<要法寺出身御法主>
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▼当時の大石寺の人材不足の状況については、おそらく現在と同様なレベルだったのでしょう。
他山から法主をスカウトせざるを得なかった訳ですから。邪宗門も人材枯渇が著しいですね(sf)
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 成人した方が要法寺から大石寺に登られたのは、第15世日昌上人と第16世日就上人の2人だけである。
あとの方は幼少期から大石寺に登り、大石寺が人材育成された方。
「人材不足」が原因でなかったことは明らかである。
むしろ、大石寺側としては要法寺を教導して宗勢を拡大しようという意図もあったのではないか。
そのように考えられる背景としては、当時の要法寺が大石寺を「本寺」と仰いでいたことが挙げられる。
そのことは『富士門家中見聞』という名の書に、要法寺の高僧の名が列せられていることからも分かる。
 現に日精上人の時代には、信教の自由が十分認められていなかったにも拘わらず、多くの寺院が帰伏している。
そのために還って、法詔寺のように、化儀を理解していない檀那との間に軋轢が生じた、という負の部分もあったようである。
この辺の複雑な状況を理解せずに、残された僅かな史料の文面のみに捕われると、学会のように、多くの疑問や矛盾(学会の主張に反する疑問点や矛盾点)を棚上げしたまま、日精上人や大石寺を短絡的に誹謗することになる。

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(前略)天正15(1587)年、大石寺では日院上人を嗣いだ14世日主上人と、要法寺では日辰の後を嗣いだ日?との間で、通用の申し合わせが整いました。
 日主上人は同年5月8日、大石寺重宝であった日目上人真筆御本尊に、奥書を加えた上で要法寺に授与され、翌年、要法寺よりは日興上人の御本尊が大石寺に納められています(『富要』第8巻199頁)。
 こうした経緯の後に、日主上人の後嗣として15世日昌上人が大石寺に晋山されました。
日昌上人は京都要法寺で出家の後、下総国飯高檀林で修学された方でした。
それより以後、23世日啓上人まで9代にわたる法主上人は、要法寺本末を縁として出家された方で、およそ百年間にわたって、大石寺の法燈を嗣がれる時代が続きました。(『富士門流の歴史 重須篇』392頁)

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●師弟和合して本末相承を継ぐ、冥慮に相叶う者か(日?より日就上人への書状)
師(日?)と弟子(日就上人)が揃って、本寺(大石寺)と末寺(要法寺)それぞれの相承を承けることは、大聖人の冥慮に叶うことであると、祝福した内容です。(『富士門流の歴史 重須篇』393頁)
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当時の要法寺は、大石寺の末寺という感覚であったのだ。
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●それから9代。
9代ですけれども、それは始めのうちはね、要法寺で、相當でき上つた人がきたです。
後にはね精師以後はですな、精師そのものも、でき上つてきたんじやないのです。
若いとき、きたのです。
そして大石寺にきて、江戸へ出て、そして、偉くなつた。
精師以前の人はですね、大石寺にきて大きくなるんでなくて、むこうから大きくなつた成人した人がきたんです。 
精師以後の人は、みんな、大石寺にきて大きくなつた。
所化できたのが多いですね。
ですから要法寺からきたといつても、たゞその、身體をもらつただけです。(第59世日亨上人『大白蓮華』S31.11/『地涌』第125号)
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9代の間は要法寺から来られた方が大石寺の法主となられた。
しかし、最初のお二方(第15世日昌上人と第16世日就上人)以外は、幼少にして大石寺に登られ、大石寺において修行されたのである。
そうであれば、出身は要法寺であっても実質は"大石寺が生み育てた法主"である。

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