■ 南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。
此れにものをならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとこ(夫)とし、乃至きさきの大臣已下(いげ)になひなひ(内内)とつ(嫁)ぐがごとし。
わざわひ(禍)のみなもと(源)なり。

正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。
今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。
かう申し出だして候もわたくし(私)の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計(はか)らひなり。
此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆヽしきひが(僻)事なり。(上野殿御返事 弘安元年四月一日 五七歳 1219 古写本・日興上人・大石寺蔵)