が、永続して僧侶能導の権威が失墜すれば、仏法中の僧分はまったく破滅である。

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 一、刀杖等に於てほ仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。

この粂もまた、ある一時的のもので、戦国時代、物情騒然たる時の自衛のための武器である。
進んで人を切る殺人の剣でなく、退いて身を守る活人剣であるから、経論の明文で、帯刀も不如法でないが、旅行または平常は帯刀随意だが、正服にて法座に登る時はみずから携えてはならぬ。
下輩の大衆等は、自衛のため、または貫主等の上級僧を護衛するためにさしつかえない。
これらは、日順・日尊の記文を参考すべきであるが、ともかく戦国時代の一時のことで、わが国、わが仏法の僧分は、徳川偃武(えんぶ=武器を伏せて使わないこと。戦争がやみ、世の中が治まること)時代以後は、少しもこの憂なかりしはさいわいである。

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 一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の「女+夕(+丶)+缶」犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。
なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである。

大聖人は戒の相用を排斥せられたが、全然解放せられた無戒主義でない。
五・八・十具の小乗戎を捨て、また十重・四十八軽の大乗梵網戒を捨てられたが、無作の本円戒は残されてあり、そのための本門戒壇であり、その戒相の内容は明示せられてないが、小乗・大乗・迹門の戒相によらぬのみであり、それを無作と名づけてみても、けっして放縦不覊(キ=おもがい・たづな)なものでない。

開山上人がこの法度に「先師の如く聖僧たるべし」と定められ、先師大聖人が無戎であるが、放埓破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埓を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。
ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれ相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。
このていの放埓ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。
自分はいまの状態ほ一時の変体と見ておる。

次に「時の貫首或は習学の仁」等の文は、難解である。
「貫首」の二字は、明かであるも「習学の仁」は、一応はとくに学窓に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯しても、還俗破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶して下位に沈まするということと解釈する外はない。
こういうひじょうの事態が、かならず起こるべきとしてその用意に作られた法度では恐らくあるまい。

これをまた、その現在の史実に照らしてみるに、重須の後董は日代上人でこの問題にはいる仁でなく、また同山に習学の若徒は見当たらぬ。
大石の後董は、日目上人で七十四歳であり、信行具足の聖僧でその憂は全然ない。
目師の後を受くべき日道上人も、若徒でなく習学の仁でもない。

大学日乗の実児であり、ともに出家した民部日盛は、長く鎌倉遊学で興目両師の器許するところで、あるいはこの仁が目師の跡を継ぐべきであるに、親父の流れを悪しく汲んで女犯の疑いがあったのかも知れぬ。

そうでなければ、開山上人の立法があまりにも将来の夢に過ぎぬことになる。

以上、この御置文を見る方々、願くはこの三様の意図であらんことをねがうのである。

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日亨上人著『魚鳥食開訓』

「宗祖の御化儀は聖僧であって、御開山の御化儀も聖僧であった事は、史実として見るべきであるが、もちろん小乗戒でも大乗戒でもない、有作数目に係(かか)はる戒でない。
本門無作の大戒であるから、戒目を挙げて或(あるい)は此(これ)を遮(しゃ)し、此を開する底(てい)の、窮屈な事例はあるべきでない。
然れども鎌倉時代に横溢(おういつ)する破壊無慙(むざん)の妖僧等に簡異(かんい)する為に、仮に断肉禁婬の聖僧を標せられたものであろう。
(中略)

妻孥(つまこ)に慰(なぐさ)められねば夜の明けぬと云ふ人も、仕方があるまい。
夫唱婦随、同心戮力(りくりょく)して、一家平和の好模範を檀信徒に示し、宗門のためにも、住持のためにも、国家のためにも、郷里のためにも、努力の効が顕著であったなら、帯妻の譏嫌(そしり)は償(つぐな)はるるであろう。

要するに、菜肉婬は用否ともに無頓着(むとんちゃく)であるべきである。

菜肉妻に著(じゃく)せずして信仰に生くべきである。

弘法のためには死しても悔いなく憾(うら)なきを所期とするのが、宗徒の信念の第一義でなければならぬ。
然らざれば僧分は無論、在俗の方でも、宗祖開山の御慈光に漏れて現当の利益を失ふであろうと思う。

(中略)

二百五十戒や十重禁戒や四十八軽戒が、すでに七百年一千年の昔、無益であった事はいうまでもない。
日蓮大聖の御法の流れを酌む者は先刻御承知であるけれども、

徳川政府三百年間の干渉に拵(こしら)へあげられた一種異様な僧界の戒法は、今に社界一般に浸潤して老人方が僧風を品秩するの定規となっておる。

「彼僧は魚肉を食ふたから生臭坊主だ」の、「彼僧は女人と同衾(どうきん)したから破戒和尚だ」のと仰(おっしゃ)る。

幾分の理解あるような顔をしてる青年達までも、少し御機嫌に叶わぬ事があると、老人並の旧思想に逆転して無用の悪口を仰るそうじゃが、現代にそんな人のあるのは夢のような真実事(まこと)である。


もっとも禁欲齋戒を標榜(かんばん)にする宗門の坊さんなら、何と云われても身から出た錆(さび)で致し方もあるまいが、六百有余年の昔に末法無戒を喝破した日蓮大聖人の門下には迷惑千万の至りじゃ。

いや、これは法華僧が、徳川政府の俗権に押し付けられて聖僧顔になって、肉食妻帯の真宗坊主などを虐(いじ)めた報いかも知れんが、現代の者にはトンダ迷惑の事である。
(日亨上人著『魚鳥食開訓』)


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大学日乗

 二天門の東側に、蓮蔵坊の裏から、法祥園の方へと続いている小径がある(通行不可)。
 その入り口にある垣根越しに、石垣の裏側の杉の木の根元に目をやった時、そこに時代を感じさせる石の香炉があることに気付くであろう。
 その香炉の側面には、

 「大学 日乗上人塚」

と刻まれている。

 この「日乗上人」というのは、総本山第十世・日乗上人の御事ではなく、日興上人が定められた本六僧の一人、了性坊日乗師のことである。

 日乗師は、弘安十年(一二八七年)頃、後に第三祖となられる日目上人を師として出家。
その後、日興上人の弟子となり、永仁四年(一二九六年)には大石寺塔中に蓮仙坊(後の了性坊)を創建、入信から十年余りを経た永仁六年(一二九八年)に、日興上人の本弟子六人の中に選ばれている。

 『日興・日目上人正伝』には、

 「日乗師は奥州登米郡・新田(現在の宮城県北部・登米町)の出身にして、かつて京洛に上って、漢書・国文・書道を学び、大学寮の属官(幕府の儒官――堀日亨上人は、『富士日興上人詳伝』中に、『例せば比企大学三郎等のごとし』と記述されている)にもなったと言われている。

 しかしその後、同郷の縁をたよりに、子息の日盛師とともに、日目上人を師と仰ぎ、富士に登って日興・日目両上人にお仕えした。

 京の大学寮時代のなごりか、大学の名を以って呼ばれ、後に了性坊の号もいただいている」(二一三頁)

と記載されている。

 その日乗師は、当時の鎌倉弘教の中心者として活躍、同地に常在寺(現在は北山本門寺末)を創建している。

 また、徳治三年(一三〇七年)に鎌倉の権門及び謗法者の嫉妬によって起きた、法華宗徒への刃傷・損物事件に際しては、陣頭指揮をとられた日目上人の元で、訴訟等の実務に当たられたようである。

 また、日興上人の厚い信任を受け、後輩の養成に尽力された。

その様子は、

 「民部殿の御事は了性御房の御さばくり(扱)候間、これより沙汰申さず候。治部公もとよりぶ沙汰の仁にて候。何事もおぼしめしゆるして御同学候べし」(『富士日興上人詳伝』五〇一頁)

という日興上人の書状からも伺える。
日興上人が入信から日の浅い日乗師を本六僧の一人に指名されたのは、こうした師の人格・力量を見通された上に、おそらくは壮年と呼ぶにふさわしい年齢になられていたにも拘わらず、我が子と共に出家するほどの、卓越した強い信仰心と堅固な行体であることを、認められたからこそであろう。


 さて、石の香炉である。

 正応三年(一二九〇年)、第二祖日興上人によって大石寺が開創されるのと時を同じくして、日目上人を筆頭とする本六僧・新六僧の方々によって、次々と塔中坊が創建されていった。

 先に述べたように、日乗師は永仁四年(一二九六年)に蓮仙坊(後の了性坊)を創建、その後も坊の創建は続き、延元二年(一三三七年)に日行上人が本住坊を創建されたことにより、現在の表塔中の坊全てが揃った。
が、しかし、現在の表塔中と比べ、坊の配置にはそうとうな違いがあった。

 天正年間(一五七三〜一五九一年)に第十四世・日主上人が書き遺された境内地の図面によると、蓮仙坊(了性坊)は塔中の東北端、蓮蔵坊の北側に位置している。
つまり、現在、件の石の香炉が置かれているあたりなのである。

 また、以前に本欄で紹介した、日禅師の少輔坊(後の南之坊)も塔中の西北端に位置している。

 それが現在のように、それぞれ塔中坊の東南端・西南端に位置するようになった理由は、第十七世・日精上人の御代に、敬台院殿の寄進によって御影堂が現在の位置に再建・新築され、本山の寺域が拡大した。
それに伴って現在地に移転されたのである。

 こうした変遷の中で、日乗師の事跡を示すために、蓮仙坊(了性坊)が創建された位置に、石の香炉が留め置かれたものであろう。

 大石寺興隆の歴史、それを物語る事物は、思いもかけないところにひっそりと眠っていた。

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