久しぶりに復帰できそうです  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月11日(火)14時30分32秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

激忙の件もひと段落つき、書き込み再開です。
留守の間ずいぶんとにぎやかのようでしたね。
内容はほとんど読んでないんですけど。(読む時間のゆとりがありませんでした)

さて、やまいぬ。さんへ。
お仕事で忙しいということで私へのご返答をされなかったと記憶しておりますが、こうして↓頻繁に書き込みをされているところをみると、お時間が取れる状況になられたと拝察します。
では、やまいぬ。さんへの私からの反論および破折に対する再反論をお待ちしておりますので、よろしくお願い致します。
皆さんに見やすいように近日中にいままでの往還をHP上にUPしておきますね。

そうそう、この間にまた一人勧誡が決定しました。

 

樋田さんへ。(^^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)02時11分26秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

あなたが実に12時間に亙って書いた長文、正直云って「12時間」と知った段階で
ウンザリして読む気にもなかなかなれないのですが(^^;、珍しく“Word”に取って、
気が向けばぼつぼつ書いていますから、のんびりお待ちください。(^^)
(なにせあなた、平日の昼間から深夜にかけて、もし1番目の書き込みを書くのに小1時間
かかったとしたら、実に13時間ですよ? (^o^) 「題目挙げるでもなく折伏するでもなく、
ワシャそんな暇人に付き合うんかい?」と思いますよ。(^o^) )

 

やまいぬ。さんへ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月12日(水)13時43分24秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

HPに今までの経緯をUPしました。

http://toyoda.tv/yamainu.htm

残念ながらこのままではどうみてもやまいぬ。さんの反論不能状態であることは否めないでしょう。急ぎ急ぎ再反論を企てるべきでしょう。

その内容の一部を転載します。

※ いやはや、大変な投稿数である。これだけの時間的余裕があって、尚且つ、「返答は明日以降」などと書置きがあるにも拘らず、当方へ反論できていないとすれば、これは明らかに「反論不能状態」といって間違いないであろう。

そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。

久しぶりに復帰できそうです  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月11日(火)14時30分32秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp



※ これに対しての弁明が↓である。

樋田さんへ。(^^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)02時11分26秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp



※ そもそも、当方へ執拗に、まさに絡むが如き様相で問難してきたのは、やまいぬ。氏、当の本人である。

しかも、冒頭に既述の如く、当初当方は他の者との対論に忙殺されており、やまいぬ。氏には取り合っていなかったのであるが、その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、これに対し上記の如く、他へ対してしてはかくも膨大な投稿をしているにも拘らず、当方へ再反論しないのは、如何なる理由を述べてみても、これはまさに「反論不能」であることに変わりはない。

ついでにこのやまいぬ。氏の「弁明文」に反論しておく。

1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。自分の能力と程度と生活状態を元に、なんら客観的根拠なく他を推し量ることは慎んだほうがよかろう。(自分の程度が知れると言うものである。)当方は毎日の勤行はもちろん、その他、2時間唱題をする合間に論述しているのである。やまいぬ君程度の稚拙な邪難を粉砕するのにそれほどの労力は要らない。

2、平日どう過ごそうが、貴公の価値基準で云々すべきではなかろう。当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。

3、■「仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。」との仰せの如く、真に仏道を究める為には時間は大切であり、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯にあることは大変ありがたいことである。やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して悠々とされたら如何か。

4、やまいぬ君等の邪宗・邪義・謗法を打ち砕く行為そのものが「折伏」である。そういう折伏もしないでテレビでサッカー観戦などしている者をこそ「暇人」と呼ぶのである。(やまいぬ君の投稿内に多くサッカー観戦が見受けられるので苦言を一言。そういう姿を「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」とのお叱りを受ける姿である。よくよく戒めるべきであろう。)

5、今回のテーマはまさに「“正法”の定義」であり、当方は「やまいぬ君ら創価学会が広めているものは「正法」ではない。」と明確な文証を以って断定しているのである。やまいぬ君らの立場からすれば斯く言う当方は“謗法”に当たる訳だから、やまいぬ君はまさに不自惜身命の精神で“破折”しなくては大聖人の門下とは言えないであろう。「気が向けばぼつぼつ書いていますから、のんびりお待ちください。」などと呑気なことを言っているのは、まさに懈怠謗法で、堕獄必定である。

以上、やまいぬ。君が反論不能状態となった経緯全貌をUPし、末永くここに留めておく。

―――――――――――
以上です。
やまいぬ。さん、ほかにあれだけ大量の投稿をしている状況で、「のんびり」などとは言ってられないのでは?

やはり、明確な文証を引いての精緻な反論はあなたには無理ですかね?
どんなものでしょう。

 

樋田さんへ。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月12日(水)23時31分57秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

>そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。
>久しぶりに復帰できそうです
はー。これで促しているのですか。(^^)

>その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、
以前、当方からの極めて簡単な問いに返答をと書いた際、「そちらの指示に従う謂れはない」
というようにあなたが書いた件ですね?
自分では「謂れはない」と書き、他者には「早く書け」?(^o^)

樋田さん、あなたは分裂症ですか? それともただの「ジコチュー」ですか?(^o^)


>当方へ再反論しないのは、
気乗りはしないが返答すると書いた筈ですが?(^o^)

「やまいぬ。氏へ。返答と破折1  投稿者:管理人(樋田昌志)
投稿日: 6月26日(月)11時41分37秒」
「やまいぬ。氏へ。返答と破折12  投稿者:管理人(樋田昌志)
投稿日: 6月26日(月)23時18分47秒」

>1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。
ほう。(^o^)

>2、当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。
そうですか。(^o^)

>3、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯に
>あることは大変ありがたいことである。

蓮祖曰く、
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。
一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」
あなたは蓮祖門下ではないのですか?(^o^)
時間があれば勿論のこと、多忙な時のたとえ5分・10分なりとも広布前進のために
使ってきたからこそ、創価学会は世界190ヶ国に広まりました。
法華講さんに出来ないのはこれです。(^o^)
2年半後が楽しみですね。(^o^)

>やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して
>悠々とされたら如何か。
少なくとも広宣流布の責任を感じるならば、すでに転換しているその境涯を感謝しつつ、
なおさら広宣流布に使うものですよ、樋田さん?(^o^)
それとも時間が出来てラクになってボーッとしておるのが信心だと、御書のどこかに
ありますか?(^o^)

4、折伏もしないでテレビでサッカー観戦、云々。
えー、朝方3時にあなたは折伏に出かけるのでしょうか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
迷惑も甚だしいですね。(^o^)
私にはあなたのように、趣味の音楽の世界に楽しんでいる暇はありません。(^o^)(^o^)
朝方3時からライブを始める訳ではないでしょう?(^o^)
つまりまだ活動も激励も折伏もできる時間に、あなたは趣味の音楽を楽しんで
いるのではないですか?
朝方3時の、ひとのサッカー観戦に、子供じみた詰まらん難癖つけたばっかりに、
墓穴を掘られましたね?(^o^)
「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」
そのままあなたに差し上げましょう。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

5、足掛け12時間も掛けて書かれているものだというだけで、正直馬鹿馬鹿しくて
まだ全部は眼を通してもおりませんが(^^;、ぼつぼつ書いております。

12時間どころか1,2分で書いたものに対して「答えなければならない謂れはない」と
ご自分で書いたのでしょう? 自分の都合でコロコロ態度を変えなさるな、気色の悪い。(^o^)

 

やまいぬ。さんへ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 7月13日(木)01時47分34秒 p4060-ipbf204yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

一読噴飯ものの返答なので堪え切れず一筆。

> DATE:  7月12日(水)23時31分57秒
> TITLE: 樋田さんへ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>

>● >そこで、当方は以下の反論を促す投稿をした。
> >久しぶりに復帰できそうです
>▼ はー。これで促しているのですか。(^^)
>
●貴公は教義的には全くの反論不能ですね。
しかも、相当お疲れのようで日本語もろくに読めないようですね。
まことにお可哀想な境遇らしい。

こういう言辞→●「さて、やまいぬ。さんへ。
お仕事で忙しいということで私へのご返答をされなかったと記憶しておりますが、こうして↓頻繁に書き込みをされているところをみると、お時間が取れる状況になられたと拝察します。
では、やまいぬ。さんへの私からの反論および破折に対する再反論をお待ちしておりますので、よろしくお願い致します。」
を「催促」と一般的には言うのだが、このような婉曲的な表現では貴公には理解できないかな?
かなり語学に疎い教育環境であったらしい。ご推察申し上げます。
―――――――――――
> >●その問難に対してしても今回ここで明確に破折しており、
> ▼以前、当方からの極めて簡単な問いに返答をと書いた際、「そちらの指示に従う謂れはない」
> というようにあなたが書いた件ですね?
> 自分では「謂れはない」と書き、他者には「早く書け」?(^o^)
>
> 樋田さん、あなたは分裂症ですか? それともただの「ジコチュー」ですか?(^o^)


▼「さ、私からの上記、一瞬で終わる簡単極まる問いへのご返答、お待ちします。(^o^) 」
▼「まぁこうやって、基本中の基本みたいなことを「確認する」ようにやり取りするのも悪く
ありません。じっくり考えて、また答えてくださいね。(^^)」
▼で、今夜は結婚した知人のお祝いのために呑み会。仕切り役を仰せ付かった者としては
まともに帰宅できるかどうかも怪しいので(^^;、返事は明日以降。
▼「返答は明日以降。(^^)」

これらはみな貴公の発言ですね。
貴公が待っているというからそれに返答した。それに当然、再反論されるのが筋でしょう。
しかも、自らも「返答する」と明言している。
それに他者に対しては膨大な量を書き込んでいて、当方からの詰問には返答できないのは、どう見ても反論不能状態でしょう。

まっ、いずれにせよ、教義的には無理ですか?
こんな小事に拘ってくだを巻いているより、お得意の「サクッ」とどうですか?やはり貴公には難しくて「サクッ」とできませんか?
―――――――――――
>
> >●当方へ再反論しないのは、
> ▼気乗りはしないが返答すると書いた筈ですが?(^o^)

●それはそれは。では「サクッ」とさっぱりお願いしますね。
しっかりした文証に依ってですよ。
楽しみですね。
かつてあれほどしつこく訊いて来た内容ではないですか。
もうこれで、ギブアップですか?
もう少し粘って欲しいですね。
>
―――――――――――
> 「やまいぬ。氏へ。返答と破折1  投稿者:管理人(樋田昌志)
> 投稿日: 6月26日(月)11時41分37秒」
> 「やまいぬ。氏へ。返答と破折12  投稿者:管理人(樋田昌志)
> 投稿日: 6月26日(月)23時18分47秒」
>
> >●1、この程度の反論文を書くのに当方は12時間も13時間も必要としない。
> ▼ほう。(^o^)
>
> >2、当方は平日よりむしろ土日のほうが現場折伏で多忙である。
> そうですか。(^o^)
>
> >●3、当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯に
> >あることは大変ありがたいことである。
>
> ▼蓮祖曰く、
> 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。
> 一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」
> あなたは蓮祖門下ではないのですか?(^o^)

●ここですね。噴飯モノの珍回答は。
本当に日本語がよく読めないのかと心配です。
●「当方が今までの功徳の果報として仏道修行に時間を大いに活用できる境涯にあることは大変ありがたいことである。」
とは仏道修行に昼夜時間を目一杯割けることを心から感謝している言辞であり、まさに■ 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」との御聖訓を少しでも身で行じることができることのありがたさを表現しているのですがね。
ここは誤読を恥じ、謝罪すべきではないのですかね。
―――――――――――
> ▼時間があれば勿論のこと、多忙な時のたとえ5分・10分なりとも広布前進のために
> 使ってきたからこそ、創価学会は世界190ヶ国に広まりました。
> 法華講さんに出来ないのはこれです。(^o^)
> 2年半後が楽しみですね。(^o^)

●ここなどはまさに頭破七分とでも言うべき論理飛躍・支離滅裂な文章展開です。
前半の文意と後半が繋がっていないですね。大丈夫ですか?

で、創価学会がそうやって広めているものは「正法」ではない。との指摘を教義的に覆して見せてください。
でなければ創価学会がしていることなど世界中に魔をひろめているだけであり、全く人類にとって迷惑行為ということを貴公は否定できないということになり、自らの活動を正当化できないということになりますが。
>
―――――――――――
> >●やまいぬ君こそ、いつもあくせくしているようであるが、自らの境涯を大きく転換して
> >悠々とされたら如何か。
> ▼少なくとも広宣流布の責任を感じるならば、すでに転換しているその境涯を感謝しつつ、
> なおさら広宣流布に使うものですよ、樋田さん?(^o^)
> それとも時間が出来てラクになってボーッとしておるのが信心だと、御書のどこかに
> ありますか?(^o^)

●ここも貴公が母国語が読めない悲哀ですね。(って日本人ですよね?)
貴公のような邪義・邪説・謗法思想を粉砕することが「広宣流布」に貢献するのですがね。
しかも、貴公などの謗法者に限らず、ほぼ一日中「広宣流布」のためになにかしらの活動をしていますが。
「時間が出来てラクになってボーッとして」などいませんが?
どこをどう読んだらそういう妄想が沸くのでしょうかね。
やはり、「悠々」この一言が読めない悲しさですかね。
広宣流布へのご奉公・生活・世界悉檀へと繋がる作品を製作する・・・それら全てを「悠々」と行っているのであって、生活に汲々としているらしい貴公も、創価学会などという魔団体から離れて正しい修行をがんばって境涯を開いたら如何ですか。という文意が篭められているが、やはり読めないようですね。
>
―――――――――――
> ●4、折伏もしないでテレビでサッカー観戦、云々。
> ▼えー、朝方3時にあなたは折伏に出かけるのでしょうか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 迷惑も甚だしいですね。(^o^)

●は?実に意味不明な返答ですね。
▼「飯も喰わずに寝て、3時過ぎには起きてブラジル戦観て、準備してそのまま仕事。
様々返答は明日夜!(^o^) 」

これは貴公の書き込みですね。
貴公にとっての”謗法者”である当方への”破折”を後回しにしてブラジル戦など観ていていいんですか?ということですよ。
外を走り回って他家へ出かけることだけが「折伏」ではないでしょう。
そんな意味でしか「折伏」を理解できないですか?
浅識・短見ですね。

それこそ、「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
自分の懈怠謗法の様が見えませんか?
まっ、所詮一般的には謗法者には自らの謗法行為など自覚できないものですが。
創価学会の大謗法を見抜けない人に自分の懈怠謗法が見抜ける道理もありませんが。
だからこそ指摘してあげただけですよ。
―――――――――――
> ▼私にはあなたのように、趣味の音楽の世界に楽しんでいる暇はありません。(^o^)(^o^)
> 朝方3時からライブを始める訳ではないでしょう?(^o^)
> つまりまだ活動も激励も折伏もできる時間に、あなたは趣味の音楽を楽しんで
> いるのではないですか?

●さて、最近、いつ私が「趣味の音楽を楽しんで」いるというんでしょうかね。
知りもしないのに推測でものを言ってはいけませんね。
しかもサッカー観戦には少なくとも2時間は必要ですね。
破折すべき相手がいるのに2時間も他事へ費やす。これまさに「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
また、サッカーを一人観ていることがどう折伏に繋がりますかね。
音楽を創る事はその縁によって常に下種に繋がります。
そういう四悉檀に開いた折伏の相を領解できていない未熟さがまたもや露呈しましたね。
―――――――――――
>▼ 朝方3時の、ひとのサッカー観戦に、子供じみた詰まらん難癖つけたばっかりに、
> 墓穴を掘られましたね?(^o^)
> 「一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。」
> そのままあなたに差し上げましょう。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●残念ながら、教義的に未熟な故にそのまま返せないようですね。ちょっと惨めですね。
―――――――――――
> ▼5、足掛け12時間も掛けて書かれているものだというだけで、正直馬鹿馬鹿しくて
> まだ全部は眼を通してもおりませんが(^^;、ぼつぼつ書いております。

●では、その少しずつでもUPしてみたら如何ですかな。
かつてあれほど当方へ執拗に纏わりついてきた方にしては随分と腰が退けてしまいましたね。
―――――――――――
> ▼12時間どころか1,2分で書いたものに対して「答えなければならない謂れはない」と
> ご自分で書いたのでしょう? 自分の都合でコロコロ態度を変えなさるな、気色の悪い。(^o^)

●あれ?ここもそうですね。あれほど執拗に纏わりついてきた割には急に逃げ腰ではないですか。
やはり貴公には教義的な明晰な反論は不得手のようですかね。
今回のように、下らない教義的な内容のない反論は得意のようですが。
いずれにせよ、このようなことを書いている時間があるのならもっと本質論をきちんと文証を以って反論してみてくださいな。
そして、もちろん本当に反論不能とならば、これはやはり潔く謝罪して脱会すべきでしょう。

では、明晰で、教学的に理路整然とした切れ味鋭い名反論を期待していますよ。
頑張ってくださいね。

 

樋田さんへ。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月14日(金)00時14分43秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

長々とお書きになった昨夜のあなたの書き込みの如きは、私にとってどうでも
いいのですが(^^;、ひとつ面白い視点があったのでそれについて少々。(^^)

>サッカー観戦が「遊戯雑談」云々。
一言に「サッカー観戦」と云いますが、何を求めて、何を考えて観ているかは、それこそ
ひとそれぞれで、あなたの邪推などどうでもいいことと考えます。(^^)

別に熱烈なサッカー・ファンでもありませんが、W杯に限らず、世界のサッカーを
割と真剣に観ています。
サッカーというスポーツは、本当に多くのものを教えてくれ、伝えてもくれる。
いま読んでいる「三国志」に勝るとも劣らないほどに、想像だに出来ないほどの
努力を重ねた一流の人間が、どういう思いで、どう闘い、どう勝ち、負けるのか、
瞬間瞬間に多くの教訓を無言で伝えてくれる。
何故勝ったのか、何故負けたのか。誰がどのように覇気を高め、誰が手を抜き、誰が
油断し、みながどう変化して勝敗は決したのか?
広宣流布の闘いも無論、仕事も、すべての人間の組織的活動に関して、学ぶべきことは
多い。単なるナショナリズムで一喜一憂しているわけではありません。(^^)
ハイレベルな1つのゲームが伝えることは、まさに1冊の名著に匹敵する。

私がHDDに撮ってまで毎週必ず観るプログラム、今夜は棋士の羽生義治。
先ほど録画したものを観ました。
将棋そのものと同様に、棋士の生き方・考え方も、本当に興味深くて、いつも非常に
魅力的です。そして今夜も学ぶべきこと、考えることは非常に多かった。

このサイトにも書いているパシリ2号・73などには、どうやら一切は「外道」の2字で
片付けられるようで、ありとあらゆることから学ぼうとするのは「無用」らしい。(^o^)

「天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛なるを見て池の深きことを知る」
等云云。妙楽云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云云。 天晴れぬれば
地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか。」

「天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば
即ち是れ仏法なり」等云云。」

「爾前の経の心心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと
申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。 爾前の経経の心は、
心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、
花こそ心よと申す法門なり。 此れをもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず、
すなはち命なり。」

一粒の米を見ても、考えること、感じること、学ぶことは山ほどある。
音楽ひとつにしても、ただ「楽しいなぁ(^o^)」と聴いているか、ビリビリするような感受性で
音楽家の篭めた分厚い、膨大な思いを感じ取れるかで決定的に変わる。
ひとがそれをどう見るかなど、どうでもいい。
要は「学ぼう」「高みを目指そう」という「心」ひとつがあるか否かで一切は決まる。

>それこそ、「謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀」ではないですか。
>自分の懈怠謗法の様が見えませんか?
>まっ、所詮一般的には謗法者には自らの謗法行為など自覚できないものですが。

この3行、芸者挙げてヤニさがった顔しておる、前・唯授一人血脈相承その他の
坊主どもの眼の前で、堂々と仰ってくださいな。(^o^)

 

ああ、  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月14日(金)00時19分15秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

繰り返しますが、正直気乗りはしないものの、当然ちゃんと返答書きますよ。(^o^)
「早う返答してください」と書いて、別にあなたも「謂れはない」と書いたのですから、
こっちがのんびりしておっても、のんびり待っていらっしゃればいいんです。(^o^)

 

あー、それとね。(^o^)  投稿者:やまいぬ。  投稿日: 7月15日(土)01時27分1秒 61-24-106-233.rev.home.ne.jp

  引用

 

 

樋田さんとのやり取り、どなたに振る必要もなし。(^o^)

えー、非常にカッタルかったのですが、まずは読んでみました。(^^;
問いに対するアンサーも、書きながら大笑い出来るものもありますので、やり始めると
なかなか楽しんでおりますが――なにせ長い。なんせ「足掛け12時間」ですから。(^o^)
そんな具合ですので、時間を見つけてチョロチョロやれば、数日もあればup出来るでしょう。
大したことはありませんが、なかなか楽しい資料も見つけましたので、楽しんで頂ければ
結構です。(^o^)

 

暫くでした  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月19日(火)11時22分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

17日の行事に向けて、非常にタイトな生活をしていまして、皆様への破折論文が書けずに歯痒い想いでした。
またお待ちしていた方々には申し訳ございませんでした。
これからもまだまだ忙しい仕事が続くので一遍にたくさんは書けませんが、少しづつ反駁し、破折していきましょう。

まずは、やまいぬ。さん。
反論が遅くなり申し訳ありませんでしたね。
が、しかし、貴公の反論にかかった時間からすれば、それほどでもないような気もしますが。
http://toyoda.tv/yamainu.htm
http://toyoda.tv/yamainu2.htm

↑から、    ↓この日付まで。
―――――――――――
DATE:  8月26日(土)17時40分50秒
> TITLE: さてと。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
―――――――――――
時間にあまり余裕が無いので、ポイントだけを突きましょう。
全文を通読していないので、後半の内容と重複するかもしれませんが、その点はご了承下さい。
―――――――――――
> >@「内証」とはそもそも何か?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> なんとも見事なモノ信仰ですね。自慢の「お肉牙」はお忘れですか?(^o^)
> ついでに宗門が「金科玉条」のように誇りたがる
※@唯授一人血脈相承の基たる「二箇相承書」と
> 「御本尊七箇相承」の真筆でも出して頂きたいところですし、云々

―――――――――――
●※@「御真筆でなければ信用でいない。」というのであれば、貴公ら創価学会が自らに血脈が通う根拠としてよく用いる、「生死一大事血脈抄」の御真筆は今どこか?

@あるのなら即明示してください。
Aないのであればその内容は貴公は信用しない、ということになり、創価学会の血脈の主張を貴公は否定することになるが、それでいいのか。

この矛盾に明確に返答してください。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月20日(水)08時10分9秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

▼※A興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)
―――――――――――
●ほとんど 狂人の戯言、ですね。
細かい破折をする前に、既に戒壇の大御本尊については仏哲の記述によって貴公の駄推など、完摧されている。
後半でそれについて正当且つ論理的な反駁がされているのならば、その箇所に来た時点で再破折するとして、今は、再掲・加筆してこの戯けた酔言に鉄槌を下しておきましょう。
―――――――――――
●以下は「池田大作監修」の仏哲の記述です。
さて、この義と貴公の主張(=要するに「戒壇の大御本尊の存在自体が疑わしい」ということであろう)は真っ向から対立するのですが、いつ貴公が言うように変わったのでしょうか?
それとも貴公がただの我見でものを言っているのでしょうか?
池田氏の考え方は間違っていたのでしょうか?
貴公の説を取ると、池田さんは完全に間違っていたことを辞典という普遍性が重要視される書物で公言していたことになりますね。
これは大変なことになってきましたね。
―――――――――――
ほんもんかいだんのごほんぞん
【本門戒壇の御本尊】
ほんもんかいだんのだいごほんぞん
【本門戒壇の大御本尊】

末法の御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、末法尽未来際にいたる一切衆生のために、弘安二年(二一七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大更茶羅のことである。
本門の本尊ともいい、また三大秘法総在の本尊ともいう。
この大御本尊は第二祖日興上人に付属され、現在にいたるまで六有数十年にわたって、代々の御法主上人猊下によって厳護され、法灯連綿として日蓮正宗総本山大石寺に伝承されてきた。
現在、正本堂(※もちろん現在では奉安堂であることは言うまでもない)に安定されている本尊である。
戒壇の大御本尊は、昭和三十年十一月までは御宝蔵に厳護され、昭和四十七年十月七日に、総本山大石寺に完成した正本堂へ、奉安殿から御遷座されて、今日に至っている。
つぎにこの御本尊について述べるにあたり、はじめに本門戒壇について明かし、ついで本門の本尊について述べることとする。

一 本門戒壇について
一般に戒壇とは、戒を授ける壇をいうが、日蓮大聖人の仏法では、本門戒壇とは本門の本尊を安置し信心修行に励む場所をいう。
本門の戒壇には義と事がある。
義の戒壇とは、本門の本尊所住の処は、いずれの地であっても授戒の増場としての内容が整っていて、その義が戒壇にあたるから、義の戒壇という。
事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が安置されるところである。
大聖人の仏法では、戒壇とは、全世界の人々の懺悔滅罪の道場であり、全人類が平和を祈願する根本道場を指しており、大御本尊に唱題し、帰命する所をいう三大秘法抄に、本門の事の戒壇について
■「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」とある。

また南条殿御返事には
■「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」とある。

つぎに本門戒壇建立の地について述べるならば
三大秘法抄の
■「霊山浄土に似たらん景勝の地」とは、日本の富士山をさす。
日蓮大聖人の
身延相承書には
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と明白に遺言されている。
また本門戒壇の大御本尊の授与書には
■「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」とあり、
また日興上人より日日上人への譲り状たる日興跡条々の事には
■「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊日日に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」とあり、
百六箇抄には
■「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とあり、
また同抄には
■「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」とある。
嫡嫡相承の曼荼羅とは大聖人弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊であり、本門戒壇の大御本尊を正式に御安置すべき本門戒壇は富士大石寺に建立すべきことを決定されているのである。
産湯相承事には
■「叡山の頂に腰をかけて近江湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて…日蓮は富士山自然の名号なり、富士は部名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」とある。
しかして、日蓮正宗においては、第二祖日興上人以来、身延相承書の
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の遺訓を堅く守って、広宣流布に邁進してきたのである。
さらに本門戒壇建立の時期について、日蓮大聖人は三大秘法抄並びに身延相承書に
■「時を待つべきのみ」
といわれ、本門戒壇建立を滅後に遺付された。
土木殿御返事には
■「日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か……但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか」といわれ、
諸法実相抄には
■「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」とある。
すなわち、本門戒壇建立の時代的・社会的背景として、日蓮大聖人が指摘している条件は、正しい宗教の基盤が確立し、その広大で豊かな宗教の土壌のうえに、政治、経済、教育、文化等の諸活動が展開される時代のことである。
したがって、本門戒壇の建立というのは、そうした宗教革命、信仰者個々人の生命の変革を根底にした、総体革命の進行をその背景とするのである。

二 本門の本尊について
本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大曼荼羅のことであり、一閻浮提総与の御本尊のことである。
この本尊こそが、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全人類を即身成仏させえる大御本尊である。
また本門の本尊に法の本尊と人の本尊がある。
法の本尊とは、事の一念三千・無作本有の南無妙法蓮華経である。
人の本尊とは、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・日蓮大聖人である。
この人法の本尊はその名が異なるけれども、その体は一であり、人即法、自受用身即一念三千である。
また法即人、一念三千即日受用身である。
これすなわち正中の正、妙中の妙なのであり、本門の本尊こそ行入所修の明鏡である。
観心本尊抄に「観心の本尊」が明かされているが、これは「本門の本尊」と同義である。
「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に建立された本門戒壇の大御本尊である。
日寛上人の観心本尊抄文段上の首文には、本門の本尊について、つぎのように説かれている。
■「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり、此の本尊に人有り法有り、人は謂く久遠元初の境智冥合、自受用報身、法は謂く久遠名字の本地難思境智の妙法なり、法に即して是れ人、人に即して是れ法、人法名殊なれども其の体恒に一なり、其の体一なりと雖も而も人法宛然なり、応に知るべし当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ、是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳・十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざる莫し、譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し、故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり、妙楽の所謂『正境に緑すれば功徳猶多し』とは是れなり、此れ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行入所修の明鏡なり、故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当て一期の大事なり』等云云」と。
このように日蓮大聖人の仏法の根本は弘安二年十月十二日建立の本門戒壇の大御本尊である。
しかして現在まで日蓮正宗総本山大石寺に清純に伝承され、昭和四十七年に完成した正本堂にご安置されている御本尊である。
日蓮大聖人は御一代の間に、いくつかの御本尊をしたためられ、信心に励む在家出家の弟子檀那に授けられている。
その御本尊を一機一縁の御本尊といい、日蓮大聖入滅後、第二祖日興上人は本門寺建立の時には本門戒壇の大御本尊のもとに結集されるべきであると命ぜられている。
―――――――――――
●では、池田さんのこの記述を貴公は否定している訳だが、

@いつから
A何を根拠として

貴公が主張するようなことに変貌したのか、正確な文証を挙げて証明してみてくださいな。
そして池田さんの説が完全に間違っていたと立証してみてください。
弟子として。
池田さん怒りませんかね?

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 9月25日(月)11時56分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

昨日は一日で、当方の関係で、2世帯、それも含め支部では3世帯のご本尊下付がなされました。
全て学会脱会者です。

関係者皆様に感謝申し上げます。

では、やまいぬ君の駄問に鉄槌の続き。
―――――――――――
> 例の河辺メモによれば、当時の唯授一人血脈相承はその筆跡を「偽者」呼ばわりしたよう
> ですし、宗門にとっては唯一無二の拠り所である「モノ信仰」の中心を否定するメモをバラし
> ながら河辺氏はその後、東京の大寺院に「栄転」していますが?(^o^) )

●今更ながらやまいぬ君の愚盲さに呆れる。
―――――――――――
『河辺メモ』

 「A面談 帝国H
一、戒旦之本尊之件
 戒壇の御本尊のは偽物である。
 種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
 多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師頃の筆だ。
 日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
 ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣(売)に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安三年の御本尊)」昭和五十三年二月(河辺メモの日付)
―――――――――――
【疑難】

「日禅授与の本尊(※弘安三年御筆)の題目と花押を模写し、その他は時師(※第六世日時上人)か有師(※第九世日有上人)の頃の筆だ」
大御本尊が、日時上人・日有上人の時代(足利時代=室町時代)以降の偽作
―――――――――――
【破折】

大綱

■日達上人

■「大御本尊は楠の板で、その時分は鉋(かんな)がなかった、鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。
だから、あの御本尊は手斧削(けず)りである。それを見れば、すぐわかる。
それを知らないで、『漆を塗ってあるから、あれは足利時代にできた』とか、最近は『徳川時代にできた』などと、とんでもないことを言う。ところが、あれは、後ろを見ると、みんな、削った跡がちゃんと残っている。
それを見ても明らかに鎌倉時代である」(昭和四十七年九月十二日)

■「その御本尊様は、もう六百八十年も前にできた板御本尊でございまして、これは、当時、鉋(かんな)というものがなかった、鎌倉時代でございますから。あの板御本尊様は、明らかに鉋では造ってないのであります。
みんな手斧(ちょうな)、手斧といっても戦国時代あるいは室町時代にできた丁飽(ちょうな)でなくて、もっと古い、まさかりみたいな手斧で削られておるのでございます。
それが歴然としてあの板御本尊に残っておるのでございます。
それを見ても鎌倉時代、大聖人の時代にお造りになった御本尊様である、ということがはっきりしておるのでございます」(昭和四十七年十一月二十日)

大御本尊が鎌倉時代(大聖人御在世)に建立されたことを証明。
大御本尊が日時上人・日有上人以降の後世の偽作であるなどということはありえない。
このことを熟知されていた、当時・教学部長であられた日顕上人が、「後世の偽作」などと言われる可能性はない。
―――――――――――
■日顕上人
 「この際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違している、ということである。よく拝すれば、中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに違いが存し、また御署名花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡は存在しない。
 したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。」(平成十一年九月十八日)
―――――――――――
綱目

1、メモ中の大御本尊に対する疑難は、二点。

@戒壇大御本尊の、題目から花押(かおう)に至る中央首題の部分は、弘安三年(五月)の日禅師授与の御本尊から模写したもので日禅師授与の御本尊には模写の形跡が残っている。
Aその他の文字は、第六世日時上人・第九世日有上人の時代(足利時代=室町時代)に書かれている以上二点が「筆跡鑑定の結果解った」。
―――――――――――
@二幅の中央首題は全く違う

 第一点目、大石寺理事・小川只道尊師。(小川尊師は、御開扉における御鍵取り(御厨子の扉を開く役)を十数年にわたって務め、戒壇大御本尊を間近で拝し奉ってこられた。また、御霊宝虫払大法会において、御本尊掛け役をやはり十数年にわたって務められ、日禅師授与の御本尊も間近で拝してこられた)。

 「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
 ですが、幾度も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
 また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。
大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。
また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は【日】文字の上に御花押の上部が重なっていますし、花押全体の形態もかなり違っています.
これらの違いは、御虫払の時に気をつけて拝していただけば、一目で判るはずです。
 もちろん、日禅師授与の御本尊に「模写の形跡」など、私が拝してきた限りでは見当たりませんでしたよ。」

二幅の御本尊の中央首題部分は、「筆跡鑑定」するまでもなく、拝しただけで判るほどハッキリした違いが存する。

 当時、宗門の中枢にあられ、また長年にわたって御本尊を御調べになってきた阿部教学部長(現・日顕上人猊下)が、このような発言をされる可能性は皆無。
―――――――――――
2、メモ中の疑難・批判は不心得者の言

【河辺メモ】中に記された大御本尊に対する疑難は、宗外の謗法者か、もしくは宗内の一部の不心得者(おそらく、こちらであろう)が新たに言い始めた妄説を、お二人のどちらかが話題として提起したもの、と捉えるべきが当然である。
 また、次下に、「G(「猊下」の頭文字=日達上人のこと)は話にならない」
云々と、日達上人への批判が記されているのも、後に正信会と名乗る一部の輩が当時、ロにしていた批判内容と酷似(こくじ)していることから、やはり、一部の不心得者の発言を面談の中で取り上げたもの、と見るべきであろう。

『河辺メモ』は、河辺慈篤尊師の個人的なメモ書きであり、主語・述語等も省(はぶ)かれていることから、安易に他人が速断することはできないのに、学会では、悪意をもって、これを宗門誹謗の材料とした。
―――――――――――
正信会の大黒喜道が編纂(へんさん)した『日興門流上代事典』(興風談所発行)という書籍の「本門戒壇大本尊」の項目

 「弘安二年(一二七九)十月十二日に書顕(しょけん)されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅(まんだら)下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼荼羅として大石寺に厳護(げんご)されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。
(中略)
 富谷日震『本宗史綱』二四五は『重須日浄記』に拠(よ)って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は東京・法道院所蔵にて昭和四五年に大石寺に奉納された弘安三年五月九日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/[日興上人加筆]少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全一四一)が、その相貌と言い大きさと言い、当本尊と酷似(こくじ)しており、注意される。」

河辺メモに記される、大御本尊が日禅授与の本尊の模写であるという疑難と、全く同一の内容。

 これは近年発行の書ではあるが、正信会の書籍に、正式に活字としてこのような邪義が載(の)っていることからすれば、当時(昭和五十三年頃)からこのような疑難をもつ者がいたであろうことは想像に難くない。

『事典』の編纂者・大黒喜道に問い質(ただ)した。
「すでに昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御本尊』の遠景写真、及び『日禅授与の御本尊』と『戒壇の大御本尊』が酷似しているとの説があった。これについて編者(大黒)は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載せたにすぎない」

この編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、日禅授与の御本尊の写真を提供したのも、正信会関係者であると推定できる。

「戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊との関係」を云々していたのは、後に正信会となる、宗内の一部の僧侶であったことが、もはや確実。
―――――――――――
3、学会自らが戒壇の大御本尊を否定する発言。

 『会則』を変更。
教団の所依(しょえ)の本尊
従来
「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
→「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」に変更した。

 「大石寺安置の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊」との部分を削除。
学会が本門戒壇の大御本尊を否定。
会員の目を欺(あざむ)くために「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」と抽象的表現。
やがて完全に大石寺安置の大御本尊から離れ、ついには新本尊を策定するための準備であることは明らか。

学会側こそ「大御本尊否定」の大悪業を進めていることを知るべき。
―――――――――――
4、学会邪義 2

 宗門は、これらの事実の発覚に驚き、最初、
「これは、日顕上人が、当時外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難が多く来ていたことから、教学部長として河邊尊師に説明されたもの」と説明、
翌日出された河邊(尊師)による「お詫びと証言」では、「宗内において生じる妄説の可能性」などと説明している。
 最初に「外部からの疑難」と言いながら、翌日には「宗内からの疑難」と言い直すあたり、真実を隠蔽(いんぺい)しようとする動揺が窺(うかが)える。
 しかしながら、当時、宗外においても宗内においても、このような疑難はどこにも呈されておらず、このようなことを言い出せるのは、宗門の教学部長として、御宝蔵に所蔵されている御本尊をはじめとして大御本尊に至るまで、宗内の御本尊を自由に鑑定できる立場にあった日顕(上人)しかいない。
 すなわち、この「河邊メモ」について、どのように言い訳しようとも、日顕(上人)が「戒壇の大御本尊は偽物」と断定していたことは動かしようのない事実なのである。
―――――――――――
【破折】

1、「河邊メモ」は盗人による盗品

 「河邊メモ」は、故・河邊慈篤尊師の個人的なメモ。それが何ゆえに学会の手許(てもと)にあるのか――なんと、盗人の手によって河邊尊師のもとより盗み取られ、それを入手経路を隠したまま創価学会が悪用しているのである。

 盗品の内容を、持ち主である河邊尊師の許可もなく公開して御法主上人誹謗に使うとは、創価学会という宗教団体がいかに薄汚ない教団であるかがわかろう。

「メモ」とは、所詮、個人の覚え書きであって、万人が理解することを前提とした公式書類でもなければ、手紙でもない。当人のための覚え書き。文中に、主語や目的語が省かれていたり、肝要な部分が省かれて記述されていることすらある。それ故、時の経過の中で、本人でさえメモの内容が理解できなくなることも多々ある。
 そうした覚え書きとしての記述を、あたかも公式書類であるかのごとく扱い、しかも、自らの主観をもとに勝手に主語を挿入して読み解くなど、メモの解読どころか創作の域に踏み込んでいる。
 「大御本尊偽作疑難」は、河邊尊師から盗み取ったメモをもとに、創価学会が自分の主観で勝手に創作した疑難。
―――――――――――
2、「宗外」と「宗内」について

 学会怪文書『同盟通信』がこれを公開したのが、平成十一年七月七日のこと。
 これに対し、宗門側は翌々日の七月九日に「宗内各位」宛てに、
 「当時(昭和五十三年)は裁判も含め、以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河邊師に対して説明されたものであります」と解説。
翌日の七月十日にも、「河邊尊師からのお詫びと証言」を、「宗内各位」宛てに発している。
 「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折についての話を伺ったもの」

 学会は、これらの記述中、「宗外」と「宗内」の語に拘泥(こうでい)して「矛盾だ」といっているのであるが、これは矛盾でも何でもない。

 宗門から出された最初の文書
「以前より外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難が多く来ていたことあり」と、けっして、疑難を外部だけに限定した表現でないことは、「も」の一文字から窺える。

 翌日付けの文書
「当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても……」と、ここでは、「当時の裁判や以前からの疑難」(宗外)と「宗内においての妄説」とを併記しているのである。

 創価学会が「矛盾だ」とした箇処は、文字の上では顕然(けんねん)ではないが、いずれも「宗外」「宗内」を含んでいるのであって、矛盾などどこにもない。

 これらの文書は、宗内の信徒が学会怪文書に惑(まど)わされ、あたかも御法主上人が戒壇の大御本尊を否定されたかのように誤解することのなきよう、急報として出されたもの。
元となった疑難が宗内からであったか、宗外からであったかを問題にしたものではない。
―――――――――――
以上、簡潔に問題の経緯をUPした。
やまいぬ君、これらに詳細に反論・検証してみたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。4  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月10日(火)10時09分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ほんの少し時間がとれるので、続き行きますか。
しかし、このやまいぬ。君という愚者は、のっけから既に自分が首を落とされているのにも、それに気がつかないで、その転がっている首がパクパク愚難をしているような醜態を自覚できないとは。
まことに三宝誹謗・ニセ本尊崇拝による愚癡の衆生の見本というべきであろう。
>
―――――――――――
> これから始まる長いやり取りの冒頭で、奇しくも樋田さんが、斯くも見事に宗門・法華講の
> 「モノ信仰」を書いてしまったことは、信仰者、なかんずく蓮祖仏法を信仰する者として
> あなたや法華講が致命的な欠落を持っていることを見事に露呈してくださいました。(^o^)
> 残念ながらこの時点で、ある意味「勝負あり」です。(^^)
> 興味深いので少々書きましょう。

●またもや、馬鹿丸出しの愚難である。
このやまいぬ。君、書くことが悉く大聖人の御法門から甚だしく逸脱しているので、その一々にお相手しなければならず、当方としても手間のかかるのである。
が、所詮、今までの数行の中に、この謗法者の邪信の本質は顕著に露呈しているので、根幹部分に於いては、もう終わっているようなものである。
この愚者の言を借りれば、まさに

> 残念ながらこの時点で、ある意味「勝負あり」です。(^^)

ということである。
それでも、
> 興味深いので少々書きましょう。

ということか。
―――――――――――
まず、この愚人が用いる「モノ信仰」について。

1、貴公ら創価学会が販売しているニセ本尊は、「モノ」ではないのか?
2、「モノ」でなければ、一体「何」か?
3、貴公ら創価学会員が会館で拝むものは「モノ」ではないのか?
4、合掌礼拝する行為は「信仰」ではないのか?
5.そうでなければ、その行為は一体何ものか。

やまいぬ。君などの愚問はこれらの詰問で十分なのだが、自分の首が切り落とされているのにも気がつけない物怪のようであるから、更に詳しく破折しよう。

    草木成仏口決   文永九年二月二〇日  五一歳
■草木成仏とは非情の成仏なり。
「非情」とはやまいぬ。君のいうところの「モノ」である。やまいぬ。君はその非情が成仏するという法華経の深い法門が全く分かっていないのである。
だから、自分の浅識も省みず「モノ信仰」などと偉そうに揶揄できるのである。実に恥ずかしい醜面である。

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。
ここは今回の本題ではないが、この草木成仏という大事の御法門が全く領解できていないから、創価学会では、塔婆を否定したり、開眼を否定したりするのである。この大聖人様の仰せからして、創価学会のものどもがいかに愚か者であるか明白である。

■口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。
ここが、まさに曼荼羅御本尊を我々が「仏」として拝する道理と文証である。

■法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし。
一身即三身・三身即一身の法義がほんの少しでも理解できていれば、「モノ信仰」などとはとても恥ずかしくて言えた物ではない。

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり、
ここに、元非情である曼荼羅御本尊を信仰することにより我等が成仏できる原理・道理を拝するのである。

■一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。
究極の御文証である。
御仏の御一念に法界一切が納まり、また、御仏の御一念が法界一切へ遍く、その全てがそのまま大曼荼羅御本尊と顕れ給うた紛れも無い御文証である。
これを「モノ信仰」と哂うやまいぬ。君
まさに「習いそこない」の愚者であるが故に、とんでもない見当違いをしているだけである。
実に哀れ、惨めな生まれ育ちである。

■此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ。
まさに、ニセ本尊などを拝んでいるとこのような、大聖人様の仏法の基本中の基本が全く分からなくなり、堕獄一直線となるのである。
戒壇の大御本尊を「モノ信仰」と軽侮するやまいぬ。君、後生をよくよく畏れるべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。4(飛び火2)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)12時25分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君、予想通りの食いつきである。
所詮、道理の通った文証と論では反論できない謗法者の哀れな足掻きである。
―――――――――――
> DATE: 10月31日(火)03時58分41秒
> TITLE: 樋田くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> しっかし樋田くんよ。3ヶ月以上も本論にすら入れずに、出してきたのが「日因」だ?
> (^o^)(^o^)(^o^) 腐り果てたねぇ、かつての「法華講きっての論客」・樋田くんよ?(^o^)
> で、その日因って、何世帯折伏したんだね?(^o^) どれだけ広宣流布を進めたんだね?
> (^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「如説修行」のひとでも「法華経の行者」でもない人間なら、その妄言など無用だわ。(^o^)
―――――――――――
●これもまさに一読噴飯ものである。
通常の感覚と経験を有している「大人」の発言とはどう贔屓目に見てあげても思えないほどの幼稚さである。
やはり、「正境」である、戒壇の大御本尊に縁できないものは斯様に智慧が衰え、道理を失い、癡さが増すと言う、よき現証である。
―――――――――――
1、日寛上人
■本尊書写豈化他に非ずや。

御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。
一体に僧俗が如何程に化他行に励んでも肝心の法体である御本尊様を流布しなくては大聖人様の御法門の肝心、三大秘法は成就しない。
その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、その至尊のお振る舞いあっての我々の「折伏」である。
法体のない者は一体何を広めているというのか。
そういうところが分からない迷妄が「本尊にまどへり」の愚相なのである。
―――――――――――
2、■涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」

やまいぬ。君はこのような僧俗の役目の筋目という御法門を知らないただの暗愚者である。
「甚深の義」とは突き詰めて拝すればまさに戒壇の大御本尊様であり、その御内証である。
その最大深秘の御大事の御法門を過たず未来永劫に伝持される尊いお役目のお立場の方が日興上人を首とした御歴代上人である。
およそやまいぬ。君ほどの無知蒙昧で、邪魂醜悪の者の知ること能わざる清浄な世界である。
翻って、その尊い僧団を守護・外護し奉る役目が檀越=つまり在家信徒である。
やまいぬ。君は単に「折伏」「広宣流布」の語を極めて浅薄にしか読めない愚者である。

以上の1、2、から拝せることは、「折伏」にも「広宣流布」にも総別の縦分け・筋目があるということである。
我々が励む「折伏」・「広宣流布」とは、別して御法主上人にのみに伝持され、流布される三大秘法の御法体を世に広く流布する、総じての辺における立場である。
この筋目に盲目で惑乱しているから思い上がって驕慢になっているのである。
十四誹謗の不信・浅識・憍慢・軽善・憎善・嫉善・恨善などをそのまま地でいっている、哀れそのものの生き物である。
無間地獄必定である。
―――――――――――
3、<正邪は法門によって判定>

■法門をもて邪正をただすべし(『唱法華題目抄』)
-----------------------
●貴公ら、池田学会では会員数が多いことをもって、自らを「広布の団体」と自讃し、正義の証のごとく主張している。しかし、広宣流布の長い道程にあって、一時的に人数が増えたからといって、それが正義の証明になるはずがない。正邪の判定はあくまでも法門によって行われるべきである。

■汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ(『聖愚問答抄』)
-----------------------
●「正理」とは何か。それは三大秘法総在の御本尊に帰着する。そして、御本尊即御本仏の御内証は唯授一人の血脈として歴代上人に伝持されているのである。

■堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず(中略)信心無二にして筋目を違えず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻146頁)
―――――――――――
4、<唯授一人の血脈を根本とする僧俗異体同心が広布の要諦>

■1 日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』)
-----------------------
●ここでいう「異体同心」とは、『生死一大事血脈抄』↓に仰せのように、僧俗一体となっての異体同心である。"僧侶不要"を唱える在家団体・創価学会が会員同士でいかに仲良くしても血脈は通わないのである。従って、大聖人が仰せの広布も実現できないのである。

■総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(『生死一大事血脈抄』)
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●↑「生死一大事の血脈」は「弟子檀那」が「異体同心」であるところに成り立つ。いかに数が多くても、「檀那」である在家だけで仲良くやっても、「異体同心」とはならない。よって、「弟子」である御僧侶を蔑ろにし、"僧侶不要"を唱える池田学会に、生死一大事の血脈が通わないことは明らか。

■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ(『生死一大事血脈抄』)
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●「釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて」とあるように、生死一大事の血脈は、釈尊から上行菩薩への別付属に由来する。

■宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
-----------------------
●「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている。

★広布拡大乃至達成の条件である「異体同心」(1●)とは、唯授一人の血脈を根本とした僧俗一体の異体同心である。
―――――――――――
5、やまいぬ。君の幼稚な自己矛盾。

1、やまいぬ。君ら創価学会はその日寛上人の御本尊を担ぎ出したのであるから、やまいぬ。君の言をそのまま踏襲するとこうなる。
▼「> で、その日寛(上人)って、何世帯折伏したんだね?(^o^) どれだけ広宣流布を進めたんだね?」
日寛上人が
@何世帯折伏したか、
Aどれだけ広宣流布を進めたのか、
数字を出して立証しなければ、日因上人を否定する根拠とはならない。
のみならず、日寛上人を▼「 「如説修行」のひとでも「法華経の行者」でもない人間なら、その妄言など無用だわ。(^o^)」と痛罵することになり、大謗法である。
更にその妄言など無用と悪罵した方の御本尊を担ぎ出して写真撮影して散々に好き勝手に改竄を加えて販売しているニセ本尊を拝んでいる・・という最大の矛盾となる。
はい、ではやまいぬ。君、@Aの具体的な立証をして見せたまえ。(絶対に無理だがね。呵々)

2、やまいぬ。君の立論は、やまいぬ。君が自負する、多くの「折伏」をし「広宣流布」を進めた創価学会の啓蒙書、折伏経典の主張に全く相反する。
■『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」
との主意と、折伏経典にある以下の主張は大同である。

▼【折伏教典】(折伏教典三二三)
「富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。そこで、もし、このようにたしかなご真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。また信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
それ(興尊が集めた大聖人御真筆本尊)にもれた一部のものが、ある人々に移り伝わって今日、ご真筆として勝手に信仰の対象とされているのである。ただし、これはちょうど電灯にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。」

もし、やまいぬ。君が日因上人の御指南を、「折伏」と「広宣流布」の数、ということにおいて否定しているであるなら、その「折伏」と「広宣流布」を殊に推し進めた創価学会の主張は認めなければならないはずである。
では、上記折伏経典の主張によると、如何なる状況であったとしても、貴公が「私は堂々とそのみやげ本尊を買うよ。」との思い込みは、まさに大謗法であるが、この矛盾について、論理明快に説明できるであろうか?(無理である。)
がしかし、挑戦してみるのもまた一興であろう。

一回の投稿が余り長くてもいけないので、では続きは後ほど。

しかも貴公の要求どおり、かつての幼論についても摧破を再開しますので。ご心配なく。(いやむしろその方が心配であろう。)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。6(飛び火3)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)13時35分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●いよいよ、苦しい足掻きである。
哀れを誘う。

> で、「大事至極の秘曲」とは何だね?(^o^) まさか書くだけ書いて、「法主しか知らん」とか
> 逃げまいな?(^o^)

●実に醜悪傲慢な根性の持ち主である。
この世の全てをやまいぬ。君は知り尽くしているとでもいうのであろうか?
また知らなくては全てを信じれないとでもいうのだろうか。
「大事至極の秘曲」とはまさに御法主上人しか知らないのである。
それは別に「逃げ」でもなんでもなく、それが厳然とした事実・真実そのままである。
貴公の論法だと、法華経の神力品で上行菩薩が結要付嘱されたその正体は鎌倉時代まさに大聖人様しか知っておられないが、そのことを疑う謗法者と同じ穴のムジナである。
貴公の根性と生まれ育ちの因縁はその程度なのである。

繰り返しになるが、愚盲で醜怪な妄弁者は、癡であるが故に、反復学習が必要である。
やまいぬ。君の愚問は折伏経典の以下の箇所へも向けられていることになり、それは戸田氏へも唾を吐きかかけている忘恩・不知恩の畜生以下の生き物の所業である。(名は体を表す、との言葉通りである)

折伏経典

☆大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。
☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

→ここにいう、「感得」「相伝」とはどういうことか?
やまいぬ。君の論法でいくと、戸田会長に向かって、こう言っている事になる。

> で、「感得とか相伝」とは何だね?(^o^) まさか書くだけ書いて、「法主しか知らん」とか
> 逃げまいな?(^o^)

やまいぬ。君、実に愚かな駄犬である。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。7(飛び火4)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)15時17分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君流にいうと、”さあ、飯も食ったし、続き行きますか。(^o^)”
―――――――――――
> しかも、
> 「もしこの世界に蓮祖真筆本尊も、今までの誰が書写した本尊もなく」
> とわざわざ書いた部分は無視。(^o^)
> いいかい? 寛師の言葉とか並べておるが、その前提として
> 「もしこの世界に蓮祖真筆本尊も、今までの誰が書写した本尊もなく」
> ではないのだよ。蓮祖御図顕の本尊は存在する。学会下付の寛師書写本尊のようにね。
> (^o^) 前提を違えておる状態で寛師の言葉など、きみの主張の役にも立っておらん。(^o^)
―――――――――――
●書けば書くほどに幼稚である。
どのような条件・前提を設定してみても、詰まる所、やまいぬ。君は身延のみやげものを「本尊=根本尊崇の対象」として認めるということである。
謗法物は、あくまで謗法物以外のなにものでもないものであって、当宗からすれば、身延のみやげもの掛け軸は謗法払いの対象物でしかない。
それをさも尤もらしく前提を設定したところで、どこまでいっても”本尊”とはなりえないのである。

やまいぬ。君、折伏経典に依って戸田氏や小平教学部長から、再”折伏”して頂きたまえ。呵々

☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。8(飛び火5)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)15時31分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

謗法の害毒によて智慧の回らない愚者は↓こういうところからまた執拗に絡んでくるので、一言。
―――――――――――
> >もしくはやまいぬ。君、この件でむきになって絡んでくるのならば、とりあえずそれに
> >お相手することから始めましょうか。

> 阿呆。(^o^) ちみには3ヶ月前の膨大な宿題が残っておるわ。(^o^)
> もうなかったことにして逃亡の準備か?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> あんまり笑わせるな、坊や。(^o^)
>
> にほんごの不自由なつむらくんの心配など無用。そんなはぐらかし方などするな。
> みっともない。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> さ、暇が出来たのなら、
> 「書けた分だけ」とっとと返答してもらおうか?(^o^)
―――――――――――
●ま、所詮このレベルの言葉使いしか出来ない生活環境と脳内環境と境涯の方である、ということの証明である。

では、これから、やまいぬ。君、お待ちかねの、駄論粉砕に取り掛かりますかね。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。9  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)19時00分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●改めて愚者丸出しの恥論である。
―――――――――――
> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。
>
> 『「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」とも云へり。いかが心得べきや。』
> どうぞ。(^^)
―――――――――――
●やまいぬ。君は戒壇の大御本尊を「モノ」として否定する立場である。
それはこの↓愚劣な発言に明白である。

▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

そして、「モノ」を否定する立場でいながら、しかし完全な「モノ」である創価学会販売のニセ本尊を平然と拝んでいる。
まさに身口意の行動に一貫性がない、頭破七分そのままの状態である。
剰え、いよいよ他に拝む「モノ」がなければ「身延のみやげ掛け軸」という「モノ」を”本尊”として”昇格”させるつもりである。
他に拝む「モノ」があるうちは、身延のみやげ掛け軸は一体どのような”お立場”なのか。全く説明できていない。(出来るわけもない。)
しかも身延のみやげ掛け軸はあくまで「モノ」であることには終始一貫変化はない。
まさに、論理破綻の頭破七分の狂態である。
まさに「諸宗は本尊にまどへり」の生きた標本である。
(斯様な頭破七分者が社会にうろうろしておると物騒でしょうがない。)

であるから、この愚問↓を発する前提からして的外れの痴態であり、実に滑稽千万である。

> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。

その上で、この頭破七分の狂人に、大聖人様が”御本尊”という色心不二の御尊体(この愚者に言わせれば「モノ」である)を如何に大事にお考えになられていたか示そう。

■御祝として餅・酒・鳥目一貫文送り給び候ひ畢んぬ。是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。

大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿であり、やまいぬ。君というこの頭破七分の狂人に言わせれば、大聖人様自体も「モノ」信仰の似非信者ということになろう。
まことに馬鹿丸出しの痴犬である。

■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。

信を失った愚者相手は実に骨が折れるものである。
「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない「御本尊」などあるのか。
まさに痴犬のたわごとである。

■先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。
■日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。
■又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。
■日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 ■あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。

■妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。
 此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。

類文繁多であり、あくまで御本尊が根本であり、その御本尊を広めることこそ広宣流布である。当たり前である。
因みに創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。
くどいようだが、貴公のレベルに合わせて説けば、折伏経典にあるとおりである。
曰く
☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

今の創価学会が販売しているニセ本尊はまさにここで痛烈に呵責されている通りの情けない謗法物である。
それは身延のみやげ掛け軸も同様である。
やまいぬ。君、謗法の毒気その心中深く入ったが故に、哀れ哀れ、ニセモノの謗法掛け軸同士を仲良く”本尊”と見違えているのである。
まっ、創価学会販売のニセ本尊をニセと見破れないものが身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは至極当然の結果というべきであろう。

■臭きを溷厠に忘る。

と大聖人様が呵責された謗法者そのままの迷妄ぶりである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)22時31分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●またまた恥論大爆発である。
>
> 「モノ」ある故に正しい、というのであれば、あなた方宗門・法華講などは身延にすら
> 勝てませんし、蓮祖所縁であることが正しいなら、あなた方は身延をはじめ、蓮祖所縁の
> 寺々にすら勝てません。なにせ蓮祖ご自身は、大石ヶ原など踏まれてさえいませんからね。
> (^o^) 750年も経って、ロクに広宣流布を進められない宗門がどんな優れた「モノ」を
> 持っていても、すべて「猫に小判」です。
―――――――――――
●しかし、ここまで愚かだと反論するのも馬鹿馬鹿しくなるが、この程度が創価学会の邪義の中堅クラスであろうから、労を惜しまずいきますか。

1、戒壇の大御本尊様こそ根源

日寛上人

■教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。

■今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。

 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。
(中略)
 四には末法万年の総貫首の所栖なるが故に。謂わく、血脈抄に云わく「日興を付弟と定め畢んぬ、而して予が入滅の導師として寿量品を始め奉るべし、万年已後未来までの総貫首の証拠なり」等云々。
(中略)
 学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く、三師の相承虚しからずんば富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名づけ、一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり。天台の所謂「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討ぬ」とは是れなり。

●普通に素直な心で拝すれば分かることであるから詳細な解釈は省略するが、やまいぬ。君ら謗法者は、この「広宣流布の根源」であられる戒壇の大御本尊様を不信し、誹謗し、軽侮し、愚弄するが故に、思い上がって憍慢になり、真の功徳である成仏の境涯など全く得られないのである。
―――――――――――
2、広宣流布の定義

再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。
真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。
戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。
つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。
そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。
創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。
やまいぬ。君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。
まさに■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」の醜態を地でいく勇ましさである。
であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。
こういう者を無慙の人というのである。
日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。11(飛び火分)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)13時12分42秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さて、やはりまたもや予想通りの食いつきですね。
―――――――――――
> DATE: 10月31日(火)22時28分40秒
> TITLE: さあて。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> >やまいぬ。君、予想通りの食いつきである。

> 樋田くん、予想通りの逃亡だね。(^o^)(←やまいぬ。君、こういうオウム返ししか出来ないのは、相当に知性が緩い証拠だよ。)
>
> 他の話題で煙幕張って、3ヶ月以上逃亡しっ放しの返答不能を誤魔化そうとする。
> くだらん。あまりに見え透いて幼稚だよ。(^o^)
>
> その上でまず書く。
> 文証とはそもそも「絶対尊崇の対象」たる蓮祖・興師の言を以ってせえ。
> 広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ
> 途中の坊主の言葉を用いたいなら、その人間がまさしく蓮祖仰せの「如説修行」の
> 「法華経の行者」と証明したからにせんか。(^o^)
―――――――――――
●頭が余り良くないようなので、何度も教えなくてはならないらしい。
どうも「広宣流布」の意義や700年間の時代背景、衆生の機根等に全く暝い、ただの無知な幼児のようであるから、そこから教育しないとこの頑迷さは治らないようである。
―――――――――――
一、広宣流布云々について。

1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

2、そんな中でも日蓮正宗僧俗による数多くの法難史が存在する。
千葉法難・金沢法難・讃岐法難・仙台法難・尾張法難・伊那法難・八戸法難・・・
弘教に励んでこられた証拠である。

3、■一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。

■信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
―――――――――――
二、戒壇の大御本尊様こそが唯一広宣流布の根源

日寛上人
■問う、文底深秘の大法、その体如何。
  答う、則ちこれ天台未弘の大法・三大秘法の随一 ・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記二十七三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を 以て閻浮提に広宣流布せしめん」等云云。故にこの本尊は広布の根源なり。

■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

●謗法者やまいぬ。君は■「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討(たず)ぬ」という、仏教を学ぶ者が当然として身につく道理と、報恩の境涯が全く開かれていないのである。
そういう者を”真の愚者”というのである。
幾ら口先で偉そうなことばかり言っていても全く駄目である。

1、日蓮正宗の単なる派生団体、創価学会が誕生するずっと以前から広宣流布の根源であられる御戒壇様を厳然と護持されてきたのはどこでしょう?
2、君などが生まれるずっと以前から御戒壇様を厳然と護持されてきたのは誰でしょう?
 君らには到底望むことも、覗くことも出来ない即身成仏の境涯を得る事のできる、その根本の御法体の御戒壇様が厳然と今奉安堂にましますことが日蓮正宗700年の御法主上人と宗門が正しかった何よりの現証。
■「現証に如かず」である。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。
―――――――――――
三、文証の引き方

このやまいぬ。君という駄犬は、御書と日興上人の御指南しか信用しないという立場で、しかも日寛上人の御指南も当然用いないという大馬鹿さ加減、大炸裂の痴犬であるが、以下の矛盾に気がつかないとすれば、もはや常人の域を逸脱している狂気の世界の住人である。

このやまいぬ。君ら狂気の駄犬の矛盾に満ち満ちた言い分はこうであろう。(学会員の心中を説明するとこうなるか。)

★日寛(上人)が言うことは「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」であるから、全くあてにならないし、信用していないが、日寛(上人)が信じていた戒壇本尊というニセ物を書写した本尊の中で、

1、淨円寺の住職だった大行阿闇梨本證坊日證授与の本尊だけが何故か特に気に入って、
2、きっとこの本尊だけが宇宙本源の法を顕しているような気がするので、
3、それを写真に撮って、
4、画像をパソコンへ取り込んで、
5、でもこの『本證坊日證』という個人宛の授与書きは、全世界の学会員に販売するにはちょっと具合が悪いので、
6、そこの文字はザックリ削り落として、
7、他も全体に古くて痛んでいたから、コントラストや白黒のレベルを調整したり、
8、シミなどの部分は漂白するように白く補正して、
9、字も外人にもうけがいいように見栄え良く伸ばしたり書き加えたりして
10、大いに修正・加筆・補正を加え、
11、安く仕上げる為には、和紙だの表具だの言っていたら儲からんから、
12、一枚多色刷りで掛け軸状にみせかた本尊だから、
13、実にありがたくて、
14、功徳もバンバン出るというし、
15、最初はちょっと気味が悪かったけれども、
16、みんな平気な顔して拝んでるし、
17、きっと『みんなで拝めば怖くない』だから、自分も拝んでいる。

↑この中学生が読んでも容易に理解できる噴飯ものの大矛盾に気がつかないとすれば、まさに頭破七分で正気を失っている姿である。
更に、やまいぬ。君は、身延のみやげ掛け軸でさえ条件付で”御本尊”なり得ると言うのであるから、もはや馬鹿につける薬なし。馬鹿は死ななきゃ治らない、的に重症である。(因みにこの件を知り合いの学会員に詰問したら、はっきり身延のみやげ掛け軸は謗法だ。と言下に即答したが?同じ学会員同士でこうも真反対に見解が違う状態が、まさに■「諸宗は本尊にまどへり」であり、もはや創価学会が邪宗と成り果てた証左である。)

やまいぬ。君、もし日寛上人だけが他の御歴代上人と別格と言いたいのならば、貴公の理屈である、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」でないことを具体的な数値を示して立証して見せたまえ。
頭のよくない駄犬には本当に苦労させられる。もう少し頭のいい学会員なら、さすがにやまいぬ。君のような稚拙な理屈は振り回さないがね。
さすがに恥ずかしくて。それが分からないところが痴犬の痴犬たる所以か。実に謗法の害毒恐ろしいものがある。
自分が糞臭いということに気がつかないで平然と市中を闊歩しているようなものである。

■臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。

とのご叱責の通りのぶざまさである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。12  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)15時17分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあ、飯も食ったし次いくか。(-。-)y-゜゜゜(←これがやまいぬ。君流かね。相手の境涯に合わせないとね。余裕かましているように繕っているが、その実、内心相当に瞋恚の炎を燃やしているようである。)

> >1、日寛上人
> >■本尊書写豈化他に非ずや。
> >御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。

> 蓮祖曰く、
>
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
>
> 端的だ。(^o^) 御本尊に脚生えて、勝手に歩いて折伏する訳ではない。(^o^)

●馬鹿さ加減が実に鮮明だ。
やまいぬ。君に問う。
1、ここに仰せの「法」とは何か?
「蓮祖の仏法」では失格、落第、譲って言って40点だ。予め釘を刺しておく。
もちろん「蓮祖の精神」でも同様である。
さ、頑張れ。

2、「御本尊」 でもまだまだ50点だ。
さ、頑張れ。(身延みやげ物でも”御本尊”に昇格させることができる”つわもの”だから、この返答は楽しみである)
―――――――――――
> >御法主上人の御本尊書写はそのまま化他=折伏行ではないか。

> 書写がそのまま化他?(^o^) 何の戯言だ?(^o^)

●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。

■「本尊書写豈化他に非ずや。」

とは紛うことなき日寛上人の御指南である。
かたや、日寛上人御書写の御本尊は持ち上げ、かたや日寛上人の御指南は思いっきり下す。
この悩乱極まりない姿を頭破七分者といって仏教においては極悪人の”登録商標”である。
やまいぬ。君ほどの程度ではきっと読み仮名がなくて読めなかったようであるから、ふってあげましょう。

■「本尊(ほんぞん)書写(しょしゃ)豈(あに)化他(けた)に非(あら)ずや。」

池田大作監修の「仏哲」から

【化他】
自行に対する語。@修行に約する場合。化他とは他人に仏法の利益を受けさせるための化導をいい、末法今時においては折伏行や、信心指導などがこの化他である。

とあるからして、化他=折伏行であることは池田大作さんも認めているところである。
―――――――――――
> では法主が書写し続けて750年、いったいどれほど広宣流布は進んだのかね?
> 時間ばかりを浪費して、学会による大折伏戦以前、ただの田舎のボロ寺と化して
> おったのは何故かね?(^o^) 法主は本尊書写していたんだろう?
> どうして化他行、つまり折伏は進まなかったのかね?(^o^)
> 言い訳抜きで説明してもらおうか。(^o^)
―――――――――――
●言い訳も何も、御書にある通りである。

■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。」

やまいぬ。君の如き、頑迷固陋にして、邪心深き者がまだまだ多きが故に、真の大正法は広まり難いのである。
自分がその邪宗徒に成り下がって三大秘法の流布を妨げている一類であるのに、その三大秘法の本源、戒壇の大御本尊を軽侮、揶揄、不信して「広宣流布は何故進まなかった?」などと訊くとは、実に滑稽極まりない痴態である。思わず大笑いである。
自分が殺人犯であるにも拘らず、警察署に行って、自分が殺めた人のことを取り上げ、「何故あの人の命を助けられなかったんだ!?」と怒鳴っているような狂態である。
またそのみっともなさに気づかないところが頭破七分で無慙極まりない。
貴公のような機根で生まれついたその自らの悪因縁と悪宿業を深く見つめなおすがよい。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。13(飛ぶ火分)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)16時31分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●はい、由緒正しい、血統正しい正統な御本尊様へ有難い唱題をさせていただき、はい、次。
―――――――――――
> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは”御本尊” になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。14  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)16時52分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >その至尊のお振る舞いあっての我々の「折伏」である。

> ほう。では阿部日顕の如き、海外から「花和尚」と嘲われてばかりの「お振る舞い」ばかりで
> 法華講の折伏は進まぬと、こういう訳か?(^o^)
> なるほど蓮祖もこう仰せだ。
>
> 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、
> はかなきを畜といふ。」
>
> さすがは「阿部日犬」よのお。(^o^)
> そりゃ芸者挙げて宴会やるわ、高級温泉旅館で散財するわ、これじゃ折伏だ、広宣流布だなど
> 夢のまた夢だわなぁ?(^o^)(^o^)
―――――――――――
1、「花和尚」とはどこの国のどういうメディアでどういう番組として放送されたのか。
さ、やまいぬ。君、明示していただきましょうか?(当方は現地でどのような性格の番組構成であったか確認済み)

2、「芸者挙げて宴会」とはいつの、どの会を指しているのか、これも明示していただきましょう。(手痛い反撃は覚悟してくださいね)

3、「高級温泉旅館で散財」について。これも具体的且つ客観性のある証言及び数字を明示して、いつ、どこで、どのような、「散在」があったのか、証明して見せてくださいませ。

以上、完全に証明してから、揶揄したまえ。
また、その立証に成功しなかった場合は、この板上で公式に謝罪し、脱会せよ。いいですね。

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。15  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)17時11分52秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

更に、貴公は以下の御文の通りの謗法罪を犯しているので、大変な法罰を受けるであろう。

●御僧侶を軽善するその報いは実に深いものがある。
■「(法華経)八の巻に云はく「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は当に世々に牙歯疎き欠け・醜き脣平める鼻・手脚繚戻し、眼目角らいに、身体臭穢・悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文。」

【通解 法華経、普賢菩薩勧発品第二十八にはこのように説かれている。

三大秘法である本門戒壇の大御本尊を受持信行する者(御法主上人は勿論のこと、戒壇の大御本尊と御法主上人に連なる全ての僧俗。)の過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等などの罪をあげつらう者は、たとえその内容が真実であっても、ましてやただの悪口、虚偽、捏造、誤解であった場合はなお更のこと、その誹謗した者は、現世において皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種やそれに類する医学で治療できない重病などに罹るであろう。

また、御法主上人をはじめ本門戒壇の大御本尊を受持信行する者を軽蔑し、嘲笑する者は、来世以降、生まれてくる度に、歯が部分的に欠損していたり途中で欠けたり、唇が醜く、鼻も低く醜悪。手足がねじ曲がり自由に伸びない状態となり、瞳の方角が偏り、正常にものを見る事が出来ない姿となり、身体は醜く汚く臭く、悪性のできもの、腫れ物が多発し、血の中に膿が混じったり、また膿の血が染み出してきたり、腹部に濁水が充満し腫れ上がり、酷い喘息などで息が詰まり呼吸困難になったりする。その他諸々の悪重病に侵され続けるであろう。」

痴犬は、今のままでは間違いなくこういう惨めな姿を未来永劫に繰り返し繰り返し現じ続けるであろう。
一刻も早くその誹謗を止め、心より反省懺悔して御法主上人に許しを乞わないと、取り返しがつかないことになる。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。16  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 1日(水)21時13分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●正統な三宝の坐す所属寺院での先祖供養に大感激して帰ってきて、さあ、再開するか。
―――――――――――
> >法体のない者は一体何を広めているというのか。
>
> 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解て、
> 妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
> 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。」
>
> >法体のない者
> ? 蓮祖全面否定ときた。(^o^) きみは何の宗教を信仰しておるのだね?(^o^)

●いよいよ、始まってきたようだ。この謗法者の浅識・無知蒙昧ぶりが。
大聖人の御文中の「法華経」「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」とは、全て一大秘法へ究竟される、という御文の拝し方の初門すら、領解できていない幼学者である。まさに身延読みと同様である。まっ、身延のみやげ掛け軸をも”本尊”にしてしまう位だから、当然といえば当然か。
ここに仰せの「妙法蓮華経」とは当然の如く一大秘法に究竟される。つまりは戒壇の大御本尊である。
もし、ここをただの「妙法蓮華経」のみと解して読めば、では、世の中で身延あたりでも唱えている題目がまさに大聖人様の「肝要」である「生死一大事の血脈」ということになってしまう。
更に言えば、ただ、自分が仏と信じて題目を唱えている全ての宗派を是認することとなる。
さ、では以下の命題を解いてもらおうか。

@法体もなく、ただ題目を唱える宗派は正しいのか。
はい。→では、身延でも、久遠実成の釈尊と法華経を尊崇して題目を唱えているが、これは正しいことになるがいいのか。
いいえ。→では、数ある題目を唱える宗派でどこがどういう理由で正しいのか。

A顕正会は正しいのか?
はい→では顕正会の流布は広宣流布と認めるか。
いいえ→創価学会とどこがどのように違うのか。

これらを文証を以って論理明確に答えてみたまえ。
できなければ自らの邪解を認め、謝罪して脱会。いいね。頑張れよう。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。17  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)04時57分40秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●御住職とともに折伏をさせていただき、まさに僧俗一致、僧俗和合でまた一人、入信に導かせていただいた。
まことに有難い極みです。

では、こっちの”創賊”の掃除を始めますか。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> ついでだ。唯授一人血脈相承のこの言葉に反しておること、どう説明するのか楽しみに
> 待とうか。(^o^)
>
> 「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて
> 御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如き
> ものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は
永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は
> 絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はゞ其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・
> 猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の
血液活溌に運行す、其は世間にて云へば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を
> 乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の
> 清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも
> 踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり
> 此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の
> 邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて我等元の儘の粗凡夫の
> 色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり、悲しむべき事どもなり」
> (「有師化儀抄註解」『富士宗学要集』第一巻所収)

●どうも本物の馬鹿のようである。
これは、まさに唯授一人の血脈を示された箇所である。
信心がなく、その上古文が読めぬ馬鹿者には、細かく解説しなくてはならないようだ。

概して学会の馬鹿者たちは、学会活動を闇雲に、盲目的に、盲従して、真剣にしていることが”信心強盛”だと、ただ思い込んでいる者が多い。
大きな間違いである。
一概に”信心”といっても、”何”を”どのように”信じるか、によって、正信、邪信に分かれるのである。
「信」とは、まさに「正中が正」をひたぶるに信じてこそ、はじめて「正信」といえるのであり、それ以外の何をどう強く信じても、全て邪信、堕獄の元である。
では、この世の中で、正中が正とは何か。
戒壇の大御本尊に尽きるのである。
このことを素直に信じていた時代の創価学会の”信心”はそれなりに正しかったが、この一点を失った今の創価学会の”信心”など、最高から最低へ一転した、まさに邪信中の邪信、極悪中の極悪、社会の一大汚物の集団行為と成り果てたのである。

では本論。

■「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、

→戒壇の大御本尊への信心と、その御内証を伝える唯授一人・血脈相承の別しての血脈、及び、その別しての血脈を信じるところにのみ流れ通う総じての血脈と、そこに流れる功徳の法水、とはつまりは同じことである。

■信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、

→戒壇の大御本尊を信じる信心、またその御内証である唯授一人・血脈相承を信じる信心は、信じる側である信行者側の問題である。
この心が清純なところ、始めて久遠の御本仏様(=戒壇の大御本尊)よりの、功徳の源泉である法水を受けることが出来る。

■其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、

→この御本仏様(戒壇の大御本尊)よりの法水が我々信徒へ流れ通う有様は、まさに人体に血液が循環するような仕組みである。
つまり、
心臓=御本仏(戒壇の大御本尊)
→大動脈(別しての血脈である、唯授一人の血脈相承)
→各血管(各末寺)
→毛細血管(信徒組織)
→各細胞(我々各信徒)

であるから、この戒壇の大御本尊と唯授一人・血脈相承を根本に、この流れ通う筋目を信じる「信心」があってこそ、始めて我等へ功徳の法水が伝わり流れてくるが故に、ここのところを、総じての辺における「血脈相承」という。
であるから、この筋目次第を信じる「信心」は未来永劫に動き揺れてはいけない。かき乱し混乱させてもいけない。(←この動揺・撹乱している姿はまさに今の創価学会のざま、である)

■若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、

→この戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承、そしてそれが各末寺へ、そこから信徒へ、との筋目次第を信じる「信心」が乱れ動けば、功徳の法水は流れ通ってこない。→功徳がない。(これも今の創価学会のざま、である。)

■爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、

→そのように、既に上記のような正統な「信心」を失った者共が、あえて「私たちは正しいのよ!大聖人直結!功徳バンバンよ!」などとほざいている姿は、それは濁った血脈法水であり、正しい仏法というものは既に断絶している。→つまり真の功徳はない。(→まさにまさに、今の創価学会のざま、である)

■信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、

→この戒壇の大御本尊・唯授一人の血脈相承・各末寺への尊信、という「信心」が確立しているところには、代を幾つ重ねても、いつの世になっても正統な御本仏よりの血脈が流れ通い、仏法の真の功徳である法水が豊かに流れ伝わり、即身成仏という大果報に浴することができる。

■其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・

→その姿は、例えば世間では家訓を忠実に守る家系が血統正しい家柄として栄えるが如くであり、

■仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、

→仏法においては、大聖人様以来からの正嫡の正師であられる御法主上人、またその御法主上人の意を忠実に汲まれる末寺の御住職の御心に違背しない者こそが正しい血脈であり、法水も清らかで潤沢に流れるのである。

■仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり

→根本の大師匠であられる御本仏日蓮大聖人及び御開山日興上人以来連綿と伝持されてきた戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への信心を微塵も踏み違えない時、末の一信徒である我々の俗悪で不浄な心も、真実の善でありまた真実清浄の南無妙法蓮華経の色身となることができる。つまり即身成仏できるのである。

■此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、

→この極悪不浄の凡愚の身が、即身成仏の大果報を得る、という、大転換、大果報も、ただただ、偏に、戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への素直な信心と篤い修行によるところが肝要・最も大切なところである。

■若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)

→もしこの戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承とその意を体する御尊師への素直な信心と篤い修行、という肝心要の点を尊重せず従わず、不善で不浄な、邪まな信心、正しい信心に迷う、ものどもと成り果てて御本仏の御心に叶わず違背するときは、功徳の源泉である法水の通路=
心臓=御本仏(戒壇の大御本尊)
→大動脈(別しての血脈である、唯授一人の血脈相承)
→各血管(各末寺)
→毛細血管(信徒組織)
→各細胞(我々各信徒)
は、むやみやたらに、むなしく詰まってしまって、我々はただの元のままの三毒強盛の不幸の塊である粗凡夫そのままの色心でしかなくなり、即身成仏という大果報の血脈を授かる資格は消滅してしまう。(←まさに、まさに今の創価学会のざま、そのものである)
―――――――――――
また、上記の解釈と同様の意義として、同じ日亨上人はこう仰せである。

■「貫主上人は本仏の代官にもあり・又本仏の義にもあり・口づから命を発したる仁なれば、御前に復命せんこと亦勿論なり」

■「富士派に於ては古往今来化儀化法秋毫も乱れず、殊に宗旨の本源基礎確立して宗祖以来歴世之れを紹隆し始終一貫未だ曽て微塵も異義を雑へたる事あらざるは実に是れ宗祖の正統血脈相承を紹継せる現証にして祖書経巻を解決するに純潔正確宗祖の正意本懐を顕彰し各派に独歩超出せる所以の者も亦之れ血脈相承あるが故なり。」

■「相承に経巻あり血脈あり、就中血脈相承を最とする所以は経巻相承と云ひ師資相承と称するも皆血脈相承に附随含有せらる、故に富士派に於て血脈相承と云ふは主要なるを以てのゆへにして敢て師資経巻の相承なきに非ず、総て此れ等の相承は宗祖より歴世之れを招隆せらるるなり、」

さ、やまいぬ。君?これらへ全て、文証的確、論理明晰に、反駁してみたまえ。
それが出来なければ、自分の邪解、邪信を認め、やはりこの板上で公式に謝罪し、脱会したまえ。いいな。

随分と生意気なことを言っていたわりには、こちらが本気で破折を開始した途端に遁走か?
まっ、当方も随分と貴公を待たせた訳だから、貴公の言い訳もじっくり待つとするか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。18  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)08時06分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●少し精神に異常をきたした痴犬が朝から何やら偏執的に書き込んでいるようだが、↓創価学会の害毒によって人格が斯く破戒されるという、よき標本であろう。法華講・創価学会員双方、よくよくこのような痴犬の言動を観察していくと間違った宗教の恐ろしさを痛感する上でよき資料となろう。

では、現場での活動前に一題。
―――――――――――
> では蓮祖の「仏意」とは何か? 「一閻浮提」の一切衆生救済である。

●はい、50点。これでは留年である。
ではその、”「一閻浮提」の一切衆生救済”のために何を留めおかれたのか?
>
―――――――――――
> 「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき
> 先序のためなり。」

●いきなり何を持ち出すかと思えば。
この御文の、「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」とは何か。
ただの題目なのか?
では、身延や立正佼成会・霊友会の題目でもいいのか?
先にも破折したが、やまいぬ。痴犬は、大聖人様の本義が三大秘法であることすら全然分かってない、もはや初学者を通り越して、門外漢である。殆ど外道である。大聖人の仏法を云々するには相当に無理がある。実力もないのに無理なことをするから怪我をするのである。

三大秘法とは何か?

やまいぬ。君はこの宿題を解いてこなければ次の授業には着いて来れないであろう。
はい、すぐにカバン持って家へ帰って出直してきなさい。(あ、」そうか、今、家に篭ってシコシコ、馬鹿の癖に的外れな反論文でも書いているかもね。(^^♪)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。19  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)08時19分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●もう一題できそうか。

> 「世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す。是れ偏に身の為に之を述べず。君の為、仏の為、
> 神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。」

●だから何?
大聖人が平の左衛門への呵責をして、大聖人が「「一閻浮提」の一切衆生救済」のために留めおかれた「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」=究竟するところ戒壇の大御本尊の一大秘法を国家として打ち立てなければならぬ。と仰せであって、なんら戒壇の大御本尊を否定する文証とは全くなっていないが?
やまいぬ。君、少し精神に問題が生じてきているのではないか?
でなければ、実力がないのに御文をつつきまわし漁っても、法門の筋目が全く見えないものだから、このように論理の筋道がずれた的外れな引文しかできないのだよ。

やはり、やまいぬ。君レベルではこの板で何かを言いたければ相当に自己学習してからでないと無理そうだがね。
ま、とにかく頑張れ。応援しとるよ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。20  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時20分4秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあ、今日も現場での創価学会員折伏に励ませて頂き、小憩の後、やまいぬ。君摧破を再開しましょうか。

> 「日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す 法門なり。」

●またもや全く論法の筋道から外れて別の意趣で説かれた御文を持ち出して得々としているとは。
まことに馬鹿者の見本である。
この御文は大聖人様の御本仏としての、あふれんばかりの大慈悲心を御表示なされた箇所であって、何を顕示されるかを御教示される文脈ではないのである。
その上で、では、その「たすけんがために申す 法門」の根本の法とは?
三大秘法→畢竟、一大秘法=戒壇の大御本尊である。

■三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。

大聖人様の出世の本懐とは、まさにこの三大秘法ご御法体を顕現なされることである。
再三叩き込むが、この御法体とは究竟するところ戒壇の大御本尊である。
その戒壇の大御本尊なき創価学会が今更何ができるというのか?
とんだお笑い種である。
やまいぬ。君など、その迷走する走狗の代表選手である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。21  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時26分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●次。

> 「凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり」

●当たり前である。が、今時において「法華経」とは何を指すか?
さ、やまいぬ。君、明確に文証を引き、しかも御書に説かれる他の全ての御教示と矛盾しないような解釈をして見せてくれたまえ。
ただ「南無妙法蓮華経」では30点。落第。
「御本尊」でもまだ50点、留年否、落第かな。
もちろん「蓮祖の一切衆生救済の大精神」だなどでは、退学、である。
さ、頑張れ!(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。22  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時32分52秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ほい、次。

> 「其の時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」

●はい、その上行菩薩は釈尊から一体何を授かったのでしょう?
そしてそのたったお一人で授かった”何か”をどのような形で「一閻浮提の一切衆生にさづく」のでしょう。
よ〜く考えて返答するように。
脇が甘いとすかさず呵責の蹴りが跳びますよ。
さ、頑張れ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。23  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)22時41分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●しかし、よくまあ、次々と、自分の邪説が暴かれるような御文を引いてくるものである。
ことの本質がまるで分かっていない証拠である。

> 「而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でての後の星の光、
> 巧匠の後に拙を知るなるべし。 此の時には正像の寺堂の仏像僧等の霊験は皆きへうせて、
> 但此の大法のみ一閻浮提に流布すべし」

●一体、やまいぬ。君は何を論証したいのか。ただ闇雲に御文を乱引しているだけのぶざまな幼さである。
ま、しかし、折角この駄犬が引いたのだから、呵責しておきましょう。
「此の大法」とは何か?
はい、上記の如く大聖人一生の御化導の次第に即し説明してみなさい。
無理なら無理で、素直に謝罪し脱会届けを当方へ提出しなさい。
では、これもまた頑張りたまえ。(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。24  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 3日(金)23時09分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ほい、その次。

> 等々。
> しかして阿部日顕は対話すら拒否し、世界1000万学会員を問答無用で破門。(^o^)
> この瞬間、蓮祖仏法の根底から逸脱し、信心の上ではまさに「唯授一人血脈相承」・
> 法主たる資格を喪失したのは阿部日顕だわ。(^o^)

●ほとほと、「あ〜あ」だよね。
ここまで馬鹿だと、貴公の日常生活が如何程であろうかと心配になってくる。
いつも頑迷で、頑固極まりなく、ピント外れな理屈をこねて周りから顰蹙されていることであろう。
惨めなものである。
その根拠となる文証
■「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意に随って自然に薩般若海(さばにゃかい)に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。」

やまいぬ。君のような、根本の戒壇の大御本尊を不信して、三大秘法を蔑ろにして、自らの機根中心に、あたかも随他意の教えを信じているような邪信徒は、三毒が強盛となり、貪り深く、怒りっぽく、道理が理解できない愚かで頑迷な人格、などが形成され、世間法に於いても大いに歪み、ねじれ、ひずんで来て、他の人々との間に軋轢が多く生じ苦海に沈む、もしくは沈んでいることであろう。(意識できるかできないかに拘らず)

では、呵責。
@「阿部日顕は対話すら拒否し、世界1000万学会員を問答無用で破門。」との証拠を、時系軸に沿って証明してみせよ。
その際、客観的な文書等、証拠資料になり得るに十分耐えられる文献等を明示すること。
個人的かつ感情的な妄言は不可。憶測、伝聞も不可。である。
さ、これも頑張れ。自分で言い出したことである。証明責任は貴公にある。
楽しみに待っている。
もはや、やまいぬ。君、学会活動どころではないぞ。(-。-)y-゜゜゜

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。25  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)08時21分21秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おっ、なかなか頑張ってレポート提出してきたではないか。
感心、感心、
では、採点いきますかね。
―――――――――――
> DATE: 11月 4日(土)03時34分48秒
> TITLE: さあて。(^o^) 01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 何でもいいが樋田くん、「激忙」なる見慣れないにほんごで表現したきみの多忙とは、
> 仕事ではなくアルバム作成とライブなのかね?(^o^)
>
> おいおい、ひとがTVで僅か90分ほどサッカーを観戦しておるのを、「破折を忘れた遊戯雑談」
> だの、「破折が最優先」だのと書いた坊やが、3ヶ月以上返答不能の理由がこれかね?(^o^)
>
> 「途中まででも書けているなら出せ」だとかひとには平気で要求し、本人はその1.5倍以上の
> 期間平気で逃亡するわ、その3ヶ月以上は自分の趣味と遊びの「遊戯雑談」の極みだわ、
> 人様に云うことと自分の実践がデタラメ極まりないこの一貫性のなさ。(^o^)
> 他人に厳しく自分に大甘。(^o^) 面白い経営者だな、樋田くん?(^o^)

●ここでも、のっけから蹴躓き、である。
曲がりなりにも販売するもの作るのは”仕事”であって、「遊戯雑談」にはあたらない。
駄犬がサッカー観戦しても、それは何の生産活動にもならない。
それが為に、破折を疎かにする様であれば、それはまさに、「「遊戯雑談」の極み」である。
こういう簡単な道理が分からないほど愚癡が進んでいる、という証拠である。
―――――――――――
> >当然のように売れていくセカンドアルバム。

●↑これは一体誰の言なのか。
当方が言ってもいないことを、当方の言として引き合いに出し、それを元に何を言ってみても、まさに的外れのパンチを繰り出しスリップダウンして尻餅をついたの図、である。
以下、その駄犬がスリップダウンした詳細図をとくと記録に残しておこう。

―――――――――――
> そりゃどうも。(^o^)  ついでにこういうのはどうかね?
>
> 「Def Tech、インディーズでの新記録を樹立!!
>
> Def Techの2ndミニ・アルバム『Lokahi Lani』が初登場2位にランクイン。最高位1位、
> 累積売上100万枚を突破したデビューミニ・アルバム『Def Tech』に続いて2作連続での
> TOP3入りを果たした。
> 今週はそのデビューミニ・アルバム『Def Tech』もTOP5入り(今週5位)し、Def Techの
> アルバムがTOP5内に2作同時ランクイン。インディーズ・アーティストによるTOP5内2作
> 同時ランクインは、史上初の快挙となった。
> また、今回、同作は初動で28.8万枚を売上げ、6年ぶりにインディーズ・アルバムの初動
> 売上記録を更新。これまでは99年にHi-STANDARDがアルバム『MAKING THE ROAD』で
> 記録した25.6万枚が最高だった」
>
> 多分「売れる」ってこういうことだよねぇ?(^^)
> 無論学会のおじさん・おばさんは彼らの名前さえ知らぬ。(^o^)
> 別に隠しもしなかったが、メンバーだと改まって公表もされていなかったため、青年部でも
> 知らなかった人間は山ほどいる。(メジャー・デヴューして相当経ってから知ったひとも多い)
> ウチの男子部員のうち2人が、彼らとしょっちゅう会っていたせいもあり、幸いにして私は
> 随分早い段階で彼らのインディーズ・アルバムを聴いていたが。
>
> で、
> >当然のように売れていくセカンドアルバム。
> は何万枚?(^o^) (だって「何千枚?」とは訊けないよねぇ?(^o^) )
>
> ついでに彼らは
> >当然のように売れていく
> などとは絶対に云わない。(^o^)
>
―――――――――――
●ないものをあるがの如く錯覚し思い込んで、ご丁寧にここまで書くとは。
さすが、身延のみやげ掛け軸を”御本尊”へ昇格させるだけの馬鹿さ加減である。
―――――――――――
> ちなみに、私はあなたの作る(演奏する)ような音楽という奴は大嫌いだ。
> ジャンルが、ではない。無論好みはそれぞれだが。
> さらについでに、歳喰った人間が作り歌えば「おとなの音楽」なのでもない。(^^)
>
> さて、はじめるか。(^^)
―――――――――――
●何かを世に発表できない者はえてして”ただの批評家”で終わるものである。
貴公も、内容の良し悪しはともかく、人が曲がりなりにも購入してくださるものを創作し発表してみたらいかがか?
まっ、所詮、一人で飯作る傍らでパソコンに向かい、ピントのずれた妄執の痴文をシコシコ書いているようでは無理か?
やまいぬ。は所詮、やまいぬ。であろう。

では、生きのいいネタを料理する方が読者も楽しかろうから、最新の駄犬の駄文から処理していこう。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。26  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)09時24分30秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。」

> >●やまいぬ。君は戒壇の大御本尊を「モノ」として否定する立場である。以下。(←と、簡単に略さず載せましょう。)
それはこの↓愚劣な発言に明白である。

▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

そして、「モノ」を否定する立場でいながら、しかし完全な「モノ」である創価学会販売のニセ本尊を平然と拝んでいる。
まさに身口意の行動に一貫性がない、頭破七分そのままの状態である。
剰え、いよいよ他に拝む「モノ」がなければ「身延のみやげ掛け軸」という「モノ」を”本尊”として”昇格”させるつもりである。
他に拝む「モノ」があるうちは、身延のみやげ掛け軸は一体どのような”お立場”なのか。全く説明できていない。(出来るわけもない。)
しかも身延のみやげ掛け軸はあくまで「モノ」であることには終始一貫変化はない。
まさに、論理破綻の頭破七分の狂態である。
まさに「諸宗は本尊にまどへり」の生きた標本である。
(斯様な頭破七分者が社会にうろうろしておると物騒でしょうがない。)

であるから、この愚問↓を発する前提からして的外れの痴態であり、実に滑稽千万である。

> まず「モノ」があるから正しいのだとか、広宣流布という現実よりも「モノ」の方が大事なのだと
> 蓮祖が説かれた御文をupしてください。

その上で、この頭破七分の狂人に、大聖人様が”御本尊”という色心不二の御尊体(この愚者に言わせれば「モノ」である)を如何に大事にお考えになられていたか示そう。
―――――――――――
> アタマは大丈夫かね?(^o^)
> 何度も書いた。「戒壇本尊一物信仰」を否定しておる。論旨を捻じ曲げるな、樋田くん。(^o^)

●「戒壇本尊一物信仰」?ここが馬鹿の本領発揮である。
―――――――――――
■問ふ、成仏は法華に限ると云ふ証如何。答ふ、経に云はく「唯一乗の法のみ有って二も無く亦三も無し」文。

@一乗の法である法華経は戒壇の大御本尊へ究竟する。それ以外に成仏の法があると思うこと自体が最早外道である。
―――――――――――
■無量義は一法より無量の義を出生す

A一切の大聖人御真筆の御本尊及び御歴代上人書写の御本尊及び御法主上人御印可の御本尊の、衆生救済の御本尊としての義は全て戒壇の大御本尊より出生し給うのである。(ただし他宗他門に亘る御本尊は血脈相伝がない為に現時点では除かれる。)
―――――――――――
■百千枝葉同じく一根に趣くが如し

Bまた、一切の大聖人御真筆の御本尊及び御歴代上人書写の御本尊及び御法主上人御印可の御本尊の御本尊としての御義は全て戒壇の大御本尊へ帰入する。(同上)

以上、戒壇の大御本尊こそが一切の根源であられる。このことを信じれない者は堕獄が待っているのみ。
やまいぬ。君にはその絶対信がとれないだけである。

■夫法華経の第七神力品に云はく「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云はく「経中の要説、要は四事に在り」等云云。
 問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

ここに仰せの「実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字」とはまさに戒壇の大御本尊の御事である。
駄犬はそれ以外に求めているようであるが、そこが馬鹿者の馬鹿者たるところである。
大聖人様御一生に御顕示された御本尊中、「本門戒壇」との銘があらせられるのは戒壇の大御本尊だけである。
戒壇の大御本尊が坐さなければ「本門戒壇」の義が成就されず、結果三大秘法が成就しないこととなる。
そのような不完全なことを御本仏が為される訳がないのである。
因みに、後方で、痴犬は何やら、「戒壇の義は未来に成就する」ような趣旨のことを書いているようであるが、ここも馬鹿者の標本である。
もし、そうであるならば大聖人様は「三大秘法中の二大秘法のみしか為し得なかった未熟の仏」、とうことになってしまう。
また、広宣流布の暁に建立する本門寺の戒壇堂に安置する御本尊が未定、ということにもなってしまう。
そんな道理は有り得ない。
大聖人御存生のその御時に三大秘法をそのまま一大秘法として戒壇の大御本尊として御顕示なされたのである。

また、御書中に戒壇の大御本尊の御事をそのままお示しでない、との痴難も見受けられるが、これも馬鹿の真骨頂の箇所である。
もし、大聖人御化導の全てが御書にあるのならば、
例えば、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたまでが存して、どなたからがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになられているのか?
等々、全て御書に記されていなければならなくなる。
七百年来やまいぬ。君のような駄犬の愚問など山のように出尽くしている。
御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」文。また云く「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」如説修行抄筆記・日寛上人

との仰せの如くである。

さて、飯にするか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。27  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 4日(土)17時36分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さ、帰宅したので、次いくか。

> しかもきみはなんと書いたのだね?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> 見事な「モノ」信仰である。(^o^) そしてこれらの「モノ」あらば正しいと、蓮祖の文証挙げて
> 証明しなさいと問われて、一体なんだね、この返答は?(^o^)

●ここも悩乱して文脈が理解できなくなった駄犬そのままの醜態である。
当方が書いた趣意は、
「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」
との意味である。
それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は
@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。
Aその延長線上として、現に存在する「物体」としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)
Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。
概ね、以上の妄執に取り付かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

さて、正統、血脈正しい御本尊様に向かって、夕の勤行させていただきましょうか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。28  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)02時09分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下も既に指摘してる通り、やまいぬ。君の、浅薄な邪難の既に二手先、三手先を破折していることが理解できていないので、斯様な陳腐な反駁となっているのである。
自分が上段回し蹴りで既に吹っ飛ばされて意識を失って病院行きになっているのに、自分が一瞬で蹴り倒されていることすら自覚できぬまま、病院のベッドでまだ試合をしているような夢を見てうわ言を言っているだけのことである。
実に謗法の愚者が生意気を言うと惨めなものである。
―――――――――――
> >■御祝として餅・酒・鳥目一貫文送り給び候ひ畢んぬ。是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。
> >大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿であり、

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> おいおい、かつて「法華講きっての論客」と噂された樋田くんのこの転落ぶり、笑わずに
> おられようか。(^o^)(^o^)
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> と、これらの「モノ」ある故に正しいが如き見事な「モノ」信仰披瀝のあと突然これだ。(^o^)
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再掲

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

さて、正統な血脈正しい日蓮正宗の御本尊様の御前で、丑寅勤行をさせていただく準備に入ろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。29  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)04時27分12秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●丑寅勤行の後、一題ぐらいこなしますか。

> いいかね。蓮祖は「若童」誕生のお祝いにと心づくしの品を送られた。これが
> >大聖人様御自ら”御本尊”へ信行されていたお姿
> そりゃ結構だ。我らとてお供えもする。何故か? それが「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法
> 事の一念三千の南無――曼荼羅」であるからだよ。
> が、それが坊や主張の「真筆本尊」「興師書写本尊」「真筆御書」あらば正しい証明になど
> まったく成っておらん。(^o^) 奇妙奇天烈。(^o^) やり直しだよ、坊や。(^o^)

●これも、これまでと同様の的外れ、自分の邪信に気づかずに、見当違いな痴難をしている箇所なので、捨て置くとして、
▼「それが「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」であるからだよ。」
について、更に二手先くらいの破折をしておこうか。

@大聖人御図顕の御本尊にも、究竟・未究竟の相違があられる。

■弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

一切の大聖人様御図顕の御本尊は、戒壇の大御本尊から開会せられるのである。
つまり、大聖人御図顕の御本尊ならなんでも無闇に尊信できるということではない。
ここの筋目が見えない盲目者がやまいぬ。君ほか、沖浦妄執はじめ多くの創価学会員たちである。

Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)
まことに馬鹿である。だから身延のみやげ掛け軸も”御本尊”様に格上げされてしまうのである。
白帯の未熟者が、目隠しをしたまま、空手の試合に臨むようなものである。まさに、一撃。である。
で、
もう、そうなれば、自分が馬鹿にしきっている富士大石寺の御歴代上人が、書写された御本尊をあえてわざわざ拝む必要などなくなってしまう。
やまいぬ。君は日達上人御書写の御本尊を拝んでいるそうであるが(違っていたら訂正するが)、やまいぬ。君の理屈で行けば、個人折伏の世帯数でその人の偉さが決まるそうであるから、そこいらの学会婦人部より日達上人の方が劣るのだそうである。
その自分が「劣る」と蔑如している人が書いた御本尊より、そこいらの学会婦人部が書いた御本尊の方が尊いはずであり、まさかさすがにそこいらの学会婦人部は書かないから、立正安国会が出している御本尊の写真集などのどれでもいいから一枚を近くのコンビニでコピーでもしてきたものの方がよほど有難い、ということになる。

また、会館などでは間違いなく日寛上人の御本尊を創価学会の誰かが改竄したニセ本尊を拝んでいるはずだが、これなども、やまいぬ。君によれば、そこいらの学会婦人部の方が折伏の成果でもし、日寛上人より多いならば、優れている、偉い、尊い(趣意)となるそうであり、であるならば、わざわざ日寛上人の御本尊を担ぎ出す必要もなかろう。
何故、創価学会が日寛上人の御本尊を持ち出したのか、やまいぬ。君説では説明不能である。(これはたまたま脱落坊主がいたお寺に創価学会員に受けがいい日寛上人の御書写の御本尊が格護されており、それに飛びついた、ただそれだけの理由である。)

更にいえば、結局は誰かが書写など回りくどいことなどせず、ネットから大聖人御真筆の御本尊の写真をプリントアウトでもして、それを拝めば済む話である。わざわざ身延のみやげ掛け軸を買うまでもなかろう。
さらには自分らが否定している大聖人以来の唯授一人・血脈相承の二十六代目の日寛上人が書写された御本尊をわざわざ拝むこともなかろう。
まさに、■「諸宗は本尊にまどへり」の狂乱の態である。
因みに「諸宗」=邪宗のことである。
やまいぬ。君や沖浦耄碌などが吐く邪説は、今や創価学会そのものが、■「諸宗は本尊にまどへり」の「邪宗」それ自体に成り果てている証拠である。

実に大笑いである。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。30  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)20時54分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●飯も喰ったし、一題こなすか。(-。-)y-゜゜゜(←やまいぬ。君流)
>
> >■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。等々。
> >「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない
> >「御本尊」などあるのか。
―――――――――――
●↑いくら都合が悪い、あるいは耳障りだからといっても、略さずいきましょう。
当方の破折全文
―――――――――――
■一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。

信を失った愚者相手は実に骨が折れるものである。
「一閻浮提第一の御本尊」とは一体何であるのか。「モノ」として現実にこの世に存在しない「御本尊」などあるのか。
まさに痴犬のたわごとである。
―――――――――――
> 阿呆。(^o^) 坊やはなんと書いたのだね?
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
>
> 蓮祖御図顕の南無――曼荼羅とは書いておらぬわ。(^o^)
> そりゃ書けぬ筈だわなぁ? 学会下付の寛師書写本尊もまた「蓮祖御図顕の南無――  曼荼羅」に変わりがないものなぁ?(^o^)
> 宗門と学会の差別化を意図して
>学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
と「これらのモノがあるから正しい」が如き主張するのに、それでは都合は悪いわなぁ?
>
> (^o^) それでトチ狂って、お祝い云々?(^o^)(^o^)
>
> どうするんだね、坊や?(^o^) 最初からやり直しだよ。(^o^)
―――――――――――
●ここも、今までと同様である。やはり、二手先、三手先の破折が見えなかったようである。
何度も言うが、馬鹿にはやはり反復学習が必要である。
やまいぬ。君の妄見の枢要は、要するに大聖人様御図顕の曼荼羅状のものであれば何でも”御本尊”になりうる。という恥論に尽きる。
これは、沖浦醜人も同様である。
まことに、まことに馬鹿丸出しの狂態である。
本尊観については、既に池田大作監修の仏哲に詳しいので少々長い引用であるが、これにどう反論するか面白いので掲載しておこう。
つまりは「末法唯一の本尊は(中略)弘安二年(一二七九年)十月十二日御図顕の三大秘法の大御本尊」と断言している。
因みに、こと信仰の根幹である”本尊観”、あるいは”本尊の定義”がたかだか20数年で変貌するということは、創価学会がまさに■「諸宗は本尊にまどへり」との迷走謗法状態になった証拠である。
何故なら、以下の仏哲に説かれるが如くの”末法唯一の本尊”である戒壇の大御本尊はこの2、30年で全く何の変化もなく、創価学会がかつて信じてたままのお姿を現じておあられる。
つまり、簡単である。創価学会が、池田大作さんの変貌に伴い、その邪法邪師の言に惑わされて、”法”を忘れ、”人”に目をくらまし、根本の戒壇の大御本尊への信を失っただけの話である。
もともと、戒壇の大御本尊を大して信じていなかった者共がこぞって今、創価学会に残っている、とも言えよう。
まことに無慙な醜態である。

では、その検証の為にも、本来普遍的でなければならない「辞典」としての記述を再確認してみよう。
かつての曲がりなりにも正しい日蓮正宗の信仰を(表向きでは)貫いていた正しい”本尊観”が見て取れよう。
また逆に今、やまいぬ。君や沖浦汚臭老人や陰性の如くの邪信に成り下がったざまの、邪教に転落した創価学会員の惨めさを際立たせ、一層哀れさを誘う。
では池田大作監修 仏哲 から。
―――――――――――
本尊

 日蓮正宗の本尊 末法唯一の本尊は、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全世界民衆の依処であって、末法万年尽未来際にわたり、いっさいの衆生を救う根源の当体である。
弘安二年(一二七九年)十月十二日御図顕の三大秘法の大御本尊がこれであり、その十号は、本門寿量品の肝心 文底秘沈の大法本地難思境智冥合 久遠元初自受用報身如来の御当体 十界本有常住 事の一念三千 人法一箇独一本門戒壇の大御本尊と申し上げる。
この大御本尊は、第二祖日興上人に付属され、以後、代々の上人(猊下)に嫡嫡付法されて、奉安殿に厳護されている。
昭和四十七年の正本堂建立の暁に、正本堂に安置される大御本尊である。
三大秘法の本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を合すれば一大秘法で、本門の本尊に帰するのである。
本門の本尊を開けば、人と法になる。すなわち人の本尊と法の本尊であるが、これは二つであって二つでなく一つのものである。
ゆえに人法一箇といわれる所以である。

@人の本尊については関目抄に五重相対をとおして述べられている。
文底秘沈抄(富要三巻七六頁)には
■「久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
とあり、久遠元初の自受用報身如来が、末法に日蓮大聖人と再誕されたのである。
本門の本尊でいうならば、中央首題の南無妙法蓮華経の七字の下に書かれている日蓮が人の本尊に当たる。

A法の本尊については観心本尊抄に五重三段を立てて述べられている。
文底秘沈抄(富要三巻七一頁)に
■「事の一念三千・無作本有・南無妙法蓮華経の御本尊是れなり」
とあり、文底の事の一念三千が三大秘法の南無妙法蓮華経である。
本門の本尊でいうならば中央首題の七文字が、法の本尊に当たる。

B人法一箇とは釈迦仏法の人が劣って法が勝れている本尊観に比して天地雲泥の差のある本尊観である。
文底秘沈抄(富要三巻八三頁)に
■「前に明す所の人法の本尊は其の名殊なりと雖も其の体是れ一なり、所謂人即是れ法・自受用身即一念三千なり法即是れ人・一念三千即自受用身なり、是れ則ち正中の正・妙中の妙なり、即ち是れ行人所修の明鏡なり」
とある。すなわち人に即してこれ法のゆえに事の一念三千の大曼荼羅をもって主師親となす。
法に即してこれ人のゆえに久遠元初の自受用身即日蓮大聖人をもって主師親となす。
人法の名は異なれどもその体は一である。
―――――――――――
ほんもんかいだんのごほんぞん
【本門戒壇の御本尊】
ほんもんかいだんのだいごほんぞん
【本門戒壇の大御本尊】

末法の御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、末法尽未来際にいたる一切衆生のために、弘安二年(二一七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大更茶羅のことである。
本門の本尊ともいい、また三大秘法総在の本尊ともいう。
この大御本尊は第二祖日興上人に付属され、現在にいたるまで六有数十年にわたって、代々の御法主上人猊下によって厳護され、法灯連綿として日蓮正宗総本山大石寺に伝承されてきた。
現在、正本堂(※もちろん現在では奉安堂であることは言うまでもない)に安定されている本尊である。
戒壇の大御本尊は、昭和三十年十一月までは御宝蔵に厳護され、昭和四十七年十月七日に、総本山大石寺に完成した正本堂へ、奉安殿から御遷座されて、今日に至っている。
つぎにこの御本尊について述べるにあたり、はじめに本門戒壇について明かし、ついで本門の本尊について述べることとする。

一 本門戒壇について
一般に戒壇とは、戒を授ける壇をいうが、日蓮大聖人の仏法では、本門戒壇とは本門の本尊を安置し信心修行に励む場所をいう。
本門の戒壇には義と事がある。
義の戒壇とは、本門の本尊所住の処は、いずれの地であっても授戒の増場としての内容が整っていて、その義が戒壇にあたるから、義の戒壇という。
事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が安置されるところである。
大聖人の仏法では、戒壇とは、全世界の人々の懺悔滅罪の道場であり、全人類が平和を祈願する根本道場を指しており、大御本尊に唱題し、帰命する所をいう三大秘法抄に、本門の事の戒壇について
■「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」とある。

また南条殿御返事には
■「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」とある。

つぎに本門戒壇建立の地について述べるならば
三大秘法抄の
■「霊山浄土に似たらん景勝の地」とは、日本の富士山をさす。
日蓮大聖人の
身延相承書には
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と明白に遺言されている。
また本門戒壇の大御本尊の授与書には
■「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」とあり、
また日興上人より日日上人への譲り状たる日興跡条々の事には
■「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊日日に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」とあり、
百六箇抄には
■「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とあり、
また同抄には
■「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」とある。
嫡嫡相承の曼荼羅とは大聖人弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊であり、本門戒壇の大御本尊を正式に御安置すべき本門戒壇は富士大石寺に建立すべきことを決定されているのである。
産湯相承事には
■「叡山の頂に腰をかけて近江湖水を以て手を洗うて富士の山より日輪の出でたもうを懐き奉ると思うて…日蓮は富士山自然の名号なり、富士は部名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」とある。
しかして、日蓮正宗においては、第二祖日興上人以来、身延相承書の
■「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の遺訓を堅く守って、広宣流布に邁進してきたのである。
さらに本門戒壇建立の時期について、日蓮大聖人は三大秘法抄並びに身延相承書に
■「時を待つべきのみ」
といわれ、本門戒壇建立を滅後に遺付された。
土木殿御返事には
■「日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か……但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか」といわれ、
諸法実相抄には
■「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」とある。
すなわち、本門戒壇建立の時代的・社会的背景として、日蓮大聖人が指摘している条件は、正しい宗教の基盤が確立し、その広大で豊かな宗教の土壌のうえに、政治、経済、教育、文化等の諸活動が展開される時代のことである。
したがって、本門戒壇の建立というのは、そうした宗教革命、信仰者個々人の生命の変革を根底にした、総体革命の進行をその背景とするのである。

二 本門の本尊について
本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に図顕された未曾有の大曼荼羅のことであり、一閻浮提総与の御本尊のことである。
この本尊こそが、日蓮大聖人の出世の本懐であり、全人類を即身成仏させえる大御本尊である。
また本門の本尊に法の本尊と人の本尊がある。
法の本尊とは、事の一念三千・無作本有の南無妙法蓮華経である。
人の本尊とは、久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・日蓮大聖人である。
この人法の本尊はその名が異なるけれども、その体は一であり、人即法、自受用身即一念三千である。
また法即人、一念三千即日受用身である。
これすなわち正中の正、妙中の妙なのであり、本門の本尊こそ行入所修の明鏡である。
観心本尊抄に「観心の本尊」が明かされているが、これは「本門の本尊」と同義である。
「本門の本尊」「観心の本尊」の実体は、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に建立された本門戒壇の大御本尊である。
日寛上人の観心本尊抄文段上の首文には、本門の本尊について、つぎのように説かれている。
■「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり、此の本尊に人有り法有り、人は謂く久遠元初の境智冥合、自受用報身、法は謂く久遠名字の本地難思境智の妙法なり、法に即して是れ人、人に即して是れ法、人法名殊なれども其の体恒に一なり、其の体一なりと雖も而も人法宛然なり、応に知るべし当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ、是れ則ち諸仏諸経の能生の根源にして諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳・十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸く此の文底下種の本尊に帰せざる莫し、譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し、故に此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり、妙楽の所謂『正境に緑すれば功徳猶多し』とは是れなり、此れ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行入所修の明鏡なり、故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当て一期の大事なり』等云云」と。
このように日蓮大聖人の仏法の根本は弘安二年十月十二日建立の本門戒壇の大御本尊である。
しかして現在まで日蓮正宗総本山大石寺に清純に伝承され、昭和四十七年に完成した正本堂にご安置されている御本尊である。
日蓮大聖人は御一代の間に、いくつかの御本尊をしたためられ、信心に励む在家出家の弟子檀那に授けられている。
その御本尊を一機一縁の御本尊といい、日蓮大聖入滅後、第二祖日興上人は本門寺建立の時には本門戒壇の大御本尊のもとに結集されるべきであると命ぜられている。
―――――――――――
さて、ゆっくり屋上の露天ジャグジーにでも入ってくるか。(-。-)y-゜゜゜
やまいぬ。君、古いネタはもう根本に於いては破折仕切って飽きてきたので、これら最新の破折に対しての苦しい弁明が聞きたいものである。
頑張れよ。
以下、貴公の一手前の古呆けた内容をいくら弄って見てもつまらん。
貴公が再反論不能で沈黙を続けていれば、しかたないから、悉く完全に微塵切りにして差し上げるがね。
しかし、あまりにも低劣すぎて正直当方の勉強にならん。
読者もつまらんであろう。
さ、最新の足掻きを見せてくれたまえ。
生きのいいネタでないと当方も食指がなかなか伸びん。
さ、さ、地域のイベントも終わったことであろうし、頑張って飯の支度しながらキーを叩き給え。
この板へ挑戦したからには当然それだけの労力は覚悟していたはずである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。31  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)23時06分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さあて、ゆったり風呂にも入ったことだし、次。
―――――――――――
> ■先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる
> 人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。
> ■日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。
> ■又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。
> ■日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 ■あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。
> ■妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。
>  此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり。此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず。
>
> >類文繁多であり、あくまで御本尊が根本であり、その御本尊を広めることこそ広宣流布である。
> >当たり前である。
―――――――――――
> その通り、当たり前だよ、坊や。(^o^) しかしこれすべて、坊やが最初に書いた、
> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。
ある故に正しい文証になどなっておらぬわ。(^o^)
> 戒壇本尊すら御図顕前の文証並べてどーするんだね?(^o^)(^o^)
> 当然ながらきみがズラズラ挙げたこの中に、いあたの1箇所とて「戒壇本尊」の
> 4文字なし。(^o^)(^o^)
> まして「什宝」? 「真筆本尊」? 「興師書写本尊」? 「真筆の御書」?(^o^)
> だーから何度も書いておろう? 「モノ」信仰だと。(^o^)
>
> しっかし小学生以下のくだらんはぐらかしだ。(^^) 坊やはこう書いたのだよ。
>
> >創価学会などに何の什宝がありますかね?
> >大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?
> >日興上人の御本尊様は?
> >御真筆の御書は?
> >創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。
>
> これらの「モノ」あらば正しいことを証明せえと問えば、草木成仏だとか「お前らの御本尊も
> モノだろう」とか、長々と論旨を捻じ曲げて得体の知れぬ「反論」のつもり。(^o^)
> 当たり前だ、寛師書写本尊も「物体」だ。しかし「特定の物体あるから正しい」など
> 我らは主張せぬし蓮祖の御聖訓にもそのような主張はない。(^o^)
> しかも先に坊やが挙げた「文証」は、見事にどれも、坊やの主張の「文証」には
> なっておらん。(^o^)(^o^)(^o^)
> 3ヶ月以上の遊戯雑談の結果がこれかね、坊や?(^o^) さっさとしてもらおうか。(^o^)
―――――――――――
●ここも、やまいぬ。君こそが的を外して空回りしているので、再度(再々度)忍耐強く躾けますか。
本当に躾けの成っていない氏育ちの悪い駄犬には苦労させられるわ。

再掲(再々掲)
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再掲

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。
―――――――――――
●もはや再掲文だけで事足りる。
とりあえず、次行きますか。

因みに沖浦痴老人、予想通りの食いつき。
沖浦恥老人の言いがかりは全く根拠のない伝聞であり、質問文形式であろうがなかろうが、いずれにせよ、斯様に執拗に中傷文を投稿゚すればするほど、当方にとって裁判上に有利な証拠が積み重なることとなる。
ここで、再々度の(既に数度以上に及ぶか)警告をする。
根拠もなくしかも事実無根の内容をこのような再三再四の警告を無視して繰り返し投稿を続ければ、やはり法的手段に訴えざるをえない。
相当量の証拠が固まった時点で、当方も法律関係者と相談し、しかるべき処置をとることになろう。
沖浦老耄におかれてはその点十分に心しておくべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。32  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 5日(日)23時46分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●”死人に口なし”とはよく言ったものである。
亡くなった故人の言動を後の者が自分に都合よく切り貼りして、自己正当化を図る。
やまいぬ。痴犬はその代表格(というのはちょっと褒め過ぎか。(ーー;))であろう。

> >戸田先生云々。
↑この段も一応全文掲載してから先に進みましょうか。

再掲
●因みに創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。
くどいようだが、貴公のレベルに合わせて説けば、折伏経典にあるとおりである。
曰く
☆富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。

☆信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。

☆三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。

☆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。
―――――――――――
> 坊や達が都合のいいときにだけお名前を挙げる戸田先生はな、僧俗和合を目指す上で、
言葉の上でははっきりと「ダブル・スタンダード」とも取れるなさり方をされた。
> 何故か? そうでもせねば坊主どもは学会と和合しようなどとしなかったからだよ。
>
> それが牧口・戸田両先生への登山停止であり、戸田先生は2度も停止されておる。
> 折伏・広宣流布に邁進する学会を、教義上確たる理由もなく登山停止。
> ――ただの権威主義である。
> それに対して戸田先生はなんと仰ったか?
>
> 「一、折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。」
> 「一、神本仏迹論なんて言う坊主は化物坊主だ。」
> 「一、化物坊主と寸鉄居士の大喝でおこった坊主があるげな。寸鉄居士その坊主を呼んで曰く
> 「第六天坊主」と。」
> 「一、日興上人の御遺戒置文を守って居られる方は御坊様、守らん僧侶は坊主、邪宗の僧は
> 高等乞食というんだ、よくおぼえておけ。」
> 「御僧侶を坊主と言った覚えなく、坊主を僧侶と呼んだおぼえはない」
> 「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めだそうな、物騒な世の中になったものだ。
>
> 一、 忠義を尽して謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて「登山まかりならん」と
> おしかりさ。弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ。
> 一、 何が「フン」だい。決ってるじゃないか、日本全国の信者の声だってさ、嘘もよい加減にしろ、
> 折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許(ばか)りを知っとる坊主の学会に対するやきもち
> だからさ。
> 一、寸鉄居士会長に御伺いをたてたら「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ。
> 一、こらこら騒ぐな「ニヤリ」を説明してやるからな、
> 如説修行抄に仰せあり
> 「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の
> 経を聴聞し始めん日より思い定むべし」。三類の悪人の仕業の中に「遠離塔寺(おんりとうじ)」
> と言って寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
> さて、我等が会長に折伏の大将として一大名誉を贈ったのさ、「遠離塔寺」と云う仏様からの
> 勲章なんだ。
> 一、 寸鉄居士ニヤリとして曰く、宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ。」
>
> 見事である。(^o^)
>
> ここまでボロクソ云われておるものを、2006年の今ごろになってなお、戸田先生の指導なり
> 「折伏教典」なりにしがみつく法華講よ、惨めだなぁ?(^o^)
―――――――――――
●なるほど。戸田氏の発言の二面性に関しての貴公の立論の根拠そのものは貴公の推論に過ぎぬから、貴公の妄執であると談じられてもそれを覆す文献的証拠を出すことはできまい。が故に、全くそのまま採用するわけにはいかないが、戸田氏がかく発言したことは事実である。
丁度良かった。であるから(←御宗門や御僧侶を闇雲に批判した言動も見受けられる、という事実)戸田氏の臨終の相は貴公ら創価学会が(かつては当方も)信じ込んでいる”伝説”とは随分に違うようである。

以下、その体験記事を掲載する。
―――――――――――
【対談】

けっして触れたくなかった真実

 創価学会はいつから誤っていたのか!?

 創価学会が今日のような大謗法団体となってしまった原因について、これまで様々な分析がなされてきた。その大半は、第三代会長・池田大作の無信心・大慢心に起因する、との見方であるが、はたして、それが全てといえるだろうか。
■「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もあるように、真に清浄なる源から突如として濁流が流れ出す、ということは考え難い。やはり池田の大謗法を生む要因は、それ以前から学会の中に伏在していた、と見るべきであろう。この対談は、今まで触れられなかった、二代会長当時の誤りについて言及したものである。


話し手
    元・創価学会広報部副部長 小川頼宣氏

    元・聖教新聞社職員      原島昭氏
※原島昭氏は、創価学会理事長・公明党初代委員長を歴任した原島宏治氏の長男で、元・学会教学部長だった嵩氏の兄)
―――――――――――
戸田会長の忠誠≠ニ、行き過ぎた宗門批判
強信者≠ニいえど仏法の裁きは厳然
―――――――――――
小川  いろいろお伺いする前に私の想いを申し上げておきたいのですが、私は戸田城聖会長を心から尊敬しています。それは牧口氏や池田大作と違って、戸田会長は、戒壇の大御本尊を唯一絶対と信奉し、代々の御法主上人を大聖人と仰いで忠誠を尽くしたからです。

原島  そうですか。

小川  ところが、どうしても引っ掛かる点があって、いつかはハッキリさせなければいけない、と思ってきました。
 それは、戸田会長の数多くの論述の中で、ただ一つ「創価学会の歴史と確信」と題する論文の中に、日蓮正宗宗門を揶揄し批判した内容があること。
 また、当時の『聖教新聞』の「寸鉄」欄に、宗門御僧侶方に対する酷い悪口が、それこそ口を極めて書いてある。
 たとえば、学会がこれだけ折伏したのに宗門は大事にしてくれない、という感情から書き殴ったと思われるものの中には、「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」から始まって「化物坊主」「第六天坊主」などという書き方がしてあります。
 それから、学会で御書全集の発刊を発願した時に、諸般の事情で宗門を挙げて協力してもらえなかったことについては、
 「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」
などと揶揄していますし、昭和二十七年のいわゆる狸祭り事件≠ニ呼ばれる騒動で、いかに謗法行為を憎んだからといっても、すでに反省悔悟している某御僧侶に対し、総本山内で大勢の学会員が暴行に及び、後日、その行為について、宗門から厳しく処分があったところ、「寸鉄」では、
 「忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子一同『俺達も一緒に登らんわい、フン』だってさ」
 「宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ」
などと不遜極まりないことを書いています。
 また、その翌年の「寸鉄」では、
 「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか」
等、さらに口汚ない悪口誹謗がなされています。
 これらは、記名記事ではないものの、学会の中では「戸田会長が執筆した」というのが通説となっていますし、仮にそうでないとしても、こんな内容を機関紙に連日のように載せていた、責任者としての失は免れないと思います。

原島  そうですね。じつは昭和二十五年頃の学会の座談会で、「歌を忘れたカナリア」という童謡を歌っていたことがあるんです。それは、辻武寿理事が幹部会で皆に歌わせ、戸田先生も認めたことから始まったそうですが、歌を忘れたカナリアというのは、折伏を忘れた日蓮正宗の御僧侶と法華講のことを指している、とのことでした。
 いくら学会が大折伏をしている、といっても、これは信心の姿勢から言えば傲り、驕慢ですよね。
 それから、先程の「ゴシュ」と「ゴショ」というのは、戸田先生が好んで用いていた洒落ですね。私の家には、戸田先生から戴いた「御書会も御酒会も同じ法の友 霊山までも飲みに行かなむ」という色紙もあります。このことから見て、先程の「寸鉄」を書いたのは、やはり戸田先生なのでしょうね。

小川  ですから私は、戸田会長の信心は、根本のところでは立派であったと思うんですが、同時に見過ごすことのできない瑕瑾もあった、というのが事実だと思います。
 おそらく、それは、戸田会長が心底から敬愛した牧口常三郎氏の獄死に対する無念の想いと、講義の最中でもウイスキーをガブ呑みしていた程の酷いアルコールの影響が相俟って、時折に宗門誹謗の言動が飛び出してしまったのではないか、と考えます。

原島  なるほど。
―――――――――――
「師匠が地獄の相で死んで」と池田
真の追善供養は正邪を峻別してこそ
―――――――――――
小川  それから、これを述べることは私としても本当に断腸の思いですが、仏法の因果を覆い隠すわけにはいかないので、お話します。
 池田大作が三代会長に就任した翌日、原島嵩氏に
 「君は、私の弟子になるか!弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行くというのが弟子だ!」(『前進』昭和五十二年五月号)
と語った、というのは有名な話ですが、私はこの内容に引っ掛かりました。
 というのは、池田大作が語ったのは、単に「師匠が地獄に堕ちても疑わずについて行く」という、一般論的なものではなく、「師匠が地獄の相で死んでいったとしても」という、極めて具体的な表現です。
 原島嵩氏も、この衝撃的な表現が印象に残ったからこそ、そのように記録したと思うんですが、私は、これは池田の実体験に基づく発言ではないか、と感じたわけです。
 そして、いろいろ調べていったところ、原島さんのお父さんである原島宏治氏(※故人。学会理事長・公明党初代委員長を歴任)が戸田会長の臨終の相を拝見しており、それによると、口が大きく開いてしまっていた、と……。

原島  ……。

小川  このことは関係者も固く口を閉ざしていますし、私も数年前に知って以来、途方に暮れて、口外せずにきました。しかし、大聖人は、
 ■「此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(賛嘆)し、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口をあけずしてや(病)まするがごとし」 (御書一四八二)
と仰せられています。いたたまれない思いではありますが、このことをどこかで明らかにしなければ、学会初期からの宗門誹謗が、あたかも正しい信仰として罷り通ってしまい、かえって、いつまでも戸田会長の苦を増長させることになって、真の追善供養にならない、と思うのです。

原島  そのとおりですね。私もそう思います。……父がそのように述べていた、ということは知りませんでしたが、じつは、私も見ているんです。
 戸田先生の葬儀において、斎場でいよいよ最後のお別れということになり、棺の蓋が開けられた時に拝見しました。他にも私の前後に、棺の傍らでお別れの対面をした本部職員が数人いました。
 それは、大聖人様が仰せられているような成仏の相や、私の身内が亡くなった時の色白で半眼半口で柔らかな相とは、全く違う、苦悶の相でした。口が大きく開いて、色も黒くなっており――。
 私は、それで当時の創価学会の在り方に疑問を持ち、もう、心からは従えなくなったんです。

小川  やっぱり、そうでしたか。
 私は、池田が原島嵩氏に話した内容からみて、この戸田会長の臨終を池田がどう捉えたか、というと、池田は、戸田会長の信心の瑕瑾に気付くのではなく、むしろ、「あれほど信心一筋に頑張ってきた師匠でも地獄の相で死んでいった、地獄も仏も無かったのだ」と受け止めたのだろうと思います。
 つまり、この瞬間に、池田大作の中にわずか残っていたかもしれない信心のカケラも、根本的に吹き飛んでしまった。
 だからこそ、池田は、御本尊模刻・血脈否定・戒壇大御本尊蔑視・宗門誹謗等々といった大謗法を、恐れ気もなく犯し、自身の天下盗り≠ニいう野望に突っ走ることができたのに違いありません。

原島  そのとおりだと思いますね。

小川  ■「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もありますが、私はこの際、創価学会の謗法化の原因を全て明らかにして、二度と再び同じことを起こさない、その指標とすることが大切だと思います。
 そのために、明らかにしたくないことも、あえて明らかにせざるをえない、というのは、やむをえないことだと考えます。
 そして、戸田会長の大きな遺徳は遺徳として、その恩を被っている者が、今度は正しい日蓮正宗の信心をもって仏祖三宝に御奉公していく、その功徳が全て戸田会長に巡っていくものと信じます。

原島  そうですね。それが『報恩抄』にも示される報恩と追善供養の在り方だと思います。
 私としても、戸田先生は父母が長年、師と仰いだ方です。これまで一言も他人に洩らさずに来た、戸田先生の臨終について述べるのは、身を切られるように辛いものがありますが、令法久住のために、また戸田先生に対する真の追善供養のためになるなら、きっと先生も喜んで許してくださるものと信じています。

小川  ともあれ、創価学会ができた昭和初期の頃は、まだ本宗信徒の中に正しい信心の在り方というものが徹底しておらず、そのため、時として、宗門軽視や在家中心主義を叫ぶ法華講員も出てきたようです。
 それは今日で見れば異端ですが、そうした中の突出した一人として牧口常三郎氏が現われ、また、その思想的影響を、そのまま全てとはいいませんが、かなり戸田会長も受けていたのだと思います。
 したがって今日の私達は、過去に創価学会で教えていたことなどに一切捉われることなく、あくまでも、日興上人の御遺誡置文や日有上人の化儀抄に示される、本宗の正しい信心の在り方を一から学び、身に付けていくことが大切でしょうね。
―――――――――――
この偽らざる真相について如何思われるだろうか。
創価学会戸田第二代会長においては、宗門外護・発展の為の様々な功績があったことは動かしがたい歴史である。しかしその反面上記の如くの御僧侶軽視の思想や問題発言があったこともまた否めない事実でもある。
・・・ともあれ、その後、御法主上人と多くの御僧侶に追善供養された功徳によって、必ずや救われたと信ずるものである。【対談】
―――――――――――
●ちなみにこの折伏経典の引用は「貴公のレベルに合わせて説けば、」との前置きでのことであり、もし、それを受け入れないとするならば別にそれはそれでかまわないのである。
所詮折伏経典は正統な文証足りえないからである。
では、「創価学会販売のニセ本尊をどんなに広めても「広宣流布」とはならない。」理由を、次回更に深く掘り起こして呵責しよう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。33  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)09時05分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さて、朝飯前に一題行くか。(^^♪

> DATE: 11月 4日(土)03時34分48秒
> TITLE: さあて。(^o^) 01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:


> ついでだから教えてあげようか?(^^)
> 戸田先生と堀日亨上人が仲がよかった(というかウマが合った)というのは有名な話だが、
> こういう話もある。
>
>※1 「代々の猊下にも色々な癖があり、癖というものは変わるものではありません。いまの
> 御隠尊猊下・日亨上人は、ガタガタと金づちの音がして、建築さえあそばしていれば、
> ご機嫌がよろしいといわれる凡夫の姿でありますから、一向に差し支えないのであります。」
>
> ※2〜稀代の大碩学・堀日亨上人と戸田先生は、互いに豪放磊落な方だという。
> かつ教学研鑚のために最重要な御書編纂にあたって、学会からの申し出に宗門からただ一人
> その任にあたるなど、学会との僧俗和合を大事にしてくださった堀日亨上人を戸田先生も
> 敬愛しておったことは充分に窺い知れる。
> しかし、こと現実の広宣流布においては、本来率先して如説修行に励み、蓮祖のお心を
> 戴して折伏弘教・広宣流布の先頭に立つべき法主である堀日亨上人が、ではその側面に関して
> どうであったか? 戸田先生はまったく評価していないことが伺える。
> 短い言葉の中に、
> 「供養して伽藍を整備しておればそれで満足か? 広宣流布はどうしたんだ!
> あなたは何故動かない? 何故宗門を動かさない?」
> という折伏の大闘将・戸田先生の心がひしひしと感じられる。〜※2

●長々と書いている割には、内容がない。
@※1の確たる”出典”を明示していただこうか?
A※2のやまいぬ。君個人の”感想”など、教義的な対論の遡上では全く論外の話である。
B仮に※1の内容が戸田氏の事実の言と貴公が証明したとしても、※2の解釈は貴公の歪んだ見方から生じた一方的なものであり、全くの客観性がない。落第、もしくは課題提出やり直し、である。
実に脇の甘いことを平然と書いてこれるものである。
さすが身延のみやげ掛け軸が”御本尊さま”に見えるという僻眼の持ち主の為せる業である。呵々 (-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。34  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)10時12分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは

ここも、略さず行きましょう。多少長くなっても、それが読者にとっても分かり易いのではないか?
それとも読者に分かり易いのは、やまいぬ。君にとっては何か困ることでもあるのか?
―――――――――――
この段の当方の破折文

●「今の創価学会が販売しているニセ本尊はまさにここで痛烈に呵責されている通りの情けない謗法物である。
それは身延のみやげ掛け軸も同様である。
やまいぬ。君、謗法の毒気その心中深く入ったが故に、哀れ哀れ、ニセモノの謗法掛け軸同士を仲良く”本尊”と見違えているのである。
まっ、創価学会販売のニセ本尊をニセと見破れないものが身延みやげ掛け軸を謗法を見破れないのは至極当然の結果というべきであろう。

■臭きを溷厠に忘る。

と大聖人様が呵責された謗法者そのままの迷妄ぶりである。 」
―――――――――――
> はい、「身延の信行」ではなく「身延みやげ掛け軸」こそが謗法であること、蓮祖・興師の文証
> 挙げて証明しなさい。(^o^) きみには出来まいが。(^o^)

●では、いよいよ正統な御文証を以って、やまいぬ。君の”身延のみやげ掛け軸信仰”(もちろん創価学会販売のニセ本尊への信仰も同様であるが)の邪信を斬り倒しますかね。

結論

つまりは、身延のみやげ掛け軸にも創価学会販売のニセ本尊にも正統な草木成仏の”開眼”の義が全くない。
成仏の本義がない「モノ」を本尊と崇めば、それは謗法行為である。またその似非本尊様の「モノ」は謗法物である。
当たり前の道理である。
―――――――――――
文証

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。(四条金吾釈迦仏供養事建治二年七月一五日 五五歳 993

●大聖人様が”開眼の意義”を仰せである。
―――――――――――
■形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

●邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。
”開眼の義”を否定する輩どもも同様である。
―――――――――――
■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

●「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。
―――――――――――
まずはこの位にしておきますか。
これに対してのやまいぬ。君の反駁のレベルを見てから次の段階の呵責に行きましょう。
ただし、釘を刺しておくが、
御文を拝する時の、権実相対の付文の辺と、その御文から大聖人様が仰せ遊ばされようとされる元意の辺の筋目があることをよく領解した上で反論しないと、手酷い反撃に遭うことになるから、十分お気をつけて。

では、頑張って、反論してみたまえ。
―――――――――――
因みに、今思いついたが、「戸田氏はダブルスタンダード(=仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること。)だった。」というやまいぬ。君説。
ここで、やまいぬ。君ら本尊に迷う創価学会員を呵責する為に引用したのは「折伏経典」の「本尊論」である。
では戸田氏はこと”本尊”に関しても、本音と建前があった、ということだな?
こと、根本として尊仰する対象である”本尊”に、表の意義と裏の意義があった。戸田氏はそう解釈し、またその表の面だけを「折伏経典」に書いた。ということだな?
ではやまいぬ。君に説明願おうか。

@折伏経典にある以下の内容が戸田氏のダブルスタンダードの表の面だとすれば、その裏の意義をここに挙げてみせよ。
Aまたそれはどの文献にいつ掲載されたのか。立証せよ。
この@Aを明確に証明できなければ、「本尊に関して戸田氏に本音と建前があった」などとするのはやまいぬ。君のただの妄断であって、全く採用するに足らない恥論である。
そういう根拠なく痴論を吐く行為は謗法であるから、ここに公式に謝罪し脱会届けを提出したまえ。

☆ 富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。
☆ 信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。
☆ 三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
☆ 御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。

さてさて、謗法者の浅はかな、かつ根深い妄執とは斯くも無慙で無残で無惨なものである。 (心になんら恥を知らず、乱暴な恥論を展開し、しかも手酷く呵責されて惨めな醜態を晒す。等の意)

さ、ぼちぼち、やまいぬ。君、脱会届けと公式謝罪文の準備を始めたら如何か?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。35  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)13時19分7秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 


> >1、戒壇の大御本尊様こそ根源
> >寛師云々。
>

↑ここも、同様である。当方の投稿は貴公のような軽薄な内容ではないのだから、貴公自身が熟読玩味するためにも、全文載せたまえ。
馬鹿は馬鹿なりきに”読書百遍、意自ずから通ず”という謙虚さに徹しなければいかんな。

✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●またまた恥論大爆発である。
>
> 「モノ」ある故に正しい、というのであれば、あなた方宗門・法華講などは身延にすら
> 勝てませんし、蓮祖所縁であることが正しいなら、あなた方は身延をはじめ、蓮祖所縁の
> 寺々にすら勝てません。なにせ蓮祖ご自身は、大石ヶ原など踏まれてさえいませんからね。
> (^o^) 750年も経って、ロクに広宣流布を進められない宗門がどんな優れた「モノ」を
> 持っていても、すべて「猫に小判」です。
―――――――――――
●しかし、ここまで愚かだと反論するのも馬鹿馬鹿しくなるが、この程度が創価学会の邪義の中堅クラスであろうから、労を惜しまずいきますか。

1、戒壇の大御本尊様こそ根源

日寛上人

■教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来心中深秘の大法なり、故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。

■今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。

 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。
(中略)
 四には末法万年の総貫首の所栖なるが故に。謂わく、血脈抄に云わく「日興を付弟と定め畢んぬ、而して予が入滅の導師として寿量品を始め奉るべし、万年已後未来までの総貫首の証拠なり」等云々。
(中略)
 学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く、三師の相承虚しからずんば富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名づけ、一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり。天台の所謂「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討ぬ」とは是れなり。

●普通に素直な心で拝すれば分かることであるから詳細な解釈は省略するが、やまいぬ。君ら謗法者は、この「広宣流布の根源」であられる戒壇の大御本尊様を不信し、誹謗し、軽侮し、愚弄するが故に、思い上がって憍慢になり、真の功徳である成仏の境涯など全く得られないのである。
―――――――――――
2、広宣流布の定義

再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。
真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。
戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。
つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。
そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。
創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。
やまいぬ。君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。
まさに■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」の醜態を地でいく勇ましさである。
であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。
こういう者を無慙の人というのである。
日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くべきであろう。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽

> あのねぇ樋田くん? 久遠元初の三宝とは絶対信の対象だよねぇ?
> その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
> 何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)
>
> 上記した堀日亨上人と同じだ。
> 寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?
> 「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を
> 顕された蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。
> 「戒壇の大御本尊様こそ根源」だと主張したいのだろう?
> ならば蓮祖・興師の言で充分可能だわなぁ? はいどーぞ。(^o^)
―――――――――――
●こうしてみると、やまいぬ。君が如何にまっとうな反論に窮しているか手に取るように分かる。

まず、やまいぬ。君の妄執を要約してみよう。

@やまいぬ。君は日寛上人を「現実に広宣流布を大して進めなかった、蓮祖の思いを実現できなかった人間」として激しく軽侮している。
Aそれは、大石寺の日目上人以下全ての御歴代上人に対しても同様に軽侮している。
B文証としては大聖人、日興上人しか認めない。
C「戒壇の大御本尊こそ根源」との義を認めない。(←大聖人御図顕の曼荼羅の格好をしていれば何でも”御本尊”としていい。との考え)

・・・あれ?、なんだ、纏めてみると、やまいぬ。君の邪執など、所詮これだけの、この程度のものである。
やはり本物の”馬鹿”である。(-。-)y-゜゜゜

やまいぬ。君は@であるからBについて ←既にこの子供じみた矛盾については大いに哂ってあるので、再掲する。
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文証の引き方

このやまいぬ。君という駄犬は、御書と日興上人の御指南しか信用しないという立場で、しかも日寛上人の御指南も当然用いないという大馬鹿さ加減、大炸裂の痴犬であるが、以下の矛盾に気がつかないとすれば、もはや常人の域を逸脱している狂気の世界の住人である。

このやまいぬ。君ら狂気の駄犬の矛盾に満ち満ちた言い分はこうであろう。(学会員の心中を説明するとこうなるか。)

★日寛(上人)が言うことは「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」であるから、全くあてにならないし、信用していないが、日寛(上人)が信じていた戒壇本尊というニセ物を書写した本尊の中で、

1、淨円寺の住職だった大行阿闇梨本證坊日證授与の本尊だけが何故か特に気に入って、
2、きっとこの本尊だけが宇宙本源の法を顕しているような気がするので、
3、それを写真に撮って、
4、画像をパソコンへ取り込んで、
5、でもこの『本證坊日證』という個人宛の授与書きは、全世界の学会員に販売するにはちょっと具合が悪いので、
6、そこの文字はザックリ削り落として、
7、他も全体に古くて痛んでいたから、コントラストや白黒のレベルを調整したり、
8、シミなどの部分は漂白するように白く補正して、
9、字も外人にもうけがいいように見栄え良く伸ばしたり書き加えたりして
10、大いに修正・加筆・補正を加え、
11、安く仕上げる為には、和紙だの表具だの言っていたら儲からんから、
12、一枚多色刷りで掛け軸状にみせかた本尊だから、
13、実にありがたくて、
14、功徳もバンバン出るというし、
15、最初はちょっと気味が悪かったけれども、
16、みんな平気な顔して拝んでるし、
17、きっと『みんなで拝めば怖くない』だから、自分も拝んでいる。

↑この中学生が読んでも容易に理解できる噴飯ものの大矛盾に気がつかないとすれば、まさに頭破七分で正気を失っている姿である。
更に、やまいぬ。君は、身延のみやげ掛け軸でさえ条件付で”御本尊”なり得ると言うのであるから、もはや馬鹿につける薬なし。馬鹿は死ななきゃ治らない、的に重症である。(因みにこの件を知り合いの学会員に詰問したら、はっきり「身延のみやげ掛け軸は謗法だ。」と言下に即答したが?同じ学会員同士でこうも真反対に見解が違う状態が、まさに■「諸宗は本尊にまどへり」であり、もはや創価学会が邪宗と成り果てた証左である。)
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●次に、Cについても既にお笑い済みである。(-。-)y-゜゜゜
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Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)
まことに馬鹿である。
だから身延のみやげ掛け軸も”御本尊”様に格上げされてしまうのである。
白帯の未熟者が、目隠しをしたまま、空手の試合に臨むようなものである。まさに、一撃。である。
で、
もう、そうなれば、自分が馬鹿にしきっている富士大石寺の御歴代上人が、書写された御本尊をあえてわざわざ拝む必要などなくなってしまう。
やまいぬ。君は日達上人御書写の御本尊を拝んでいるそうであるが(違っていたら訂正するが)、やまいぬ。君の理屈で行けば、個人折伏の世帯数でその人の偉さが決まるそうであるから、そこいらの学会婦人部より日達上人の方が劣るのだそうである。
その自分が「劣る」と蔑如している人が書いた御本尊より、そこいらの学会婦人部が書いた御本尊の方が尊いはずであり、まさかさすがにそこいらの学会婦人部は書かないから、立正安国会が出している御本尊の写真集などのどれでもいいから一枚を近くのコンビニでコピーでもしてきたものの方がよほど有難い、ということになる。

また、会館などでは間違いなく日寛上人の御本尊を創価学会の誰かが改竄したニセ本尊を拝んでいるはずだが、これなども、やまいぬ。君によれば、そこいらの学会婦人部の方が折伏の成果でもし、日寛上人より多いならば、優れている、偉い、尊い(趣意)となるそうであり、であるならば、わざわざ日寛上人の御本尊を担ぎ出す必要もなかろう。
何故、創価学会が日寛上人の御本尊を持ち出したのか、やまいぬ。君説では説明不能である。(これはたまたま脱落坊主がいたお寺に創価学会員に受けがいい日寛上人の御書写の御本尊が格護されており、それに飛びついた、ただそれだけの理由である。)

更にいえば、結局は誰かが書写など回りくどいことなどせず、ネットから大聖人御真筆の御本尊の写真をプリントアウトでもして、それを拝めば済む話である。わざわざ身延のみやげ掛け軸を買うまでもなかろう。
さらには自分らが否定している大聖人以来の唯授一人・血脈相承の二十六代目の日寛上人が書写された御本尊をわざわざ拝むこともなかろう。
まさに、■「諸宗は本尊にまどへり」の狂乱の態である。
因みに「諸宗」=邪宗のことである。
やまいぬ。君や沖浦耄碌などが吐く邪説は、今や創価学会そのものが、■「諸宗は本尊にまどへり」の「邪宗」それ自体に成り果てている証拠である。

実に大笑いである。(-。-)y-゜゜゜
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●更に哂い足りないので追加しよう。

@誰でも作れる”御本尊さま”

→「自分は折伏もしてるし、信心がある」と思える人なら、ネットでも写真集からでも”大聖人の御本尊”の画像を、コンビニエンス・ストアでコピーし、そのままでもよし、掛け軸状にするもよし、適当にぶら下がる格好にし、(いや、別にもはやぶら下げる必要もないか。)自分で拝むもよし、近所へ配って歩くもよし、店で並べて売ってもよし。ということか?やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜
そもそもその写真集や”大聖人の御本尊”の画像を映し出したパソコンのモニターそのものを拝めばいい訳だから、わざわざコンビニでコピーすることもないか。そうか。そうか。(-。-)y-゜゜゜

その場合、大体年間何所帯くらいが”御本尊さま”製造が許される基準か?
10所帯くらい?まだだめ?因みにやまいぬ。君はニセ本尊を年間、どのくらいばら撒いてるの?
何故、やまいぬ。君は”御本尊さま”を作らないの?
あっ、そうか、別に今あるからその必要がないって、言い訳ね。
沖浦痴犬も同様のこと言ってたな。
所詮同じ謗法の穴のムジナ、ですな。
作る資格はあるけど、遠慮してあえて作らない。とこういうことで良い訳ね?
あるいは、作れる資格はあるけど、作る必要が今は感じられないから作らない。こういうことでもあるわけね?(-。-)y-゜゜゜
実に馬鹿である。馬鹿、としか他に言いようがない。言葉が見つからない。
馬鹿であるやまいぬ。君や沖浦老耄、陰性らは別にこの馬鹿さ加減が理解できなくても結構ですよ。
所詮馬鹿には無理だから。
これを読む他の方が貴公らの言い分が如何に馬鹿げているか気づいてくれればそれで十分だから。
貴公らの役目は自分のその馬鹿さ加減で人の目を覚ます役割であるから、これからも十分馬鹿でいてくれたまえ。
馬鹿が治ったら、役目を果たせなくなってしまうからね。
一切の事物にはそれなりにの役割があるのだからね。
―――――――――――
A重ねコピーした本尊の功徳は?

もともとの写真集やモニター上の画像を拝むのと、それをプリントした画像とどっちが功徳あるの?
どっちも同じ?沖浦老醜はこういうよね。
であるならばわざわざ自分らが軽蔑している”腐れ外道”の大石寺の御歴代上人(←沖浦老耄の言)の書写御本尊を拝む必要は無いんじゃないの?
世の中には大聖人御真筆の画像がたくさん出回っているのだから、それを拝んだ方が筋が通っているでしょ?
自分らが尊敬している大聖人が書いた”御本尊の画像”を拝まないで、自分らが軽蔑しきっている人の書いた”御本尊”を拝む・・・・。
実に矛盾極まりない。
あっ、別にやまいぬ。君や沖浦老人。陰性に理解してもらわなくて結構ですよ。

また、このコピー本尊を繰り返しコピーすると、画像が劣化するが、功徳は変わらないのでしょうか?
それとも、二分の一、三分の一と、次第に薄まっていくのでしょうか。
何回くらいの重ねコピーまで功徳があるのでしょうか?

やまいぬ。君、馬鹿なりきに説明してくれ。

ただし、御書には
■所詮文字と云ふ事は、何なるものと心得此くの如く立てられ候や。文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。
とあり、先の御開眼の御文を併せ拝するとき、大聖人御真筆御本尊を幾ら複製しても、それは御本尊としては不可であることと、唯授一人・血脈相承の御法主上人しか御本尊を書写できないことは明白なのである。

やまいぬ。君ら謗法者どもはこれを完全否定するのであるから、では、大聖人・日興上人の御文証のみで、
@御本尊は誰が書いても、作っても曼荼羅状であれば、いい。問題ない。と。また、
A御本尊の御開眼は不要である。と 証明してみたまえ。
できなければ、やまいぬ。君、沖浦君、陰性、こぞって連帯責任で、公式謝罪し、脱会。よろしいね?

さ、頑張れよ〜。(-。-)y-゜゜゜

次回、やまいぬ。君らの幼稚極まりない”本尊義”を更に思いっきり哂ってあげよう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。36  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)15時20分42秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君らの惑える本尊観を更に哂う。

@TVに映る本尊でもいいのか?

御本尊をビデオカメラなどで撮(と)り、画面に映った御本尊を拝んでも功徳はあるのか?
また、その場合、テレビそれ自体が御本尊になってしまうのか。
それとも、画面だけ?
御本尊の映像が通過した各部品はどうなんでしょ?(-。-)y-゜゜゜

Aワープロ本尊じゃダメなのか?

やまいぬ。君らは概ね 「御本尊は、書き示されている内容だけが大事なのであって、特別な血脈だとか、開眼だとかは必要ないし、誰が書いてもよい」というが、それなら、ワープロの文字や、やまいぬ。君らの手書き文字で、自由に本尊を作ってもよいのか?
その場合、大聖人様一期御化導中のどの御本尊を真似ればいいのか?
その理由は?
いけないというのなら、何故?
これらを大聖人様・日興上人のお言葉だけで明快な説明を。さ、頑張れ。やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜

B大聖人の御遺命はどうするのか?

 大聖人の御遺命として、広布の事相における「事(じ)の戒壇建立」があるが、やまいぬ。君ら創価学会はそれをどのようにして実現するのか。
また、■『三大秘法抄』に「三国並に一閻浮提(いちえんぶだい)の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏(ふみ)給うべき戒壇なり」とあるが、学会の広布実現のときには、世界中の学会員を「事の戒壇」のもとへ連れてくるのか。
では、それはどこのどの場所で、そこの本尊は何?
また、それが正しいと大聖人様・日興上人のお言葉だけで立証してくれたまえ。

さ、さ、さ。以上の立証に成功しなかったら、やはりここはもう、謝罪&脱会コース、ですな。
準備はいいかね?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。37  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)15時58分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●稚拙極まりない恥論であるが、目の前にある限り摧破するのみである。
しかし、返す返すも恥ずかしい内容である。
やまいぬ。君って一体どの程度の教育を受けてこられたのか?
どんな家庭環境で育ったのか?
どんな教育環境だったのか?
そもそもの知的水準は如何程なのか?
こんな程度で今一体、どのような生活をされておるのか?
これから先一体、どうなってしまうのか?
職場や周りの方々にどう思われているのか?

余計な心配をしたくなるような、甚だ低水準な投稿内容で、聊か困惑する。
老婆心ながら忠告するが、このままいったらまともな社会生活や家庭生活そして精神生活は不可能だろう。
一刻も早く、身延のみやげ掛け軸も”御本尊さま”に成り得る、だなんて妄執を捨てて、日蓮正宗に帰伏した方が身の為である。

では、本題。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
> DATE: 11月 4日(土)03時39分19秒
> TITLE: さあて。(^o^) 02
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
●おお、ここでは少しは当方の該文に触れているな。感心感心。
だが、内容はあまりにお粗末である。
―――――――――――
> >2、広宣流布の定義
>
> >再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に
> >売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。云々。

↑だから略すな。探すのが面倒ではないか。馬鹿者。云々の続き↓

●真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
―――――――――――
> 泣き言はいいのだよ。(^o^)
> そんな暇あらば、750年の時間の間に、学会も、無論蓮祖在世当時からの邪宗なども
> 足許にも及ばぬほどの拡大をしておればいい。
> 泣き言云う暇あらばとっとと学会を超えなさい。情けなくないのかね、坊や達は?(^o^)

●別に「泣き言」など言っておらぬが?
これは創価学会への”呵責”であって天地が逆さになっても「泣き言」ではない。
これが「泣き言」に聞こえるとはよほど精神に異常をきたしているようである。
妄執深くして、あるべきものをある姿で捉えられない、といういい標本である。
えてして邪宗教に深く染まったものはこのような傾向にある。
そして自ら怒りや怨念を増していくのである。哀れなものである。
日蓮正宗の布教の歴史については既に詳細に呵責済みである。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
再掲
(なお、「日寛上人の御指南は用いない」とのやまいぬ。君の馬鹿さ加減は、再三呵責してきたように、個人折伏の世帯数でその人間の発言の要否を決する、などという馬鹿げた判断基準等については、詳細に哂ってあるので、これに明確に大聖人と日興上人の御指南だけで反論に成功しない限り不採用である。)

一、広宣流布云々について。

1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

2、そんな中でも日蓮正宗僧俗による数多くの法難史が存在する。
千葉法難・金沢法難・讃岐法難・仙台法難・尾張法難・伊那法難・八戸法難・・・
弘教に励んでこられた証拠である。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
ここで、別箇所から挿入

■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。」

やまいぬ。君の如き、頑迷固陋にして、邪心深き者がまだまだ多きが故に、真の大正法は広まり難いのである。
自分がその邪宗徒に成り下がって三大秘法の流布を妨げている一類であるのに、その三大秘法の本源、戒壇の大御本尊を軽侮、揶揄、不信して「広宣流布は何故進まなかった?」などと訊くとは、実に滑稽極まりない痴態である。思わず大笑いである。
自分が殺人犯であるにも拘らず、警察署に行って、自分が殺めた人のことを取り上げ、「何故あの人の命を助けられなかったんだ!?」と怒鳴っているような狂態である。
またそのみっともなさに気づかないところが頭破七分で無慙極まりない。
貴公のような機根で生まれついたその自らの悪因縁と悪宿業を深く見つめなおすがよい。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽

3、■一、堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。

■信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
―――――――――――
二、戒壇の大御本尊様こそが唯一広宣流布の根源

日寛上人
■問う、文底深秘の大法、その体如何。
  答う、則ちこれ天台未弘の大法・三大秘法の随一 ・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記二十七三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を 以て閻浮提に広宣流布せしめん」等云云。故にこの本尊は広布の根源なり。

■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

●謗法者やまいぬ。君は■「流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)いで根を討(たず)ぬ」という、仏教を学ぶ者が当然として身につく道理と、報恩の境涯が全く開かれていないのである。
そういう者を”真の愚者”というのである。
幾ら口先で偉そうなことばかり言っていても全く駄目である。

1、日蓮正宗の単なる派生団体、創価学会が誕生するずっと以前から広宣流布の根源であられる御戒壇様を厳然と護持されてきたのはどこでしょう?
2、君などが生まれるずっと以前から御戒壇様を厳然と護持されてきたのは誰でしょう?
 君らには到底望むことも、覗くことも出来ない即身成仏の境涯を得る事のできる、その根本の御法体の御戒壇様が厳然と今奉安堂にましますことが日蓮正宗700年の御法主上人と宗門が正しかった何よりの現証。
■「現証に如かず」である。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
●次のやまいぬ。君の恥論が面白いので、今回はここで、早めに終止。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。38  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 6日(月)18時05分14秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ(※だから途中で切るな。っつうの。全文出されると都合が悪いのか?)一切が収斂されるのである。

> はい、嘘でした。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「大覚世尊仏眼を以て末法を鑑知し、此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に、一大秘法を
> 留め置きたもう。
> 所謂法華経本門久成の釈尊・宝浄世界の多宝仏、高さ五百由旬広さ二百五十由旬の
> 大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く、十方分身の諸仏は高さ五百由旬の
> 宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列坐したまひ、四百万億那由陀の大地に
> 三仏二会に充満したもうの儀式は、華厳寂場の華蔵世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも
> 超えたり。一切世間の眼なり。
> 此の大会に於て六難九易を挙げて法華経を流通せんと諸の大菩薩に諫暁せしむ。」
>
> 邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、世界で、広宣流布を進めてきたのは
> 学会である。750年、邪宗に負けて負けて負け続けておる宗門・法華講如きではない。(^o^)
> その現証を以ってその正しさを証明した、「留め置かれた一大秘法」とは何か?
> 戒壇本尊などという一物ではない、「南無――の7字」であり、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」
> である。(^o^)

●思わず大笑いの箇所である。
やまいぬ。君が真剣に御文を引文するとき、必ず笑いが出る。それほど的外れで空滑りで頓珍漢である。
引文した御文が自分の所感の証明に全く為っていない。
それに気がつかないところが如何に法門に暗いかが如実に明らかである。
恐らくは「一大秘法」と文字検索かけてヒットした御文に無理無理に自説を絡めようとするから、このような何の脈絡もないみっともない引文の仕方となるのである。実に浅学丸出しである。

@この御文は大聖人様が末法に御出現あって、一大秘法の大本尊を建立されるという意義である。
それはこの御文のすぐ前段の
■今末法に入って二百二十余年、五濁強盛にして三災頻りに起こり、衆・見の二濁国中に充満し、逆・謗の二輩
四海に散在す。専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙み、謗法の者を尊重して国師と為す。孔丘の孝経之を提げて
父母の頭を打ち、釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す。不孝の国は此の国なり。勝母の閭は他境に求め
じ、故に青天眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含んで大地を震ふ。去ぬる正嘉元年の大地動、文永元年
の大彗星、此等の災夭は仏滅後二千二百二十余年の間、月氏・漢土・日本の内に未だ出現せざる所の大難なり。
彼の弗舎蜜多羅王の五天の寺塔を焼失し、漢土の会昌天子の九国の僧尼を還俗せしめしに超過すること百千の
倍、大謗法の輩国中に充満し一天に弥るに依って起こる所の夭災なり。大般涅槃経に云はく「末法に入って不孝・
謗法の者は大地微塵の如し」=取意=。法滅尽経に「法滅尽の時は狗犬の僧尼恒河の沙の如し」等云云取意。今親り此の
国を見聞するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救せん。

をそのまま拝すればその容易に知れるところである。

Aであるから、この御文が▼「邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、世界で、広宣流布を進めてきたのは学会である。」との驕り高ぶった妄執の正当化を裏付ける御文とは何ら為り得ない。

B一時期、創価学会が戒壇の大御本尊へ参詣し、各末寺の御住職から御本尊を受け流布していた、確かに「広宣流布」を推進していた、と言える時代もあった。
がそれも、一大秘法の根源の御当体であられる戒壇の大御本尊を侮蔑し、不信し、更には三宝をことごとく破戒している今となっては、その功徳も功績も全て灰燼に帰したといえよう。
もし、今の創価学会の行為が正しいのなら、破門以前の行動は全て謗法であった、ということになる。
逆に過去の創価学会の行為が正しいのなら、今の行動は完全な謗法行為である。
どちらを是認しても結局は創価学会の存在そのものの否定という大自己矛盾に逢着するのである。
いづれにせよ、この御文がやまいぬ。君が言わんとする内容を正しいと証明してくれる御文ではない。
こういう引文の仕方を妄引・乱引・盲引、とでも言うのである。実に恥ずかしい浅ましさである。

C▼「750年、邪宗に負けて負けて負け続けておる宗門・法華講如きではない。(^o^)」などは、既に詳細に摧破済み。
馬鹿の精一杯の反論を待つばかりである。

D一度入信し大きな功績を残しその後退転する者など別に珍しいことではない。
かつての五老僧然り、波木井実長然りである。
創価学会が、またそうだっただけである。別にかつて三大秘法を流布し「広宣流布」に貢献したからといって、今それと全く正反対のことをしておれば、結局はただの謗法者・謗法団体・地獄行き、である。

Eであるから、▼「その現証を以ってその正しさを証明した」というのは全く不可である。
もし、この言が正しいとするならば、五老僧も、波木井実長も大聖人様と同時代に▼「邪宗充満の中で困難に耐え、それを超え、現実にこの国で、」法を広めていたのであるから、絶対に正しい、という論法になってしまう。
実に粗雑な論の進め方で、やまいぬ。君が如何に知的水準が低いかを露骨に顕している。

Fさ、妄執のとどめである。
▼「留め置かれた一大秘法」とは何か?> 戒壇本尊などという一物ではない、「南無――の7字」であり、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」> である。(^o^)
思わずこっちが(~o~)こうなってしまうような大笑いの箇所である。

1、まず、この引文した御文がこのやまいぬ。君説の証明に為っていない。
いきなり、やまいぬ。君が何の脈絡もなく自説を吼えただけである。
こういうことを正当な論証とは言わない。やまいぬ。君の精神的未熟さが露呈しただけである。

2、一大秘法≠戒壇の大御本尊、と証明するなんら根拠を提示できていない。

3、一大秘法とはそのまま三大秘法に開かれるのであるから、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目が整足していなければならないはずのところ、「南無――の7字」あるいは、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」では、この三秘に開くことが出来ない。
本門の戒壇とはどこにどうあるべきなのか。全く明確に為っていない。

以下の大聖人様の仰せから、本門戒壇とは明確な場所を指しておられることは明白である。

■但し此の本門の戒を弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なる
べし。抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。

三大秘法抄

■問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。

■戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さ
ん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。

■夫一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。此の法門は理を案じて義をつまびらかにせよ。

■    日蓮一期弘法付嘱書   弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
  弘安五年=壬午=九月 日                       日  蓮 花 押
                              血脈の次第 日蓮日興

■下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。

●かたや天皇家へ御安置される紫宸殿御本尊が現存し、またかたや「本門戒壇」と明確に銘打たれた御本尊が現に坐すということは、まさに三大秘法抄・百六箇抄・日蓮一期弘法付嘱書等に説き置かれた「富士山本門寺の本堂」に御安置される御本尊は大聖人様一期御化導中、戒壇の大御本尊様しか有り得ない。

●一閻浮提総与の御本尊とは戒壇の大御本尊以外なく、もし富士山本門寺の本堂の中心に戒壇の大御本尊以外の御本尊を奉掲するとしたら、例えば、「沙門民部日向に之を授与す」等の授与書きの入った一機一縁の御本尊であり、一切衆生を末法万年救済すべき一閻浮提総与の義に欠けることになってしまう。

●既に言い尽くされているが■「余は二十七年なり=大聖人様は弘安二年十月に出世の本懐を遂げられる」との御意もあられる。

■    上行所伝三大秘法口決
             ┌虚空不動戒
一 本門寿量の大戒────┼無作の円戒と名づく
             └本門寿量の大戒壇と名づく
             ┌虚空不動定
一 本門寿量の本尊────┼本門無作の大定
             └本門無作の事の一念三千
             ┌虚空不動慧
一 本門寿量の妙法蓮華経─┼自受用の本分と名づく
             └無作の円慧

●また、この上行所伝三大秘法口決からすれば、やまいぬ。君の浅薄な見解では、本門寿量の大戒の義が全く見出されず、百歩譲って言っても、二大秘法の不完全な法と為ってしまう。
あっ、やまいぬ。君らには理解できなくてもいいですよ。所詮無理だと思うから。
ここを読む清浄な信心の方がたの参考に為ればそれで十分である。

●以上、あらあらやまいぬ。君の邪妄を粉砕した。
こうして、やまいぬ。君や沖浦君らの浅薄極まりない邪妄と引き並べてみると、如何に創価学会の猛毒が人間の思考を壊し、馬鹿丸出しの愚行や愚言を平気で行える低劣な人格に貶めるかが顕著であろう。

さて、正統な血脈正しい御本尊へ勤行させていただきましょう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。39  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)00時13分22秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●本物の馬鹿にはやはり反復学習が必要である。
―――――――――――
> DATE: 11月 6日(月)22時55分17秒
> TITLE: 樋田坊さぁ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> なんでもエエが、3連休明けの超多忙な筈の月曜日に、午前中から熱心に
> ネットの書き込みかね? 世間を舐めとるね。まぁ見てて御覧、坊やの会社も
> 長くはない。道理を外れて仏法はないよ。
>
> でね、平日から足掛け8時間も書き込んでおるのはいいが、どうでもいいけど
> 坊やは3ヶ月半前の、
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> という坊やの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問いにいまだ
> 返答不能なんだわ。
>
> だらだら書き込んで、ヒマな坊やが時間を浪費するのにこっちまで付き合わせる前に、
> 3ヵ月半前の「本論」に入る以前のたった1問、まず返答せんかいな。(^o^)
>
> それとも次々と書き込んで、前のはなかったことにでもするつもりかね?(^o^)
>
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)
>
> 上記問いへの返答あった場合、こちらからの返答は明日夜。
>
―――――――――――
●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

再編集しつつ再掲

当方が書いた趣意は、

●「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを▼「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。
身延のみやげ掛け軸を”御本尊”にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。
大石寺に宗祖大聖人以来の数々の”重宝”が厳護されているのは、大石寺が正しい歴史を有している「傍証」である。との意が読めず、ただ闇雲に「文証を挙げろ」と吼え憑いているだけの駄犬の遠吠えである。

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。
つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。
これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

当方の破折はこれらに対する破折である。
やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。
それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。
しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。
あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。
―――――――――――
■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり
仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺
に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。

―――――――――――
さ、明日の夜の駄犬の足掻きに足掻いた返答とやらを楽しみに待つか。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。40  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)12時15分0秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、
> >事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。

> その本門・事の戒壇は永く存在もせず、学会の折伏により拡大したことによってやっと達師が
> それと規定した「正本堂」は阿部日顕が破壊した。(^o^) オシマイだな、坊や。(^o^)
―――――――――――
●繰り返すが本当に馬鹿、である。
「正本堂」という建物それ自体が「本門・事の戒壇」ではない。
本門の本尊=戒壇の大御本尊坐すところ、そここそがいついかなる場所でも「事の戒壇」である。
でなければ三大秘法が成立しない。
一口に「事の戒壇」と言っても、三大秘法を開いたところの「(”理”に相対する意味での)”事”の戒壇」と、広宣流布の暁に建立される本門寺の本堂に建立される「”事”相における戒壇」と二意あるのである。

以下日寛上人の仰せは全てこの三大秘法の”本門の戒壇”のとしての「事の戒壇」の意義を仰せ下さっている。
まさに、本門の本尊=戒壇の大御本尊所従の所、いつ如何なる場所でも「事の戒壇」との意である。
物覚えの悪い駄犬には繰り返し念を押しておくが、大聖人一期の御化導中に「本門戒壇」の銘があられる御本尊は弘安二年の戒壇の大御本尊しかおわさないのである。

■「本尊」の二字は正しくこれ本門の本尊なり。所住の処は本門の戒壇なり。

■「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。

■若し一大秘法というは即ちこれ本門の本尊なり。この本尊所住の処を本門の戒壇と名づけ、この本尊を信じて妙法を唱うるを本門の題目と名づく。

■この本門の本尊をまた「三大秘法総在の御本尊」と名づくるなり。

■所修は即ち本門の本尊なり。能修は本門の題目なり。所住は本門の戒壇なり。是くの如き三事総在するは、別して本門の本尊なり。

■「法華」の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。「題目」の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の処は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり。

■豈本尊と戒壇、人法の本尊は体一互融に非ずや。

■本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり。
―――――――――――
因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜

更に、その上で以下の日達上人の訓諭の意義は、

■正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

つまり「正本堂」は将来、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄等に説かれている「広宣流布達成の”事相”における戒壇」の意義を含んだ、現時に於ける「理に対したところの「事の戒壇」」である。との意である。
現にこの昭和47年頃、広宣流布が達成した訳ではないので、ここの「事の戒壇」との意義は「広宣流布達成の”事相”における戒壇」とは成り得ないのである。
であるから、以下にその意義と分かる御指南が続くのである。
(因みに、顕正会の痴犬あたりは、この前半部分だけを教え込まれて、「日達上人が御遺命を曲げた」などとほざいているが、後半を読めば、日達上人の御指南が如何に大聖人様・日興上人の御意の通りであるかが明白である。)

つまり、正本堂は、広宣流布の暁に建立される「事相の戒壇」である本門寺本堂となるであろう殿堂である。(これは、当時の時代的な”勢い”からすれば広宣流布達成もそうは遠くないであろう、との期待感が内外に強かったという背景がある)
しかし、今はまだ広宣流布が達成してはいない、謗法者が多数いる時代であるから、広宣流布の暁における、
■「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇」という、戒壇の大御本尊を公にする奉安形式ではなく、未だ蔵に格護申し上げるという奉安形式を用いる、との意である。

しかし、創価学会の大退転によって、広宣流布はかなり遠のいてしまった。
しかも、正本堂は「創価学会が広宣流布を成し遂げたんだ。」という今となっては全くの虚夢であることへの深い執着・妄執のシンボルとなってしまっている。
かつての五老僧、波木井実長等と同じく、昔は正信に励んだが今は全くの謗法団体となってしまった創価学会を正当化する”物的証拠”が如くの存在になっている現況から鑑み、全国の学会の儚い妄執を根源から打ち砕くには正本堂解体が最善の御判断である。

■一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

この御指南の如くに、大石寺の諸堂に関してはその全ての管理運営は代々の御法主上人の御裁断による。
これに何か問題でも?謗法の極悪人やまいぬ。君?(-。-)y-゜゜゜

このように日々夜々、三宝誹謗の大悪業を積む貴公こそ、”オシマイだな、坊や。(^o^)”である。(-。-)y-゜゜゜
因みに概して実力のない者ほど、強がって、相手を「坊や」などと下し、虚勢を張って見せるものである。
まさに、
■「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」(御書・十法界明因果抄 209n)

※【通解】修羅界の者は、いつもいつも人に勝ちたいという思いが強く、それがかなわなければ、人を馬鹿にし、軽蔑し、自分を驕る高ぶる事、まさにトンビが空高く飛んで地上を見下ろすようである。しかも、いつも表面上は、思いやりとか、義理人情とか、礼儀礼節とか、知恵だとか、信用。信頼、誠実などなどをまことしやかに述べて、そういった世間通例の倫理観程度を人にも説き、自分も行なうふりをし、しかし実際はへつらい曲がった心で、常に他に勝ちたいとの生活をする。)

との御指弾通りの修羅道を行く者である。全然「人間革命」してないようである。
やはり、

■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』
ニセ本尊や血脈の通わなくなった本尊の元で、いくら信行に励んでみても、『智行も随って邪なり。』結局、堕地獄行きの邪行である。といういい見本がやまいぬ。君である。
よくよく反省慙愧すべきである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。41  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)14時31分36秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、 (※略すな。馬鹿者。全文掲載すると当方と駄犬とに余りに論理の構築に落差があり、惨めさが際立ってしまうからか。(-。-)y-゜゜゜)
→事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。

> >> 壊しておいて何を抜かすか。(^o^)

●まさに、馬鹿の駄目押し。馬鹿の祭典。馬鹿花盛り状態である。
事の戒壇義については既に詳細に破折済み。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。42  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)14時57分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の
> >大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を
> >増やしているだけであり、(略すな。馬鹿)→国が滅ぶ元である。

> はい、またここでも「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」である。(^o^)

●本当にこれ程馬鹿だとは思わなかった。こんな馬鹿を相手にしていると思うと、情けない。時間も勿体無い。
が、しかし、この程度の馬鹿の集まりが今創価学会に残留し、ネットで悪言を垂れてる連中だろうから、それらへの破折の為にも辛抱して頑張るか。

▼「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」?
ほんと〜〜〜に馬鹿である。
結局正法を受持しているか否かは、三大秘法随一の戒壇の大御本尊への信仰に尽きるのである。
およそ仏法とは師弟相対してその即身成仏の大功徳を得るのであり、それは大聖人の仏法でも当然の規範である。
であるから「戒壇の大御本尊への信仰」とは師弟相対して始めて成り立つのである。
師に許されない「信仰」など有り得ない。
駄犬などは全く論外であるが、仮に戒壇の大御本尊を慕う者がいても、師がその信行をお認めに為らなければ即身成仏の大果報は成じない。このけじめを端的に顕わすのが、「戒壇の大御本尊への参詣が許されているかいないか」である。
現時では謗法者は戒壇の大御本尊への参詣は許されないのである。
立正佼成会や霊友会の会員が戒壇の大御本尊への参詣が許されるはずもない。
駄犬ら創価学会もこれらの邪宗と全く同様の似非新興仏教邪宗団体に堕落したのである。
それを、
▼「参詣出来る人間と出来ない人間の差別化」?だって?(-。-)y-゜゜゜
実に大馬鹿である。

では駄犬は「南無妙法蓮華経」を唱える謗法者の数も「広宣流布」の頭数のうちに入れるのか?
はい、かいいえでどうぞ。
はい→謗法与同ではないか?
いいえ→同じ南無妙法蓮華経を唱えている同士の”差別化”ではないか?
・・・実に馬鹿である。(-。-)y-゜゜゜

因みに、霊友会の本尊と駄犬らの本尊とどこがどう違うのか、自分らの正当性を▼「蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)」(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。43  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)16時00分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> じゃあ一生参詣できない遠方の法華講と、何度も(無理やりでも)参詣しておる法華講とは
> 当然違うのだよな? 蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)

■参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし。

戒壇の大御本尊こそ人法一箇、大聖人様であらせられる。
その大聖人様御自ら「参詣せよ。待っておるぞ。」と仰せであるにも拘らず、参詣しようとしない者こそ大慢心の大謗法者である。
全く信心を捨てきった堕落したざまである。
その上で、諸般の事情により参詣できない状況の方があるのも当然である。
その方々にこそ、「義の戒壇」の意義が成じるのである。

参詣の姿に大きく分けると以下の4段階があるであろう。

1、参詣を許されない謗法者。
2、何か重大な咎により、一時的に参詣が許されない者。
3、参詣できる立場にあるのに、あまり積極的にしようとしない者。
4、大いに喜びを持って参詣させていただく者。

このうち2〜4の者には参詣しない時でも「義の戒壇」の意義が成じるのである。

■初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ちこれ義理、事の戒壇に当るなり。(中略)故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。

また、1の者であるが、現に日蓮正宗があり、戒壇の大御本尊様が現に坐し、入門、もしくは帰伏すれば参詣できるのに、しようとしないのは、根性が毒気深入で大謗法であるからである。
特に創価学会の者どもは「人」に捉われて「法」を見失っているからである。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し

戒壇の大御本尊を求めない国中の大馬鹿者達、なかんずく創価学会員への痛烈なお言葉である。
【浅ましい】=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。

因みに駄犬は▼「蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)」と馬鹿の一つ覚えを繰り返すが、歴代上人の御指南は全て”御文証”である。

■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

【池田大作指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

再掲
更に駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。44  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)23時21分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●まあ、しかし、駄論が延々と続くものである。
謗法者の特徴として、頭破七分になってくると、精神に偏りが生じて、このように偏執的になってくる、というよき見本である。
沖浦醜耄なども同様である。
―――――――――――
> >日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて
> >今から心の準備などをして置くべきであろう。

> きみらこそ今から、「タイガー・バーム・ガーデン」でも観ておきなさい。(^o^)

●いよいよ、教義的内容のない空返しになってきたようである。

■「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。」(開目抄・新編・572n)
 何度言ってもお分かりの悪いおてっぺんにもう一度。
法華経とは末法今時、煎ずるところ御戒壇様である。
戒壇の御本尊様は厳然と奉安堂におわします。
そこに拝みに行かないのは、駄犬ら自らの意思。
当方はさっさと脱会して、以後最低でも毎月1回は必ず御登山させていただいている。
誰が法華経=御戒壇様をすてたんだ?駄犬ら自身だろう。地獄にまっ逆さまに堕ちるのは駄犬やまいぬ。君らである。
―――――――――――
■「法華経を捨てヽ但観(かん)を正(しょう)とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為(しょい)なることを。」(立正観抄・新編・766n)

 大御本尊から離れて、「本門戒壇・板御本尊、なんだ! 寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です! 」と嘯き、「己心にこそ法は有る」だの、「宇宙に遍満する法に冥合する」だの戯けた事をほざいている池田大作は、正にこの通り。それに追随する無知蒙昧な輩も同罪。

■「僅(わず)かに法華経に結縁しぬるをも翻(ひるがえ)し、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟倶(とも)に謗法の者となる。」(唱法華題目抄・新編・224n)

 偶々(たまたま)大御本尊様に結縁したのに、もう退転し、今、大御本尊様を拝して修行する日蓮正宗僧俗を怨嫉し、憎悪し、悪口讒謗している池田大作はじめ君らは謗法者だと。
謗法の者は間違いなく地獄に堕ちるのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。45  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 7日(火)23時53分0秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

また、謗法者はその地獄の苦を甘く考えているようだから、少し御文を拝そうか。

まず八大地獄それぞれの苦を御文に拝そう。

1、一番軽い等活地獄
■此の中の罪人はたがいに害心をいだく。若したまたま相見れば犬と猿とのあえるがごとし。各鉄の爪をもて互ひにつかみさく。血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり。或は獄卒手に鉄杖を取りて頭より足にいたるまで皆打ちくだく。身体くだけて沙のごとし。或は利刀をもて分々に肉をさく。然れども又よみがへりよみがへりするなり。

2、第二に黒繩地獄
■獄卒、罪人をとらえて熱鉄の地にふせて、熱鉄の繩をもて身にすみうて、熱鉄の斧をもて繩に随ってきりさきけづる。又鋸を以てひく。又左右に大なる鉄の山あり。山の上に鉄の幢を立て鉄の繩をはり、罪人に鉄の山ををゝせて繩の上よりわたす。繩より落ちてくだけ、或は鉄のかなえに堕とし入れてにらる。此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり。

3、第三に衆合地獄
■多くの鉄の山二つづつ相向かへり。牛頭・馬頭等の獄卒、手に棒を取って罪人を駈って山の間に入らしむ。此の時両の山迫り来たりて合はせ押す。身体くだけて血流れて地にみつ。又種々の苦あり。

4、第四に叫喚地獄
■獄卒悪声出だして弓箭をもて罪人をいる。又鉄の棒を以て頭を打ちて、熱鉄の地をはしらしむ。或は熱鉄のいりだなにうちかへしうちかへし此の罪人をあぶる。或は口を開けてわける銅のゆを入るれば、五臓やけて下より直に出ず。

5、第五に大叫喚地獄
■其の苦の相は上の四つの地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく。

6、第六に焦熱地獄
■此の地獄に種々の苦あり。若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけらんに、一時にやけ尽きなん。況んや罪人の身の軟らかなることわたのごとくなるをや。此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し。譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火の熱きが如し。

7、第七に大焦熱地獄
■前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受くるなり。其の寿命は半中劫なり。

■当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば未だ見ず、又をとにもきかず。而るに我が身よりはじめて一切衆生七大地獄に堕つべしとをもえる者一人もなし。設ひ言には堕つべきよしをさえづれども、心には堕つべしともをもはず。

ここだよ。やまいぬ。君。まさか自分が地獄に堕ちるなどとは夢にも思っていないが、貴公の積んでいる悪業は間違いなく地獄へ堕ちる業因である。

8、第八に大阿鼻地獄とは、又は無間地獄と申すなり。
■地獄の極苦は且く之を略す。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦、一千倍勝れたり。此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事、他化自在天の楽しみの如し。此の地獄の香のくさゝを人かぐならば、四天下・欲界・六天の天人皆しゝなん。されども出山・没山と申す山、此の地獄の臭き気ををさえて、人間へ来たらせざる故に、此の世界の者死せずと見へぬ。若し仏此の地獄の苦を具に説かせ給はゞ、人聴きて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみへたり。

■謗法の者この地獄に堕つべし。

戒壇の大御本尊を否定し=仏宝・法宝を誹謗、御歴代上人を悪罵誹謗し=僧宝を誹謗、まさに三宝を誹謗するが故に、駄犬ら創価学会員は確実にこの第八の無間地獄に堕ちること必定である。

重ねて警告する。よくよく後生を考え、今生を慎みたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。46  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)07時49分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君、いよいよ内容が薄くなってきたようですね。
まずは最新のネタから料理しますか。
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
> DATE: 11月 7日(火)23時46分1秒
> TITLE: 樋田くんよ。(^o^)(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 昨日は遂に午前中から足掛け14時間かね?(^o^)
> 世間が3連休のあとの超多忙であろう筈の月曜に、坊やはいったいなにを
> しておるのだね?
> そして今日も昼間っからせっせと書き込みかね?

●自分が忙しいからといって人までそうである。と何の根拠もなく盲断する。すでに妄見である。
世の中、全ての人がやまいぬ。君と同様に連休明けだからといって忙しい訳ではないのである。
自分の価値基準や狭い了見や経験則が全て。とでも思い上がっているのだろうか。
実に馬鹿である。
こういう子供でも分かる道理がもはや駄犬には理解できない、盲目になっている。
これ、既に謗法の害毒の現証である。

■「仏法と申すは道理なり。」

道理が分からない、ということは既に正しい仏法を行じていない証拠なのである。
まさに、
■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』
ニセ本尊や血脈の切れた本尊の元でいくら”信行”に励んでも、『智行も随って邪なり。』斯様にやまいぬ。君のように、貪り(名利を求める功名心などが盛んになってくることも含まれる。沖浦君などが好例である。)・瞋(いかり)←やまいぬ。君の”畜生言葉”に如実に顕れていよう・そして愚癡=馬鹿・愚か・道理が分からない。等の三毒が強盛となって結局、堕地獄行きの邪行である。
まっ、身延のみやげ掛け軸も”御本尊さま”に格上げできるほどの盲目者であるから、やまいぬ。君の信仰姿勢全てが邪信・邪行であることは当然である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。47  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)09時55分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ここも、全く御聖意を拝せない盲目者の成れの果てである。

> 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
> とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ」
>
> 蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)
> 「学会活動どころではないな」
> どころか、きみは「仕事どころではなくなっておる」ではないか。(^o^)(^o^)
>
> 「還着於本人」、恐るべき現証だ。(^o^)(^o^)

●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

では以下の御文との整合性はどうとるのか?
まずは、その言い訳が見ものである。
といっても、もはや反論できるだけの気力も知力も失せたか?(-。-)y-゜゜゜
今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの醜態を晒しているだけである。

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

少し、難しい課題だが、頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。48  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)11時09分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> でだ。
>
> それだけの時間かけて、きみはいまだに3ヵ月半前の「本論」以前の1問に返答できて
> おらんのだ。(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」

●聞き分けのない小児である。(あっ、それ以前に”畜生界”であったか。(-。-)y-゜゜゜)
以下が、既述の破折文だが、駄犬にはどうも理解できなかったようであるので解説しますか。
実に世話の焼ける知能の低さである。
―――――――――――
再掲

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
―――――――――――
●ここである。

1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。
日興上人は明白に
■本門寺重宝たるべきなり
■万年の重宝たるべきものなり
と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

重宝=貴重な宝物
貴重=とうとびおもんじること。非常に大切にすること。 得がたいものであるさま。
一方「正」とは「一に止まる」と言う意であるから、これらを併せ考察するに

「重宝」とは極めて得がたい宝物であり、それは他の数多のものにはない、つまり、数多の中からの「一つしかない」という意味において「正」しい宝物であり、尊び、重んじるべきもの。という意義である。
「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。
―――――――――――
そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。
あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。
―――――――――――
■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり
仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺
に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。
―――――――――――
2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が為されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、”蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”との文言からすれば
”日興上人仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

これを明晰に返答してごらん?
もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。
今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。
教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。
もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。
もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
心して、責任ある返答をしたまえよ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。49  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月 8日(水)13時16分37秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下、既に摧破し尽くしている。
駄犬の精一杯の足掻いたいい訳文、あるいは馬鹿の一つ覚えの、当方の破折を聞いていない振りで同じことの繰り返し文、が返答されるのを待つばかりである。
ただHPにアップする時の記録の為にここに残して置こう。
>
> >当方が書いた趣意は、
> >●「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。
> >正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて
> >伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
>
> 云い方変えただけではないか。(^o^)
> 解かっておるよ、きみと違って読解力はある。(^o^)(^o^)
> 「特定のモノがある」、坊やの加えた部分で云えば「その信心・環境・資格・条件等」があるから
> 正しい、という主張、蓮祖・興師の文証を以って証明せよと、3ヵ月半前に書いたものを、
> きみはいまだにただの一文も挙げられておらんのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●既に摧破した。
ただ、これほど、道理が見えない野犬なのに”きみと違って読解力はある。(^o^)(^o^)”との言は、少し驕慢に過ぎるのではないかね。
慢心強い者は成仏しない、と「蓮祖・興師の文証」にはあるのだが、如何か?
―――――――――――
> いったいいつまでかかるんだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
>
> ダラッダラ時間かけて、ダラッダラと長々書いてご苦労なことよなぁ? それで3ヵ月半前の
> 返答したつもりかね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●ここは単なる悪口にすぎない。教義的な反論にも為っていない。
―――――――――――>
> >その傍証としては

> (^o^)(^o^)(^o^) 「傍証」? なんだって? いまさら「傍証」だ?(^o^)
> きみの考えた「傍証」など誰が書けと云うたのだね?(^o^)(^o^)(^o^)
> あんまり笑わせるなよ、ボクちゃん。(^o^)
> こっちが3ヶ月前にボクちゃんに出せと云ったのは、蓮祖・興師の文証だ。(^o^)
>
●ここは先ほど摧破し尽くした。
―――――――――――>
> >との意味である。

> きみがしがみつく「希望」や「願望」など訊いてはおらんよ。(^o^)

●ここなどはほとんど意味不明状態である。
―――――――――――>
> >当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

> 文証一つ挙げられずにかね?(^o^)

●ここは大いに注目すべき箇所である。
当方は駄犬の妄執の悉くを既に膨大な文証を引いて破折し尽くしている。
もしや、駄犬は目が不自由なのか?
信仰上の「盲目」だけかと思っていたが・・・
―――――――――――
> >やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折って >あるのである。

> きみの首は公共の面前で、3ヵ月半前から野晒しにされて転がっておるよ、樋田昌志くん。(^o^)

●ここも、何の根拠も出せず、その悔しさにただの強がって悪口に過ぎない。
―――――――――――>
> >■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺
> >重宝たるべきなり、 同上。(※総本山に格護されている。との意)
> >■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)
> >少鋪公日禅は日興第一の弟子なり 仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と
> >蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉りて
>万年の重宝たるべきものなり。        東京 法道院。
>
> >更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
> >また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
>
> だーからきみにはどっかいりょくがないと云うのだよ。(^o^)
> 当たり前だ。なんでわざわざ粗末にする必要があるのだね?(^o^)
> 「大事にせよ」と、「それらがあるから正しい」は、全く別物だわ。(^o^)(^o^)(^o^)
> やぱりにほんごからやり直しかね? 論客と云われた(のかなぁ?)樋田昌志くんよ?(^o^)

●ここもポイント。
繰り返しになって聡明な読者には恐縮だが、この駄犬は「道理」が分からない低脳者に成り果てたようなので、世話が焼けるのです。
日興上人は、お示しになられたそのものが尊く「正しい」から「大事にせよ」と仰せになった、ということは小児でも理解できる理屈である。
もし、そうでないとするならば、日興上人は正しくもないものを大事にせよ、と仰ったことになり、甚だ不自然極まる。

●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。

■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。

この御文はまさに、駄犬のような愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。
「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」
あるいは、
「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」」
このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)
まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。
これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。
―――――――――――>
> 苦しいなぁ、樋田くん?(^o^) 法華講やめたら?(^o^)(^o^)(^o^)
> さ、とっとと「什宝あるから正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)

●ここについてもやはり大聖人様は既にかく仰せである。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。

まさに駄犬はこれである。
既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、その道理が見えないのは自分の愚癡によるにも拘らず、
▼蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)
を馬鹿の一つ覚えの如く繰り返す。
馬鹿が馬鹿の一つ覚えしか出来ないのはけだし当然か。(-。-)y-゜゜゜
しかし、これは”邪宗の者”の習性である、と大聖人は御指弾されているのであるから、やまいぬ。君の言動は自らが「邪宗の徒」であるとまさに証明しているようなものである。
謗法者の謗法者たる振る舞いである。
実に分かり易い”サンプル”採取ができた、と言えよう。
―――――――――――
> 当然脱講届はもう出したろうな、樋田昌志くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

●ここは、当方からの詰問に反論不能であるが、その醜態を覆い隠す為に、当方が提示している「謝罪&脱会」という条件をそのまま意趣返しし、以って自分の優位性を強引に演出しようとしているところである。
人の二番煎じしか出来ない、自分では何も独自に生み出せない、創造性に欠けた、惨めな境涯がよく看取できる箇所である。
更に、当方の実名をフルネームで呼称したり、(^o^) を連打するところなど、内心の怒りが仄見えて、微笑ましくもある。
いすれにせよ、やまいぬ。君の境涯の低さが良く顕れた箇所として、秀逸な箇所である。
創価学会員の愚行の標本としては、いい出来、である。
―――――――――――>
> >わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、

> やさしいだろう?(^o^)

●悔し紛れの捨て台詞、といったところか。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> >さ、明日の夜の駄犬の足掻きに足掻いた返答とやらを楽しみに待つか。

> 昨日は足掛け14時間、今日も昼間の、フツーのひとはフツーに仕事をしておる時間から、
> 足掻きに足掻いておる「泥舟・法華講」よ、無慚極まるな?(^o^)
>
> さ、早うしなさい。(^o^)

●ここも、一言。世の中には雇用する側と雇用される側がある。
雇用される側の論理で雇用する側の行動原理は理解できまい。
貴公の想像を超える世界なのだよ。

他は、ただの反論不能の悔しさの余りのやはり悪口に過ぎない。
甚だ無残・無慙・無惨 である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。50 祝 50回記念!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時30分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●やまいぬ。君とうとう、錯乱状態のようである。
既に詳細に破折されきっている内容を、聞かない・見ない振りをして、痴言を繰り返している様は、実に滑稽である。
いよいよ創価学会の猛毒が如何に人間の理性・知性を溶解させるか、そのまさによき”標本”である。
―――――――――――
> DATE: 11月 9日(木)01時27分56秒
> TITLE: さあ、皆さん!(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 「いよいよ樋田昌志くんが物に狂う」を御覧ください。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

→自分ではもはや反論不能となり、何とか賛同者を呼びかける様は哀れである。
まるで、既に一撃で倒されて見るも無惨な姿なのに、見ている周りの者に向かって「奴のあの蹴り、カッコ悪かったでよね?ね?そうでしょ?」などと同情やら、憐憫を求めている姿、と言えよう。
ここもやはり創価学会の害毒の醜悪さが良く出ている箇所である。
―――――――――――
> 一昨日の足掛け14時間、昨日の午前中から深夜まで、今日は遂に朝の7時台からこの必死の
> 書き込み。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 次に10時前、11時台、等々。
> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間ではないか。(^o^)
> しかも最後は23時台かね?(^o^)
> 止めようのない無慚な修羅で燃え立って、仕事そっちのけで焼かれておる惨状、
> 見るに忍びないね。(^o^)

→既に破折済み。
再掲で事足りる。

●ここも、一言。世の中には雇用する側と雇用される側がある。
雇用される側の論理で雇用する側の行動原理は理解できまい。
貴公の想像を超える世界なのだよ。

更に、こういう教義的な内容と全く関係ないことで懸命に相手を貶めようとするところも、創価学会員の大きな特徴である。
自分が一撃で倒されていることをはぐらかす為に、「あいつ、俺と比べて練習時間がたくさんあるから、卑怯っすよね?ね?」と、上記と同様、周りの同意を求めている空寂しい醜態である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。51  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時54分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

そうそう、更に、もう一点。
やまいぬ。君は自分の能力や境涯で他人の状態を邪推する、極めて視野狭窄な痴れ者である。
当方の投稿の時間と回数に随分と御執心のようだが、終日駄犬の粉砕文を書いている訳でもない。
投稿と投稿の合間には信心も仕事もこなしているのである。
ここなども、やはり時間から時間まで拘束されて働かなくてはならない被雇用者の思考習性の悲しい性が露呈したといえよう。
しかも、駄犬程度の破折文をものするに、さほどの時間は必要ない。
実に快調に書き綴っているのである。
自身が辛苦呻吟して、ない邪知を搾り出して、毎回投稿している低境涯と同様に考えていただいては少々迷惑である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。52  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時57分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >まずは最新のネタから料理しますか。

> そうやって3ヵ月半前の長文のこちらの問いから逃亡するのかね?(^o^)
> まぁなかったことにでもしたいのだろう。(^o^)(^o^)

→ここも既にその理由は明示してある。

再掲
●では、生きのいいネタを料理する方が読者も楽しかろうから、最新の駄犬の駄文から処理していこう。(-。-)y-゜゜゜ 』

→過去の古びた駄論を破折する前に、今現在のコール&レスポンスの早いやり取りを閲覧したほうが読者の皆様にとっては興味をそそられ、内容も理解し易いであろう。との意図である。
また、今時の破折の中に、かつての邪論への粉砕理論が当然含まれるが故に、手間が省ける、というメリットもある。
だが、やまいぬ。君、心配しなくてよい。
この貴公の最後の2・3回の投稿を閲するに、もう既に貴公は完全に教義的な反論不能状態であり、最早これ以上、最新のレスを破折する必要はなくなっている。
ただ詰みきっている将棋の盤面を貴公が理解できないだけのことである。
貴公はそうやって諦めきれずにいつまでも、負けている盤面を執拗に眺めては、「ここはこう打てば逃げられるよね?ね?」と足掻いていればよろしい。当方は流石にそんな初心者を相手にいつまでも付き合っていられるほど、暇人ではないし、その行為は無価値である。価値を創造しないのである。創価的ではないのである。(ーー;)
故に、過去の邪論粉砕に着手するので、こちらの方も楽しみに(戦々恐々として)待っていればよろしい。

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。53  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時58分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >世の中、全ての人がやまいぬ。君と同様に連休明けだからといって忙しい訳では
> >ないのである。

> 挙げてやった。
>
> 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
> とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」

→ここも一言。久遠の御本仏・日蓮大聖人の御言葉を拝するのに、「挙げてやった」?
もう、この言葉使いに貴公の信心の無さが露呈している。
大聖人様を真に尊い御方である、との心が身に染まっていれば、仮初にも発せられる言ではない。
信の無い者が幾ら「蓮祖の仏法云々」と声高に叫んでみても、全くの徒労である。
不信の者が地獄に行く文証は類文繁多であるので、これを省く。
信のないやまいぬ。君など既に試合開始以前に失格である。
まさに顔を洗って出直してきなさい。との見本である。
ここなども創価学会の信心の無さを証明して余りある箇所である。
とかく謗法者とういうものは書くほどに醜悪な根性の馬脚を現すので、実に面白いものである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。54  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)11時50分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「仕事もまた信心」と捉えて、真剣勝負で全力で闘いなさいとの意だ。
> 朝7時台にはじまって、次に10時前、11時台、等々。
> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間だ。(^o^)
> いいかね? 周囲にバレるか否かではないのだよ。少なくとも民間企業のトップがこんな
> おちゃらけた仕事振りで、どうして長く発展などするかね? 坊や自身、よほどの馬鹿で
> なければ、客観的に考えればそれくらいのことは解かるだろう。
> だから云ってやった。「長くはない」と。
> 坊やが挙げた通り、
> >■「仏法と申すは道理なり。」
> >道理が分からない、ということは既に正しい仏法を行じていない証拠なのである。
> の姿そのものだよ。(^o^) 自分の言葉で自己否定してどうするのだね、坊や?(^o^)

●どうも、というか、やはりというか、当方が引文した御文の御意が理解できなかったようである。
当然予測していたが。
ここは、教義的に少々複雑な内容となるので詳細にいきますか。
まず、破折文の再掲。

●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

では以下の御文との整合性はどうとるのか?
まずは、その言い訳が見ものである。
といっても、もはや反論できるだけの気力も知力も失せたか?(-。-)y-゜゜゜
今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの醜態を晒しているだけである。

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

少し、難しい課題だが、頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜ 』以上。

→やはり、御文だけでは理解できないようである。
以前当方と一戦を交えた創価学会員の中には、御文を挙げればそれで自身がどう破折されるか既に先を読んで、沈黙するか、話題を変えたりした者もおり、それなりに楽しかったものだが、この駄犬はどうもそのような二手・三手先を読む知性は持ち合わせていないようである。
実に世話が焼けるが、ある意味、”一般向けのサンプル”としては有用かも知れない。
ではいきますか。
この
■「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」 とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」
との御文を以って、「ただ仕事を懸命にこなすことをそのまま「法華経」の修行である。」と浅薄に捉えるところに錯誤があるのである。
もしそのように捉えると、上掲の御文の御心と大きな矛盾を生じてしまう。(詳細は略す)

この御書の全文をよくよく拝すれば、それは駄犬らが捉えるような軽薄な意味ではないことが知れるのである。
短い御書なのでまずは全文掲載させていただこう。

    檀越某御返事   弘安元年四月一一日  五七歳
 御文(おんふみ)うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。
 日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわ(幸)いなり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山(せっせん)童子の跡ををひ、不軽(ふきょう)菩薩の身になり候はん。いたずらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。をいじに(老死)ヽや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はヾや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかひ、今度心み候ばや。事々さてをき候ぬ。各々の御身の事は此より申しはからうべし。さでをはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給ふにては候らめ。あなかしこあなかしこ。
 御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背(いはい)せず」は此なり。かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。恐々謹言。
 四月十一日               日 蓮 花押

まず、大聖人様へある俗弟子の方がお手紙を差し上げた。その御返答が当御書である。
このある檀越の方には何か、のっぴきならない、切羽詰った問題が発生していたことが御文から拝される。
そこで、ここでは大聖人様が御自らの御難について仰せになられ、法華経故の難に遭ってこそ生死の縛を離れられるのであり、このことこそが今生の人界に生を受けた者の本当の意義ある生き方である。と御身に準えて御教示下さるのである。
その御意は上掲の全ての御文と同義であらせられる。
その上で、そのような法華経流布の為に一身を投げ打って難に遭う姿そのものがそのまま四六時中法華経を行じている行体であることを仰せ下さり、ここに末法での法華経の信心の心構えを暗に御教示なされ、その決意を促されておられる、と拝するのである。
そのような決意、心構えを心中深く抱いて、その上で今の自分の仕事に取り組むとき、その仕事に拘束されている時間全部も法華経を修行していることに為るのである、とお示し下さっているのである。
であるから、その全体の流れを見ずにただ「仕事に精を出すのが法華経の修行だ」などと浅はかに怪釈することは全く御聖意に通じてない浅識なのである。

因みに当方が目指す姿勢は、
■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。
であり、この中の「国主等」の御言葉の中に先ほどの「御みやづかい(仕官)」が含まれることは当然である。

さ、やまいぬ。君、駄犬なりに精一杯頭使って、以上の論証に反駁を試みたらいかがか?
もし、それが出来ないならば、自分の浅識謗法によって当方を故無く誹謗中傷したのであるから、当然、公式に謝罪し脱会するのが筋であろう?
さ、頑張りたまえ。
当方は姑息な「期限」など設定しないから、安心して反論文を書きたまえ。
貴公の足掻き振りは貴公の浅はかな心根が手に取るように分かり易く、実にいい標本採取となるので、楽しみなのである。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。55  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月11日(土)22時03分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下ざっと通読しても、何ら得るものがない。
道理が分からなくなった駄犬の精一杯の強がりが羅列されているだけである。

■「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与断苦の法を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て苦を捨てんと欲す」

→「盲冥にして見る所無し、大勢の仏及与断苦の法(末法の法華経=究竟するところ戒壇の大御本尊)を求めず。深く諸の邪見に入りて苦を以て(=ニセ本尊でも身延のみやげ掛け軸でも何でも”ご本尊さま”に祭り上げられる迷妄)苦を捨てんと欲す」

との状態である。

であるから、ざっと読み進め、目新しい迷妄が見出された箇所がきたら、ポイントを破折することにしよう。
―――――――――――
>
> >今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの
> >醜態を晒しているだけである。

> 大口は、反論出来てからにしなさい、坊や。(^o^)
>
> ダラッダラ知っている御聖訓並べておるが、坊やの3ヵ月半前からの返答不能とは
> 何の関係もない。(^o^) 意味を解かってから並べなさい。(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」
> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。
> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」
>
> >以下が、既述の破折文だが、云々。
> >再掲

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^) だーから「什宝だかの特定のモノあらば正しい」の坊やの主張の
> 文証になっていない御書を「再掲」して何の意味があるのだね、坊や?
> いよいよ狂ったかね?(^o^)
>
> >更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
> >また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
> >※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
> >●ここである。
> >1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。
>
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「傍証」に続いて今度は「あるまいか」?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 何度同じことを書かせるのだね? 坊やの希望的観測や願望など、3ヵ月半前から
> 誰も訊いてはおらんのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >日興上人は明白に
> >■本門寺重宝たるべきなり
> >■万年の重宝たるべきものなり
> >と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。
>
> あーあ…。幼稚園児以下のどっかいりょくの樋田昌志くんよ。(^o^)
> 「重宝がある」「大事にせえ」と、「それらがあるからその宗派は正しい」は、まったく
> 問題が違うのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」のだろうよ?
> 3ヵ月半前の坊やのその主張、さっさと蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか、クズ坊。(^o^)
>
> >「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、
> >その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。

> では身延その他、蓮祖真筆本尊を厳護している多宗派の寺は正しいんだな?(^o^)(^o^)
> と書けば、「いや違う」とまたダラダラ言い訳するのも眼に見えておる。(^o^)
>
> 「モノあらば正しい」と主張し、蓮祖・興師の文証何一つ挙げられず、「他宗派にだって
> モノはあるぜ」と問えば、「それは違う」と全く別のことをどうせ並べる。(^o^)
>
>
> 坊やの「モノ信仰」はね、それを書いた3ヶ月半前に、すでに破綻しておるのだよ。(^o^)
> だから書いてやったろう?
> 「本論に入る前のこのやり取りで、すでに“勝負”あった」と。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やのつまらぬ「傍証」も「あるまいか」も基より無用。(^o^)
> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」とそのものズバリ仰った、蓮祖・興師の文証
挙げてみんか、坊や。(^o^)
> それとも「久遠元初の三宝」、蓮祖・興師では不足だとでもいうのかね?(^o^)(^o^)
―――――――――――
●この辺で一区切りつけようか。

大聖人は駄犬のような道理が分からない、しかも執拗に無闇に文証を問う謗難者にかくのごとく鮮やかに返されている。

■問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併ら法華経に依ると云ふ証拠如何。
答ふ、予反詰して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。

駄犬にこの意を領することは難しかろうから簡単に説明すると、

問者が問う。
天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?
大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。
では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?
(そして道理を御説きに為る。)
この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)

さて、今回の駄犬の妄難。「重宝(もしくは什宝)があれば正しい。という大聖人・日興上人の文証を挙げよ」であるが、
この邪問について、当方では道理に基づき、詳細に説明した。
だが駄犬は、もはや道理が理解できる知性を失っている状態である。
そこで、当方は駄犬にその邪問自体が稚拙かつ暴難である旨を突く為に、反詰しているのである。
ここで、編集し再掲する。
―――――――――――
※ さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、
"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば
”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

追加

『更に、重宝の中の重宝、秘法中の秘法こそ、まさに戒壇の大御本尊である。
重宝云々と言っても、戒壇の大御本尊の存在に尽きるのである。
その戒壇の大御本尊を伝持されていない創価学会などは、広宣流布の暁に建立せねばならない「本門寺の本堂の事の戒壇」の更に中央須弥壇に一体何を安置できるのか?
駄犬が「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と問うその底意は、「創価学会こそが正しい」と主張したいのであり、そのこと自体は戒壇の大御本尊の一事を以って、既に打ち砕かれている。
正しい・正しくない、でいったら、まさにこの一時に尽きるのであり、戒壇の大御本尊が御相伝される大石寺は最強の現証としてまさに”正しい”のであり、戒壇の大御本尊の相伝のない創価学会などはまさに”正しくない=邪な団体”、ということ明白なのである。

■道理・証文、現証に如かず

である。

更にまた、「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬に、
反詰して曰く、「では重宝が伝持・相伝されていないことが正しくない、とする文証を挙げてみよ」となり、また更に踏み込んで「創価学会が正しい、という文証を大聖人・日興上人の文証のみで挙げてみよ」
仏法を少しく学んだ者は皆口々に言う「ニセ本尊などを世界中にばら撒いている創価学会に正義など微塵もないのである。
のみならず、個々の衆生を国を世界を破滅させる諸悪の根源中の根源、汚物の中の汚物である。」と。

大聖人の反駁の方程式をそのまま準えさせていただけばかくのごとくとなり、駄犬の妄執・妄難など一撃である。』

これを明晰に返答してごらん?
もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。
今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。
教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。
もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。
もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
心して、責任ある返答をしたまえよ。
―――――――――――
●何度もその謗法の害毒で破戒されきった頭に教え込むが、「仏法と申すは道理なり」で、「道理」が分からない者こそ、正しい仏道修行をしていない証左なのである。
やまいぬ。君の野卑で理性を欠いた(欠き切った)言動がそのまま謗法による人格破壊の良き(悪き)現証そのものである。
やまいぬ。君当人には自らの人格破壊の現証は当然意識できるものではないだろうが、この双方の投稿のほぼ全文は末永くHP上で閲覧できるよう保存されるので、世の有識具眼の方々が「正しい」宗教を選択する資料として大いに参考にして頂こうではないか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。56  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月11日(土)22時45分53秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●更にここから以下も同様に全く得るべき価値がない、品性の欠けた、ただの感情的な罵声が続くのみである。
ここも、創価学会の害毒による人格破壊のよきサンプルとなるので、このままHP上に保存しておきましょう。
―――――――――――
> >そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、
> >今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
> >こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、
>
> 阿呆よ。(^o^)
> 「あるかないか」をいつ・誰が問うた?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 3ヵ月半も経って、いまさらなにをトチ狂ったことを書いてはぐらかしておるのだね、坊や?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「あるから正しい」という坊やの主張、蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか。(^o^)
>
> まったく手の焼けるクズ坊よ。(^o^)
> それでもかつての「論客」かね?(どうやら私の勘違いであったようだ。(^o^) )
>
>
> >しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性が
> >ねじ腐り果てているだけのことである。

> 3ヵ月半も、たった一つの文証も挙げられぬ徒輩の泣き言がこれか。(^o^)
> 根拠なき云いたい放題など無用だと、何度書けば解かるのだね、ボクちゃん?(^o^)
>
> >2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 阿呆よ。坊やはな、3ヵ月半も前の、「本論」に入る以前のいっとう最初の問いに返答不能で
> 逃げて逃げて逃げ廻っておるのだわ。(^o^)
>
> 確か沖浦先輩の問いに返答もせず、その理由として「一つのやり取りが片付くまで
> 他に返答せず」たる旨のこと書いておったな?(^o^)
> そうやって片端から逃げ廻り、この書き込みの冒頭でも
> >まずは最新のネタから料理しますか。
> と格好つけて、3ヵ月半前からの膨大な問いに返答不能であることをはぐらかし、
> 薄っぺらな意地と体面だけは保とうとする。
> それでも自分が返答不能であることは自分で理解しておるようで、修羅に焼かれて
> 朝の7時台からせっせと書き込み。(^o^)
>
> 坊やはね、筋というものが全く通っていないのだよ。
> 新しい質問をして、そのやり取りで自分の体面を保とうとする以前に、実に3ヵ月半も
> 前の問いに返答せんか。(^o^)
>
> 坊やの「新しい問い」などという資格なし。早うせんか。(^o^)
―――――――――――
→ここは既述のごとく、駄犬が大聖人が愚者・愚問に対して「反詰」されてその迷妄を突く、という原理を知らないだけの無知から来る妄言である。
―――――――――――
>
> >また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という
> >道理にならないか?

> まだ云ってるよ。(^o^)(^o^)(^o^) 今度は「ならないか」?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 苦しいなぁ、坊や?(^o^)(^o^)
> 「什宝あるから正しい」との、蓮祖・興師の文証出しなさい。(^o^)(^o^)
>
> >できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
> ひとに対しては、「新しい問い」に返答出来ねば謝罪・脱会で、自分自身は3ヵ月半
> 返答不能でも脱講届も出さぬのか?(^o^)(^o^)(^o^)
> 甘い、甘い。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やはね、ひとに厳しく、自分には大甘なのだよ。(^o^)
>
> >今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。

> 法的に証明して御覧、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・
> >謝罪をすべきであろう。
> >もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。

> 3ヵ月半の反論不能、そのまま坊やにお返しする。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> さぁ、いよいよ樋田昌志くんは狂ってきたね。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> インターネットサイト上で、自分で自分の名前を明かしておきながら、HN使っておる
> 人間に対して3ヵ月半反論不能状態に陥り、その腹いせに相手の身元を詮索・特定
> しようなど、狂乱の極みだわ、樋田昌志くん。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> やれるものならやって御覧?(^o^) 「個人情報保護法」違反で坊やと坊やの会社がどうなるか、
> そこまで覚悟が出来ているならやって御覧? 受けて立ってあげるぜ、坊や。(^o^)
―――――――――――
→ここは、何を錯乱したか、法の筋道に惑乱して取り乱している見苦しい場面である。

もし「名誉毀損」という罪科を構成したのならば、その人物を特定する作業など当たり前であり、しかもそれは当方が為す作業ではなく、関係当局が「捜査」する事案である。
「名誉毀損」という罪状の嫌疑ある人物を特定する「捜査」を、『「個人情報保護法」違反』という法令で拘束できる訳が無かろう。
本当に馬鹿である。低脳である。
法令の優先順位による多重構成の仕組みが全く理解できていないようである。

■人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。

この御文からして、駄犬の駄文を見れば、駄犬の心根や貧福等は実に露骨に露呈している。
こういうところもやはり「道理に暗い」という、創価学会の謗法の害毒の現証の顕れであり、駄犬の本質的欠陥の一部であり、日常の一々にこういった物事の正常な認識から筋がズレた、外れた行動が頻発しているのであろう。
実にはた迷惑な、独善的で物騒な人物として周りでは認知されていることであろう。
それが大謗法の創価学会を信奉するが故に生じた生命の歪み、濁りであると早めに気がつき、改めないと、今に取り返しのつかない不幸な現証の連続の中で生きていかなくてはならなくなるであろう。(というか、現時でこれほどひずんでいるのであるから、主に人間関係に於いて、本人の知らないところで相当に冷淡な評価が為されていることであろう。
が故に、あくせく働けど働けど、大きな成果に繋がらないのではあるまいか。
法華経誹謗の罰の中に、「他人に酷使され、貧相で貧乏である」(趣意)との現証が説かれているが、駄犬などまさにこの様を今現じているのであろうか。
実に見苦しい醜態である。
駄犬のいう「創価学会の広宣流布」どころの話ではない。
よくよく慎むべきであり、戒めるべきである)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。57  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月12日(日)10時45分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●後、少々、この品性のない罵言とおつきあいしましょうか。
閲覧者の皆様にはまことに申し訳ございません。
かなり飽きてきておられる、と思いますので、錯乱した妄執深き謗法の頭破七分者の、悔し紛れの感情的な足掻きの遠吠えに対しての躾には区切りをつけて、当初の駄犬からの邪難の摧破に取り掛かりましょう。
>
―――――――――――
> >●以下、既に摧破し尽くしている。

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「什宝あるから正しい」との、蓮祖・興師の文証ただ一つも挙げられないクズが、
> 「既に摧破し尽くしている」と逃亡しておる様、とくと御覧あれ。(^o^)
>
> >慢心強い者は成仏しない、と「蓮祖・興師の文証」にはあるのだが、如何か?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> なにを必死ではぐらかしておるのだね、クズ法華講よ。(^o^)
> 誰がそんな文証挙げろと云ったのだね?
>
> 坊やが実に3ヵ月半逃げ続けておるのは、
> 「什宝あらばこそ宗門は正しい」たる、坊やの主張に対する蓮祖・興師の文証だわ。
>
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^) 毒気深入しておるな、坊や?(^o^)
>
> 「 きみの首は公共の面前で、3ヵ月半前から野晒しにされて転がっておるよ、
> 樋田昌志くん。(^o^)」
>
> >日興上人は、お示しになられたそのものが尊く「正しい」から「大事にせよ」と仰せになった、
> >ということは小児でも理解できる理屈である。
> >もし、そうでないとするならば、日興上人は正しくもないものを大事にせよ、と仰ったことに
> >なり、甚だ不自然極まる。

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 何度同じことを書かせるんだね、樋田昌志くん。(^o^)
> 「粗末にする理由無し」、そんあことは当方からも何度も書いておる。
> しかし「粗末にしない」「大事にする」と、「什宝あらばこそ宗門は正しい」は、まったく
> 別問題だわ。(^o^)(^o^)
>
> 自分の負けを認めたくないばかりに、必死で論点をずらして逃げ惑う。(^o^)
> 惨めな3ヵ月半だわなぁ、樋田昌志くん?(^o^)
>
> さ、とっとと「什宝あらばこそ宗門は正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか。(^o^)
>
> >既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> いいかね、坊や?
> 坊やはこの3ヵ月半、ただ1度として坊やの主張した、「什宝あらばこそ宗門は正しい」を、
> 蓮祖・興師の文証挙げて証明などしておらんのだよ。(^o^)
>
> 泣き言無用。「これらの品々あらばこそ、我が宗門は正しい」との蓮祖・興師の文証、
> さっさと挙げんかいな、坊や。(^o^)
>
> でだ。いつまでもこのエンドレスな樋田昌志くん返答不能状態に付き合うのも無駄だ。
>
> もう3ヵ月半も経過した。(しかもまだ本論にすら入る前の最初の1問である。(^o^) )
>
> >あるいは将棋でいったら既に詰んでいる

> 坊や、3ヵ月半前から“詰んでいる”のはこちらなのだよ。(^o^)
>
> 期限を設定する。
> 11/9深夜24時、つまり正確には11/10、0時。
> それまでに樋田昌志くんが主張した、「什宝あらばこそ宗門は正しい」に対して3ヵ月半前に
> こちらの問うた、「その旨の蓮祖・興師の文証挙げよ」に返答不能の場合、樋田昌志くん
> 敗退を確定した上で、謝罪及び脱講届の提出を要求する。(^o^)
>
> もう3ヵ月半前に、実は勝負はついていたのだよ。(^o^)
> それをいまさら必死になって、「傍証」だの「あるまいか」だの「ならないか」だの、
> 自分勝手に腰の引けたことしか書けなくなった、この無慚。(^o^)
>
> かつては一端の「法華講論客」と(一部かもしれないが(^o^) )認識されていた
> 樋田昌志くんのこの落ちぶれよう。
> たった1問で首落とされて実に3ヵ月半――樋田昌志くん、潮時だよ。
> 沈む泥舟・宗門に、いつまで意地でしがみつく気だね?
―――――――――――
→まあ、通読するのも時間の無駄、との感が否めないほどの、内容の無さ、であるが、これ、既に呵責したとおり、

■「邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。」

との大聖人の御指弾そのものの振る舞いである。

道理が見えない愚者とはかくも無慙な痴態を晒すものであり、またその醜悪さに己は気がつかない、というところがまた一段と惨めである。
狂人が自分が狂っていると自覚でできないで、さも正気の如く思い込み、他へ向かって、大声で意味不明で野卑な妄言を喚いているのと何ら替わりの無い狂態である。
創価学会の謗法の害毒の怖さを体現してまざまざと示している姿は、世間に創価学会の不当性や有害性を認識していただくためにもそれなりの価値ある存在、と言わねばならない。
まさに”価値創造”の一役を担っており、立派な”『創価』学会員”ということでもある。

さて、その上で、斯様に、自分で勝手に期限を設定し、その期限に間に合わなければ敗北とみなす。
との手法は、これ、表向きには体面を取り繕い、実質は既に腰の引けている、内心、これ以上追求してほしくない、との願望の顕れであり、そのような実力も無いのに、虚栄心だけは強い、甚だ、傲慢で、慢心高き者が、しばしば用いる、遁走する為の常套手段である。
自分がそのような恥ずべき醜策を提示した、ということすら把握できないほど狼狽している、といえよう。

時間なので今回はここまで。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。58  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月12日(日)23時51分27秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●もはややまいぬ。君の、教義的に何の裏付けもない、狂気そのままのヒステリックな喚き声には、閲覧の方々も辟易していることでしょう。
当方もこのように錯乱した狂犬には、少し頭が冷えるまでは、今のところ何を言っても時間の無駄。
「狂人走って不狂人走る」の愚は侵さないし、それほど暇人でもないのである。
そこで、今後は視点を変えて、この駄犬がかつて吐き垂れていた邪難を詳細に摧破していくことにしよう。
創価学会の大謗法の害毒に蝕まれた駄犬が、これについてまたどのようなリアクションを見せるかが見所である。

おそらく、■「邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。」との仰せそのままに、いつまでも執拗に、「重宝があるなら正しい、という蓮祖・興尊の文証を出せ!」と、一点張りをしてそこに逃げ込み、当方からの新しい観点からの破折・反詰・問難等に頬被りを決め込むことであろう。
そうである場合、駄犬は、繰り返し、蒸し返し、既に完摧されているにも拘らず、内容のない罵言の羅列になるであろうし、それはまた、自らのかつて吐き付けて来た邪論を当方から現在進行形で破折されているにも拘らず、それに反論不能であることを暗に認めたことにもなる。

あるいは、このように、予め釘を刺しておくと、名聞名利強く、慢心の塊、修羅界そのまま、HNそのままの駄”犬”のことであるから、必死に足掻きながら、当方からの破折に的外れな引文を繰り返しつつ、喰らい付いて来るかも知れない。
この場合は、「重宝があるなら正しい、という蓮祖・興尊の文証を出せ!」との駄問に対して、当方が教義的に道理・文証に依って完摧したことへ、論旨明快に反駁できなかったことを、やはり、暗に認めたことになる。

どちらの方針を選択しても、やまいぬ。君にとっては、何かに対して”教義的に反論不能”という結果となる。
さだめし、「王手飛車取り」、とでも言ったところか。(-。-)y-゜゜゜

いづれにせよ、見ものである。
では、いきますか。

―――――――――――
> 蓮祖曰く
> 「仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・
> 伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、
> 末法の始に一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり。 わたうども
> (和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。」
>
> 蓮祖が「さきがけ」されたものに続かないで、いったい何が蓮祖仏法ですか?(^o^)
> 「いつまで経っても我が仏法は広宣流布しない」と蓮祖が書いておられますか?(^o^)
>
> こう書くと法華講さんは、なんとかの一つ覚えで「蓮祖仏法でないものがいくら広まっても」と
> 泣き言云います。情けない。泣き言など100万回繰り返しても広宣流布は一歩も進まない
> のですよ。宗門・法華講が学会よりも広まってから、そういう言葉は吐くものです。
―――――――――――
→この駄犬の妄執は、単純である。
ただただ、「創価学会が「広宣流布」したから正しい。それを斬った宗門が間違っている」程度のものである。
これについては、既に詳細に破折済みである。

ここで、簡単に纏めてみよう。

1、創価学会が戦後「広宣流布」をしていたことを当方は否定していない。

2、しかし、現時ではその当時「広宣流布」していた行動と全く正反対の姿勢である。

3、「広宣流布」とは大聖人の御悟りの根本、衆生救済の根源であられる戒壇の大御本尊を信仰する者を増やすことであり、究極の目的はこの世の中全ての人をそうせしむることである。

4、今の創価学会がやっていることは、3、に全く相当しない。のみならず、大いに邪魔をしている。

5、1、の時代の創価学会は、この3、を忠実に行っていた。

6、駄犬は、この1、の時代の創価学会の功績を楯にとって、それと全く正反対の行動をしている現時の創価学会を正当化しようとしている。
甚だ的外れで、ものの本質が見えていない浅はかな見解である。
これは、新鮮だった魚の美味さや効用を幾ら説いてみても、またその思い出にすがったり、懐かしんでみても、それが腐ってしまえば、全く美味いはずもないし、効用どころか、むしろそれを食すれば害となる、との原理である。
創価学会は今は既に腐ってしまった鯖と同様、否、そんな生易しい害毒ではなく、立正安国論の原理からすれば、まさに、衆生を、家庭を、地域を、国を、全世界を滅ぼす元凶であるところの世界で最悪の極悪邪宗である。
これは本物に似たものほど紛らわしく、そして人数が多い所ほど、社会的な影響が大きいが故である。
まさに、現在の国情不安、異常気象、人心荒廃等の元凶であるところの、安国論に説かれる、現時於ける「この一凶」である。

7、であるから、駄犬の目を覚ます為に、御文がよく読めていない駄犬のレベルにあわせて、かつて正しい広宣流布をしていた当時の創価学会の教義解釈を以って、現時の創価学会の腐り加減を示しているのである。

8、駄犬やまいぬ。君は「創価学会が何であれ正しい!」という頑強な妄執に取り憑かれて、以上のこんな簡明な道理が全く理解できない、頑迷固陋で暗愚な精神レベルに変形・転落している、ということである。

9.これは駄犬やまいぬ。君に限らず、今、邪教創価学会に残留する多くの学会員に共通する迷妄である。

10、実に愚かである。

11、このままでは間違いなく今生では不幸に喘ぎ、死して後は確実に地獄行き、である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。59  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月13日(月)12時47分12秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下の愚か極まる駄犬の反駁について、再反論して置いたほうが、以後の呵責において省力化できるので、少々片付けておきますか。
―――――――――――
> 広宣流布云々について。
> 一、
> >1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を
> >大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。

> 法華講得意の「言い訳・その1」である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> では訊こうか。蓮祖はただ一人から始められて、折伏弘教しなかったのかね?
> 興師は熱原まで出向いていって、一体に折伏の精華(←※ママ)を残さなかったのかね?
> ――されたのだよ、お二人とも。まずこれでout。(^o^)
> 「時代背景」が理由で折伏出来ぬ、は、蓮祖・興師のまさに「信」と「行躰」を以って
> 成立せぬ。(^o^) 残念やね、樋田くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→実に浅はかなものである。今更言うことでもないが。しかし、とことん浅はかである。

1、下種の御本仏が法体を顕発される御修行と、その下種本仏に直接御仕えされた、僧宝随一の日興上人と、その後、その御法体を御相伝・伝持される僧宝としての御歴代上人を頭目とするところの日蓮正宗僧俗の役割の本質が、既に大きく異なる。という、三宝の開き方の筋目が全く理解していないだけのことである。

2、大聖人が末法の法華経の行者として三類の強敵を扣発せられたのには、深い御義があらせられるが、その中の一つとしては、法華経の予証の証明であり、御自身が上行再誕・内証久遠元初の自受用報身如来との立証にある。
もう一義は、末法一切衆生救済の三大秘法随一の根本法体の確立である。

3、この2、の御修行を師弟共に為されるお立場の御方が日興上人である。

4、この、2、3で確立された根本の御法体を密付嘱せられ、厳護し、その御内証を御相伝・伝持され、広宣流布を目指し指揮をとられるお立場の御方が御歴代上人である。

5、根本はあくまでもこの御法体であられる戒壇の大御本尊である。

6、戒壇の大御本尊坐してこそはじめて「広宣流布」ができるのであるから、まずは戒壇の大御本尊を厳護し御守護申し上げることが最重要課題である。そこに、一点の遺漏なき上での「広宣流布」への精進でなければならないのである。

7、御歴代上人方の御苦心・御苦労はこの重大事を慮れば計り知れない。

8、繰り返し整理するが、法体を顕発されるお立場が故の、弘教・呵責・三類の強敵の扣発・日興上人の御指揮の元での熱原法難・戒壇の大御本尊の顕発・御内証を御相伝。  との次第と、
その御相伝された戒壇の大御本尊を御守護されながら広宣流布を目指す御歴代上人のお立場が、自ずと筋目が違うのである。

9、であるから、御r歴代上人は、時々の政治形態や国内情勢に最大限の留意をされながらの広宣流布への歩みを運ばれてきたのである。

10、そのご苦心に想いを馳せる時、感涙止めどない。謗法で根性の根っ子の底まで腐り果てた駄犬になど到底思いも及ばない尊い御事跡である。

11、その広宣流布根源の御法体の戒壇の大御本尊が、全くの汚れ穢れを寄せ付けず、現に奉安堂にましますことが、御歴代上人が正しかったことの何よりの”現証”である。

12、宗祖滅後約700年、■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。」で、未だ広宣流布が達成はしていないが、それを以って御歴代上人に咎ある、などということは全くない。

13、もし、駄犬が言うが如く「大聖人・日興上人以降の御歴代上人が正しい仏道修行をしていなかった」というのなら、何故、牧口氏や戸田氏は日蓮正宗に入信する必要があったのか?そんな「弛んだ、だらけた宗派」になど端から入門する必要など無いではないか。
もっと他所の、”大聖人の仏法を正確に伝えている”はずの宗派に入るか、自分らで”大聖人の正統な仏法”を始めれば良かったのではないか?

14、駄犬の妄執など、その創価学会の原点を考えれば、子供でも矛盾していることに気がつくほどの稚拙なものである。実に低脳というべきである。そういう低脳者の癖に、仏法を生齧りにして生意気なことをいうが故に、斯様な十四誹謗の殆どを侵しており、堕獄必定の者というのである。

@憍慢(きょうまん)(驕(おご)り高ぶって正法を侮(あなど)ること)
A懈怠(けたい)(仏道修行を怠(なま)けること)
B計我(けいが)(自分勝手な考えで仏法を推(お)し量(はか)ること)
C浅識(せんしき)(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること)
D著欲(じゃくよく)(欲望に執着して正法を軽んじ、求めようとしないこと)
E不解(ふげ)(仏法を正しく解(わか)ろうとしないこと)
F不信(ふしん)(正法を信じないこと)
G顰蹙(ひんじゅく)(正法を非難すること)
H疑惑(ぎわく)(仏法を疑い、迷うこと)
I誹謗(ひぼう)(仏法を謗(そし)り、罵(ののし)ること)
J軽善(きょうぜん)(根本善である正法を受持する者を軽蔑(けいべつ)し、莫迦(ばか)にすること)
K憎善(ぞうぜん)(正法を受持する者を憎むこと)
L嫉善(しつぜん)(正法を受持する者を怨嫉(おんしつ)すること)
M恨善(こんぜん)(正法を受持する者を恨(うら)むこと)

よくよく、今生後生を畏れるべきである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。60 祝う60回記念!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月14日(火)22時29分59秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ん?、

> DATE: 11月13日(月)00時07分48秒
> 返答するのは簡単だが、乗ってあげないよ。(^o^)(^o^)(^o^)

と言っていたにも拘らず、早くも「乗って」きたらしい。
こういう自分で言ったことを平然と覆しても恬として恥じない精神構造を「頭破七分」という。
創価学会員に多く見られる謗法の悪果報である。
こんな恥知らずの者達が国中に多数いるのであるから、実に物騒な世の中である。
混乱と災難・事故の発生原因達である。

まっ、しかし、折角、書いてくれたんだから、大いに呵責させていただきましょう。
―――――――――――
> DATE: 11月14日(火)01時33分58秒
> TITLE: 樋田昌志くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 相変わらず平日からせっせと書き込みかね?
> その割にはその前日までの3日間も朝からせっせと書き込んでおったのに、
> 4ヶ月前の反論期限を設けてやった日に限ってはダンマリであったな。(^o^)
>
> その4ヶ月前の「本論」以前の1問で首落とされた上、膨大な「本論」にはいまだ
> 手付かずかね?(^o^)(^o^)(^o^) それで連日書き込んで「59」?
> なんとも暇な坊やだ。(^o^)

→どうという内容ではないので、次。
>
―――――――――――
> > 広宣流布云々について。
> > 一、
> >1、宗教が法律的に全く自由になったのは、戦後である。それまでは、何らかの政治的制約を
> >大なり小なり受けており、本来の自由闊達な布教活動が出来なかった歴史的背景がある。
>
> 「 法華講得意の「言い訳・その1」である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> では訊こうか。蓮祖はただ一人から始められて、折伏弘教しなかったのかね?
> 興師は熱原まで出向いていって、一体に折伏の精華(←※ママ)を残さなかったのかね?
> ――されたのだよ、お二人とも。まずこれでout。(^o^)
> 「時代背景」が理由で折伏出来ぬ、は、蓮祖・興師のまさに「信」と「行躰」を以って
> 成立せぬ。(^o^) 残念やね、樋田くん?(^o^)(^o^)(^o^)」
>
> で、ここから延々たる泣き言と言い訳のオンパレード。(^o^) ついでだ。
> >精華(←※ママ)
> ちゃんと「精華」と書いたのだよ。「成果」の変換間違いではない。(^o^)(^o^)
>
> >1、下種の御本仏が法体を顕発される御修行と、云々。
> >2、大聖人が末法の法華経の行者として三類の強敵を扣発せられたのには、云々。
> >3、この2、の御修行を師弟共に為されるお立場の御方が日興上人である。
> >4、この、2、3で確立された根本の御法体を密付嘱せられ、厳護し、その御内証を
> >御相伝・伝持され、広宣流布を目指し指揮をとられるお立場の御方が御歴代上人である。

↑やはり、閲覧している方もいるのであるかから、略さずいきましょう。
―――――――――――
→実に浅はかなものである。今更言うことでもないが。しかし、とことん浅はかである。

1、下種の御本仏が法体を顕発される御修行と、その下種本仏に直接御仕えされた、僧宝随一の日興上人と、その後、その御法体を御相伝・伝持される僧宝としての御歴代上人を頭目とするところの日蓮正宗僧俗の役割の本質が、既に大きく異なる。という、三宝の開き方の筋目が全く理解していないだけのことである。

2、大聖人が末法の法華経の行者として三類の強敵を扣発せられたのには、深い御義があらせられるが、その中の一つとしては、法華経の予証の証明であり、御自身が上行再誕・内証久遠元初の自受用報身如来との立証にある。
もう一義は、末法一切衆生救済の三大秘法随一の根本法体の確立である。

3、この2、の御修行を師弟共に為されるお立場の御方が日興上人である。

4、この、2、3で確立された根本の御法体を密付嘱せられ、厳護し、その御内証を御相伝・伝持され、広宣流布を目指し指揮をとられるお立場の御方が御歴代上人である。

5、根本はあくまでもこの御法体であられる戒壇の大御本尊である。

6、戒壇の大御本尊坐してこそはじめて「広宣流布」ができるのであるから、まずは戒壇の大御本尊を厳護し御守護申し上げることが最重要課題である。そこに、一点の遺漏なき上での「広宣流布」への精進でなければならないのである。

7、御歴代上人方の御苦心・御苦労はこの重大事を慮れば計り知れない。

8、繰り返し整理するが、法体を顕発されるお立場が故の、弘教・呵責・三類の強敵の扣発・日興上人の御指揮の元での熱原法難・戒壇の大御本尊の顕発・御内証を御相伝。  との次第と、
その御相伝された戒壇の大御本尊を御守護されながら広宣流布を目指す御歴代上人のお立場が、自ずと筋目が違うのである。

9、であるから、御r歴代上人は、時々の政治形態や国内情勢に最大限の留意をされながらの広宣流布への歩みを運ばれてきたのである。

10、そのご苦心に想いを馳せる時、感涙止めどない。謗法で根性の根っ子の底まで腐り果てた駄犬になど到底思いも及ばない尊い御事跡である。

11、その広宣流布根源の御法体の戒壇の大御本尊が、全くの汚れ穢れを寄せ付けず、現に奉安堂にましますことが、御歴代上人が正しかったことの何よりの”現証”である。

12、宗祖滅後約700年、■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。」で、未だ広宣流布が達成はしていないが、それを以って御歴代上人に咎ある、などということは全くない。

13、もし、駄犬が言うが如く「大聖人・日興上人以降の御歴代上人が正しい仏道修行をしていなかった」というのなら、何故、牧口氏や戸田氏は日蓮正宗に入信する必要があったのか?そんな「弛んだ、だらけた宗派」になど端から入門する必要など無いではないか。
もっと他所の、”大聖人の仏法を正確に伝えている”はずの宗派に入るか、自分らで”大聖人の正統な仏法”を始めれば良かったのではないか?

14、駄犬の妄執など、その創価学会の原点を考えれば、子供でも矛盾していることに気がつくほどの稚拙なものである。実に低脳というべきである。そういう低脳者の癖に、仏法を生齧りにして生意気なことをいうが故に、斯様な十四誹謗の殆どを侵しており、堕獄必定の者というのである。』
―――――――――――
> 飛ばして
> >8、繰り返し整理するが、法体を顕発されるお立場が故の、云々。
> 飛ばして
> >12、宗祖滅後約700年、■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。
> >時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。」で、未だ広宣流布が達成はして
> >いないが、それを以って御歴代上人に咎ある、などということは全くない。
>
> 上記すべて、また言い訳だよ。(^o^)(^o^)(^o^)
> 蓮祖・興師と歴代坊主は意味が違うと云いながら、都合よく「内証は蓮祖」、
> 「じゃあその“内証”とはなんだね?」と問うと「知らん」。(^o^)(^o^)
> ※『アタマは大丈夫かね、樋田昌志くん?(^o^)』

→駄犬はどうも語彙が貧弱らしい。反論の論旨に詰まると必ずこういう※の1パターンの言葉で相手を罵るしか、手立てが無いようである。実にお気の毒なお寒い程度の知性と言えよう。

さて、内容となると、更にお寒いものがある。
御歴代上人の御内証はまさに戒壇の大御本尊の御内証を御相伝下さっているのであって、別に大聖人と同一人格であり、かつまた、同一行動をされなければならない、などと当方は言ったことがない。
駄犬の好きな、ここも語彙に乏しい1パターンの表現「にほんごがよまない」、という知性の低い、駄犬自身がまさに勝手に浅はかに軽はずみに妄断して、一人舞い上がっているだけの話である。

仏宝=大聖人
僧宝随一=日興上人
一閻浮提の御座主=日目上人
末法万年への伝持の僧宝=御歴代上人
との次第があるのは仏法を学す者が識る初門である。
であるから外用の辺においては自ずと差異が存するのは当然である。
しかし、御内証に於いては、戒壇の大御本尊の御内証を御相伝・伝持される御立場としては、上記全ての御方の御内証も等しくあらせられる。ということである。
上記の如く、名が違うと同様にお役目・お立場に自ずと違いがあられるのである。
駄犬は浅識故に、ただ、「大聖人・日興上人と全く同じ行動をしない者は、僧宝と認めない」と錯誤しているだけの幼児である。(あっ、その前に「犬」であった。すまん。すまん。無理もない。人間しか理解できない御法門を理解できる訳がない境涯であった。)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。61  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月15日(水)04時38分39秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●尊い血脈正しい御本尊様に丑寅勤行させていただいた後に、一題くらい御奉公させていただきます。
>
―――――――――――
> 「信」も「行躰」も伴わず、ただ相承受けたらその瞬間から「内証は蓮祖」、いつになったら
> 文証挙げられるのだね?(^o^)(^o^)
>
> 何度でも挙げてやろう。
>
> 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして
> 南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
> 然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。」
―――――――――――
→さて、駄犬は同じところをグルグル回り続けているようである。
やまいぬ、とは野生の犬、との意味があるのに、この駄犬、どうも創価学会に飼われている”家犬”らしく、妄執の首輪に繋がれて無闇矢鱈に吼えながら、同一半径の円周を際限なく回り続けることしか能がないらしい。

こんな、野卑で下卑た下司の謗法者が、御歴代上人に対して、「信」がどうだの「行躰」がどうだのと、よく言えるものだと感心する。
戒壇の大御本尊の御内証を御歴代上人が御相伝され伝持されている何よりの証拠は「御本尊書写が出来る」という御尊行に窮尽される。
駄犬は、以下の詰問について全く反論不能状態である。
―――――――――――
※『●> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

→実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?

● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは"御本尊" になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま"コピー"した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。 』
―――――――――――
■「道理・証文も現証に如かず。」であり、繰り返すが御本尊書写を為すことが出来る唯一の方が御法主上人である。
しかも、まさに御相承をお受けになられてからしか御本尊書写はなされないのであり、
『相承受けたらその瞬間から「内証は蓮祖」』との現証そのものである。

当然過ぎるほど当然だが、自分では御本尊書写は出来ようはずはなく、根性が謗法で腐り切った駄犬のような者は、まず、※〜※の反問に論理明晰に返答が出来てから、

> 「信」も「行躰」も伴わず、ただ相承受けたらその瞬間から「内証は蓮祖」、いつになったら
> 文証挙げられるのだね?(^o^)(^o^)

などという生意気な言を吐きなさい。

しかも、駄犬は、大聖人・日興上人以外の日蓮正宗の御歴代上人は、全て、『「信」も「行躰」も伴わず』云々、と下し切っているにも拘らず、その自分が蔑如仕切った御歴代上人が書写された御本尊を拝んでいる。
(自宅では日達上人御書写の御形木御本尊で、会館では日寛上人が御書写された御本尊を元に作ったニセ本尊。)
自分は御本尊書写は出来ないが、自分が大いに軽蔑するところの人物が書写した”御本尊”には、合掌して真剣にお願い事をしたりなどして、尊い思いを持って、拝む。。。。。。。
こんな、まさに小学生が聞いても大いに首をかしげ、しかる後に、その馬鹿さ加減に思い至り、思わず噴き出すほどの大矛盾を平然として行うことができる者をこそ、やはり「頭破七分」と言って、大謗法の極悪果の「現証」である。
まさに、馬鹿。である。
”やまいぬ。”どころではなく、”馬鹿。”そのものである。
”狂人”と言った方が適切か。

まっ、とにかく、駄犬の妄執深き、愚鈍な頭に根本的な詰問である。

1、御法主上人以外は誰が書写できるのか?
2、もし出来る者がいない場合、では何故御法主上人にしかできないのか、
3、できるとすれば、誰か?その理由は?

以上を「蓮祖・興師の御文のみ」で明証せよ。それが出来たら少しは見直してあげましょう。
↑駄犬には絶対に無理である。が故に、駄犬は口汚く吼えながら、またもや同じ邪難に閉じ篭り、繰り返しそれを喚き散らすしか能がないであろう。
この駄犬の応対は見ものである。当方が言った通りに足掻くであろうから。
さ、やまいぬ。君、頑張って、当方の”予測”を大いに裏切って鮮やかな反論を見せてくれたまえ。
やまいぬ。君がどのように足掻き、どのような野卑な言を吐き散らかすか、実に楽しみである。
それが、またしても創価学会の害毒を証明する善き”現証”になるからである。
大いに、醜い謗法根性を剥き出しにして見せてくれたまえ。頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。62  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月15日(水)23時14分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●以下の部分についてまだ摧破していなかった。
―――――――――――
> 何度でも挙げてやろう。
―――――――――――
↑ここも、以前破折した通りの驕慢さである。
駄犬が如何に大聖人様に対して、また大聖人様の御法門に対して不遜であるか。
信心のかけらもない、増上慢の薄汚い謗法者であるか、容易に看取できる一言である。

「挙げてやろう」だと?
もし、少しでも大聖人様に対し奉り尊仰の心があれば、決して使えない語法である。
こういうところからしても、全く敬虔な信心もない野犬の癖に、御本尊書写を為される唯一の御方であられる御歴代上人に対し奉り「信」がない、だとか、「行躰」が緩い、などと嘯くとは、身の程知らずも甚だしい。
驕慢ここに極まれり、の堕獄必定の愚態である。
―――――――――――
>
> 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして
> 南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
> 然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。」
>
―――――――――――
↑は?何を論証する為にこの御文を引文したのか。
信心のない馬鹿は何をやっても的外れである。

1、「日蓮が弟子」とは誰か?僧分の方々のことである。
それは、次下に「檀那」=在家・俗弟子分、とあるように、相対して説かれておられるところからも明確である。

2、であるから、この御文は、
『御僧侶(もちろん本師であられる御法主上人と、その御心を体して御精進される御尊師方との意)と在家信徒等が、異体同心にして、広宣流布を本気で願って、広宣流布の根本の御法体・戒壇の大御本尊へ南無妙法蓮華経のお題目を唱えることが、まさに、即身成仏と広宣流布が叶う信心の血脈の要諦である。』
との意義と拝するのである。
(南無妙法蓮華経⇒戒壇の大御本尊へ究竟される道理は詳述済み。駄犬や、そうそう、沖浦君などの論理明快な反論がないままである。)

つまり、この『生死一大事血脈抄』は別しての血脈であられる、唯授一人・血脈相承を御所持される御法主上人を基としての、総じての辺に於ける信心のあり方をお説きになられた御文と拝するのであるが、しかし、こうして詳細に拝すれば、総じての信心の血脈に力点を置かれながらも、成仏の要諦である「師弟相対」の筋目はきちっとお説きあそばされているのである。

大聖人様の仏法の本筋は、この御文に示されるごとく、大聖人様以来連綿と相伝された、戒壇の大御本尊と、その御内証を伝持される御歴代上人の御指南を基として、御尊師方と我等在家信徒らが、心の底から尊敬・信頼しあって、共に戒壇の大御本尊へ南無妙法蓮華経と唱えて行く時にこそ、広宣流布の大願が叶うのである。

「弟子檀那」という御言葉を「信心」で深く拝することができれば、当然至極、この御文は斯様に拝することが、正解である。
駄犬は信心がないから、大聖人の御文をあまりにも浅はかな捕らえ方しかできないから、自らを正当化しようとして挙げた御文で、このように自らがバッサリ斬られる、という醜態を晒すはめになるのである。
まことにご愁傷様。
げに、信心がない者は、無慙至極である。

そして、更に追求すれば、駄犬や沖浦君ら創価学会は、この仰せを守らなかったが為に、広宣流布が叶わないのである。
まさに、既に書いたように
―――――――――――
■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。」

やまいぬ。駄犬や沖浦君の如き、頑迷固陋にして、邪心深き者がまだまだ多きが故に、真の大正法は広まり難いのである。
自分がその邪宗徒に成り下がって三大秘法の流布を邪魔しているその当人らであるのに、その三大秘法の本源、戒壇の大御本尊を軽侮、揶揄、不信して「広宣流布は何故進まなかった?」などと訊くとは、実に滑稽極まりない痴態である。思わず大笑いである。
自分が殺人犯であるにも拘らず、警察署に行って、自分が殺めた人のことを取り上げ、「何故あの人の命を助けられなかったんだ!?」と怒鳴っているような狂態である。
またそのみっともなさに気づかないところが頭破七分で無慙極まりない。
貴公らのような醜悪な機根で生まれついたその自らの悪因縁と悪宿業を深く見つめなおすがよい。
―――――――――――
と、いうことである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。63  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月17日(金)12時52分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●さて、やまいぬ。君、最新の投稿などは、全く狂乱の態、と言った有様である。
既に指摘しておいた通りの振る舞いであり、実に能がない醜態である。
如何に智慧が乏しいかを示す善き標本である。

既に指摘しておいた呵責
―――――――――――
●1、
→さて、駄犬は同じところをグルグル回り続けているようである。
やまいぬ、とは野生の犬、との意味があるのに、この駄犬、どうも創価学会に飼われている”家犬”らしく、妄執の首輪に繋がれて無闇矢鱈に吼えながら、同一半径の円周を際限なく回り続けることしか能がないらしい。
―――――――――――
→因みに、駄犬がどういう意図で「やまいぬ。」と名乗ろうが、そんなことは一般の閲覧者には関係がない。自己満足の世界である。
やまいぬ、は、やまいぬ、でしかなく、そこから一般的に意味されるものは、「山犬」である。
所詮本名も名乗れないHNの由来など、全く無意味である。
それをまた、↓このように、

●>やまいぬ、とは野生の犬、との意味があるのに、

▼詰まらん。これも何度も書いた。
「山犬」とは「ニホンオオカミ」のことであるが、「やまいぬ」はある英語の私の“意訳”である。
(^o^) つまり日本にはいない生き物であり、日本語名はない。

などと、むきになって説明することなど、愚行中の愚行である。
まさに、馬鹿の見本、とでもいったありさまである。
―――――――――――
●2、
駄犬は口汚く吼えながら、またもや同じ邪難に閉じ篭り、繰り返しそれを喚き散らすしか能がないであろう。
この駄犬の応対は見ものである。当方が言った通りに足掻くであろうから。
(中略)
やまいぬ。君がどのように足掻き、どのような野卑な言を吐き散らかすか、実に楽しみである。
それが、またしても創価学会の害毒を証明する善き”現証”になるからである。
大いに、醜い謗法根性を剥き出しにして見せてくれたまえ。頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
以上の如く、やまいぬ。君がみっともない駄文の繰り返しをしないように、それとなく忠告の伏線を敷いておいてあげたのに、駄犬はもろにその愚行を繰り返している。
こういう、教義的に深い論の展開によっての反駁が全く為されず、破折され尽くされている内容を、自分ではそれと気づかずに、くどくどと、だらだらと、繰り返している状態こそ、まさに”反論不能”と言うのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。64  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月17日(金)17時30分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●あいも変わらず、同じことを執拗に繰り返しているだけの無能振りを遺憾なく晒しているようである。
教義的には全く無内容となってきたので、相手にする必要もなくなってきた。
であるから、また、少々前の愚論を粉々にしていきましょう。
―――――――――――>
> 叶うどころか750年も経ってロクに進んでもいないものを「咎なし」?(^o^)
>
> 随分前から何度も問うて、誰一人返答不能だね。
> 宗門は現在、何カ国・何人なのだね? こんな簡単なことに何故誰一人返答出来ん?
>
> 学会の丁度10倍ほどの歴史を持ちながら、まさか「謗法」と規定したその学会の
> 足許にも及ばぬ惨敗をしておるのではなかろうね、坊や?(^o^)
> 学会以前は邪宗に負け続け、学会成立後は学会にも負け続けて、それでなにが
> 蓮祖正統だね? 負けて負けて負け続けの蓮祖仏法などというものがあるのかね?
> (^o^)「広宣流布の大願」叶えられずば「日蓮が弟子檀那」などではないわ。

●まっ、とにかくこの愚人の執着は、ここに尽きるようである。
しかも、そこに固着した邪想から全くの正視眼を失って、聞き分けのないただの幼児と化しているだけである。
(そんな可愛いものではないな。やはり、人界の言葉が理解すら出来ない畜類、つまり駄犬・狂犬の類か。)

既に、この妄執は斬り倒している。
以下、編集を加え再掲する。
―――――――――――
→この駄犬の妄執は、単純である。
ただただ、「宗門は七百年間「広宣流布」してこなかった。だから日蓮正宗には大聖人の仏法の精神などない。創価学会は宗門が七百年間してこなかった弘教を多数したから正しい。それを斬った宗門が間違っている。」程度のものである。
これについては、既に詳細に破折済みである。

ここで、簡単に纏めてみよう。

1、創価学会が戦後「広宣流布」を目指し、多くの人々へ弘教をしていたことを当方は否定していない。

2、しかし、現時ではその当時弘教をしていた行動と全く正反対の姿勢である。

3、「広宣流布」とは大聖人の御悟りの根本、衆生救済の根源であられる戒壇の大御本尊を信仰する者を増やすことであり、究極の目的はこの世の中全ての人をそうせしむることである。

4、今の創価学会がやっていることは、3、に全く相当しない。のみならず、大いに邪魔をしている。

5、1、の時代の創価学会は、この3、を忠実に行っていた。

6、駄犬は、この1、の時代の創価学会の功績を楯にとって、それと全く正反対の行動をしている現時の創価学会を正当化しようとしている。
また、戦後創価学会が多数の信徒を増やしたその数だけに捉われ、それ以前の日蓮正宗を蔑如している。
甚だ的外れで、ものの本質が見えていない浅はかな邪解である。
―――――――――――
別箇所から再掲

一時期、創価学会が戒壇の大御本尊へ参詣し、各末寺の御住職から御本尊を受け流布していた、確かに「広宣流布」を推進していた、と言える時代もあった。
がそれも、一大秘法の根源の御当体であられる戒壇の大御本尊を侮蔑し、不信し、更には三宝をことごとく破戒している今となっては、その功徳も功績も全て灰燼に帰したといえよう。
もし、今の創価学会の行為が正しいのなら、破門以前の行動は全て謗法であった、ということになる。
逆に過去の創価学会の行為が正しいのなら、今の行動は完全な謗法行為である。
どちらを是認しても結局は創価学会の存在そのものの否定という大自己矛盾に逢着するのである。
それはなぜかといえば、創価学会の教義的解釈の根本が大きく180度変質してしまったからである。
―――――――――――
一度入信し大きな功績を残しその後退転する者など別に珍しいことではない。
かつての五老僧然り、波木井実長然りである。
創価学会が、またそうだっただけである。
別にかつて三大秘法を流布し「広宣流布」に貢献したからといって、今それと全く正反対のことをしておれば、結局はただの謗法者・謗法団体・地獄行き、である。
―――――――――――
これは、新鮮だった魚の美味さや効用を幾ら説いてみても、またその思い出にすがったり、懐かしんでみても、それが腐ってしまえば、全く美味いはずもないし、効用どころか、むしろそれを食すれば害となる、との原理である。

創価学会は今は既に腐ってしまった鯖と同様、否、そんな生易しい害毒ではなく、立正安国論の原理からすれば、まさに、衆生を、家庭を、地域を、国を、全世界を滅ぼす元凶であるところの世界で最悪の極悪邪宗である。

これは本物に似たものほど紛らわしく、そして人数が多い所ほど、社会的な影響が大きいが故である。
まさに、現在の国情不安、異常気象、人心荒廃等の元凶であるところの、安国論に説かれる、現時於ける「この一凶」である。
―――――――――――
●駄犬は弘教人数のみでさも創価学会が正しい、と迂闊に信じているようであるが、馬鹿である。
あくまでも根本の法門の正邪が重要なのである。

■汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ(『聖愚問答抄』)

ここに仰せの「正理」とは何か。

■凡そ正とは一の止まる所なり。(日寛上人・安国論愚記)

との仰せからも明白であるが、大聖人一期の御化導中、正中が正の戒壇の大御本尊へ窮尽される。
つまりは、戒壇の大御本尊への信仰のあり方をまず以って探索し検証し、正邪を判定すべきであって、人数の多寡を以って正邪を云々すべきではない。増してや、人数の多さを楯にとり、そのことのみで正しいと妄執するなど愚の骨頂である。との御心である。

■一、多人数も仏法に非ず・(中略)仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり。(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻146頁)

ここに仰せの「信心無二して筋目を違へず」という意義は、

1、戒壇の大御本尊への信仰⇔そのまま御内証を顕された各末寺の御本尊への信仰⇔各末寺から御下付された各家庭の御本尊への信仰、という縦に一筋を「無二」に信じる「筋目」

2、戒壇の大御本尊の御内証を伝持・相伝される御歴代上人への尊信⇔その御法主上人に連なる御尊師方への尊信、という縦に一筋を「無二」に信じる「筋目」

という、この二意を違えない、という意味である。

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
かつてそれなりに正しかったからといって今が正しい根拠とはならないことは既述した通りである。

8、駄犬やまいぬ。君は「創価学会が何であれ正しい!」という頑強な妄執に取り憑かれて、以上のこんな簡明な道理が全く理解できない、頑迷固陋で暗愚な精神レベルに変形・転落している、ということである。

9.これは駄犬やまいぬ。君に限らず、今、邪教創価学会に残留する多くの学会員に共通する迷妄である。

10、実に愚かである。

11、このままでは間違いなく今生では不幸に喘ぎ、死して後は確実に地獄行き、である。

さて、その血統正しい、日蓮正宗から正式に御下付された御本尊様の御元で夕の勤行をさせていただきましょう。
駄犬などには逆立ちしてもできないことである。
そうか、犬は逆立ちも出来ないか。呵々。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。65  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月20日(月)13時45分6秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●またぞろ駄犬が何やら喚いているようであるが、ただ見境なく何度も同じことを吠え付いているだけであるから、別段取り合うべき内容もないし、既に吐き垂れている駄言と全く同じであるから、続きを砕き切っていきますか。
―――――――――――
やまいぬ。君の駄問を完摧す。59  投稿者:管理人(樋田昌志・

> >5、根本はあくまでもこの御法体であられる戒壇の大御本尊である。
> >6、戒壇の大御本尊坐してこそはじめて「広宣流布」ができるのであるから、まずは
> >戒壇の大御本尊を厳護し御守護申し上げることが最重要課題である。
>
> 阿呆。(^o^)
> 蓮祖曰く、
> 「日本国の一切衆生の受くる苦悩は、悉く日蓮一人が属于一人なり、教主釈尊は唯我一人・
> 能為救護、日蓮は一人能為救護に云云、(中略) 三界は是れ仏の化応の処発心已来
>
> 誓つて度脱せんと願う、故に属于一人と云うと、此の釈に発心已来誓願度脱の文、
> 豈日蓮の身に非ずや云云。」
>
> >まずは戒壇の大御本尊を厳護し御守護申し上げることが最重要課題である。

> ただの「モノ」信仰の伽藍仏教である。(^o^)
>
> 蓮祖仏法の「最重要課題」はただ一つ、この蓮祖の大慈大悲を我が思いとして、
> 現実に宿業に喘ぐ一切衆生に一日も早く広宣流布し、その大苦から救うことだわ。
> 「モノ」護ればそれでよしなど、蓮祖がどこに云っておるのだ? 広宣流布など
> ロクに進めなくてもいいなどと、いったいどこで仰せなのだ?
> だから随分以前に書いてやった。「宗門は、蓮祖仏法も御本尊も南無――も知らずに
>
> 750年間に生まれて死んだ人間を、言い訳ばかりを繰り返して見殺しにしてきた」と。
―――――――――――
→ この駄犬、既に何度か指弾しておいたが、御文の引文が自分が言わんとしている内容に対して全く証明の意味を成していない。
的が外れている。
何でも御文を振り回せばいいというものではない。
まっ、所詮”犬”だから、無理もないと言えばそうであるが、しかし、見るも無惨である。
最早、駄犬などには理解不能であるから、駄犬は分からないで、キャンキャン吼えているだけで結構。
破折されている内容すら理解できないが故に自分の妄執に閉じ篭り何べんでも繰り返し吼えていればよろしい。
そのぶざまな様相が創価学会のぶざまさを表象してくれて実によき標本と成り得ているからである。
ではいきましょう。
まず、この段の全文。

 一 是朽故宅(ぜくこたく) 属于一人(ぞくういちにん)の事 (※是の朽ち故(ふ)りたる宅(いえ)は 一人に属せり)

 仰せに云はく、此の文をば文句の五に云はく「失火の由(よし)を明かす」と。此の宅は三界の火宅なり。火といふは煩悩なり。此の火と宅とをば属于一人(ぞくういちにん)とて釈迦一仏の御利益なり。弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護(くご)に非ず。教主釈尊一仏の御化導なり。唯我一人(ゆいがいちにん)能為救護(のういくご)とは是なり。此の属于一人の経文を重ねて五の巻提婆(だいば)品に説いて云はく「三千大千世界を観(み)るに、乃至芥子(けし)の如き許(ばか)りも、是菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し。衆生の為の故なり」と。妙楽大師此の属于一人の経文を釈する時、記の五に云はく「咸(ことごと)く長者に帰す。一色一香一切皆然(しか)なり」と判ぜり。既に咸帰(げんき)長者と釈して、法界に有りとし在る一切衆生の受くる苦悩をば、釈尊一人の長者に帰すと釈せり。一色一香一切皆然なりとは、法界の千草万木(せんそうまんもく)飛華落葉(ひけらくよう)の体(てい)たらく、是(これ)皆無常遷滅(むじょうせんめつ)の質(すがた)を見て仏道に帰すも属于一人の利益なり。此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。所詮末法に入りて属于一人の利益は日蓮が身に当たりたり。日本国の一切衆生の受くる苦は悉く日蓮一人が属于一人なり。教主釈尊は唯我一人能為救護、日蓮は一人能為救護云云。文句の五に云はく「是朽故宅(ぜくこたく)属于一人(ぞくういちにん)より下第二に一偈(げ)有り、失火の由を明かす。三界は是仏の化応(けおう)の処、発心より已来誓って度脱せんと願ふ。故に属于一人と云ふ」と。此の釈に発心已来誓願度脱の文、豈日蓮が身に非ずや。

こうして全段を一読すれば理解できることであるが(注 ”犬”には無理のようだったが)これは、御本仏日蓮大聖人が実は末法での教主であり、唯我一人能為救護の御方である。との御意と拝するのである。
であるから、
■三界は是仏の化応(けおう)の処、発心より已来誓って度脱せんと願ふ。故に属于一人と云ふ」と。此の釈に発心已来誓願度脱の文、豈日蓮が身に非ずや。
との御言葉も、まさに久遠元初の御本仏が末法に御出現になって、出家得道されてから一期の御化導のお姿とご心境をお示しになり、末法の教主釈尊である、と再証された御文と拝するのである。

さて駄犬は、この御文を以って「御歴代上人にはこの一切衆生を救うという精神がないではないか!だから広宣流布ができなかったのではないか!」と邪難しているようだが、やはり、 馬鹿 である。
その馬鹿さ加減を、明示してみよう。

1、この御文中に
■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か、駄犬には皆目検討もつくまい。
この「内証」こそ、駄犬が「モノ」と蔑如する、戒壇の大御本尊の、その御内証の御ことである。
因みに戒壇の大御本尊を離れてその「内証」は存在し得ないのである。
もし、それを否定するのであれば、この「内証」が何であるか明証してみよ。(”犬”には絶対に無理であろうが。)
駄犬が好きな、『「内証」を分かり易く、蓮祖・興尊の文証で明示して見せよ。』ということである。
さ、ここも、駄犬は答えられないが故に、キャンキャン吼えながら遁走すること請け合いである。
人に「内証」を詰問し、自分では答えられない(仮に答えても支離滅裂)という、自己矛盾をどう言い訳するのか、ここも見物である。

ここも、何やら最近駄犬は臆病風に吹かされたか、”戒壇の大御本尊を誹謗していない”、などと、女々しい言い訳を書いているようだが、馬鹿の馬鹿たる標本である。
以下駄犬の発言である。

▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

これを戒壇の大御本尊誹謗と言わずば、何を誹謗とするのか。
全くの大馬鹿者の”犬”である。

2、この唯我一人能為救護の御精神である御本仏日蓮大聖人は鎌倉時代に、世界中の一切の衆生を度脱せしめられたか。
答えは否、である。
つまり、同時代に存在した全ての衆生を弘教され、入信せしめた訳ではない。
それは、衆生の出生の因縁がそれぞれ違うからである。
その衆生の出生の善因縁・悪因縁等の差異は末法万年の長大な時間尺からいったら700年間などで大きな変化などないのである。
現に現時でも、駄犬や沖浦君また陰性のように、折角人界に(おっと、駄犬は畜生界だった)に生を受け、遭い難き三大秘法に遭いながら、このように大退転をし、のみならず悪口誹謗中傷の限りを尽くしている極悪謗法者という大悪因縁を持って生まれてきた大馬鹿者が多数いることからしても、七百年間で衆生の機根がそう容易く広宣流布が達成できるように変わってきてはいないことは容易に分かるのである。
頭が謗法の害毒で相当に悪くなった駄犬には理解不能でかまわないが、ここの意義を御文で再引させていただきましょう。

■「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。」

まさに、この御文の通り。何ら異解はできないのである。
もし、あえてそれをしているとすれば、それはただただ自らの頭が歪んだ妄執に囚われて、正しいものの見方ができなくなっている、ということである。
上品に言えば、愚者
有体に言えば、馬鹿 である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。66  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月22日(水)10時12分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●またあいも変わらずくどくど同じ邪難を繰り返しているだけであるから、詳細に取り合う必要も無いが、今回は少々破折する価値があるところもあるので、ポイントだけいきますか。
―――――――――――
> DATE: 11月20日(月)20時32分4秒
> TITLE: 樋田昌志くん。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:

> 1、この御文中に
> >『「内証」を分かり易く、蓮祖・興尊の文証で明示して見せよ。』

> (^o^)(^o^)(^o^) 自分で書いておいて、何でも人任せかね?
> >戒壇の大御本尊の、その御内証の御ことである。
> 書いたのは坊やだよ。ならば坊やが立証せんか、クズよ。(^o^)
>
> >因みに戒壇の大御本尊を離れてその「内証」は存在し得ないのである。

> これも無論、蓮祖・興師の文証挙げて御覧、坊や。(^o^)
> 云い切ったのなら出来るわなぁ?(^o^)
―――――――――――
→これについては、馬鹿な謗法者の頭には徹底的に躾けてやらなければならない。

まず、この段の全文。
―――――――――――
1、この御文中に
■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か、駄犬には皆目検討もつくまい。
この「内証」こそ、駄犬が「モノ」と蔑如する、戒壇の大御本尊の、その御内証の御ことである。
因みに戒壇の大御本尊を離れてその「内証」は存在し得ないのである。
もし、それを否定するのであれば、この「内証」が何であるか明証してみよ。(”犬”には絶対に無理であろうが。)
駄犬が好きな、『「内証」を分かり易く、蓮祖・興尊の文証で明示して見せよ。』ということである。
さ、ここも、駄犬は答えられないが故に、キャンキャン吼えながら遁走すること請け合いである。
人に「内証」を詰問し、自分では答えられない(仮に答えても支離滅裂)という、自己矛盾をどう言い訳するのか、ここも見物である。
―――――――――――
→1、駄犬は、当方が予想したとおり、当方が指摘した内容に反論不能であるが故に、論点を摩り替えて誤魔化している。
実に卑怯極まりない、愚鈍のくせに傲慢な、愚劣・愚悪な態度である。

論証

@駄犬は常に、「唯授一人・血脈相承の「御内証」を明示しろ。」と馬鹿騒ぎしているのだから、「内証」というものの内容が明示できると思い込んでいる。
Aまた、駄犬は「内証」の内容を明示できなければ、その存在を否定する、という立場を貫いている。
Bであるならば、大聖人の御文中の「内証」との文言があれば、それについて、これも駄犬の固執する「蓮祖・興師の文証」を以って摘示できなければ、大聖人の御文中の「内証」との文言の意義の存在をも否定することになる。
C駄犬は「蓮祖仏法」を心より信奉している(つもり)なのであるから、まさか、大聖人の御言葉の一言一句なりとも否定もしくは無視はできないはずである。
Dであるから、駄犬は是が非でもこの御文内の「内証」との文言の内容について、文証を以って明証しなければ、自らの主張を貫くことはできない。
Eつまり、「「内証」の内容を明示せよ。」などと、他に向かって決して言えない道理になる。
Fであるから、まず、当方の主張を否定する根拠として、以上@〜Eの事由により、駄犬は自ら「内証」について明示する責務がある。

では、この筋道を踏まえて再問する。

■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か。

「蓮祖・興師の文証」を以って明示して見せよ。

それが出来なければ、駄犬の当初から愚問全てが、その前提根拠を失い、全く失当である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。67  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月22日(水)11時15分28秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次に、当方の主張、「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる、との意義を論証する。

そこで、その論証の前に、駄犬の矛盾に満ち満ちた錯乱状態を一刺し突いておこう。

まず、駄犬は常々「蓮祖・興師の文証をどーぞ」と、大聖人・日興上人の文証のみしか認知しない態度を表明しているが、
まずこの件から完摧しておく。

かつて、駄犬は以下の引用をしている。
―――――――――――
例1
「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、
日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」

今度は寛師否定かね、樋田昌志くん?
―――――――――――
例2
云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
(寛師・「文底秘沈抄」)
と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
上記の御文はまさしく日寛上人の御指南であり、駄犬は自らの主張を立証する為に、日寛上人の御文を引用している。

@これは、駄犬が常に口うるさく主張する態度「蓮祖・興師の文証をどーぞ」に自らが反している姿である。
Aまた逆に、駄犬自らが引用した日寛上人の御指南を他が引文した場合、何らそれを批判中傷できない立場である。

因みにここで、駄犬がニセ本尊の害毒によって如何に頭破七分と化しているか、ここに明示しておこう。
創価学会員の精神の悩乱ぶりが実に顕著であり、興味深い症例である。
―――――――――――
●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。
■「本尊書写豈化他に非ずや。」
>とは紛うことなき日寛上人の御指南である。

▼盲目ではないから見えておるよ。(^o^)
だーから寛師はどれほどの折伏弘教をしたというのだね?(^o^)
先に挙げた通り「後の五百歳」は、寛師存命時にすらとうに過ぎておるのだよ。(^o^)
折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)
―――――――――――
→どうであろうか。
実に無惨極まりない悩乱ぶり、自語相違ぶりである。
自らが引文して自分の主張の裏付けとしておきながら、自分の主張に都合が悪い御指南を引文すると、態度一変、主義の一貫性など全くなく、その同一人物を、
▼「折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)」
と罵るとは。

最早、この一事を以って、駄犬の駄言など取り合う必要など無い、まさに”狂人の戯言”もとい、”狂犬の狂い吼え”であることが十分認識できよう。

この辺の、駄犬の”言い訳”が実に見ものである。
どう足掻くであろうか。
今晩あたり、口汚く罵り、よだれを撒き散らし、喚き散らしながらの必死の足掻きが見れるかもしれない。
楽しみである。
少々見苦しい気もするが、しかし、創価学会の謗法の害毒が頭に回った、新鮮で、それなりに興味深い”症例”のサンプル採取には、多少の不潔感も我慢せねばならないか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。68  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月24日(金)15時56分26秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おや?駄犬。

いつもくどくどしく絡み付いてくるのに、以下の”一刺し”については一言も返せないか?それとも当方が見落としたか?
それ、いつも通り、勝他の念に焦がされながら必死に足掻いて見せよ。


駄犬の矛盾に満ち満ちた錯乱状態を一刺し突いておこう。

まず、駄犬は常々「蓮祖・興師の文証をどーぞ」と、大聖人・日興上人の文証のみしか認知しない態度を表明しているが、
まずこの件から完摧しておく。

かつて、駄犬は以下の引用をしている。
―――――――――――
例1
「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、

日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」

今度は寛師否定かね、樋田昌志くん?
―――――――――――
例2
云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・

大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
(寛師・「文底秘沈抄」)
と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
上記の御文はまさしく日寛上人の御指南であり、駄犬は自らの主張を立証する為に、日寛上人の御文を引用している。

@これは、駄犬が常に口うるさく主張する態度「蓮祖・興師の文証をどーぞ」に自らが反している姿である。
Aまた逆に、駄犬自らが引用した日寛上人の御指南を他が引文した場合、何らそれを批判中傷できない立場である。

因みにここで、駄犬がニセ本尊の害毒によって如何に頭破七分と化しているか、ここに明示しておこう。
創価学会員の精神の悩乱ぶりが実に顕著であり、興味深い症例である。
―――――――――――
●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。
■「本尊書写豈化他に非ずや。」
>とは紛うことなき日寛上人の御指南である。

▼盲目ではないから見えておるよ。(^o^)
だーから寛師はどれほどの折伏弘教をしたというのだね?(^o^)
先に挙げた通り「後の五百歳」は、寛師存命時にすらとうに過ぎておるのだよ。(^o^)
折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)
―――――――――――
→どうであろうか。
実に無惨極まりない悩乱ぶり、自語相違ぶりである。
自らが引文して自分の主張の裏付けとしておきながら、自分の主張に都合が悪い御指南を引文すると、態度一変、主義の一貫性など全くなく、その同一人物を、
▼「折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)」
と罵るとは。

最早、この一事を以って、駄犬の駄言など取り合う必要など無い、まさに”狂人の戯言”もとい、”狂犬の狂い吼え”であることが十分認識できよう。

この辺の、駄犬の”言い訳”が実に見ものである。
どう足掻くであろうか。
今晩あたり、口汚く罵り、よだれを撒き散らし、喚き散らしながらの必死の足掻きが見れるかもしれない。
楽しみである。
少々見苦しい気もするが、しかし、創価学会の謗法の害毒が頭に回った、新鮮で、それなりに興味深い”症例”のサンプル採取には、多少の不潔感も我慢せねばならないか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。69  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月24日(金)17時03分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、”大聖人の御「内証」とは、煎じ詰めれば戒壇の大御本尊に究竟される”について、論証する。(別に、特段に真新しいことではないが。正しい信心を知らない。あるいは見失い捨て去って、謗法団体で”マゴマゴ”しているような、駄犬・妄犬には、殊更に珍しく見えるのであろう。呵々)

■神力品に云はく「要を以て之を言はゞ、如来の一切の所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」已上。此等の現文は釈迦如来の内証は皆此の経に尽くしたまふ。(守護国家論)

■所詮迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、地涌
千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ。又迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子等に非ざるが故なり。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

■ 問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。
答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(三大秘法稟承事)

■問う(中略)三大秘法其の体如何。
答ふ、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。

★本尊

寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。
(中略)

★題目

題目とは二の意有り。(中略)末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。

★戒壇

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。

■此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。

以上から、
釈尊(←文底では久遠元初・自受用報身如来)の内証=四句の要法=寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字⇒寿量品の本尊と戒壇と題目の五字=三大秘法
しかも、この三大秘法こそ 諸仏出世の一大事 であること文義明白である。
この”諸仏”にはもちろんその根本仏であるところの久遠元初の下種の本仏=末法再誕の日蓮大聖人が大本の義として含まれることは理の当然である。
であるから、三大秘法こそ日蓮大聖人、御出世の一大事 である。
この 出世の一大事 とは 出世の本懐 と同義であることは論を待たない。

では、この三大秘法とは究竟するところ何か。

■故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(日寛上人・観心本尊抄文段)

との御指南のごとく、戒壇の大御本尊に究竟せられる。

であるから、”御本仏日蓮大聖人の御「内証」とは、煎じ詰めれば戒壇の大御本尊に究竟される”
以上。

因みに、日寛上人の御指南を否定することは、駄犬自身が日寛上人の御指南を引文しているのであるから、不可である。
また、創価学会総体としても、日寛上人の御本尊を掲げているのであるから、日寛上人の御指南を否定することは”本尊は依用するが、御指南は否定する”という大矛盾が生じるが故に、道理として、やはり不可である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。70 祝 70回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月24日(金)19時10分33秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

通読してもいつまでも同様の妄執による駄言の繰り返しだからつまらんが、この辺↓は、また駄犬の別角度での馬鹿さ加減が露出しているので、少々面白いところでもあるから、”飯前に”一刺ししますか。
―――――――――――
> >B計我(けいが)(自分勝手な考えで仏法を推(お)し量(はか)ること)
> >C浅識(せんしき)(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること)
―――――――――――
> 「本門戒壇の大御本尊は法体の根幹にましますのであり、その御内証と御法主上人の
> 御内証が而二不二であるところに、人法一箇の御本尊の法体が存する」
> 「御法主上人の御内証の法体相承を否定することは、唯授一人血脈相承の人即法・法即人・
> 人法一箇の『一大事の秘法』たる法体を無視するもの」
> (日蓮正宗青年僧侶邪義破折班)
>
> どうやら当代法主なくんば人法一箇の御本尊は成立しないらしい。(^o^)(^o^)
> しかしすべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)
>
> 云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
> 「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
> 大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
> (寛師・「文底秘沈抄」)
> と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
→さあ、身延のみやげ掛け軸が”御本尊さま”に昇格してしまう、同じ創価学会員からも猛反発をかっている駄犬の愚論炸裂の態である。

まず総論

人即法・法即人の御法体 とは、仏宝と法宝のことである。

■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。

との仰せの如く、仏宝・法宝は僧宝が護持・伝持なされなければ、存在し得ない。

以下、かつて京都の痴犬を呵責した破折文を編集を加え再掲する。
―――――――――――
2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。

3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。

A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
■仏法と申すは道理なり
道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。

4、であるから、末法今時に、「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。

5、こういう道理が、痴犬のように見えなくなる者が多いから、「僧の恩を報じ難し」なのである。

6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。
―――――――――――
→更に別箇所での破折文も再掲しよう。
―――――――――――
法華経=戒壇の大御本尊
戒壇の大御本尊=大聖人弘法の御本懐
その大聖人の仏法の全てが日興上人へ血脈相承

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が戒壇の大御本尊を究竟として全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことは
■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」この御文の御心とあわせよくよく拝すればただ日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。
つまり、法華経=戒壇の大御本尊は■「僧によりて住す」のである。

次第=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」とお決めになる、万年の法規を大聖人はお定めになられたのである。

そこに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」の御文のごとくの意義が拝せられ、
仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。

つまり法華経=戒壇の大御本尊の御法魂は、歴代御法主上人とともにおわしますのである。
であるから、
■「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり」
とは、御法主上人を離れては成し得ない御文であり、御内証が三宝一体であられる御法主上人に信伏随従することが、まさに大聖人=戒壇の大御本尊に御仕え申し上げる姿となるのである。
―――――――――――
以上の意義からしても邪義破折班の既述は全く正論であり、それは信心がない謗法者には理解できないだけのことである。
実際の”犬”が、人間の言葉が理解できないのと同様である。
狂人が正常な人間の会話を理解できないのとも同様である。
駄犬は最早、正しい信心の基にした言葉や文章が読めなくなった、ただそれだけのことである。
ただ自分が 無信心の謗法者丸出しの馬鹿 というだけのことである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。71  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月24日(金)22時08分28秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●次に以下の愚言についても、別の角度から粉砕しておきましょう。
駄犬の恥論のここも中核を為す所である。
―――――――――――
> どうやら当代法主なくんば人法一箇の御本尊は成立しないらしい。(^o^)(^o^)
> しかしすべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)
>
> 云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
> 「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
> 大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
> (寛師・「文底秘沈抄」)
> と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
→駄犬は、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”という。
ここが駄犬の妄執の中心である。
とんでもない妄見・愚見である。
「人法一箇の御当体」とは戒壇の大御本尊の御事である。

■観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す
 (序)
 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。
 これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり」等云云。

■故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(日寛上人・観心本尊抄文段)

→もし、駄犬の言うように、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”であるならば、

@身延のみやげ本尊をコピーし、それを更にコピーしそれをまたコピーし・・・と何万回コピーしたものも、全て”人法一箇の御当体”ということになり、”御当体さま”が何億枚、何千億枚も”発生”することになり、しかも、いつ何時でも、誰でも、コンビにでも、会社のオフィスでも、どこでも”御当体さま”を作れることになり、まさに本尊雑乱の狂態である。
駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑

A駄犬の説だと、誰でもいいから、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書けばいいのであり、そこら辺の小学生にでも書いてもらったものでも、そこら辺の田舎の禅宗の僧侶にでも書いてもらっても、いやいや、それも面倒くさいから、自分で書いても、いいことになる。呵々大笑

ことほど左様に、駄犬の珍説は稚拙極まるのである。
大笑いである。
それこそ、 \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/  である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。72  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月27日(月)22時28分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

こっちも少々弄っておきますか。

> >退屈してきたことでしょうから、角度を変えて、
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 4ヶ月前のこちらの膨大な問いは返答不能で全部「なかったこと」にし、
> かつそれ以降のものでも膨大に残っておるものもやはり「なかったことに」
> したいらしい。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> おいおい坊や、よくもそこまで解かりやすく逃亡出来るもんだな、樋田昌志くん?(^o^)
>
> >●次に、当方の主張、「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ
> >究竟せられる、との意義を論証する。
>
> >■日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。
> >仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
> >→まず、この余りにも有名な御文の如く、「南無妙法蓮華経」こそ大聖人の魂、つまり、
> >お悟り、御内証 である。
>
> そう、よく出来ました。その通りだよ、坊や。(^o^)(^o^)
>
> >しかし、単独の”「南無妙法蓮華経」の題目”のみでは、大聖人のお悟り・ではない。
> ありゃ。「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」と仰せのものが、
> まだそれ以外にあるのだそうだ。(^o^)(^o^)(^o^)
> 「すぎたるはなし」と仰せの蓮祖違背だね。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→まずここで切りますか。

駄犬が馬鹿犬と言われる所以がここである。
南無妙法蓮華経 とは三大秘法→一大秘法=を指すのである。(詳細は妄犬マゴマゴ君呵責シリーズに詳述済み)
おお、この下に引文してある通りである。
―――――――――――
>
> >■問う(中略)三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。
> >ここに仰せの”予が己心の大事”とはまさに御本仏の”御内証”である。
> >三大秘法に「に如かず」=尽きる。究竟する。ということである。
> >つまり、南無妙法蓮華経の本尊・題目・戒壇 が整足して始めて大聖人の
> >”御内証”が事実の上に完備するのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。73  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月27日(月)22時46分30秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >■問う(中略)三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。
> >ここに仰せの”予が己心の大事”とはまさに御本仏の”御内証”である。
> >三大秘法に「に如かず」=尽きる。究竟する。ということである。
> >つまり、南無妙法蓮華経の本尊・題目・戒壇 が整足して始めて大聖人の
> >”御内証”が事実の上に完備するのである。
>
> ほう。では蓮祖仏法とは「本門事の戒壇」成立以前は三大秘法整足せぬ「片輪」で
> あったということかね?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 宗門史において「本門事の戒壇」成立は昭和47年の正本堂建立を以ってする。
> それまでの700年、蓮祖仏法は「片輪」かね?(^o^)(^o^)
>
> 坊やの主張を予想しよう。
> 「弘安2年の所謂戒壇本尊建立」を以って、そこを「本門の戒壇」と位置付けると
> 恐らく云い出すであろう。(^o^)
> では所謂戒壇本尊成立以前の蓮祖及び信徒たちの唱える「南無――」とは
> 何だったのだね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、当時の門下・信徒が
> 蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。(^o^)
> 絶対無理だし。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→どの犬も創価学会が飼っている犬は駄犬だらけである。
別に大聖人へ直接”手を合わせ”なくとも、問題はない。(もちろん、否定もすべきではないが)

大聖人は生智の妙悟であられるのであるから、当初から内証に三秘を御所持されていたのは当然である。
であるから御化導の次第で、題目→本尊→戒壇の大御本尊、と事実の上で整足されていく過程においても、その”御内証”=三大秘法の妙徳は、そのどの時期であれ、信徒の信行の上には拝する・感得することが出来得たと拝するのである。

> 万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、当時の門下・信徒が
> 蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。(^o^)

などいう駄犬は如何に物事を皮相的にしか見れないか、という馬鹿の見本のような恥言である。
さすがニセ本尊へ愚仰を続けていると斯様に信心も智慧もない、道理も分からない馬鹿丸出しになる、という標本である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。74  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)11時13分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●ようやく少々時間ができたので、前に進みますか。

どうも、駄犬が当方にかまってもらいたくて騒いでいるようであるから、以下の駄言から粉砕していきましょう。
―――――――――――
> DATE: 11月28日(火)00時46分34秒
> TITLE: 腰が引けとるねぇ、
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 樋田昌志くん。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >別に大聖人へ直接”手を合わせ”なくとも、問題はない。
> >(もちろん、否定もすべきではないが)

> はい、坊やの思い込みは無用。蓮祖・興師の文証出さんか。
> 何度云わせるのだ、坊や。学習能力のカケラもないな。(^o^)

→所詮”犬”に向かって法を説くのは無理とは承知であるが、駄犬は永久に理解できなくとも、通常の知性がある方なら理解できることであるから、そういう意味を込めて進めますか。

ここは、いきなりでは理解できない向きもあるであろうから、この前段を挙げ、文脈を整足する。
―――――――――――
> >■問う(中略)三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。
> >ここに仰せの”予が己心の大事”とはまさに御本仏の”御内証”である。
> >三大秘法に「に如かず」=尽きる。究竟する。ということである。
> >つまり、南無妙法蓮華経の本尊・題目・戒壇 が整足して始めて大聖人の
> >”御内証”が事実の上に完備するのである。
>
> ほう。では蓮祖仏法とは「本門事の戒壇」成立以前は三大秘法整足せぬ「片輪」で
> あったということかね?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 宗門史において「本門事の戒壇」成立は昭和47年の正本堂建立を以ってする。
> それまでの700年、蓮祖仏法は「片輪」かね?(^o^)(^o^)
>
> 坊やの主張を予想しよう。
> 「弘安2年の所謂戒壇本尊建立」を以って、そこを「本門の戒壇」と位置付けると
> 恐らく云い出すであろう。(^o^)
> では所謂戒壇本尊成立以前の蓮祖及び信徒たちの唱える「南無――」とは
> 何だったのだね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、当時の門下・信徒が
> 蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。(^o^)
> 絶対無理だし。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→どの犬も創価学会が飼っている犬は駄犬だらけである。
別に大聖人へ直接”手を合わせ”なくとも、問題はない。(もちろん、否定もすべきではないが)
―――――――――――
→今回の段へと続く。

1、駄犬は「蓮祖・興師の文証出さんか。」と常に吼えてるが、この言はそのまま自分にも当て嵌まる道理である。
つまり、
▼”万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。”
と、”手を合わせる”ということをまずもって言い出したのは駄犬であるから、

★”「蓮祖そのものが三大秘法である」のならば必ずいつ如何なる時に於いても、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせ」なければならない、また、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせ」なければ、「蓮祖そのものが三大秘法である」とはいえない、という「蓮祖・興師の文証出さんか。」”と、こうなる道理である。
そして、これは、「 絶対無理だし。」となり、

> はい、坊やの思い込みは無用。蓮祖・興師の文証出さんか。
> 何度云わせるのだ、坊や。学習能力のカケラもないな。(^o^)

と、天に吐いた唾を自らの醜面にもろに被る、という醜態となる訳である。
まことに、正統な一大秘法の戒壇の大御本尊から転げ落ち、ニセ本尊を真顔で拝んでいる謗法者は、智慧がなくなり限りなく愚かになるが故に、一言もの言うたびに斯くも惨めな様となる、との、やはりよき標本である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。75  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)11時42分40秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ついでであるから、ここで、駄犬の常にヨダレを垂らしながら馬鹿の一つ覚えで吼えている「蓮祖・興師の文証出さんか。」(←その他の御歴代上人の言は用いない)とのたわごとを完摧しておきましょう。

2、既に駄犬を呵責してあり、当方の記憶する限りでは、駄犬はこの件には反論不能であるはずだが、(違っていたら訂正するが。何せ、駄犬の吼え・喚きはどうも品位に欠け、全文まともに読むに耐えないしろもので、常に斜め読みしかしていないのである)以下の指摘にはどう反論するのか、明示せよ。
―――――――――――
大聖人の御法門の全てが御書に記載されている、と勝手に思い込んでいるだけの駄犬であるから、常にヨダレを垂らしながら馬鹿の一つ覚えで「蓮祖・興師の文証出さんか。」などと吼え続けているのである。
まさに愚か者を額に入れて標本として飾っているようなぶざまさである。

では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。76  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)15時19分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

躾のなっていない、駄犬は「お預け」もまだ教えてもらってないようである。呵々大笑

では、次

3、駄犬のいう、その「蓮祖・興師の文証出さんか。」の「蓮祖の文証」に、以下の如く、大聖人が 口伝・相承・相伝 等によって深義を伝持された証拠があり、大聖人の御法門の全てが、御書の御文の上に顕れている訳ではないのである。
こうした明白な「蓮祖の文証」があるにも拘らず、何かといえば、「蓮祖・興師の文証出さんか。」と吼えまくる駄犬は、自己矛盾極まったり であり、やはり、どこか精神的に異常をきたしているといえよう。
まさにニセ本尊の猛毒その脳髄に染み込んで正常な判断ができない偏頗な人格が形成されている証左である。

■寿量品文底大事
 問うて云はく、開目抄の上に云はく「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣如何。
 仰せに云はく、当流の相伝惟に谷まれり。口外すべからずと雖も末代の為に一筆之を残さん、

■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。

■秘すべし秘すべし、口外も詮無し。

■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし

■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。

■相承の意を相伝せんが為なり

■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。

■日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。

■此の義は最上の難の義なり。口伝に在り

■口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。

■此に口伝有り。

■よくよく口伝あるべし。

■口伝を以て之を伝へん。

■口伝すべし。

■上行菩薩結要付嘱口伝

■日文字の口伝、産湯の口決

■本尊七箇の口伝

■就註法華経口伝〔御義口伝〕

■不動明王の尊形と口伝せり。

■四弘誓願をば一文に口伝せり。

■師に依らずして相承を失ふべし。

■根本大師の御相承ありげに候。

■筆受の相承

■日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。

■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。

■日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。

■当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。

■天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。

■当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、

■日蓮相承の法門血脈、慥かに之を註し奉る。

■此等は相承の法門なるべし。

■日蓮が己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。

■今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。

■当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門

■日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。

■三諦三観の口決相承と意同じ

■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。

■相承の意を相伝せんが為なり

■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。

■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。77  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)16時11分6秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

4、 3、で明示した口伝・相伝・相承の極まった形のものが唯授一人・血脈相承である。

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が御自らの全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことはまた

釈尊
→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)
→日興上人

という基本形を示し、これはつまりは、

御先師
→御当代
→次期御法主

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

それは、
■「血脈の次第」の
【次第】には=物事が行われる際の一定の順序。

という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず
「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」
とお決めになるという道理である。

このことはまた次の御文からも領解できるのである。(ニセ本尊で正常な思考を破戒された駄犬らには無理であろうが。)

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す』

上記の「次第」とこの御文の御心とあわせよくよく拝すれば
ただ唯授一人・血脈相承は日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。
つまり、大聖人の仏宝法宝は必ず■「僧によりて住す」つまり、必ず次から次の法嗣の方へとの次第によって流伝→久住 していくのである。

そこに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」
の御文のごとくの意義が拝せられ、
仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。

であるから、御書の表に顕然でない、相伝・口伝・相承の類のその枢要は御歴代上人のみしか知り得ないのであり、御書の御文のみで大聖人の仏法の全てを知ることは不可能なのである。
つまりは、御歴代上人の御指南は全て”御文証”である。

■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

【池田大作指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

かくのごとくである。

それを、常にヨダレを撒き散らしながら「蓮祖・興師の文証出さんか。」と、偏頗な恥言に拘泥するざまは、その「蓮祖・興師」の御聖意にも叶わない、程遠い邪見であり、愚見の見本である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。78  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)18時57分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

5、以下は池田大作せんせ〜〜監修・仏哲からである。
これを見れば、かつてのまだ正しい教義(全分ではないにしても)を普及していた頃の創価学会の相伝・相承観が明白である。

教義的な事項を扱う普遍妥当性を要求される「辞典」において論述された主張は、その教義的な内容を覆すに足る歴史的発見等がない限り改変できる根拠を持たない。
もし、現時で以下の論述に反する主張をするならば、それなりの教義的裏付けをもった反証が必要である。
もしそれができず、尚且つ、下記の主張に反駁するならば、それはただ、かつての正しい”信仰心”を失った、つまり”退転”しただけに過ぎない。
―――――――――――
【唯受一人の相承】抜粋

 総付属に対する別付属であり、血脈相承のことをいう。
★師よりただ一人の弟子を大導師と定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。
仏法上の肝要である。
(中略)日蓮大聖人は身延相承書において「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す……血脈の次第 日蓮日興」とお認めのごとく日興上人ただ一人にその所持の大法を相承している。
―――――――――――
【血脈相承】

★仏法は、三世にわたって、一切衆生を救うべき大法であるから、血脈相承の付属が大原則であり、清純に後世へ伝弘されていくのである。
仏法を流通するには師匠から弟子への、唯授一人の血脈相承によるのである。

★日蓮正宗の法門は、日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日日上人へと、その後、代々と相承され、法燈連綿として、七百有余年間、広宣流布、王仏冥合の時を待ちつつ、清らかに伝授され、血脈相承されているのである。★

日蓮大聖人はこの血脈相承について、本因妙抄(八七七) に「日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」とあり、
また、御義口伝(七八三) に「秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず」と、
★唯授一人の血脈相承であることは明々白々である。★

日蓮大聖人から、二祖日興上人におゆずりなされたことは、身延相承書に「血脈の次第 日蓮日興」とおしたためになっている。

血脈相承の大事なことは、立正観抄(五三〇)に「当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり」とある。

★相承とは、ゆずった者とゆずられた者がなくてはならない。
仏法の奥義は、あくまでも師弟相対のうえに立っての、唯授一人の血脈相承以外にないのである。
―――――――――――
そうでん【相伝】

師より弟子に法門を伝えること。相続・伝授・直授の意。付属・相承と同義。
★相伝は仏法においては不可欠なものである。★
師資相承(師匠から弟子への相承)血脈相承である。
ただ一人の大導師を定めて、民衆救済の大法を伝授するのである。
(中略)末法においては、末法の大白法たる日蓮大聖人の大仏法は二箇相承に明らかなごとく、日興上人を初めとして
★現在まで、代々六十五人の御法主上人猊下に順々と相伝されているのである。★
このように仏法においては相伝は非常に大切である。顕仏未来記(五〇八頁)に「然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」とある。また一代聖教大意(三九八頁)に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」とある。
ゆえに
★日蓮大聖人の法門は不相伝の徒輩には何も知ることができず、況や功徳を得ることは到底できず、自身木石に等しいのである。★
生死一大事血脈抄(二二三八頁)には「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」とあり、仏法において相伝がいかにだいじであるかを明かしている。
―――――――――――
そうじょう 【相承】

相伝、付属と同義。詳しくは血脈相承、師資相承などという。相は相対、承は授承のことであり、師弟相対して、師より弟子へ、ただ一人の大導師を定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。
★このことは仏法上、もっとも大事なことがらであり、★
釈迦は迦葉に、天台は章安に、伝教は義真に、そして日蓮大聖人は日興上人にその所持の大法を相承している。
(中略)なお相承に経巻相承と称するものがある。日蓮大聖入滅後百年ごろ、顕本法華宗を開いた日什が主張したもので、
★後世の者が経巻をよんで師の真意を悟り、付属を受けたと自称するものである。これはまったくの誤りで、経巻から思い思い学んでいくうちにいろいろな解釈や主張の乱れを生ずるので、そこで仏の意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。★
経典に文証もないのに、ただ「悟った」「譲られた」などと主張するのは、根本的に誤りである。
―――――――――――
ふそうでんけ 【不相伝家】

相伝のないもの、付属のないもの。相伝とは師匠より弟子に法門を伝えること。仏法では唯授一人がその原則とされる。
★邪宗邪義はかならず不相伝家よりでているのも仏法の定理より明らかである。★
日蓮大聖入滅後一〇○年頃、日什が出て経巻相承の邪義をたてた。当時直弟子はすでになく、元老の門下はみなそれぞれ己義を構え、いずれが大聖人の正統なのか不明のため、日什門徒等存知す可き事に「大聖の御門弟六門跡、ならびに天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背くところ有るによって同心せざるところなり」とあり、日運記には「中絶の法水を大聖人の御内証より続け奉る可し、これすなわち経巻相承の一分なり」とたてた。この什門流は妙満寺派とも顕本法華宗とも称したが、明治三十年(一八九七年)頃、顕本の学者とうたわれた本多日生が多数の聴衆の前で日蓮正宗の阿部日正上人から経巻相承を破折された史実がある。
(中略)
★日蓮大聖人の正義は相伝がなければわからないのである。★
―――――――――――
以上、池田センセ~~も、大聖人の仏法は相伝に依ってしか分からないと繰り返し断言しているのである。
であるから、以上1〜5までの論証に依って、駄犬がヨダレまみれで吼える「蓮祖・興師の文証出さんか」との大聖人・日興上人にのみに対しての固執は、全く無意味な偏執であって、相手をするべき要求ではない。

また、この仏哲が著された時から今までに、何か従来の御書の内容を否定するような御文でも発見されたのだろうか。
そんな事実はないのであって、この時期、日蓮正宗の信仰を(辛うじて)全うしていた創価学会の教義的な主張を覆す正統な根拠など皆無なのである。
あるというのなら、駄犬やまいぬ。君、「蓮祖・興師の文証出してみよ」できなければ、やはり、公式に謝罪して脱会コース。
さ、頑張れ。
因みに駄犬は、都合の悪い箇所は全く頬被りしてしらばっくれる悪癖があるようであるから、自分勝手にただヨダレ垂れ流しながら吼えているだけでなく、きちんと反駁してみたまえ。
まっ、できれば、の話だが。
がしかし、できなければやはり謝罪&脱会 であろう?(-。-)y-゜゜゜

では、次回からお待ちかねの駄犬の取って置きの恥論摧破と進みましょうか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。79  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)21時10分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、では以上の駄犬の「蓮祖・興師の文証出さんか」の迷妄を破った上で以下を粉砕していきましょう。
―――――――――――
> >大聖人は生智の妙悟であられるのであるから、当初から内証に三秘を
> >御所持されていたのは当然である。
> >であるから御化導の次第で、題目→本尊→戒壇の大御本尊、と事実の上で
> >整足されていく過程においても、その”御内証”=三大秘法の妙徳は、
> >そのどの時期であれ、信徒の信行の上には拝する・感得することが出来得たと
> >拝するのである。
>
> では信徒たちは何を対境とし、どこに向かって唱題しておったのか、資料と
> 文証挙げて立証せんか。(^o^)

→また駄犬何か言うごとに馬鹿丸出しである。
御本尊が出現する以前は、具体的な対境は不定である。
また御本尊御出現以降でも全ての信徒が御本尊を受けていた訳でもなく、対境は不定である。
また、大聖人の御化導の次第もまず権実相対からの始まりであり、機もまちまちであり、所対・対機の熟未熟等によりやはり対境は不定である。
ここも、現時の化儀の姿から短絡的に盲断して、早計に何が何でも対境がなくてはならぬ、と盲信しているが故の浅薄なフライングである。

■愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会ふべし。(一念三千法門   正嘉二年  三七歳)

■妙楽大師は、末代の鈍者(どんしゃ)・無智の者等の法華経を行ずるに普賢(ふげん)菩薩並びに多宝・十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云はく「散心(さんしん)に法華を誦(じゅ)し禅三昧に入らず。坐立行一心(ざりゅうぎょういっしん)に法華の文字を念ぜよ」已上。 此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。散心とは定心(じょうしん)に対する語なり。誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜(ずいき)の者五十展転(てんでん)等なり。坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。一心とは定の一心にも非ず、理の一心にも非ず、散心の中の一心なり。念法華の文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦(じゅ)すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり。天台大師玄義の八に云はく「手に巻(かん)を執(と)らざれども常に是の経を読み、口に言声(ごんしょう)無けれども遍(あまね)く衆典を誦し、仏(ほとけ)説法せざれども恒(つね)に梵音を聞き、心に思惟(しゆい)せざれども普(あまね)く法界を照す」已上。 此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時(とき)の持経者なり。口には読経の声を出ださゞれども法華経を信ずる者は日々時々念々に一切経を読む者なり。仏の入滅既に二千余年を経たり。然りと雖も法華経を信ずる者の許(もと)に仏の音声(おんじょう)を留めて、時々刻々念々に我が死せざる由(よし)を聞かしむるなり。心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照らす者なり。此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備はれるなり。(守護国家論   正元元年  三八歳)

■ 問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の諸行は何にてか候べき。答へて云はく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師(ほっし)品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。行儀は本尊の御前にて必ず坐立(ざりゅう)行なるべし。道場を出でては行住坐臥(ぎょうじゅうざが)をゑらぶべからず。常の諸行は題目を南無妙法蓮華経と唱ふべし。たへたらん人は一偈一句をも読み奉るべし。助縁(じょえん)には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随ふべし。愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。(唱法華題目抄    文応元年五月二八日  三九歳)

等の御文に明白である。普通に拝すれば理解できるが、駄犬には読めぬか?
解説しなくて大丈夫か?

他、類文繁多である。

さて、かくも明確に
▼資料と 文証挙げて立証せんか。(^o^)
との反駁に答えたのであるから、これで承服なら失敬な反駁の無礼を詫びるべきだし、これで承服でないのなら、更に「蓮祖・興師の文証」を以って、当方の主張を覆してみせたまえ。
もし、それが出来なかった場合は、やはり、公式に謝罪して脱会の手続きを取りたまえ。
人に言いがかりをつけるのであれば、それ相応の反証をしなくてはならぬのが当然の決まりごとである。
駄犬はそれともただ吠え付くだけしか能がないか?
それでは創価学会とニセ本尊の不名誉とならないか?
さ、自分から絡んできたことである。
明確に反証して見せよ。
空恍けて、うやむやにしないように。いいね。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。80 祝80回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)23時16分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

はい、ではまた次。
―――――――――――
> >如何に物事を皮相的にしか見れないか

> はいはい、資料も蓮祖・興師の文証も挙げられない泣き言は見飽きたのだわ。
> さっさと出しなさい。(^o^) また逃亡? 樋田昌志くん?(^o^)
―――――――――――
→ここの段もそのまま掲載しましょう。
「蓮祖・興師の文証」云々については74〜78で完全に粉砕済みである。
こうして馬鹿の一つ覚えを再見すると、駄犬が実にその名の通りの”駄犬”としての馬鹿さ加減が浮き彫りとなる。

更にここまでの、74〜79までの破折を通読した後に以下を読むと、駄犬がやはり実に稚拙な言しか吐けないかが手に取るように分かるというものである。
―――――――――――
> 万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、当時の門下・信徒が
> 蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。(^o^)

●などいう駄犬は如何に物事を皮相的にしか見れないか、という馬鹿の見本のような恥言である。
さすがニセ本尊へ愚仰を続けていると斯様に信心も智慧もない、道理も分からない馬鹿丸出しになる、という標本である。
―――――――――――
→まさにその通りである。呵々
―――――――――――
> さて、悲惨な樋田昌志くんの「無限ループ」、本当はこの不細工な「マトリョーシカ
> 構造」は、右へ、右へとコピー・ペーストしていくと解かりやすいのだが、画面上
> 仕方がない。書いていることは同じだが、こうしてみた。
>
> 蓮祖の内証=「南無――」=法主の内証=戒壇本尊
>             ↓
>      その内証は戒壇本尊=蓮祖の内証=法主の内証
>             ↓
>     その内証は解からない=が、唯授一人血脈相承された
>                           蓮祖の内証=「南無――」
>                    =法主の内証(ということは)  │
>                    =戒壇本尊          ↓
>                           その内証は戒壇本尊=蓮祖の内証
>                                  │ =法主の内証
>                                  ↓
>               「南無――」=その内証は解からない=唯授一人血脈相承
>                  ↓              された蓮祖の内証
>              その内証は戒壇本尊             =法主の内証
>                  ↓             =戒壇本尊
>            その内証は解からない=が、唯授一人血脈相承された
>                            蓮祖の内証=「南無――」
>                                 =法主の内証
>                                    ↓
>                                その内証は戒壇本尊
>                                    ↓
>                               その内証は解からない
>                               =が、唯授一…
>
>
>               (以下、無限ル−プ (^o^) )
>
>
> さ、坊や。こいつを説明してもらおうか。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 同じ言葉と概念が、別階層で使われるなどグチャグチャではないか。(^o^)(^o^)
> 同じ処を破綻しながら延々と、しかも切れ切れに循環するのみだわ。(^o^)(^o^)
> こういうのを喩えるなら、「出鱈目なマトリョーシカ構造」とでも云うべきか。(^o^)
> 「内証は?」「その内証は?」「またその内証は?」と際限のない返答の中で、
> その間にさっき上部構造で出てきたものが下部構造でまた出てくる。もう滅茶苦茶である。
> (^o^) 坊や、結局何にも解かってなかったのね?(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→この辺で切りますかね。
頭破七分の頭で、いくらこのように論理性を打ち出そうとしても所詮無理である。しかも”謗法犬”で。
図に描けば頭破七分の混乱した自分の頭の内部の混乱状態が更に鮮明に露見するだけである。
混乱して”マゴマゴ”しているのは駄犬・妄犬マゴマゴの類であり、当方の主張は単純明快である。
当方の主張をまとめてみれば以下の通りであり、結論とする内容は全く同意である。
(理解の便の為に尊称は略す)

@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊

A大聖人の内証=南無妙法蓮華経の内証→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。→戒壇の大御本尊の内証→御歴代上人に血脈相承される。

B大聖人の内証=南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。

駄犬・妄犬マゴマゴらは、「南無妙法蓮華経」に三大秘法の法体としての本尊を拝せないが故に妄見に陥って、例えば円錐形を三次元で捉えることが出来ず、三角形や円形としか認識できない、脳が未分化=幼稚≒頑迷であるだけのことである。

@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
Aでの「南無妙法蓮華経」は事の一念三千の南無妙法蓮華経・寿量文底の南無妙法蓮華経との意、であるからその「事の一念三千の南無妙法蓮華経」の正体・法体とは何か?と言えば、戒壇の大御本尊へと究竟せられるのである。また「大聖人の内証」も「戒壇の大御本尊の内証」も同義であり、その「内証」が御歴代上人に唯授一人・血脈相承されるのである。
Bでの「南無妙法蓮華経」とはAと同義である。

所詮、末法の成仏の要諦である戒壇の大御本尊への信行から脱落しニセ本尊などを拝んでいる頭破七分の謗法者には、理解するのは無理であろう。
考えれば考えるほど頭破七分の割れっぷりが進むだけだと思うが?呵々
その理解できない混乱振りが以下の恥言にまたもや露呈している。
では次回。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。81  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)11時53分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

どれ、最新のこれから砕きますか。

―――――――――――
> DATE: 12月 7日(木)00時36分29秒
> TITLE: さあて。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――>
> >@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊
>
> >A大聖人の内証=南無妙法蓮華経の内証→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。
> >→戒壇の大御本尊の内証→御歴代上人に血脈相承される。
>
> はい。もうここでout。(はっやいなぁ、しかし。(^o^)(^o^)(^o^) )
>
> ここまでの坊やの主張:
>
>              大聖人   =南無妙法蓮華経   =戒壇の大御本尊
>               ↓     /     ↓       /      ↓
> (その内証)     南無――      戒壇本尊           未答
>
> アカンがな。(^o^) もうすでに無限ループに入っとる。(^o^)

―――――――――――
→ここまで馬鹿だと相手するのも骨が折れる。
やはり、既に指摘していた通り、

●「所詮、末法の成仏の要諦である戒壇の大御本尊への信行から脱落しニセ本尊などを拝んでいる頭破七分の謗法者には、理解するのは無理であろう。
考えれば考えるほど頭破七分の割れっぷりが進むだけだと思うが?呵々」

である。

「南無妙法蓮華経」に何重もの意義が表示されているということが見えぬ馬鹿者にはこれ以上どう説いても理解するのは無理というもの。

■親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。

との御妙判の通りである。

だが、こういう謗法者が如何に妄見・妄執に覆われて盲目になっているかの標本を残しておくことは意義あることであろう。
であるから、駄犬や妄犬マゴマゴなどの理解などは端から無理としても、筋目だけは書き残しておきましょう。

既に何度も書いているが、一口に「南無妙法蓮華経」といっても、その所対・対機・時期によってその意味される範囲に広狭の幅があるのである。

以下、編集し再掲する
―――――――――――
御書の御文は、説き示される、対機・時期・所対・等により、一言にも重々の意義を含まれており、表面的な語を単純に皮相的に読むだけでは大聖人の御心を拝することは全くできないのである。

例えば”南無妙法蓮華経” と表現される中には、対機・時期・所対・等により、深い意義内容が含まれており、例えば佐前であれば”法華経の題目”との意を表にされた上で、大聖人の御内証である、三大秘法の”本門の題目”の意に主体を置かれた意義を内に含み、その上で、更にその内に 本門の本尊・本門の戒壇 との義を含むのである。



南無妙法蓮華経 と一言で表示なされていても、

→法華経の題目
→事の一念三千の南無妙法蓮華経との意義
→寿量文底の南無妙法蓮華経との意義
→三大秘法中の本門の題目の意を表にした表現
→三大秘法中の本門の本尊の意を表にした表現
→三大秘法の意
→一大秘法の意

等々の意義内容が重層的に含まれているのである。
これは大聖人御一生の御化導を概括的に拝すれば概ね広の義から順次狭の義へと的が絞られていくのである。
つまり
題目→本尊→弘安以降・本尊究竟→出世の本懐・戒壇の大御本尊→戒壇義→一切を唯授一人・血脈相承

例えば、「首相官邸はどこか?」と問えば、「日本」も一応正解。しかし更に進めば「東京」であり、更に絞り込めば「千代田区」であり、更に特定すれば「永田町何丁目何番地云々」ということである。

では、「南無妙法蓮華経の内証」 についていえば、

@本論題の出典である、御講聞書は、後の邪僧「五老僧」となった日向記であり、しかも対告衆も複数であり、対機でいえば、大聖人の御法体・御内証そのものを伝持・相伝為される文献ではない。

Aであるから、「南無妙法蓮華経」との御表現は、広範な意義を仰せなのであり、実はその中に重々の深意を含むのである。

Bまさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し。」であり、御相伝に依る所の戒壇の大御本尊からこの「南無妙法蓮華経」の意義を開いて拝さなければ、駄犬や、マゴマゴしている迷犬の如くに、仏法の真の法体に迷うのである。

C「南無妙法蓮華経の内証」 との御表現はまさにこの意を端的に言い表されていると拝するのである。

Dつまり、
「南無妙法蓮華経」→「南無妙法蓮華経の本尊」→就中「弘安二年の戒壇の大御本尊」と究竟せられるのであり、
これを「南無妙法蓮華経の内証とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる」と表現してもそこに何ら矛盾を発見することはできない。
もしそこに過剰な違和感を感じるとすればその信仰心自体が既に狂っているのであって、その自らの歪曲した心魂を見つめなおすべきであろう。
■「所詮仏教に依つて邪見を起す目の転ずる者大山転ずと欲(おも)う」
との御指南通りの見苦しいざまである。
こんな基本中の基本が分からないから、ニセ本尊などに「同盟唱題」などのおぞましい行為を平然と為し得るのである。

人即法・法即人の戒壇の大御本尊から退転した謗法者どもなどは、

■なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。
 三位房が事は大不思議の事ども候ひしかども、とのばら(殿原)のをも(思)いには智慧ある者をそね(嫉)ませ給ふかと、ぐち(愚癡)の人をも(思)いなんとをも(思)いて物も申さで候ひしが、はらぐろ(腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ。

と仰せの退転者の特徴

臆病で(自分の意見を堂々と面と向かって言えず、人に仮託してひそひそと物陰に隠れていう妄犬マゴマゴなどこれに類するだろう。呵々)
物をぼえず(何度教えても法門が分からない。駄犬などいい例である。)
欲深い
疑い深い(姑息で無知・愚昧な言動に終始し、戒壇の大御本尊を信行できない疑心の塊 どもである)

を共通して所有し、その上、漆に水をかけたように何をどう聞いても分からないし、身に染まらない、極悪因縁で今生生まれた、実に酷薄な宿業の輩達である。
その惨めな境遇を恥じることもなく更に戒壇の大御本尊への不信を続けていくならば、今に
■はらぐろ(腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ。
である。
よくよく、恐るべきであろう。

Eもし、”「南無妙法蓮華経」の題目”のみが大聖人の深意であるとしたならば、それでは、世界中で「南無妙法蓮華経」と唱えている宗派は全て正しい、ということになってしまう。
立正佼成会でも、霊友会でも、身延でも、・・・・何でも、である。
まっ、所詮それらと同格に成り下がった創価学会だから、そう思うのも当然か。呵々。

因みに戒壇の大御本尊が大聖人の御本懐、末法下種の正体・根源であることは、日寛上人の御指南に明々白々である。
また、”日寛上人の御指南を用いない”などという恥言は既に完全に粉砕済みであり、未だ教義的に論旨明快な反論が為されていないが故に、全くの不可、取るに足らぬ単なる痴難に過ぎない。
自分が完全に粉砕されていることすら理解できない謗法の頭破七分者は永劫に駄々をこねていればよろしい。
駄犬らが教義的な根拠も明示できずに言いがかりに終始すればするほど、邪信から正信へ目覚める方々も増えるというものである。
駄犬らの”使命”はそこら辺に存在するのであろう。
まことに哀れな、生まれ育ちの因縁である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。82  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)14時23分38秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下、「南無妙法蓮華経」 の表示に重層的な意義内容が含まれている、との義がよめない駄犬の、ヨダレまみれの吠え付きであるから、その恥言ぶりを”サンプル”として眺めてみよう。
―――――――――――
> あのな? 上位階層「大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊」の
> それぞれの「内証」は、全部同じ答えになってはじめて「イコール」なんだわ。
> それがバラッバラ。(^o^)(^o^)(^o^)
> しかも上位と下位に同じ答え「戒壇本尊」が繰り返されておる。なんじゃこりゃ?(^o^)
> だから云ったろうが、「出鱈目なマトリョーシカ構造」だと?(^o^)
> 坊や、アタマんなかは大丈夫か?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >B大聖人の内証=南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。
> だーからoutなんだって。(^o^)
>
> >@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊
> なんだろ? この階層で出てきておる戒壇本尊が、下位層の「内証」レベルで
> 「再登場」してどーするんだよ、ボクちゃん?(^o^)(^o^)
>
> >例えば円錐形を三次元で捉えることがなんたらかんたら。(^o^)
> はいはい、泣き言は終わったかね?(^o^)
>
> >@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。
> >であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
> はい、蓮祖・興師の文証。(^o^)(^o^) 何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)
―――――――――――
→この辺で、切っておきましょうか。

この駄犬、よほど頭が良くないようで、まさに、”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)”である。呵々

> はい、蓮祖・興師の文証。(^o^)(^o^)

については完全に破砕してある。
http://toyoda.tv/yamainu2.htm の74〜78参照

これに対して駄犬は全く反論不能状態であるにも拘らず、こうしてまたもや馬鹿の一つ覚えの「蓮祖・興師の文証」云々である。
では、こういう馬鹿には少々躾けてやらないといけないらしいから、馬鹿にも分かりそうな矛盾点をつきつけてあげますか。

1、@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
では、これを否定するのなら「蓮祖・興師の文証でどうぞ。(^o^)(^o^)」または、「蓮祖・興師の文証あげんか」となる。

2、再掲
以下について「蓮祖・興師の文証のみで」反論してくださいませ。出来なければ、公式謝罪&脱会。
ほんと、”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)” 呵々大笑
―――――――――――
大聖人の御法門の全てが御書に記載されている、と勝手に思い込んでいるだけの駄犬であるから、常にヨダレを垂らしながら馬鹿の一つ覚えで「蓮祖・興師の文証出さんか。」などと吼え続けているのである。
まさに愚か者を額に入れて標本として飾っているようなぶざまさである。

では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
御書の表に顕れていない御法門は口伝・相伝・相承等によって、日興上人を首として御歴代上人へ唯授一人・血脈相承されている。
参照http://toyoda.tv/yamainu2.htm 76〜78

因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜
さ、では、「個人折伏の世帯数によって尊崇しその発言を聞くべきであり、歴代法主上人の言は用いてはいけない。」との恥論を証明する「蓮祖・興師の文証あげんか!早くせよ!」

さて、そういう駄犬の恥言は相手にせず、その日寛上人の御指南に

■弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

とある通り、南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。(もう、馬鹿の恥論には、いい加減飽きてきたわ。)

次回、違う切り口で駄犬を粉砕しますか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。83  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)17時40分46秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

あっ、書きかけのままであったので、ここも弄っておきますか。

●ここも、前提からして勝手な妄想であって、言いがかりそれ自体からして体を為していない。
この辺も、戒壇の大御本尊への信行から転がり落ちて退転した駄犬や妄犬マゴマゴなどらには最早理解できない内容であろう。
これも謗法者たちが如何に悩乱・狂乱の態かを記録するためにも、砕いていきますか。
―――――――――――
> 坊やの主張を端的に書けば、
>
> 蓮祖の内証=法主の内証(解からないもの)=南無――(丸解かり)=戒壇本尊(丸解かり)
>
> どーするのだね、坊や?(^o^)
> もう自分が何書いておるか解からなくなっておるね。(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→全然端的ではない。呵々。
しかも、「丸解り」などと、思い上がりも甚だしい「おまけ」までつけて。
やはり、文体からも十分臭ってくるが如くの、驕慢極まりない体臭である。

当方の主張は以下のままであり、駄犬が自分で「端的」といいながら「複雑に歪曲」しているだけである。

@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊

A大聖人の内証=南無妙法蓮華経の内証→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。→戒壇の大御本尊の内証→御歴代上人に血脈相承される。

B大聖人の内証=南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。

@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
Aでの「南無妙法蓮華経」は事の一念三千の南無妙法蓮華経・寿量文底の南無妙法蓮華経との意、であるからその「事の一念三千の南無妙法蓮華経」の正体・法体とは何か?と言えば、戒壇の大御本尊へと究竟せられるのである。また「大聖人の内証」も「戒壇の大御本尊の内証」も同義であり、その「内証」が御歴代上人に唯授一人・血脈相承されるのである。
Bでの「南無妙法蓮華経」とはAと同義である。
―――――――――――
> しかももったいぶって「解からない」どころか、坊や自身が「蓮祖の内証」とは
> ずばり「南無――」だと書いておるではないか。(^o^)「究竟」なるワンクッションを
> 置いても、それでも「戒壇本尊」だと云い切っておる。(^o^)
―――――――――――
→しょうがない。馬鹿には、何度でも。

再掲
―――――――――――
→ここまで馬鹿だと相手するのも骨が折れる。
やはり、既に指摘していた通り、

●「所詮、末法の成仏の要諦である戒壇の大御本尊への信行から脱落しニセ本尊などを拝んでいる頭破七分の謗法者には、理解するのは無理であろう。
考えれば考えるほど頭破七分の割れっぷりが進むだけだと思うが?呵々」

である。

「南無妙法蓮華経」に何重もの意義が表示されているということが見えぬ馬鹿者にはこれ以上どう説いても理解するのは無理というもの。

■親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。

との御妙判の通りである。
―――――――――――
> なにが解からないものかね? 眼で見て「丸解かり」であり、唱題して「仏界涌現」、
> やはり丸解かりではないか。(^o^)
―――――――――――
→lここは、幾ら馬鹿犬としても看過できない箇所である。

1、駄犬が目で見て御本尊の深義が「解る」というのなら、以下について「蓮祖・興師の文証挙げて」答えよ。
出来なければ、公式謝罪&脱会。
逃げるなよ。

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?

更に
例えば、万年救護の御本尊のことでいえば、

@ 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
A「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
B 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

2、
@駄犬が「仏界涌現」しているというのなら、(でなければ「丸解り」などとは言えないはずであるが)
それを、「蓮祖・興師の文証挙げて」立証してみせよ。

A「仏界涌現」→御本尊の深義が丸解り ということだが、では、その人間は御本尊を書ける、ということか。
はい でも、いいえ でも、その理由を「蓮祖・興師の文証で」立証せよ。
しかし、いいえ の場合、それでは、御本尊のことが「丸解り」したことにならぬのではないか。

まだまだ、駄犬の馬鹿さ加減を突く材料にはきりがないが、とりあえず。

さ、駄犬?汚いヨダレ吐き垂らして逃げるなよ?(-。-)y-゜゜゜
そうそう、妄犬マゴマゴも、物陰でウジウジしてないで、堂々と面を上げて、助けてやったらどうだ?呵々
しかし、戒壇の大御本尊から”退転した者”だから、

■なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。

の仰せの通りで、

★臆病で(自分の意見を堂々と面と向かって言えず、人に仮託してひそひそと物陰に隠れていう妄犬マゴマゴなどこれに類するだろう。呵々)
★物をぼえず(何度教えても法門が分からない。駄犬などいい例である。)
★欲深い(虚栄心強きが故に、道理も何もなく、ただ頑迷に勝他の念に囚われ、足掻き続ける)
★疑い深い(姑息で無知・愚昧な言動に終始し、戒壇の大御本尊を信行できない疑心の塊 どもである)

で、無理か?

昔のマゴマゴはそれでももう少し「利口」で、聞き分けの良い子、だったような気がするが。
最近の頑迷さには失望である。
やはり、ニセ本尊への「同盟唱題」の害毒か。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。84  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)20時09分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

なんか、この下に愚図愚図と書き込んであったようである。

これも掃除しておきましょうか。
しかし、駄犬の痴難には、深い内容がない。
同じ謗法者の相手をしていても、その邪義の複雑さや、広範な知識においては、こちらも触発され、更に行学に励めるタイプもあれば、その全く逆の駄犬のような、深い教義内容もなく、広範で深長な知識もなく、ただただ無闇に吼えているだけのただの馬鹿もいる。
駄犬も、どうせ今世は腹を括って謗法街道をまっしくらに突っ走るのなら、もう少し、邪義を練ったり、謗法者なりにも教義を深く勉強してから何か書かんか?
全くつまらん。

では、いきますか。
―――――――――――
> ああ、それと、
>
> 「>■日寛上人   文底秘沈抄 第二
> なんで寛師なんだよ?(^o^) 蓮祖・興師の文証じゃ不足かね、坊や?(^o^)」
―――――――――――
はいはい、
”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)”
”全く、学習効果のない奴だな(=_=)”

下らないけど、編集し再掲しておくか。
―――――――――――
> はい、蓮祖・興師の文証。(^o^)(^o^)

については完全に破砕してある。
http://toyoda.tv/yamainu2.htm の74〜78参照

これに対して駄犬は全く反論不能状態であるにも拘らず、こうしてまたもや馬鹿の一つ覚えの「蓮祖・興師の文証」云々である。
では、こういう馬鹿には少々躾けてやらないといけないらしいから、馬鹿にも分かりそうな矛盾点をつきつけてあげますか。

以下について「蓮祖・興師の文証のみで」反論してくださいませ。出来なければ、公式謝罪&脱会。
ほんと、”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)” 呵々大笑
―――――――――――
大聖人の御法門の全てが御書に記載されている、と勝手に思い込んでいるだけの駄犬であるから、常にヨダレを垂らしながら馬鹿の一つ覚えで「蓮祖・興師の文証出さんか。」などと吼え続けているのである。
まさに愚か者を額に入れて標本として飾っているようなぶざまさである。

では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
御書の表に顕れていない御法門は口伝・相伝・相承等によって、日興上人を首として御歴代上人へ唯授一人・血脈相承されている。
参照http://toyoda.tv/yamainu2.htm 76〜78

因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜
さ、では、「個人折伏の世帯数によって尊崇しその発言を聞くべきであり、歴代法主上人の言は用いてはいけない。」との恥論を証明する「蓮祖・興師の文証あげんか!早くせよ!」
―――――――――――
お陰で、もうこれで、一段終わってしまったではないか。
少し、謗法者なりきにも成長したまえよ。

まっ、しかし、そうか、このように、暗愚極まりない醜態を懲りもせずエンドレスに繰り返している無様さに気づけないところが、ニセ本尊の害毒であるとすれば、やはり駄犬もそのよき標本としての”使命”を果たしているのか。
そうか、そうか。
まさに、ニセ本尊の害毒の”生きた警鐘” である。
ご苦労さん。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。85  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)20時38分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

昔の邪難を挙げてくれて助かった。
お陰でこちらで態々 探さなくて済みました。
―――――――――――
> 「ついでだ。
> 私は4ヶ月前にこうも訊いた。
>
> 「>(戒壇の大御本尊様の御法魂とは:やまいぬ。註)唯授一人血脈相承された方
> >以外は全く知らないこと。知りえないこと。
> (知りたければ:やまいぬ。註)

> >1、脱会して戒壇の大御本尊様を一心に信じ拝すれば、総じての義においての
> >御法魂を感得する事

> >2、唯授一人・血脈相承をお受けになる立場として生まれてくること

> まず単純に矛盾していますよ。(^^)
> 「唯授一人血脈相承された方以外は『全く知りえない』」筈のものも、「総じての義に
> おいて法魂を感得する事が出来る」――『全く知りえない』とは1から10まで
> 『全く知りえない』ことであり、「総じての義において法魂を感得する事が出来る」、
> つまりその一部でも解かるというのは、すでに矛盾していますね。(^^)
> (宗門教学とは、ご都合主義で一貫していないせいでこんな矛盾の継ぎ接ぎ
> だらけですが)
―――――――――――
→この程度か?所詮。
駄犬の普段の生活の貧相さが偲ばれるな。
侘しく夕食の支度しながら一人パソコンに向かう・・・実に貧相である。呵々

こういう低脳な切り返しの仕方は駄犬の特徴であり、これでは概ね、上司・同僚・知人・友人・恋人・客 等に嫌悪され唾棄されるからである。
これでは、上長の位(法華経信仰の功徳として列記されている)などにはとても昇れず、それどころか事為すごとに嫌われ者であろう。
いやはや、全く。(=_=)

では破折いきますか。
駄犬は、能所の法門を知らぬ。ただそれだけのことである。(しかし、本当につまらんな。少し気の効いた謗法者なら、こんな痴難は流石にしないがね。)
”別して”の御法魂の意義とは、能所でいったら、能の辺であり、その能の辺は、唯授一人・血脈相承された方以外は絶対に知り得ない。
”総じて”の義に於いての御法魂 とは、所の辺であり、この所の意義としての御法魂を分分に感得できるのである。
その現証として、かつて駄犬の反論不能の箇所を挙げる。

つまり能の辺は、御本尊書写の御尊行である。
―――――――――――
> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

→実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは"御本尊" になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。
―――――――――――
重ねていう、上記の詰問に「蓮祖・興師の文証を挙げて」回答せよ。
出来なけれな、この板で公式に謝罪して脱会。
よろしいな。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。86  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)20時53分14秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

もしもし、駄犬?
これには反論不能か?呵々大笑
―――――――――――
では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。87  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)21時02分21秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>「日寛上人の御指南は信じない。」

▼はい、この通り私はいつ・何処で書いたのかね?(^o^) 出してみ、坊や?(^o^)
―――――――――――
とうとう錯乱したか?駄犬?
以下は駄犬の言だが、
―――――――――――
> 寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?
> 「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を
> 顕された蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。
―――――――――――
「講釈など無用」 とは 「指南は信じない」と同義ではないのか?

違うというのなら、「蓮祖・興師の文証挙げて」証明せよ。(-。-)y-゜゜゜
出来なければ、公式に謝罪して脱会。(-。-)y-゜゜゜

ここまではっきり書いたんだから、まさが空とぼけないだろうな?(-。-)y-゜゜゜
創価学会の恥 となるぞ。(-。-)y-゜゜゜

書けば書くほどに自分の首を絞めていくな。駄犬?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。88  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)21時10分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>日寛上人の書いた御本尊
学習能力なき坊やよ、いつ寛師が「オリジナル本尊」を書いたのか、いい加減に
出してみんか、クズ坊よ。(^o^)
寛師書写の蓮祖御図顕本尊だわ。(^o^)

→ではなんで日寛上人でなければならないのか?
「蓮祖・興師の文証」で証明してみせよ。
駄犬は「蓮祖・興師の文証」だけで不足はないのだろう?
ならば、「蓮祖・興師の文証のみ」で証明して見せよ。
駄犬の自見は不可である。
この証明に成功できない場合は、公式謝罪&脱会コース。
頑張れ。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。89  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)21時41分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

駄犬の痴論には既に、膨大な量に於いて反駁してある。

http://toyoda.tv/yamainu.htm

http://toyoda.tv/yamainu2.htm

これらの破折に対して、駄犬は反論不能な場合、常に「蓮祖・興師の文証」のみに拘り、正統な反論の矛先をかわしてきた。
当方は既に、「御書の御文のみでは大聖人の仏法の全ては説き尽されていない。大事は相伝・口伝・相承によって伝持されてきた、」と主張してきた。

しかし駄犬は以下のように言い続けて正統な反論から逃走してきた。

> 文証とはそもそも「絶対尊崇の対象」たる蓮祖・興師の言を以ってせえ。

> その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
> 何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)

> 蓮祖・興師の言で充分可能だわなぁ? はいどーぞ。(^o^)

かく駄犬は言うのであるから、大聖人の仏法の御大事である御本尊のことも「蓮祖・興師の言」に明確にあるはずであろう。
もし、「蓮祖・興師の言」にないというのならば、それでは「蓮祖・興師の言」だけに大聖人の仏法の全てが顕れていないことになり、駄犬が「蓮祖・興師の言」のみに頑迷にこだわる根拠は崩壊する。
ここを詳らかにしなければ、駄犬の自己矛盾の言の正邪が判明せず、当方の主張から駄犬が徒に遁走する余地が生じてしまう。
が故に、以下の問題について、正当に正々堂々と返答せよ。

これを回避する態度はまさに自ら反論不能を認め、更には「蓮祖・興師の言」では大聖人の仏法全てが顕されていないことをも認め、更には、当方への反駁の主要を為している「蓮祖・興師の言のみを以ってせよ」との強要に根拠がないことを、自ら認めたことになる。

では、早くせよ。

言い訳無用、さっさとせんか、クズ坊。(^o^)

である。
―――――――――――
では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。90 祝90回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)21時48分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

これについては、どうした?駄犬?
本尊は誰なら書いていいんだ?
ん?
「蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか!」(-。-)y-゜゜゜

> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

→実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは"御本尊" になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。
―――――――――――
重ねていう、上記の詰問に「蓮祖・興師の文証を挙げて」回答せよ。
出来なけれな、この板で公式に謝罪して脱会。
よろしいな。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。91  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)21時56分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> DATE: 12月 7日(木)21時13分2秒
> TITLE: 文字も読めぬのかね、坊や?(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> >「日寛上人の御指南は信じない。」
> はい、この通り私はいつ・何処で書いたのかね?(^o^)
>
> >「講釈など無用」 とは 「指南は信じない」と同義ではないのか?
> おいおい、「疑問形返し」とは、何だこれは?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 難癖つけるもの堕ちたものだわなぁ、樋田昌志くん。(^o^)
>
―――――――――――
では、書き直してあげよう。

「講釈など無用」 とは 「指南は信じない」と同義である。
であるから、
―――――――――――
>「日寛上人の御指南は信じない。」

▼はい、この通り私はいつ・何処で書いたのかね?(^o^) 出してみ、坊や?(^o^)
―――――――――――
との言は不当である。
ここで正式に謝罪したまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。92  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)10時24分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、駄犬の内容の薄い恥言になどをいつまでもかまっていられないが、そうかといって、かつて駄犬から寄せられた駄言に対しては相応の応対をしてあげなければ可哀想である。
では、遡って、続き、いきますか。(06.8.26の駄犬の投稿)
―――――――――――
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
>
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。」
>
―――――――――――
→こうして過去の駄言を今更に眺めてみると、あまりの幼稚さに破折欲もなかなか昂揚してこないような代物である。

1、まず、
宗教の根本は本尊である。
本尊なくして宗教は成り立ち得ない。人も救えない。
自宗の本尊の正当性が明確に定義出来ない→本尊が不確か→結局、本尊が不当
である”宗派”が、本尊の正当性が道理・文証・現証によって明白な宗派の、過去の布教の歴史について云々してみたところで、ただの悔し紛れの言いがかりに過ぎない。
例えれば、家も、家族も、もちろん、資産も、能力も、体力も、人徳も、何もない貧相で落ちぶれた者が、きちんとした家を持ち、家庭も平和で、慎ましく幸せに暮らしている家の中を窓から覗き込んで、「この家の何代前のじいさんがこうだった、」とか、「江戸時代はこんな下衆な仕事をした経歴があるんだ」とか、言っているに等しい。
しかも、その当人、実は昔この家の奉公人だった、というではないか。 といったような話である。呵々大笑。

であるから、まず、自宗の正しさを証明するに於いて、何よりも先にしなければならないのは、本尊の正当性の立証 である。
で、駄犬に訊く。(再詰する)

1、御法主上人以外は誰が書写できるのか?
2、もし出来る者がいない場合、では何故御法主上人にしかできないのか、
3、できるとすれば、誰か?その理由は?

以上を「蓮祖・興師の御文のみ」で明証せよ。

これが出来なければ、今までの駄犬の主張からいって駄犬が拝む創価学会販売の、身延みやげ本尊より劣る、ニセ本尊の正当性は立証されない。
繰り返すが、本尊の正当性が立証されない者が、あるいは宗派が、本尊の正統性が明々白々の宗派の歴史について云々するのはただの邪難であり、全くの愚行である。およそ取り上げるべき内容とはならない。

■仏法と申すは道理なり。

であり、道理が通らないものは、仏法ではない。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。93  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)12時34分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

2、その上で、駄犬の引文の的外れ振りを哂う。
―――――――――――
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」

この御文を、一体何を立証したいが為に引文したのか。
解説してやるにも、余りにばかばかしいので、駄犬の好きな常套句一言で済む。
「宗祖滅後750年内で、必ず広宣流布しなくてはならない。」という意義を、

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

と、こうなる訳である。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。94  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)12時38分9秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」

これも、同様であった。

「宗祖滅後”750年以内”で、必ず広宣流布を達成しなくてはならない。」という厳命があるのなら、

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。95  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)14時00分46秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

あまりの下らなさに、全文を破折する労も時間も勿体無い。今後ポイントだけに絞りますか。
―――――――――――
> >先生の勲章云々。

> 「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至
> 日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。 あしき名さへ流す、況やよき名をや。何に況や
> 法華経ゆへの名をや。」
>
> 世間の誰も知らない、コップの中の自己満足などどうでもいいのですよ。
> 法華経の行者として、世界に「日蓮大聖人」の名前と思想を現実に展開し、評価されることを
> 軽んじ、つまり上記した蓮祖の御聖訓などハナから舐め切っておる法華講には解からぬ
> 次元のことです。(^o^)
―――――――――――
→浅薄である。
しかも、既に呵責済みである。
http://toyoda.tv/yamainu2.htm 47
―――――――――――
編集して再掲

●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

では以下の御文は、駄犬の思い込みとは正反対の意義を仰せであるが、上記の御文の意義との整合性はどうとるのか?

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

である。(-。-)y-゜゜゜

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。
持妙法華問答抄

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。?利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを
もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。96  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)14時38分21秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、以下の駄言のポイントのみを呵責しておきますか。
―――――――――――
> DATE:  8月26日(土)17時43分15秒
> TITLE: 02
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> ●>「辨惑観心抄」云々。
> >●2、御本尊を書写できる方は唯授一人・血脈相承を受けられた方に限る。
> >ということは、そのことだけでも実に尊く有難いことでしょう。

> いいえ。(^o^)
>
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
> 自ら行動を起こし、同門の信徒を励まし、また現実の折伏の最前線で闘い、現実に弘める
> 故に「人法ともに」尊いとの意であり、置物みたいにふんぞり返り、供養だけもらって自分は
> 折伏もしない人間は「法を弘めている」とは表現しません。

―――――――――――
昔も今も 馬鹿は馬鹿、である。呵々

「法」とは煎じ詰めれば「本尊」である。
では、正しい「本尊」を広めなければ何もならない。いや、むしろ害である。
正しい本尊を広めてこそ「人法ともに尊し」なのである。

かつて駄犬はこう言っていた。

> すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)

→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。

であるならば、

@身延のみやげ本尊をコピーし、それを更にコピーしそれをまたコピーし・・・と何万回コピーしたものも、全て”人法一箇の御当体”ということになり、”御当体さま”が何億枚、何千億枚も”発生”することになり、しかも、いつ何時でも、誰でも、コンビ二でも、会社のオフィスでも、どこでも”御当体さま”を作れることになり、まさに「本尊雑乱」の狂態である。
しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。呵々大笑。も一つおまけに 呵々大笑 である。

駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑

■仏法と申すは道理なり で、@の状態が正しい本尊である訳がない。

A駄犬の説だと、誰でもいいから、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書けばいいのであり、そこら辺の小学生にでも書いてもらったものでも、そこら辺の田舎の禅宗の僧侶にでも書いてもらっても、いやいや、それも面倒くさいから、自分で書いても、いいことになる。呵々大笑

いやいや、そろどころか、この→「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」←すら、本尊になる訳である。(^_^;)
何も、「毛筆で書け。」などと「蓮祖・興師の文証」にない。呵々大笑

ことほど左様に、駄犬の珍説は稚拙極まるのである。
大笑いである。
それこそ、 \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/  である。(-。-)y-゜゜゜

こおんままでは可哀想だから、駄犬に問う。
この@Aのケースで本尊と成り得るのか。
はい の場合でも、いいえ の場合でも どちらでも結構。その理由を

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。97  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)19時44分28秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

しかし、書くほどに馬鹿で馬鹿で・・・(^_^;)
―――――――――――
> ついでながら、「法」とはつまり事の一念三千の南無――であり御本尊です。

→その「御本尊」に対する駄犬の認識の曖昧さ、更には不当性については、前段、96 で大笑いしてあげた。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> 末法広宣流布において必ず競い起こると法華経に説かれ、蓮祖がまさに体現した中で、
> それでも身命を賭して弘めるひとなくんば、その「法」たる御本尊の有難さすらも、誰も
> 享受できない。
> このやり取りで何度もあなたが強調される「戒壇本尊」など、ただ黙って安置しておっても、
> まさに「法自ら弘まらず」、ただの置物にしているだけで、有難くも何ともありません。
> 「法」弘まって実践し、各々が現実に宿命転換してはじめて有難さを実感出来るのです。
―――――――――――
→馬鹿もここまで来ると 狂人の域 である。

1、戒壇の大御本尊が大聖人の御本懐でないと

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。
―――――――――――
2、日寛上人
■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。

因みに、「日寛上人書写の御本尊を本尊としながら日寛上人の御指南を用いない」という馬鹿犬がそこら辺をヨダレを垂らしながら徘徊しているようだが、以下の道理によって、全くの不可である。

■文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。

日寛上人が書写された御本尊を本尊として尊仰するということは、

■「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。」

との原理から、日寛上人という御方の「心法」への尊信がなくては有り得ない行為である。(ここにまた、御本尊は御歴代上人のみしか書写されない原理の一分が存する)
日寛上人の「心法」を、またよく表されたのが、日寛上人の数々の御指南であり、この御指南を尊信しない者には、日寛上人の御本尊を拝んでいるというのもただ表向き・外面・上辺の姿だけで、実際の信はない行為であり、結局堕獄必定の邪信である。
また、その矛盾に気づかないのは頭破七分で、もはや救いがたい一闡提人である。
例えて言えば

■「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死(ころ)す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠(こうもり)が昼を夜と見るが如し。

である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。98  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)20時56分7秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おお、先ほど過去の駄言を検索していたら以下の件、一応反論らしき駄文があるではないか。
過去のくだらん戯言には少々飽きてきていたので、これを少しかまいますか。
―――――――――――
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。

▼阿呆。(^o^) それを訊くなら「誰が御図顕されたか?」と問え。(^o^)
―――――――――――
→馬鹿。(-。-)y-゜゜゜ 「御図顕」など大聖人に決まっているし、他に有り得ないことは、興門派内に於いては双方の共通認識であって、今更、殊更に取り上げる問題ではない。
今、問題にしているのは

1、@大聖人御図顕の御本尊→A誰かが書写→B実際に拝む本尊
2、@大聖人御図顕の御本尊→A複製→B実際に拝む本尊

の1、2、のA以降についてである。

現実に駄犬らは@を拝んでいる訳でなく、歴代上人が「書写」された御本尊Bを(それをまた改竄したニセ本尊)を拝んでいるではないか。

こういう、簡明な筋道さえ解らなくなってきているほど惑乱しているのが駄犬の頭、である。
まさにニセ本尊の害毒、脳髄に深く沁み入って、「道理」がますます理解できなくなってきている証左である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。99  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)21時06分12秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●>1、貴公にはその資格があるのか?

▼「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。」

蓮祖における和合僧団の規定である。(^o^) ならば学会そのものにこそ書写・授与の
資格はある。(^o^) が、私は本尊濫造論者ではないので、すでにあるものをわざわざ
自分で書写しようとは思わんが。(^o^)
―――――――――――
→馬鹿。(-。-)y-゜゜゜
では、※「現時の創価学会が、正統な和合相談・・もとい、僧団 である」、と

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

因みに、上記の御文を以って、そのまま設問※の証明にはならぬから、解説を加えてみよ。
(駄犬は脇が甘々だから、詳細に刻めば、弄りやすくなるので楽しみである。が、駄犬にはもう怖くて出来ないであろう。と書いといてやれば、むきになってつっかかってくるから、これまた楽しい。(-。-)y-゜゜゜)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。100 祝!とうとう100回記念!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)21時34分12秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●>2、誰ならいいのか。

▼学会が寛師書写本尊を下付しておるのを知らないのかね?(^o^)
学会下付の寛師書写本尊で充分過ぎる。(^o^)
―――――――――――
→ しかし、本当の 馬鹿 のようである。(-。-)y-゜゜゜

学会のニセ本尊は全く駄目なのである。本尊どころか、紙が硬くてハナ紙にもならぬのである。

身延のみやげ掛け軸にも創価学会販売のニセ本尊にも正統な草木成仏の"開眼"の義が全くない。
成仏の本義がない「モノ」を本尊と崇めば、それは謗法行為である。またその似非本尊様の「モノ」は謗法物である。
当たり前の道理である。
―――――――――――
文証

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。(四条金吾釈迦仏供養事建治二年七月一五日 五五歳 993

●大聖人様が”開眼の意義”を仰せである。
―――――――――――
■形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

●邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。
”開眼の義”を否定する輩どもも同様である。
―――――――――――
■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

●「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。

―――――――――――
別視点から

やまいぬ。君の立論は、やまいぬ。君が自負する、多くの「折伏」をし「広宣流布」を進めた創価学会の啓蒙書、折伏経典の主張に全く相反する。

■『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

との主意と、折伏経典にある以下の主張は大同である。

▼【折伏教典】(折伏教典三二三)
「富士大石寺に背く謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである。そこで、もし、このようにたしかなご真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の御法主上人の御手元に移し、改めて感得願いを申し上げて、大御本尊に直結した御本尊として御下げ渡し願えば良いのである。また信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるものであり、我等信者が云々すべきも恐れあることである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることがはっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって不相伝家は皆本尊に迷うということが言えるのである。
それ(興尊が集めた大聖人御真筆本尊)にもれた一部のものが、ある人々に移り伝わって今日、ご真筆として勝手に信仰の対象とされているのである。ただし、これはちょうど電灯にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。」

もし、やまいぬ。君が日因上人の御指南を、「折伏」と「広宣流布」の数、ということにおいて否定しているであるなら、その「折伏」と「広宣流布」を殊に推し進めた創価学会の主張は認めなければならないはずである。

(また、http://toyoda.tv/yamainu2.htm の 74〜78 に対して駄犬は反論不能状態であるから、歴代上人の御指南も全て「文証」として尊信しなくてはならない道理である。)

因みに、この折伏経典の内容について、かつて駄犬は「ダブルスタンダード」と言って逃げを打ったが、その反駁には反論不能のままである。
―――――――――――
「戸田氏はダブルスタンダード(=仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること。)だった。」というやまいぬ。君説。
ここで、やまいぬ。君ら本尊に迷う創価学会員を呵責する為に引用したのは「折伏経典」の「本尊論」である。
では戸田氏はこと"本尊"に関しても、本音と建前があった、ということだな?
こと、根本として尊仰する対象である"本尊"に、表の意義と裏の意義があった。戸田氏はそう解釈し、またその表の面だけを「折伏経典」に書いた。ということだな?
ではやまいぬ。君に説明願おうか。

@折伏経典にある以下の内容が戸田氏のダブルスタンダードの表の面だとすれば、その裏の意義をここに挙げてみせよ。
Aまたそれはどの文献にいつ掲載されたのか。立証せよ。
この@Aを明確に証明できなければ、「本尊に関して戸田氏に本音と建前があった」などとするのはやまいぬ。君のただの妄断であって、全く採用するに足らない恥論である。
そういう根拠なく痴論を吐く行為は謗法であるから、ここに公式に謝罪し脱会届けを提出したまえ。

さてさて、謗法者の浅はかな、かつ根深い妄執とは斯くも無慙で無残で無惨なものである。 (心になんら恥を知らず、乱暴な恥論を展開し、しかも手酷く呵責されて惨めな醜態を晒す。等の意)

さ、ぼちぼち、やまいぬ。君、脱会届けと公式謝罪文の準備を始めたら如何か?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。101  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)07時59分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

おお、いよいよ、足掻きまくっているようである。
で、駄犬、これの返答は?(-。-)y-゜゜゜
できないでしょう?
駄犬には絶対に無理だわな。呵々大笑

> もしもし、駄犬?
> これには反論不能か?呵々大笑
> ―――――――――――
> では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑
>
> 例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
> 1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
> 2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
> 3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?
>
> もっと普通に言えば、
>
> ★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
> ★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
> ■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
> ■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)
>
> 他、書き出せばきりがない。
>
> さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
> 大哂いである。
>
> 御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。
>
> まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。102  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)08時04分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ついでながら、これについても、きちんとした御返答は?

> > DATE: 12月 7日(木)21時13分2秒
> > TITLE: 文字も読めぬのかね、坊や?(^o^)
> > NAME: やまいぬ。  MAIL:
> >
> > >「日寛上人の御指南は信じない。」
> > はい、この通り私はいつ・何処で書いたのかね?(^o^)
> >
> > >「講釈など無用」 とは 「指南は信じない」と同義ではないのか?
> > おいおい、「疑問形返し」とは、何だこれは?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> >
> > 難癖つけるもの堕ちたものだわなぁ、樋田昌志くん。(^o^)
> >
> ―――――――――――
> では、書き直してあげよう。
> ↓
> 「講釈など無用」 とは 「指南は信じない」と同義である。
> であるから、
> ―――――――――――
> >「日寛上人の御指南は信じない。」
>
> ▼はい、この通り私はいつ・何処で書いたのかね?(^o^) 出してみ、坊や?(^o^)
> ―――――――――――
> との言は不当である。
> ここで正式に謝罪したまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。103  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)10時38分36秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

これの中を少しかまいますか。

> DATE: 12月 9日(土)01時36分32秒
> TITLE: 樋田昌志くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
> 画像: 有
―――――――――――
> >もし、「蓮祖・興師の言」にないというのならば

> 何度も云うてやった。
> 蓮祖・興師の文証では不満・不足なのだな、坊や?
> 自分の言葉で云うて御覧?(^o^)
―――――――――――
→ほいほい、これは?
―――――――――――
では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
駄犬風に言うと、

”全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ創価学会員・やまいぬ。よ。(^o^) ”

である。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。104  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)11時30分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

 さて、あまり、こうした馬鹿のレベルを叱ってばかりいても読者も退屈でしょうから、少しつっこんだ内容にしますか、この段は。
―――――――――――
> さ、「南無――の内証は戒壇本尊」、さっさと蓮祖・興師の文証挙げんか、クズ坊。
> 当然坊や捏造の「無限ループ」、あるいはマグ様ご指摘の「永遠等式」もだ。
> 仕方ないねぇ。誰でもない、坊やが勝手にでっち上げちゃったんだから。(^o^)(^o^)
> (^o^) 無理か、やっぱり?(^o^) 蓮祖・興師じゃ不満なんだよねぇ、坊や?(^o^)
―――――――――――
日淳上人(便義の為★『』等を加えさせていただいた)

■ 大聖人が末法に出現せられ、仏の境涯に立ち、其の★『御内証』を顕発あそばし★1『三大秘法の大御本尊』としてお顕わしになったのであります。
 「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ、信じさせ給へ、仏の御心は法華経なり。日蓮 が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし。」と仰せられて御座いますが、茲に於いて末法のための寿量品とは日蓮聖人の★『御内証』にあり、その★2「『御内証』を★3『大漫荼羅に建立』あそばされたこと」を拝し奉るのであります。
 世上に於いて、所謂日蓮宗の立つるところの本尊を見るに、その立つる処がまちまちで、一定しておりませんから一口では申せませんが、法華経本門寿量の文上の釈尊をとつて本仏と立て、
★4『南無妙法蓮華経を以って本法としてをる』が如くであります。
此れは全く★『天台の余流』であって、★『大聖人建立の御本尊とは異る』のであります。たとへ口には上行所伝の妙法と云ふて恰(いえど)も天台と別なるが如く申しましても、事実は★『天台の余流に墮しておる』のであります。此の事は結局★『種脱相対の御法門を知らない』からである。

★1=戒壇の大御本尊(大聖人一期御化導中、唯一「戒壇」の義を明示された御本尊であるから、ここに始めて、題目・本尊・「戒壇」と三秘が整足するのである)

★2『御内証』を★『大漫荼羅に建立』あそばされたこと=「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる。(当方の主張)

★3=戒壇の大御本尊

4≒駄犬らの妄執。→大聖人の御本懐である戒壇の大御本尊を離れ、「「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」とあれば、何でも本尊となる。」との駄犬の劣見は、★4とほとんど同義。
つまり、
★4『南無妙法蓮華経を以って本法としてをる』と
駄犬「「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」とあれば、何でも本尊となる。」
と、その惑乱振りはほとんど同義である。限りなく”近似値”である。
であるから、駄犬らは、または、駄犬と同様の妄見を為す輩は

『此れは全く★『天台の余流』であって、★『大聖人建立の御本尊とは異る』のであります。たとへ口には上行所伝の妙法と云ふて恰(いえど)も天台と別なるが如く申しましても、事実は★『天台の余流に墮しておる』のであります。此の事は結局★『種脱相対の御法門を知らない』からである。』

であり、つまり、邪教 ということである。

因みに「御歴代上人の御指南を用いない」との恥言は、
http://toyoda.tv/yamainu2.htm 74〜78 に正当な反論不能状態であるが故に、全く採用できない。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。105  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)13時29分33秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >では、遡って、続き、いきますか。(06.8.26の駄犬の投稿)

> 「続き」?(^o^) 4ヶ月返答不能で、それを糊塗するために「続き」とは、
> 坊やの日本語が出鱈目なのと、その必死の格好つけ、なんとも無様だわ。(^o^)
>
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
―――――――――――
以上の御文も全く的外れであるが、特に
はい、また、やりました。この馬鹿は。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば
> 釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も
> 芭蕉の如くならん。」
―――――――――――
→この御文の意義とされるところは、「末法に上行再誕・日蓮が出でて、寿量文底の南無妙法蓮華経を三大秘法として建立する。」というところに主眼があるのである。まず、@法体(=本尊)の建立あって、Aその流布 という筋目である。
その意義を証する文を当御書「法華取要抄」から摘示させていただこう。

■問うて曰く、法華経は誰人の為に之を説くや。答へて曰く、(中略)滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。

■問うて曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答へて曰く、寿量品の一品二半は始めより終はりに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。

■寿量品に云はく「是の好き良薬を今留(とど)めて此に在(お)く」等云云。文の心は上(かみ)は過去の事を説くに似たる様なれども、此の文を以て之を案ずるに滅後を以て本と為す。

■問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。

■疑って云はく、何ぞ広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、(中略)日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝(しょでん)の妙法蓮華経の五字なり。

■仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当(あ)て五字を授与せんこと当世異義有るべからず。

■疑って云はく、今世に此の法を流布せば先相之有るや。(中略)答へて曰く、去ぬる正嘉(しょうか)年中の大地震、文永の大彗星、其れより已後今に種々の大なる天変地夭(てんぺんちよう)此等は此の先相なり。

■是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。

以上の御文から当該文の意義を拝するに、

「正像二千年の間未(いま)だ広宣流布せざる法華経(※三大秘法の南無妙法蓮華経)を当世(とうせい)に当たって流布(※建立)せしめずんば釈尊は大妄語(だいもうご)の仏、多宝仏の証明は泡沫(ほうまつ)に同じく、十方分身の仏の助舌(じょぜつ)も芭蕉(ばしょう)の如くならん。」

となるのである。

これにも関連するが、以下のテーマに対する駄犬の回答がまだだが?

”宗祖滅後750年以内に、必ず広宣流布を達成しなければならぬ。”とするのなら、その蓮祖・興師の文証を挙げてみせよ。

を、
以下の駄犬の品性のない野卑な罵声の中の、団体名を「創価学会員」に、当方の個人名を「やまいぬ。」に変えて、駄犬へそのまま詰問する。

いったいいつまでかかるんだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げてからモノを云え、クズ法華講・樋田昌志くんよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げんか。いい加減にせんか、逃亡に次ぐ逃亡ばかりのクズ法華講よ。(^o^)
早うせんか、鈍臭いクズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ法華講・樋田昌志よ。(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げんか。
クズ法華講のクズ坊や。(^o^)
蓮祖・興師の文証、いったいいつになったら出せるのだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?
蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)

呵々大笑。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。106  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)13時51分26秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、105 に関連して、池田大せんせ〜〜監修の仏哲には、 105 に於ける当方の主張を裏付ける記述★1と、宗門700年の歴史に対して、駄犬の愚見とは聊か趣を異にする記述★2がある。
また、日寛上人の御指南を尊信する姿勢★3も見られる。

「この大法難を機会として大聖人は、弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を建立され、出世の本懐をとげられた。★1『この三大秘法随一の大御本尊の建立こそ、日蓮大聖人御自らの手による法体の広宣流布であり、化法の広宣流布が完成されたのである。』(※ 法体の広宣流布・化法の広宣流布 との表現は、現時では適切ではない)
(中略)
かくして、大聖人は御入滅あそばされたが、二箇相承により、大聖人の血脈は第一の弟子日興上人に受け継がれた。日興上人は、立正安国の大精神のもとに、数度にわたる国家諌暁をなされている。記録に残っている申状三通に、日興上人のご意志が脈々とうかがわれる。正応二年、嘉暦二年、元徳二年の三通であり、この最後の元徳二年の申状ののち四年にして、北条氏は滅びている。
★2『 さらに第三代の日目上人は、一代の間に、四十二度の天奏をとげたと伝えられる。大聖人、日興上人の御名代として、あるいは、御自身の奏状も含まれるであろう。四十二度目、正慶二年七十四才の御老体にて御上洛の時、美濃の垂井において雪中寒風の中に御遷化されている。その後、日道上人、日行上人、日有上人と国家諌暁の精神は、現存する申状によってうかがい知ることができる。』

★3「日寛上人は、江戸時代の流布の姿を見て、広宣流布を疑うものに対して「大聖人の時代に逆縁の広宣流布ができたのであるから、順縁広布は必ずできる。現在日蓮正宗も次第に流布しはじめている。いまだに一花の咲くようなわずかの流布ではあるが、一花の開くのをみて、春の来ることを確信せよ。わずかながらも江戸時代の流布の姿を見て未来の広宣流布を確信せよ」と答えられている。」」

駄犬の喚き声など、独りよがりの、狂い吠、であり、全く取るべき内容などない、ということである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。107  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)14時52分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

またもや、大哂いである。
駄犬、本当に 愚かである。
―――――――――――
> >1、まず、
> >宗教の根本は本尊である。本尊なくして宗教は成り立ち得ない。人も救えない。

> はい、終わり。(^o^)
> 何度挙げてやれば坊やには理解出来るのだね?
>
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
>
> つまり逆に云えば、法を広める人間なくんば、人法ともに卑しいのだよ。(^o^)
> 少なくとも目師没後、600年以上もの間惰眠を貪った宗門は、せっかくの
> 蓮祖仏法そのものを貶めた。これだけで大謗法である。
―――――――――――
→馬鹿である。
宗門が「大謗法」というのなら、その「大謗法」という「日蓮正宗」に入信した創価学会の初代をはじめ、二代会長以下、全員みな「大謗法者」となってしまうだろうが。呵々大笑。
ほんと、馬鹿である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。108  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)15時03分6秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ついでに、駄犬の理屈だと、
その「大謗法」という「日蓮正宗」の第26世日寛上人も「大謗法者」ということになり、その「大謗法者」が書写した御本尊を平気で平気で拝む。
まさに、頭破七分・狂気の沙汰、である。

お、そういえば、これについて、反論不能だな。未だに。
―――――――――――
A駄犬の説だと、誰でもいいから、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書けばいいのであり、そこら辺の小学生にでも書いてもらったものでも、そこら辺の田舎の禅宗の僧侶にでも書いてもらっても、いやいや、それも面倒くさいから、自分で書いても、いいことになる。呵々大笑

いやいや、そろどころか、この→「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」←すら、本尊になる訳である。(^_^;)
何も、「毛筆で書け。」などと「蓮祖・興師の文証」にない。呵々大笑

ことほど左様に、駄犬の珍説は稚拙極まるのである。
大笑いである。
それこそ、 \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/  である。(-。-)y-゜゜゜

こおんままでは可哀想だから、駄犬に問う。
この@Aのケースで本尊と成り得るのか。
はい の場合でも、いいえ の場合でも どちらでも結構。その理由を

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。"

である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。109  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)15時26分29秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

馬鹿のオンパレードな発言である。
駄犬もいよいよ、言うことが尽きてきたな。
実に内容がない。
―――――――――――
> >自宗の本尊の正当性が明確に定義出来ない

> はい、これも坊や自身が首絞めてout。(^o^)
>
> 「南無妙法蓮華経」=「事の一念三千の南無妙法蓮華経」
>             =「寿量文底の南無妙法蓮華経の意」
>             =<であるから>=「事の一念三千の南無妙法蓮華経の正体・法体」
>             =「戒壇の大御本尊へ究竟」
>             =「大聖人の内証」
>             =「戒壇の大御本尊の内証」
>             =「御歴代上人に唯授一人・血脈相承されたもの」
>
> 坊や捏造の「永遠等式」、蓮祖・興師の文証挙げて証明するのに、一体何日
> かかるのだね?(^o^)
> 「戒壇本尊」も教義自体も出鱈目にしておいて、なにをエラそうに人様に対して
> >自宗の本尊の正当性が明確に定義出来ない
> だね?(^o^) この言葉、坊やにそのまま返してあげるよ。(^o^)
> さ、早うせえ。
―――――――――――
→馬鹿には少し深い教義的な内容はやはり無理か。
理解できないのなら、そう素直に言うがいいぞ。
その方が同じ馬鹿でも少しは可愛気がある、というものである。

http://toyoda.tv/magomago.htm
http://toyoda.tv/yamainu2.htm  80〜83  これから、UPする、104

で、完全に済んでいる。

73氏の投稿のもあるごとくである。

偉大なる遁走マグマグ様  投稿者:73  投稿日:12月 9日(土)10時45分54秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp    引用

   >管理人樋田さま

>しっかりとお答え下さいませ。問題をほかへ転嫁せず、話題を拡散せずに、、、。

>「南無妙法蓮華経の内証の『内証』は、戒壇の大御本尊に究竟する!」ことを、

>早くご論証下さいませ。。。出張マグマグヽ(^o^)丿


マグマグさま、
少し管理人さんの書き込みと違っているので指摘しておきますね。ヽ(^o^)丿

>「南無妙法蓮華経の内証の『内証』は、戒壇の大御本尊に究竟する!」

ではなく、管理人さんは、

「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる。
ということである。

ということであります。全く問題のない管理人さんの書き込みに
「は」が抜け、「」が抜けたら
法華講を遁走したマグマグみたいになりますからね。ヽ(^o^)丿

以上、 お節介な73でしたヽ(^o^)丿

追伸

君の第三者的駄文は
「マグマグ君、しつこく纏わりつくのでしょうがなく呵責す」
で全て呵責されておるよヽ(^o^)丿





さて、上記、
http://toyoda.tv/magomago.htm
http://toyoda.tv/yamainu2.htm  80〜83 104

の論証に異論があるのなら、きちんと、文証を挙げ、教義的に反論してみよ。
ただいいがかりをつけるだけなら、馬鹿でもできる。って、あっ、本物の 馬鹿 だったか。失敬、失敬。呵々大笑。
もし、駄犬が馬鹿でないと自負するのであれば、文証を挙げて当方の論述に反駁してみよ。
さ、頑張りましょう。\(^o^)/

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。110 祝110回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)16時01分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ハァ〜〜、次も、ほんと〜〜に、 馬鹿 である。

およそ、妄執に囚われて書くから、書き出すごとに矛盾だらけである。
―――――――――――
> 何度でも書いてやろう。
> 750年の間に、世界中で数え切れない膨大な人間が生まれて死んだ。
> 広宣流布などまるで出来ない宗門・法華講のお陰で、無論蓮祖仏法に
> 縁することもなく、宿命転換も出来ずに宿業に泣いてきた人々だ。
> >「宗祖滅後750年内で、必ず広宣流布しなくてはならない。」という意義を、
> >”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか
> 坊や達はそうやって、広宣流布出来ぬ負け惜しみばかり並べてその人々を
> 見殺しにしてきた。
>
> 『涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云。
> 日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。』
>
> 坊や達には蓮祖のこの大慈大悲などカケラもないわ、クズ法華講よ。
―――――――――――
→すると、
@まず時に約すと
大聖人は、末法への来入を西暦で言えば1056年ごろ、とのお考えをお持ちであるが、大聖人御誕生の1222年まで、約166年間、いや、立宗宣言まで南無妙法蓮華経はお説きでないから、そこへ、更に32年間を足して、198年間、概ね200年間という”ブランク”はどうするんでしょうかね?
駄犬の論法だと、それは、「もっと早く御誕生になられなかった大聖人の責任」ということになる。
これを駄犬の言い方だと、↓こうなる訳だ。

> 何度でも書いてやろう。
> 約200年の間に、世界中で数え切れない膨大な人間が生まれて死んだ。
> 『その間、法体の広宣流布などまるで出来ない日蓮大聖人』のお陰で、無論蓮祖仏法に
> 縁することもなく、宿命転換も出来ずに宿業に泣いてきた人々だ。
(中略)
>『日蓮大聖人』には、大慈大悲などカケラもないわ、クズ『仏』よ。

駄犬の痴論は、こういう結論を導くことになる。恐ろしい駄論・妄論である。
―――――――――――
A次に、国に約すと、
大聖人御在世にも当然世界中に人間はいた。しかし、大聖人御在世中には「広宣流布」は達成せず、大聖人の仏法に出会うことなく死んでいった。
駄犬の暴論だと、「これも全て大聖人の責任」ということになってしまう。
これを駄犬の言い方だと↓こうなる訳だ。

> 何度でも書いてやろう。
> 大聖人御在世にも、世界中で数え切れない膨大な人間が生まれて死んだ。
> 『一生の内で、広宣流布などまるで出来ない日蓮大聖人』のお陰で、無論蓮祖仏法に
> 縁することもなく、宿命転換も出来ずに宿業に泣いてきた人々だ。
(中略)
>『日蓮大聖人』には、大慈大悲などカケラもないわ、クズ『仏』よ。

これまた、駄犬の痴論は、こういう結論を導くことになる。恐ろしい駄論・妄論・暴論である。

しかし、実際、このような結論が容認されるはずはない。つまり、立論自体が全く論理破綻しているのである。
であるから最終結論
→つまり、駄犬はニセ本尊の害毒、脳髄の芯まで沁み込んで、いよいよの愚者馬鹿だから、このような矛盾だらけの暴論を平気で言い出せるのである。呵々大笑

 

やっぱこいつはクズだわ(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)  投稿者:73  投稿日:12月 9日(土)23時32分42秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>> 約200年の間に、世界中で数え切れない膨大な人間が生まれて死んだ。
>> 『その間、法体の広宣流布などまるで出来ない日蓮大聖人』のお陰で、無論蓮祖仏法に
>> 縁することもなく、宿命転換も出来ずに宿業に泣いてきた人々だ。
(中略)
>>『日蓮大聖人』には、大慈大悲などカケラもないわ、クズ『仏』よ。

>出たよ。遂に蓮祖完全否定。
>学会憎しで悩乱し、遂にこのボケは蓮祖のお生まれの年にまでケチつけよったわ。(^o^)

>ここまで酷い法華講というのもさすがにはじめて見たね。


頭悪い上、切り文して人を貶めるわ。
どうしようもない最低のクズだわ(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。111  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月10日(日)23時35分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

先に、以下の開眼に対しての邪難を粉砕しておこう。
―――――――――――
> >正統な草木成仏の"開眼"の義が全くない。

> まだこんなこと云ってるよ、坊や。(^o^)
>
> 「笑止な日顕宗の難癖
> すべての御本尊を法主が「開眼」「許可」は真っ赤なウソ
>
> 「すべての御本尊下附は血脈付法の御法主上人によって御開眼され、総本山より
> 下附されてきた」(平成五年九月七日「宗門文書」)
> 「御形木御本尊については、一体ごとの表具が行われる前に、すべて、総本山で
> 御法主上人猊下が開眼の御祈念をしておられる」(同年十月一日付「慧妙」)
>
> −−。日顕宗では、学会による御本尊授与には、法義的には何も言えないために、
> 法主の「許可」「開眼」がない、と必死になって強弁している。しかし宗門の御本尊
> 授与の歴史を検証すれば、“すべての御本尊”を法主が許可、開眼し、総本山から
> 下付されてきたとは、真っ赤なウソである。これは明白である。つまり、御本尊の功徳は、
> 法主の許可、開眼とは無関係なのである。宗内僧侶の情報を総合すると、昭和初期から
> 現在に至る御本尊授与の実態は次のようになる。これにより、日顕宗のウソは明白である。
>
>  ●昭和初期
> ・ 戦前戦後を通じ、東京周辺の大寺院を主体に、例えば妙光寺は五十五世日布上人、
> 法道院は五十六世日応上人、常在寺は五十七世日正上人など、各末寺から有縁の
> 法主の御形木御本尊が授与されてきた。
> ・ 遠隔地の信徒の場合、御本尊の印刷された和紙がそのまま授与され、信徒が自分で
> 表具店に出し、表装する場合もあった。
>
>  ●昭和30年代前半/日淳上人時代
>  ・東京・豊島区の法道院にある「大日蓮」で日寛上人御筆の御本尊を印刷。
> ・ 付き合いのある表具店を持つ末寺は表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚
> 一束で法道院から購入し、表装に出していた。
> ・ 専属の表具店をもたない末寺では、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの
> 御本尊を発送してもらっていた。
>
>  ●昭和30年代後半/日達上人時代
> ・ 法道院の「大日蓮」で印刷された日寛上人御筆の御本尊を法道院が表具店に出し、
> 表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
>
>  ●昭和40年代〜54年/日達上人時代
>  ・日達上人御筆の御本尊を法道院で印刷。
>  ・法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
>
>  ●昭和54年以降/日顕時代
> ・ 本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されてからは、富士宮市内のK印刷が
> 日顕筆の御本尊を印刷。
> ・ 印刷会社から第三課に届けられた御本尊は、第三課の僧侶が印刷の状態と枚数を
> 点検、印刷状態の悪いものを破棄。
>  ・その後、群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
>  ・表装された御本尊は、再び第三課に送り戻され、納品される。
> ・ 第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換え、末寺の入金に応じて、宅配便で
> 配送していた。
>
>  これらの実態は、長年宗門にいた多くの僧侶が認めている。
>  第三課に勤めていた複数の僧侶も「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が
> 祈念などすることは一度もありませんでした」と証言している。
>  これらの実態からも明らかなように、本山で、法主がすべての御本尊を「開眼」していた
> というのは、真っ赤なウソなのである。」
>
> 反論してもらおうか、坊や。(^o^)
―――――――――――
1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。
裁判の例を挙げるまでもなく、

「宗内僧侶の情報を総合すると・・・」
「長年宗門にいた多くの僧侶が認めている」
「第三課に勤めていた複数の僧侶も・・・証言している」

などという、どこの誰かも解らぬ者たちの「証言」などという曖昧な根拠で、その「証言」そのものが「証拠」として採用される道理などない。
立場の明確でないものが「ああ言った」「こう言った」などということなど、所詮、何とでも捏造できるものである。

「明示してもらおうか、坊や。(^o^)」呵々大笑
―――――――――――
2、その上で、教義的にも破折しておく。

T 総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。

■大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。(第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁・H9.10)
―――――――――――
U 「開眼」の義に関する深い御指南

@開眼の義に於いての時間的空間的迷妄を破す。

■総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。
-----------------------
ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。
つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は成り立つのである。
その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。
―――――――――――
A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。

■但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)

→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。
師の命によって行うところに、その弟子分であられる御住職に血脈が流れ通い、開眼の意義が生まれるのである。
しかしまた、開眼の根本的意義は御法主上人による本山における祈念にあることは上記の御指南において明白である。

さ、「反論してもらおうか、坊や。(^o^)」 呵々大笑

 

73氏へ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月10日(日)23時51分31秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

いつもお世話になっております。
今回の駄犬の摩り替えは、さすがに驚き、呆れました。
みごと!と言っていいほどの「切り文」の典型。お手本。
『捏造の構造』 という授業の”教科書”に載せたいほどの出来でしたね。(^^♪
自分の代わりにやまいぬ。君への痛烈な呵責、ありがとうございました。

これぞ、まさに創価学会の陰湿な謀略・捏造体質が如実に検証できる、”良き標本”が採集できたと、喜んでおります。

73氏のやまいぬ。君の不正行為を摘発された投稿を、そのままHP上に掲載・保存させてください。

なお、臆病で名聞な腰抜けの退転者、妄犬マゴマゴへ対しての鋭い指弾も実に的確で、これも併せて保存掲載させてください。

今後とも、宜しくお願い致します。

 

管理人さん  投稿者:73  投稿日:12月11日(月)09時16分47秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

いつも、お世話になっています。
掲載・保存の件は了承です。
当板への投稿ですので管理人さんの意向にお任せいたします。
わさわざ伺いを頂き恐縮です。

思えば、
toyoda.tvの樋田さんの存在と、合わせて当板を知ったのは五月でした。
まだ半年前ですね(笑)
以来、管理人さんの姿勢にすごく啓発されました。
討論・対決の映像も全て拝見しました。
支部でも、登山の折、DVDを購入する講員がいて支部に広めています。
管理人さんにおかれましては、これからもますますの破邪顕正のほど
お願いします。とても勉強になります。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。112  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月11日(月)11時57分34秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

73氏、ご返答ありがとうございます。
では、頑張って、この狂犬を呵責してまいります。
とは言っても、この狂犬は、あれ程のすり替え、捏造を平気でやってのける、極悪根性の頭破七分者であるが故に、もはやまともな精神状態の者ではありません。
正当な論を交わせる相手でもありません。
(今までのやりとり
http://toyoda.tv/yamainu2.htm

http://toyoda.tv/yamainu.chiron.htm
を見比べれば瞭然ですが。)

しかしながらこの狂犬が妄執している内容は全国の創価学会員の迷妄と共通なものがありますので、これを破折することで、まだ幾分でも「信心」が残っている学会員への啓蒙と、その迷妄を破らんとされる法華講員の方の参考に供することができれば、との思いで、続けて参ります。
また、今後とも応援のほど宜しくお願い致します。

さ、では、まいりましょうか。
―――――――――――
> 簡単な話だよ。750年絶え間なく、たとえ一人でも「一切衆生救済」を本気で
> 祈っている人間がいたとしよう。その人間の祈りは「叶わなかった」。
> それだけだ。「叶っていた」とすれば、広宣流布は確実に進んでいた。
> 蓮祖・興師がそうであられたように。
> 750年絶え間なく進んでおれば昭和20年段階の大石寺の惨状はなかったのだよ。
―――――――――――
→これも、この度の狂犬のすり替え、捏造した痴論と同様である。

狂犬の愚かな妄執の言はそのまま御本仏大聖人へ吐き付ける不浄極まりない唾である。
狂犬の痴論を狂犬の言葉を借りればこういう理屈になる。

> 簡単な話だよ。大聖人が「一切衆生救済」を本気で
> 祈っていたとしよう。その大聖人の祈りは「叶わなかった」。
> それだけだ。「叶っていた」とすれば、広宣流布は確実に進んでいた。

まことに馬鹿である。
三世を通暁される御本仏の御祈りは、現(大聖人御在世当時)当(未来末法万年)を貫かれているのである。
また、三世常住の御本仏の御一念は、これまた三世に亘って常住なのである。
開眼のない模造・変造ニセ本尊を有難がって拝んでいる邪宗徒・創価学会員の分際で、宗門の令法久住の尊行を賤しめる大馬鹿者は、まさに、大聖人様の御一念をも卑しめる大愚行・大謗法である。

で、次行の

> 蓮祖・興師がそうであられたように。

は、全く意味不明である。
「蓮祖・興師」時代にどう広宣流布が達成したのかね?狂犬?
さ、「蓮祖・興師の文証」を挙げて立証してみたまえ。呵々大笑

更に、恒例、池田大せんせ〜〜監修・仏哲より。

【順縁広布】
(略)国中の者が、皆日蓮大聖人を誹誘し、国家の権力は鎌倉幕府にあったが、将軍も、執権も、武士も、一般民衆にいたるまで皆大聖人を迫害し、敵意をもっていた。法華取要抄(三三六)に「我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」とあるが、大聖人ご一代をつうじて見ても、その門下は、富木、四条、南条等の武人や、日興上人をはじめとする僧侶であって、そのおもだった人は、数十人か、数百人にすぎなかった。(略)

おいおい、どこが、

『広宣流布は確実に進んでいた。
> 蓮祖・興師がそうであられたように。』

なのだ?
さ、説明してもらいましょうか?(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。113  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月11日(月)12時53分30秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここも、大馬鹿丸出しの痴論。
―――――――――――
> その上で、蓮祖御図顕本尊である限り、正しい信行であるならば、きっちり仏力・法力は
> 現証として出る。かつて悩乱法主・阿部日顕書写本尊でさえ学会員がバリバリ功徳を
> 出し続けたようにね。(^o^)v
―――――――――――
T 今まで狂犬が繰り返し書いてきた、「蓮祖御図顕本尊」の矛盾を突く。

1、何を以って「蓮祖御図顕本尊」と言うのか?

@御歴代上人が「御書写」された御本尊の「字体」は「蓮祖御図顕本尊」と明らかに違う。
A十界の座配も「蓮祖御図顕本尊」と一様ではない。特に創価学会販売のニセ本尊の元となった日寛上人「御書写」の御本尊の座配は、明らかに「蓮祖御図顕本尊」とは違う。

「字体」も「座配」も違って、一体では何が「蓮祖御図顕本尊」なのか?

狂犬はこれには全く返答できないが故に、「質問返しはもーウンザリだわ(^_^)」とか言って、遁走するのは間違いないであろう。(-。-)y-゜゜゜(こう書いて置けば少しは足掻くかな?呵々大笑)
―――――――――――
2、「蓮祖御図顕本尊」のコピーは、本尊として成り立つか?

「開眼」がないので魔・鬼の入った札である。

■木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり(『観心本尊抄』)

→「木画の二像」を「本尊と為す其の義」は、「天台一家より出でた」ものであり一念三千の法門である。「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」とあるように、草木成仏の原理によって本尊の義が具わるのである。それには以下の御文のごとくに「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」必要である。

■画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』御書993)

→「草木」(非情)である曼荼羅も「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(開眼)によって「草木成仏」する。

■形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

→邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。
”開眼の義”を否定する輩どもも同様である。

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

→「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。

■木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり(中略)草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』)

→日寛上人は、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)についても「一念三千の仏種の魂魄を入るる」こと(開眼)によって「草木成仏」すると明言されている。つまり、「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。114  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月11日(月)15時30分44秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下も、狂犬は、「本尊とすべき対境の正邪」の論議と、「本尊への信行の有無」の論議との違いが判然とせず、惑乱しているだけのことである。
―――――――――――
> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」
―――――――――――
↓以下の部分を何故抜くのか?狂犬?なにか都合がわるいのではないか?(-。-)y-゜゜゜)

●『→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。』
―――――――――――
> >であるならば、

> >@身延のみやげ本尊をコピーし、それを更にコピーしそれをまたコピーし・・・と
>何万回コピーしたものも、全て”人法一箇の御当体”ということになり、
> >”御当体さま”が何億枚、何千億枚も”発生”することになり、しかも、いつ何時でも、
> >誰でも、コンビ二でも、会社のオフィスでも、どこでも”御当体さま”を作れることになり、
> >まさに「本尊雑乱」の狂態である。
>
> 坊やの悩乱した妄想も、まぁ酷いものだわねぇ?(^o^)
>
> まず前提として、自分の人生の“背骨”として蓮祖仏法を信仰しようという者でない限り、
> コピーしてまで本尊を欲しいとは思わぬ。(^o^)
―――――――――――
→ん?なぜ、そうと断言できるのか?
ただ何となく、「日蓮さん」に惹かれていて、「御曼荼羅も一枚くらい家にあってもいいな。」とでも思うじいさんが、身延のみやげ掛け軸を持っている友達にお願いして、「それ、わりぃ−けんどもよ、コピーさせて、くんねかね?もし、だめなら写真撮らせてくれや」と頼むケースは、容易に想定できるが?
狂犬の断定など、斯様に根拠薄弱極まりない、独りよがりだらけである。妄想に過ぎない。
まっ、独りよがりが極まった形が狂人であるから、狂犬がこのような自己中心的な妄想に凝り固まるのもニセ本尊の害毒としては当然だが。
ここも、やはり、ニセ本尊で人格が如何に破戒するか、のいいサンプルが採取できた。や、ありがとう。狂犬の狂いぶりも、このように記録に残して置けば、世の人の為になる。
―――――――――――
> しかも真剣に信仰しようというそのひとは、きっちり折伏されて本尊を頂く。(^o^)
―――――――――――
→は?本物の馬鹿らしい。例えば上記のケースなども想定できるから、全く狂犬の思い込みに過ぎない。
―――――――――――
> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、
> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・
> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。
―――――――――――
ここも、狂犬が略した箇所

『駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑』
―――――――――――
> (^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)
> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも
> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)
>
> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)
―――――――――――
→頭が悪いのも、ここまで来ると御愛嬌だな。(-。-)y-゜゜゜
馬鹿には繰り返し躾けてやるしかない。

狂犬は”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”と断定した。
その余りの馬鹿さ加減を、具体的な姿ではどうなるのかを解り易く例示してあげたのが、上記の例えである。
つまり、狂犬の痴論だと、ティッシュ一枚にでも、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックかなんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という大馬鹿な恥論であることを、示したものである。
狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にそのティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、ということになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、である。(ああ、ダメだ。もう、可笑しくて。たまらん。(^_^;)
しかも、その家人は「人法一箇のご当体さま」を御不敬したのであるから、大罰があたることになる。
自分で、マジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いたティッシュで鼻かんだら、である。呵々大笑。

で、■仏法と申すは道理なり で、斯様な「本尊」など有り得ない。と言っているのである。

ここまで読んできて、以下の狂犬の駄文を読むと、もう噴飯モノである。呵々大笑
―――――――――――
> 頂いた蓮祖御図顕本尊を、「我が生命」として大切にするか粗末にするか、最終的には
> その人間以外の誰にも決められない。
> 粗末にし、鼻をかみたくばそうしてみるがいい。
> 成仏するも堕地獄も、坊やの自由だよ。(^o^)呵々大笑。
―――――――――――
→これも、狂犬の恥論を根拠にして書き換えるこうなる。

> 自分でマジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いた、「人法一箇の当体」であるティッシュの”御本尊”を、「我が生命」として大切にするか粗末にするか、最終的には
> その人間以外の誰にも決められない。
> 粗末にし、鼻をかみたくばそうしてみるがいい。
> 成仏するも堕地獄も、坊やの自由だよ。(^o^)呵々大笑。
―――――――――――
→、ああ、もう、本当にもうダメ。呵々大笑。呵々大笑。呵々大笑。

いあやはや・・・では、気を取り直し、

当方は、「本尊とすべき対境の正邪」を論じているのであって、「信行者の信仰状態」を論じているのではない。

■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

まず、依って拝すべき「本尊」の邪正を選別し、正しい本尊を特定してこそ、次にその正しい本尊への「信行のあり方」が云々できるのである。

誰が見ても、誰が聞いても、狂犬の言う「人法一箇の当体」が本尊に成り得る訳がない。
もし、それでも自説を曲げずに、それのティッシュ一枚も本尊 と言うのならば、もはや、病院へ行った方がよい。
改めるのなら、ここで正式に謝罪し、脱会の手続きをとれ。
狂犬よ、どっちを択ぶのか?

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』
ニセ本尊の元で、いくら「信行」に励んでみても、『智行も随って邪なり。』結局、堕地獄行きの邪行である。といういい見本がやまいぬ。君である。
今の、頭破七分の状態をよくよく自覚し(もはや、無理か・・)今生・後生を怖れ、よくよく反省慙愧すべきである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。115  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月11日(月)18時09分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

狂犬、実に誤魔化し、すり替えの常習犯である。
―――――――――――
> >■仏法と申すは道理なり で、@の状態が正しい本尊である訳がない。

> 坊や、難癖つけたくば、「南無―― 日蓮在御判」と認められている本尊が、
> 蓮祖御図顕本尊ではないという蓮祖・興師の文証挙げて噛みつきなさい。(^o^)
> 坊やのくだらぬ妄想も身勝手な決めつけも無用だと何度書かせるのだね?(^o^)
―――――――――――
→ここにもまた、すり替えの手口が露見した。
全く、姑息な 駄犬 である。

T 駄犬はこう言ったのである。

> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」
―――――――――――
↑これをすっきりさせると、↓

> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、・・・まさに・・・人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」

ということは、つまり駄犬は、「本尊」として成立する要素としては”「南無―― 日蓮在御判」と認められていればいい”ことになり、こうなる訳である。↓

●『→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。』
(先ほども指摘したが、こ↑部分を駄犬は姑息にも抜き飛ばして、恥論を重ねていた。)
―――――――――――
U 一方、別の箇所で、駄犬は「本尊は誰が書写しても、かまわない」と言っている。
―――――――――――
証拠

1、
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
(中略)
>2、誰ならいいのか。
(中略)
誰もヘッタクレもない、蓮祖御図顕本尊なら結構。
―――――――――――
2、
どの坊主が書写したものであれ、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」に変わりなし。
―――――――――――
3、
Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)

(と、再三の破折にたいし、未だ反駁がされていない。という事実)
―――――――――――
以上、T U を併せ考察するに、駄犬の主張は↓こうなる。

『誰でもいいから、「南無―― 日蓮在御判」と書けば、その紙(他、塩ビ版でも、布でも、床板でも、・・・何でもいいんだろうが。)は「人法一箇の御当体」として「御本尊」となる。』


更に、追撃すれば、「南無―― 日蓮在御判」とある本尊は、大聖人様御自筆いわゆる「蓮祖御図顕」の御本尊には在り得ない。
大聖人様御自筆御本尊は「南無妙法蓮華経 日蓮 花押」であるからである。(もちろん、全てがこの形ではないが、「在御判」 の意味するところは、歴代の御法主上人が戒壇の大御本尊の御内証を「書写」される時に「戒壇の大御本尊にはこの箇所に大聖人の御花押=御判が「在」られる。」という意義であるから、駄犬の言う「南無―― 日蓮在御判」との本尊とは、大聖人以外の「書写」本尊のことであり、駄犬が口癖のようにほざいている「蓮祖御図顕の本尊」とは全く違う。呵々大笑。
駄犬の言葉で言えば、

> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)

とでもなろうか。呵々大笑。

また、「図顕」 と 「書写」 を混同し迷乱している駄犬の恥言については既に 113 で突き崩してある。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。116  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月12日(火)02時22分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

丑寅勤行の前に、一題、いきますか。

繰り返し馬鹿 である。
ここも、駄犬は「駄犬の説では正当な本尊としての成り立ちえるのか」という「正邪」としての論点を理解できていない。
(あるいは、すり替え、捏造の常習犯である駄犬のことであるから、姑息にも故意に論点をずらしているのか)
―――――――――――
> >A駄犬の説だと、誰でもいいから、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書けば
> >いいのであり
―――――――――――
↑これ以下が、いいところなんだから、全文掲載しましょうね。それとも、耳に痛いかね?呵々大笑
この段の全文
―――――――――――
A駄犬の説だと、誰でもいいから、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書けばいいのであり、そこら辺の小学生にでも書いてもらったものでも、そこら辺の田舎の禅宗の僧侶にでも書いてもらっても、いやいや、それも面倒くさいから、自分で書いても、いいことになる。呵々大笑

いやいや、そろどころか、この→「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」←すら、本尊になる訳である。(^_^;)
何も、「毛筆で書け。」などと「蓮祖・興師の文証」にない。呵々大笑

ことほど左様に、駄犬の珍説は稚拙極まるのである。
大笑いである。
それこそ、 \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/  である。(-。-)y-゜゜゜

このままでは可哀想だから、駄犬に問う。
この@(※ティッシュに、「南無―― 日蓮在御判」とプリントでもしてあればそれが「本尊」になってしまう、という駄犬の奇説)Aのケースで本尊と成り得るのか。
はい の場合でも、いいえ の場合でも どちらでも結構。その理由を

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。"

である。(-。-)y-゜゜゜

―――――――――――
> (^o^)(^o^) これをこそ本尊濫造論者の妄想というのだよ。(^o^)
>
> いいかね? 寛師書写本尊を頂きながら、創価学会員でただ一人でも、
> 自分で本尊書写した人間がいるかね? 何故いないのか坊やに解かるかね?
> ――必要ないからだよ。(^o^)
―――――――――――
→ここは、自説が正しいと証明する前提根拠自体が全くの不適格である。

@自分達が別の本尊を書写したことがない → だから、A今与えられている「本尊」は正しい  ということにはならない。
(詳細に言えば、@ですら、立証できていない。何故なら、駄犬には全ての創価学会員の行動など、掌握できるはずもないからである。)
どの本尊をどう書写しようがしまいが、今与えられている「本尊が正しい」という証明には何ら関係はない。

@顕正会員が、「顕正会の浅井会長以外、仏法指導者として考えたこともない。」 → だから、A浅井会長は正しい。 ということにはならない。呵々大笑

駄犬の理屈など、斯様に論理破綻している。まさに頭破七分者である。←ニセ本尊の害毒である。←ニセ本尊による人格・理性破戒の優良サンプルである。
―――――――――――
▼――必要ないからだよ。(^o^)

→ここも、同様。
「他のものを求める必要がない」からといって、その「持っている物自体が正しい」、とはならない。
麻薬に溺れた者には、今の生活を捨て、麻薬を絶ち、その習慣性を抜く行為は「必要ない」と強く思うであろう。
駄犬らも同様である。
ニセ本尊の魔力・鬼に魅せられ、それに耽溺しているだけのことである。
小さい、しかも派手派手しい、けばけばしい、利益らしき魔の通力に魅せられているうちに、今に、駄犬のような、頭破七分で理性ボロボロの謗法者と成り果てるのである。
怖れるべし、慎むべし である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。117  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月12日(火)21時05分7秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君、本当に、頭がよろしくないようである。(^_^;)
―――――――――――
> 蓮祖御図顕本尊を「我が生命」として大事にする――牧口初代の時代から
> 変わりなく、学会ではそう教えてきた。
―――――――――――
→ は?では、各創価学会員宅の、その「蓮祖御図顕本尊」である、日顕上人御書写の御本尊を、ニセ本尊と交換させたあと、どうしたのだ?

@そもそも、”「我が生命」として大事にする”のならば、交換する必要はどこにあるのか。駄犬、全くの 馬鹿 である。呵々大笑
A交換した後、畏れ多くも、焼却したのではないか。(もし、これを否定するのなら、全国での大量交換の後、どこに保管されているのか明示できるのか。)これの、どこが、”「我が生命」として大事にする”ことなのか。駄犬、やはりまことに、馬鹿 である。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。118  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月12日(火)21時23分24秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ついでに、駄犬の、矛盾極まりない本尊観を劈いておこう。

以下、駄犬の言である。
―――――――――――
@
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
(中略)
>2、誰ならいいのか。
(中略)
誰もヘッタクレもない、蓮祖御図顕本尊なら結構。
―――――――――――
A
どの坊主が書写したものであれ、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」に変わりなし。
―――――――――――
→以上からして、駄犬は、御本尊は誰の書写でもいい。と言ってる。
しかし、またこう↓もほざくのである。
―――――――――――
B
●>9、また何故日寛上人でなければならないのか。

▼なければならぬ訳ではないよ。(^o^) ただ、先述した通り、既存の物が出家によるもので
ある限り、少なくとも「少欲知足にして聖僧」という、出家としてせめて最低限の人間の
ものであってもらいたいね。(^o^) はい、阿部日顕はout。(^o^)(^o^)(^o^)

これを整理すると

●>9、また何故日寛上人でなければならないのか。

▼なければならぬ訳ではないよ。(^o^)
(中略)
阿部日顕はout。(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
@A、「誰が書写してもいい、」といいながら、B、「日顕(上人)はだめ、」というこの悩乱ぶり。
こういうのをまさに頭破七分というのである。これは謗法者特有の悪報である。
ニセ本尊などを拝んでいると、斯様な精神錯乱者となるよき見本である。
このような者が巷にうようよしている、と思うと、まことに背筋が寒くなる思いである。
このような者は、日常生活に於いても、当然斯様に「頭破七分」であり、周囲の嫌われ者、であり、果ては、犯罪者か、精神の病を発症していくのであろう。
よくよく、怖るべし、である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。119  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月12日(火)22時37分47秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここも、駄犬お得意のすり替えの論法である。
―――――――――――
> >1、戒壇の大御本尊が大聖人の御本懐でないと
> >”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。”(←やまいぬ。流)
―――――――――――
> 「ない」とこちらが証明する前提として、「ある」、つまり戒壇本尊が蓮祖の本懐だと
> 蓮祖・興師の文証挙げて証明せんかいな、クズ坊。(^o^)
> 4ヶ月以上経っておるのだよ、坊や。(^o^)
> ノロマだねぇ、クズ坊・樋田昌志くん。(^o^)
―――――――――――
このうような、腐り果てた根性の醜悪さを突き崩してやるのも、また一興であるが、しかし、このような腐臭芬々の謗法者の戯言に一々つきあっても読者も退屈であろうから、ここは、正当にいきますか。

では恒例、仏教哲学辞典(池田大作監修)でいきますかね。

あらかじめ言っておくが、末法万年終始一貫不動であるべき宗旨の根幹である「本尊義」が、「創価学会破門以前と以後で変わる」というのなら、その教義的「論証」と「客観性」を明示すべきである。
―――――――――――
【戒壇御本尊】(便義の為に、『』等を加えた)

日蓮大聖人が弘安二年(一二七九年)十月十二日に御建立遊ばされた本門戒壇の大御本尊のことで、日蓮正宗総本山富士大石寺に御安置されている。

出世の本懐

日蓮大聖人御建立の御本尊は、具さには親心本尊抄にお示しの通り、正像未弘の大曼荼羅で、人・法あり、人とは久遠元初自受用身即日蓮大聖人であらせられ、法とは寿量文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経である。

人法異なりといえども即一箇であり一念三千即自受用身・自受用身即一念三千である。

末法相応の本尊については本尊問答抄(三六五・三六六)に、本尊の相貌については観心本尊抄(二四七・二五四)、報恩抄(三二八)および日女御前御返事(一二四三)等に詳しい。

さらに人法一箇の本尊については、御義口伝下(七五二・七五九・七六〇)等に明らかである。

なお本門の本尊、題目、戒壇の三大秘法の整足については、報恩抄(三二八)等にその名目が明かされ、三大秘法抄(一〇二一)にその実体が説き示されている。

 日蓮大聖人は御一代の間に幾幅か御本尊をおしたためになり、在家出家の弟子檀都に授与された。
これを一機一縁の本尊と申し上げるのである。
この一機一縁の御本尊は、大聖入滅後第二祖日興上人が本門寺建立の時は本門戒壇の大御本尊のもとに結集されるべしと命ぜられている。
 弘安二年九月、熱原の法難においてあらわれた熱原方面の信徒の強信をめでられ出世の本懐達成の時とされ

『同年十月十二日の戒壇御本尊の御建立となった。』

聖人御難事(二八九)に
「去ぬる建長五年 太歳癸丑 四月二十八日に安房の国都鋸邪の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年 太歳己卯 なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり」   とある。

 この「余は二十七年なり」の御文を大聖人が難をうけられたのが二十七年であるというように解釈する説もあるが、これは甚しい誤りである。
その前にある釈迦の四十余年、天台大師の三十余年、伝教大師の二十余年というのは、皆出世の本懐を仰せられたものであり、それに比較して「余は二十七年なり」とは、日蓮大聖人の出世の本懐をのべられたことは明らかである。
それは「その間の大難は」から下は、その上の「その中の大難申す計りなし」と並説されていることからもなおさらはっきりするのである。

 また、『日蓮大聖人の出世の本懐が本門戒壇の大御本尊であることも、明白である。』

法華経方便品第二に「諸仏世尊は唯一大事の因縁をもっての故に世に出現したもう」とあり、釈迦の一大事因縁とは、爾前の経々を未顕真実ときらい、己今当の三説に超過せる第一の経なり、と説ける法華経であることはいうまでもない。

なにゆえ、法華経が釈迦の一大事たる出世の本懐となるか。

三大秘法抄(一〇二三)に
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」
と、すなわち三大秘法が含まれているからである。
そして、この「寿量品の事の一念三千の三大秘法」(義浄房御書・八九二) は、関目砂上(一八九) に「但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と仰せられている。

この寿量文底・事の一念三千の三大秘法のご建立こそが、日蓮大聖人の出世の本懐なのである。

御義口伝上(七二ハ)には「又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり……此の五宇目蓮出世の本懐なり」とあり、また報恩抄(三二八)には「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」とある。

 三大秘法は、開いて六大秘法になる。
すなわち、本尊に人あり、法あり、題目に信あり、行あり、また戒壇に事があり、義があるのである。
合すれば、本門戒壇の大御本尊の一大秘法になる。
しからば

『「余は二十七年なり」と示された出世の本懐は本門戒壇の大御本尊であることは了々たるものである。』

しかも、日興上人から日日上人への御諌状である「日興跡条々の事」には「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊……日日に之を授与す」とあり、この

『日興上人の直筆の正本が富士大石寺に厳然としてあり、』

また大御本尊の脇書に「本門戒壇の願主弥四郎国重」等とおしたためになっている以上、

『弘安二年十月十二日にあらわされた大御本尊こそ本門戒壇の大御本尊であり、これが出世のご本懐であることは一点の疑う余地もない。』

 日寛上人は観心本尊抄文段(富要四巻二一九)に次のように仰せられている。

「智者大師は隋の開皇十四年御年五十七歳四月二十六日より止観を始めて一夏にこれを説き、しかして四年の後同十七年御年六十歳十一月御入滅なり。わが大聖人は文永十年四月二十五日当抄(観心本尊抄)を終り弘安二年御年五十八歳十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後弘安五年御年六十一歳十月御入滅なり。ここに三事の不可思議あり。一には天台大師は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。又天台は六十歳の御入滅、蓮祖は六十一歳の御入滅なり、これすなわち像末の教主の序豈不思議に非ずや。二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄(観心本尊抄)を終る。天台は十一月御入滅なり、蓮祖は十月の御入滅なり、蓮祖は後に生れ給うといえども下種の教主なり。ゆえに義は前にあり。このゆえに蓮祖は二十五日に当抄を終り十月の入滅なり。天台は前に生れ給うといえども熟益の教主なり。ゆえに義は後に在り。このゆえに二十六日に止観を始め十一月の入滅なり、種熟の序豈に不思議にあらずや。三には天台・蓮祖同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕す寧ろ不思議に非ずや」と、

また結論して仰せには「なかんづく弘安二年の本門戒壇御本尊は究意中の究竟、本懐の中の本懐なりすなわちこれ三大秘法随一なり。いわんや一閻浮提総体の本尊なるがゆえなり」と、

『いよいよ日蓮大聖人の出世の本懐がなんであるかは明瞭である。』

『この戒壇の大御本尊は第二祖日興上人、第三祖日日上人と相伝遊ばされ、法灯連綿、今日まで富士大石寺に広宣流布の日を待って厳護されてきているのである。』
―――――――――――
駄犬、まずこの、”池田大センセ~~の説”を破折してから、何か言いたまえ。呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。120 祝120回!(^_^;)  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月13日(水)10時19分34秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

しかし、駄犬の恥言のどこを切り裂いても、愚鈍である。
―――――――――――
> >■文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。

> 阿呆。(^o^) これを根拠にしてしまえば、坊やは身延本尊、つまり
> 「蓮祖直筆本尊コピー」を否定出来んのだわ。(^o^)
> 蓮祖の「心法」への尊信があるなら身延本尊も否定出来まいよ、樋田昌志くん?(^o^)
>
> 平気で180°の真逆を書きよる。(^o^) 腐っておるよ、毒気深入坊や。(^o^)
―――――――――――
→まず、この段、全文を挙げてから駄犬の愚言を粉砕しましょう。
―――――――――――
●因みに、「日寛上人書写の御本尊を本尊としながら日寛上人の御指南を用いない」という馬鹿犬がそこら辺をヨダレを垂らしながら徘徊しているようだが、以下の道理によって、全くの不可である。

■文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり。

日寛上人が書写された御本尊を本尊として尊仰するということは、

■「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。」

との原理から、日寛上人という御方の「心法」への尊信がなくては有り得ない行為である。(ここにまた、御本尊は御歴代上人のみしか書写されない原理の一分が存する)
日寛上人の「心法」を、またよく表されたのが、日寛上人の数々の御指南であり、この御指南を尊信しない者には、日寛上人の御本尊を拝んでいるというのもただ表向き・外面・上辺の姿だけで、実際の信はない行為であり、結局堕獄必定の邪信である。
また、その矛盾に気づかないのは頭破七分で、もはや救いがたい一闡提人である。
例えて言えば

■「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死(ころ)す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠(こうもり)が昼を夜と見るが如し。

である。
―――――――――――
1、まず、駄犬は、この段で指摘している「日寛上人「書写」の御本尊を信じるのであれば、同じく日寛上人の御指南を否定あるいは無視もしくは軽侮することはできないはずである」との道理に、「蓮祖・興師の文証」を以って正当に反駁出来ていない。
→日寛上人の御指南を否定する何ら根拠を提示できていない。
→日寛上人の御指南を否定できない。
→日寛上人の御指南を尊信しその御指南のままに信行しなければならない。
→日寛上人の御指南に背く駄犬ら創価学会員はまさに大謗法者どもである。

2、次に、駄犬は

■文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。

> 阿呆。(^o^) これを根拠にしてしまえば、坊やは身延本尊、つまり
> 「蓮祖直筆本尊コピー」を否定出来んのだわ。(^o^)
> 蓮祖の「心法」への尊信があるなら身延本尊も否定出来まいよ、樋田昌志くん?(^o^)』

との馬鹿フルオープンの恥言を吐いている。
しかし、駄犬が今回のように噛み付いてくることなど当方は予測済みであるが故に、
以下のように記してある。

→『■「文字は是一切衆生の心法の顕はれたる質なり。」

との原理から、日寛上人という御方の「心法」への尊信がなくては有り得ない行為である。(ここにまた、御本尊は御歴代上人のみしか書写されない※『原理の一分』が存する)』

※と記し、駄犬の痴難への破折の伏線を敷いてあるのである。

文字曼荼羅である御本尊を尊信する「原理の一分」はこの御文でお示しの道理であるが、「開眼」の原理と併せ拝さなくては、御本尊を尊信すべき「原理の全て」は成就しない。

開眼については、111 113 において詳述し、駄犬の妄見など完全に粉砕してある。

結局、駄犬、何を書いても、全くダメ である。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。121  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月13日(水)13時34分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ロム講員様 日々の折伏活動ご苦労様です。
当板や他ネット上で三宝誹謗の恥言をあらん限りに吐き垂れている者どもは、もはや救いようがない堕獄必定の一闡提人であろうと思います。
しかし、このあまりの頭破七分さ加減を破折し、記録に留めて置く事は、まだ、少しでも正信に目覚める可能性のある創価学会員にとっては、この者どもの謗法の極悪果報の成れの果ての醜態として大いに恐怖せしむることであるだろうし、破折内容については、将来、また三宝誹謗の逆賊が出現した時にも、同様の邪難を為してくるであろうから、そのときの為の参考に、との思いで精進させていただいております。
氏のように、少しでも活用くだされば、これに勝る喜びはありません。
今後とも、共々に、邪宗撲滅の為に頑張ってまいりましょう。
宜しくお願い致します。
―――――――――――
さて、馬鹿↓相手は実に骨の折れることだが、こういう馬鹿↓が蔓延らない為にも、労を惜しまず、こつこつといきますか。
―――――――――――
> >● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
>
> 「阿呆。(^o^) それを訊くなら「誰が御図顕されたか?」と問え。(^o^)」
>
> >→馬鹿。(-。-)y-゜゜゜ 「御図顕」など大聖人に決まっている
>
> その通りだよ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> コピーするから偉いなど、一体御書の何処にあるのかね、坊や?(^o^)
>
> 4ヶ月前からこれも坊や返答不能の問いだ。
> 「信」も「行躰」も問わず、唯授一人血脈相承されただけで内証は蓮祖、蓮祖・興師の
> 文証挙げて証明せえ。(^o^)
> 一体この程度にいつまでかかるのだね、ノロマ坊や・樋田昌志くん?(^o^)
―――――――――――
1、「信」も「行躰」も云々、

↑ここがまた馬鹿の見本のような妄執である。
御歴代上人の御尊行の一端を拝すると、

@三宝一体の御法主の御内証から、日々の丑寅勤行。御本尊の御開眼。御本尊書写。
A貫主のお立場から、各地への御親教。総本山での古来からの法要。一宗を御教導されるための様々な機会での御指南。宗内僧俗への血脈相伝の上からの甚深の育成。
B管長のお立場からは日蓮正宗発展のための様々な決済。等々。
※法主・貫首・管長のお立場においてのそれぞれのお振る舞いについては、代表的な一応の事項であって、固定的なものではない。)

 駄犬が何億万回生まれ変わっても出来ようもない、一切衆生成仏への最重要の御役目を果たされているではないか。
飯の支度しながら、一人パソコンに向かって、すり替えや捏造で、頭破七分の痴難をでっち上げながら、惨めな生活を明かし暮れている、狂犬が云々できる事柄ではないな。
 ニセ本尊を拝む堕地獄決定の哀れな境涯で、尊極の御尊体を誹謗すると、本当に気が狂うぞ。今でもかなり危ないと思うが。慎むべし。恐るべし。

 

お知らせ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月13日(水)14時01分14秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

駄犬・狂犬やまいぬ。君の破折最新を纏めてUPしました。

http://toyoda.tv/yamainu2.htm 101〜121

今回の部分は駄犬が論理破綻している箇所ばかりであり、ニセ本尊による頭破七分の醜態を晒した、実によき標本となっております。
大いに閲覧し、大いに有効活用してください。

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。122  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月14日(木)19時56分14秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

いよいよ、足掻き方が見苦しくなってきた駄犬。
実にくだらん内容ではあるが、ポイントを絞り砕き切っていきますか。
―――――――――――
> DATE: 12月14日(木)18時05分47秒
> TITLE: さあて、樋田昌志くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
―――――――――――
> 「草木成仏」云々。
>
> 「“すべての御本尊”を法主が許可、開眼し、総本山から下付されてきたとは、真っ赤な
> ウソである。これは明白である。つまり、御本尊の功徳は、法主の許可、開眼とは
> 無関係なのである。宗内僧侶の情報を総合すると、昭和初期から現在に至る御本尊
> 授与の実態は次のようになる。これにより、日顕宗のウソは明白である。
> 昭和初期
> ・ 戦前戦後を通じ、東京周辺の大寺院を主体に、例えば妙光寺は五十五世日布上人、
> 法道院は五十六世日応上人、常在寺は五十七世日正上人など、各末寺から有縁の
> 法主の御形木御本尊が授与されてきた。
> ・ 遠隔地の信徒の場合、御本尊の印刷された和紙がそのまま授与され、信徒が自分で
> 表具店に出し、表装する場合もあった。
> 昭和30年代前半/日淳上人時代
> ・東京・豊島区の法道院にある「大日蓮」で日寛上人御筆の御本尊を印刷。
> ・ 付き合いのある表具店を持つ末寺は表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚
> 一束で法道院から購入し、表装に出していた。
> ・ 専属の表具店をもたない末寺では、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの
> 御本尊を発送してもらっていた。
> 昭和30年代後半/日達上人時代
> ・ 法道院の「大日蓮」で印刷された日寛上人御筆の御本尊を法道院が表具店に出し、
> 表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。
> 昭和40年代〜54年/日達上人時代
★1『> ・日達上人御筆の御本尊を法道院で印刷。
> ・法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。』★T
> 昭和54年以降/日顕時代
> ・ 本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されてからは、富士宮市内のK印刷が
> 日顕筆の御本尊を印刷。
> ・ 印刷会社から第三課に届けられた御本尊は、第三課の僧侶が印刷の状態と枚数を
> 点検、印刷状態の悪いものを破棄。
> ・その後、群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
> ・表装された御本尊は、再び第三課に送り戻され、納品される。
> ・ 第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換え、末寺の入金に応じて、宅配便で
> 配送していた。
> これらの実態は、長年宗門にいた多くの僧侶が認めている。
> 第三課に勤めていた複数の僧侶も「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が
> 祈念などすることは一度もありませんでした」と証言している。
> これらの実態からも明らかなように、本山で、法主がすべての御本尊を「開眼」していた
> というのは、真っ赤なウソなのである。」
> 反論してもらおうか、坊や。(^o^)」
>
> >1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、
> まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。
>
> 何を云っておるのだ、樋田昌志くん?
> 法道院の件など、坊やのとこの坊主が自ら発言しておるではないか。(^o^)
>
> http://jagihashaku.main.jp/matsuoka02/004.htm
―――――――――――
→ すり替え、捏造をこととする根性劣悪な駄犬は、ただ、目の前の一事一事にとにかく反論したいと足掻くが故に、全体の文意を全く見失っている、まことに愚かな者である。
こういうところにも、ニセ本尊の害毒が顕著である。

駄犬が示した、箇所とは以下の部分であろう。(便義の為に記号を加えた)


松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言を破す

4 法主による本尊の開眼と許可について≠破す

にある、以下の部分



日顕上人御指南
■「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について「開眼がない」と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります。」(創価学会の偽造本尊義を破す六二頁)

とあるように、ここで仰せの意味は、以前、法道院では、当時の日達上人の御命によって法道院主管であった観妙院日慈上人が御形木御本尊のお取り次ぎをなされ、全国の寺院に送付していたことについて、これは正式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていたのであるから、なんら総本山の正しい化儀に反してはいない、との御指南なのである。しかもこの御指南は
▼法道院から下附されていた御形木御本尊には開眼がない
との疑難に対して破折された箇所であり、むしろ開眼があったことについての御指南なのである。したがって一連の御指南において、
▼形木本尊には開眼の必要がない
などとはまったくいわれておらず、汝の歪んだ先入観による臆断であると言わざるを得ない。

 また
▼法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか
などとは、またまた汝の事実誤認である。日顕上人が仰せのように、御形木御本尊の御開眼は丑寅勤行において厳然となされているのであり、
▼許可のみで法魂が宿る≠ネどとは汝の臆測による愚問である。
 いっておくが、御法主上人による開眼の御祈念は、汝のような謗法者の想像に及ぶものではない。日應上人が、
■「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(弁惑観心抄二一二頁)
■「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり(『法の道』・研教二七―四七四頁)
と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝」を御所持なされるお立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。
 また付言すれば、先述のごとく、過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではないのである。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。
―――――――――――
さて、馬鹿もここまで来ると、やはりお笑いである。

この段の痴難の趣意は、「開眼は不要。何故なら、上記のような末寺が開眼をせずして直接御本尊を下付していた事実があるからである」ということであろう。

@駄犬は自ら開眼の不用性を主張しながら、その痴難を粉砕する文を示すアドレスを掲載するとは。
全く、頭破七分の現証そのものである。こういう、自分が一体何をしているのか解っていない という狂態は、極悪謗法者ながら哀れを誘う。
■仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。
との御指南の通りに、駄犬は実生活でも、かくのごとくの惑乱振りを遺憾なく発揮し、以って周囲の方々から忌み嫌われていることであろう。
そして、常に”瞋”を強くして、”瞋”の生命に囚われて生きている・・・まことに哀れな者である。
これまさにニセ本尊の害毒である。心ある者には注視すべき”症状”である。

A上記の内容は、痴難文の★1『〜』についてだけ触れているだけで、他の全ての事案については、未だ全く立証が為されていない。
しかも、前述した通り、★1の件に関してでも、「開眼」の深義については全く否定されていない、むしろ、開眼の義を不審する者への痛烈な破折である。結論としては、駄犬の邪難を根底から突き崩している。駄犬、何を血迷ったか、自分の立論を態々崩す内容論文を引文しているのである。実に馬鹿丸出し。である。呵々大笑

であるから、★1以外の他の案件全てに対して以下の呵責は依然有効であり、駄犬は、苦し紛れに日顕上人の御指南を持ち出してきても、駄犬が邪難する「証拠」の真実性の立証すらまだ出来ていない。
毎日のお仕事でお疲れのところまことに申し訳ないが、やり直しである。呵々大笑
―――――――――――
1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。
裁判の例を挙げるまでもなく、

「宗内僧侶の情報を総合すると・・・」
「長年宗門にいた多くの僧侶が認めている」
「第三課に勤めていた複数の僧侶も・・・証言している」

などという、どこの誰かも解らぬ者たちの「証言」などという曖昧な根拠で、その「証言」そのものが「証拠」として採用される道理などない。
立場の明確でないものが「ああ言った」「こう言った」などということなど、所詮、何とでも捏造できるものである。

「明示してもらおうか、坊や。(^o^)」呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。123  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月14日(木)23時22分37秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

本質的な破折には一言半句も反駁できずに頬被りを決め込みながら、あいも変わらず馬鹿の一つ覚えの繰り返しで、キャンキャン吼えているだけの無様さは、まさに正当な論に於いての「反論不能状態」を上塗りしている。
が、ここの箇所は、全国の創価学会員を破折する上では少々参考になるところなので、ピックアップしてみよう。
―――――――――――
> >T総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、
> >御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。
> >大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の
> >指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したという
> >ことであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。
> (第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁・H9.10)
>
> 上記、蓮祖・興師の文証挙げて正しい旨証明しなさい。(^o^)
> またもや無理だね、きみには。(^o^)
―――――――――――
@「蓮祖・興師の文証」のみに拘る愚昧さは、既に http://toyoda.tv/yamainu2.htm 74〜78 で砕き切っている。
更に駄犬は http://toyoda.tv/yamainu2.htm  103 について全く反論不能状態であるが故に、

▼> 上記、蓮祖・興師の文証挙げて正しい旨証明しなさい。(^o^)』

との駄言は全く反論として機能していない。
―――――――――――
Ahttp://toyoda.tv/yamainu2.htm 77 に詳述した如く、御歴代上人の御指南は全て「御文証」である。
それは「興師の御文証」
■『御本尊七箇之相承』
    「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九n)
に依っても明白である。

また、同じく「興師の御文証」に
■『佐渡国法華講衆御返事』日興上人
「この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにもちがい候へば、おなじ法華をたもちまいらせて候へども、無間地獄におち候。(中略)案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これが大謗法にて候なり」(歴全一―一八三〜一八四n)
とあり、上記日顕上人の御指南の根本となる師弟相対の原理が明示されている。
―――――――――――
Bその上で、大聖人が師弟相対の本末関係を仰せになった箇所を挙げさせていただく。

■此の三位房(さんみぼう)は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申す者なれば、仏の如く敬ひて法門を御尋ねあるべし。依法不依人(えほうふえにん)此を思ふべし。1047

■鎌倉に筑後房(ちくごぼう)・弁阿闍梨(べんあじゃり)・大進(だいしん)阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義(ごだんぎ)有るべし、684

■『弁殿尼御前御書』
「(※佐渡の大聖人より鎌倉の弁阿闍梨日昭に対して)弁殿に申す。大師講ををこなうべし。大師とてまいらせて候。」(新編六八七n)

■『六郎次郎殿御返事』(富士加島在住信徒)
「明日三位房をつかはすべく候。その時、委細に申すべく候」(新編一一〇三n)

■『千日尼御前御返事』(佐渡在住信徒)
「法華経十巻をくりまいらせ候。日蓮がこいしくをはせん時は学乗房によませて御ちゃうもんあるべし」(新編一二五三n)
―――――――――――
以上からいって、上記日顕上人の御指南はまさに尊信すべき深義である。
信じない者は更に頭破七分が悪化し、無間大城へ堕ちる事がますます確定的になるだけのことである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。124  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月15日(金)00時28分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

別の論点から大聖人様以来の本末関係の原理原則を証明してみよう。

B日寛上人の「書写」された御本尊を元とするニセ本尊を拝む癖に、駄犬等は自らに都合が悪いが故に、「日寛上人の御指南を信じない」とする。
しかしながら、この論理破綻の駄言については http://toyoda.tv/yamainu2.htm 120 において完全に粉砕してある。(今回、それに対しての反駁らしき駄文も見受けられるが、駄犬自らが言う「蓮祖・興師の文証」を以って正当に反論できておらず、ただただ、意味もなく吼えているだけのことである。当該箇所に来たらその矛盾を突き、完摧するが。)
であるから、日寛上人の御指南を否定する根拠を駄犬は全く持っていない。
以上のごとく、道理顕然であるのに、それを「信じれない」とするならば、それはただの一闡提人の不信謗法者であるだけのことである。
駄犬が吼えれば吼えるほど、自らが一闡提人の謗法者であることを声高々と満天下へ宣言しているようなものである。
(因みに 書写 と 図顕 の違いについても駄犬は未だ全く反論できていない。)
http://toyoda.tv/yamainu2.htm 113
―――――――――――
T 今まで狂犬が繰り返し書いてきた、「蓮祖御図顕本尊」の矛盾を突く。

1、何を以って「蓮祖御図顕本尊」と言うのか?

@御歴代上人が「御書写」された御本尊の「字体」は「蓮祖御図顕本尊」と明らかに違う。
A十界の座配も「蓮祖御図顕本尊」と一様ではない。特に創価学会販売のニセ本尊の元となった日寛上人「御書写」の御本尊の座配は、明らかに「蓮祖御図顕本尊」とは違う。

「字体」も「座配」も違って、一体では何が「蓮祖御図顕本尊」なのか?

狂犬はこれには全く返答できないが故に、「質問返しはもーウンザリだわ(^_^)」とか言って、遁走するのは間違いないであろう。(-。-)y-゜゜゜(こう書いて置けば少しは足掻くかな?呵々大笑)
―――――――――――

その上で、駄犬が道理として否定できえない御歴代上人の御指南から、本末関係の原理原則を明証してみよう。

■『文底秘沈抄』日寛上人
「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(六巻抄六六n)
→日有上人の御指南を否定できない。

■『当流行事抄』日寛上人
「吾が富山のみ蓮祖所立の門流なり。故に開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し」(六巻抄一九三n)

→大聖人・日興上人のままの化儀化法がそのまま伝持されている。それは日有上人の御指南に著されている。

日有上人「化儀抄」及び「化儀抄のやさしい解説」

■ 第二十九条【八条】、実名・有職・袈裟・守・曼荼羅本尊等の望を・本寺に登山しても田舎の小師に披露し小師の吹挙を取りて本寺にて免許ある時には、仏法の功徳の次第然るべし直に申す時は功徳爾るべからず云云。

 「実名」というのは、日号のことである。日蓮大聖人は、日号に大聖人の仏法の功徳が全て収められている、と示されており、この日号を弟子に対して授けることができるのは、大聖人の後継者であられる御法主上人ただお一人である。
 御僧侶方は、出家し、袈裟免許をいただくと同時に、御法主上人より、この日号を賜わるのであるが、通常はそれを用いず、能化となった時に公に名乗られる。
 また信徒においては、その人の信心が非常に深いと認められたり、生前における功績が大きかった場合などに、とくに戒名に日号を加えていただける場合がある。
 その次の「有職」というのは、″阿闍梨号″のこと(中略)
御僧侶方は、この阿闍梨号を、教師となってしばらく後に、願いによって、やはり御法主上人から賜わるのである。
 次の「袈裟」というのは、いうまでもなく御僧侶の袈裟のことで、「守」とは、お守り御本尊のことである。
 さらに、「漫荼羅本尊」とは、ここでは御法主上人御直筆の常住御本尊のことをさしている。(中略)
 以上、述べてきたように、「日号」「阿闍梨号」「袈裟」「お守り御本尊」「常住御本尊」等は、全て、御法主上人から賜わるところであるが、本条では、それらの願い出をする場合の手順を示されている。
 すなわち、
■「本寺に登山しても、田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候」
と。
 ここに言われる「田舎の小師」とは、総本山の御法主上人に対して、各末寺の御住職をさしている。つまり、″総本山に行き、御法主上人に願いを出すにしても、まず、手続の師匠たる所属寺院の御住職に願いを申し上げて、御住職の推薦をいただきなさい。そうするところに、仏法の功徳の次第があるのだ″と示されているのである。さらには、
■「直に申す時は、功徳爾るべからず」
と仰せられ、手続の師を通さないで、勝手に本山に行って願いを出した場合、仮に手違いでそれが受理されるようなことがあったとしても、そこには功徳がない、と戒められている。
 これは、手続の師を通じて本師を仰ぐという、本宗の師弟相対の在り方を、現実の上に具体的に示されたものである。
(中略)
今日において、創価学会が逸脱した姿になったというのも、まさに、この、小師(手続の師)を通じて本師を仰ぐという、師弟相対の筋道を踏み外していたからであるともいえよう。
 かつて創価学会月は、ただ、日蓮正宗の信者である、創価学会月である、という感覚だけがあり、寺院については、そこに、本師に繋がる手続の師がおられるなどとは、思いも寄らなかったのである。その結果、御法主上人を本師と仰ぐ信心すら完全に忘失し、第六天の魔王・池田大作の意のままに、邪道に引きずり込まれていったのである。

つづく。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。125  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月15日(金)21時30分46秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、続きいきますか。
>
> >U 「開眼」の義に関する深い御指南

> >@開眼の義に於いての時間的空間的迷妄を破す。

> >総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する
> >一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、
> >下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の
> >御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を
> >申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を
> >含めていささかの例外もありません。
> (第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。
>
> おいおい、学会の折伏弘教による膨大な御本尊下付における、その膨大な御本尊、
> 毎晩宝前に搬入・搬出して法主が開眼していたとでも云うのかね?(^o^)
> それを坊やは証明出来るのかね?(^o^) やってみ?(^o^)
> 坊やにゃ絶対に無理だが。(^o^)
―――――――――――
→ ここも、文意が全く読めていない、稚拙な理解である。
駄犬がいうそのことそのものを破折するためにこの段が設定されているということが理解できなかったらしい。
慌てて近視眼的に闇雲に手当たり次第に言いがかりをつけているからこのような簡明な箇所で愚かにも蹴躓くのである。
それは冷静に以下を読めば誰でも容易に領解できることである。
これは法義内容以前の、文脈や文意が読み取れるかどうか、という「国語」の問題である。
なるほど、このような簡単な文章の流れさえも読み取れないような暗愚な者であるから、当方がこれまで論証してきたことが理解できずに、ただ、盲滅法に吼えまくるしか能がないのも、納得である。
―――――――――――
> >ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界
> >よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を
> >超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。
> >つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は
> >成り立つのである。
> >その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。
>
> あのねぇ、坊や、「らしい」とか「あるまいか」とか「傍証」とか「窺い知る事ができる」とか、
> そんな坊やの曖昧な願望などどーでもいいと何度書かせるのだね?(^o^)
> 文証出せ、文証を。(^o^) まさか蓮祖・興師の文証では不充分・不満・不足とでも
> 云いたいのかね? さ、そもそも「御本尊の開眼は法主しか出来ぬ」という、蓮祖・興師の
> 文証出せ、坊や。(^o^)
―――――――――――
→実に、大聖人様が呵責なされた通りの醜い謗法の愚者である。
駄犬の↑このような狂態はまさに以下の御文の如くである。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。

■非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。

→仏法の道理を理解できない暗愚な謗法者(一往・付文の辺では禅宗の者)は、人の説く道理も、自分らが何を根拠にどう教義を立てているのかも理解できておらず、(もっぱら座禅によって悟りを得ようとし、経典の研究をおろそかにする禅宗の僧侶のように、) 大聖人様の御文の深意を汲み取ることもできずに、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と誰が書いても「御本尊さま」として成り立つ、だなどと恥ずかしげもなく嘯くものどもである。

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

→このままである。正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。

そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

■仏法と申すは道理なり

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

■只道理と経文とを本とすべし。

つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「非学匠」であり、「暗証の者」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。
まことに恥ずかしい限りである。
ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという”症状”が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。126  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月16日(土)10時39分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、今日も始めますか。
―――――――――――
> ちなみに坊やが「文証」のつもりで挙げたものな、4つともどこにも、「法主の題目」
> などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)
> 坊や、アタマは大丈夫かね? というか、もう相当壊れておるね。(^o^)
―――――――――――
→ここも、125段 で駄犬の醜悪な迷妄を劈いたのと同様の「道理を理解できない者が文証!文証!」と騒ぐ、

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

そのままの醜態である。

以下の御文■が、

●開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界
> >よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を
> >超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。
> >つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は
> >成り立つのである。
> >その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

として、引文させていただいた御文である。

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。

以上は、総じての辺に於いては、戒壇の大御本尊を身口意の三業相応して深く尊信する日蓮正宗の僧俗全ての方々に感得し得る功徳と境涯である。
ここでの意義は、戒壇の大御本尊を中心・根本としたところの正当な事の一念三千の唱題の功徳は、時間・空間を超越して法界全体に遍く、ということである。
その原理はこの同じ法界に住しておられる御法主上人に於いても適応せられることは当然の道理である。
であるから、この世でただお一人、御法主上人しか知り得ない「御開眼」の義に於いても、この原理は適応せられていると拝するのである。(開眼についての駄犬の再度の痴難は当該箇所で粉砕する)
しかし、確かに我々御法主上人以外の全ての者は、そのことそのものを知ることはできない。しかし、道理の指し示すところ明白であるから深く尊信するのである。

以上の如くの道理詳らかであるにも拘らず、

▼『4つともどこにも、「法主の題目」などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)』

などと以下の御文の如くに「文」や「語」に拘泥して、吼え喚く駄犬は、仏法を学ぶ者の基本姿勢さえ既に亡失し果てているのである。

■義に依って語に依らざれ

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

まさに、戒壇の大御本尊への信仰から退転し、ニセ本尊などを拝んでいるが故に、口でいくら「南無妙法蓮華経」を唱えても、もはやそれは「大聖人の仏法」ではなく、ただの謗法者の呪文に過ぎない、が故に、斯様に御仏の御指南から大きくずれて正反対の言動となるのである。
まさに、世に数多存在する「邪宗日蓮宗系教団」と同類である。

更に駄犬の妄執振りをもう一刺し呵責しておこう。

編集し再掲する。
―――――――――――
●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。

■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。

この御文はまさに、駄犬のような愚悪な”癡人”を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。
「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」
あるいは、
「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」
このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)
まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。

これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。

御文において、道理として、開眼の原理原則を詳らかにお示しであるにも拘らず、また、それは、他の御文と併せ拝すれば、大聖人様が開眼の義をも含めて一切の奥義を次の御法主上人へ「口伝・相伝・相承」されているいることは明白であるにも拘らず、一片の御文に▼『「法主の題目」などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)』だとして「文」や「語」に囚われて信じることが出来ない駄犬のような愚者は、この御文で呵責せられているが如くの、まさに”癡人”=謗法の害毒深くして、三毒強盛となり、「癡」が増し膨れ上がり、道理が全く理解できない者。”一闡提人””生き盲”である。

(この呵責の初出での詳細は http://toyoda.tv/yamainu2.htm 49段 にあります。
読者におかれては参考にして下さい。)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。127  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)00時46分10秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

またもや浅薄な駄犬の愚解を詳細に粉砕していきますか。
―――――――――――
> >A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。
>
> >但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、
> >法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて
> >かへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)
> >→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。
>
> 坊や――相変わらず文証の出し方が出鱈目やなぁ?(^o^)
> いいかね坊や、眼は見えておるね?(^o^)
> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて
> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 笑いが止まらんなぁ、坊や?(^o^) 相当アタマがイカレてきたな、樋田昌志くん?(^o^)
> それが法華講の信心かね?(^o^) 呵々大笑 (^o^)

―――――――――――
→実に愚かしい者である。

1、総論

駄犬は
@「文」に囚われて「本義」「仏意」が見えないだけである。
あるいはまた、
A一往、附文・再往、元意による読み分けを知らない、あるいはできない、それだけ愚者なだけである。
そういう低級者が生意気に仏法を騙るから矛盾だらけで苦しくなるのである。
まっ、ニセ本尊を「魔札」と見抜けずに頭破七分が益々進むのもわからず有り難がって拝んでいるのであるから斯様な愚者でも無理もない。

@→駄犬は 経文=仏の説 を 文→義→意 と読むことで仏法を領解していく筋道が全く理解できていない痴者である。
大聖人様は講説・著述されるにあたっては以下のように「文」「義」「意」を説き分けておられる。
であるから大聖人の御文を読み解く場合は「文」→「義」→「意」へと通じる拝し方をしないと、駄犬の途方もない誤読となるのである。

■或は文を陰して義を取り、或は義を陰して文を取り、或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。

駄犬は以下のような邪僧どもと同類である。

■「像法決疑経に云はく「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随って義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」
―――――――――――
A→附文・元意 あるいは一往・再往

■附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり。

との如く、附文の辺にのみ囚われると、元意の辺が読み解けなくなる。
駄犬は幼稚の上にいよいよ癡かである故に、この@Aの誤りを常に犯しているのである。
つまり、 大謗法の上に馬鹿者  である。
―――――――――――
2、詳論

@ 真間釈迦仏御供養逐状 は  文永七年九月二六日  四九歳御作 であり、当然の如く佐前の御文であるから、佐後から開会して拝さなくては大聖人様の御真意を領することはできない。

■「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。」

つまり、「真間釈迦仏御供養逐状」は大聖人様の”方便の教え”である。

A大聖人御在世当時は、三秘顕現の草創期であるから、権宗の習気の機根も未だ多く、富木殿も大聖人から賜った他の御書を拝しても法門の領解に於いては未だ浅いものがあったことが理解できる。
であるから、

■釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。

と、富木殿の機根に合わせられ、権実相対の辺に於ける化儀の範疇を一往善巧方便として暫時容認せられるのである。
大聖人様が三大秘法の本義より「釈迦仏御造立」へ対して「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と根本的普遍的化儀として思われるはずがないのである。
それは、以下の

■いつぞや大黒を供養して候ひし、 云々

との仰せからも理解できるところである。大聖人様が「大黒」を三秘の本義から根本的化儀として供養される道理はない。
やはり、富木殿へ対しての暫時一往の善巧方便である。

B開眼について。

当該文

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

ここでは、「釈迦仏造立に際して、大聖人自ら開眼に行きたかったが、諸々の御事情があって直ぐには行けないので、弟子の伊予房を遣わし、大聖人の代理者として「開眼」を為さしめる。」という趣意である。

→1 ここでは■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」また■「いそぎいそぎ・・・はたしまいらせさせ給ひ候へ」と仰せであるから、大聖人は開眼の義そのものは重要な儀式とお考えになられていたことが拝せられる。

→2 大聖人自らが■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と仰せであるから、「釈迦像」を「本尊」としてお考えであったことが拝せられる。
しかし、「釈迦像」は暫時の方便、一往の辺であり、再往、佐後の御法門から開会して「本尊」との意義を拝するれば、まさに「曼荼羅御本尊」の御事である。

→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。

→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。

→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も同様に行われなければならない重要な儀である。

→6 であるからこの「開眼」の義に関する御指南は、この義を唯授一人・血脈相承された御歴代上人の文献に多数散見されるである。

ここに、読者参考の為に、当該御書全文を挙げさせていただこう。

    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳
 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。自身並びに子にあらずばいかんがと存じ候。
 御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がきゝて候。かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし。いつぞや大黒を供養して候ひし、其の後より世間なげかずしておはするか。此の度は大海のしほの満つるがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ。
 九月二十六日                        日蓮花押
進上 富木殿御返事

以上、上記駄犬の痴難が如何に浅薄かつ低劣かがよくよく知れるのである。
駄犬は常に何を書いてもその愚悪で醜怪な人間性が益々露呈するのみである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。128  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)13時16分7秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この箇所も実に謗法者特有の”醜悪根性”丸出しで、更には”頭破七分の症例”としても、興味深い。
―――――――――――
> >T今まで狂犬が繰り返し書いてきた、「蓮祖御図顕本尊」の矛盾を突く。

> >1、何を以って「蓮祖御図顕本尊」と言うのか?
>
> >@御歴代上人が「御書写」された御本尊の「字体」は「蓮祖御図顕本尊」と明らかに違う。

> その通りだ。「御本尊七箇相承」なるものが後年の偽書であることが解かる。(^o^)
―――――――――――
→ここは駄犬が言う「蓮祖御図顕本尊」との、その定義そのものの曖昧さや矛盾を突いている箇所である。
それに対して駄犬は反論不能であるが故に、↑このように論点を摩り替えて遁走しているのである。

@「字体」=一点一画の組み合わせからなる文字の形。定型化された点画の組み合わせ。
であり、当方の破折の主意は、
『大聖人御自筆御本尊の「字体」=文字の形 と御歴代上人が「書写」された御本尊の「字体」=文字の形 は明らかに違うのに、何を以って「蓮祖御図顕本尊」というのか。大きな矛盾ではないか。』
であり、駄犬はそれに「蓮祖・興師の文証を以って」正当に答えられていない。
つまり反論不能である。
駄犬が常に他へ対して強要しているその条件を自らはクリアできていない。
こういう者を頭破七分というのである。まことにニセ本尊の害毒がそのまま生活しているような大馬鹿者の醜態である。

そもそも「蓮祖御図顕本尊」とは誰が読んでもそのまま「大聖人が図に顕された本尊」との意である。
駄犬は誰が書いても「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」とあれば全て「蓮祖御図顕本尊」であるとする。
大聖人が書いていないものを「蓮祖御図顕本尊」=「大聖人が図に顕された本尊」と考えること自体、最早大転倒の大馬鹿者の迷乱である。
(「在御判」 と 「花押」 の矛盾については 既に http://toyoda.tv/yamainu2.htm 115段において完摧して、大いに笑い飛ばしてある。)

A御本尊七箇相承 について痴難を為す、駄犬の歪曲した根性を呵す。
−1
御本尊七箇相承 には書写された御歴代上人の個々人の「字体」=文字の形 の相違については全く触れられておらない。

−2
この段での呵責は”「蓮祖御図顕本尊」とその他の「書写」御本尊とでは、「字体」=文字の形 が違うのであるから、それは「蓮祖御図顕本尊」とは呼べない。呼ぶとするならば「蓮祖御図顕本尊」の定義を「蓮祖・興師の文証」によって明確に提示せよ。それができないのならば駄犬がニセ本尊を拝める根拠として今まで苦しい言い逃れをしてきた前提自体が崩れている。”との意義に則った反証であり、御本尊七箇相承の真偽を問う段ではない。
「御本尊七箇相承の真偽」云々 と 『「蓮祖御図顕本尊」と「書写」本尊の相違点における矛盾』 との論点は全く別物である。
ここに、駄犬のすり替えが露呈している。
まことに根性の腐り果てた醜悪な生き物である。
これも、ニセ本尊の害毒、そのままの生物としてのよき”標本”として、長く世に晒して置くべき所業である。

−3
以上の呵責の上で、更に愚犬に詰問する。
1、御本尊七箇相承が偽書である根拠を明証せよ。特に駄犬が常に問う、「蓮祖・興師の文証」のみによって明証してみせよ。呵々大笑。
2、1を立証し得る古文献的証拠を明示せよ。例、何時代の偽作なのか、等。
3、大学匠であられた日亨上人の編纂では、後加であり疑義ある箇所はたった二行であり、他全編に亘って無線=真義 であるが、この研鑽を覆す確たる証拠を提示せよ。もちろん、「蓮祖・興師の文証」のみでである。呵々大笑

この件は、愚犬が自分から言い出したことである。証明責任は愚犬にある。
遁走せず、すり替えをせず、正々堂々と自説を証明して見せたまえ。
それが出来なければ、ますます、”ニセ本尊さまの面汚し” となるぞ。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。129  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)17時46分24秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次は愚犬が自らの発言に実に一貫性がない”頭破七分”さ加減を遺憾なく露呈したところである。
―――――――――――
> >A十界の座配も「蓮祖御図顕本尊」と一様ではない。特に創価学会販売のニセ本尊の
> >元となった日寛上人「御書写」の御本尊の座配は、明らかに「蓮祖御図顕本尊」とは違う。
> >「字体」も「座配」も違って、一体では何が「蓮祖御図顕本尊」なのか?
>
> あんれぇ? では歴代法主のバラバラ座配の本尊は、みな蓮祖御図顕本尊では
> ないのだね?(^o^)
―――――――――――
1、愚犬は今まで、当方からの破折を含めた反詰に反論不能になり以下のように姑息に言い逃れをして遁走してきた。

▼法華講得意の「質問返し」など無用だと何度云わせるのだね?(^o^)

▼何問われてもまーた「質問返し」で逃亡。(^o^)(^o^)(^o^)
飽き飽きだわ、クズ法華講・樋田昌志くんよ。(^o^)

▼「何の反証も出来ないから次から次へと質問返し」、飽き飽きだわ、クズ坊よ。(^o^)

▼返答不能の質問返し。飽き飽きだと何度書かせるのだね、クズ坊よ?(^o^)

今回の愚犬のこの項のレスはまさに”質問返し”である。
しかも、しどろもどろである。呵々大笑
反詰にも為っていない。
この自己の言に一貫性がない”頭破七分”がやはりニセ本尊の害毒である。
更に、他人には平気で愚劣な難癖をつけるくせに、自分ではその難癖つけたそのままの行為を平気で行う。
実に醜悪・愚劣である。
なるほど地域で聞き込みしていると、多くの非創価学会員の方が言うとおり、創価学会員は嫌われるわけである。
「ものすごい自分勝手で、嫌!」だって。
この偏執的な自己中心性は、愚犬の言動にまさに顕著に顕れている。
これも、ニセ本尊の害毒 としてしっかり記録に残して永く留めておくべき”症状”である。

2、その上で、はっきり答えてやろう。

『御歴代上人が「御書写」された御本尊は、「大聖人様御図顕の御本尊」そのものではない。』→当たり前である。
当方の主張は一貫している。
今更、何を血迷って恥問を発しているのか。
まことにニセ本尊の害毒その脳髄に回り切った 大馬鹿者 である。
さ、やり直しである。

『「蓮祖御図顕本尊」と「御歴代上人の書写御本尊」とは、十界の座配等も一様ではない。
つまり、”同じではない”
特に創価学会販売のニセ本尊の元となった日寛上人「御書写」の御本尊の座配は、明らかに「蓮祖御図顕本尊」とは違う。
愚犬が言うように、「蓮祖御図顕本尊」と同じならば、一体、どの「蓮祖御図顕本尊」の何を、どう、写したのか。
さ、答えたまえ。
「字体」も「座配」も違って、一体では何が、どう、「蓮祖御図顕本尊」=「大聖人が図に顕された本尊」 なのか?
さ、早くせよ。
愚犬が常に言っている如くにである。

▼「蓮祖・興師の文証挙げて証明せえ。(^o^)
一体この程度にいつまでかかるのだね、ノロマ坊や・やまいぬ。くん?(^o^)」

自分で天に吐いた唾をもろにその醜面に被っているのである。呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。130 祝130回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)21時34分34秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、愚犬の蒙昧な足掻きぶりを更に細かく粉砕していきますか。
―――――――――――
> DATE: 12月14日(木)18時08分8秒
> TITLE: 続き。01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> >2、「蓮祖御図顕本尊」のコピーは、本尊として成り立つか?

> >「開眼」がないので魔・鬼の入った札である。
>
> >木画の二像に於ては、云々。
> >画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。云々。
>
> まただ。(^o^) 坊や、不可思議極まるオツムだが、坊やが文証出す時には大抵、
> 自分の主張のなんらの証明にもなっていないのだよ。(^o^)
> 坊やが挙げた文証のどこに、「法主による開眼が必要」などと書かれているのだね?(^o^)
> また「傍証」とか「あるまいか」とか「ではないか」とかかね?(^o^)
―――――――――――
→この項の全文を挙げる。

■木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり(『観心本尊抄』)

→「木画の二像」を「本尊と為す其の義」は、「天台一家より出でた」ものであり一念三千の法門である。「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」とあるように、草木成仏の原理によって本尊の義が具わるのである。それには以下の御文のごとくに「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(※が)必要である。

■画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』御書993)

→「草木」(非情)である曼荼羅も「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(開眼)によって「草木成仏」する。
―――――――――――
愚犬、何を書いても、愚昧なこと極まりない。実に浅薄・幼稚である。
―――――――――――
1、大聖人様御在世は、大聖人様御自らが「法主」という立場であられる。

■末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧共云はるゝなり。深覚円理名之為仏の故なり。円理とは法華経なり。

→この御文は、久遠本因下種の御本仏は末法では凡夫僧の姿で現れた日蓮大聖人様であり、更にその御一身に仏・法・僧の三宝を具しておられる一体三宝義を表示なされた明文と拝するのである。
であるから、大聖人御自らが「僧宝」であり、「法主」であられる。
―――――――――――
2、大聖人=僧宝(一体三宝と拝した時の「僧宝」との意)=法主=法華を心得たる人

※1■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638
→「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。
では「法華を心得たる人」とは誰か。

@「法華」とは御本尊、就中、戒壇の大御本尊の御事である。
↑の証明は http://toyoda.tv/yamainu2.htm   2 26 38 119 段 等に詳述済み)
→であるから、「法華を心得たる人」 とは御本尊を顕せる方 = 大聖人 である。

A「木画の二像」「木絵二像」「画木」等 とは、権実相対に於ける一往、附文の辺では、仏像・画像の本尊であるが、再往、元意の辺では、大聖人御顕示の曼荼羅御本尊のことである。
それは、
「木絵二像開眼の事」の前半に

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

とあり、この御文をただ表面的な「文」だけで読めば、
「仏像の前に法華経を置けばその仏像は本尊と為る」
また、
「法華経を御仏の心法と心得て、仏像・画像の前で開眼供養すれば仏像・画像がそのまま生きた仏身となり本尊となる」との解釈になってしまい、甚だ不可である。
大聖人様がそのようなことを本仏の真意として仰せに為るはずがないのである。
であるから、木絵の二像 とは 大聖人の御本意の法門、三大秘法から開会して拝せば、まさに「文字曼荼羅御本尊」となるのである。
更に詳細に閲すれば、「木絵二像」の
木像 とは 板曼荼羅
絵像 とは 紙幅の御本尊 と拝せよう。

@Aから、※1の御文を会通すれば、

御本尊を書き顕せる方=大聖人=当時の御当代「法主」が曼荼羅本尊の開眼供養をしなければ、その曼荼羅本尊には、盗賊のような魔やら、鬼神らが入り込む。
(ただし、大聖人は三宝一体であられるから、大聖人自らが顕された御本尊はそのまま開眼されておられることは自明の理である。)
―――――――――――
3、この「開眼」の義は唯授一人で血脈相承される。

その根拠の一端を明かせば、同じく「木絵二像開眼の事」に

■一念三千の肝心、草木成仏 云々 とあり、

この草木成仏の開眼の義は、一念三千の御法門の「肝心」である、と仰せである。
肝心=最も重要なこと。肝要。
という意であるから、大聖人の御法門の最要深義こそ、唯授一人で口伝・相伝・相承為されているのである。
(唯授一人・血脈相承 に関しては、
http://toyoda.tv/yamainu2.htm の76〜78 に詳述してある。)

であるから、開眼の義を唯一領せられる御歴代上人の御指南にのみ、その深義の一端が拝せられるのである。

■『本門如来寿量品廿三座』日俊上人
「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三n)

■『観心本尊抄文段』日寛上人
「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

■『日因上人御消息』
「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

■『法之道』日応上人
「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

■『日顕上人御講義』
「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。」(偽造本尊義を破す五九n)
―――――――――――
以上、愚犬の痴難など、風の前の塵 である。
因みに、愚犬はもはや無理して理解しようとしなくてもよろしい。
狂人に「汝は狂気である」と幾ら説いても理解できないのと同様で、所詮無理なのである。
むしろ、これを読む多くの方々に、ニセ本尊の猛毒で如何に愚犬の如くの人格破壊・理性溶解が起こるか、それを確認して、創価学会の恐怖性を認識していただくことが重要である。
世には愚犬と同様に人格が崩壊した学会員が多く棲息しているが、愚犬のようにこうして公で恥論をハデに展開してくれる蛮勇を有する学会員はそうは居ないのである。
その点、愚犬はその人格崩壊した”症例”としての使命を果たしてくれているわけであり、実に有り難い存在である。
今後も、大いに足掻いて、恥問を連発して、呵責され尽くされて、自分の使命を全うしてくれたまえ。
いよいよ、強盛に頑張れよ。
応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。131  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)00時21分58秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

愚犬の痴難、次いきますか。
―――――――――――
> 「画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり」
>
> その通りだよ。「誰の唱題によらないと不可能」など何処にもないのだわ。(^o^)
―――――――――――
→しかし、何をどう書いてきても、愚犬の軽薄な御文の読み方は実に滑稽である。

ではまず、この段の当該全文を引文させていただく。

■されば※1「画像・木像の仏」の※2「開眼供養」は※3「法華経・天台宗」にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

※1 については、前130段で詳述した原理のごとく、四条殿の機及び領解に合わせられ、一往の義として暫時容認された造像のことである。

※2 再往、観心から拝するれば、”「本尊」には「開眼供養」が必要である”との仰せである。

※3 も、※1と同様、一往の義であり、再往は「大聖人様の三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊と、その戒壇の大御本尊を伝持・相伝する宗派」 ということである。現時に於いては日蓮正宗以外には存在しない。

以下を、簡単に通解させていただけば、
「一念三千の法義(一往は天台の一念三千の法理、再往は大聖人様の事の一念三千=戒壇の大御本尊の御事)は、三世間から成り立っている。その中で第三の国土世間のことをいえば、それは草木の世間相である。本尊といってみても、その素材そのもの(一往は仏像・絵像の木材や色彩・紙・布等を仰せであるが、再往は曼荼羅御本尊の紙や木や墨等であることは言うまでもない)は全て元はただの草であり、木である。であるが、この草木(紙や木等)に御仏の御魂を入れる(=開眼)ことができるのは法華経(再往は戒壇の大御本尊)の力である。これは天台大師(再往末法においては日蓮大聖人)の悟り=内証である。この原理は衆生の信心修行に約せば、即身成仏であり、元草木である「本尊」に約せば、草木成仏である。(この草木成仏の義によって「本尊」との意義が生じるのである)」
ということである。

@ であるから、この段は、「元草木である曼荼羅が、御仏の御魂の「本尊」としての意義を顕すには「開眼」が必要である。」との趣意であって、主眼は、ここにあるのである。
「誰が開眼供養をすべきか」というところに主題はないのである。

A しかし、詳細に御文を拝していけば、

※4■天台大師のさとりなり。

とあり、これは一義には、一念三千の法理から開眼の義が顕れるのであるから、”天台大師のさとり” との意義がある。
しかし、※5「当該全文や他の御書の御文を併せ拝すれば、開眼の義は「本尊」と為すにはその都度必要なのであり、常に誰かが為さねばならないのである。」
であるから、この※4の仰せは、権実相対の辺に於ける、権経を択んで、法華経を採る意義での仰せであって、末法今時に於いて、天台大師が、そのまま悟り=内証によって曼荼羅本尊が開眼されようはずがない。
では、大聖人御在世に於いて、天台大師の悟りを熟知されている方は誰かと言えば、大聖人以外に居られないのである。
であるから、開眼は大聖人が為される ということである。
では大聖人滅後は誰が為されるか、と言えば、

■血脈の次第 日蓮日興

とのお立場である、日興上人以外居られない。
では日興上人御遷化後は?と問えば、※5と摘示した如くに、常に誰かがリアルタイムで為されなくては大聖人の御心に反する。
で、誰かと言えば、前130段で論述した如くに、やはり御歴代上人しかおられないのである。
―――――――――――
愚犬の軽薄極まる、痴難など、実に塵芥 程度の軽さである。
もう少し、高度な問難ができぬものか。
実に残念である。
ニセ本尊を拝み続ければ、確かに深い思考能力など消し飛んでいくであろうから、愚犬に期待するのは無理というものか。

 

お知らせ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)09時57分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

1、やまいぬ。君への呵責、122〜131段 までUPしました。

http://toyoda.tv/yamainu2.htm

2、やまいぬ。君の苦しい足掻きぶりを更新しました。1と読み比べていただくと、いかにやまいぬ。君が正当な反論が不能になり、しかし負けは認められず、必死になってのたうちまわっているのがわかります。

http://toyoda.tv/yamainu.chiron.htm

3、沖浦克治君の最近の当方への、名誉毀損及び嫌がらせストーカー行為等で裁判となった時の為の証拠資料と為り得る投稿をUPしておきました。
また、別角度から見れば、創価学会員の偏執的な体質がよく解る資料とも為っています。

http://toyoda.tv/okiura.saiban.htm

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。132  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)13時14分31秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今日も愚犬の恥言を切り刻んでいきますか。
―――――――――――
> >形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)
>
> →邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。
>
> ※1「詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして
> 権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の
> 草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意と成れる
> ゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人木絵
> 二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に
> 鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ
> 鬼をば奪命者といふ」
>
> おいおい、真言破折の文証かね?(^o^)
> しかもこの前段に何と書かれてあるのか、わざと切ったね。(^o^)
―――――――――――
→既に、130 131段で破折してある内容であるが、再度確認していきますか。

1、御書の御文は、対機・時期・所対等を深く考慮して拝さなければ、大聖人様の御心を読み誤ることになる。
その原理は以下の御文に依って知れる。

■了義・不了義は所対に随って不同なり。(※これは、釈尊の経についてであるが、その原理はそのまま大聖人様の佐前・佐後等、あるいは対機によって説き分けられる全ての御法門にも通じる)

■諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。(日寛上人)

2、この御書は権実相対を主軸に説かれている。であるから、三大秘法そのものをそのまま御説きになられていない。この場合は、文底秘沈の三大秘法の義から依義判文して拝さなくては大聖人様の御真意を諒することはできない。

その証拠とする文証

■木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、此の仏は輪王とひとし。十善論と云ふを置けば、帝釈とひとし。出欲論と云ふを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若(ぐうはんにゃ)を置けば、縁覚(えんがく)とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば、菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)経等の仏眼(ぶつげん)、大日の印・真言は、名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。
 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

この御文は内外相対→大小相対→権実相対の勝劣の筋目を、経典の高下浅深を十界の境界に即して説かれた箇所であり、その明示されている主意は法華経と爾前権教との相対、つまり権実相対にある。
つまり、本尊義そのものが論の主意ではないのである。

3、四条殿の機が未だ、久遠実成の釈尊像への執着が強い時期であったが故に、大聖人様が暫時の善巧方便として、木絵二像=仏像・絵像を面に立てて「開眼」の意義を御教示為されている。
これはこの下種仏法出現の草創期であればこそ未だ対機が熟さないが故に無理からぬ説相である。

4、以上の前提に立った上で、※1の当該文は、特に真言宗のみを破折されているのではなく、真言宗を代表として(権)、草木成仏を為し得る唯一の法門、一念三千の法門(実)を盗み取った華厳宗等(権)を含め呵責せられておられるのである。

その証拠とする文証

■妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶(とも)に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑(まど)はし心を驚かす」云云。華厳の澄観(ちょうかん)が天台の一念三千をぬす(盗)んで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。但し華厳は頓々(とんとん)さき(先)なれば、法華は漸頓(ぜんとん)のち(後)なれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意(こころ)山の如し。然りと雖も一念三千の肝心、草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。然りと雖も法華をも(以)て、或は華厳に同じ、或は大日経に同ず。其の義を論ずるに澄観の見(けん)を出でず。善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)に同ず。詮を以て之を謂はゞ、→当該文※1

5、であるから、※1当該文の主意は、「一念三千の肝心、草木成仏の義を知らぬ者ども(権)が、本尊を開眼すれば、魔仏であり、鬼神である。法華を心得たる人(実)=三大秘法の御本尊を書き顕せる人=大聖人が、本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきは、拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。」との御心である。

因みに、”敢えて本尊を真言等の邪法で開眼しなければ、そのような悪果報はないであろう、”と考えるのは早計である。
何故ならば、当該文を詳細に見ていくと、以下のように分類される。

■法華を心得たる人、木絵二像を★「開眼供養せざれば」、家に主のなきに
1「盗人(ぬすびと)」が入り、」
人の死するに其の身に
2「鬼神」入るが如し。」

今真言を以て日本の仏を供養すれば、
※3「鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。」
※4「魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。」
※5「鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。」
※6「魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す。」

法華を心得たる人=大聖人(=現時ではこの世で唯一御本尊を書写できる御方=御当代御法主上人) が本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきには ※1=魔 ※2=鬼 となり、※1=魔→※4、※6となり、※2=鬼→※3、※5 となるからである。
つまり、別段邪僧に開眼供養を頼まなくても、本尊を正当な資格者が開眼供養しなければ、邪僧が開眼供養したと同様に、魔が入り、鬼が入り、『拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。』のである。

これは、まさに、創価学会が販売しているニセ本尊であり、身延のみやげ掛け軸等である。(その他ありとあらゆる”本尊”と称するもの全てである。)

以上の如くに、愚犬の恥言は全く愚かそのものであり、反論としては全く通用しない。
毎日お仕事でお疲れでしょうが、残念ながらやり直しである。
再反論に挑戦したまえ。
諦めず、頑張れよ。
応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。133  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)15時50分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

愚犬、いよいよ迷乱の極みである。
―――――――――――
> 「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の
> 仏なり、草木成仏といへるは是なり」
>
> では心法とは何か?
>
> 「教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり、教は二十八品なり意は題目の五字なり
> 惣じて仏意とは法華経の異名なり、法華経を以て一切経の心法とせり又題目の五字を
> 以て一代説教本迹二門の神とせり、経に云く妙法蓮華経如来寿量品是なり、此の
> 題目の五字を以て三世の諸仏の命根とせりさて諸経の神法華経なりと云う証文は
> 妙法蓮華経方便品と題したる是なり云云。」
>
> 日々真剣に題目を唱え、方便品・寿量品まで読誦して現実に広宣流布に励む学会は
> 上記御聖訓に仰せの通りである。(^o^)
> 坊や、この何処に「法主による開眼」などという言葉があるのかね?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やはホンマに「文証」出すたびにボロボロだな、樋田昌志くん?(^o^)
―――――――――――
→論理が飛躍しすぎ、あまりに破れ、ほつれ過ぎて、修繕の不可能なぼろきれの様な有様である。
我田引水もここまで酷くなると、やはり、狂人の域である。
やまいぬ。変じて駄犬、駄犬変じて愚犬、愚犬変じて狂犬 である。呵々大笑。

1、まず、大前提として、愚犬は、この

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

との御文を依用するということは、「開眼」の義そのものを認めている、ということである。

印する=光・影などを物の上になげかける。

とあり、この場合では
「法華経を心法とさだめて」→印する(=本尊の上になげかける)→「木絵の像」→生身の仏→草木成仏 ということであるから、前後の御文から拝してこの「印する」は開眼供養の義であることは顕然である。

2、では、ここに仰せの「心法」とは何か。
わざわざ、別の意趣で説かれている御講聞書の御文を強引に引文するまでもなく、この当該文の前に既に解き明かされている。

■ 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。故に普賢(ふげん)経に法華経の仏を説いて云はく「仏の三種の身は方等より生ず」文。是の方等は方等部の方等に非ず、法華を方等といふなり。又云はく「此の大乗経は是諸仏の眼なり。諸仏是に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得る」等云云。法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす、是は随他意(ずいたい)の声。自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二(にに)とあらはれて、仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり。故に天台の釈に云はく「請を受けて説く時は只是(ただこれ)教の意を説く。教の意は是仏意、仏意即ち是仏智なり。仏智至って深し。是の故に三止四請(さんしししょう)す。此くの如き艱難(かんなん)あり。余経に比するに余経は則ち易し」文。此の釈の中に仏意と申すは、色法をおさ(抑)へて心法という釈なり。

解りやすくするために”「心法」が何であるか”という関係部分だけを謹択させていただく。

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

■法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

■自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二(にに)とあらはれて、仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり。

■仏意と申すは、色法をおさ(抑)へて心法という釈なり。

つまり、この当該文で言われる「心法」とは、「仏の御意」のことであり、それはそのまま「法華経の”文字”として顕れている。」との意義である。
(更に再往、文底、観心から見れば、法華経→曼荼羅御本尊→三大秘法→一大秘法→戒壇の大御本尊 であるから、曼荼羅御本尊、就中戒壇の大御本尊はそのまま久遠元初の本仏の御意である、との意である。)

その上で、当該文を会通させていただくと、
「文字である法華経をそのまま御仏の御意である(→上記同様、文底、観心から拝すれば、戒壇の大御本尊こそ、そのまま久遠元初の本仏の御意=御命である)と悟り定めて、梵音声のない三十一相の木絵の二像(再往は曼荼羅本尊)を開眼供養すれば、その「本尊」はそのまま生身の仏(再往、久遠元初自受用報身如来の仏身)となり、これが草木成仏の原理である。」
となる。
ここでは、「開眼供養の”原理”」そのものを説かれている箇所であって、「”誰”が開眼供養するか」に主意があるのではない。
では、この「開眼供養」は「誰が」為さるのか、誰でなければならないのか。
それは、次下の御文に明確に説かれている。

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

との御文に明々赫々である。

ここでいう「法華を心得たる人」とは、既に130〜132段で詳述した通り、当時では日蓮大聖人、その後は日興上人、その後は御歴代上人である。
それは、御本尊書写を為される正統な立場の御方にのみに伝わる唯授一人の血脈相承なのである。

なお、駄犬の(否、狂犬の)支離滅裂な御講聞書の御文の醜釈に対する呵責は、次回。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。134  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)21時57分6秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、狂犬の珍無類の醜釈を呵責します。
では、御講聞書の本文全文

 一 色心を心法と云ふ事

 仰せに云はく、玄の十に云はく「請(しょう)を受け説く時、只(ただ)是(これ)教意を説く。教意は是仏意なり。仏意は即ち是仏智なり。仏智至って深し。是の故に三止四請(さんしししょう)す。此くの如き艱難(かんなん)余経に比すに余経は則(すなわ)ち易(やす)し」と。此の釈の意分明なり。l※1『教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり。教は二十八品なり。意は題目の五字なり。総じて仏意とは法華経の異名なり。法華経を以て一切経の心法とせり。又題目の五字を以て一代説教本迹二門の神(たましい)とせり。経に云ふ妙法蓮華経如来寿量品とは是なり。此の題目の五字を以て三世の諸仏の命根(みょうこん)とせり。さて諸経の神も法華経なりと云ふ証文は妙法蓮華経方便品と題したる是なり。』

で、今回の当該文を謹んで通解させていただく。
1から、
法華経の教の意と、仏の意と、仏の智慧 とはいずれも同じ事を指すのである。教 とは法華経二十八品である。意 とは妙法蓮華経の五字である。(教相では法華経の題号・妙法蓮華経と拝せるが、観心からは、南無妙法蓮華経の御本尊の御事であり、戒壇の大御本尊へ究竟せられる。→つまり、(仏の)意 とは詮ずるところ戒壇の大御本尊である。)総じて言えば、仏の意 とは法華経の異名・別名である。法華経こそが、一切経の心法=魂・命・眼目 である。また、題目の五字(=三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊)こそ、釈尊説教の本門迹門両門の肝心の魂=命である。(文底観心から言えば、戒壇の大御本尊こそ久遠元初自受用身のお命そのものである。)これは「妙法蓮華経如来寿量品」の真義とはこの事である。(寿量品の文底、我が内証の寿量品 とはこのことである)この題目の五字(→三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊)こそが、三世諸仏の無始無終の命の根源である。さて、諸経の魂、本源的な悟りも実は法華経である。という証文は「妙法蓮華経方便品」と題号を銘じられたことである。(これは”妙法蓮華経の他は全て方便である”との本仏大聖人様独自の観見か。)

と拝するのであって、狂犬の我田引水・牽強付会の我利我利亡者の酔釈

> 日々真剣に題目を唱え、方便品・寿量品まで読誦して現実に広宣流布に励む学会は
> 上記御聖訓に仰せの通りである。(^o^)

の意味などどこをどう探しても全くないのである。
もし、あるとするならば、
狂犬の無茶苦茶な暴釈の乱文の一々の語句が、どの御文にどのように当て嵌まるのか、具体的に論証して見せてくれたまえ。
@日々真剣に題目を唱え→
A方便品・寿量品まで読誦して→
B現実に広宣流布に励む学会→

さ、これも狂犬が自分で言い出したことである。
きちんと明証していただこうか。
頑張れよ。
その”沈回答”で年末更に笑わせてくれ。
下らんテレビ番組より、大いに楽しみである。呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。135  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)23時35分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >→「法華を心得たる人」が開眼供養しなければ
>
> はいはい、末法広宣流布もせぬ、折伏弘教もせぬハゲのどこが「法華を心得たる人」
> なのか、ちゃんと蓮祖・興師の文証挙げて証明してからにしましょうね、ボクちゃん?(^o^)
―――――――――――
→やはりここまで馬鹿者だと甘い顔してはいられないな。

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

ということは、「法華を心得たる人」が「開眼供養」していなければ「魔・鬼」の本尊もどき、ということであるが、では、

@創価学会販売の掛け軸は一体誰が「開眼供養」したのか。
Aその「誰か」が、「法華を心得たる人」とどう証明し得るのか。
Bその「開眼供養」したのは、いつか。
Cそれはどのような儀式なのか。

これらを明示できなければ、大聖人の御指南に反し、創価学会で3000円で販売の、一枚多色刷のペラペラな、粗末な紙の掛け軸に見せ掛けた、あの代物は、「魔・鬼」が入っている、大判の札、であること治定である。

駄犬の投稿内容がピント外れで、狂っているのも、全てそのペラペラ掛け軸もどきのせいである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。136  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)10時26分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

駄犬、反駁できる内容が実にいよいよ希薄・浅薄になってきたようである。
それどころか、教義的には全く反論不能であるが故に、文意を捻じ曲げての、切り文のすり替え、しかできない無能で卑劣・姑息な無様さを晒している。
そもそも駄犬程度のレベルではこの板での正当な文書対論など無理だったのだが、ここにきていよいよその稚拙・愚昧さ加減が顕著である。
のみならず、故意に文意を摩り替えて難癖をつけるなど、仮にも日蓮大聖人を信奉する者としてはまことに唾棄すべき言動に終始している。
実に見苦しい、汚らしい、醜怪な根性である。
今回の、駄犬の、正当な道理・文証に依っての反駁ができずに、論旨を捻じ曲げた摩り替えによる捏造は、これまた、ニセ本尊の猛毒が如何に醜悪な人間を生み出すか、のよきサンプルとして、長く留め置き、世の多くの方々にじっくりと検証していただき、このような性根の腐り果てた会員を多数活動家として抱える創価学会という似非仏教系新興宗教団体の欺瞞性・反社会性・虚偽捏造体質・二面性・偽善性・・・そして、そのような腐り果てた者達が多数、この日本国土に存在して一般常識人のなかにそれなりに溶け込み何食わぬ顔で生活しいるという、恐怖 を感じていただければ、この駄犬の存在も意味のあるものとなるであろう。

では、粉砕していきますか。

―――――――――――
> DATE: 12月20日(水)00時15分0秒
> TITLE: しっかしまぁ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> >またもや浅薄な駄犬の愚解を詳細に粉砕していきますか。
>
> あいはい、(←※ん?実に意味不明の”掛け声”である。呵々大笑) 坊や。(^o^) 一つ覚えでひとに「浅薄な」としか書けぬ坊やは、坊や
> 捏造の深甚の「南無――の内証は戒壇本尊」からはじまる「無限ループ」も「永久等号」も
> 何ら証明出来ずに撃沈したまま、その件はスルーしてダンマリかね?(^o^)
>
> 苦しいねえ、平日でも朝となく昼となく深夜となく必死で書き込む修羅坊・樋田昌志
> くんよ?(^o^) それだけ書いて、120回を越えて書きながら、自分が捏造した
> 邪義についてはなーんも書けん。(^o^) 「唖法を受けたる婆羅門」そのものだわ、
> 坊や。(^o^)
―――――――――――
→正当な道理・文証に則った教義的なことが全く理解できないこの狂犬には、まさに、「狂人には、正常な人間の会話は理解できないし、その本人に狂いぶりを幾ら説明しても、当然理解できない」のと同様で、最早何度説いても無理なので反駁の必要はないが、上記の難癖に関しては、既に完全に粉砕しているので、その箇所を提示しておく。
http://toyoda.tv/magomago.htm の全段
http://toyoda.tv/yamainu2.htm  の 69 72 80 81 82 104 段  等において、粉々に完摧してある。(初見の読者の方々は参照してください)

駄犬ら(妄犬マゴマゴも含む)は、これに対し、大聖人の御文を引き、上記の当方の論証に対して、未だ教義的に全く反論できていない。
信も学もない頭で、(行は所詮ニセ本尊への邪行であるが)、つまり、信行学全てに狂った頭で、自分等で勝手に妄釈をして、自分等で自分の作り出した妄説に”つっかかっている”だけの話である。
自分の見ている妄想へ向かって、自分で怒って文句を言っているのであるから、これはまさに狂人の所業であり、正常な者はそれに関わる必要もないし、時間も無駄である。
しかし、”当方が反論不能である”と難癖をつけるのであれば、看過できない。
ここで、再度駄犬及び妄犬マゴマゴへ詰問する。
上記で示した当方の論証に対して、道理・文証双方を以って、正当に反駁・反論・反証して見せたまえ。
正当な教義的論証もない、ただの馬鹿の一つ覚えの難癖は、読者にも失礼であるし、その無能な醜態ぶりは駄犬らの信じる「ニセ本尊の面汚し」となり、また創価学会の構成員として、所属団体の評価を下げる行為となろう。
さ、「無限ループ」と言うのであれば、自分等の妄想による難癖ではなく、歴とした文証と道理を挙げて反証して見せたまえ。
もし、以後、”正当な文証・道理を以って”反駁出来ない場合は、この件は駄犬らの妄説による言いがかりと認め、正式に謝罪し、承服したことを宣言したまえ。
そのいずれかも出来ないとすれば、いよいよ、駄犬らは姑息・卑劣・臆病・等のまことに醜悪な生き物であること治定である。
よくよく勉強して、覚悟を決めて返答せよ。
念を押しておくが、あくまで、”正当な文証・道理を以って”の反論をすること。
駄犬らの妄想で何をどう喚いてきても、それは不可である。予め釘を刺しておく。
駄犬らが懸命に道理・文証を以って反証すれば、読者の方々も興味をそそられるし、教学的にも勉強になることでしょう。
さ、頑張れ。応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。137  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)10時59分39秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、細部を粉砕していきましょう。
―――――――――――
> 「真間釈迦仏御供養逐状」、云々。
>
> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて
> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?
>
> →以下意味もなく凡長。(^o^)
―――――――――――
→まさに駄犬「反論不能」の図。呵々大笑。

道理・文証を以って正当に反論できていない。
毎日お仕事で忙しいところまことにお可愛そうであるが、やり直し、である。
もし、次回も道理・文証を以って正当に反論できなければ、潔く、自らの不勉強さを認め、公式に謝罪し、この件では承服したことを宣言せよ。
更に駄犬がもう少し潔ければ、脱会手続きを取るであろう。が、駄犬の捻じ曲がって腐り果てた根性では無理であろうな。
では、読者の皆様には大変申し訳ないが、この狂った謗法者を呵責するために、当該箇所を編集し再掲します。
―――――――――――
またもや浅薄な駄犬の愚解を詳細に粉砕していきますか。
―――――――――――
> >A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。
>
> >但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、
> >法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて
> >かへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)
> >→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。
>
> 坊や――相変わらず文証の出し方が出鱈目やなぁ?(^o^)
> いいかね坊や、眼は見えておるね?(^o^)
> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて
> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?
―――――――――――
→実に愚かしい者である。

1、総論

駄犬は
@「文」に囚われて「本義」「仏意」が見えないだけである。
あるいはまた、
A一往、附文・再往、元意による読み分けを知らない、あるいはできない、それだけ愚者なだけである。
そういう低級者が生意気に仏法を騙るから矛盾だらけで苦しくなるのである。
まっ、ニセ本尊を「魔札」と見抜けずに頭破七分が益々進むのもわからず有り難がって拝んでいるのであるから斯様な愚者でも無理もない。

@→駄犬は 経文=仏の説 を 文→義→意 と読むことで仏法を領解していく筋道が全く理解できていない痴者である。
大聖人様は講説・著述されるにあたっては以下のように「文」「義」「意」を説き分けておられる。
であるから大聖人の御文を読み解く場合は「文」→「義」→「意」へと通じる拝し方をしないと、駄犬の途方もない誤読となるのである。

■或は文を陰して義を取り、或は義を陰して文を取り、或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。

駄犬は以下のような邪僧どもと同類である。

■「像法決疑経に云はく「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随って義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」
―――――――――――
A→附文・元意 あるいは一往・再往

■附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり。

との如く、附文の辺にのみ囚われると、元意の辺が読み解けなくなる。
駄犬は幼稚の上にいよいよ癡かである故に、この@Aの誤りを常に犯しているのである。
つまり、 大謗法の上に馬鹿者  である。
―――――――――――
2、詳論

@ 真間釈迦仏御供養逐状 は  文永七年九月二六日  四九歳御作 であり、当然の如く佐前の御文であるから、佐後から開会して拝さなくては大聖人様の御真意を領することはできない。

■「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。」

つまり、「真間釈迦仏御供養逐状」は大聖人様の"方便の教え"である。
であるから、特に「本尊義」については三秘開顕後の御法門から開会して拝さなくては御真意を諒することはできない。
つまり、この御書で言われる「釈迦像」も、再往の辺では「曼荼羅本尊」という義である。

A大聖人御在世当時は、三秘顕現の草創期であるから、権宗の習気の機根も未だ多く、富木殿も大聖人から賜った他の御書を拝しても法門の領解に於いては未だ浅いものがあったことが理解できる。
であるから、

■釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。

と、富木殿の機根に合わせられ、権実相対の辺に於ける化儀の範疇を一往善巧方便として暫時容認せられるのである。
大聖人様が三大秘法の本義より「釈迦仏御造立」へ対して「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と根本的普遍的化儀として思われるはずがないのである。
それは、以下の

■いつぞや大黒を供養して候ひし、 云々

との仰せからも理解できるところである。大聖人様が「大黒」を三秘の本義から根本的化儀として供養される道理はない。
やはり、富木殿へ対しての暫時一往の善巧方便である。

B開眼について。

当該文

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

ここでは、「釈迦仏造立に際して、大聖人自ら開眼に行きたかったが、諸々の御事情があって直ぐには行けないので、弟子の伊予房を遣わし、大聖人の代理者として「開眼」を為さしめる。」という趣意である。

→1 ここでは■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」また■「いそぎいそぎ・・・はたしまいらせさせ給ひ候へ」と仰せであるから、大聖人は開眼の義そのものは重要な儀式とお考えになられていたことが拝せられる。

→2 大聖人自らが■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と仰せであるから、「釈迦像」を「本尊」としてお考えであったことが拝せられる。
しかし、「釈迦像」は暫時の方便、一往の辺であり、再往、佐後の御法門から開会して「本尊」との意義を拝するれば、まさに「曼荼羅御本尊」の御事である。

→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。

→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。

→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も同様に行われなければならない重要な儀である。

→6 であるからこの「開眼」の義に関する御指南は、この義を唯授一人・血脈相承された御歴代上人の文献に多数散見されるである。

以上、上記駄犬の痴難が如何に浅薄かつ低劣かがよくよく知れるのである。
駄犬は常に何を書いてもその愚悪で醜怪な人間性が益々露呈するのみである。
―――――――――――
さ、駄犬、上記の「開眼が必要であり、尚且つそれは弟子の僧侶でも成し得る」との論証のどこが、どのように、「意味もなく冗長」なのか、証明してみせよ。
ただし、”正当な道理・文証によって”である。
さ、遠慮せずにやってみたまえ。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。138  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)12時27分43秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この項目まで、完全に反論不能か。呵々大笑
―――――――――――
> >→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に
> >染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、
> >御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。
>
> 坊やはマゾかね? それとも「一人ボケ・一人突っ込み」がしたかったのかね?(^o^)
>
> 「真間釈迦仏御供養逐状」を蓮祖御図顕本尊開眼の文証として出したのは
> 坊やだよ。(^o^) それを論証する中で、自分で「敢えて「開眼」の義は必要ない」、
> オシマイではないか、樋田昌志くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは
> >大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。
> >→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も
> >同様に行われなければならない重要な儀である。
>
> それは仮に釈迦像などの場合についてであって、まさに坊やが書いてしまった通り、
> 蓮祖御図顕本尊に「敢えて「開眼」の義は必要ない」のだよ。(^o^)(^o^)
―――――――――――
→またも出ました。駄犬のすり替え。
しかし実に根性の曲がった、性根の卑しい者である。
これは、生来のものか、ニセ本尊の害毒によるものか、それともその両方か。
いずれにせよ、ほとほと姑息・愚悪の者である。
これは”頭が悪いうえに、根性がひね曲がっていると、こういう途方もない妄説を捻り出す”、という”症例”としては、”理想的”なパターンといえよう。
また、いいサンプル採取ができた。
駄犬の言動一つ一つが、ニセ本尊を信じる者の実態を鮮明に現してくれて、有り難い。

では、↑この駄犬の頭が悪い上に根性が曲がっている醜釈を粉砕しましょう。

確かに、大聖人が御自ら「開眼供養」の儀式を化儀として為されたかどうかは、文献的には明白ではない。
ただ、本義としては御本仏御自らが顕された御本尊は、そのままそこに「開眼」の意義が篭められているのであるから、敢えて殊更に「開眼の儀」を御指南される必要はないし、また大聖人御自らが顕された御本尊を他の誰人も「開眼」する道理はないので、御書全編を通しても「曼荼羅御本尊」の開眼の御指南は全くないのである。当たり前の道理である。
しかし、大聖人が”「開眼供養」をしなければ本尊としては成立しない”と御教示されていることは紛れもない事実である。
以下の御文の如くである。

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

この御文についての駄犬の邪難は既に、130〜132段 及び 135段 において完全に粉砕してある。
駄犬、何か言いがかりをつけたければ以上の全ての論証に”正当な道理・文証を以って反証してから”いいたまえ。いいね。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。139  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)14時59分47秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、また、「開眼」についての駄犬の迷妄を破していた、続きに戻ろう。
―――――――――――
> >『日寛上人文段集』
>
> ここにも「法主」の2文字すらないなぁ、ボクちゃん?(^o^)
> 坊や、何のために“文証(らしきもの)”を出したのだね?(^o^)
>
> >「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。

> まず、ボーズによらねばならないなどとはどこにもないのだわ。(^o^)
―――――――――――
ここもこの項の全文をまず、掲載しておく。
―――――――――――
■木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり(中略)草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』)

→日寛上人は、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)についても「一念三千の仏種の魂魄を入るる」こと(開眼)によって「草木成仏」すると明言されている。つまり、「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。
―――――――――――
では、この日寛上人の御指南の全文を挙げて以って駄犬の迷妄を呵責する。(便宜の為に記号を挿入させていただく)

 木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、
1「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」
と云云。文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く
2「三十一相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」
と云云。若しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

この御指南の中の、※1、※2、については、既に130〜132段 及び 135段で詳述してあるがごとく、
『「法華を心得た方」(=大聖人→現時では唯一御本尊書写の正当な権能を御所持される御法主上人)が「開眼」しなければ、「本尊」とは成り得ない』のである。

駄犬の下品な暴難など、全く道理・文証のない、ただの”難癖”であり、道理・文証の伴わない難癖・いいがかり・文句・批判 等 など誰でも出来る。実に低劣で知能の低い者の為せる業、である。
所詮 ニセ本尊などを拝むからこのような馬鹿で野卑で愚劣で姑息な人間と成り果てるのである。
いや、違った、ただの謗法(ホウボウ)”犬”だった。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。140 祝140回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)16時43分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここから以下が、また駄犬の知能の低さ炸裂の箇所である。
ここも反論不能に陥った頭の良くない者が、それでも必死に足掻いて、全面敗北だけは避けたい、と何とかポイントを稼ぐために、的の外れたパンチを手数繰り出して、体裁を繕って見せている、と本人は思っているが、実は醜態を更に惨めったらしく晒している、といった図である。呵々大笑。
実に面白いので、長いが引用し少々弄ってみよう。
―――――――――――
> ※1「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き
> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」

> >↓以下の部分を何故抜くのか?狂犬?なにか都合がわるいのではないか?

> 坊やの書き込みが凡長だからだよ。(^o^)
―――――――――――
→駄犬はまたもや抜いておる。よほど都合が悪いらしい。呵々大笑

●※2『→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。』

この一行のどこが”冗長”なのか?呵々大笑
”冗長”を一度辞典で調べ直してみることをお勧めする。呵々
駄犬、相当に苦しいようである。
実に馬鹿犬である。

駄犬の言※1 から導かれる結論は ※2 となる、これに駄犬は大変困り果てているのである。呵々大笑。

以下、この駄犬の妄見→”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体” との最高に哂える定義を、からかっている箇所へ、猛然と必死になって絡んできている様が、実に滑稽で、これまた笑えるのである。
では、”年末お笑い番組”として、少しづつ見ていこうか。呵々
―――――――――――
> >であるならば、
> >@身延のみやげ本尊をコピーし、それを更にコピーしそれをまたコピーし・・・と
> >何万回コピーしたものも、全て”人法一箇の御当体”ということになり、
> >”御当体さま”が何億枚、何千億枚も”発生”することになり、しかも、いつ何時でも、
> >誰でも、コンビ二でも、会社のオフィスでも、どこでも”御当体さま”を作れることになり、
> >まさに「本尊雑乱」の狂態である。
>
> 「坊やの悩乱した妄想も、まぁ酷いものだわねぇ?(^o^)
> まず前提として、自分の人生の“背骨”として蓮祖仏法を信仰しようという者でない限り、
> コピーしてまで本尊を欲しいとは思わぬ。(^o^)」
>
> >→ん?なぜ、そうと断言できるのか? ただ何となく、「日蓮さん」に惹かれていて
> >
> 折伏経験の浅さかね?(^o^) この国のどこに、「ただ何となく、「日蓮さん」に惹かれて」
> 本尊欲しがる人間が現実にいるのか教えてもらおうか?(^o^)

> >「御曼荼羅も一枚くらい家にあってもいいな。」とでも思うじいさんが

> 何なんだ、坊やが捏造したこの「じいさん」というイメージは?(^o^)(^o^)(^o^)
> さすがに高齢者以外にはいないということかね? 腹痛いわ。(^o^)
>
> >容易に想定できるが?

> だーから連れて来いよ、坊や?(^o^)
>
> 坊やの「イメージ」など、斯様に根拠薄弱極まりない、独りよがりだらけである。
> 妄想に過ぎない。(^o^)
>
> 「しかも真剣に信仰しようというそのひとは、きっちり折伏されて本尊を頂く。(^o^)」
>
> >例えば上記のケース

> 連れて来いって。(^o^)
―――――――――――
はーい、ここで一端切りますか。
しかし、ここまで頭が悪いとはちょっと驚きである。
これはニセ本尊の害毒というよりは、生来のものかも知れぬ。
生来このように頭が悪いくせに根性まで曲がっている悪因縁の生まれだから、ニセ本尊などという「魔札」に取り憑かれ、ますます、頭の悪さと根性の曲がり具合に拍車がかかった、とうのが正解であろうか。
実際、こういう頭が悪く、根性がひね曲がった者が、どのような日常生活を送っているのか、この目で観察してみたいような”症例”である。
そして、周辺の方々へ取材してみたい”素材”である。
「どうですかぁ?やまいぬ。(仮名)さんって、どんな方ですかぁ?」
その答えが、心から聞いてみたい”生き物”である。
当方の経験した限りでは、ここまで頭が悪くておまけに根性の腐った者は、ちょっと、珍しい。
今までの一二を争うほどの”でき”である。呵々大笑。

いけない、いけない、駄犬のあまりの頭の悪さと、根性の腐臭に驚愕してしまって・・・

では、本題(といっても、実に下らん内容だがね・・・(-_-;))にいきますか。
まず、この項の当方の主張を読者の便の為に全文挙げてみますかね。(下らんが、まっ、駄犬の愚昧な妄執を打ち砕く為には、相手の機根に下ってやらねば始まらないからな・・・)

―――――――――――
>※1「 まず前提として、自分の人生の“背骨”として蓮祖仏法を信仰しようという者でない限り、
> コピーしてまで本尊を欲しいとは思わぬ。」(^o^)
―――――――――――
●→ん?なぜ、そうと断言できるのか?
2 ただ何となく、「日蓮さん」に惹かれていて、「御曼荼羅も一枚くらい家にあってもいいな。」とでも思うじいさんが、身延のみやげ掛け軸を持っている友達にお願いして、「それ、わりぃ−けんどもよ、コピーさせて、くんねかね?もし、だめなら写真撮らせてくれや」と頼むケースは、容易に想定できるが?
狂犬の断定)※1)など、斯様に根拠薄弱極まりない、独りよがりだらけである。妄想に過ぎない。
まっ、独りよがりが極まった形が狂人であるから、狂犬がこのような自己中心的な妄想に凝り固まるのもニセ本尊の害毒としては当然だが。
ここも、やはり、ニセ本尊で人格が如何に破戒するか、のいいサンプルが採取できた。や、ありがとう。狂犬の狂いぶりも、このように記録に残して置けば、世の人の為になる。  (以上再掲)
―――――――――――
1、現に当方の自宅から車で30分ほどの所に住んでいた当方と知り合いだった”じいさん”(故人)は、別に大聖人への信仰心などさほどもなく、ただ、「日蓮さん」と名のつくものなら、一代記でも、何でも買える物は買い集めて、邪宗の本尊が並ぶ先祖からの仏壇の中に飾ったりしていた。(ついでに達磨系のものも少なからず執着していた。)
果ては、古美術商から「これは日蓮聖人の直筆曼荼羅ですぜ」と言われてその気になって買おうとしたが、でも高いから買えないので、写真に撮って大事にしまっていた。(ん?実際確か30万だか20万で買ったのだったか?それで、その「本体」はしまってあって、写真を持ち歩いていたのか?・・・ちょっと記憶が曖昧であるが・・・)
上記の※2 の比喩話は現実に居たこの”じいさん”がモデルである。

2、この1のケースであれ、※2 のケースであれ、そういう類型が存在し得る可能性を否定できうる根拠など駄犬には皆無である。
2 は当方の知人として実際に居た人物を想定したが故と、例え話を面白くする為に仮に”じいさん”として書いただけであって、別に”じいさん”に限定する内容でもなく、老若男女を併せて、日本全国で1億1千万人、否、世界で約60億人口の中で、上記と同類の「機情」の者が存在する可能性は計り知れないであろう。
駄犬は、どういう根拠で、その類の衆生の存在を完全否定出来るのか。
その”根拠”とやらを、論理明快に、衆人が納得できる形で提示せよ。
でなければ、駄犬の主張など、”狂人の根拠無き妄想による思い込み” と同類である。

3、しかも、その機情の人物を「連れて来い」と放言して憚らないその低脳さには辟易する。

@ もし、駄犬がそれを望むなら、1 以外の人物を新たに探して因果を含め賃金を与えて、駄犬の自宅へ一緒に訪問するから、駄犬の住所・氏名・電話番号等を当方へメールにて送信せよ。

A 更に、当方へ住所・氏名等を送信した事実をこの板上で公表せよ。(内容は明記せずともよい)

この@Aなどおよそ出来もしない臆病にして姑息で陰湿な駄犬のくせに、偉そうに「連れて来い」と、全く実現不可能なことをほざく様は、まさに駄犬が狂人と成り果てている証拠である。
ここは
@『※2に類する機情の衆生の存在の可能性の有無』という論点を
A『それを証明する為に選択する方法が、全く実行不可能である』という、「証明方法」を押し付けて、論点をすり替え、誤魔化し、結局 遁走しているのである。
実に根性の腐り果てた、見下げ果てた、卑怯者 である。
やはり戒壇の大御本尊から退転するような者は、所詮この程度の下衆な、命の汚いの者どもである。

ここも、駄犬の低脳極まりないその幼稚性と、捩れ曲がりきった根性の醜悪さがいよいよ顕著であり、”創価学会の活動家”というものの精神の腐り加減が実によく解る。
長く”標本”として晒しておくべき箇所である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。141  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)20時05分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下も、駄犬の妄見→”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体” との最高に哂える定義を、からかっている箇所へ、駄犬がまたもやピント外れに絡んできている箇所である。
―――――――――――
> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、
> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・
> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。
>
> 「(^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)
> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも
> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)
> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)」
>
> >ティッシュ一枚にでも、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックか
> >なんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という
> >大馬鹿な恥論であることを、示したものである。
> >狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にその
> >ティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、という
> >ことになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、
> >である。

―――――――――――
↑頭が悪いうえその中身が”頭破七分”で整頓されずに混沌としている者が、無闇にオリジナルを切り貼りして書き込むと、実に読みにくい。
それとも、自分の滑稽な恥論が鮮明になるのが怖くて、態と読みにくく”編集”を加えているのか?呵々
ここも、オリジナルへ戻して再掲してから、とことん粉砕してあげよう。

―――――――――――
※3ー@ ●> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、
> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・
> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。
『駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑』(←駄犬が略した箇所)

> (^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)
> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも
> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)
> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)
―――――――――――
●→頭が悪いのも、ここまで来ると御愛嬌だな。(-。-)y-゜゜゜
馬鹿には繰り返し躾けてやるしかない。

狂犬は"「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体"と断定した。
その余りの馬鹿さ加減を、具体的な姿ではどうなるのかを解り易く例示してあげたのが、上記の例えである。
3−A つまり、狂犬の痴論だと、ティッシュ一枚にでも、"「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックかなんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という大馬鹿な恥論であることを、示したものである。
狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にそのティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、ということになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、である。(ああ、ダメだ。もう、可笑しくて。たまらん。(^_^;)
しかも、その家人は「人法一箇のご当体さま」を御不敬したのであるから、大罰があたることになる。
自分で、マジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いたティッシュで鼻かんだら、である。呵々大笑。 (以上再掲文)
―――――――――――
→今回これに対しての駄犬の反論文↓
―――――――――――
4▼> 「お縋り信仰」「お守り信仰」法華講の面目躍如たるところだなぁ、坊や?(^o^)
>
>※1 「此の本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶文殊薬王等にも之を付属し
> 給はず。何に況や其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説て之を付属し給ふ。
> 其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に
> 釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として
> 末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如し。」
>
2 > 末法の衆生救済のために蓮祖が御図顕された南無――本尊を、その通りに「根本尊敬」の
> 対象として信仰し、かつ仰せの通りに創価学会は(法華講ちゃんと違って)広宣流布を
> 進めてきた。(^o^)
> 「根本尊敬」せぬ「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)
―――――――――――
→もはや頭破七分の進行が酷くて、支離滅裂極まりない。
自分でも何を論証しているのか解っているのか?

T ※1の引文が全く的外れで、何を引証したいのか全く不明瞭である。
この御文は、法華経宝塔品の儀式に擬して末法相応の曼荼羅本尊の相貌を明かす御文である。
それが、以下※2 の駄犬の主張の証文としてどういう関係にあるのか。
全く、主張の証文となっていない。

U ※2 の文意が、今段の文脈から全く外れており、支離滅裂である。
ほんと、謗法の頭破七分者で尚且つ、もともと頭もよくない者を相手にすると余計な労力が居るものである。

@ 駄犬の恥論→
@ 本尊は誰が書写しても良い。
A 「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体"
この@Aを合わせると、
『誰が、どこでも、どんな用具ででも「「南無―― 日蓮在御判」と書けば、本尊 となり、人法一箇の当体=久遠元初の御本仏の命 となる。』
ということである。

A その矛盾を哂うために例示したのが ※3−@ と※3ーA である。

→ティッシュ紙に誰でもいいから例えばマジックか何かで(マジックだと破けてしまって無理か。呵々)「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書けば、その途端に、そのティッシュ紙があら不思議!”人法一箇の御本尊ざま”に早変わり〜!ということである。呵々大笑!

Bで、この大笑いの呵責に対する反駁(らしきもの)が※4 ※1の引文 ※2 である。
※4← 何を以って 「お縋り信仰」「お守り信仰」法華講の面目躍如 なのか。全く論旨不明である。
反駁にも為っていない。→駄犬が頭破七分の狂人と成り果ててきたことの証明である。

※2→ 「末法の衆生救済のために蓮祖が御図顕された南無――本尊を、その通りに「根本尊敬」の
> 対象として信仰し、かつ仰せの通りに創価学会は(法華講ちゃんと違って)広宣流布を
> 進めてきた。(^o^)」

との言もまた、論旨不明。文脈からも外れ、反駁にもなっていない。

※2→ > 「根本尊敬」せぬ「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)

これもまた、全く意味不明である。

『駄犬の恥論に依って何時でもどこでも誰でも書けてしまう→ティッシュ紙に例えばマジックか何かで(マジックだと破けてしまって無理か。呵々)「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書けば、その途端に、そのティッシュ紙があら不思議!”人法一箇の御本尊ざま”に早変わり〜!
だなんてものが「本尊」と成り得るはずがないではないか!』
との当方の詰問への何ら反論に為っていない。
むしろ、↑このような「「根本尊敬」”できぬ”「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)」とこちらから駄犬を詰問すべき文言である。
いずれにせよ、駄犬の珍回答は、あまりにポイントがずれ過ぎているが故に、「全く話にもならない。」の一語に尽きる。
顔を洗って出直して来な。(-。-)y-゜゜゜ である。呵々大笑

 

お知らせ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)20時51分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。更新しました。132〜141
やまいぬ。君の足掻きぶりと比較してみると、いかにやまいぬ。君が教義的反論不能状態で固まっているかがよく見て取れます。

http://toyoda.tv/yamainu2.htm

やまいぬ。君の懸命な足掻きぶりも更新しておきました。
やまいぬ。君、当方からの破折に教義的には全く反論不能であるが故に、期限を何度も切って、幕引きたがっている様子が手に取るように分かります。
いよいよ逃げ腰ですね。
滑稽で、”可愛いい”ですよ。

http://toyoda.tv/yamainu.chiron.htm

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。142  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月21日(木)00時11分47秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、この項では、駄犬姑息にも論点の摩り替えに躍起である。
ではその矛盾を突こう。
―――――――――――
> 坊や、連日朝から深夜までダラダラ書きこむうちに、何について書いておるのかも
> 解からなくなったようやね?(^o^)

※1ここで私も坊やもやり取りしておるのは「本尊について」、
> つまり「根本尊敬」の対象である※2「紙幅について」だよ。(^o^)

坊やは本尊で「鼻をかむ」のかも
> しれないが、悪いが我々は、「根本尊敬」の対象でそのようなことはせぬ。(^o^)
―――――――――――
→実に、姑息・卑怯・根性醜悪のゴミである。

※1 について
駄犬の謬説では、(駄犬の妄執の根本であるから、何度でも形を変えて追求しましょうね。)

@ 「本尊」=「根本尊敬」の対象  →誰でも書写して良し。

A 「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書かれた「本尊」は全て「人法一箇の御当体」(=久遠元初本仏の命)

すると、この@とAを総合して「本尊」義を考察すると、
B『誰が書いても良いのだから、小学生でも、パソコンでも、禅宗も坊主でも、身延の管長でも、自分が書いても、本尊になる。・・・もう何でもあり、である。呵々大笑
しかし、Aによって、それなりに”条件”があるらしい。
つまり、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書かれてないと、どうも「人法一箇」の「本尊」とは認めないらしい。
でも、全然平気、平気。↑↑↑この部分も「人法一箇」の「本尊」なのだから、もう、大丈夫!
どこででも、誰でも、何時でも 「人法一箇」の「本尊」が作り出せる。湧いて出てくる。・・・・とこうなる訳である。』

→ などと言うことが、誰が考えても、そんな馬鹿なことが有り得る訳がない。

およそ「本尊」とは、※1で駄犬も同意見であるが「根本尊敬」の対象であることは間違いない。

根本=物事が成り立っている基礎になるもの。おおもと。
おおもと=物事の最も基本となるもの。根本(こんぽん)。根源。
根源=物事の一番もとになっているもの。おおもと。根本。

であるから、「根本尊敬」の対象である「本尊」とは、「一番根源として、おおもととして尊敬する対象」ということである。
その根源であるはずの「本尊」がBのように「粗製濫造」され得るべきものでないことぐらい、子供が聞いていも分かる道理である。

しかし、流石に駄犬もこの点を突かれるのが痛いのか、今回姑息にもこっそりすり替えを行っている。
それが、※2の「紙幅について」という語である。
これは、当方が駄犬の恥論の矛盾を突くのをかわす為に、駄犬がそっと忍び込ませた老獪な語句である。
つまり、駄犬は暗々裏に、従来から存在する「曼荼羅本尊」へ、当方の追求の矛先をかわそうと企んだのである。
まことに馬鹿の癖に小狡い謗法の醜悪な下衆である。

そんな姑息な小手先の策謀は認めない。
あくまで、駄犬は@Aの主張をしているのであるから、結果はBの本尊が世界中に出現できる理屈である。
この迷妄は今後とも鋭く呵責していく。

ここでは、創価学会の活動家としての駄犬の小狡い醜怪で見苦しい人間性が暴露されただけのことである。
ご苦労様。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。143  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月21日(木)20時11分48秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、↓ここの恥難を叩きますか。
―――――――――――
※1●> >誰が見ても、誰が聞いても、狂犬の言う「人法一箇の当体」が本尊に成り得る訳がない。

> 「狂犬の言う」とはテッシュ云々かね? また摩り替えかね、坊や?(^o^)
> こんな狂った妄想を書いたのは坊やだよ。(^o^)
>
> それとも
※2●> >狂犬の言う「人法一箇の当体」が本尊に成り得る訳がない
> というのは「南無―― 日蓮在御判」の※3「南無――曼荼羅」のことかね?
> もしこれが
> >本尊に成り得る訳がない
> と云いたいのなら、まず蓮祖・興師の文証出してから物を云いなさい、ボクちゃん。(^o^)
―――――――――――
この※1 ※2 とは、

駄犬の謬説

@ 「本尊」=「根本尊敬」の対象  →誰でも書写して良し。

A 「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書かれた「本尊」は全て「人法一箇の御当体」(=久遠元初本仏の命)

この@とAを総合して「本尊」義を考察すると、

B 『誰が書いても良いのだから、小学生でも、パソコンでも、禅宗も坊主でも、身延の管長でも、自分でも、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書けば「人法一箇の御当体」=「本尊」になる。』

ということである。

1、ここで、また駄犬は姑息に※3「南無――曼荼羅」をこっそり付け加え、@Aの駄説の矛盾への鋭い追及をかわそうと曖昧にしている。
実に愚劣・卑劣・下劣で卑怯極まりない醜悪な根性腐り果てた犬である。
駄犬の主張はあくまで、@Aであり、その結果はBとなる。

2、このBのような「本尊雑乱」の様相が絶対に許されるはずのない道理と文証の一端を示そう。

■一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。

とある通り、およそ、「何時でも、誰でも、何処ででも、粗製濫造できる「本尊」」など、大聖人・日興上人の御心に叶うはずがないことなど、火を見るより明らかである。

もし、それでも自説を曲げずに、「Bも本尊だ」 と主張するのならば、もはや、病院へ行った方がよい。
改めるのなら、ここで正式に謝罪し、脱会の手続きをとれ。
狂犬よ、どっちを択ぶのか?

 

クズいぬの、クズたる所以(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)  投稿者:73  投稿日:12月21日(木)21時53分45秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

反論不能のクズいぬ、術は「文証を出せ」

創価の腐ったクズは、何ヶ月も前から
「什宝あらばこそ宗門は正しい」の蓮祖・興師の文証を出せ、と
循環論法の如く叫んでいる。昨夜も私宛に

>残念だね、坊や。(^o^)
>樋田昌志くんは「什宝あらばこそ宗門は正しい」も、坊や捏造の「南無――の内証は
>戒壇本尊」も、「御本尊に法主の開眼が必要」も、一切、1行たりとも蓮祖・興師の文証
>挙げられずに首落ちてこれで3度目。(^o^)

と述べているが、
既に、樋田氏は何度も何度もこの件に関しては正論を述べられている。

そもそも、この件の樋田氏の最初の書き込みは、

「創価学会などに何の什宝がありますかね? 」
「大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?」
「日興上人の御本尊様は?」
「御真筆の御書は?」
「創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。」

というもの。このクズの術は、「文証を出せ」に尽きるのだが、
この件についてもやはり「文証を出せ」と唯一の錆びた宝刀を抜いてきた。

創価が大聖人直結という文証も出せないクズが、である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

そもそも、大聖人御在世において、大聖人様御自らの「什宝」に関する御文など、
無くて当然(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
こんな一般常識もわからぬ幼稚園児以下のクズに対して、
樋田氏は懇切丁寧に、

◇以下樋田氏の書き込み

当方が書いた趣意は、
「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。
一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。
その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」
との意味である。

と返答された。
これに対し、教学など全くないクズは、またまた「蓮祖・興師の文証を出せ」。

この後、このみっともない恥さらしの戯言の繰り返しが、幾度も続いた。

このクズの腐った性根に、樋田氏は更に一歩踏み込んで回答された。

◇樋田氏の書き込み

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。
また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。
※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。
―――――――――――
●ここである。

1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。
日興上人は明白に
■本門寺重宝たるべきなり
■万年の重宝たるべきものなり
と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

重宝=貴重な宝物
貴重=とうとびおもんじること。非常に大切にすること。 得がたいものであるさま。
一方「正」とは「一に止まる」と言う意であるから、これらを併せ考察するに

「重宝」とは極めて得がたい宝物であり、それは他の数多のものにはない、つまり、数多の中からの「一つしかない」という意味において「正」しい宝物であり、尊び、重んじるべきもの。という意義である。
「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。
―――――――――――
そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。
こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。

■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり
仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺
に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                     東京 法道院。


以上わかるように、この件に関しては完全に「破折済」なのである。
そもそも、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」
の御文でこのクズの首は転がり落ちているのだが、
その転がり落ちた首で、更にみっともなく
「文証・文証」とさけぶ様は何ともみっともない負けイヌである。

腐ったいぬよ、以下を返答してご覧?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

―――――――――――
2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が為されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、”蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”との文言からすれば
”日興上人仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)”と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

どーぞ、クズちゃん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。144  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月21日(木)23時47分59秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下の件については少々看過できない。
―――――――――――
> >Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の
> >南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。
> >(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)
>
> >(と、再三の破折にたいし、未だ反駁がされていない。という事実)
>
> 阿呆。この前段で坊や自身が挙げておるではないか。誰でもいいのだよ。(^o^)
> 法主でなくてはならんとは蓮祖・興師は仰せではないわ。(^o^)
> 事実、法主でもない「日蓮正宗」(当時このような名前さえ存在しないが(^o^) )坊主が
> 平然と御本尊を書写しておる。(^o^)
―――――――――――
→これについては、既に完全に破折が為されている。

以下、日顕上人の御指南と、慧妙に於ける破折論文に若干の編集加筆をし、掲載する。
―――――――――――
学会の邪義

▼相承を受けていない者による「本尊書写」の事例さえ、古来より宗門の歴史に記録されているのです。
 具体的には、日興上人、日目上人の時代に、死ぬまで相承を受けなかった寂日坊日華(本弟子六人のうちの一人)が八体の御本尊を(堀日亨※1「旧版富士日興上人詳伝」妙蓮寺寺宝目録より)、更に富木日常(常忍)も二体、日高が五体、日朗が五体、日仙(本弟子六人のうちの一人)が一体(日目上人滅後に更に三体)、日大が一体の御本尊を書写して判形まで書いているのです。(富士宗学要集第八巻 P.214 等、日蓮聖人門下歴代大曼陀羅本尊集成)
 このうち寂日坊日華(日興・日目両上人入滅の翌年の建武元年1334年に没)と日仙は最後まで富士門流にあったのですが、日興・日目両上人の存命の間に御本尊を書写しており、そのことが問題とされた記録は一切無く、逆に日興上人は入滅の年も日仙とともに令法久住のために戦っていた記録が残されているのです。(富士宗学要集第五巻 P.190 日興上人御遺跡の事)
 これらの事実から、当時は御本尊書写は決して相承を受けた者に限定されていなかったのです 云々。
―――――――――――
日顕上人御指南

■寂日房日華師や日仙師、これはたしかに興門本六の方々ですけれども、この方々が本尊を書写したということを言っております。
しかし、日華師筆と伝えられる本尊について日亨上人は、同書(※1)において、はたして正筆か否か疑義を呈しておられるのに、敢えてそのことを隠しているのは不正直と言うほかありません。
日仙師などは讃岐に行かれているのですから、これは当時の遠隔地の弘通において、交通等の事情によって、原則的には唯授一人の付嘱の書写ということに限っておるのですけれども、日興上人が弘通者として相当すると見極められ,法門相承の真義を受けたと認められる者に対して,特に許可されたということがあったのであります。
しかしそれは、その時々の状況によっておるわけである。
 そういう、血脈相承を受けていない者でも本尊を書写したことがあり、しかもそれが一般的な形で、ずっと流れとしてあったように言おうとしておるわけですが、学会の言う

▼「御本尊書写は決して相承を受けた者に限定されていなかった」

などということは、中心・基本に背いた暴論であります。

 これはあたかも、爾前経を云々して法華経の正意を否定するようなものであります。
つまり、爾前経は方便の形で説かれたけれども、本筋は法華経にある。
三世常住の法華経という本門の上から見れば、法華経は久遠以来、一貫した本仏の悟りであり、真実の教えである。
それに対して、時どきに出世された仏が爾前経を説かれるわけであります。
しかし、最後には真実の教えである法華経が説かれてくるのです。
 その化導の全体を御本尊書写の上より見れば、本筋の唯授一人血脈相承がまず厳として存在する。
そこから必要に応じて、ある時期においては方便としての「許可」が現れたけれども、ついにはきちんと元の正しい在り方へ戻ることになるのです。
また、実際、今はそのとおりになっておるわけです。
(中略)
 要するに、学会の『ニセ本尊』は、在家が勝手に出しているということが、まず第一に挙げられます。
在家乃至その団体が血脈上の御本尊を勝手に出したことは、正系門家すなわち、日蓮正宗においてはかつて例のないことであります。
したがって、まさに大謗法行為であるということが言えます。
―――――――――――
学会の邪義

▼歴史上の事実として、判形も加えた本尊書写が行なわれていた例もある。
―――――――――――
《破折》

 学会は、判形を加えた本尊書写も行なわれていた事例がある、として、日興上人の時代の例などを挙げる。
 だが、※2『当時は、いまだ一宗建立の初めの時期であり、大聖人の御正意が明確に体系化して周知されていなかったため、ある程度、用捨宣(よろ)しきに随う寛容をもって許された面が存している。』
御本尊書写についても、付弟(ふてい)一人に限る≠ニいう御本意が、しばらくの間は門下に徹底されておらず、だからこそ、御遷化(ごせんげ)の近づいた日興上人が、わざわざ御弟子方に
「付弟一人これを書写し奉るべき由」を「御遺誡」になり(日尊師の文書より→「富士門跡は付弟一人之を書写し奉るべき由、日興上人御遺誡なり」(日宗全二―四一八)、
また日有上人の『化儀抄』で、末寺の住職は、自分の弟子や信徒のために仮本尊を書写してもよいが、判形を入れてはならない。判形を入れた真正の御本尊書写は御法主上人だけに限られる≠ニいう旨を明示せられたものと拝するのである。

 しかして、この義がハッキリと周知されてから後、御法主以外の者が、判形も加えた本尊を書写することは

■ 「謗法と申すは違背の義」(新編二二一頁)

で謗法となるが、それより以前の時代の書写の例を捜して挙げてみたところで、※2の時期であるから、日有上人が明確に御指南された以降である今時、創価学会の所業の正当性の根拠に利用しようとしても、全く無駄であり、不可である。

 いずれにせよ、上古の時代であっても、「御法主上人の許可なく、一般僧俗が自由に本尊書写をしていた」などという文献的な証拠など全くない。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。145  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月22日(金)11時16分16秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

駄犬、随分と”口数”が少なくなってきたではないのか?呵々大笑。
いよいよ道理・文証に則っての、論理的・教義的な反論不能状態が極まってきたな。
(と、書いておくと、またぞろ、自分が反論不能な箇所は黙殺し、触れないことに、見なかったこと(呵々)にして、既に破折されきっていることを、壊れたCDプレーヤーの如くに、何度もエンドレスに繰り返し騒ぎ出すから、これまた、見ものである。)
駄犬の投稿には、教義的に新しい反駁内容など全くなく、読む興味が実に湧かない。
それは、また、日に何百回とのアクセス回数を数える、読者の方々に於いても同様の感想でありましょう。

しかし、今回もまた、摩り替えの典型的なパターンを見せてくれる。
最近の駄犬の有様は、格闘技で言えば、コーナーに追い込まれて最早、”人間サンドバッグ状態”になっているのだが、時折、一瞬の間隙に、凶器をパンツから出してきては、チョロっと使おうとして、それをもまた、叩き落される・・・とでも言った光景が浮かんでくるほどの、無様さである。呵々。
そして、セコンドは、「やまいぬ。!まだまだいける!樋田は弱っているぞ!お前が勝ってる。ポイント稼いでいるぞ!」とか叫んで、”応援”しているのである。
実に楽しい光景である。呵々大笑。

では、この項の駄犬の姑息なすり替えを”叩き落し”ますか。
―――――――――――
> >更に、追撃すれば、「南無―― 日蓮在御判」とある本尊は、大聖人様御自筆いわゆる
> >「蓮祖御図顕」の御本尊には在り得ない。
> >大聖人様御自筆御本尊は「南無妙法蓮華経 日蓮 花押」であるからである。
> >(もちろん、全てがこの形ではないが、「在御判」 の意味するところは、歴代の御法主
> >上人が戒壇の大御本尊の御内証を「書写」される時に「戒壇の大御本尊にはこの箇所に
> >大聖人の御花押=御判が「在」られる。」という意義であるから、駄犬の言う「南無――
> >日蓮在御判」との本尊とは、大聖人以外の「書写」本尊のことであり、駄犬が口癖の
> >ようにほざいている「蓮祖御図顕の本尊」とは全く違う。呵々大笑。
>
> 呵々大笑呵々大笑呵々大笑呵々大笑呵々大笑。(^o^)
> はい、今度は興師全否定。(^o^) 落ちぶれたな、樋田昌志くん。(^o^)
> 興師書写本尊の中には、「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と書かれているものが
>
> あるのだよ。(^o^) 坊や、興師は蓮祖御図顕本尊に叛いて、オリジナル本尊を書いた
> とでも云うのかね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→人間、幾ら追い込まれたといったって、良くぞここまで姑息・卑劣・愚劣・下劣・老獪・醜悪・・・になれるものか、と感心する。

昔、中学時代、市中陸上 というイベントがあって、長野市内の全ての中学校の3年生から、各学校ごとに選手を選出して、競い合う競技会があり、当方は2000m.走へ出場したのだが、そのレースで、8周目まで二位に着けて置き、あと二周の時に一気に首位に出て、抜けきろうとしたそのコーナーで、なんと、そのそれまで首位を走っていた彼が、当方の腕を必死にもがき掴むのである。!
長野市中の中学3年生がほぼ全員注視している、その衆人環視のトラックで、である。(今考えれば、その行為自体「反則」であるから、審判に申告すれば、彼は「失格」であった、訳だ。)
その時のそのスポーツマンにあるまじき行為に(人生で汚れた今よりももちろん純粋で正義感が強かった当時の当方は(^_^;)驚愕し、激怒したことを思い出す。
駄犬のすり替えを見ていたら、この当時のことをふと、思い出した。・・全く同じだ・・と。
(この彼、その後高校で同じクラスになり、卒業後は、なんと、なんと、一浪してT大へ合格した・・・との、おまけの後日談までついてる(^_^;))

・・・年末、まっ、「忙中閑あり」・・で、少々、思い出に浸った。

さ、ほんとに、本題にいきますか。
―――――――――――
当方の破折の趣旨が飲み込めていないほどの、馬鹿 のようである。
駄犬は、かつてこう言った。

▼どの坊主が書写したものであれ、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」に変わりなし。

これに対して、当方は再三、「御図顕御本尊」と「書写御本尊」の違いに迷乱する駄犬を呵責してきた。

http://toyoda.tv/yamainu2.htm      29 87 98 113 115 118 124 128 129  等(読者の方々には再度参照されたし)

その最たる証拠は

※1 「蓮祖御図顕の南無妙法蓮華経 曼荼羅」には   「花押」
※2 「書写御本尊」には                    「在御判」

とあり、ここにはっきり、「蓮祖御図顕本尊」と「書写本尊」との相違点がある。
更に詳細に言えば、「花押」があられる御本尊こそが、「蓮祖御図顕本尊」である。※3
(ただし、御筆による御本尊は「書写」と「模写」とがあり、今回の論点は、「書写」と「図顕」の相違点である。)

であるから、書写本尊をそのまま蓮祖御図顕本尊と認識することは大なる過ち・妄想である。と指弾しているのである。
ましていわんや、日寛上人が「蓮祖御図顕本尊」を「書写」された「書写御本尊」を勝手に撮影・改竄・印刷・販売 している掛け軸に見せ掛けた、一枚多色刷りプリント柄の 物 など、「蓮祖御図顕本尊」とは程遠い、魔札 である。

さて、この論点に、今回の駄犬の反駁は?といえば、実に滑稽かつ、姑息である。

1、日興上人も、「花押」はお書きでない。つまり、日興上人が「蓮祖御図顕本尊」を書いていない。
(当たり前すぎるくらい当たり前である。何故なら、既に、破折し切っているが如く、
「蓮祖御図顕本尊」とはその字の通り、「大聖人が御図顕された御本尊」ということであり、そのまま、大聖人以外には顕し得ないことは、子供でも分かる道理である。)
であるから、今回の論点、※1※2※3 に於いては、駄犬は全く反論できていない。

その上で、

2、「聖人」とのお認めには、我々、御本尊書写の深義を知らぬ者には、知り得ない、深慮があられる。

文証

■此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。
(因みに、この箇所は一線であり、義に於いて支吾無き箇所である。)

以下、後加文について

■日淳上人:
「相承書の後加は、これを受けた方が書かれたのであること。また、その受けた方の時代、正法を護るべき必要性から書かれたのだから、本趣旨、または、それに準ずべきものとして拝さねばならない。また、そこに法門相伝書たる特質もある。」
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで
僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

▼【池田指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

更に、

■「辨惑観心抄」日応上人219
此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人と云ふ、(中略)故に予は断言す汝等か山は不相伝なり無血脈なりと宜しく猛省すへし。

それこそ、駄犬、その姑息で醜怪な”顔を洗って出直すことです”呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。146  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月22日(金)15時26分28秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、出ました。
前から、徹底的に破折して置きたかった、箇所。
―――――――――――
> 久遠元初の三宝否定。(^o^) 坊や、堕ちるところまで堕ちたな。(^o^)
―――――――――――
この「久遠元初の三宝」これについて、駄犬の大矛盾を突く。
かつて駄犬はこう言った。

―――――――――――
▼あのねぇ樋田くん? ※1「久遠元初の三宝とは絶対信の対象」だよねぇ?
その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)

上記した堀日亨上人と同じだ。
※2「寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?」
「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を
顕された※3「蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。」
「戒壇の大御本尊様こそ根源」だと主張したいのだろう?
ならば「※4「蓮祖・興師の言で充分可能だわなぁ?」 はいどーぞ。(^o^)
―――――――――――
→この駄犬の※1 2 3 4 の主張を整頓すると

→絶対信の対象 は
→久遠元初の三宝 であるから
→蓮祖・の興師文証のみしか信じれない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その中には当然、日寛上人・日亨上人も含まれる。

ところが、である。

1、※1「久遠元初の三宝」なる表現は常に駄犬が拘る「蓮祖・興師の文証」には存在しない。
(当方の知る限りであるから、もしあるのなら提示してくれたまえ。素直に不勉強を詫びよう。だが、まず無理である。無いんだから。呵々大笑。)

2、この※1「久遠元初の三宝」との語と概念は、駄犬が※3※4と侮蔑する日寛上人の御指南に於いて初めて出現するのである。
(当然、この教義信条は上古からの文献に垣間見ることはできるが、こうして明確に体系的に表示されたのは日寛上人が初めてである。)
中でも駄犬が根拠にしたい箇所はここであろう。

当流行事抄
■『久遠元初の仏宝豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり。(中略)
久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり。(←ここは、駄犬には都合があまり良くない箇所であるが。呵々)
(中略)
※5『久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。』

中でも特に拘りたいところは※5「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」であり、日興上人以外の御歴代上人を無視する根拠としたいのである。

3、だが、この※5「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との内容表現は「蓮祖・興師の文証」には皆無である。
御書には、僧宝の総括的な定義はあるが、それが、”日興上人そのものである。”とは全く明示されてない。
日興上人御自らも「我は、久遠元初の僧宝である」などと、大々的に仰せになられていないのである。

4、ここに駄犬の大いなる自己矛盾・論理破綻が炸裂する。呵々大笑

先ほどの駄犬の主張の図を再度点検してみよう。

→絶対信の対象
→@久遠元初の三宝 であるから
→A蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その中には当然、B日寛上人・日亨上人も含まれる。
→ところが、駄犬がAとした根拠である@「久遠元初の三宝」との御指南は、駄犬が信じない、用いないと軽侮したBの日寛上人の御指南なのである。
→しかし、駄犬はAであり、「蓮祖・興師の文証」しか、用いないはずである。
→でも、そのA「蓮祖・興師の文証」しか用いないとする根拠の「文証」は駄犬が信じないはずの「蓮祖・興師」以外のB日寛上人の「文証」なのである。・・・・・・

呵々大笑。

当方は別に「循環論法」とやらに興味関心はない。
が、この駄犬の「大矛盾の無限ループ」は、どうしたら解けるのか?
さ、駄犬、この矛盾を「蓮祖・興師の文証のみ」で論理明快に解いて見せてくれたまえ。呵々大笑
できなければ、公式に謝罪して脱会は無理だろうから、せめて、
「自分が今まで書いてきた物は全て邪義でした。反論不能です。二度とこの板に来ません。ネット上でも悪さは致しません。どうぞお許し下さい。」
くらいの詫び状を書け。いいな。(-。-)y-゜゜゜

どうせ、道理・文証に則った反論は不可能なのだから、いつまでもみっともなく足掻いていないで、いい加減、きちんと謝罪して、詫びをいれたらどうだ?呵々大笑。
駄犬サイドのお仲間のはずの”セコンド”連中も、駄犬へは面と向かってはなかなか言えないが、(だから当方へ、もう止めた方がいいんじゃない?などと遠まわしに言ってくるのだろうが。呵々)これ以上駄犬が足掻いていると創価学会の面汚しになるから、いい加減止めて欲しいと思っているんじゃないのか?呵々大笑。
せいぜい、味方からタオル投げ込まれないうちに、潔く土下座して全面降伏したら?
もし、駄犬がまだ当板で往生際悪く、足掻き燻り続けるのなら、以前の駄犬の恥論が山ほどあるので、それを全て突き崩し、”標本”として晒しものにしていくだけである。
素材は大量にある。
駄犬は恥を更に募らせるだけである。
もし、それが耐えられないのなら、駄犬が詫び状を書いて降伏するならば、武士の情けでその大量の恥論を暴くのを留めてあげよう。
どちらでも、好きなほうを選びたまえ。
当方には駄犬に比べて相当量の自由な時間があるので、駄犬の痴難を劈いていくことなど、さほど苦痛ではない。

さ、駄犬がどっちを選ぶのか、実に楽しみである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。147  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月25日(月)22時50分59秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君

http://toyoda.tv/yamainu2.htm  146段

に対しての回答はまだかね?(-。-)y-゜゜゜
もし、出来ないなら出来ないと素直に投稿したら如何か。
人の板へ土足で上がりこんできて、言いたい放題の恥言を喚き散らしてきたのだから、反論不能で遁走する前に、一言、お詫びを入れるのが筋ではないのか?
”犬”だからそういう礼儀・礼節も弁えていないか?

■教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。

この御文にわが身を照らし、人間として恥かしくないのか?
常に、「蓮祖・興師の文証!」と騒いでいる割には、実践が伴わないではないか。
やはり、御文の通り、

■はかなきを畜という。

で、畜生の根性に堕ち果てたか。呵々大笑

さ、反論するか、謝罪するか、明確にせよ。

貴公に倣い期限を設定する。
妄犬マゴマゴ君と同様、
27日午前0時まで。

さ、頑張れ。
このままでは、気持ちよく年越しが出来ないぞ。呵々大笑

それと、最新の破折をUPしておいた。
いい記録になったよ。
感謝する。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。148  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)10時45分44秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

有り難い事に、こうして入れ替わりに破折の為のトレーニングの相手役が現れてくれる。
では、始めますかね。
今回駄犬の自語相違のオンパレードで実に面白い。
―――――――――――
> DATE: 12月27日(水)18時33分20秒
> TITLE: 津村舟作くん&樋田昌志くん。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:

> 続いて私に対する難癖のつもりで書いた
> >「久遠元初の三宝」なる表現は常に駄犬が拘る「蓮祖・興師の文証」には存在しない。

> が、そのまま「二箇相承」を根拠として「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」
> と明言した寛師否定になることを論証された。
>
> 対して樋田昌志くんは、

> >A「富士門家の伝統を脱し、先師・先哲に反する発明教学はありえない。」のだから、
> >B「当然、この(→注 日寛上人の「久遠元初の三宝」との)教義信条は上古からの
> >文献に垣間見ることはできる」

> この3行だけなら破綻はない。が、そもそもの

> >「久遠元初の三宝」なる表現は常に駄犬が拘る「蓮祖・興師の文証」には存在しない。

> は、見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→あまりにも駄犬、頭が悪いので、これ以上見過ごせない。
この辺で一端切りますか。
さて駄犬、頭があまり良くない方なのに、無理して首を突っ込むと、また”標本にされ晒される”ことになるぞ。呵々

1、146段は、そもそも、「蓮祖・興師の文証」の”文”のみに拘る駄犬の矛盾を突く為に立ち上げた数多くの論段の内の一段である。
今までの駄犬への、この『「蓮祖・興師の文証」の”文”のみに拘る駄犬の矛盾を突く』箇所を例示してみよう。
駄犬が如何に姑息なくせに、正当な反論が出来ていないか一目瞭然である。
―――――――――――
文証

★「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬に、
反詰して曰く、
※1「では重宝が伝持・相伝されていることが正しくない、とする文証を挙げてみよ」
また更に踏み込んで
※2「在家が勝手に開眼のないニセ本尊を販売する創価学会の行為が正しい、という文証を大聖人・日興上人の文証のみで挙げてみよ」

現証

日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、
"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば
”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということである。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理である。
―――――――――――
以上の件について駄犬は正当な道理・文証・現証に依って反論していない。
まず、年末の大掃除である。一つづつ片付けていこうか。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。149  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)10時58分39秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下の点についても駄犬からは未だ正当な反論が為されていない。
きちんと片付けてもらいましょうか。
―――――――――――
論証

@駄犬は常に、「唯授一人・血脈相承の「御内証」を明示しろ。」と馬鹿騒ぎしているのだから、「内証」というものの内容が明示できると思い込んでいる。
Aまた、駄犬は「内証」の内容を明示できなければ、その存在を否定する、という立場を貫いている。
Bであるならば、大聖人の御文中の「内証」との文言があれば、それについて、これも駄犬の固執する「蓮祖・興師の文証」を以って摘示できなければ、大聖人の御文中の「内証」との文言の意義の存在をも否定することになる。
C駄犬は「蓮祖仏法」を心より信奉している(つもり)なのであるから、まさか、大聖人の御言葉の一言一句なりとも否定もしくは無視はできないはずである。
Dであるから、駄犬は是が非でもこの御文内の「内証」との文言の内容について、文証を以って明証しなければ、自らの主張を貫くことはできない。
Eつまり、「「内証」の内容を明示せよ。」などと、他に向かって決して言えない道理になる。
Fであるから、まず、当方の主張を否定する根拠として、以上@〜Eの事由により、駄犬は自ら「内証」について明示する責務がある。

では、この筋道を踏まえて再問する。

■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か。

「蓮祖・興師の文証」を以って明示して見せよ。

それが出来なければ、駄犬の当初から愚問全てが、その前提根拠を失い、全く失当である。
―――――――――――
→因みにここで付言しておくが、当方は「内証」そのものを論証する、と言ったことはかつて一度も無い。
―――――――――――
例示

■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。

とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か、
この「内証」こそ、駄犬が「モノ」と蔑如する、戒壇の大御本尊の、その御内証の御ことである。
因みに戒壇の大御本尊を離れてその「内証」は存在し得ないのである。
―――――――――――
→はい、では駄犬、

■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か。

「蓮祖・興師の文証」を以って明示して見せよ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。150 祝150回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)11時05分41秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今回、駄犬は以下のように書いて当方を非難した。
―――――――――――
> >「久遠元初の三宝」なる表現は常に駄犬が拘る「蓮祖・興師の文証」には存在しない。

> は、見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→では、かつて駄犬が書いた以下の文言は▼「見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)」
この矛盾。大いなる自語相違について明確に「蓮祖・興師の文証」のみで反論して見せよ。
―――――――――――
駄犬の既述文

だーから寛師はどれほどの折伏弘教をしたというのだね?(^o^)
先に挙げた通り「後の五百歳」は、寛師存命時にすらとうに過ぎておるのだよ。(^o^)
折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)
―――――――――――
→年末駄犬にとってはまた忙しくなるな。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。151  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)11時44分9秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今回の投稿と過去の駄犬の言を引き比べてきると、実にどこを見ても自己矛盾満載である。呵々大笑
―――――――――――
> >※1『「久遠元初の三宝」との”語”と”概念”は、駄犬が※3※4と侮蔑する
> >日寛上人の御指南に於いて初めて出現するのである。』
> >※5『”「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」”との”内容表現”は「蓮祖・
> >興師の文証」には皆無である。』
>
> と相変わらず言い訳しておるが、「文証」とはそもそも、「そのものズバリを書いてある
> 文証を出せ」と問われない限り、ちゃんと真っ直ぐにそれを証明する根拠でありさえ
> すれば、そのものズバリでなくていいのである。(^o^)
―――――――――――
→と言いながら、自分ではかつて以下のように、▼「そのものズバリを書いてある文証を出せ」と拘って、自説を主張していた。
―――――――――――
▼1駄犬のかつての言

「過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の
血脈相承とは云ふなり。」
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か。」
「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。
信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。」

▼「唯授一人血脈相承」も「戒壇本尊」も一っ言もない。(^o^)
―――――――――――
→この幼稚で浅はかな論法よって、駄犬は「唯授一人・血脈相承」の厳たる存在と「戒壇の大御本尊」が大聖人の出世の本懐であることを否定している。

このように、駄犬は自らは、▼「ちゃんと真っ直ぐにそれを証明する根拠でありさえすれば、そのものズバリでなくていいのである。」との態度ではなくして、まさに、▼「そのものズバリを書いてある文証を出せ」と偏狭に拘っていたはずである。
であるから、当方は、●「久遠元初の三宝」そのものズバリの文言や概念は「蓮祖・興師の文証」にない。と、駄犬の立論の根拠をそのまま踏襲したのである。
この駄犬の自語相違の矛盾をそのまま突けばこうなる。
―――――――――――
例文

二箇相承

■    日蓮一期弘法付嘱書   弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
  弘安五年=壬午=九月 日                       日  蓮 花 押
                              血脈の次第 日蓮日興

■    身延山付嘱書   弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法
の衆たるべきなり。
  弘安五年=壬午=十月十三日                  武州 池上
                                     日  蓮 花 押

▼この中に「久遠元初の三宝」は一っ言もない。(^o^)
―――――――――――
→ということは上記の▼1の論法からすれば「久遠元初の三宝」の存在や概念を否定することなる。
それはそのまま、
▼「見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)」
つまり、駄犬は、自分では人に
▼「蓮祖・興師の文証で」
▼「そのものズバリを書いてある文証を出せ」と偏狭に迫っていたくせに、その同じ論法の刃を自分に向けられると、今度は俄かに態度を急変させ、
▼「ちゃんと真っ直ぐにそれを証明する根拠でありさえすれば、そのものズバリでなくていいのである。」などと、逃げを打つのである。

今更始まったことではないが、実に狡猾・姑息・悪辣・卑怯・卑劣・下劣・愚劣・醜悪・な下衆根性である。
ここもニセ本尊の害毒が脳髄に回るとこうなる、というよき”標本”である。
読者におかれてはよくよく注視すべき箇所である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。152  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)13時49分16秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここで、駄犬の自己矛盾を突く作業ばかりでは余りに価値的ではないので、「問答対論に於ける方規」を日亨上人の御指南に拝してみよう。
(重要ポイントと思われる箇所には記号を付した)

抑(そもそ)も教法教理の是非邪正を論難問答するには  『必ず道理文証現証の三者』  に依らずんばあらず、
此の三者は問答対論上・教法教理の是非邪正を決定すべき方軌にして之れ  『仏法の通規』  なりとす、
故に  『此の方規に則らざる論難問答』  なるに於ては縦令(たとい)  『口角泡を飛ばし千万言を費すとも亦筆を禿にし長日間の語を列ぬるとも、到底弁論の停止する所なく論旨の明晰を得ず法理の邪正をも決する能はざる所なり、』
斯くの如きは所謂(いわゆ)る水掛論なるものにして何の益する所なく寧ろ  『有識具眼者の嗤(わらい)を招くに過ぎず、』
故に其の筆端と口頭とを問はず  『法理の是非邪正を討窮する者堅く此の方規を遵守すべきなり、』
而して此の三者の方規たるや倶に相須(ま)って離るべからざる者と雖も亦自ら浅深次第のあるあつて存するなり、
我宗祖大聖曰く  『仏法を試るに道理と文証とには過ぎず又道理文証よりも現証には過ぎず』  と金語誠に以(ゆ)へあるなり。

→そして、以下は、阿部慈照師 と 什門の 本田日生 との対論を比較され、両者の姿勢を論評されている。

今阿部師と本多氏との法論に徴するに果して如何ぞや、抑も両論者の論旨を検按するに

本多は屢々(るる)論題外に奔逸し・・・・・論旨滅裂し意義支離す、・・・・・事実詮索の杜撰(ずさん)・証拠引用の誤謬なる論旨一も立たず、且つ問答対論上の方規には毫(いささか)も箝(かん)当せざる冗言贅語を哢するに過ぎず、大体より言へば彼れの論旨は空理の一端にして恰(あたか)も蛙鳴蝉噪(蛙が鳴き、セミが騒ぐ)の類のみ。

之れに反して阿部師の弁論や
論格整々として語調乱れず意義最も明白なり、・・・・事実を列挙し、現状を対照して・・・・(※御書を)引証し・・・・・・理文現の三証に照し具さに彼の非法邪義を説明駁撃せられたるは頗(すこぶ)る痛切適切なりとす。

→さてさて、駄犬と、当方の論述は如何に。
そして、日亨上人は結論としてこう仰せである。

倩(つらつ)ら阿部師の論旨と本多の論旨とを対照し孰(いず)れか宗祖の本懐に適ふや否やは  『正確なる道理文証現証に依る』  に加くはなし、
蓋し法論当日満場大多数の聴衆が阿部師の論旨に感動賛成を表し拍手喝采せるは正に是れ同師の  『論旨が此三者の方軌に依て弁ぜられ』、  本多の論旨顕本の所立が邪にして富士派の法義が正なりと判定せるに外ならざるべし、
依て読者も亦此の正確なる標準に憑り此書を看ば両者の邪正是非を知ること掌中の菴羅菓(あんらか)を見るよりも容易に明かならん、
故に予輩編者は喋々冗言をなさず
余は  『有識具眼者の判定に一任せんのみ』、  之れを結論となすと爾か云ふ。

→さあ、果たして駄犬の記述と 当方の論述とでは、一体どちらが、『正確なる道理文証現証に依る』 のであろうか。
『有識具眼者』のご意見を聞いてみたいものである。

 

但し  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)13時55分15秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この板で『正確な道理文証現証』を提示できずに好き放題に邪義を吐き垂れている者達は、『有識具眼者』の内に入らないことは、当然である。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。153  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)14時30分40秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次も駄犬の自己矛盾の例である。

今回駄犬は当方を

▼見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

と非難するのであるから、逆に言えば 「自分は日寛上人を否定していない。→御指南を用いる」 ということに為る『道理』である。

だが、かつて駄犬は明らかに戒壇の大御本尊を愚弄・軽賎している。
―――――――――――
例示

1『▼興師・目師の文献のどこにも
> 記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負って
> きたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)』

●これを戒壇の大御本尊誹謗と言わずば、何を誹謗とするのか。
全くの大馬鹿者の"犬"である。
―――――――――――
→では、駄犬が”否定しない”はずの日寛上人はかく
「戒壇の大御本尊は大聖人出世の本懐であり、広宣流布の根源である。またその戒壇の大御本尊坐す総本山を本山として尊仰しなさい(趣意)」
と仰せである。

■弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

■問う、文底深秘の大法、その体如何。
  答う、則ちこれ天台未弘の大法・三大秘法の随一 ・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記二十七三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を 以て閻浮提に広宣流布せしめん」等云云。故にこの本尊は広布の根源なり。

■又云わく「何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや」と云々。
 今謂わく、嗚呼我慢偏執抑何の益有りや、富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。
 一には富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を禀く、須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云々。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云々。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。

■今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」

●戒壇の大御本尊を求めないやまいぬ。痴犬は、かく日寛上人に
浅ましい=1 品性が卑しい。さもしい。下劣だ。 2 見苦しく情けない。嘆かわしい。 3 身分や姿形が卑しい。等と厳しい叱責を蒙っているである。
―――――――――――
→では、日寛上人を否定しない(はずの)駄犬は、上記の日寛上人の仰せを認める。ということでいいのだな?

「はい」→戒壇の大御本尊を※1のごとく誹謗したことを公式に謝罪せよ。更に脱会し総本山へ参詣し三門前で土下座して戒壇の大御本尊へお詫びをせよ。

「いいえ」→日寛上人を否定しない。(←道理の上で斯く為る)としながら、その御指南を守れない。←我意我見・慢心・不信・驕慢・頭破七分の姿であり、堕獄必定の一闡提人であることを自ら認めよ。
その上で今までの自語相違の非礼を詫び、永久に当板に来るな。

さあ、駄犬がどのようにこれを言い訳するか、見ものである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。154  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)19時01分34秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

どれ、以下の恥言にお付き合いして、駄犬と妄犬マゴマゴ君、両人を劈きますか。呵々
―――――――――――
> 恐らく相当ウンザリされながら、マグ様は続いてこう仰せだ。

> 「あなたの講釈などどうでもよいことです。
> ―――「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との内容表現は「蓮祖・興師の
> 文証」には皆無である。
> と、あなたはお書きになった。
> では、寛師は何を根拠に「久遠元初の僧宝は開山上人である」と書き残しておられる
> のですか?
> あなたによると「蓮祖に文証はない」はずですが、、、?」
>
> 正鵠を得た問いである。(^o^)
―――――――――――
→あまりに単純且つ幼稚な愚問であったので後回しにしているうちに、妄犬マゴマゴ君がいきなり「敗北宣言」したのである。
(が、当方はこの不遜な「敗北」など認知しない。後で更に妄犬マゴマゴ君を呵責する予定である。)

では、破折

簡単である。
日寛上人は「義」に依って「文」を判じたのである。
この「馬鹿二人組み」は「依義判文」 という原理すら知らないらしい。呵々大笑
しかしてこの「義」の根本とは何か。
総じては御相伝書、別しては唯授一人の血脈相承の御法門である。

文証

★3『■※1『明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る。』(中略)
而も亦謂えること有り、
2『文証無くんば悉く是れ邪偽なりと。』(中略)
故に※3『開山上人の口決に慣って謹んで三大秘法の明文を考え、而して文底秘沈の誠証に擬し、』以て後世の弟子に贈る。

1=「道理」を主体とした概念
2=「文証」を主体とした概念
この一見相克するが如きの※1の「道理」※2の「文証」がそのまま相まって矛盾無き教義解釈を為すには、※3唯授一人・血脈相承の奥義の法門から一切の文を判ずる以外ない。

日寛上人が唯授一人・血脈相承を明証為されている文証

■具に此の本因本果の法門を尋んと欲ば、今二十四代伝て大石の精舎にあり金口の御相承切紙相承其の外種々の御相伝有るげにありと云云。
■「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」 』
―――――――――――
その上で馬鹿二人組みには反復学習が必須のようであるから、繰り返し教えてやるが、

●「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との内容表現は「蓮祖・興師の文証」には皆無である。

まさにそのままである。
特に今回の論議の俎上に載ることになった二箇相承の文内には、まさに『●「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との内容表現』はない。
それが事実そのままである。

二箇相承 全文

■    日蓮一期弘法付嘱書   弘安五年九月  六一歳
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
  弘安五年=壬午=九月 日                       日  蓮 花 押
                              血脈の次第 日蓮日興

■    身延山付嘱書   弘安五年一〇月一三日  六一歳
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法
の衆たるべきなり。
  弘安五年=壬午=十月十三日                  武州 池上
                                     日  蓮 花 押

@ この御文のどこにも、「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との表現はない。
誰が見ても一目瞭然である。

更に詳細に解析

@ 「久遠元初」 との表現及び概念が文の上にない。
A 「僧宝」 の意義・概念 が文の上にない。
B 文の上から明白に領解できることは、「日興上人が大聖人から一切の仏法を承継して「本門弘通の大導師」「身延山久遠寺の別当」とのお立場を命ぜられた。」というとだけである。

A しかも駄犬はまだ錯誤しているが、日寛上人の仰せの中、二箇相承は■「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との義の直接の証文ではなく、
「六老僧内で第3番目の位置である日興上人が、何故大聖人からの結要付嘱を受けるという、最上首の位なのか?」
との問いに対する答えに引文された文証である。
http://toyoda.tv/magomago.htm 17段 に詳しい)

Bしかし、@Aはあくまで一往・附文の辺であり、再往・元意の辺からその他の御文等と併せ拝すれば、■「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との義が内包せられていることは当然である。

Cこの146段の論題の趣旨は、既に 148 149 151等で指摘した如く、そもそも、「蓮祖・興師の文証」の”文”のみに拘る駄犬の矛盾を突く為に立ち上げた数多くの論段の内の一段である。
であるから、あくまで、★1『一往附文の辺の「文」そのもの』について論じているのであって、★2『再往元意の辺の「義」について』は触れていない。
馬鹿二人組みはこの★1★2のけじめ、縦分けが分からず迷乱しているだけのことである。(しかし、馬鹿をしかも二人まとめて相手すると本当に世話の焼けるものである。ヤレヤレ(ーー;)

D日寛上人は、二箇相承をはじめ大聖人の御書中のどこにも★1においては存在しない「久遠元初の三宝」「久遠元初の僧宝は日興上人」という★2としての「義」を★3の道理に依って「依義判文」せられ、「初めて明確に体系化されて表現」為されたのである。(ほんと馬鹿相手は疲れるわ。ヤレヤレ(-_-;)

馬鹿二人組みは以上の論証に明確に三証を以って反論できなければ、正式に謝罪せよ。
ほんと、躾けの為っていない馬鹿相手にすると骨が折れるものである。ヤレヤレ(-_-;)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。155  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月28日(木)21時32分40秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

年末の馬鹿の大掃除ついでに、とどめの一題。
今まで再三再四論撃しているにも拘らず、全くの反論不能状態に陥っているやまいぬ。が実に大馬鹿者であるという証拠案件。
―――――――――――
> そうか、坊やは文証の出し方そのものが解かっていないのだわなぁ?(^o^)
―――――――――――
→そういう駄犬に以下の如くの詰問を再々再度追撃する。(もう何回目だ?馬鹿犬君?ほんと馬鹿相手にすると世話が焼ける ヤレヤレ(-_-;))
もしこれに返答できないのなら、以下の如くの謝罪文を「やまいぬ。」名で投稿し、以後二度と当板にその醜面を晒すな。
―――――――――――
> 何度も云うてやった。
> 蓮祖・興師の文証では不満・不足なのだな、坊や?
> 自分の言葉で云うて御覧?(^o^)
―――――――――――
→では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
出来るものならやってごらん。
実に大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
駄犬風に言うと、

”全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ創価学会員・やまいぬ。よ。(^o^) ”

である。呵々大笑
―――――――――――
→では期限を設定する。
30日午前0時までに再三再四論撃してきたこの問いに道理文証現証を明確にして返答できない場合は、以下の謝罪文を投稿せよ。

謝罪文(草案)

★「私ことHN「やまいぬ。」は、樋田昌志氏との公開文書対論に際して、一例として万年救護御本尊の御相貌に関する意義等を「蓮祖・興師の文証」に依って説明できませんでした。
これは、私ことやまいぬ。が常に樋田昌志氏に向かって要求していたことを、自分では実現できず、論理破綻したことを認めます。
大変、申し訳ありませんでした。
他にも幾多の回答不能の論題もあり、それも全て私ことやまいぬ。が反論不能状態に陥ったことを認めます。
本当に、申し訳ありませんでした。
これを反省して、もう二度と邪義は述べません。
貴板へも、二度と投稿を致しません。
ですから、どうかお許し下さい。
脱会だけは勘弁してください。
宜しくお願い致します。
やまいぬ。」

じゃ、頑張れ。
ほんと馬鹿を駆除するのは疲れるわ ヤレヤレ(-_-;)

 

お知らせ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 2日(火)10時23分8秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君 への呵責 最新版をUPしました。
これで、やまいぬ。君完全に反論不能で、今回が”更新最終回”になるかもしれません。
また、仮にやまいぬ。君が必死の形相で言い訳と、摩り替えに懸命になるのを見るのもまた一興かと。

@  http://toyoda.tv/yamainu2.htm

妄犬マゴマゴ君にも止めを刺して置きました。
この偽善者が教義的に全く反論不能に追い込まれ、取り乱して行く様が秀逸です。
これも、今回が”更新最終回”となるでしょう。
まっ、敗者復活の再挑戦してきても構いませんが。

http://toyoda.tv/magomago.htm

あと、参考までに、やまいぬ。君の狂乱の投稿も纏めて置きました。
@と比較して参照して見てください。
やはり、狂乱振りがよく現れていて結構楽しめます。
あ、それから、↓の中で当方が破折していない箇所があったら教えて下さい。
粉々にして置きますので。

http://toyoda.tv/yamainu.chiron.htm

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。156  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 3日(水)23時00分15秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

久しぶりに書けばこの程度か。
まさに、■「唖法を受けたる婆羅門等の如し。」である。呵々大笑
―――――――――――
> DATE:  1月 3日(水)21時31分20秒
> TITLE: 「前進・勝利の年」、
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> ※1「どうやら樋田昌志くんは、年末も正月もなく、修羅に焼かれて駄文のオンパレードが
> 止まりませんか。3度にわたって自分が首落とされた惨敗記録はなかったことにしてね。」
>
> その他の法華講ちゃんたちは、相変わらず※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、
> 泣き喚くのが精々」だね。
―――――――――――
↑この※1の「駄文」そのものが、※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚くのが精々」そのものの恥言ではないか。
大哂いである。
では、駄犬の矛盾を突く数々のシリーズの中で止めの一段を再掲。
やまいぬ。君は全く反論不能のまま、※1のような強がり・負け惜しみを※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚」いている惨めな醜態をまたもや晒して、恥の上塗りをしただけのことである。
―――――――――――
再掲文

今まで再三再四論撃しているにも拘らず、全くの反論不能状態に陥っているやまいぬ。が実に大馬鹿者であるという証拠案件。
―――――――――――
> そうか、坊やは文証の出し方そのものが解かっていないのだわなぁ?(^o^)
―――――――――――
→そういう駄犬に以下の如くの詰問を再々再度追撃する。(もう何回目だ?馬鹿犬君?ほんと馬鹿相手にすると世話が焼ける ヤレヤレ(-_-;))
もしこれに返答できないのなら、以下の如くの謝罪文を「やまいぬ。」名で投稿し、以後二度と当板にその醜面を晒すな。
―――――――――――
> 何度も云うてやった。
> 蓮祖・興師の文証では不満・不足なのだな、坊や?
> 自分の言葉で云うて御覧?(^o^)
―――――――――――
→では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
出来るものならやってごらん。
実に大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
駄犬風に言うと、

”全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ創価学会員・やまいぬ。よ。(^o^) ”

である。呵々大笑
―――――――――――
→では期限を設定する。
30日午前0時までに再三再四論撃してきたこの問いに道理文証現証を明確にして返答できない場合は、以下の謝罪文を投稿せよ。

謝罪文(草案)

★「私ことHN「やまいぬ。」は、樋田昌志氏との公開文書対論に際して、一例として万年救護御本尊の御相貌に関する意義等を「蓮祖・興師の文証」に依って説明できませんでした。
これは、私ことやまいぬ。が常に樋田昌志氏に向かって要求していたことを、自分では実現できず、論理破綻したことを認めます。
大変、申し訳ありませんでした。
他にも幾多の回答不能の論題もあり、それも全て私ことやまいぬ。が反論不能状態に陥ったことを認めます。
本当に、申し訳ありませんでした。
これを反省して、もう二度と邪義は述べません。
貴板へも、二度と投稿を致しません。
ですから、どうかお許し下さい。
脱会だけは勘弁してください。
宜しくお願い致します。
やまいぬ。」

じゃ、頑張れ。
ほんと馬鹿を駆除するのは疲れるわ ヤレヤレ(-_-;)  再掲文以上
―――――――――――
ほんと、※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚くのが精々」のニセ本尊を有りがたがって拝む、その上、身延のみやげ掛け軸も本尊として信行できるという、まこと頭破七分で僻眼の謗法の一闡提人は、およそ、恥 というものを知らぬようである。

上記再掲文に明確に文証を以って教義的に反論できないのであるから、潔く「謝罪文」を書いたら如何か?
それも出来ぬとあれば、やはりその名の通り、犬畜生 にも劣るゴミだな。 ヤレヤレ〜(-_-;)〜〜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。157  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 4日(木)19時09分45秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここまで教義的にも、論理的にも追い込まれても、まだ悪足掻きする、というのも惨めな姿である。
まっ、いいでしょう。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』との醜態を更に詳細に暴き出してあげましょう。
それによって、これを閲覧される方々には更にニセ本尊の猛毒に対して認識を深くするよすがともなるでしょう。
―――――――――――
> DATE:  1月 4日(木)18時10分40秒
> TITLE: 樋田昌志くん、
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> いいかね坊や? 「什宝云々」で文証出せず、その次の

> 「>●違いませんね。
> >日蓮大聖人様の「御法魂」こそ人法一箇の戒壇の大御本尊様の御ことであり、その
> >「御法魂」こそがそのまま即身成仏させてくださる御本尊の「極意」であり、その「極意」を
> >相伝された方にしか御本尊書写の「権能」がない。
> 確認します。
> まず「>●違いませんね。」の下の3行、※1「蓮祖の文証を以って証明」してください。
> あなたがそう思いたいというだけのことなら、もとより無用です。」
>
> に返答不能、
―――――――――――
1、まず※1「蓮祖の文証を以って証明」とは笑わせる。
では、同じことを繰り返してもつまらないので、別の角度から。

我々が拝することができる「御書」(=駄犬の言う「蓮祖の文証」)には以下の事案に対して一言も触れておられない。
もし、あるというのなら、以下の事案を全て「蓮祖の文証」のみで説明して見せよ。

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、
地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、
大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。

つまり、御書に大聖人様の仏法の全てが表記されている訳ではないことは一目瞭然である。
では上記の事々は全く理解不能なのか、というとそうではない。
まさに唯授一人・血脈相承によって代々の猊下へその真意は御相伝されているのである。
であるから、御歴代上人の御指南に上記の分々の回答のは明確に示されているのである。(詳細は今の本題ではないから略す)
ことに戒壇の大御本尊の御事は日興上人御一人へ密付嘱されたのであるから、総じての辺に於ける広範な御法門を示された「御書」に詳細且つ顕然に説かれることなどあろうはずもないのである。

さて、やまいぬ。君、上記●一切について、
@ 「蓮祖の文証」のみで返答が出来たら、当方も「蓮祖の文証」のみで反論してあげよう。
A もし、それが出来ないのならば、以下の謝罪文を投稿せよ。呵々大笑。

謝罪文

「私ことやまいぬ。は●の全て(略)について、「蓮祖の文証」で説明出来ませんでした。
よって、樋田昌志氏へも「蓮祖の文証」のみで反論を要求することが間違いだったことに気づきました。
今後はそのような要求は致しません。
今までの、無知だったとはいえ数々の非礼、お許し下さい。
大変、申し訳ありませんでした。
どうかお許し下さい。」

さ、やまいぬ。君、@、A どちらでも構わない。
せいぜい頑張りたまえ。
まこと『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』とお付き合いすると、疲れるものである。ヤレヤレ〜(-_-;)〜〜。呵々大笑

 

73さん、ウィンズさんへ  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 4日(木)19時43分51秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

埼玉法論についての 感想・論評 ありがとうございました。

あの両名、あの法論以降、当方から続きの法論を申し込んだのですが、未だに遁走を決め込んでいます。
この一事を以っても彼等創価学会側の敗北は明確ですね。

今年ももし撮影とその映像公開を了承した上で「法論」する勇気のある邪宗・邪義の方が居ましたら、どうぞご紹介下さい。

また、これを読む方々のなかでも、それを臨む方が居られたら、どうぞご遠慮なくお申し出下さい。
条件を整足のうえ是非対面対論を実現しましょう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。159  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 5日(金)06時14分47秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●24・25日と夏期講習でした。
大聖人様尊極の御尊体である戒壇の大御本尊を目の当たりに拝し、※2『御開山日興上人の譲座御本尊の御前で七百年来の法統正しい丑寅勤行に御供させていただき』、そして第68世日如上人が親しく仰せになられた御指南を拝し涙が止まりませんでした。

※2『『御開山日興上人の譲座御本尊の御前で七百年来の法統正しい丑寅勤行に御供させていただき』云々

@、駄犬は常に「蓮祖・興師の文証」を出せ。と愚執している。
A その実、大聖人様の御命であられる戒壇の大御本尊へは参詣しない。(←正当な”手続き”をとれば今でも誰人でも参詣できるにも拘らず、である。)
B 更に日興上人の御書写である、大変意義深い譲座御本尊へも参詣しない。(←同上)

こういう@と言いながらAB状態を、

■法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。

と、大聖人様はお嘆きになられ、かつまたお叱りである。

「口」で、「蓮祖仏法が云々」だの、「蓮祖・興師の文証」云々、などと声高に喚きながら、その実は、大聖人の御命であられる法華経=戒壇の大御本尊や、日興上人の御本尊等を「心」に渇仰・賛仰せず、しかも「身」をもって参詣せず平然としていられるのは、まさに、「信心がない」のである。
(もちろん、上記御文は大聖人と共に法難を受けていた日朗師等への御文であり、法難を受けることを指して「法華経を身で読む」と仰せであるが、総じて拝せば、その法華経の根源・根本、久遠元初の本仏・自受用報身如来の仏身であられる戒壇の大御本尊へ身をもって参詣しない、など、法難どころの話ではない。それ以前の、身口意 相具しての信行が全く為っていない、という基本中の基本の問題である。)

さて、やまいぬ。君ほどまだ壊れていない、他の創価学会員の中では「「心」では戒壇の大御本尊を信じている」と言う者もあるが、それではやはり不可なのである。

■心働けば則ち身動く

であり、逆に言えば「身」が動かない=「身」を以って参詣しない のは、やはり「心」においても全くの不信心である表れである。

不信⇒堕地獄 である。(文証 多数 略)
であるから創価学会員(もちろん、顕正会・正信会他あらゆる戒壇の大御本尊を求めない邪宗・邪義の謗法者も含むが)はこのままでは間違いなく 堕地獄 である。
で、やまいぬ。君などは、やはり、その筆頭、真っ先に堕ちる類の衆生である。
実に、”浅ましい”限りである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。160 祝160回!ヤレヤレ〜(-_-;)〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 5日(金)13時48分15秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●24・25日と夏期講習でした。※1『大聖人様尊極の御尊体である戒壇の大御本尊を目の当たりに拝し』、※2『御開山日興上人の譲座御本尊の御前で※3『七百年来の法統正しい丑寅勤行に御供させていただき』云々

※3 創価学会員は尊い丑寅勤行に参加できない。

日寛上人 開目抄愚記

■宗祖云く「相かまえて相かまえて自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし、★1『三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり、仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」』等云云。
  故に知んぬ、「子丑の時」は末法の蓮祖、名字凡身の死の終りなることを。故に「頚はねられぬ」というなり。
  寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり。故に「魂魄」等というなり。
  房州日我の本尊抄見聞に云く「開目抄に、魂魄佐渡の国にいたりてとは、是れ凡夫の魂魄に非ず。久遠名字の本仏の魂魄なり」と云云。
  経王抄二十二十四に云く「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたましひをすみにそめながそて・かきて候ぞ信じさせ給え、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と云云。
  明星直見の口伝に云く「即ち明星池を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」と云云。
    大曼荼羅とは、即ちこれ一念三千即自受用身なり云云。釈尊は、二月八日の明星の出ずる時、霍燃と大悟したまうを成道の相と名づくるなり。明星の出ずる時は、即ちこれ寅の刻なり。吾が祖もまた爾なり。名字凡夫の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と顕れ、内証真身の成道を唱え給うなり。故に佐渡已後に正しく本懐を顕すなり。
  当に知るべし、★2『鬼門は即ち丑寅の方なり。』霊鷲山は王舎城の鬼門なり、天台山は漢陽宮の鬼門なり、比叡山は平安城の鬼門なり。類聚第一巻の如し。富士山もまた王城の鬼門なり。義楚六帖二十一巻の録外第五七、啓運抄三二十九の如し。往いて見よ。
  またまた当に知るべし、★3『当山の勤行は、往古より今に至るまで正しくこれ丑寅の時なり。』これを思え、これを思え。

★1『三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり、仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし』
★2『鬼門は即ち丑寅の方なり。』
★3『当山の勤行は、往古より今に至るまで正しくこれ丑寅の時なり。これを思え、これを思え。』

大聖人様・日寛上人が斯く仰せの、御相承にも関わる極めて重要な意義のある正統な丑寅勤行に参詣しない、出来ない、やまいぬ。君等創価学会員は、やはり正統な大聖人の門下ではない。
「口」でいくら「蓮祖・興師の文証」と殊勝げなることをほざいていても、その「身」が、御相伝により伝わる重大な意義ある鬼門の方角=丑寅の方角に位置する大石寺に於いて、これまた御相伝により重大な意義を持つ、丑寅勤行に参加・参詣できない。
まさに、創価学会など、大聖人の仏法を騙る似非日蓮系新興宗教である。
その「本物に似て非なるもの」に誑惑され執着し、本物を誹謗することをまさに「大謗法」というのである。
大謗法⇒無間地獄
この件でも、やはり、やまいぬ。君等創価学会員は無間地獄必定ということである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。161  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 7日(日)02時15分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●※4『そして第68世日如上人が親しく仰せになられた御指南を拝し涙が止まりませんでした。』
―――――――――――
4.創価学会員には「師」がない。無軌道の在家集団である。

■譬へばよき火打とよき石のかどとよきほくちと此の三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是くの如し。★1『よき師』とよき★2『檀那』とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。

@★1『よき師』とは

@ 道理

→根本に於いては日蓮大聖人
→血脈次第 日蓮日興
→日興上人
→日興上人御遷化の後は、
→■仏宝・法宝は必ず僧によて住す。
→唯授一人の血脈を相承為された御歴代上人、就中現時の”時”を領せられる御当代の御法主上人。(総じては、御法主上人の意を体せられる御住職がた)
(註↑この御文の★1『檀那』とは在家の事であるから、この「師」とは出家の方を指すことは明白である。間違っても池田センセ〜〜などという「在家」の者ではない。)

A 文証

■【百六箇抄】(1702)
但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

註 この御文を「御加文」といって蔑如する大馬鹿者がいるが、そのような恥言は全く採用できない。

(参照 http://toyoda.tv/yamainu2.htm   43段)
―――――――――――
A「在家」では無い「師」に値わなければ、邪智が酷くなり、絶対に成仏しない。

■「法華に云はく「悪知識を捨てゝ善友に親近せよ」と。止観に云はく「師に値(あ)はざれば、邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚だしく、稠林(ちゅうりん)に曲木を曳(ひ)くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰(さた)、尚(なお)以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや。」29

「成仏の師」ではない池田センセ〜〜などは衆生を誑惑する、まさに「悪知識」であり、第六天の魔王に魂を魅入られ、多くの衆生を地獄へ引き込む首魁であり、それに追随する者達は、地獄の極卒どもである。
成仏の師を侮蔑し、嘲弄し、遠離するが故に、やまいぬ。君・妄犬マゴマゴ君・沖浦君・陰性等創価学会員は、■「邪慧(じゃえ)日に増し」て、ますます悩乱し頭破七分してくるのである。

■『秋元殿御返事』
★3『師檀』となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、『在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん』」

★3『師檀』
師=御僧侶
檀=檀那=在家信徒

であるから、現時に於いては御法主上人に(また総じては日蓮正宗の御僧侶に)信順して学ばなければ、絶対に成仏できない。
成仏できない→結局は 地獄行き である。
成仏の師である御法主上人を蔑如する創価学会員は総じて 地獄行き である。

文証(類文繁多の中、ほんの一部である。)

御開山日興上人
■なをなをこの法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども無間地獄に堕ち候也。うちこしうちこし直の御弟子と申すやからが、聖人の御時も候しあひだ、本弟子六人を定め置かれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も末の弟子共が、誰は聖人の直の御弟子と申やから多く候。これらの人は謗法にて候也。御講らこの旨をよくよく存知せらるへし。

日有上人
■「当宗ノ即身成仏ノ法門ハ師弟相対シテ少モ余念無き処ヲ云フなり、此則師ハ是レ仏界なり、弟子ハ是九界なり」(御物語聴聞抄佳跡・要集一―一九一頁)

■「出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我レ等が色心妙法蓮華経の色心なり、此ノ信心が違ふ時は我レ等が色心凡夫なり……三途の業因」(要集一―六四頁)

■「私ノ檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云フ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし、血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり」(要集一―二四七頁)

総本山第五十九世日亨上人
■「仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり」(有師化儀抄註解・要集一―一七六頁)

日達上人
■「大石寺門流は大聖人からの相伝の宗旨であるから御書を十分に心に留め、その文底の法門は、歴代の法主が相承している法門の至極の理は、師から教わり、かりにも己義をかまえてはならない」(日興遺誡置文略解一〇頁)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。162  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 9日(火)00時12分49秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君、とうとう当方に直接痴難を吐きかけることすら出来なくなって、73氏に泥酔した酔漢のごとく絡むしか、自分の地位存在の主張ができなくなったか。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜
実に”浅ましい”(※1)限りである。(※1日寛上人が駄犬を叱る言 http://toyoda.tv/yamainu2.htm  11 97 153段等 参照)
http://toyoda.tv/yamainu2.htm←これだけ反論不能な論題が山積状態のままであるのに、厚かましくも当板で謝罪もなく恥言を吐き垂れているのであれば、更にやまいぬ。君を追撃しましょう。
当方からの論撃を避けるために他の方へ絡まずに、堂々と当方へ向かって来たまえ。
駄犬の醜悪謗法根性を更に粉々に粉砕してあげよう。
では、駄犬への誘い水として以下の愚問を摧破しよう。
さあ、やまいぬ。駄犬、いよいよ悪足掻きをしてのたうち回って見せてくれたまえ。呵々
―――――――――――
「>●違いませんね。
>日蓮大聖人様の「御法魂」こそ人法一箇の戒壇の大御本尊様の御ことであり、その
>「御法魂」こそがそのまま即身成仏させてくださる御本尊の「極意」であり、その「極意」を
>相伝された方にしか御本尊書写の「権能」がない。

▼確認します。
まず「>●違いませんね。」の下の3行、「蓮祖の文証を以って証明してください。」(※2)
あなたがそう思いたいというだけのことなら、もとより無用です。」

に返答不能、
―――――――――――
↑「返答不能」ではなく、この論題を粉砕するまえに他の恥言をかまってあげたまでのこと。
ではお望みとあらば幾らでも砕いてあげましょう。

では、この段の流れを再掲しておこう。
―――――――――――
@「内証」とはそもそも何か?

> >「辨惑観心抄」日応上人
> >此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を
> >受けされは決して本尊の書冩をなすこと能はす、(中略)
> >仮令広布の時といへとも別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非す、

> →とあるように御本尊書写に関する権能であることが分かります。
>
> は? 「御法主上人の御内証は蓮祖」とかって恭しく云うておるその「内証」って、ただの
> 「権能」のことなんですか? 「権能」って、「お前がやりなさい」ってことですよね?
> しかも確かにここに挙げてある箇所だけで云えば、「書写の責任者はお前。」っていう、
> それだけですね?(^^)
> 「金口嫡々」で伝わったことって、それだけってことですね?(^o^)
―――――――――――

1、権能=ある事柄について能力を行使する権利。
2、御本尊を書写できる方は唯授一人・血脈相承を受けられた方に限る。
ということは、そのことだけでも実に尊く有難いことでしょう。
御本尊への真の「信」があれば、その御本尊様を書写をされる(することができる)方への有難さは、当然領解できますが、「信」がない方には分からないところです。

■信は道の源功徳の母と云へり。

ですから、御本尊書写をされる方への尊信がないとはそのまま御本尊への信がないことであり、成仏の功徳は全く生じないことでしょう。
―――――――――――
> >●此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝るものなり之を真の唯授一人
> >と云ふ

> →日蓮大聖人の御法魂であり、御本尊の極意 であることも分かります。
>
> は? 「権能」であり「法魂」であり「極意」なんですか?(^^)
> 「権能」と「法魂」と「極意」は、それぞれ意味が違うと思いますが?(^^;
―――――――――――
●違いませんね。
貴公が「信」なき故に領解できない。ただそれだけのことです。

日蓮大聖人様の「御法魂」こそ人法一箇の戒壇の大御本尊様の御ことであり、その「御法魂」こそがそのまま即身成仏させてくださる御本尊の「極意」であり、その「極意」を相伝された方にしか御本尊書写の「権能」がない。

全く、矛盾しませんが? (再掲文以上)
―――――――――――
↑これに対して、※2「蓮祖の文証を以って証明してください。」との恥言は、http://toyoda.tv/yamainu2.htm  155 157段等について駄犬やまいぬ。君は全く反論不能であるが故に、採用されない。
よって、上記再掲文に対する駄犬やまいぬ。君の反駁は体を為さない。
全く失当である。
さ、駄犬やまいぬ。君、この論駁に正当に反論してみたまえ。
君ならできる!修羅に焦がされ寝ずに頑張れ!呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。163  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 9日(火)15時52分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

反論不能の癖に謝罪もなく当板で見苦しい悪足掻きを続ける駄犬やまいぬ。君。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』としての”使命と役割”を際立たせるために、更に追撃しましょう。
―――――――――――
> DATE:  1月 8日(月)22時29分24秒
> TITLE: さあて。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> 『このサイトでこれを書いて、最早数ヶ月では利かぬ。
> 誰一人返答不能の問いだ。坊や、脱講賭けて返答してみな。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「※1『法主の内証が蓮祖と主張するのであれば、法主すべての信心と行躰は
> 蓮祖のそれと一にしておって当然である。』
> ※2『では少なくとも目師以降、歴代法主の全てが蓮祖同様、如説修行と折伏弘教の末に
> 三類の強敵を見事導き出し、それを越えて民衆の中に分け入り、自らの手で広布発展の
> 確たる実績を残したという資料・根拠を挙げよ』」
>
> この問い、昨日や今日はじめて問うた訳ではない。返答不能でスルーし続けた
> 坊や自身を恨むがよい。
>
> さ、高見の見物でも決め込もうか。楽しませてもらうぞ、坊や?(^o^)』
―――――――――――
まず、これから。
※1 を立証する「蓮祖・興師の文証」を挙げよ。
注意 駄犬の僻眼による妄執で御文を曲読した怪釈では不可。
この立証に成功しなければ、恒例、謝罪せよ。
(謝罪文の雛形http://toyoda.tv/yamainu2.htm  157 156段等参照せよ)

※2 ※1の主張を立証しない限り、※2の恥問の前提根拠は成立しない。
よって、現時ではこの駄問は全く失当。ただやまいぬ。君が一人妄想の中で粋がっているだけの恥態である。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。164  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 9日(火)16時24分44秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次の駄問も駄犬の口癖だった”サクッと”いきますか。呵々
最近は言わないようだが、”サクッと”颯爽と簡単には出来ないほど返答に窮している表れか。呵々大笑
―――――――――――
> ※3『誰でもいいが、では仮に坊やに問うてあげようか?
> 日阿は何処の誰を折伏したのだね? 日乗はどれだけ広宣流布を進めたのだね?
> 日典はどのように三類の強敵を現したのだね? 日養は、日詳は、日東は、日元は、
> 誰を折伏弘教し、どれだけ広宣流布を進め、どのように三類の強敵と闘ったのかね?(^o^)
>
> いまだかつて誰一人、返答不能だ。――坊やにも、当然無理だよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)」
>
> 「唯授一人」だから全員が蓮祖同様如説修行・不惜身命の法華経の行者であるに
> 決まっている、などという、坊や達の切なる願望も妄想も無用なのだよ。(^o^)』※3
>
> さて、今度「ボコボコ」にされ、首落とされるのは坊やかい?(^o^)
>
> 期限、決めてあげようか?
>
> 1/8 深夜24時、正確には1/9 0時だ。
>
> もう時間がないぜ、坊や?(^o^) まぁ泣きながら資料でも集めなさい。(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
↑ここも前段163と同様である。

▼※1『法主の内証が蓮祖と主張するのであれば、法主すべての信心と行躰は
> 蓮祖のそれと一にしておって当然である。』

※1 を立証する「蓮祖・興師の文証」を挙げよ。
注意 駄犬の僻眼による妄執で御文を曲読した怪釈では不可。
この立証に成功しなければ、恒例、謝罪せよ。
(謝罪文の雛形http://toyoda.tv/yamainu2.htm  157 156段等参照せよ)

※3 ※1の主張を立証しない限り、※2の恥問の前提根拠は成立しない。
よって、現時ではこの駄問は全く失当。ただやまいぬ。君が一人妄想の中で粋がっているだけの恥態である。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜
ただしこれに類する恥問には http://toyoda.tv/yamainu2.htm  4 10 11 12 13段等で完摧済みである。

@ さ、駄犬やまいぬ。君、ぼとぼち当方へ正々堂々と反論していただこうか。
A 出来ないのなら「参りました。」と負けを認め、当方が示した謝罪文を「やまいぬ。」の名で投稿せよ。
B まっ、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』の駄犬などにその潔さなど在り様がないだろうから、せめて反省して当板への投稿を自粛し自宅謹慎して、一人侘しく夕飯の支度に専念していたまえ。呵々大笑。
それを守れないで、何か恥言を書いてくれば、更に当方から追撃され、恥の上塗りをするだけである。

@ABいずれでも当方は構わない。
ただ、やまいぬ。君が『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』との醜態を満天下に晒し、”日蓮系新興宗教団体・創価学会の面汚し”になるのは、少々哀れで忍びないと思うだけである。
もうじき、この板もアクセス数13万件を超える。
これだけの衆人環視の場で”活動家の創価学会員”としてあまり見苦しいことをしていると、”永遠の師匠”とやらの噴飯ものの地位を獲得為された、かの池田せセンセ〜〜。万世〜〜!にとっても少々都合悪いんじゃないか?呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。165 ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月26日(金)15時51分28秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

まず、この完全に教義的に反論不能状態に成り下がっているにも拘らず、未練がましい、往生際の悪い駄犬から片付けて、消毒していきますか。
―――――――――――
> DATE:  1月24日(水)23時32分16秒
> TITLE: はい、今日もボクちゃんたちまとめて。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
↓しかし、この駄犬、まさに『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である。

これほど明確な法義が見えないとは、頭だけでなく目もニセ本尊の害毒で正常な機能を失ってきているものと見える。
―――――――――――
> A「御本尊には開眼が必要」
> 蓮祖御図顕本尊に法主の開眼が必要など、ただの1行もない。(^o^)
―――――――――――
繰り返すが、馬鹿丸出しの馬鹿である。
馬鹿を相手にすると、同じことを何度も繰り返し教えなくてはならないので実に無駄な時間が浪費される。

「本尊と成り得るには「開眼の義」が必要である」との文義は御書に明確であり、その開眼の深義は御歴代上人のみに相伝される。
との義は御書の御文の複数箇所を総合して明として領せられるところである。
それは、既にhttp://toyoda.tv/yamainu2.htmに繰り返し明証してあるところである。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である馬鹿犬には読めなくて当然であるが、高校生程度の読解力と論理認識能力があれば十分に理解できるところである。
まっ、これほど明瞭な文義が理解できないとすれば、その愚かで低脳で無様な様相がそのまま『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』という現証でもある。
まさに馬鹿犬は 生きたニセ本尊の害毒標本 といえよう。
こんな者がもし他人の生命に関する仕事をしているとしたら、実に空恐ろしい限りである。
このようなニセ本尊で脳が破壊された頭破七分の者どもが創価学会員として日本中に蔓延っているというのであるから、国情が凶悪になっていくのも当然であろう。

1、さて、この馬鹿犬の稚妄である「蓮祖・興師の文証」について

この馬鹿犬は以下の詰問に無回答=反論不能のままである。
従って、馬鹿犬はこの詰問に明晰に回答できないのであるから、まずは謝罪文を投稿すべきである。
生意気なことを言うのはそれからである。呵々大笑
―――――――――――
再掲
―――――――――――
やまいぬ。君の駄問を完摧す。156  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 3日(水)23時00分15秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用

久しぶりに書けばこの程度か。
まさに、■「唖法を受けたる婆羅門等の如し。」である。呵々大笑
―――――――――――
> DATE:  1月 3日(水)21時31分20秒
> TITLE: 「前進・勝利の年」、
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> ※1「どうやら樋田昌志くんは、年末も正月もなく、修羅に焼かれて駄文のオンパレードが
> 止まりませんか。3度にわたって自分が首落とされた惨敗記録はなかったことにしてね。」
>
> その他の法華講ちゃんたちは、相変わらず※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、
> 泣き喚くのが精々」だね。
―――――――――――
↑この※1の「駄文」そのものが、※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚くのが精々」そのものの恥言ではないか。
大哂いである。
では、駄犬の矛盾を突く数々のシリーズの中で止めの一段を再掲。
やまいぬ。君は全く反論不能のまま、※1のような強がり・負け惜しみを※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚」いている惨めな醜態をまたもや晒して、恥の上塗りをしただけのことである。
―――――――――――
再掲文

今まで再三再四論撃しているにも拘らず、全くの反論不能状態に陥っているやまいぬ。が実に大馬鹿者であるという証拠案件。
―――――――――――
> そうか、坊やは文証の出し方そのものが解かっていないのだわなぁ?(^o^)
―――――――――――
→そういう駄犬に以下の如くの詰問を再々再度追撃する。(もう何回目だ?馬鹿犬君?ほんと馬鹿相手にすると世話が焼ける ヤレヤレ(-_-;))
もしこれに返答できないのなら、以下の如くの謝罪文を「やまいぬ。」名で投稿し、以後二度と当板にその醜面を晒すな。
―――――――――――
> 何度も云うてやった。
> 蓮祖・興師の文証では不満・不足なのだな、坊や?
> 自分の言葉で云うて御覧?(^o^)
―――――――――――
→では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
出来るものならやってごらん。
実に大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
駄犬風に言うと、

”全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ創価学会員・やまいぬ。よ。(^o^) ”

である。呵々大笑
―――――――――――
→では期限を設定する。
30日午前0時までに再三再四論撃してきたこの問いに道理文証現証を明確にして返答できない場合は、以下の謝罪文を投稿せよ。

謝罪文(草案)

★「私ことHN「やまいぬ。」は、樋田昌志氏との公開文書対論に際して、一例として万年救護御本尊の御相貌に関する意義等を「蓮祖・興師の文証」に依って説明できませんでした。
これは、私ことやまいぬ。が常に樋田昌志氏に向かって要求していたことを、自分では実現できず、論理破綻したことを認めます。
大変、申し訳ありませんでした。
他にも幾多の回答不能の論題もあり、それも全て私ことやまいぬ。が反論不能状態に陥ったことを認めます。
本当に、申し訳ありませんでした。
これを反省して、もう二度と邪義は述べません。
貴板へも、二度と投稿を致しません。
ですから、どうかお許し下さい。
脱会だけは勘弁してください。
宜しくお願い致します。
やまいぬ。」

じゃ、頑張れ。
ほんと馬鹿を駆除するのは疲れるわ ヤレヤレ(-_-;)  再掲文以上
―――――――――――
ほんと、※2「文証一つ出せず、教義に触れることもなく、泣き喚くのが精々」のニセ本尊を有りがたがって拝む、その上、身延のみやげ掛け軸も本尊として信行できるという、まこと頭破七分で僻眼の謗法の一闡提人は、およそ、恥 というものを知らぬようである。

上記再掲文に明確に文証を以って教義的に反論できないのであるから、潔く「謝罪文」を書いたら如何か?
それも出来ぬとあれば、やはりその名の通り、犬畜生 にも劣るゴミだな。 ヤレヤレ〜(-_-;)〜〜
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
再掲
―――――――――――
やまいぬ。君の駄問を完摧す。157  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月 4日(木)19時09分45秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用

ここまで教義的にも、論理的にも追い込まれても、まだ悪足掻きする、というのも惨めな姿である。
まっ、いいでしょう。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』との醜態を更に詳細に暴き出してあげましょう。
それによって、これを閲覧される方々には更にニセ本尊の猛毒に対して認識を深くするよすがともなるでしょう。
―――――――――――
> DATE:  1月 4日(木)18時10分40秒
> TITLE: 樋田昌志くん、
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> いいかね坊や? 「什宝云々」で文証出せず、その次の

> 「>●違いませんね。
> >日蓮大聖人様の「御法魂」こそ人法一箇の戒壇の大御本尊様の御ことであり、その
> >「御法魂」こそがそのまま即身成仏させてくださる御本尊の「極意」であり、その「極意」を
> >相伝された方にしか御本尊書写の「権能」がない。
> 確認します。
> まず「>●違いませんね。」の下の3行、※1「蓮祖の文証を以って証明」してください。
> あなたがそう思いたいというだけのことなら、もとより無用です。」
>
> に返答不能、
―――――――――――
1、まず※1「蓮祖の文証を以って証明」とは笑わせる。
では、同じことを繰り返してもつまらないので、別の角度から。

我々が拝することができる「御書」(=駄犬の言う「蓮祖の文証」)には以下の事案に対して一言も触れておられない。
もし、あるというのなら、以下の事案を全て「蓮祖の文証」のみで説明して見せよ。

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、
地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、
大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。

つまり、御書に大聖人様の仏法の全てが表記されている訳ではないことは一目瞭然である。
では上記の事々は全く理解不能なのか、というとそうではない。
まさに唯授一人・血脈相承によって代々の猊下へその真意は御相伝されているのである。
であるから、御歴代上人の御指南に上記の分々の回答のは明確に示されているのである。(詳細は今の本題ではないから略す)
ことに戒壇の大御本尊の御事は日興上人御一人へ密付嘱されたのであるから、総じての辺に於ける広範な御法門を示された「御書」に詳細且つ顕然に説かれることなどあろうはずもないのである。

さて、やまいぬ。君、上記●一切について、
@ 「蓮祖の文証」のみで返答が出来たら、当方も「蓮祖の文証」のみで反論してあげよう。
A もし、それが出来ないのならば、以下の謝罪文を投稿せよ。呵々大笑。

謝罪文

「私ことやまいぬ。は●の全て(略)について、「蓮祖の文証」で説明出来ませんでした。
よって、樋田昌志氏へも「蓮祖の文証」のみで反論を要求することが間違いだったことに気づきました。
今後はそのような要求は致しません。
今までの、無知だったとはいえ数々の非礼、お許し下さい。
大変、申し訳ありませんでした。
どうかお許し下さい。」

さ、やまいぬ。君、@、A どちらでも構わない。
せいぜい頑張りたまえ。
まこと『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』とお付き合いすると、疲れるものである。ヤレヤレ〜(-_-;)〜〜。呵々大笑
✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽✽
さ、まずはこれをきちんと片付けてから、虚勢を張りたまえ。
それと、馬鹿は馬鹿なりきに人様の迷惑にならないように、同じ馬鹿は二度以上するな。
時間の無駄だ。
当方は馬鹿犬ほど下らない無駄な時間は持ち合わせていないのだから。
さ、馬鹿なりきに必死に足掻いて頑張れ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。166  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月26日(金)23時24分58秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ここまで馬鹿だと処理のしようがないな。
既に生きながら腐敗臭漂う 生き骸 だな。
―――――――――――
> DATE:  1月26日(金)22時52分49秒
> TITLE: 樋田昌志くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
以下、全く、本質論に於いての反論がされていない。
馬鹿 そのものである。呵々

長い 複雑な構文は理解不能であると自ら公言した 馬鹿 であるから、要点を纏めてあげよう。

御書全編に亘って 以下の問題に対しての御教示がない。
何故なのか。
↑「蓮祖・興師の文証」に依って明証してみよ。
↑絶対に出来ないのである。(出来るのならその回答を待ちましょう?馬鹿犬君?呵々大笑)
↑「蓮祖・興師の文証」=御書・日興上人の文書に大聖人の仏法の全てが表記されている訳ではない。
↑それを馬鹿犬はどんな内容でも「蓮祖・興師の文証」で挙げろ。と恥言を吐く。←馬鹿である。馬鹿以上の丸馬鹿である。呵々大笑
↓以下の命題に全て「蓮祖・興師の文証」で答えられたら、馬鹿 と呼ぶのは止めてあげましょう。
そして、馬鹿犬が喚く全ての質問に「蓮祖・興師の文証」で答えてあげましょう。
↑自分が出来もしないことを人に要求してはいけないよね。
↑馬鹿 でもその位の”常識”は理解できるかな?
↑それも無理なほど『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』かな?馬鹿犬は?呵々大笑

さ、頑張れ。 馬鹿犬!呵々呵々大笑

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

更に踏み込めば

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、
地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、
大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。167  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月28日(日)23時02分29秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

どれ、次はこれ砕いていきますか。
―――――――――――
> DATE:  1月27日(土)23時54分51秒
> TITLE: 眠る前に。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> >蓮祖・興師の文証、云々。

> こんなことを何度問うてやれば返答出来るのだね、坊や?(^o^)
> 「蓮祖・興師の文証」では不満かね? 不足かね?
> ダラッダラと泣き言並べる暇あらば、不満・不足ならそうとはっきり云うて
> 御覧、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
―――――――――――
↑ここまで馬鹿だともはや人間としてより人間の言語が理解できない猿に近いようである。
しかも、全く反論不能なのでしらばっくれて、跳ばしたいがために、▼「蓮祖・興師の文証、云々」などと逃げているのであろう。呵々
また、以下の簡明極まる論証を▼「ダラッダラと泣き言並べる」ようにしか読めないとしたら、これはまとまな知性ある社会人とは言えない。
このようなほぼ狂人に近い者が、行動に何の制約も受けずに社会に溶け込んでいるということが実に恐怖である。

道理(→御書には大聖人の御法門の深義の全てを御指南されている訳ではない。)を現実の事実(→大聖人一期の御本尊に関しての記述が御書には全て詳細に説かれていない)に依って中高生が読んでも理解できるように明証しているにも拘らず、この馬鹿犬は、↑上記の愚言を際限なく繰り返すしか「脳」がない。

まるで、猿に 「棒と踏み台を使わないと(←道理)天井から吊り下げられたバナナは取れないよ。(←現証)」と懇切丁寧に説明してあげているのに、それが全く理解できず、理解できる脳がなく、ただ「キー!キー!」とヒステリックに棒を振り回して喚き続ける醜態を晒しているのがこの馬鹿犬(猿)である。(犬より猿に昇格できて良かったな。という声もあるかも知れないが。呵々)

この馬鹿犬に再度(再度どころではないが。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜)教訓する。(猿には直ぐに理解するのは無理かもしれないが繰り返し反復学習を重ねればいつかは学び取ることであろう)

【再説】

■今末法に入って眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり。此の御本尊より外に眼目無きなり

↑と仰せの大聖人の仏法での最大事である「御本尊」に関して、その詳細な全ての説示が何故御書になされていないのか。
その一端を示す為に、列挙した項目が以下の事項である。

【現証】

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?
★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?

以下略

以上の項目の内容は全て御書には説かれていない。

↑から導き出される結論】

御書には大聖人の仏法の深義の全てが説き示されている訳ではない。唯授一人・血脈相承に依って歴代の御法主上人にのみ伝持・相伝されているのである。

【文証】

■宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)

■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

【結論】

以上の簡明な論証により、馬鹿犬が頑迷に「蓮祖・興師の文証」にのみ拘ることは、全く非合理で現実を無視したただの妄執であり、全く採用するに足らない的外れな反駁である。
馬鹿犬は正当な教義に於いて論理的な反論が出来ないがために、「蓮祖・興師の文証」という一言を、ただ強引に唯一の隠れ蓑にして論撃から遁走しているだけのことである。
こういうのを”猿智慧”というのである。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

2、ニセ本尊の猛毒は人の正常な理性を蕩かして使い物にならなくさせ、邪な猿智慧を発達させる。(ようである。)呵々大笑

つづく

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。168  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月29日(月)18時19分27秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、夕飯前、これを砕いていきますか。
―――――――――――
> ぜーんぶ返答不能の、昨年7月以来坊やが逃げ廻っておる膨大な問いの
> 一部、 コピー・ペーストしてやる。
>
> 「●>「辨惑観心抄」云々。
> >●2、御本尊を書写できる方は唯授一人・血脈相承を受けられた方に限る。
> >ということは、そのことだけでも実に尊く有難いことでしょう。

> いいえ。(^o^)
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
> ▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に弘めても」いない、▼2「広宣流布を進め」てもいない
> 人間が、▼3「法を弘めている人間」より▼4「偉いとか有難いとか、いったい御書のどこにあるのでしょうね?
> (^^) 是非挙げてみてください。楽しみです。(中略)」
―――――――――――
↑昔も今も 馬鹿は馬鹿、である。呵々
こんな愚問、一体いつの投稿か知らないが、まずこの馬鹿犬の論理の筋道がずれている。

【道理】

1、「法」とは煎じ詰めれば三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊 の御ことである。(異論があるなら頑張ってやってごらん)
その戒壇の大御本尊の内証を書写された正統な「御本尊」を弘めてこそ尊いのである。
一口に「広める」といっても正統な御本尊がなければ始まらない。
この正統な御本尊は日蓮正宗にのみ存している。

【通解・解釈】

であるから、上記の御文「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」の意義はこうなる。

「三大秘法の体である正統な御本尊は自ら弘まることはない。であるから、その流布すべき三大秘法の体である御本尊を唯一書写し具現化することが出来る御法主上人は真に尊い。更にまた、その正統な御本尊を流布することが出来る唯一の宗派である日蓮正宗の僧俗は、これまた真に尊い。そして弘められる日蓮正宗にのみ有する正統な御本尊も真に尊い」

【破折】

一方創価学会が販売している掛け軸に見せかけた詐欺的 魔札・鬼札は「開眼」がない大謗法物である。
馬鹿犬は自分達創価学会が「正統な本尊」を広めていると錯誤しているがとんでもない大馬鹿者である。

@ニセ本尊という大謗法物を▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に弘めても」大悪・極悪の行為にしかならない。
Aニセ本尊という大謗法物を販売することは▼2「広宣流布を進め」ていることには、全くならない。
Bニセ本尊という大謗法物を販売する創価学会員は▼3「法を弘めている人間」ではなく、「”悪法”を弘めている人間」達である。
C@〜Bに当て嵌まる大謗法の者が、世界で唯一正統な御本尊を有し弘めている日蓮正宗の「広宣流布」について云々する資格など全くない。

【例】

例えば、悪鬼魔神が乱入している 神札 を販売している神社の神主が、日蓮正宗の正統な御本尊の広宣流布の状況についてとやかく言う立場も資格もないのと同様である。

【馬鹿犬の愚問を活用して再破折】

1、▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に”ニセ本尊を”弘めても」それは、▼2「”正しい”広宣流布を進め」てもいない
> 人間 であり、▼3「”正しい”法を弘めている人間」ではない。
↑こういう行為が大謗法であり、無間地獄へ真逆さま、という御文は「御書」に繁多である。

2、開眼のないニセ本尊を販売する人間や団体が、正統な御本尊を唯一書写し顕す事ができる御法主上人とその正統な御本尊を流布する日蓮正宗僧俗より▼4「偉いとか有難いとか、いったい御書のどこにあるのでしょうね?
> (^^) 是非挙げてみてください。楽しみです。(中略)」

【結論】

馬鹿犬がどんなに何の痴論を蒸し返してみても全く無駄である。呵々大笑
むしろ 創価学会の恥 となるから、同門の者達は忠告してあげたら如何か?呵々大笑

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

5、しつこいネバネバした性格となり、くどくど絡みつくようになる。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。169  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)10時00分7秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ほい、次はこの馬鹿犬の恥言。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜
―――――――――――
> >御本尊への真の「信」があれば、その御本尊様を書写をされる(することが
> >できる)方への有難さは、当然領解できますが、「信」がない方には
> >分からないところです。

> 上記3行、文証を出してください。」
―――――――――――
↑本当に根性の腐ったゴミ である。

■日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。

このように仰せに為る日興上人(と日興上人を上首とした御歴代上人)へ「有難さ」を感じないとすれば、それは不知恩・忘恩の徒 であり、もはや正しい仏法修行者の姿ではない。
つまり馬鹿犬など仏法を語る資格など元よりない。

■我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。

ここに仰せの通り、馬鹿犬はその名の通り、不知恩・忘恩の 犬畜生 である。
犬畜生が仏法を云々するなど、以ての外である。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

6、不知恩・忘恩の犬畜生の境涯に堕ちる。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。170 記念する気にもならん。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)10時18分2秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次。
しかし、実に下らん。
―――――――――――
> ついでだ。もう一つ。
>
> 「>(戒壇の大御本尊様の御法魂とは:やまいぬ。註)唯授一人血脈相承された方
> >以外は全く知らないこと。知りえないこと。
> (知りたければ:やまいぬ。註)
> >1、脱会して戒壇の大御本尊様を一心に信じ拝すれば、総じての義においての
> >御法魂を感得する事
> >2、唯授一人・血脈相承をお受けになる立場として生まれてくること

> まず単純に矛盾していますよ。(^^)
> 「唯授一人血脈相承された方以外は『全く知りえない』」筈のものも、「総じての
> 義において法魂を感得する事が出来る」――『全く知りえない』とは1から10まで
> 『全く知りえない』ことであり、「総じての義において法魂を感得する事が出来る」、
> つまりその一部でも解かるというのは、すでに矛盾していますね。(^^)
> (宗門教学とは、ご都合主義で一貫していないせいでこんな矛盾の継ぎ接ぎ
> だらけですが)
―――――――――――
↑本当に、こんな馬鹿相手に貴重な時間が浪費されると思うと情けない。
総別の義 などこの犬畜生には到底理解は及ばないであろう。

以下再掲文で十分である。不知恩の犬畜生ごときには。

【再掲文】
―――――――――――
→この程度か?所詮。
駄犬の普段の生活の貧相さが偲ばれるな。
侘しく夕食の支度しながら一人パソコンに向かう・・・実に貧相である。呵々

※何故なら)こういう低脳な切り返しの仕方は駄犬の特徴であり、これでは概ね、上司・同僚・知人・友人・恋人・客 等に嫌悪され唾棄されるからである。
これでは、上長の位(法華経信仰の功徳として列記されている)などにはとても昇れず、それどころか事為すごとに嫌われ者であろう。
いやはや、全く。(=_=)

では破折いきますか。
駄犬は、能所の法門を知らぬ。ただそれだけのことである。(しかし、本当につまらんな。少し気の効いた謗法者なら、こんな痴難は流石にしないがね。)
”別して”の御法魂の意義とは、能所でいったら、能の辺であり、その能の辺は、唯授一人・血脈相承された方以外は絶対に知り得ない。
”総じて”の義に於いての御法魂 とは、所の辺であり、この所の意義としての御法魂(※事の一念三千・十界本有常住等)を分分に感得できるのである。
その現証として、かつて駄犬の反論不能の箇所を挙げる。

つまり能の辺は、御本尊書写の御尊行である。
―――――――――――
> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

→実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは"御本尊" になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。
―――――――――――
重ねていう、上記の詰問に「蓮祖・興師の文証を挙げて」回答せよ。
出来なけれな、この板で公式に謝罪して脱会。
よろしいな。(-。-)y-゜゜゜ (再掲文 以上)
―――――――――――

さて、馬鹿犬君。これらの詰問に明確に答えてから、先に進みましょうね。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。171  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)13時34分4秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、午後の第一題
―――――――――――
> そのうえで樋田さん個人に伺いましょう。あなたは「戒壇の大御本尊様を一心に
> 信じ拝して、総じての義においての御法魂を感得」したのですか? 感得したのなら
> 説明できますね?
> 教義の正しさを説くこのやり取りの中で、「知っているけど云わない」はないでしょう。
> 御存知ならばお書きください。
> 勿論「未熟だからまだ知らない」という返答もアリでしょうし、恥ずべきほどのことでも
> ありません。楽しみです、存分にどうぞ。(^^)」
―――――――――――
【総論】

教義に正邪を論ずる場に於いて、個人的な宗教的感得、もしくは宗教的内観 の問題は全く別次元の内容である。

※1【馬鹿犬の過去の発言】

▼興師・目師の文献のどこにも記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負ってきたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

【破折】

↑このような大謗法根性の馬鹿犬には、まずは戒壇の大御本尊を軽侮するその謗法根性を呵責することが先決であって、当方の宗教的内観の状態を説明する必要は全くない。

【文証】

■寿量品の自我偈に云はく「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云。日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし。

【解釈】

この御文はまさに大聖人様御自らの御内証に三大秘法を成就為された”宗教的感得・内観・体達など”を示された御文であるが、義浄房のような実に純真・篤信な御弟子(もとは法兄)だからこそ明かされた重要深秘の御文であって、他の者に軽々に明かしてはならない、との厳命があるのである。
増してや、極悪謗法者などに大聖人の体達された境地をそのまま明かされることなど許される訳が無い。
境界は全く違うが、原理は同様であり、上記l※1のような大謗法の言を為す極悪謗法者などに、戒壇の大御本尊を純真に信行するその内的感得の状態など伝える必要など全くない。
どうしても訊きたいのなら、脱会して御法主上人に死ぬほどお詫びして、それから当方へ訊け。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

7、妄執が激しく我見が邪魔をして、御書の御文の意義が全く分からなくなる。

【感想】

ニセ本尊を拝んでいる限り馬鹿は治らず、どこまでいっても馬鹿は馬鹿 どころか、元々の馬鹿が更に酷い馬鹿になる。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。172  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)22時48分12秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

まだ”汚れカス”が残っていた。綺麗に掃除をしておきましょう。
―――――――――――
> さらに新たな「樋田昌志くん捏造新事実」、

> >御書に大聖人様の仏法の全てが表記されている訳ではないことは
> >一目瞭然である。では上記の事々は全く理解不能なのか、というとそうではない。
> >まさに唯授一人・血脈相承によって代々の猊下へその真意は御相伝されている
> >のである。
>
> では御書にない部分を表記した、法主にのみに伝わる何物か、とは
> いったいどのような文書なのか、さっさと返答せんかいな、坊や。(^o^)
―――――――――――
いつ読んでみても浅薄極まりない。
これはやはりニセ本尊だけのせいではなさそうである。もともと、相当に頭が弱かった、としか考えられないほどの 馬鹿さ加減 である。

【総論】

唯授一人・血脈相承は御先師から御一人の正嫡の御弟子へ金口(口伝)と金紙(文書)に依って伝授されるのである。

【文証による破折】

日顕上人

■「この金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです。
(中略)
また、金口というのは、仏様自らの相伝直授の深いお言葉ということであります。
(中略)
日応上人が『弁惑観心抄』に金口嫡々とお示しになったところには、金紙という意をも含んでおられるのです。
つまり、金口の内容において深い仏意の上から、文書としての金紙が存するのであります。
 本来ならば、これも申し上げてはいけないことなのですけれども、本日の要点でもありますから、このことだけは申し上げておきます。
 この金紙は、簡単に申し上げれば、文献ということであります。
しかし、当然、この文献とは、いわゆる『本因妙抄』『百六箇抄』ではありません。
文献といっても、これは金口の文献でありますから、金口のなかにすべて含まれるのです。
(中略)
 もちろん、大聖人様から日興上人様への相承は金口であります。
しかし、日興上人様も大聖人様の御講義を『御義口伝』として記し置かれたように、やはり唯授一人の金口の内容を御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。
それが、すなわち金紙であります。したがって、金紙そのものが金口の意義を持っておるのです。

 例えば、日精上人が『家中抄』の道師伝に、日目上人は日郷に御相承されたという邪説を破して、まさしく目師が道師に御相承を授けられたことを明かすなかにおいて、
  「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(日蓮正宗聖典六九五n)
ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であって、いわゆる直接、口伝のみによって申し置かれたものだけではないわけです。
つまり、金口といっても、金紙として相伝されている内容もあるのでありまして、その基本のところだけは御理解いただきたいと思います。

 しかしまた、この血脈相承を拝信する上において、釈尊が五百塵点劫よりの本仏常住をお示しになるとともに未来常住も説かれておるように、御本仏大聖人様の金口の御相伝がそのまま、御仏意によって未来永劫にわたって伝持されるということも信解していただきたいと思います。

 この御仏意が三世を貫いているということを拝するならば、御相承においても、授ける方と受ける方の意志、また、その時その時の状態や状況に応じて、色々な形が存しておるけれども、それは凡眼凡智では推し量ることのできない御相承の姿であり、そこに必ず未来永劫に至るまでの御本仏の智・慈悲が伝わっておるのであります。」

【補足】

例えば、上記御指南中の「十二箇条の御法門」の具体的な内容については、未だかつて御歴代上人のどの御方も触れられていないのである。

【結論】

「唯授一人・血脈相承」とは、その字の如く、ただ御一人から御一人へ相伝・伝持される深秘の御法門であるから、御歴代上人以外誰人も知らなくて当然である。
かつて創価学会は戸田会長を筆頭にその深秘を拝信していた。
今の創価学会はその「信」を全く失った。ただそれだけのことである。
つまり退転である。
大聖人様時代・日興上人時代にも最初は信じたような人々も多く退転していった。
創価学会もその人々と同類ということ。
実に簡単な道理である。

【上記 結論 を裏付ける、創価学会に「信」が存した時代の証拠である参考文献】

仏法の永遠の指導者 池田大せんせ〜!マンセ〜! 監修  仏哲 から。

血脈

血脈相承の略

血脈相承とは師資相承ともいい師とは師匠、資とは稟(うけ)る意味で弟子、師弟相対して法門を相伝すること。

@日蓮大聖人より日興上人への唯授一人嫡々の相承のこと。総じては、大聖人直流の門下に相伝があるといえるが、法体の相伝は唯一人に限るのである。
(中略)
化儀秘決(富要一巻三〇〇頁)には
「御大事御抄等の内意、代々の置文等を以って之れを勘うるに、中央に題目、左右に釈迦多宝を遊ばす、文の上は在世の様なれども末法の釈迦とは日蓮なり多宝とは日興なり、題目とは事行の本尊なり、謂わく十界互具して人法一個する題目なり、墳母法身の日興は左に居し智父報身の日蓮は右に居し境智冥する時中央の浸茶羅なり、然る間、日蓮の魂も題目なり、日興の魂も題目なり、唯我与我、唯仏与仏乃能究尽とは爰元なり、末法一切衆生の父は日蓮、母は日興、我れ等当体蓮華仏となる種子は題目、此の種子を高祖は授け給う日興は受け取りて九界惣在して是れをはらみ給うなり、其の種子は境智冥合定恵和融して父母をはなれざる処が中央の題目なり、其の題目成仏の子と生るる時は日日と習うなり、下種とは是なり、題目、日目同意なり名詮自性に叶うなり、夫れは血脈の次第なり」とある。

A大聖人より血脈相承を受けつぐ正統相伝家たる日蓮正宗富士大石寺門流をさす。
類衆翰集私(富要二巻三四五頁)に
「仏法に背く人・地獄に処すべきなり、当世の法華宗は大段・本尊と血脈とを知らざれば獅子身中の身に三衣を借る法盗罪の者なり」とある。

一般日蓮宗の本尊雑乱と御相伝を知らず、謗法をかさねるのを破折されている。

同じ意味で富士門流に次のような諸記がある。

六人立義破立抄私記(富要四巻二九頁)
「心は血脈乱れざる付弟代々上人は日蓮聖人の如き御本尊なり」と。
―――――――――――
【再確認】

このようにかつては信じたものを信じれなくなることを、退転 というのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。173  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月31日(水)15時19分30秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、次はこっちか。
―――――――――――
> 坊やが並べた項目の全ては、法主のみには相伝されておるのだろう?
> 二箇相承その他、現在解かっている以外の、寛師すら書き残さなかった
> 法主のみに伝わる文書とはいったい何だね?(^o^)
>
> 宗門ですら云っていないことを平気で捏造する、「無限ループ」樋田昌志くんよ、
> 書けば書くほどそのブヨついた首が落ちるなぁ、坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> さ、早うせんかいな。(^o^)
―――――――――――
↑しかし、品性に欠ける人物である。

既に前段で破折済みであった。

【前提総論】

御歴代上人にのみ伝わる文書 をその他の者が知る由もない。
当たり前の道理である。

ただし、十二箇条の御法門 だけはその存在の一端を文献に示されてある。

【文証】

■「家中抄」(※読者の便の為に注釈・句読点等を配した。)

況ヤ又(※日目上人が)御上洛の刻には法を日道に付属す。所謂、形名種脱(※本因妙抄に説かれる)の相承、(※百六箇抄に説かれる)判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用外用、金口の智識なり、別して之を論ぜば『十二箇条の法門』あり、甚深の血脈なり、其ノ器に非ずんば伝へず、此クの如き当家大事の法門、既に日道に付属す、爰に知リぬ、大石寺を日道に付属することを。後来の衆徒、疑滞を残す莫れ云云。

【結論】

このように御歴代上人にしか知り得ない文書が存在するのである。
馬鹿犬のような不信の創価学会員がどのように悪口しようが、その御歴代上人にか相伝されない金口・金紙の存在を否定することは出来ないのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。174  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 4日(日)19時40分0秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この駄犬やまいぬ。君も沖浦君同様であり、もはやまともに教義的な反論が全くできないまま、まさに 壊れたレコーダー の如く、只管、遠吠えを繰り返しているだけである。
このような頭の悪い者の繰言にいつまでもつきあっているのはもっと馬鹿らしいので、沖浦君同様、目に付いた邪義を気の向くままに破折していこう。
まずは、直ぐ下にあったこれ。
―――――――――――
Re: 活動の合間の

> コーヒー・ブレイクに。(^o^)
>
> 『「この経は相伝にあらざれば知り難し」
> を金科玉条のように出すのはいいが、「この経」が法華経二十八品のことであり、
> 蓮祖の南無――などではないと何度教えても理解出来ず、釈迦仏法にしがみつく
> 愚かな坊やよ、教学ゼロならそれらしくしていなさい。(^o^)』
―――――――――――
↑いきなり 馬鹿 である。

■宗祖云く※1「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)

日寛上人は、この御指南の如くに、※1の御文の意義を、まさに、釈尊から上行菩薩→再誕・日蓮大聖人→日興上人→日目上人・・・・と次第して相伝される、唯授一人・血脈相承の意義に於いて判釈されておられる。

駄犬やまいぬ。君の恥論などこの一言で引き飛んでしまう。呵々大笑

【補足】

因みに駄犬は日寛上人の御指南を否定出来ない理由は、既に詳細に破折済みである。
―――――――――――
【再掲】

やまいぬ。君の駄問を完摧す。153 http://toyoda.tv/yamainu2.htm

次も駄犬の自己矛盾の例である。
今回駄犬は当方を

▼見事な寛師全否定である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

と非難するのであるから、逆に言えば 「自分は日寛上人を否定していない。→御指南を用いる」 ということに為る『道理』である。
―――――――――――
↑この通り、駄犬はかつて日寛上人を”肯定”したのであるから、日寛上人の御指南を否定できない。

さ、駄犬やまいぬ。君、詫び状は?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。175  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 4日(日)22時45分38秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この駄犬は本物の馬鹿か、直前の記憶が思い出せぬ知能障害 なのか?
反論するなら、道理と文証を明確にすべきである。
馬鹿犬のしていることは、ただかつて為した痴難をそのまま繰り返しているだけではないか。
実に愚か、低脳 である。
もう少し気の利いた反論の仕方はできないのか?
このような破折に対して、何の文証も引けずに、同じ内容を繰り返すだけで、それに加えて悪口を並び立てる姿をまさに 反論不能 と呼ぶのである。

馬鹿犬の痴難など既に以下の如くに粉砕済みである。
駄犬の次の為すべき仕事は以下の破折に対して、きちんと論を組み立て、正確な文証を引き、反論することである。

さ、手抜きをせず、頑張りなさい。呵々大笑
―――――――――――
やまいぬ。君の駄問を完摧す。166  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月26日(金)23時24分58秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





ここまで馬鹿だと処理のしようがないな。
既に生きながら腐敗臭漂う 生き骸 だな。
―――――――――――
> DATE:  1月26日(金)22時52分49秒
> TITLE: 樋田昌志くんよ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
以下、全く、本質論に於いての反論がされていない。
馬鹿 そのものである。呵々

長い 複雑な構文は理解不能であると自ら公言した 馬鹿 であるから、要点を纏めてあげよう。

御書全編に亘って 以下の問題に対しての御教示がない。
何故なのか。
↑「蓮祖・興師の文証」に依って明証してみよ。
↑絶対に出来ないのである。(出来るのならその回答を待ちましょう?馬鹿犬君?呵々大笑)
↑「蓮祖・興師の文証」=御書・日興上人の文書に大聖人の仏法の全てが表記されている訳ではない。
↑それを馬鹿犬はどんな内容でも「蓮祖・興師の文証」で挙げろ。と恥言を吐く。←馬鹿である。馬鹿以上の丸馬鹿である。呵々大笑
↓以下の命題に全て「蓮祖・興師の文証」で答えられたら、馬鹿 と呼ぶのは止めてあげましょう。
そして、馬鹿犬が喚く全ての質問に「蓮祖・興師の文証」で答えてあげましょう。
↑自分が出来もしないことを人に要求してはいけないよね。
↑馬鹿 でもその位の”常識”は理解できるかな?
↑それも無理なほど『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』かな?馬鹿犬は?呵々大笑

さ、頑張れ。 馬鹿犬!呵々呵々大笑

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

更に踏み込めば

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、
地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、
大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。




やまいぬ。君の駄問を完摧す。167  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月28日(日)23時02分29秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





どれ、次はこれ砕いていきますか。
―――――――――――
> DATE:  1月27日(土)23時54分51秒
> TITLE: 眠る前に。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> >蓮祖・興師の文証、云々。

> こんなことを何度問うてやれば返答出来るのだね、坊や?(^o^)
> 「蓮祖・興師の文証」では不満かね? 不足かね?
> ダラッダラと泣き言並べる暇あらば、不満・不足ならそうとはっきり云うて
> 御覧、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
―――――――――――
↑ここまで馬鹿だともはや人間としてより人間の言語が理解できない猿に近いようである。
しかも、全く反論不能なのでしらばっくれて、跳ばしたいがために、▼「蓮祖・興師の文証、云々」などと逃げているのであろう。呵々
また、以下の簡明極まる論証を▼「ダラッダラと泣き言並べる」ようにしか読めないとしたら、これはまとまな知性ある社会人とは言えない。
このようなほぼ狂人に近い者が、行動に何の制約も受けずに社会に溶け込んでいるということが実に恐怖である。

道理(→御書には大聖人の御法門の深義の全てを御指南されている訳ではない。)を現実の事実(→大聖人一期の御本尊に関しての記述が御書には全て詳細に説かれていない)に依って中高生が読んでも理解できるように明証しているにも拘らず、この馬鹿犬は、↑上記の愚言を際限なく繰り返すしか「脳」がない。

まるで、猿に 「棒と踏み台を使わないと(←道理)天井から吊り下げられたバナナは取れないよ。(←現証)」と懇切丁寧に説明してあげているのに、それが全く理解できず、理解できる脳がなく、ただ「キー!キー!」とヒステリックに棒を振り回して喚き続ける醜態を晒しているのがこの馬鹿犬(猿)である。(犬より猿に昇格できて良かったな。という声もあるかも知れないが。呵々)

この馬鹿犬に再度(再度どころではないが。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜)教訓する。(猿には直ぐに理解するのは無理かもしれないが繰り返し反復学習を重ねればいつかは学び取ることであろう)

【再説】

■今末法に入って眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり。此の御本尊より外に眼目無きなり

↑と仰せの大聖人の仏法での最大事である「御本尊」に関して、その詳細な全ての説示が何故御書になされていないのか。
その一端を示す為に、列挙した項目が以下の事項である。

【現証】

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?
★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?

以下略

以上の項目の内容は全て御書には説かれていない。

↑から導き出される結論】

御書には大聖人の仏法の深義の全てが説き示されている訳ではない。唯授一人・血脈相承に依って歴代の御法主上人にのみ伝持・相伝されているのである。

【文証】

■宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)

■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

【結論】

以上の簡明な論証により、馬鹿犬が頑迷に「蓮祖・興師の文証」にのみ拘ることは、全く非合理で現実を無視したただの妄執であり、全く採用するに足らない的外れな反駁である。
馬鹿犬は正当な教義に於いて論理的な反論が出来ないがために、「蓮祖・興師の文証」という一言を、ただ強引に唯一の隠れ蓑にして論撃から遁走しているだけのことである。
こういうのを”猿智慧”というのである。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

2、ニセ本尊の猛毒は人の正常な理性を蕩かして使い物にならなくさせ、邪な猿智慧を発達させる。(ようである。)呵々大笑

つづく




やまいぬ。君の駄問を完摧す。168  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月29日(月)18時19分27秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





さて、夕飯前、これを砕いていきますか。
―――――――――――
> ぜーんぶ返答不能の、昨年7月以来坊やが逃げ廻っておる膨大な問いの
> 一部、 コピー・ペーストしてやる。
>
> 「●>「辨惑観心抄」云々。
> >●2、御本尊を書写できる方は唯授一人・血脈相承を受けられた方に限る。
> >ということは、そのことだけでも実に尊く有難いことでしょう。

> いいえ。(^o^)
> 「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」
> ▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に弘めても」いない、▼2「広宣流布を進め」てもいない
> 人間が、▼3「法を弘めている人間」より▼4「偉いとか有難いとか、いったい御書のどこにあるのでしょうね?
> (^^) 是非挙げてみてください。楽しみです。(中略)」
―――――――――――
↑昔も今も 馬鹿は馬鹿、である。呵々
こんな愚問、一体いつの投稿か知らないが、まずこの馬鹿犬の論理の筋道がずれている。

【道理】

1、「法」とは煎じ詰めれば三大秘法→一大秘法=戒壇の大御本尊 の御ことである。(異論があるなら頑張ってやってごらん)
その戒壇の大御本尊の内証を書写された正統な「御本尊」を弘めてこそ尊いのである。
一口に「広める」といっても正統な御本尊がなければ始まらない。
この正統な御本尊は日蓮正宗にのみ存している。

【通解・解釈】

であるから、上記の御文「法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。」の意義はこうなる。

「三大秘法の体である正統な御本尊は自ら弘まることはない。であるから、その流布すべき三大秘法の体である御本尊を唯一書写し具現化することが出来る御法主上人は真に尊い。更にまた、その正統な御本尊を流布することが出来る唯一の宗派である日蓮正宗の僧俗は、これまた真に尊い。そして弘められる日蓮正宗にのみ有する正統な御本尊も真に尊い」

【破折】

一方創価学会が販売している掛け軸に見せかけた詐欺的 魔札・鬼札は「開眼」がない大謗法物である。
馬鹿犬は自分達創価学会が「正統な本尊」を広めていると錯誤しているがとんでもない大馬鹿者である。

@ニセ本尊という大謗法物を▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に弘めても」大悪・極悪の行為にしかならない。
Aニセ本尊という大謗法物を販売することは▼2「広宣流布を進め」ていることには、全くならない。
Bニセ本尊という大謗法物を販売する創価学会員は▼3「法を弘めている人間」ではなく、「”悪法”を弘めている人間」達である。
C@〜Bに当て嵌まる大謗法の者が、世界で唯一正統な御本尊を有し弘めている日蓮正宗の「広宣流布」について云々する資格など全くない。

【例】

例えば、悪鬼魔神が乱入している 神札 を販売している神社の神主が、日蓮正宗の正統な御本尊の広宣流布の状況についてとやかく言う立場も資格もないのと同様である。

【馬鹿犬の愚問を活用して再破折】

1、▼1「自ら行動を起こし、同門の信徒を励まして、現実に”ニセ本尊を”弘めても」それは、▼2「”正しい”広宣流布を進め」てもいない
> 人間 であり、▼3「”正しい”法を弘めている人間」ではない。
↑こういう行為が大謗法であり、無間地獄へ真逆さま、という御文は「御書」に繁多である。

2、開眼のないニセ本尊を販売する人間や団体が、正統な御本尊を唯一書写し顕す事ができる御法主上人とその正統な御本尊を流布する日蓮正宗僧俗より▼4「偉いとか有難いとか、いったい御書のどこにあるのでしょうね?
> (^^) 是非挙げてみてください。楽しみです。(中略)」

【結論】

馬鹿犬がどんなに何の痴論を蒸し返してみても全く無駄である。呵々大笑
むしろ 創価学会の恥 となるから、同門の者達は忠告してあげたら如何か?呵々大笑

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

5、しつこいネバネバした性格となり、くどくど絡みつくようになる。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。175-2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 4日(日)22時51分20秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。169  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)10時00分7秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





ほい、次はこの馬鹿犬の恥言。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜
―――――――――――
> >御本尊への真の「信」があれば、その御本尊様を書写をされる(することが
> >できる)方への有難さは、当然領解できますが、「信」がない方には
> >分からないところです。

> 上記3行、文証を出してください。」
―――――――――――
↑本当に根性の腐ったゴミ である。

■日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。

このように仰せに為る日興上人(と日興上人を上首とした御歴代上人)へ「有難さ」を感じないとすれば、それは不知恩・忘恩の徒 であり、もはや正しい仏法修行者の姿ではない。
つまり馬鹿犬など仏法を語る資格など元よりない。

■我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。

ここに仰せの通り、馬鹿犬はその名の通り、不知恩・忘恩の 犬畜生 である。
犬畜生が仏法を云々するなど、以ての外である。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

6、不知恩・忘恩の犬畜生の境涯に堕ちる。




やまいぬ。君の駄問を完摧す。170 記念する気にもならん。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)10時18分2秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





次。
しかし、実に下らん。
―――――――――――
> ついでだ。もう一つ。
>
> 「>(戒壇の大御本尊様の御法魂とは:やまいぬ。註)唯授一人血脈相承された方
> >以外は全く知らないこと。知りえないこと。
> (知りたければ:やまいぬ。註)
> >1、脱会して戒壇の大御本尊様を一心に信じ拝すれば、総じての義においての
> >御法魂を感得する事
> >2、唯授一人・血脈相承をお受けになる立場として生まれてくること

> まず単純に矛盾していますよ。(^^)
> 「唯授一人血脈相承された方以外は『全く知りえない』」筈のものも、「総じての
> 義において法魂を感得する事が出来る」――『全く知りえない』とは1から10まで
> 『全く知りえない』ことであり、「総じての義において法魂を感得する事が出来る」、
> つまりその一部でも解かるというのは、すでに矛盾していますね。(^^)
> (宗門教学とは、ご都合主義で一貫していないせいでこんな矛盾の継ぎ接ぎ
> だらけですが)
―――――――――――
↑本当に、こんな馬鹿相手に貴重な時間が浪費されると思うと情けない。
総別の義 などこの犬畜生には到底理解は及ばないであろう。

以下再掲文で十分である。不知恩の犬畜生ごときには。

【再掲文】
―――――――――――
→この程度か?所詮。
駄犬の普段の生活の貧相さが偲ばれるな。
侘しく夕食の支度しながら一人パソコンに向かう・・・実に貧相である。呵々

※何故なら)こういう低脳な切り返しの仕方は駄犬の特徴であり、これでは概ね、上司・同僚・知人・友人・恋人・客 等に嫌悪され唾棄されるからである。
これでは、上長の位(法華経信仰の功徳として列記されている)などにはとても昇れず、それどころか事為すごとに嫌われ者であろう。
いやはや、全く。(=_=)

では破折いきますか。
駄犬は、能所の法門を知らぬ。ただそれだけのことである。(しかし、本当につまらんな。少し気の効いた謗法者なら、こんな痴難は流石にしないがね。)
”別して”の御法魂の意義とは、能所でいったら、能の辺であり、その能の辺は、唯授一人・血脈相承された方以外は絶対に知り得ない。
”総じて”の義に於いての御法魂 とは、所の辺であり、この所の意義としての御法魂(※事の一念三千・十界本有常住等)を分分に感得できるのである。
その現証として、かつて駄犬の反論不能の箇所を挙げる。

つまり能の辺は、御本尊書写の御尊行である。
―――――――――――
> >その戒壇の大御本尊様の御法魂を唯一御書写為される方が御法主上人であり、

> コピー係がコピーせずして、何のために存在するのだ?(^o^)

→実に不遜極まりない発言である。御本尊への深い信がないからこのような暴言を平然と吐き散らかすことが出来るのである。
以下の質問の連打にやまいぬ。君は論理明快に返答が出来るのか?
● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。
1、貴公にはその資格があるのか?
2、誰ならいいのか。
3、秋谷君か?
4、かね子さんか?
5、池田大作か?
6、それとも瓦解の(もとい学会の)副会長から上か?
7、顕正会の浅井では駄目なのか?
8、立正佼成会の現会長が書写したらそれは"御本尊" になり得るのか?
9、また何故日寛上人でなければならないのか。
10、日寛上人の他には誰ならいいのか。
11、やまいぬ。君の理屈だと、、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」である、日蓮正宗の御歴代上人よりも、大聖人御真筆をそのまま”コピー”した身延の土産掛け軸の方がよっぽど筋が通っているではないか?(しかも曲がりなりにもちゃんと掛け軸として装丁されているから、学会の一枚刷りのぺらぺら模造掛け軸よりは物品としてよほどしっかりしている)

これら全てに明確にその理由を文証を以って添えて返答してみよ。
やまいぬ。君では絶対に無理であろう。出来るわけがないのである。
何故なら、■「諸宗は本尊にまどへり」だからである。
斯様に悩乱の極みの状態の癖に、上記のような暴言を平気で吐けるものをやはり頭破七分というのである。
―――――――――――
重ねていう、上記の詰問に「蓮祖・興師の文証を挙げて」回答せよ。
出来なけれな、この板で公式に謝罪して脱会。
よろしいな。(-。-)y-゜゜゜ (再掲文 以上)
―――――――――――

さて、馬鹿犬君。これらの詰問に明確に答えてから、先に進みましょうね。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。175−3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 4日(日)22時52分31秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。171  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)13時34分4秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





さて、午後の第一題
―――――――――――
> そのうえで樋田さん個人に伺いましょう。あなたは「戒壇の大御本尊様を一心に
> 信じ拝して、総じての義においての御法魂を感得」したのですか? 感得したのなら
> 説明できますね?
> 教義の正しさを説くこのやり取りの中で、「知っているけど云わない」はないでしょう。
> 御存知ならばお書きください。
> 勿論「未熟だからまだ知らない」という返答もアリでしょうし、恥ずべきほどのことでも
> ありません。楽しみです、存分にどうぞ。(^^)」
―――――――――――
【総論】

教義に正邪を論ずる場に於いて、個人的な宗教的感得、もしくは宗教的内観 の問題は全く別次元の内容である。

※1【馬鹿犬の過去の発言】

▼興師・目師の文献のどこにも記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負ってきたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)
> (身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^)

【破折】

↑このような大謗法根性の馬鹿犬には、まずは戒壇の大御本尊を軽侮するその謗法根性を呵責することが先決であって、当方の宗教的内観の状態を説明する必要は全くない。

【文証】

■寿量品の自我偈に云はく「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云。日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし。

【解釈】

この御文はまさに大聖人様御自らの御内証に三大秘法を成就為された”宗教的感得・内観・体達など”を示された御文であるが、義浄房のような実に純真・篤信な御弟子(もとは法兄)だからこそ明かされた重要深秘の御文であって、他の者に軽々に明かしてはならない、との厳命があるのである。
増してや、極悪謗法者などに大聖人の体達された境地をそのまま明かされることなど許される訳が無い。
境界は全く違うが、原理は同様であり、上記l※1のような大謗法の言を為す極悪謗法者などに、戒壇の大御本尊を純真に信行するその内的感得の状態など伝える必要など全くない。
どうしても訊きたいのなら、脱会して御法主上人に死ぬほどお詫びして、それから当方へ訊け。

【発見】

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという症例』

7、妄執が激しく我見が邪魔をして、御書の御文の意義が全く分からなくなる。

【感想】

ニセ本尊を拝んでいる限り馬鹿は治らず、どこまでいっても馬鹿は馬鹿 どころか、元々の馬鹿が更に酷い馬鹿になる。呵々大笑




やまいぬ。君の駄問を完摧す。172  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月30日(火)22時48分12秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





まだ”汚れカス”が残っていた。綺麗に掃除をしておきましょう。
―――――――――――
> さらに新たな「樋田昌志くん捏造新事実」、

> >御書に大聖人様の仏法の全てが表記されている訳ではないことは
> >一目瞭然である。では上記の事々は全く理解不能なのか、というとそうではない。
> >まさに唯授一人・血脈相承によって代々の猊下へその真意は御相伝されている
> >のである。
>
> では御書にない部分を表記した、法主にのみに伝わる何物か、とは
> いったいどのような文書なのか、さっさと返答せんかいな、坊や。(^o^)
―――――――――――
いつ読んでみても浅薄極まりない。
これはやはりニセ本尊だけのせいではなさそうである。もともと、相当に頭が弱かった、としか考えられないほどの 馬鹿さ加減 である。

【総論】

唯授一人・血脈相承は御先師から御一人の正嫡の御弟子へ金口(口伝)と金紙(文書)に依って伝授されるのである。

【文証による破折】

日顕上人

■「この金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです。
(中略)
また、金口というのは、仏様自らの相伝直授の深いお言葉ということであります。
(中略)
日応上人が『弁惑観心抄』に金口嫡々とお示しになったところには、金紙という意をも含んでおられるのです。
つまり、金口の内容において深い仏意の上から、文書としての金紙が存するのであります。
 本来ならば、これも申し上げてはいけないことなのですけれども、本日の要点でもありますから、このことだけは申し上げておきます。
 この金紙は、簡単に申し上げれば、文献ということであります。
しかし、当然、この文献とは、いわゆる『本因妙抄』『百六箇抄』ではありません。
文献といっても、これは金口の文献でありますから、金口のなかにすべて含まれるのです。
(中略)
 もちろん、大聖人様から日興上人様への相承は金口であります。
しかし、日興上人様も大聖人様の御講義を『御義口伝』として記し置かれたように、やはり唯授一人の金口の内容を御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。
それが、すなわち金紙であります。したがって、金紙そのものが金口の意義を持っておるのです。

 例えば、日精上人が『家中抄』の道師伝に、日目上人は日郷に御相承されたという邪説を破して、まさしく目師が道師に御相承を授けられたことを明かすなかにおいて、
  「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(日蓮正宗聖典六九五n)
ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であって、いわゆる直接、口伝のみによって申し置かれたものだけではないわけです。
つまり、金口といっても、金紙として相伝されている内容もあるのでありまして、その基本のところだけは御理解いただきたいと思います。

 しかしまた、この血脈相承を拝信する上において、釈尊が五百塵点劫よりの本仏常住をお示しになるとともに未来常住も説かれておるように、御本仏大聖人様の金口の御相伝がそのまま、御仏意によって未来永劫にわたって伝持されるということも信解していただきたいと思います。

 この御仏意が三世を貫いているということを拝するならば、御相承においても、授ける方と受ける方の意志、また、その時その時の状態や状況に応じて、色々な形が存しておるけれども、それは凡眼凡智では推し量ることのできない御相承の姿であり、そこに必ず未来永劫に至るまでの御本仏の智・慈悲が伝わっておるのであります。」

【補足】

例えば、上記御指南中の「十二箇条の御法門」の具体的な内容については、未だかつて御歴代上人のどの御方も触れられていないのである。

【結論】

「唯授一人・血脈相承」とは、その字の如く、ただ御一人から御一人へ相伝・伝持される深秘の御法門であるから、御歴代上人以外誰人も知らなくて当然である。
かつて創価学会は戸田会長を筆頭にその深秘を拝信していた。
今の創価学会はその「信」を全く失った。ただそれだけのことである。
つまり退転である。
大聖人様時代・日興上人時代にも最初は信じたような人々も多く退転していった。
創価学会もその人々と同類ということ。
実に簡単な道理である。

【上記 結論 を裏付ける、創価学会に「信」が存した時代の証拠である参考文献】

仏法の永遠の指導者 池田大せんせ〜!マンセ〜! 監修  仏哲 から。

血脈

血脈相承の略

血脈相承とは師資相承ともいい師とは師匠、資とは稟(うけ)る意味で弟子、師弟相対して法門を相伝すること。

@日蓮大聖人より日興上人への唯授一人嫡々の相承のこと。総じては、大聖人直流の門下に相伝があるといえるが、法体の相伝は唯一人に限るのである。
(中略)
化儀秘決(富要一巻三〇〇頁)には
「御大事御抄等の内意、代々の置文等を以って之れを勘うるに、中央に題目、左右に釈迦多宝を遊ばす、文の上は在世の様なれども末法の釈迦とは日蓮なり多宝とは日興なり、題目とは事行の本尊なり、謂わく十界互具して人法一個する題目なり、墳母法身の日興は左に居し智父報身の日蓮は右に居し境智冥する時中央の浸茶羅なり、然る間、日蓮の魂も題目なり、日興の魂も題目なり、唯我与我、唯仏与仏乃能究尽とは爰元なり、末法一切衆生の父は日蓮、母は日興、我れ等当体蓮華仏となる種子は題目、此の種子を高祖は授け給う日興は受け取りて九界惣在して是れをはらみ給うなり、其の種子は境智冥合定恵和融して父母をはなれざる処が中央の題目なり、其の題目成仏の子と生るる時は日日と習うなり、下種とは是なり、題目、日目同意なり名詮自性に叶うなり、夫れは血脈の次第なり」とある。

A大聖人より血脈相承を受けつぐ正統相伝家たる日蓮正宗富士大石寺門流をさす。
類衆翰集私(富要二巻三四五頁)に
「仏法に背く人・地獄に処すべきなり、当世の法華宗は大段・本尊と血脈とを知らざれば獅子身中の身に三衣を借る法盗罪の者なり」とある。

一般日蓮宗の本尊雑乱と御相伝を知らず、謗法をかさねるのを破折されている。

同じ意味で富士門流に次のような諸記がある。

六人立義破立抄私記(富要四巻二九頁)
「心は血脈乱れざる付弟代々上人は日蓮聖人の如き御本尊なり」と。
―――――――――――
【再確認】

このようにかつては信じたものを信じれなくなることを、退転 というのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。175−4  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 4日(日)22時54分58秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。173  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月31日(水)15時19分30秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp
  引用





さて、次はこっちか。
―――――――――――
> 坊やが並べた項目の全ては、法主のみには相伝されておるのだろう?
> 二箇相承その他、現在解かっている以外の、寛師すら書き残さなかった
> 法主のみに伝わる文書とはいったい何だね?(^o^)
>
> 宗門ですら云っていないことを平気で捏造する、「無限ループ」樋田昌志くんよ、
> 書けば書くほどそのブヨついた首が落ちるなぁ、坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> さ、早うせんかいな。(^o^)
―――――――――――
↑しかし、品性に欠ける人物である。

既に前段で破折済みであった。

【前提総論】

御歴代上人にのみ伝わる文書 をその他の者が知る由もない。
当たり前の道理である。

ただし、十二箇条の御法門 だけはその存在の一端を文献に示されてある。

【文証】

■「家中抄」(※読者の便の為に注釈・句読点等を配した。)

況ヤ又(※日目上人が)御上洛の刻には法を日道に付属す。所謂、形名種脱(※本因妙抄に説かれる)の相承、(※百六箇抄に説かれる)判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はゞ内用外用、金口の智識なり、別して之を論ぜば『十二箇条の法門』あり、甚深の血脈なり、其ノ器に非ずんば伝へず、此クの如き当家大事の法門、既に日道に付属す、爰に知リぬ、大石寺を日道に付属することを。後来の衆徒、疑滞を残す莫れ云云。

【結論】

このように御歴代上人にしか知り得ない文書が存在するのである。
馬鹿犬のような不信の創価学会員がどのように悪口しようが、その御歴代上人にか相伝されない金口・金紙の存在を否定することは出来ないのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。176  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 6日(火)23時47分46秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

もはや、完全に同じ痴論しか繰り返せない馬鹿犬は、狂人と同様。
普通の人間の言葉を全く理解できず、ただ妄想を際限なく大声で喚き続けるしか、自分の存在の意味が確認できないのであろう。
まさに 『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 である。
こういう狂人の発展性のない狂気の言を相手にしても何の価値も見出せないので、馬鹿犬お待ちかね、かつての愚論を切り刻んで砕いていきますか。
馬鹿犬これに対しても猛然と突っかかってくるであろうから、その必死さを眺めてみるのもまた一興である。

では、ボチボチといきますかね。
―――――――――――
> DATE:  8月26日(土)17時40分50秒
> TITLE: さてと。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> 蓮祖曰く
> 「仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・
> 伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、
> 末法の始に一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり。 わたうども
> (和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。」
>
> 蓮祖が「さきがけ」されたものに続かないで、いったい何が蓮祖仏法ですか?(^o^)
> 「いつまで経っても我が仏法は広宣流布しない」と蓮祖が書いておられますか?(^o^)
―――――――――――
↑ここでもう馬鹿丸出しである。

久遠即末法 ということすら知らないらしい。

■日寛上人
『久遠は今日今日は久遠なり。』

であるならば、久遠元初の下種仏法は鎌倉時代の大聖人の御化導と全く同じであった訳である。

■百六箇抄
『末法の時尅の弘通の本迹 本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは芥爾り計も違はざる勝劣なり云云。』

無始の本源の本地である久遠元初から、今からは計り知れない長遠の昔である五百塵点まで、凡夫の智慧ではやはり計り知れない時間が経過したことは誰でも分かる道理である。
その間、久遠元初の下種仏法の化導では解脱出来なかった多くの衆生が熟脱仏法に来入する。

日顕上人御説法 昭和63年虫払会 曽谷入道殿許御書 昭和63年04月06日 於 総本山・御影堂
■久遠元初に凡夫即座開悟の釈尊が衆生に根本の仏種を下し、それによって当座に即身成仏の利益を得る衆生も無数であったと思われますが、また久遠元初の仏法を信解できなかった衆生は仏道に退転を起こして六道に流転し、それ以来、多塵劫を経て衆生の機を調え、道心を養うに応じて仏も衆生も次第に仏道の高位に至り、ついに五百塵点劫の古に本果第一番の仏として顕れ、方便の相をもって身を厳り、方便の四教、八教を説いて衆生の機根を調え、法華経を説いて実に入らしめられたことが御書の意に明らかであります。
 以来、五百塵点劫という算数譬喩も及ばざる永い間、本果の仏として出現し、久遠元初下種結縁して以来、退転の衆生の機を調えて化導の実を挙げ、三千年前インドに出現して久遠元初以来のすべての過去下種有縁の衆生を脱せしめ、すなわち成仏せしめ、収羅結撮してその化導を終わられたと示されるのであります。

久遠即末法 であるのだから、末法の下種仏法の流伝も久遠元初と同一なのである。
”久遠元初からたかだか750年で広宣流布が達成した”などという、文も義もましてや現証もどこにも発見できない。
”広宣流布”とは永劫ともいえる年月の弛まない本因下種仏法の弘通である。
久遠元初 や 五百塵点劫 との概念からすれば、”750年”など一瞬・一刹那・一弾指 である。
ある団体がある時期、そこそこに下種仏法を弘教したからといって、結局ある一定期間の後こぞって久遠元初の下種仏法の本源であらせられる人法一箇の戒壇の大御本尊から退転したら、何にもならない。
その情けなさを深く恥じ入ることはあっても、間違っても慢心を起こして自慢できる事柄ではない。
真の地涌の菩薩とは何があっても終生戒壇の大御本尊から退転しない者のことを言うのである。

というわけで、馬鹿犬の妄執など、ただ過去を讃ずる驕慢 に過ぎない。
そんな者は”地涌の菩薩”でもなんでもない、ただの 一闡提人 である。
『開眼のないニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 ということである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。177  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 7日(水)16時00分40秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

はい、では次行こうか。
―――――――――――
▼1『> こう書くと法華講さんは、なんとかの一つ覚えで「蓮祖仏法でないものがいくら広まっても」と
> 泣き言云います。情けない。泣き言など100万回繰り返しても広宣流布は一歩も進まない
> のですよ。宗門・法華講が学会よりも広まってから、そういう言葉は吐くものです。
>
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。』
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
>
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば釈尊は
> 大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。」
―――――――――――
↑つくづく”馬鹿に付ける薬なし。”である。
▼1『』については、前段で呵責済み である。

【一部再掲】

久遠即末法 であるのだから、末法の下種仏法の流伝も久遠元初と同一なのである。
”久遠元初からたかだか750年で広宣流布が達成した”などという、文も義もましてや現証もどこにも発見できない。
”広宣流布”とは永劫ともいえる年月の弛まない本因下種仏法の弘通である。
久遠元初 や 五百塵点劫 との概念からすれば、”750年”など一瞬・一刹那・一弾指 である。
ある団体がある時期、そこそこに下種仏法を弘教したからといって、結局ある一定期間の後こぞって久遠元初の下種仏法の本源であらせられる人法一箇の戒壇の大御本尊から退転したら、何にもならない。
その情けなさを深く恥じ入ることはあっても、間違っても慢心を起こして自慢できる事柄ではない。
真の地涌の菩薩とは何があっても終生戒壇の大御本尊から退転しない者のことを言うのである。

というわけで、馬鹿犬の妄執など、ただ過去を讃ずる驕慢 に過ぎない。
そんな者は”地涌の菩薩”でもなんでもない、ただの 一闡提人 である。
『開眼のないニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 ということである。呵々大笑
―――――――――――
次に御文の引文の仕方が全く為っていないので呵責しておきましょう。

> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。」
―――――――――――
↑「仏法は勝負」 について

 御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。
それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。
つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。
したがって、道理の上から一切の教法や思想を見れば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。
このように、様々な教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕れてくる。したがって、特に道理をもって根本とするのである。

 大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至探して顕された文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、およぴ大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。

 『四条金吾殿御返事』では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界に在っても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。
つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然(えんねん)として現実世界に顕れてくることを説かれたものなのである。

 つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。
さらにいえば、仏道修行における敵とは、正法に背く邪法邪師の邪義であり、それを粉砕して正法を宣布し、平和な国家を建設することにあると知らなければならない。

であるから、駄犬やまいぬ。君など創価学会は、その”勝中の最勝”の法である戒壇の大御本尊への信を一度は持ったが、高々約50年で退転しただけのことであって、かつて”勝”法を広めたことを”自慢”しても、今はその”勝”たる実体は全く存在しないのである。
むしろ、その勝妙の大法・戒壇の大御本尊を

▼「興師・目師の文献のどこにも記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負ってきたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)(身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^))(←やまいぬ。筆)

などと徹底的に愚弄している大馬鹿者など”勝負”でいったらむしろ”負けが中の負け”である。

駄犬やまいぬ。など、例えてみれば、波木井実長が、手続ぎの師匠である時の御法主・日興上人に背き、四箇の謗法を犯している状態で、かつて大聖人を我が所領へお迎えした功績を、くどくどと自慢しているような醜態である。
ああ、惨め。である。
馬鹿もいい加減で自分の馬鹿さかげんに気が付かないと、大聖人の下種仏法では最早救われず、永劫の年月地獄でもがき苦しんだ挙句に、熟脱仏法へ回される羽目になるぞ。呵々大笑(馬鹿にはこの意味すら分からないだろうが。も一つおまけに、呵々大笑)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。178  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月11日(日)22時49分1秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

日寛上人の御指南について、駄犬やまいぬ。君と妄犬マゴマゴ君を同時に劈いておきますか。
―――――――――――
Re: あーあ。

【駄犬やまいぬ。君】> 面倒くさい。(^o^)
>
【73氏】> >南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師
> >元々江戸期の漢文体の文献です。「、」も「。」も原文にはありません。
> >それで、日蓮正宗に正しく血脈が流れていないという証明になるのかい?
>
> マグ様「そ〜んな大それたこと(あなたにとって致命的なこと?)とは
> 関係ないでしょうね。。。笑  ま、あり得ることとすれば、
> あなたご自身で書いていることをあなたご自身が否定することになる可能性がある、
> ってな感じかなぁ。
> で、結局、↑上の意味がお分かりではなかった。。。ヤレヤレヽ(~〜~ )ノ
> いいんじゃないですか、それはそれでね。。。出張マグマグ」
>
【73氏】> >論文はわかりにくい、普段の文章はファジィ、
>
【駄犬】> えー、73は「自分が本当に阿呆だ」と、公衆の面前で宣言しました。(^o^)
> とうに知っているよ、そんなことは。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊や、脳細胞も相当壊死し、しかもそれを繋ぐシナプスは殆ど機能して
> おらんようやな?(^o^) 首から上についているのは「飾り」かね?(^o^)
>
【73氏】> >どこに、「自分が本当に阿呆だ」と、公衆の面前で宣言したのかな?
>
【駄犬】> (^o^) 至極簡単なたった3行をどっかいできないぼうやのポンコツあたまを
> 恨みなさい。(^o^) 本当に解からないのかね、ボクちゃん?(^o^)
>
【73氏】> >分からないから、キミが説明してくれるかな?
> >坊や? 至極簡単なやつ、よろしく。
>
【駄犬】> やれやれ。
>
【73氏】> >南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師
> >元々江戸期の漢文体の文献です。「、」も「。」も原文にはありません。
> >それで、日蓮正宗に正しく血脈が流れていないという証明になるのかい?
>
【駄犬】> まず話の大前提として、坊や達法華講は宗門、就中法主に紛れもなく
> 「蓮祖からの血脈」が流れていることを、他でもない蓮祖・興師の文証を以って
> 証明する必要がある。
> それがこの3行においては「江戸期の漢文体」と73自ら書いておる。
> つまりここでは、「日蓮正宗に正しく血脈が流れているという証明」は
> なにもなされていない。(^o^)
> 要はこの3行、「日蓮正宗に正しく血脈が流れているともいないとも」、
> 何の証明にもなっておらん役立たずな文章である。(^o^)(^o^)
>
> 対してマグ様は
> 「そ〜んな大それたこと(あなたにとって致命的なこと?)とは
> 関係ないでしょうね。。。笑 」
>
> と、上記、何の関係もないことをほのめかされながら、
>
> 「ま、あり得ることとすれば、」
>
> と、ある可能性を示唆されておる。何か?
>
> 「あなたご自身で書いていることをあなたご自身が否定することになる
> 可能性がある、ってな感じかなぁ。」
>
> つまり、蓮祖・興師という上代において、「蓮祖から目師以降の法主へ」
> という「唯授一人血脈相承」などというものはどこにも書かれていない、
> (御書の中には恐ろしいことに、「唯授一人血脈相承」という8文字は、ただの
> 1箇所として存在しない。(^o^) )
>
> つまり「唯授一人血脈相承」なる言葉や概念そのものが後代の作り事であり、
> 現在の宗門における血脈観の全否定の可能性を有している、ということである。
>
> 「で、結局、↑上の意味がお分かりではなかった。。。ヤレヤレヽ(~〜~ )ノ
> いいんじゃないですか、それはそれでね。。。出張マグマグ」
>
> はい、どっかいりょくなく、自分の書いた文章の意味も解からない人間は、
> 「それはそれで」、ひとに笑われながら生きていくのも「好きにしなさい」、ですね。
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
【呵責】

駄犬、あいも変わらず、進歩のない愚人である。

この件に関しては既に完全に破折しつくしているので、編集し再掲する。
駄犬及び妄犬マゴマゴ君はこれに対して的確な文証を引文しつつ明晰に反駁すべきである。
下らない駄文投稿に精を出している暇があるのなら、少しは”教義的”に反駁してみよ。
―――――――――――
【破折】

当家三衣抄
―――――――――――
 創価学会側は、日寛上人の『当流行事抄』の
■「久遠元初の仏宝とは日蓮大聖人。久遠元初の法宝とは本門の本尊・南無妙法蓮華経。そして久遠元初の僧宝とは即ち是れ御開山上人なり」との御文をもって、僧宝とは日興上人のみであり「日顕(上人)が僧宝であるわけがない」と、意気揚々と僧宝義を説明しているつもりなのだろうが、まったくの的外れである。

 日蓮正宗の教義に明かされる三宝には
@一体三宝
A別体三宝
B住持三宝
の三義がある。
 彼らが引用する『当流行事抄』の御文は、別体三宝の義のみを仰せられている箇所であり、これだけを取り上げて三宝の意義のすべてである、とするのは誤りである。もちろん、この御文においても「歴代上人は僧宝ではない」「日顕上人は僧宝でない」などという義を示されていないことは当然である。

 なお、日寛上人の『当家三衣抄』に
■「南無仏・南無法・南無僧とは、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」
    (聖典九七一頁)
とあり、また『三宝抄』にも
■「付嘱伝授は即ち僧宝なり」(歴代法主全書第四巻三六五頁)
■「金口相承即是僧宝也」(歴代法主全書第四巻三七二頁)
■「爾来日目日道代々咸(ことごと)く是れ僧宝なり」(歴代法主全書第四巻三九〇頁)
と仰せられているとおり、仏法を伝持する意義(住持三宝)によって御歴代上人すべてが僧宝として尊信の対象となることを示されている。

 学会は、自分たちに都合のいい『当流行事抄』の御文だけを挙げて、不都合な御文は隠して自らを正当化しようとする。
念のため、それでも分からない者のために、池田大作の過去の発言を挙げておこう。

【発言に間違いは絶対にないはずの”永遠の仏法指導者”・池田せんせ〜〜の発言】

☆「『僧宝』とは今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる」(聖教新聞S五三・二・二六)

と、ハッキリ、今日の僧宝とは日顕上人猊下である、と断言しているのである。

―――――――――――
 学会は、「三宝」について、

▼「仏教徒が敬(うやま)うべき仏宝・法宝・僧宝の『三宝』。それぞれ、仏宝とは日蓮大聖人、法宝とは大御本尊、僧宝とは日興上人のことをさす」

としている。
そして、宗門の御能化方が
●「御法主上人猊下の御内証は戒壇の大御本尊と不二の尊体」
と述べたことを挙げて
▼「これでは日顕(上人)が御本仏と肩を並べる仏宝となってしまう」とか、
▼「日寛上人が『当流行事抄』の中で仰せのように、僧宝は日興上人ただお一人のことである」等といっている。

 そもそも三宝とは、衆生を救うべく世に出生された「仏」と、仏が覚知し世に説かれた「法」、そして、その法を後々の世に護(まも)り伝えていく「僧」の三つをいうが、この仏・法・僧の三つが揃(そろ)って、はじめて衆生を利益し世を救済することができるので、世の宝として尊崇(そんすう)するのである。

【仏宝】
 すなわち、この宇宙間にどのような素晴らしい法が存在していたとしても、それを覚知して世に説かれる方がおられなければ、誰人もその恩恵をこうむることはできない。ゆえに、まず、仏を宝と尊崇するのである。
【法宝】
 また、仏の説かれる法の功徳によって、一切衆生は苦悩から救われ、成仏の境涯を得ることができるのだから、法を宝として尊崇するのである。
【僧宝】
 そして、この仏と法が世に出現しても、これを正しく習い伝えていく僧がおられなければ、仏法は後世へ伝わることなく断絶してしまうので、僧を宝として尊崇するのである。

 次に、この三宝の各々の関係についてであるが、『涅槃経』には、

■「三宝を分別すべからず」

と説かれ、日蓮大聖人も

■「三宝一体」

と仰せられているように、三宝は、本質的には一体の関係になっているのである。

 つまり、まず仏とは、宇宙の根源の法を覚知された方のことで、法を覚知しておらなければ仏とは申せない。
 また、法といっても、これを覚知して世に説き出だす方(仏)がおられなければ、その存在は土中に埋もれた金と同様、存在しないに等しい。
 ゆえに、法あっての仏、仏あっての法であり、両者は一体となっていることが解る。
 次に僧とは、仏が覚知した法の一切を譲り受け、仏の後継者(代理者)として後世に伝持していく方をいうが、後継者・代理者という意義からいけば、僧は仏の立場を引き継ぎ、仏と連なる一体の立場になった方である、といえる。

 以上のことから、三宝は、形は異なれども本質的には一体、と仰ぐのである。

 しかして、日蓮大聖人の仏法における三宝の立て方は、第二十六世日寛上人が
■「南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、
...南無日蓮大聖人師。
...南無本門戒壇の大本尊。
...南無日興上人師、...日目上人師、嫡嫡(ちゃくちゃく)付法歴代の諸師。
 此くの如き三宝を」云々    (『当家三衣抄』)
とお示しのとおり、

仏宝―御本仏日蓮大聖人
法宝―大聖人御所顕の大曼荼羅御本尊
僧宝―血脈付法の日興上人、以下、御歴代上人

となる。(日寛上人の『当流行事抄』の中では、僧宝を要約して、第二祖日興上人の御名を代表として挙〈あ〉げられているが、『当家三衣抄』では右のごとく、御歴代上人まで挙げられているのであるから、僧宝を日興上人のみに限定することはできない)。

 さて、以上のことから考えると、御法主日顕上人は、日興上人・日目上人等の御歴代に連なる僧宝のお一人であり、三宝は一体の関係にあるのだから、これを云々する学会の批判は、故なき誹謗(ひぼう)でしかない。

 また、▼「日顕(上人)が御本仏日蓮大聖人と肩を並べる仏宝となってしまうではないか」という非難については、法を自解仏乗(じげぶつじょう=人から教えられることなく、自ら悟ること)されたのが仏宝、その法を仏から教えられ、そのとおりに受け継がれたのが僧宝であって、仏宝と僧宝の立場は立て分けられている。そして事実、宗内の誰人も御法主上人を仏宝と言ってなどいないので、学会の非難は、まったくの的はずれ、ためにする悪口である。

 また、基本的なことをいえば、僧宝とは、仏法を後々の世まで習い伝えていく方のことであるから、もし、あくまでも僧宝は日興上人のみ≠ニいうなら、大聖人の仏法は日興上人までで断絶してしまった、ということになってしまうではないか。

 いずれにしても、池田本仏論によってニセ仏を立て、法宝である戒壇の大御本尊から離反してニセ本尊を作製し、僧宝を日興上人のみとして他の御歴代上人を否定する学会は、三宝破壊の大謗法に他ならない。
―――――――――――
【別論】

勤行の観念文には、
  「南無一閻浮提之御座主・第三祖新田卿阿闍梨日目上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」
  「南無日道上人・日行上人等御歴代の御正師、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」
と、御歴代上人に「南無」とあり、

日寛上人の『当家三衣抄』には、
  「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を云云」(学林版六巻鈔三四七n)
と、御歴代上人が三宝であることが明記されている。

創価学会においても、以前は、『大白蓮華』に、
  「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。
 大聖人が『仏宝法宝は必ず僧によりて住す』と仰せのように、仏恩も法恩も広大であり、甚深でありますが、その仏法を正しく伝持してこられた方々がいなかったならば、現在の私達に、御本尊を受持して、希望と確信に満ちた人生はありえないのです。
 僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です」(大白蓮華三四五号三六n)
と記されてあったのである。

かつての正信会問題の折には、池田氏も、
  「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである」
と言っていた。

現在の創価学会は、これらの明確な文証をどうするのであろうか。
―――――――――――
日顕上人御指南

■さて、この文底下種の本門が顕れれば、釈尊一代の経々は、ことごとくその体内に入って流通を成ずるのであります。故に、その一切の法門を道じて引用することができますから、釈尊の本門において仏法僧の三宝が常住であることを、涅槃経の「三宝常住」の文をもって大聖人様がお示しになった意義が、久遠元初、すなわち末法の下種仏法の筋道においても明確に存することは当然であります。
 これについて、日寛上人は『当流行事抄』に、

■ 「文上脱益の三宝を執せず須く文底下種の三宝を信ずべし(乃至)血脈抄に云わく、久遠元初の自受用報身無作本有の妙法、又云わく、久遠元初の結要付嘱云云、自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや(乃至)久遠元初の仏法僧則ち末法に出現して吾等を利益し給う云云」(日蓮正宗聖典九四九n)

と説かれるとともに、その久遠元初即末法出現の三宝とは、仏宝が宗祖大聖人、法宝とは本門の大本尊、僧宝とは開山日興上人であると示されております。

さらにまた、『当家三衣抄』には、

 ■「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
 南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体事の一念三千無作本有、南無本門戒壇の大本尊。南無本門弘通の大導師、末法方年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法歴代の諸師。
 此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云」(同九七一n)
と、数珠の唱題修行に当てて三宝を説かれてあります。

 つまり、本門下種三宝が久遠元初以来、常住の法体であると示されるのは、涅槃経に寿量品の仏法が仏法僧の三宝として、常に住されていることを説く文と同一の趣意であります。換言すれば、下種の寿量品の極意は、下種三宝・仏法僧の常住にあるということであります。

 そして、この三宝につき、崇敬の代表的対象として『当流行事抄』に、宗祖大聖人、本門の大本尊、開山日興上人を挙げられています。つまり、日興上人が僧宝の随一であることは、当然、論をまちません。しかし、日興上人より日目上人への付嘱もまた、久遠元初結要付嘱の意義を体されるのであります。日興上人お一人が僧宝であり、日目上人以下は僧宝でないなどという池田創価教の言は、独断・偏見以外の何ものでもありません。

 大聖人より日興上人への久遠元初即末法の結要付嘱は、そのまま日興上人より日目上人へ伝えられております。

 明日の霊宝虫払法要に当たって、外陣中央に奉掲申し上げる「譲座本尊」は、その御模刻が大客殿の常住本尊でありますが、この御本尊は、日興上人が法の如く大聖人様よりの相伝によって受け継がれた御本尊の書写の深義における御自身の位置を、そのまま日目上人に教え、かつ譲座されたことを顕し給うのであります。
 すなわち、日興上人書写の御本尊の百数十幅のほとんどにおいて、書写のお立場による御名の位置は、中央の首題・日蓮の御名の左側に小さく署名されておりますが、この譲座本尊は、日興と書くべき所に日目と示され、御自身は右側に署名・花押をされております。

 これは、日興上人が、次の相伝伝授の人として、日目上人へ本尊中の位置を示されるとともに、万年にわたる歴代法主の書写における位置を決定なしおかれたのであります。

 故に、その如く、日目上人より日道上人、日行上人と、その付嘱の意義を顕す書写の署名・花押の法軌は、いささかも変わっておりません。これまさしく、宗祖大聖人より日興上人への久遠元初結要の付嘱は、さらに日目上人以下歴代にわたって常住であることの明らかな証拠であります。
―――――――――――

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。179  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月11日(日)22時50分53秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

当家三衣抄 再論

日寛上人『当家三衣抄』の「三宝」の拝し方についての御指南への邪難に対しての破折を補足し、摧破し尽くす。

今回の邪義のネタ元は概ね以下の恥論であろう。
―――――――――――
【学会の痴論】
▼『当家三衣抄』の
『南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、
 南無本門寿量品の肝心・・・南無日蓮大聖人師。
 南無本門寿量品の肝心・・・南無本門戒壇の大本尊。
 南無本門弘通の大導師・・・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。』

この文は「下根を引接して修業を牽課するの具」(劣った機根の人を誘引して修行をさせるための道具)である数珠について述べられた箇所であり、しかも明らかに大導師である日興上人と、一閻浮提の座主である日目上人と、歴代の諸師とには差をつけられています。

 具体的には、大聖人の教えを正しく伝えた「久遠元初の僧宝」である日興上人は、その位である「本門弘通の大導師・・」にも「人」にも「南無」が冠せられ、日目上人については「一閻浮提座主」という位にのみ「南無」が冠せられています。
これは、日目上人が「久遠元初の僧宝」ではないものの、生涯国家諌暁を貫かれたその行体を讃え、その位である「一閻浮提の座主」に「南無」を冠し、「末法下種の僧宝」であることを明らかにしているのです。「一閻浮提の座主」とは日目上人のことを指すことからも、他の歴代法主とは別格であることを示されているのです。
―――――――――――
更に補足すると、このような恥論もある。

【学会の痴論2】
▼「。」の句点が、「日目上人師」の後にあるから、それ以降の「嫡々付法歴代の諸師」とは別格なのだ。
―――――――――――
以下、破折する。

【本文の概要】

■「南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は......」(大石寺版六巻抄二二五骰)
として、初めに仏宝として日蓮大聖人、次に法宝として本門戒壇の大御本尊を詳しく述べられ、次に僧宝として、
■「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし」(同骰)と続く。

1、初めの「南無仏・南無法・南無僧とは」の文と、終わりの「此の如き三宝」の文の間に「嫡々付法歴代」が入っており、この「嫡々付法歴代」を受けて直ちに「此くの如き三宝」とある以上、明らかに日目上人以下を僧宝に列せられている。

2、「此くの如き三宝」とある、「此くの如き」が文法上指し示す「対象」は「日興上人師」「日目上人師」「嫡々付法歴代の諸師」である。
そうでなければ、文章構成が極めて不自然な形となってしまう。

3、であるから、それぞれの「師」の後に「。」が配され、更に文意が鮮明に理解できる。つまり、「。」が、日興上人、日目上人、歴代の諸師、の後ろの全てに点じられている故に、むしろ「三宝」の存在としての意義を明確ならしめている。
創価学会側の恥論(補足)は、実は全く正反対の意義に解することができる証明である。
(この「日目上人師。」との表記は「日目上人師、」との文献もあり、一様ではない。
そもそも、江戸時代の日寛上人が句点・句読点を点じられたはずもなく、現代語表記法になってから編纂した方が点じたのである。
であるから、句点・句読点に拘る必要は全くなく、そのどちらでも、日寛上人の「三宝」をお示しの御心は何ら変わるものではない。)

4、更に、日興上人「師」・日目上人「師」・歴代の諸「師」・・と、共に「師」の尊称がある。

5、以下の日寛上人の他の御指南にもこの三宝義は分明である。

■三宝抄

「然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり云云」(歴全四―三九〇n)
※「咸く是れ僧宝なり、(a)及び門流の大衆」の(a)の区切りに当家三衣抄のお心からすれば、能化所化の立場の違いが拝せられる。)

■三宝抄

「問う、三宝に勝劣有りや。答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。若し外相に約さば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり」(歴全四―三九三n)

以上の検証からいって、やはり、三宝に「歴代の諸師」は含まれ、尊信の対象と拝するのである。
―――――――――――
さて、以上について、駄犬やまいぬ。君と妄犬マゴマゴ君は正当な文証と道理を以って反論したまえ。
大いに頑張りたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。181 か?  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 423()131352 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

諸々の所用がほぼ片付きましたので、久しぶりに再開します。
ご無沙汰の間、当掲示板で正義の主張をされていた方々、本当にありがとうございました。

ですが、最近の流れは全く分かりません。
そこで、当方が最後に掲示したその直後からの邪義・邪説を砕いていきましょう。

まず、一番目がこれですね。
一読してみると、実に成長のなさが明白な御仁ですな。
何度でも指摘するが如く、ニセ本尊の害毒とはかくも人の知能を溶解していしてしまうものなのだと、この御仁をみているとよくわかります。
では、いきますか。
―――――――――――
やまいぬ。とか名乗る、狂犬へ。
―――――――――――
↓これは沖浦氏の言であろう。

> ▼1「法主が蓮祖のご本尊様を開眼せねば御本尊様は魔札でゴミクズ。
> この文証出してごらんよ。」
>

↓ここからがやまいぬ。君

> そうなんですね。(^o^)
> 樋田昌志くんは相変わらず自己陶酔のダラッダラとした長文連ねて
> いますが、要はこの1点の論証が成されていなければまったく意味が
> ありません。(^o^)
>
> 蓮祖はただ「法華経による開眼」とのみ書かれているのであって、
> 「法主による開眼」などどこにも書かれてはおりません。(^o^)
>
> 「樋田偽造教学・満開」。ご愁傷様。(^o^)
>
> 「貴方は、蓮祖御図顕のご本尊様に日蓮正宗法主の開眼が絶対に必要と言う。
> ではね、御書にそのように書かれてあるところを具体的に引用してください。
> 私の要求はそれだけすよ。それではどうぞ。」
―――――――――――
お二人とも、残念ながら実に”幼稚”と言わざるをえませんね。

1の邪説に対しての破折

@大聖人御在世当時は大聖人が御自ら御本尊を顕され授与していたのであるから、第二祖以降の御本尊の開眼に関する甚深の御法門を、一般僧俗に宛てた総じての法門であるところの御文に敢えて直接的に説き示す必要はあられなかった。

A当時は直筆御本尊を授与されていたのであり、形木・印刷等の具体例は大聖人御在世にはなく、現時の御本尊下付の状況とは全く違う。が故に、現時に於ける開眼供養の御法門を解き明かされる現実的事例がない。

Bそのものズバリの文証にのみ固執する者どもを、『守文の徒』というのであり、仏法を学ぶ基本姿勢が歪んでいる機根であり、正しく仏法を学んでいない証左である。

編集再掲

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

→このままである。正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。

そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

■仏法と申すは道理なり

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

■只道理と経文とを本とすべし。

つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。
まことに恥ずかしい限りである。
ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという"症状"が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。
―――――――――――
以上の破折の上で、現時の印刷御本尊に御法主上人の御開眼が絶対必要不可欠であることを編集再掲する。
―――――――――――
■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

大聖人御在世当時は「法華を心得たる人」とは、大聖人御自らである。(また大聖人様からの御名を受けて代参される御僧侶にも「師弟相対」の次第によりこの義が含まれる)

しかして、この法華=法華経とは三大秘法のことである。
三大秘法はそのまま一大秘法に括られる。
その一大秘法の体とはまさに戒壇の大御本尊である。
この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが日興上人を随一とする御歴代上人である。

【文証】

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

仏宝法宝=人法一箇の戒壇の大御本尊に究竟せられ、その人法一箇の戒壇の大御本尊は大聖人様の出世の本懐であり、「日蓮一期の弘法」の究極の御法体である。
その御法体は、「血脈の次第 日蓮日興」として日興上人に相伝・伝持せられたが、この
「次第」 とは、=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「物事が行われる際の一定の順序」として
「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」
とお決めになるという道理である。

更に補足すれば、この「血脈の次第 日蓮日興」との御文は、

釈尊
→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)
→日興上人

という基本形を示し、これはつまりは、

御先師
→御当代
→次期御法主

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

この道理は以下の御文証に依っても明白である。

■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

つまり、法華=三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊 は
大聖人→日興上人→日目上人  と伝持され 御先師→御当代→次期御法主 との基本形は末法万年に向けて伝承されるのである。

であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」ということになり、御法主上人以外在り得ないのである。

【現証】

御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という正に「現証」である。
創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を「本尊」としている。
これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。
―――――――――――

その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない"本尊もどき"は、魔であり鬼である。
よって、創価学会の販売している掛け軸は魔札・鬼札である。
実に簡単な道理である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。182  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 423()162953 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

↓これは当方

> >では沖浦さんに訊きますか。
>
↓やまいぬ。君

> はい、まずここでout。(^o^)(^o^)(^o^)
> まったく、いつもながらの「質問返し」。なんでフツーに真っ直ぐ、質問に
> 答えられんのかね?(^o^)

→本当に学習効果の無い”犬”ですね。
蓮祖仏法がどうのこうの、と偉そうな口をたたく割には、その「蓮祖仏法」の道理が全く解っていないようです。

■問ふ、今(いま)日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑って云はく、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何。

答ふ、日蓮反詰(ほんきつ)して云はく、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一。
今日本国王より民まで教主釈尊の御子なり。釈尊最後の御遺言に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。法華最第一と申すは法に依るなり。然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従・牛馬等に至るまで不孝の子にあらずや是二。

この御文のごとくに大聖人様は、邪問を発する問者に対して、その邪問そのものの矛盾を突くために、敢えて直接的にはお答えにならず、反問・反詰して、以って破折に代えておられる。
このような類文はまさに御書に繁多である。
犬はこのような事例に対して

> はい、まずここでout。(^o^)(^o^)(^o^)
> まったく、いつもながらの「質問返し」。なんでフツーに真っ直ぐ、質問に
> 答えられんのかね?(^o^)

とでも言うのに等しい。
まことに浅識・不勉強の汗顔の至りで、実に恥ずかしいことですね。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。183  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 423()21094 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

> >そもそも、その「ご本尊様が大量に必要になる時が来」たら、何を広めろと、
> >御書には書いてあるのですか?
> >”大聖人御図顕の御本尊” では答えに成っていませんよ。
> >「大聖人御図顕の御本尊」とは、まさに”大聖人が図にして顕した御本尊”との
> >意味ですから、大聖人御真筆の御曼荼羅御本尊を意味します。
>
↓やまいぬ。君

> この坊やは「図顕」と「書写」の違いが解かっておりません。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> この坊やの言では、阿部日顕の書写した本尊は、「日顕図顕本尊」というらしい。(^o^)
>
> おいおい、かつて「エース」と云われていた(らしい…(^o^) )樋田昌志くん、
> なんとも落ちぶれ果てたもんだわなぁ?(^o^)
―――――――――――
→ここまで頭が悪い類の者とお付き合いするのはほとほと疲れるものですね。

図顕=図にして顕す。大聖人の御法門でいえば、文字曼荼羅として顕す。との意。
書写=書き写す。当然、大聖人様御”図顕”の御本尊を”書写”する。との意。更に詳細にいえば、御本尊の御内証を書写される。との意。

字の通りであります。別段複雑な問題でもない。

正統なる曼荼羅御本尊を「図顕」されたのは日蓮大聖人以外に誰もいません。
その御本尊以外の正系門家の御本尊は全て「書写」御本尊ですね。(更にその書写御本尊を形木もしくは印刷した御本尊があることは周知の事実)
御歴代上人が大聖人御”図顕”の御本尊を離れて自ら”図顕”された御本尊など存在しません。

創価学会販売のニセ本尊も、元は日蓮正宗第26世日寛上人が大聖人御”図顕”の御本尊、就中戒壇の大御本尊の御内証を御”書写”された御本尊を写真撮影し、好き勝手に大きさも変え、字を削ったり伸ばしたり太くしたりなど、恣に画像処理して印刷して掛け軸上に見せかけて謀って大量頒布しているものです。
当然、大聖人様御自ら”図顕”された御本尊ではないことは、小学生が聞いてもわかる事実ですね。
こんな簡単な事実を認められない、あるいは理解できない、とすれば、そのこと自体がやはりニセ本尊の猛毒が脳髄深く沁み込むとかく馬鹿になると、証明しているようなものですね。

さて、では、反詰して曰く、図顕と書写の違いを、御書の御文によって、やまいぬ。君また沖浦父子に明証していただきましょうか?
当方の見解は既に何度も書いてきたとおりであります。
やまいぬ。君も(沖浦父子も)いちゃもんを遠吠えするだけでなく、正々堂々と、この図顕と書写の定義を明示してみたら如何ですかね?
ささ、遠慮はいりませんよ。
どうぞ、どうぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。184  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()135353 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

相も変わらずの狂犬の遠吠えを砕いていきますか。
それにしても、実に成長の無い、しかも品の無い文章ですね。
ニセ本尊には魔・鬼が入り込んでいるということが実に”現証”として解る「人間革命」の姿といえましょう。
―――――――――――
> >諸々の所用がほぼ片付きましたので、久しぶりに再開します。
>
> あーあ、「管理人」といいながら一切管理放棄していた人間が今頃ノコノコと。
> (^o^) 「代理管理者」立てる程度の処置もせず(相変わらずの法華講人材
> 不足かね?(^o^) ) それでもノコノコ出てきて遊んで欲しいなら遊んであげよう。
> 朝となく夜となく、百何十回も書き込んでおきながら蓮祖・興師の文証ただ1度と
> して挙げられず、何度も何度も首落ちた坊やよ。(^o^)

→まず、法義によって反論できなくなったものは必ず↑このようなことに言い掛かりをつけ、本質論から逃げるものですね。
その典型といえましょう。
―――――――――――
>
> 坊や、ひとに物云いたいならその前に、
>
> ・ 坊や捏造の「無限ループ・あるいは永久等号式」、蓮祖・興師の文証挙げて
> 証明せんかいな。(^o^) いったい何年かかるんだね?(^o^)

●既に完全に砕ききっている事案ですね。
やまいぬ。君ら(妄犬マゴマゴ君も)がニセ本尊の猛毒その心中深く冒され、論旨が理解できないだけの事です。

久しぶりなので、当該箇所を再掲し、以ってやまいぬ。君や妄犬マゴマゴ君らが如何にニセ本尊の猛毒によって、論理的文章が理解できなくなったを検証してみよう。

【再掲】
―――――――――――
やまいぬ。君の駄問を完摧す。69  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月24日(金)17時03分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用


  では、”大聖人の御「内証」とは、煎じ詰めれば戒壇の大御本尊に究竟される”について、論証する。(別に、特段に真新しいことではないが。正しい信心を知らない。あるいは見失い捨て去って、謗法団体で”マゴマゴ”しているような、駄犬・妄犬には、殊更に珍しく見えるのであろう。呵々)

■神力品に云はく「要を以て之を言はゞ、如来の一切の所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」已上。此等の現文は釈迦如来の内証は皆此の経に尽くしたまふ。(守護国家論)

■所詮迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止めて、地涌
千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ。又迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子等に非ざるが故なり。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

■ 問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。
答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(三大秘法稟承事)

■問う(中略)三大秘法其の体如何。
答ふ、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を言はん。

★本尊

寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり。
(中略)

★題目

題目とは二の意有り。(中略)末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。

★戒壇

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。

■此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。

以上から、
釈尊(←文底では久遠元初・自受用報身如来)の内証=四句の要法=寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字⇒寿量品の本尊と戒壇と題目の五字=三大秘法
しかも、この三大秘法こそ 諸仏出世の一大事 であること文義明白である。
この”諸仏”にはもちろんその根本仏であるところの久遠元初の下種の本仏=末法再誕の日蓮大聖人が大本の義として含まれることは理の当然である。
であるから、三大秘法こそ日蓮大聖人、御出世の一大事 である。
この 出世の一大事 とは 出世の本懐 と同義であることは論を待たない。

では、この三大秘法とは究竟するところ何か。

■故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(日寛上人・観心本尊抄文段)

との御指南のごとく、戒壇の大御本尊に究竟せられる。

であるから、”御本仏日蓮大聖人の御「内証」とは、煎じ詰めれば戒壇の大御本尊に究竟される”
以上。

因みに、日寛上人の御指南を否定することは、駄犬自身が日寛上人の御指南を引文しているのであるから、不可である。
また、創価学会総体としても、日寛上人の御本尊を掲げているのであるから、日寛上人の御指南を否定することは”本尊は依用するが、御指南は否定する”という大矛盾が生じるが故に、道理として、やはり不可である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。185  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()135656 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

【再掲2】

やまいぬ。君の駄問を完摧す。72  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月27日(月)22時28分13秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用

   こっちも少々弄っておきますか。

> >退屈してきたことでしょうから、角度を変えて、
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 4ヶ月前のこちらの膨大な問いは返答不能で全部「なかったこと」にし、
> かつそれ以降のものでも膨大に残っておるものもやはり「なかったことに」
> したいらしい。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> おいおい坊や、よくもそこまで解かりやすく逃亡出来るもんだな、樋田昌志くん?(^o^)
>
> >●次に、当方の主張、「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ
> >究竟せられる、との意義を論証する。
>
> >■日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。
> >仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
> >→まず、この余りにも有名な御文の如く、「南無妙法蓮華経」こそ大聖人の魂、つまり、
> >お悟り、御内証 である。
>
> そう、よく出来ました。その通りだよ、坊や。(^o^)(^o^)
>
> >しかし、単独の”「南無妙法蓮華経」の題目”のみでは、大聖人のお悟り・ではない。
> ありゃ。「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」と仰せのものが、
> まだそれ以外にあるのだそうだ。(^o^)(^o^)(^o^)
> 「すぎたるはなし」と仰せの蓮祖違背だね。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→まずここで切りますか。

駄犬が馬鹿犬と言われる所以がここである。
南無妙法蓮華経 とは三大秘法→一大秘法=を指すのである。(詳細は妄犬マゴマゴ君呵責シリーズに詳述済み)
おお、この下に引文してある通りである。
―――――――――――
>
> >■問う(中略)三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。
> >ここに仰せの”予が己心の大事”とはまさに御本仏の”御内証”である。
> >三大秘法に「に如かず」=尽きる。究竟する。ということである。
> >つまり、南無妙法蓮華経の本尊・題目・戒壇 が整足して始めて大聖人の
> >”御内証”が事実の上に完備するのである。
―――――――――――
【再掲3】

やまいぬ。君の駄問を完摧す。80 祝80回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)23時16分19秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用

   はい、ではまた次。
―――――――――――
> >如何に物事を皮相的にしか見れないか

> はいはい、資料も蓮祖・興師の文証も挙げられない泣き言は見飽きたのだわ。
> さっさと出しなさい。(^o^) また逃亡? 樋田昌志くん?(^o^)
―――――――――――
→ここの段もそのまま掲載しましょう。
「蓮祖・興師の文証」云々については74〜78で完全に粉砕済みである。
こうして馬鹿の一つ覚えを再見すると、駄犬が実にその名の通りの”駄犬”としての馬鹿さ加減が浮き彫りとなる。

更にここまでの、74〜79までの破折を通読した後に以下を読むと、駄犬がやはり実に稚拙な言しか吐けないかが手に取るように分かるというものである。
―――――――――――
> 万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、当時の門下・信徒が
> 蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。(^o^)

●などいう駄犬は如何に物事を皮相的にしか見れないか、という馬鹿の見本のような恥言である。
さすがニセ本尊へ愚仰を続けていると斯様に信心も智慧もない、道理も分からない馬鹿丸出しになる、という標本である。
―――――――――――
→まさにその通りである。呵々
―――――――――――
> さて、悲惨な樋田昌志くんの「無限ループ」、本当はこの不細工な「マトリョーシカ
> 構造」は、右へ、右へとコピー・ペーストしていくと解かりやすいのだが、画面上
> 仕方がない。書いていることは同じだが、こうしてみた。
>
> 蓮祖の内証=「南無――」=法主の内証=戒壇本尊
>             ↓
>      その内証は戒壇本尊=蓮祖の内証=法主の内証
>             ↓
>     その内証は解からない=が、唯授一人血脈相承された
>                           蓮祖の内証=「南無――」
>                    =法主の内証(ということは)  │
>                    =戒壇本尊          ↓
>                           その内証は戒壇本尊=蓮祖の内証
>                                  │ =法主の内証
>                                  ↓
>               「南無――」=その内証は解からない=唯授一人血脈相承
>                  ↓              された蓮祖の内証
>              その内証は戒壇本尊             =法主の内証
>                  ↓             =戒壇本尊
>            その内証は解からない=が、唯授一人血脈相承された
>                            蓮祖の内証=「南無――」
>                                 =法主の内証
>                                    ↓
>                                その内証は戒壇本尊
>                                    ↓
>                               その内証は解からない
>                               =が、唯授一…
>
>
>               (以下、無限ル−プ (^o^) )
>
>
> さ、坊や。こいつを説明してもらおうか。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 同じ言葉と概念が、別階層で使われるなどグチャグチャではないか。(^o^)(^o^)
> 同じ処を破綻しながら延々と、しかも切れ切れに循環するのみだわ。(^o^)(^o^)
> こういうのを喩えるなら、「出鱈目なマトリョーシカ構造」とでも云うべきか。(^o^)
> 「内証は?」「その内証は?」「またその内証は?」と際限のない返答の中で、
> その間にさっき上部構造で出てきたものが下部構造でまた出てくる。もう滅茶苦茶である。
> (^o^) 坊や、結局何にも解かってなかったのね?(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→この辺で切りますかね。
頭破七分の頭で、いくらこのように論理性を打ち出そうとしても所詮無理である。しかも”謗法犬”で。
図に描けば頭破七分の混乱した自分の頭の内部の混乱状態が更に鮮明に露見するだけである。
混乱して”マゴマゴ”しているのは駄犬・妄犬マゴマゴの類であり、当方の主張は単純明快である。
当方の主張をまとめてみれば以下の通りであり、結論とする内容は全く同意である。
(理解の便の為に尊称は略す)

@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊

A大聖人の内証=南無妙法蓮華経の内証→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。→戒壇の大御本尊の内証→御歴代上人に血脈相承される。

B大聖人の内証=南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。

駄犬・妄犬マゴマゴらは、「南無妙法蓮華経」に三大秘法の法体としての本尊を拝せないが故に妄見に陥って、例えば円錐形を三次元で捉えることが出来ず、三角形や円形としか認識できない、脳が未分化=幼稚≒頑迷であるだけのことである。

@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
Aでの「南無妙法蓮華経」は事の一念三千の南無妙法蓮華経・寿量文底の南無妙法蓮華経との意、であるからその「事の一念三千の南無妙法蓮華経」の正体・法体とは何か?と言えば、戒壇の大御本尊へと究竟せられるのである。また「大聖人の内証」も「戒壇の大御本尊の内証」も同義であり、その「内証」が御歴代上人に唯授一人・血脈相承されるのである。
Bでの「南無妙法蓮華経」とはAと同義である。

所詮、末法の成仏の要諦である戒壇の大御本尊への信行から脱落しニセ本尊などを拝んでいる頭破七分の謗法者には、理解するのは無理であろう。
考えれば考えるほど頭破七分の割れっぷりが進むだけだと思うが?呵々
その理解できない混乱振りが以下の恥言にまたもや露呈している。
では次回。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。186  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()135850 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

【再掲3】

やまいぬ。君の駄問を完摧す。81  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)11時53分1秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用

   どれ、最新のこれから砕きますか。

―――――――――――
> DATE: 12月 7日(木)00時36分29秒
> TITLE: さあて。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――>
> >@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊
>
> >A大聖人の内証=南無妙法蓮華経の内証→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。
> >→戒壇の大御本尊の内証→御歴代上人に血脈相承される。
>
> はい。もうここでout。(はっやいなぁ、しかし。(^o^)(^o^)(^o^) )
>
> ここまでの坊やの主張:
>
>              大聖人   =南無妙法蓮華経   =戒壇の大御本尊
>               ↓     /     ↓       /      ↓
> (その内証)     南無――      戒壇本尊           未答
>
> アカンがな。(^o^) もうすでに無限ループに入っとる。(^o^)

―――――――――――
→ここまで馬鹿だと相手するのも骨が折れる。
やはり、既に指摘していた通り、

●「所詮、末法の成仏の要諦である戒壇の大御本尊への信行から脱落しニセ本尊などを拝んでいる頭破七分の謗法者には、理解するのは無理であろう。
考えれば考えるほど頭破七分の割れっぷりが進むだけだと思うが?呵々」

である。

「南無妙法蓮華経」に何重もの意義が表示されているということが見えぬ馬鹿者にはこれ以上どう説いても理解するのは無理というもの。

■親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。

との御妙判の通りである。

だが、こういう謗法者が如何に妄見・妄執に覆われて盲目になっているかの標本を残しておくことは意義あることであろう。
であるから、駄犬や妄犬マゴマゴなどの理解などは端から無理としても、筋目だけは書き残しておきましょう。

既に何度も書いているが、一口に「南無妙法蓮華経」といっても、その所対・対機・時期によってその意味される範囲に広狭の幅があるのである。

以下、編集し再掲する
―――――――――――
御書の御文は、説き示される、対機・時期・所対・等により、一言にも重々の意義を含まれており、表面的な語を単純に皮相的に読むだけでは大聖人の御心を拝することは全くできないのである。

例えば”南無妙法蓮華経” と表現される中には、対機・時期・所対・等により、深い意義内容が含まれており、例えば佐前であれば”法華経の題目”との意を表にされた上で、大聖人の御内証である、三大秘法の”本門の題目”の意に主体を置かれた意義を内に含み、その上で、更にその内に 本門の本尊・本門の戒壇 との義を含むのである。



南無妙法蓮華経 と一言で表示なされていても、

→法華経の題目
→事の一念三千の南無妙法蓮華経との意義
→寿量文底の南無妙法蓮華経との意義
→三大秘法中の本門の題目の意を表にした表現
→三大秘法中の本門の本尊の意を表にした表現
→三大秘法の意
→一大秘法の意

等々の意義内容が重層的に含まれているのである。
これは大聖人御一生の御化導を概括的に拝すれば概ね広の義から順次狭の義へと的が絞られていくのである。
つまり
題目→本尊→弘安以降・本尊究竟→出世の本懐・戒壇の大御本尊→戒壇義→一切を唯授一人・血脈相承

例えば、「首相官邸はどこか?」と問えば、「日本」も一応正解。しかし更に進めば「東京」であり、更に絞り込めば「千代田区」であり、更に特定すれば「永田町何丁目何番地云々」ということである。

では、「南無妙法蓮華経の内証」 についていえば、

@本論題の出典である、御講聞書は、後の邪僧「五老僧」となった日向記であり、しかも対告衆も複数であり、対機でいえば、大聖人の御法体・御内証そのものを伝持・相伝為される文献ではない。

Aであるから、「南無妙法蓮華経」との御表現は、広範な意義を仰せなのであり、実はその中に重々の深意を含むのである。

Bまさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し。」であり、御相伝に依る所の戒壇の大御本尊からこの「南無妙法蓮華経」の意義を開いて拝さなければ、駄犬や、マゴマゴしている迷犬の如くに、仏法の真の法体に迷うのである。

C「南無妙法蓮華経の内証」 との御表現はまさにこの意を端的に言い表されていると拝するのである。

Dつまり、
「南無妙法蓮華経」→「南無妙法蓮華経の本尊」→就中「弘安二年の戒壇の大御本尊」と究竟せられるのであり、
これを「南無妙法蓮華経の内証とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる」と表現してもそこに何ら矛盾を発見することはできない。
もしそこに過剰な違和感を感じるとすればその信仰心自体が既に狂っているのであって、その自らの歪曲した心魂を見つめなおすべきであろう。
■「所詮仏教に依つて邪見を起す目の転ずる者大山転ずと欲(おも)う」
との御指南通りの見苦しいざまである。
こんな基本中の基本が分からないから、ニセ本尊などに「同盟唱題」などのおぞましい行為を平然と為し得るのである。

人即法・法即人の戒壇の大御本尊から退転した謗法者どもなどは、

■なごへ(名越)の尼・せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候をくびゃう(臆病)、物をぼへず、よく(欲)ふかく・うたが(疑)い多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ、そら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。
 三位房が事は大不思議の事ども候ひしかども、とのばら(殿原)のをも(思)いには智慧ある者をそね(嫉)ませ給ふかと、ぐち(愚癡)の人をも(思)いなんとをも(思)いて物も申さで候ひしが、はらぐろ(腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ。

と仰せの退転者の特徴

臆病で(自分の意見を堂々と面と向かって言えず、人に仮託してひそひそと物陰に隠れていう妄犬マゴマゴなどこれに類するだろう。呵々)
物をぼえず(何度教えても法門が分からない。駄犬などいい例である。)
欲深い
疑い深い(姑息で無知・愚昧な言動に終始し、戒壇の大御本尊を信行できない疑心の塊 どもである)

を共通して所有し、その上、漆に水をかけたように何をどう聞いても分からないし、身に染まらない、極悪因縁で今生生まれた、実に酷薄な宿業の輩達である。
その惨めな境遇を恥じることもなく更に戒壇の大御本尊への不信を続けていくならば、今に
■はらぐろ(腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ。
である。
よくよく、恐るべきであろう。

Eもし、”「南無妙法蓮華経」の題目”のみが大聖人の深意であるとしたならば、それでは、世界中で「南無妙法蓮華経」と唱えている宗派は全て正しい、ということになってしまう。
立正佼成会でも、霊友会でも、身延でも、・・・・何でも、である。
まっ、所詮それらと同格に成り下がった創価学会だから、そう思うのも当然か。呵々。

因みに戒壇の大御本尊が大聖人の御本懐、末法下種の正体・根源であることは、日寛上人の御指南に明々白々である。
また、”日寛上人の御指南を用いない”などという恥言は既に完全に粉砕済みであり、未だ教義的に論旨明快な反論が為されていないが故に、全くの不可、取るに足らぬ単なる痴難に過ぎない。
自分が完全に粉砕されていることすら理解できない謗法の頭破七分者は永劫に駄々をこねていればよろしい。
駄犬らが教義的な根拠も明示できずに言いがかりに終始すればするほど、邪信から正信へ目覚める方々も増えるというものである。
駄犬らの”使命”はそこら辺に存在するのであろう。
まことに哀れな、生まれ育ちの因縁である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。187  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()135957 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

【再掲4】

やまいぬ。君の駄問を完摧す。82  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 7日(木)14時23分38秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用


  以下、「南無妙法蓮華経」 の表示に重層的な意義内容が含まれている、との義がよめない駄犬の、ヨダレまみれの吠え付きであるから、その恥言ぶりを”サンプル”として眺めてみよう。
―――――――――――
> あのな? 上位階層「大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊」の
> それぞれの「内証」は、全部同じ答えになってはじめて「イコール」なんだわ。
> それがバラッバラ。(^o^)(^o^)(^o^)
> しかも上位と下位に同じ答え「戒壇本尊」が繰り返されておる。なんじゃこりゃ?(^o^)
> だから云ったろうが、「出鱈目なマトリョーシカ構造」だと?(^o^)
> 坊や、アタマんなかは大丈夫か?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >B大聖人の内証=南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。
> だーからoutなんだって。(^o^)
>
> >@大聖人=南無妙法蓮華経=戒壇の大御本尊
> なんだろ? この階層で出てきておる戒壇本尊が、下位層の「内証」レベルで
> 「再登場」してどーするんだよ、ボクちゃん?(^o^)(^o^)
>
> >例えば円錐形を三次元で捉えることがなんたらかんたら。(^o^)
> はいはい、泣き言は終わったかね?(^o^)
>
> >@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。
> >であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
> はい、蓮祖・興師の文証。(^o^)(^o^) 何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)
―――――――――――
→この辺で、切っておきましょうか。

この駄犬、よほど頭が良くないようで、まさに、”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)”である。呵々

> はい、蓮祖・興師の文証。(^o^)(^o^)

については完全に破砕してある。
http://toyoda.tv/yamainu2.htm の74〜78参照

これに対して駄犬は全く反論不能状態であるにも拘らず、こうしてまたもや馬鹿の一つ覚えの「蓮祖・興師の文証」云々である。
では、こういう馬鹿には少々躾けてやらないといけないらしいから、馬鹿にも分かりそうな矛盾点をつきつけてあげますか。

1、@での「南無妙法蓮華経」はまさに一大秘法の法体としての南無妙法蓮華経である。であるから即、戒壇の大御本尊との意である。
では、これを否定するのなら「蓮祖・興師の文証でどうぞ。(^o^)(^o^)」または、「蓮祖・興師の文証あげんか」となる。

2、再掲
以下について「蓮祖・興師の文証のみで」反論してくださいませ。出来なければ、公式謝罪&脱会。
ほんと、”何度云わせるのだね、ボクちゃん?(^o^)” 呵々大笑
―――――――――――
大聖人の御法門の全てが御書に記載されている、と勝手に思い込んでいるだけの駄犬であるから、常にヨダレを垂らしながら馬鹿の一つ覚えで「蓮祖・興師の文証出さんか。」などと吼え続けているのである。
まさに愚か者を額に入れて標本として飾っているようなぶざまさである。

では駄犬に問う。以下の質問に対する答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」呵々大笑

例えば、万年救護の御本尊のことだけでも、
1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

他、書き出せばきりがない。

さ、駄犬、これらの答えを「蓮祖・興師の文証(で)出さんか。」
大哂いである。

御書に大聖人様の御法門の全てが記されている訳ではないのである。

まさに■「此の経は相伝に有らざれば知り難し」である。
―――――――――――
御書の表に顕れていない御法門は口伝・相伝・相承等によって、日興上人を首として御歴代上人へ唯授一人・血脈相承されている。
参照http://toyoda.tv/yamainu2.htm 76〜78

因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜
さ、では、「個人折伏の世帯数によって尊崇しその発言を聞くべきであり、歴代法主上人の言は用いてはいけない。」との恥論を証明する「蓮祖・興師の文証あげんか!早くせよ!」

さて、そういう駄犬の恥言は相手にせず、その日寛上人の御指南に

■弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

とある通り、南無妙法蓮華経→戒壇の大御本尊へ究竟せられる。(もう、馬鹿の恥論には、いい加減飽きてきたわ。)

次回、違う切り口で駄犬を粉砕しますか。

やまいぬ。君の駄問を完摧す。104  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)11時30分17秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用


   さて、あまり、こうした馬鹿のレベルを叱ってばかりいても読者も退屈でしょうから、少しつっこんだ内容にしますか、この段は。
―――――――――――
> さ、「南無――の内証は戒壇本尊」、さっさと蓮祖・興師の文証挙げんか、クズ坊。
> 当然坊や捏造の「無限ループ」、あるいはマグ様ご指摘の「永遠等式」もだ。
> 仕方ないねぇ。誰でもない、坊やが勝手にでっち上げちゃったんだから。(^o^)(^o^)
> (^o^) 無理か、やっぱり?(^o^) 蓮祖・興師じゃ不満なんだよねぇ、坊や?(^o^)
―――――――――――
日淳上人(便義の為★『』等を加えさせていただいた)

■ 大聖人が末法に出現せられ、仏の境涯に立ち、其の★『御内証』を顕発あそばし★1『三大秘法の大御本尊』としてお顕わしになったのであります。
 「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ、信じさせ給へ、仏の御心は法華経なり。日蓮 が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし。」と仰せられて御座いますが、茲に於いて末法のための寿量品とは日蓮聖人の★『御内証』にあり、その★2「『御内証』を★3『大漫荼羅に建立』あそばされたこと」を拝し奉るのであります。
 世上に於いて、所謂日蓮宗の立つるところの本尊を見るに、その立つる処がまちまちで、一定しておりませんから一口では申せませんが、法華経本門寿量の文上の釈尊をとつて本仏と立て、
★4『南無妙法蓮華経を以って本法としてをる』が如くであります。
此れは全く★『天台の余流』であって、★『大聖人建立の御本尊とは異る』のであります。たとへ口には上行所伝の妙法と云ふて恰(いえど)も天台と別なるが如く申しましても、事実は★『天台の余流に墮しておる』のであります。此の事は結局★『種脱相対の御法門を知らない』からである。

★1=戒壇の大御本尊(大聖人一期御化導中、唯一「戒壇」の義を明示された御本尊であるから、ここに始めて、題目・本尊・「戒壇」と三秘が整足するのである)

★2『御内証』を★『大漫荼羅に建立』あそばされたこと=「南無妙法蓮華経の内証」の「内証」とは戒壇の大御本尊へ究竟せられる。(当方の主張)

★3=戒壇の大御本尊

4≒駄犬らの妄執。→大聖人の御本懐である戒壇の大御本尊を離れ、「「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」とあれば、何でも本尊となる。」との駄犬の劣見は、★4とほとんど同義。
つまり、
★4『南無妙法蓮華経を以って本法としてをる』と
駄犬「「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」とあれば、何でも本尊となる。」
と、その惑乱振りはほとんど同義である。限りなく”近似値”である。
であるから、駄犬らは、または、駄犬と同様の妄見を為す輩は

『此れは全く★『天台の余流』であって、★『大聖人建立の御本尊とは異る』のであります。たとへ口には上行所伝の妙法と云ふて恰(いえど)も天台と別なるが如く申しましても、事実は★『天台の余流に墮しておる』のであります。此の事は結局★『種脱相対の御法門を知らない』からである。』

であり、つまり、邪教 ということである。

因みに「御歴代上人の御指南を用いない」との恥言は、
http://toyoda.tv/yamainu2.htm 74〜78 に正当な反論不能状態であるが故に、全く採用できない。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。188  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()140110 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

【再掲5】

→正当な道理・文証に則った教義的なことが全く理解できないこの狂犬には、まさに、「狂人には、正常な人間の会話は理解できないし、その本人に狂いぶりを幾ら説明しても、当然理解できない」のと同様で、最早何度説いても無理なので反駁の必要はないが、上記の難癖に関しては、既に完全に粉砕しているので、その箇所を提示しておく。
http://toyoda.tv/magomago.htm の全段
http://toyoda.tv/yamainu2.htm  の 69 72 80 81 82 104 段  等において、粉々に完摧してある。(初見の読者の方々は参照してください)

駄犬ら(妄犬マゴマゴも含む)は、これに対し、大聖人の御文を引き、上記の当方の論証に対して、未だ教義的に全く反論できていない。
信も学もない頭で、(行は所詮ニセ本尊への邪行であるが)、つまり、信行学全てに狂った頭で、自分等で勝手に妄釈をして、自分等で自分の作り出した妄説に"つっかかっている"だけの話である。
自分の見ている妄想へ向かって、自分で怒って文句を言っているのであるから、これはまさに狂人の所業であり、正常な者はそれに関わる必要もないし、時間も無駄である。
しかし、"当方が反論不能である"と難癖をつけるのであれば、看過できない。
ここで、再度駄犬及び妄犬マゴマゴへ詰問する。
上記で示した当方の論証に対して、道理・文証双方を以って、正当に反駁・反論・反証して見せたまえ。
正当な教義的論証もない、ただの馬鹿の一つ覚えの難癖は、読者にも失礼であるし、その無能な醜態ぶりは駄犬らの信じる「ニセ本尊の面汚し」となり、また創価学会の構成員として、所属団体の評価を下げる行為となろう。
さ、「無限ループ」と言うのであれば、自分等の妄想による難癖ではなく、歴とした文証と道理を挙げて反証して見せたまえ。
もし、以後、"正当な文証・道理を以って"反駁出来ない場合は、この件は駄犬らの妄説による言いがかりと認め、正式に謝罪し、承服したことを宣言したまえ。
そのいずれかも出来ないとすれば、いよいよ、駄犬らは姑息・卑劣・臆病・等のまことに醜悪な生き物であること治定である。
よくよく勉強して、覚悟を決めて返答せよ。
念を押しておくが、あくまで、"正当な文証・道理を以って"の反論をすること。
駄犬らの妄想で何をどう喚いてきても、それは不可である。予め釘を刺しておく。
駄犬らが懸命に道理・文証を以って反証すれば、読者の方々も興味をそそられるし、教学的にも勉強になることでしょう。
さ、頑張れ。応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。189  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()14141 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

以上やまいぬ。君や妄犬マゴマゴ君らがいうところの「無限ループ」なる妄想をあらあら破折した箇所を再掲しました。
これについて、未だにやまいぬ。君、妄犬マゴマゴ君らから論旨明快な論に於いての反論がありません。

さて、やまいぬ。君は実は自分こそが明白な「無限矛盾ループ」を吐き出しているにも拘らず、これについても未だ反論が出来ていない状況です。
ここに、その要点を掲示して、やまいぬ。君の反論を待ちましょう。
―――――――――――
【編集再掲】

ここに駄犬の大いなる自己矛盾・論理破綻が炸裂する。呵々大笑

駄犬の主張の図を再度点検してみよう。

→やまいぬ。君の主張→「絶対信の対象は@久遠元初の三宝」 であるから
→やまいぬ。君はA蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その中には当然、B日寛上人・日亨上人も含まれる。
→ところが、駄犬がAと信じる根拠の@「久遠元初の三宝」との御指南は、駄犬が信じない、用いないと軽侮したBの日寛上人の御指南なのである。(大笑い!)
→しかし、駄犬の妄執はAのごとくであり、「蓮祖・興師の文証」しか、用いないはずである。
→でも、そのA「蓮祖・興師の文証」しか用いないとする根拠の「文証」は駄犬が信じないはずの「蓮祖・興師」以外のB日寛上人の「文証」なのである。・・・・・・
実に矛盾の「大無限ループ」である。

呵々大笑。

当方は別に「循環論法」とやらに興味関心はない。
が、この駄犬の「大矛盾の無限ループ」は、どうしたら解けるのか?
さ、駄犬、この矛盾を「蓮祖・興師の文証のみ」で論理明快に解いて見せてくれたまえ。呵々大笑
できなければ、公式に謝罪して脱会は無理だろうから、せめて、
「自分が今まで書いてきたものは全て邪義でした。反論不能です。二度とこの板に来ません。ネット上でも悪さは致しません。どうぞお許し下さい。」
くらいの詫び状を書け。いいな。(-。-)y-゜゜゜

どうせ、道理・文証に則った反論は不可能なのだから、いつまでもみっともなく足掻いていないで、いい加減、きちんと謝罪して、詫びをいれたらどうだ?呵々大笑。
駄犬サイドのお仲間のはずの"セコンド"連中も、駄犬へは面と向かってはなかなか言えないが、(だから当方へ、もう止めた方がいいんじゃない?などと遠まわしに言ってくるのだろうが。呵々)これ以上駄犬が足掻いていると創価学会の面汚しになるから、いい加減止めて欲しいと思っているんじゃないのか?呵々大笑。
せいぜい、味方からタオル投げ込まれないうちに、潔く土下座して全面降伏したら?
もし、駄犬がまだ当板で往生際悪く、足掻き燻り続けるのなら、以前の駄犬の恥論が山ほどあるので、それを全て突き崩し、"標本"として晒しものにしていくだけである。
素材は大量にある。
駄犬は恥を更に募らせるだけである。
もし、それが耐えられないのなら、駄犬が詫び状を書いて降伏するならば、武士の情けでその大量の恥論を暴くのを留めてあげよう。
どちらでも、好きなほうを選びたまえ。
当方には駄犬に比べて相当量の自由な時間があるので、駄犬の痴難を劈いていくことなど、さほど苦痛ではない。

さ、駄犬がどっちを選ぶのか、実に楽しみである。呵々大笑
―――――――――――
→やまいぬ。君は何か書けば書くほどに創価学会の恥さらしのようですね。
お可愛そう。シクシク。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。191  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 424()203612 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

> >A当時は直筆御本尊を授与されていたのであり、形木・印刷等の具体例は大聖人
> >御在世にはなく、現時の御本尊下付の状況とは全く違う。が故に、現時に於ける
> >開眼供養の御法門を解き明かされる現実的事例がない。
>
> 誰が形木だの印刷だのという話をしておるのだね、坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> おいおい、坊や本当に「対論の切れ」というものがまったくなくなっておるよ。(^o^)
> まぁ、論点外しと言い逃れと「質問返し」は坊や筆頭に法華講ボクちゃんたちの
> 常套手段だがね。(^o^)
>
> 「論点」は開眼だろ? 法主が自分で書写した本尊に、法主自身による開眼が必要だと
> 証明すればいいのだよ。それを上記sたように、蓮祖が自身にあてはめて、「蓮祖による
> 開眼が必要」と仰せの御聖訓出せば済むことだろうが?(^o^)
> ――はい、こいつもやり直し。(^o^)
―――――――――――
【前置き】

→こうも愚鈍だと、お付き合いするのに本当に骨が折れるものですね。
何度言っても聞き分け出来ない、ニセ本尊によって愚妄と化したその脳へ再度噛み砕いて言いますか。
しかし、少し複雑な構文になるとその論旨が全く理解出来ないようですな。
お察し申し上げますよ。その程度では実生活も色々な面でさぞやお辛かろうと。

【本題】

大聖人様御在世当時は、大聖人が御自ら御本尊を顕されていたのだから、その元草木(墨・板・紙)の御曼荼羅がそのまま草木成仏・生身の仏であり、そのまま帰命依止の対境である御本尊である。
しかも、御本尊を顕す事の出来るのは大聖人御一人であり、(師弟不二の相伝により日興上人も顕されておられた伝記もある)
であるから、御本尊を顕すことがない対告衆に対して、殊更に開眼の義を強調なさる道理は無い。
しかし、では、全く触れられていないかと言うと、そうではなくて、本尊となるには開眼が必要不可欠な御法門は現としてお説きになっておられる。

(重複する内容なので前段参照)

【宿題の返答催促】

さて、未だ文に囚われ真実を見極める智慧の無いやまいぬ。君に、御書に説かれていない、重要な内容について説明していただきましょうか。
一体何時になったら答えるのかね。
やまいぬ。君の下品な言葉で言えば”グズ坊”とでもなるか。呵々大笑
―――――――――――
御書全編に亘って 以下の問題に対しての御教示がない。
何故なのか。
↑「蓮祖・興師の文証」に依って明証してみよ。
↑絶対に出来ないのである。(出来るのならその回答を待ちましょう?馬鹿犬君?呵々大笑)
↑「蓮祖・興師の文証」=御書・日興上人の文書に大聖人の仏法の全てが表記されている訳ではない。
↑それを馬鹿犬はどんな内容でも「蓮祖・興師の文証」で挙げろ。と恥言を吐く。←馬鹿である。馬鹿以上の丸馬鹿である。呵々大笑
↓以下の命題に全て「蓮祖・興師の文証」で答えられたら、馬鹿 と呼ぶのは止めてあげましょう。
そして、馬鹿犬が喚く全ての質問に「蓮祖・興師の文証」で答えてあげましょう。
↑自分が出来もしないことを人に要求してはいけないよね。
↑馬鹿 でもその位の”常識”は理解できるかな?
↑それも無理なほど『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』かな?馬鹿犬は?呵々大笑

さ、頑張れ。 馬鹿犬!呵々呵々大笑

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

更に踏み込めば

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。192  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 425()121159 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、続きをいきましょうか。
やまいぬ。君が今後どのようなスタンスになるとしても、当板に吐き散らかしていった邪義はきちんと清掃しておかないといけないでしょう。
では。
―――――――――――>
> >Bそのものズバリの文証にのみ固執する者どもを、『守文の徒』というのであり、
> >仏法を学ぶ基本姿勢が歪んでいる機根であり、正しく仏法を学んでいない証左である。
>
> 坊やの泣き言など聞き飽きたと、一体何十回書けば理解出来るのだね、坊や?(^o^)
>
> 「無限ループ」の時も、その前の「什宝あればこそ宗門正しき」の時も、その他膨大な
> 私から坊やへの問いに対する返答でも、全部坊やの言い訳はこれだ。
> ウンザリだね、ボクちゃん。(^o^)
> ボクちゃんの泣き言を、たった一言で斬ってあげるよ。
>
> 「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」
>
> オシマイなのだよ、坊や。
> 憶えているかね? この言葉、かつてトチ狂った坊やが、私に対して書いたのだよ。
> 時にひとさまに投げつけながら、「法主による開眼が必要だという蓮祖の文証挙げよ」
> というたったこれだけのことに言い訳と泣き言並べ文証一つ挙げられず、、かつての
> 自分が挙げた言葉で一刀両断。(^o^) 阿呆だよ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→全く学習効果が無い方ですね。つくづく。

頭が悪い者にはやはり反復学習しかないようですね。
このような、頑迷・愚魍な頭には、再掲で十分。
―――――――――――
【再掲】

→実に、大聖人様が呵責なされた通りの醜い謗法の愚者である。
駄犬の↑このような狂態はまさに以下の御文の如くである。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。

■非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。

→仏法の道理を理解できない暗愚な謗法者(一往・付文の辺では禅宗の者)は、人の説く道理も、自分らが何を根拠にどう教義を立てているのかも理解できておらず、(もっぱら座禅によって悟りを得ようとし、経典の研究をおろそかにする禅宗の僧侶のように、) 大聖人様の御文の深意を汲み取ることもできずに、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と誰が書いても「御本尊さま」として成り立つ、だなどと恥ずかしげもなく嘯くものどもである。

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

→このままである。正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。

そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

■仏法と申すは道理なり

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

■只道理と経文とを本とすべし。

つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「非学匠」であり、「暗証の者」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。
まことに恥ずかしい限りである。
ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという"症状"が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。
―――――――――――
【道理】

1、大聖人御在世には「御本尊の印刷による流布」という姿がなかった。
現実に無い事を具に述べられる必然性はない。

2、大聖人御自らが顕された御本尊はそのまま「開眼」為され草木成仏して生身の仏であらせられる。
御自らしか為さない深旨を態々その行為を為す立場でもない方々へ具に御述べになる必然性もない。

3、しかし、元々草木である紙・木・墨等が、曼荼羅本尊として生身の仏と成るには「法華を心得たる人」が「開眼供養」しなければならない原理をきちんと説き置かれておられる。

4、しかも、大聖人御遷化後の「法華を心得たる人」という立場をきちんと定めて置かれておられる。

5、もし、その「法華を心得たる人」の「開眼」が不要、とするのならば、この世に存在する「南無妙法蓮華経の文字曼荼羅」は全て”正当な本尊”ということになってしまう。
つまり、●1「誰が書いても、誰が印刷しても、何に書いても、どこに映しても、全部”本尊”ということになり、まさに本尊雑乱の大狂態を容認すること」となり、大聖人の厳格な仏法の本義からいって甚だ不可である。

■富士一跡門徒存知事    延慶二年

一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

→もし、唯授一人の御法主上人の「開眼」を認めないとするならば、この御文に御指摘の
■「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)」
との行為を容認することとなり、日蓮大聖人・日興上人への背反・師敵対の謗法行為である。

因みに「創価学会は”不信の輩”ではない」と強弁する向きもあろうが、全く認められない。
日興上人門流ではあくまで、時の御法主上人である日興上人が書写された御本尊を授与される。のであり、たとえ大聖人お筆の御本尊の形木といえども、時の御法主上人である日興上人のお認めならないものは不可なのである。
創価学会がしている行為はまさにこの、■1「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。」と同類である。
時の御法主上人の開眼を認めないということは、●1「」と言う結果を必然的に生み出し、それは■1「」と日興上人が制誡された謗法行為となるのである。
つまり、やまいぬ。君や妄犬マゴマゴ君の主張は結果的に日興上人が厳禁された謗法行為を容認することになるのであって、全くの邪義・魍説というべきである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。193  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 425()191555 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

> 「挙げられません」「ありません」なら、それだけ書けば充分なのだよ。
> 坊や、社会人なのだろう? 平日の「13時13分52秒」だの「16時29分53秒」に
> 書き込んでおるが、仕事、やっておるのだよなぁ? その社会人が仕事相手でも
> 誰でもいい、一つ問われて返答出来ないときに、「解かりません」と一言で済むものを、
> 何が悔しいのか、何の意地なのか、こんなに2つも3つも言い訳に終始するのかね?
>
> 「解かりません」と一言が云えない幼稚な子供よ。(^o^)
―――――――――――
→ここにも出ましたね。肝心の法義そのもので反論できなくなったものは必ず↑このような周辺部分の問題を論って相手を凹まそうとする・・・

1、文証云々について。

そもそも、大聖人様の御書には「大聖人御図顕の曼荼羅本尊を信行せよ。」との御教示はあるが、御遷化後の僧俗の日頃の信行に関する「本尊」については述べられておられない。
大聖人時代には「大石寺」すら存在しなかったのであり、大聖人は後の江戸時代の第26世日寛上人のことも、歴史的な具体的な存在者として御記述になっておられない。(当然過ぎるほど当然である。)

では、何故に創価学会はその御書に説かれていない、「大石寺の第26世の「書写」された曼荼羅御本尊」を用いるのか。
やまいぬ。君にその理由を「蓮祖・興師の文証」で出してもらいましょうか。
もちろんそのものズバリの表現でしてもらうことは当然である。

御書には大聖人御遷化後の僧俗の日頃の信行の対境としての御本尊を説き示されていないにも拘らず、その「開眼」を示すそのものズバリの御文を出せ!と喚き続ける幼稚なやまいぬ。君は、自分が拝んでいる、本尊(を似せた掛け軸)のことも、御書に出ているのか証明する義務があろう。
人に道理が外れている痴難を吹っかけるのであれば、自分の行動にも同様な条件に依っての説明責任があるのは当然である。
それとも創価学会で「人間革命」すると、そういう社会生活の当然のルールも守れなくなるのか?

さ、やまいぬ。君、責任を果たしてもらいましょうか。
あっ、そうだったな。やまいぬ。君はもう学会活動で忙しくて、こういうくだらない論議はしないのだったかな?
まっ、そのように後ろ向きに逃げ去りながら、「名誉の転進」と大本営発表のごとくに体面だけは取り繕ってみても、随所で当方の破折に対して反論不能であった事実は明白で、確実な記録が採れた。
当方はどちらでもかまわない。
やまいぬ。君やら妄犬マゴマゴ君やらの惨敗者がお互いにタオルを投げ合ってスゴスゴとリングから降りようが、ボコボコになりながらまだリングに立ってサンドバッグ状態を続けることを選ぼうが。
元々、当方が招いた客ではない。
自分達から当方へ粘りついてきただけの事である。
確かにこれ以上ボロボロになる前に、そろそろ貴公らも退散する事が、創価学会の為であろう。
その点は先から当方が指摘しておいてあげたところである。
さ、修羅根性のやまいぬ。君、名聞名利の妄犬マゴマゴ君、の次の出方を見てみましょうか。

いずれにせよ、当方は残りの汚物の掃除を続けるまでである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。194  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 425()22094 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

> >編集再掲
>
> おいおい、また言い訳かね? 無用なのだよ、坊や。(^o^)
>
> >仏法と申すは道理なり
>
> あーあ、書けることはこれだけかね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 教えてあげようか? 教学幼稚極まる言い訳と泣き言坊やよ。(^o^)
>
> 「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」
>
> 教学の基礎の基礎だよ、坊や。(^o^)
> 文証挙げよと問われておるだけなのに、一言の文証も挙げられずに
>
> >仏法と申すは道理なり
>
> とのみ逃亡するは蓮祖完全否定だわ、坊や。(^o^)
> 相変わらず蓮祖を舐め切っておるなぁ、坊や。(^o^)
―――――――――――
→馬鹿と言うものは、こうも同じ恥言を引き続けられるものか。実に感心する。
ニセ本尊の猛毒は人間としての通常の羞恥心というものを吹き飛ばしてしまうようである。

当方は再三再四、駄犬が要求する”文証”の存在根拠自体が道理に合わない。と破折しているのである。
馬鹿には理解できないらしい。が、くどくどくしく書いてある限りはその馬鹿な頭に繰り返し躾けてやらなければならない。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。

現代の日常の全ての出来事が御書に説かれている訳ではない。
例えば駄犬も数珠を持つのだろうが、どうしてあの形なのか蓮祖・興師の文証を出せ。
と言われて出せるのか?
御書には数珠の形・持ち方等は説かれていない。
(馬鹿にはここまで説明しなければ分からないようである。)
しかし、日興上人の御数珠は現在の姿とほぼ同様であるが、何故その形なのか文証はない。
また、いつしか現在の姿となった法義的な根拠も、勿論蓮祖・興師の文証にはない。
だが、今現在、創価学会員はその日蓮正宗大石寺に伝わる数珠の形式を用いている。
蓮祖・興師の文証にない数珠の形は一体どこから学んだのか。
馬鹿な駄犬には返答不能である。
当たり前のことである。
つまり「相伝」に依って伝わったのである。
「開眼」も同様である。(詳細は前段)
蓮祖・興師の文証にない事案でも現に、駄犬を含め創価学会はそれを踏襲しているではないか。
これまさに駄犬の引文した、
■「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」
との御文におおせの「現証」ではないか。
自分ら創価学会員が蓮祖・興師の文証にない数珠の作法を平然・漫然として日々行っているくせに、その姿を省みず、他へ向かって、「蓮祖・興師の文証を出せ・出せ!」と喚くその大自己矛盾が分からないとすれば、ただの馬鹿か、ニセ本尊の魔神に魅入られて、開眼のないニセ本尊を何としても正当化したいがために、当たり前の”静思眼”を失った妄見の者である。

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

→正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。

そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

■仏法と申すは道理なり

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

■只道理と経文とを本とすべし。

つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。
まことに恥ずかしい限りである。
ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという"症状"が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。

こうして、駄犬が足掻き喚けば喚くほどに、正当な破折は繰り返され、それが記録に残され、後々までのいい謗法者の駄言のサンプルとなり、後代までの笑い者となろう。
駄犬や妄犬マゴマゴ君の使命実に甚大である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。195  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 426()153919 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

おやおや、瓦解活動・・もとい学会活動で忙しいはずのやまいぬ。君がまた何か書き込んでいるようですね。
では最新のこれから砕いておきましょうか。
―――――――――――
> DATE: 2007年 4月25日(水)23時22分15秒
> TITLE: まず樋田昌志くん。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」
>
> 坊や自身が身の程知らずにも私に投げた言葉だ。
>
> >当方は再三再四、駄犬が要求する”文証”の存在根拠自体が道理に合わない。
> >と破折しているのである。
>
> ▼1「蓮祖を破折」してどうするのだ、坊や。
> ▼2「泣き言無用と何度書かせるのだね?」 ダラダラ長いだけで中身のない寝言など
> 無用なのだよ。早くしなさい、愚図よ。
―――――――――――

【概況】

やまいぬ。君、この駄犬は最早完全に「死に体」となっているようである。
当方の破折に全くの反論不能となり、全く同じ事の繰り返ししか出来ない状態である。
思考停止状態の馬鹿丸出し状態。
こういう無様な姿を

■「内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。」(立正安国論   文応元年七月一六日  三九歳)というのであろう。

当方からここまで言われて悔しさの余り、何か言い返してやりたいが、しかし、かといって、まともには全く反論できず、頭も働かず、邪智も尽きて、ただ口を開けてパクパクと同じことを繰り返してみるしか能がなくなった状態である。

だから、お仲間からも「学会活動が忙しい事ですし、もう止めましょう」などと、体よくタオルが投げ込まれるのである。呵々大笑。
御同信のお友達からしても、やまいぬ。君は最早見苦しい足掻きにしか見えないのであろう。
足掻くほどに無様な傷口が大きく開いていくだけである。
実に創価学会の恥曝しである。

【本題】

1、▼1

馬鹿には当方が大聖人を破折しているようにみえているらしい。
実に馬鹿もここに極まったり。である。

法義の正当性の証明には

■「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」との如く、覚者である仏の教説による裏づけがなくてはならない。という面と、

■「仏法と申すは道理なり」という、道理=普遍妥当性のある正しい筋道に則った論理性による証明という面、

その両面が必要なのである。
そのことを明確にお示しになられたのが以下の御文である。

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。
→この御文は「道理」の面を強調されている。

■仏法と申すは道理なり
→この御文も、同様に、道理のという論理性の面を強調なされた御文である。

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々
→この御文は、問者が文証の明示を要求したの対して、大聖人が、まず以ってその件については道理が明白ではないか。と示され、その上で文証においてもかくかくしかじかである、と明証為されていく筋道を示された箇所である。

■只道理と経文とを本とすべし。
→この御文は、まさに、教義の証明には道理と文証双方を基本にしていくべきであることを示された箇所である。

まさに、大聖人は道理と文証の両面に於いて仏法の正義を検証すべきことを示されておられる。
馬鹿犬にはこの御文が見えない、読めないらしい。それとも駄犬の持つ御書全集にはこの箇所が欠損しているのか?
だったら早急に聖教新聞社にでも言って、取り替えてもらった方がいいぞ。呵々大笑。

駄犬はこの「道理と文証両面を基本としていけ。」という大聖人の御心を読めずして、ただ「文証」という一側面にのみ拘泥し、囚われているのである。
これもニセ本尊の害毒によって、心が変形・歪曲・屈折してしまって、我見による間違った仏法解釈に執着して、正しい大聖人の御言葉が心に入らないのである。

■法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、云々(土篭御書   文永八年一〇月九日  五〇歳)

という、様である。

よくあるパターンで言えば、ある人を「山田さん」と思い込んだらその人が本当は「山口さん」で、何度教えてもやはり「山田さん」としか呼べない、という方がいるが、(最近のコマーシャルでもあるようだが)これなどは、人間臭いお笑いで済むが、こと大事の御法門において駄犬のように、自らの偏曲した思い込みをどう指摘してあげても治らないとすれば、これは笑い事では済まされない。

このやまいぬ。君という馬鹿犬の言い分だと、
大聖人が道理を重んじられた御指南に対して▼2「泣き言無用と何度書かせるのだね?」と唾を吐きかけていることになる。
実に馬鹿丸出しのダメ犬である。呵々大笑。

そういう馬鹿な謗法者に対して大聖人ははっきりこう仰せられているのである。

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

ここまで言われてやまいぬ。君には全く理解できないかね?
馬鹿もここまで極まると最早結晶体のように堅固になってどうにもならないのかね?
いやはや、ニセ本尊の猛毒とは恐ろしいものだわ。
それとも元々からそういう馬鹿になる因縁で生まれてきたのか?
その辺は定かではない。
だが創価学会にしてみれば、やまいぬ。君が生来の馬鹿で、理解力の無い、聞き分けのない、素直でない、強情で、負けず嫌い人一倍で、でも愚かだから正当な反論もできない・・・であったとしても、それが「全てニセ本尊のせい」と言われたのではたまったものではないだろうな。
「いい迷惑だ。いい加減消え去れ。」とでも思っている人は以外に多いかも。

もし、次に何かを書くのであれば、もう少し気の効いたことを書いた方がいいのではないか?
老婆心ながら忠告しておこう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。196  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 426()18060 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、以下の駄言の中でもなかなか味わい深い箇所がまだあるので、更に追求してみましょう。
―――――――――――
> DATE: 2007年 4月25日(水)23時22分15秒
> TITLE: まず樋田昌志くん。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」
>
> 坊や自身が身の程知らずにも私に投げた言葉だ。
>
> >当方は再三再四、駄犬が要求する”文証”の存在根拠自体が道理に合わない。
> >と破折しているのである。
>
> 蓮祖を破折してどうするのだ、坊や。
> 泣き言無用と何度書かせるのだね?▼1「ダラダラ長いだけで中身のない寝言など
> 無用なのだよ。」早くしなさい、愚図よ。
―――――――――――
→論理的な反論が出来ないまま、とにかく悪態だけは吐きたい、反論した形にだけはしたい、そんな心理が読み取れる憎悪に満ちた品格の無い短文である。

▼1について。

さて、今回の切り裂く箇所はここであるが、今の駄犬の心理が顕著である。
当方の破折文を「ダラダラ長いだけで中身のない寝言」ということにして貶め、内容を曖昧にし、遁走してしてしまいたい、という心理が実によく分かるのだが、駄犬には御可愛そうだが、駄犬流に言えば”逃がしてやらないよ”

「蓮祖・興師の文証を出せ!」とあいも変わらず道理に外れた馬鹿げた主張をし続ける馬鹿犬には、既に解かなければならない宿題が山積みである。

当方としては同じ事を何度も繰り返すルーティンワークなどしたくはないが、駄犬が自らの非合理性・非論理性を認めずに、しかも馬鹿の一つ覚えで「蓮祖・興師の文証を出せ」と繰り返す限り、その低劣で愚鈍な機根にとことんお付き合いをするまでである。
その辺の状況を見極められない妄犬マゴマゴ君などの同種の馬鹿が、「お腹一杯」などと戯言を吐いているようだが、そもそも当方に繰り返させるその元の原因は御同輩の馬鹿犬の「蓮祖・興師の文証を出せ!」の馬鹿一つ覚えの繰り返しにあるのであり、当方はそのたびにそれなりに角度を変えて教え諭しているのである。
その上で、もしそれを読むのが嫌ならこの板に閲覧に来なければいいのである。
ほとほと馬鹿である。こちらからお願いして閲覧してもらっている訳ではない。
食べたくないものを態々食べに来て、「お腹一杯!」と文句を言うなど、愚の骨頂である。
こういうところからもニセ本尊を拝んでいる者が如何に当たり前の道理が分からなくなるかが顕著である。

さて、では本題であるが(と言っても今までの宿題の再提示であるが)馬鹿犬が今まで一言半句すら返答できない課題をここで、再度掲示し、駄犬の馬鹿さ加減をより鮮明に際立たせて置きましょう。
―――――――――――
1、【御本尊の御相貌の変遷について】

長い 複雑な構文は理解不能であると自ら公言した 馬鹿 であるから、要点を纏めてあげよう。

御書全編に亘って 以下の問題に対しての御教示がない。
何故なのか。
↑「蓮祖・興師の文証」に依って明証してみよ。
↑絶対に出来ないのである。(出来るのならその回答を待ちましょう?馬鹿犬君?呵々大笑)
↑「蓮祖・興師の文証」=御書・日興上人の文書に大聖人の仏法の全てが表記されている訳ではない。
↑それを馬鹿犬はどんな内容でも「蓮祖・興師の文証」で挙げろ。と恥言を吐く。←馬鹿である。馬鹿以上の丸馬鹿である。呵々大笑
↓以下の命題に全て「蓮祖・興師の文証」で答えられたら、馬鹿 と呼ぶのは止めてあげましょう。
そして、馬鹿犬が喚く全ての質問に「蓮祖・興師の文証」で答えてあげましょう。
↑自分が出来もしないことを人に要求してはいけないよね。
↑馬鹿 でもその位の”常識”は理解できるかな?
↑それも無理なほど『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』かな?馬鹿犬は?呵々大笑

さ、頑張れ。 馬鹿犬!呵々呵々大笑

1、 万年救護の「大御本尊」様には四天王が御認めか否か?それは何故そうなのか?
2、 「日蓮」の御名と「御花押」は何処に御認めか?それは何を意味するのか?
3、 十界の御配列にはどなたが存して、どなたがいらっしゃらないのか?それは一体どういう意義を御表わしになっているのか?

もっと普通に言えば、

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
★以下の御文に仰せの「符」とは何か。それはどういう由来で存在し、具体的にはどのようなものか?
■是併(しかしなが)ら日蓮が符を進(まい)らせし故なり。(月満御前御書   文永八年五月八日  五〇歳 462)
■懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。(四条金吾女房御書 文永八年五月  五〇歳 464)

更に踏み込めば

●大聖人御図顕の御本尊に年次により御相貌に大変な差異がある理由。
●大聖人様御所顕の御本尊中の記銘に「仏滅後二千二百二十余年」と「三十余年」と両様あられる理由。
●大聖人が、仏滅讃文を書かれ始めた御本尊はいつからか。
●文永、建治年間には全て「二千二百二十余年」、弘安元年以降に「二千二百三十余年」との讃文があられるのに、文永十二年四月の御本尊五幅のみに「二千二百三十余年」と書かれていることは何故か。
●弘安以降の御本尊において、善徳仏、十方分身仏を除去し給う理由。
●弘安以降の御本尊において、南無妙法蓮華経と日蓮在判の一体の尊形を拝し、かつ判形の更改あることの理由。
●建長年間に、戒定慧三学中の虚空不動慧たる本門の題目が宗旨建立以来弘通せられ、 文永、建治より虚空不動定たる本門の本尊が顕され、さらに弘安二年に至って、宗祖の末法化導における虚空不動戒たる戒躰が顕された、この時期の次第はどういう理由で生じたのか。
●『観心本尊抄』において、法華経の十界互具の観心を文証によって示され、特に
  ■「経に云く『提婆達多乃至天王如来』等云云地獄界所具の仏界なり」
と、地獄に堕ちた提婆達多が天王如来となることを記せられた提婆達多品の意義をもって、
地獄界に仏界が具わることを説かれた。
 次いで、それぞれの経文を挙げて他の九界に具すところの十界が述べられているが、
大聖人所顕の御本尊は、文永十一年七月二十五日の一幅のほかは、始めより弘安二年二月、日目上人授与の本尊の直前まで、約六十幅の御本尊のすべてに、他の九界はあるけれども、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。つまり、地獄界のみを御本尊の大功徳の御相貌から、敢えて外されている。この理由。
●しかし、文永十一年七月二十五日のただ一幅にのみ提婆達多を示されたのは何故か。説明せよ。
―――――――――――
2、【本尊雑乱】

1、大聖人御在世には「御本尊の印刷による流布」という姿がなかった。
現実に無い事を具に述べられる必然性はない。

2、大聖人御自らが顕された御本尊はそのまま「開眼」為され草木成仏して生身の仏であらせられる。
御自らしか為さない深旨を態々その行為を為す立場でもない方々へ具に御述べになる必然性もない。

3、しかし、元々草木である紙・木・墨等が、曼荼羅本尊として生身の仏と成るには「法華を心得たる人」が「開眼供養」しなければならない原理をきちんと説き置かれておられる。

4、しかも、大聖人御遷化後の「法華を心得たる人」という立場をきちんと定めて置かれておられる。

5、もし、その「法華を心得たる人」の「開眼」が不要、とするのならば、この世に存在する「南無妙法蓮華経の文字曼荼羅」は全て”正当な本尊”ということになってしまう。
つまり、●1「誰が書いても、誰が印刷しても、何に書いても、どこに映しても、全部”本尊”ということになり、まさに本尊雑乱の大狂態を容認すること」となり、大聖人の厳格な仏法の本義からいって甚だ不可である。

■富士一跡門徒存知事    延慶二年

一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

→もし、唯授一人の御法主上人の「開眼」を認めないとするならば、この御文に御指摘の
■「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)」
との行為を容認することとなり、日蓮大聖人・日興上人への背反・師敵対の謗法行為である。

因みに「創価学会は”不信の輩”ではない」と強弁する向きもあろうが、全く認められない。
日興上人門流ではあくまで、時の御法主上人である日興上人が書写された御本尊を授与される。のであり、たとえ大聖人お筆の御本尊の形木といえども、時の御法主上人である日興上人のお認めならないものは不可なのである。
創価学会がしている行為はまさにこの、■1「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。」と同類である。
時の御法主上人の開眼を認めないということは、●1「」と言う結果を必然的に生み出し、それは■1「」と日興上人が制誡された謗法行為となるのである。
つまり、やまいぬ。君や妄犬マゴマゴ君の主張は結果的に日興上人が厳禁された謗法行為を容認することになるのであって、全くの邪義・魍説というべきである。
―――――――――――
3、【御歴代上人の書写御本尊を用いる根拠】

そもそも、大聖人様の御書には「大聖人御図顕の曼荼羅本尊を信行せよ。」との御教示はあるが、御遷化後の僧俗の日頃の信行に関する「本尊」については述べられておられない。
大聖人時代には「大石寺」すら存在しなかったのであり、大聖人は後の江戸時代の第26世日寛上人のことも、歴史的な具体的な存在者として御記述になっておられない。(当然過ぎるほど当然である。)

では、何故に創価学会はその御書に説かれていない、「大石寺の第26世の「書写」された曼荼羅御本尊」を用いるのか。
やまいぬ。君にその理由を「蓮祖・興師の文証」で出してもらいましょうか。
もちろんそのものズバリの表現でしてもらうことは当然である。

御書には大聖人御遷化後の僧俗の日頃の信行の対境としての御本尊を説き示されていないにも拘らず、その「開眼」を示すそのものズバリの御文を出せ!と喚き続ける幼稚なやまいぬ。君は、自分が拝んでいる、本尊(を似せた掛け軸)のことも、御書に出ているのか証明する義務があろう。
人に道理が外れている痴難を吹っかけるのであれば、自分の行動にも同様な条件に依っての説明責任があるのは当然である。
それとも創価学会で「人間革命」すると、そういう社会生活の当然のルールも守れなくなるのか?
―――――――――――
4、【数珠の形状と所作】

現代の日常の全ての出来事が御書に説かれている訳ではない。
例えば駄犬も数珠を持つのだろうが、どうしてあの形なのか蓮祖・興師の文証を出せ。
と言われて出せるのか?
御書には数珠の形・持ち方等は説かれていない。
(馬鹿にはここまで説明しなければ分からないようである。)
しかし、日興上人の御数珠は現在の姿とほぼ同様であるが、何故その形なのか文証はない。
また、いつしか現在の姿となった法義的な根拠も、勿論蓮祖・興師の文証にはない。
だが、今現在、創価学会員はその日蓮正宗大石寺に伝わる数珠の形式を用いている。
蓮祖・興師の文証にない数珠の形は一体どこから学んだのか。
馬鹿な駄犬には返答不能である。
当たり前のことである。
つまり「相伝」に依って伝わったのである。
「開眼」も同様である。(詳細は前段)
蓮祖・興師の文証にない事案でも現に、駄犬を含め創価学会はそれを踏襲しているではないか。
これまさに駄犬の引文した、
■「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」
との御文におおせの「現証」ではないか。
自分ら創価学会員が蓮祖・興師の文証にない数珠の作法を平然・漫然として日々行っているくせに、その姿を省みず、他へ向かって、「蓮祖・興師の文証を出せ・出せ!」と喚くその大自己矛盾が分からないとすれば、ただの馬鹿か、ニセ本尊の魔神に魅入られて、開眼のないニセ本尊を何としても正当化したいがために、当たり前の”静思眼”を失った妄見の者である。
―――――――――――
さ、やまいぬ。君、これらに明確にいい加減返答したらどうか?

きちんと返答してから当方の論述に対して
▼1「ダラダラ長いだけで中身のない寝言」などという生意気な口を叩きたまえ。呵々大笑

やまいぬ。君流に言えば

> 馬鹿の一つ覚えの「蓮祖・興師の文証出せ!」は無用と何度書かせるのだね?
道理でも現証に於いても自分の行動すら「蓮祖・興師の文証」で説明できないくせに、中身のない寝言など無用なのだよ。早くしなさい、愚図よ。

ということである。呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。197  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 427()125711 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

では、やまいぬ。君の駄論に対する破折を続けましょう。
―――――――――――
> >法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が
> >入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。
> >大聖人御在世当時は「法華を心得たる人」とは、大聖人御自らである。(また大聖人様
> >からの御名を受けて代参される御僧侶にも「師弟相対」の次第によりこの義が含まれる)
>
> 坊やの主張はいつも「大穴」が空いておるんだよ。(というか、大穴空けたまま平然として
> スルーしようとする)
> >大聖人様からの御名を受けて代参される御僧侶にも「師弟相対」の次第によりこの義が
> >含まれる
> 勝手に付け加えたのなら文証出さんかいな、坊や。(^o^)
―――――――――――
→実に不勉強の限りである。
というより、再三指弾しているように、自分の妄見に囚われ御文を素直に拝せないからこのような恥言を書けるのである。
駄犬は以下の御文を読んだ事がないらしい。
よくそんな状態で「蓮祖・興師の文証を出せ!」と喚き続けれるものである。
聞いているこちらが赤面するような事態である。

■    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳

 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

1、大聖人は御自身が「はせまいりてをがみまいらせ候はばや」と思われておられたが、諸般の事情があられたのであろう。伊予房という”弟子”に「開眼」を託されておられる。
この意義は、当方の論述、
●大聖人御在世当時は「法華を心得たる人」とは、大聖人御自らである。(また大聖人様からの御名を受けて代参される御僧侶にも「師弟相対」の次第によりこの義が含まれる)
を明証する箇所である。

> 勝手に付け加えたのなら文証出さんかいな、坊や。(^o^)

文証を出したので、これに対して文証を以て反論して見せよ。
人に文証を要求しながら自分は文証を出せない。などという無様な姿を晒さないように念告しておく。
―――――――――――
2、この御文をよくよく拝すれば開眼の意義が鮮明である。

@大聖人は富木殿の機情に一端はあわせられ、釈尊像を「本尊」と為す事をお認めになられている。
Aしかし、本尊と為すからには「開眼」を命じられておられる。→■「仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。」
Bその原理は、木像である釈尊像へ 法華経一部を六根へ読み入れて生身の教主釈尊と為すことである。
C「かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。」との仰せから、「開眼」の必要性と、「開眼」の後に真正な生身の本尊と成る事を示されている。

以上から領解できる原理とは、

@ 大聖人以外の方が造立したものを「本尊」として拝するには「開眼」が必要。
A 大聖人からの御命があれば御弟子が代参して「開眼」が為される。

ということである。

ここにお示しの「本尊として成立し得る原理」は、そのまま、大聖人御遷化後にも当て嵌まる。

@ 大聖人御遷化以後は全て「大聖人以外の方が書写された御本尊、さらにはその御形木御本尊、さらには現今の印刷御本尊」である。が故に「開眼」が必要。
A 大聖人から「血脈の次第 日蓮日興」との御立場を相伝された方々が、大聖人の代参として「開眼」を為される。

この当該文は、附文の辺では富木殿の権機に合わせた御教示ではあるが、その元意の辺に於いては、正に大聖人滅後の御本尊の開眼の必要性を説かれておられる。
御文を
■只道理と経文とを本とすべし。(戒法門   寛元元年  二二歳)
との御教示を旨として拝すれば斯様に大聖人の御法門の深旨にも自ずと信行が深まるのである。

さ、やまいぬ。君、もし反論する、気力、知力、体力、時間がまだあるというのなら、どうぞご遠慮なく。
ただし、削除条件、5、また教義的な内容であっても、再三破折されているにも拘らず、それに反論できないまま、同様の邪難を繰り返し投稿している場合。
に抵触しないように頑張りたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。198  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 7()115650 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、あいも変わらず、この掲示板で懲りもせず愚論・恥言を書き殴っている愚鈍な犬がいるようだが、この馬鹿犬の痴論の続きを粉砕する。
―――――――――――
> >しかして、以降。
>
> また出たよ。坊やの自己陶酔の「問われたことから全く的外れな」ダラダラとした駄文の
> 羅列がよ。(^o^) だーれも坊やの自己陶酔に付き合うつもりはない。(^o^)
> あのなぁ、坊や。坊やは仕事でも日常生活でも、問われたことに全く返答出来ず、
> 見当違いの言い逃れをダラダラ書き込んで、しかもどんどん論点をずらしながら
> 問われてもいないことを自己陶酔すつつ長々云ったり書いたりする癖があるだろう?
>
> 講頭辞めたのは、それでみなに嫌われたからかね?(^o^)
>
> 法主正しきが主張したいなら、こちらの(いったいいつのものかすら忘れたような)問いに
> 蓮祖の文証挙げてからにしな、坊や。(^o^)
―――――――――――
→さて、ここが↑駄犬が当方の破折に対していかに論理的に反論不能になっているかがまたもや明確に露呈した箇所。

それを検証する為にこの「しかして、以降」をここに再度示してみましょう。

【検証】

●しかして、この法華=法華経とは三大秘法のことである。
三大秘法はそのまま一大秘法に括られる。
その一大秘法の体とはまさに戒壇の大御本尊である。
この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが日興上人を随一とする御歴代上人である。

【文証】

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

仏宝法宝=人法一箇の戒壇の大御本尊に究竟せられ、その人法一箇の戒壇の大御本尊は大聖人様の出世の本懐であり、「日蓮一期の弘法」の究極の御法体である。
その御法体は、「血脈の次第 日蓮日興」として日興上人に相伝・伝持せられたが、この
「次第」 とは、=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「物事が行われる際の一定の順序」として
「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」
とお決めになるという道理である。

更に補足すれば、この「血脈の次第 日蓮日興」との御文は、

釈尊
→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)
→日興上人

という基本形を示し、これはつまりは、

御先師
→御当代
→次期御法主

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

この道理は以下の御文証に依っても明白である。

■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

つまり、法華=三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊 は
大聖人→日興上人→日目上人  と伝持され 御先師→御当代→次期御法主 との基本形は末法万年に向けて伝承されるのである。

であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」ということになり、御法主上人以外在り得ないのである。

【現証】

御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という正に「現証」である。
創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を「本尊」としている。
これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。
―――――――――――
その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない"本尊もどき"は、魔であり鬼である。
よって、創価学会の販売している掛け軸は魔札・鬼札である。
実に簡単な道理である。 再掲以上
―――――――――――
→さて、駄犬は以上の論証について、一点もの教義的・論理的反論も出来ない。
ただ馬鹿の一つ覚えの一点、「そのものズバリの蓮祖・興師の文証を出せ〜!」これだけである。(今回の段では「蓮祖の文証」と「蓮祖」のみに限定しているが、これは常の如く「蓮祖・興師の文証」としてかいたつもりなのであろう?まさか妙な伏線を敷いていたわけではあるまい?)

では、この「興師の文証」はどう解釈するのか?

■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)

@この御文は日興上人の御文ではないのか?
Aそれを否定するのなら文献学的・歴史考証学的に立証できるのか。
Bこの御文を日興上人のご指南であることを否定できないのなら、この内容を認めるべきであろう。
つまり、「代々の聖人悉く日蓮である」と大聖人様が日興上人に仰せになった。ということではないか。

さ、駄犬、(今更ながらの気もするが、)この御文を認めるのか否か。

1、認めるのなら、今までの御歴代上人に対しての非礼に対して詫び状を書いて、ここへ掲示せよ。

例文 草案

「私ことHN「やまいぬ。」は、上記日興上人の御指南の意義を理解できず、今まで散々に御歴代上人に対して悪口雑言を吐いてきた事を心底反省してお詫び申し上げます。
どうか平に平に御容赦のほど、宜しくお願い致します。
本当にすみませんでした。
今までの所業は万死に値します。
依って、今後一生謹慎し反省懺悔の余生を過ごしますので、どうかお許し下さい。」

2、認めないのなら、その論理的理由を明示してみよ。(←これを切り裂くのもまた楽しみである。)

駄犬も、ただ愚かに吼えているだけではなく、少しは頭を使って、価値のある内容を書いたら如何か?
いつまでも進歩の無い駄言を吼えていると、法華講や、世間の良識ある読者の方々からは勿論、心ある創価学会員からも飽きられ、さらにまた呆れられるのではないか?
実に惨めで恥ずかしい有様である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。199  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 8()12594 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、続きいきますか。
―――――――――――
> >反問・反詰して、以って破折に代えておられる。
>
> 残念でした。蓮祖は反詰の中で、すでに返答されておる。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> ただの質問ではないのだよ。すでに返答を含んで、相手が手も足も出ぬように
> 答えられておるんだわ。(^o^)
> 言い訳と逃亡のみで、蓮祖の御文も言い逃れの道具。
> まことに浅識・不勉強の汗顔の至りで、実に恥ずかしい限りだわ。(^o^)
>
> アタマの中で酔っ払っておるようだから整理してやる。坊や、論点は「開眼」だ。
>
> さ、全部やり直しなさい。仕事中に平気でサボってネットなどに書き込むクズよ。(^o^)
―――――――――――
→しかし、毎回感じる事だが、実に品性のない人柄(犬の種柄?)である。

今回の当該文は以下のごとくである。
―――――――――――
【再掲】

↓これは当方

> >では沖浦さんに訊きますか。
>
↓やまいぬ。君

> はい、まずここでout。(^o^)(^o^)(^o^)
> まったく、いつもながらの「質問返し」。なんでフツーに真っ直ぐ、質問に
> 答えられんのかね?(^o^)

→本当に学習効果の無い”犬”ですね。
蓮祖仏法がどうのこうの、と偉そうな口をたたく割には、その「蓮祖仏法」の道理が全く解っていないようです。

■本尊問答抄   弘安元年九月  五七歳

問ふ、今(いま)日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑って云はく、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何。

答ふ、日蓮反詰(ほんきつ)して云はく、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一。
今日本国王より民まで教主釈尊の御子なり。釈尊最後の御遺言に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。法華最第一と申すは法に依るなり。然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従・牛馬等に至るまで不孝の子にあらずや是二。

この御文のごとくに大聖人様は、邪問を発する問者に対して、その邪問そのものの矛盾を突くために、敢えて直接的にはお答えにならず、反問・反詰して、以って破折に代えておられる。
このような類文はまさに御書に繁多である。
犬はこのような事例に対して

> はい、まずここでout。(^o^)(^o^)(^o^)
> まったく、いつもながらの「質問返し」。なんでフツーに真っ直ぐ、質問に
> 答えられんのかね?(^o^)

とでも言うのに等しい。
まことに浅識・不勉強の汗顔の至りで、実に恥ずかしいことですね。 【再掲以上】
―――――――――――
1、この駄犬はいつも通り論理的根拠も明示できないままただ闇雲に自見を振り回しているだけである。

@ 問者は
「日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何。」と責め立てているのに対して
答者(大聖人)は
「弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか」
「一切衆生は釈尊の子であり、法華経最第一を立てるのは、その釈尊の遺言の「法に依って人に依らざれ」によるのであり、その言に従わないのは親の言に従わない不孝者ではないか。」と
”道理”を以って反詰されている。

A日蓮大聖人が弘法・慈覚・智証に勝れているのか否か、について直接にお答えになっておられない。

B駄犬の言い分だと、「法華経に日蓮大聖人が弘法・慈覚・智証に勝れているという文証はあるのか!そのものズバリを出せ!」ということと同様であり、それが無ければ納得しない、という頑迷愚妄な謗法者である。
―――――――――――
2、同様の例で既に駄犬を破折済みである。これについても駄犬は未だ全く反論不能のままである。

【修正し再掲】

大聖人は駄犬のような道理が分からない、しかも執拗に無闇に文証を問う謗難者にかくのごとく鮮やかに返されている。

■問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併ら法華経に依ると云ふ証拠如何。
答ふ、予反詰して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。

駄犬にこの意を領することは難しかろうから簡単に説明すると、

問者が問う。
天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?
大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。
では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?
(そして道理を御説きに為る。)
この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)

さて、今回の駄犬の妄難。
▼「重宝(もしくは什宝)があれば正しい。という大聖人・日興上人の文証を挙げよ」であるが、
この邪問について、当方では道理に基づき、詳細に説明した。
だが駄犬は、もはや道理が理解できる知性を失っている状態である。
そこで、当方は駄犬にその邪問自体が稚拙かつ暴難である旨を突く為に、反詰しているのである。
ここで、編集し再掲する。(※〜※)
―――――――――――

※「さて、次に駄犬に課題を出しておくが、
ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、
@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?
Aその場所はどこか?
Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を■「同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是偏(ひとえ)に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期(とき)まで深く敬重し奉るべし。」と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?
なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?
それは「重宝」がなければできないのではないか?
それは駄犬の言う、
"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば
”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?
ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。
また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

追加

更に、重宝の中の重宝、秘法中の秘法こそ、まさに戒壇の大御本尊である。
重宝云々と言っても、戒壇の大御本尊の存在に尽きるのである。
その戒壇の大御本尊を伝持されていない創価学会などは、広宣流布の暁に建立せねばならない「本門寺の本堂の事の戒壇」の更に中央須弥壇に一体何を安置できるのか?
駄犬が「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と問うその底意は、「創価学会こそが正しい」と主張したいのであり、そのこと自体は戒壇の大御本尊の一事を以って、既に打ち砕かれている。
正しい・正しくない、でいったら、まさにこの一事に尽きるのであり、戒壇の大御本尊が御相伝される大石寺は最強の現証としてまさに"正しい"のであり、戒壇の大御本尊の相伝のない創価学会などはまさに"正しくない=邪な団体"、ということ明白なのである。

■道理・証文、現証に如かず

である。

更にまた、「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬には、
反詰して曰く、「では重宝が伝持・相伝されていることが正しくない、とする文証を挙げてみよ」となり、また更に踏み込んで「創価学会が正しい、ということを大聖人・日興上人の文証のみでそのものズバリで挙げてみよ」ということにあるのである。
大聖人の反駁の方程式をそのまま準えさせていただけばかくのごとくとなり、駄犬の妄執・妄難など一撃である。

さ、以上に対して全てに明晰に反駁してごらん?
もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。
貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHNであるが当方は実名である。
今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。
教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。

※注 最近(2007.5.8現在)は根拠のない事実無根の憶測による中傷内容が多々見られるが、教義的に反論不能に陥った者どもの常の哀れな姿ではあるが、執拗に繰り返した場合は看過できない。
法的処置も視野に入れて対応するかもしれないので、その点、十分に留意して投稿したまえ)

もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。
心して、責任ある返答をしたまえよ。
―――――――――――
●何度もその謗法の害毒で破戒されきった頭に教え込むが、「仏法と申すは道理なり」で、「道理」が分からない者こそ、正しい仏道修行をしていない証左なのである。
やまいぬ。君の野卑で理性を欠け切った言動がそのまま謗法による人格破壊の良き(悪き)現証そのものである。
やまいぬ。君当人には自らの人格破壊の現証は当然意識できるものではないだろうが、この双方の投稿のほぼ全文は末永くHP上で閲覧できるよう保存されるので、世の有識具眼の方々が「正しい」宗教を選択する資料として大いに参考にして頂こうではないか。 【修正再掲以上】
―――――――――――
→ではやまいぬ。君、"お勤め"から帰ったら、頑張って以上の宿題に取り組みなさいね。
ご苦労さん。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。200 祝200回!ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 8()152212 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、いよいよ内容が愚劣だが、以下のゴミも砕いて処理・清掃して行きますかね。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月 7日(月)23時35分6秒
> TITLE: 無能無責任管理人・樋田昌志くんよ。(^o^) 01
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> ロクに管理も出来ん、たまに出てくるだけのクズ管理人になどそもそも用はないのだよ。
>
> しかし長い連休明けで世間が本格的に動き始める今日月曜の「11時56分」?
> しかもその書き込み、どう少なく見ても15分はかけているであろう。
> まだ就業時間中の11時半過ぎから、何をやっておるんだね、クズ経営者くんよ?
>
> しかもな、坊や、
>
> 「ところで何度も問うたが、坊や、随分前、仕事中に宗教活動をして車でひとを轢いたと
> 当時ネットで頻繁に出ていたと記憶するが、あれは本当なのかね?
> もし本当なら、それが坊やの「現実」なのかね? 仕事中に宗教活動をすることが、
> そうして車でひとを轢くことが、坊や達の云う「蓮祖仏法の功徳」なのかね?
> 返答して御覧?」
>
> ず―――っと逃げて逃げて逃げっ放しなんだわ、クズよ。(^o^)
>
> たまに出てきたら、たったこれだけのことにすら返答不能、逃げっ放しのままで捏造
> 教学の「質問くん」かね、ボクちゃん?(^o^)
>
> 自分の現実と向き合えないのかね、坊や?
> 坊や、確かもう40半ばを越えて、あと2、3年で50だよなぁ?
> 50前の分別を持っておる筈の年齢で仕事中にサボって宗教活動をし、ひとまで
> 轢いたのかね、坊や? たったこれだけの問いから何ヶ月逃げ廻るのだね?
>
> 恥ずかしいのかね? 情けないのかね? 自分が腹立たしいのかね?
>
> 「けいえいしゃ」と名乗りながら仕事サボってせっせとネットジャンキーと化しておることも
> 仕事サボって宗教活動してひと轢いたりするのも、アタマの中では考えないことに
> しておるのかね? 坊やの会社の定款に「宗教活動」とあるのかね?
> アーレフや「ひかりの輪」以下かね、坊や?(^o^)
>
> 現実と、向き合えない、脳内信徒の、分際で、何が、悲しゅうて、逃亡実に198回?
> 去年の(あれ? 2年前?(^o^) )、夏の、第1問、「什宝ありてこそ宗門正しき」以来、
> いまだに、ただ1行の、蓮祖・興師の文証挙げられぬ、言い訳と、泣き言と、捏造だけの、
> 田舎、零細、カルトの、「元」、講頭よ。(^o^)
>
> あんまり見事な「現証」で、憐れで涙を誘うなぁ、クズよ?(^o^)
―――――――――――
→さて、以上の駄文についてだが、この中で、全く根拠の無い憶測による中傷が明確であるので、この段は、法的対処した場合の”証拠”として、きちんと記録しておきましょう。

ただ一言明言しておくが、このHN「やまいぬ。」と称する、IP=60-62-149-197.rev.home.ne.jp(60.62.149.197)を使用する者の断定している投稿内容は事実無根である。
以後、上記の投稿を厳に慎むべきである。
この警告を再三無視した場合は、法的処置も辞さないのでその旨念告しておく。
―――――――――――
→では、次。

―――――――――――
>
> >→さて、ここが↑駄犬が当方の破折に対していかに論理的に反論不能になって
> >いるか

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^) (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> たった一つの自分の現実を問われただけで、逃げて逃げて逃げ廻っていったい
> 何箇月だね? 「いかに現実的に反論不能になっているか」の見事な現証だわ。(^o^)
>
> 無慚。この2字に尽きるのだよ、「元」講頭よ。(^o^)
>
―――――――――――
↑ここも上記同様の警告内容に抵触する箇所である。
―――――――――――
> >この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが
> >日興上人を随一とする御歴代上人である。
> >【文証】
> >■日蓮一期弘法付嘱書   ■1『日蓮一期の弘法』、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門
> >弘通の大導師たるべきなり。■2『国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を
> >建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。』就中我が門弟等
> >此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日 日蓮 花押 ■3『血脈の次第 日蓮日興』
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊や、この坊やの挙げた「文証」の、いったいどこに「日興上人を随一とする御歴代
> 上人」が「この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されて
> いる」などと書いてあるのだね? 書いてもないのに「文証」かね?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^) (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やの悪い癖、というか、頭破七分の見事な現証であるが、「文証だ」と出した御聖訓に
> 「文証」なく(^o^)(^o^)(^o^)、その説明のために「別の箇所」から引っ張り出す。(^o^)
> では最初に出したのは何なのか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 書いてもないことを「書いているように見える」――だから狂っておるのだよ、
> 樋田昌志くん。(^o^)
>
> ここのクズ法華講とおんなじだわ。(^o^)
> 「これが証拠だ!」と粋がって、まったく「証拠」になっておらん。(^o^)
> ただの嘲い者なのだよ、ボクちゃん。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

―――――――――――
→”そのものズバリと書いている文証”しか受け入れないとする、愚昧な頭にはさぞ難しかろう。
いつか、妄犬マゴマゴ君への破折にも用いたが、無能な駄犬は、1「平行四辺形」を説明する場合、そのものズバリに「平行四辺形」と書いてなければダメで、2「二組の平行線が交差して形成する四角形」では理解できず、更に、3「無限に交わることのない二本の直線の二組が交差してできる図形」ではもっと理解できない。というような馬鹿さ加減である。
言うまでもないが2も3も全て1「平行四辺形」の意義・定義を説いているのであって、まさに1「平行四辺形」のことである。
駄犬の恥言などもはやこの程度のお笑いである。
妄犬マゴマゴ君の忠言をきいて当板からこっそり退出し、そのまま謹慎でもしていればいいものを、こうして悔し紛れに書けば書くほどに、法的にも怪しい立場になりつつあり、教義的には大いに恥をかく羽目になるのである。呵々大笑

では。

■1『日蓮一期の弘法』とは何か?
謗法で愚劣な頭には理解できないらしい。

既に何度も繰り返し論証していていい加減辟易するが、しかし、反復学習はどの世界でも大事な事であるから、労を厭わず頑張りますか。

■三大秘法稟承事   弘安五年四月八日  六一歳
三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。

→大聖人様の一大事は三大秘法である、ということである。
→■1『日蓮一期の弘法』とは結局のところ三大秘法である。
→三大秘法とは一大秘法へ究竟される。
→つまり戒壇の大御本尊である。(『本門戒壇』と銘刻があらせられるのは戒壇の大御本尊様のみであることからも明確である。)
→それは、次下に■2『国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。』と、本門戒壇の建立を明示せられていることからも、実に明瞭である。
→この■1『日蓮一期の弘法』であるところの戒壇の大御本尊は■3『血脈の次第 日蓮日興』によって、日興上人へ相伝・伝持されたことも明白である。
→この『血脈の次第』の「次第」には、「物事が行われる際の一定の順序。」との意があるのであり、

(釈尊→)日蓮大聖人→日興上人

との決まりごとを大聖人が御自ら定められていた、ということである。

その証拠・現証がこの■1『日蓮一期の弘法』であるところの戒壇の大御本尊が、

■一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(日興跡条々事   元弘二年一一月一〇日)との御文により、日目上人へ相伝・伝持されたことである。

ここで、更に後へ「次第」していく現実の姿として

(釈尊→)日蓮大聖人→日興上人→日目上人

と「次第=物事が行われる際の一定の順序。」との意義は明瞭であり、当然その理の指し示すところ、
この「血脈の次第」の原理原則は、そのままその後、日道上人→日行上人→日時上人・・・・と「次第」していくのである。

この原理原則を別の御書で示された箇所がまさに、

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

なのである。
更に、その「血脈の次第」の御立場の方の尊厳は、

■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」

との御文に於いても明確である。

つづく。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。201  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 8()171717 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

次もまたまた、駄犬の恥論炸裂なので見物です。
―――――――――――
>
> >■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「四恩抄」の前後の文を全部すっ飛ばしてここだけかね、坊や?(^o^)
> 教えてやろう、ボクちゃん。(^o^)
>
> 「然るに末代の凡夫三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
>
>
> さぁ、ここでいう「三宝」とは一体何かね? ▼1『久遠元初の三宝』なのかね、▼2『末法下種三宝』
> なのかね? もし久遠元初の三宝なら、いったいいつから日蓮正宗では、「歴代法主」が
> 久遠元初の三宝になったのかなぁ?(^o^)
> もし末法下種三宝なら、坊やのところの絶対権威・唯授一人血脈相承の法主は、▼3『僧宝の
> 一分として、誰が含まれると書いたのかなぁ?(^o^)』
>
> もうどっちを挙げても逃げ場なしなのだわ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→ほんと〜〜に馬鹿である。呵々大笑
馬鹿犬は躾されてもされても身につかない、という見本のような馬鹿さ加減である。

@ 駄犬のいう、この
▼1〜▼3全て、駄犬が文証として認めないという「日蓮正宗」の「歴代法主」である、日寛上人の仰せなのである。

Aそもそも、▼1『久遠元初の三宝』▼2『末法下種三宝』という語句も概念も御書の文の面には全くない。
もう、ここからして駄犬は大いに自己矛盾の”無限ループ”に陥っているのである。
馬鹿もここまで来ると天然記念物ものである。呵々大笑
さ、駄犬にききましょうか。

@ そもそも、この▼1▼2の語句と意義は御書のどこにあるのか明示せよ。
A 御書にないことを云々するものは謗法ではないのか?
B 駄犬は「蓮祖・興師の文証を出せ!」と常々喚いているのであるが、「蓮祖・興師の文証」にないことを駄犬こそが書き殴っているではないか。この矛盾を説明してみよ。
C 以上が出来ないなら、(出来るわけも無いが)正式に詫び状を書け。
D 下品で無能で卑怯極まりない駄犬。しかしいい加減、この件については逃げずに返答してみたら如何か。
E 悪口を喚き散らしながらまた遁走するか?

駄犬曰く

▼「> もうどっちを挙げても逃げ場なしなのだわ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)」

まさに自分が吐いた唾をそのまま自分の面に被っているような馬鹿である。呵々大笑

参考までに今まで駄犬が一言も返答できていない”宿題”を再掲しておいてあげよう。
馬鹿なくせにいつまでも往生際悪く絡んでいると、その度に同じ反論不能の課題を再掲示され恥をかき続ける羽目になるのである。
馬鹿なりきにも少しは”学習”したら如何かね。
ここまで馬鹿な者に接することは一生のうちでも数少ないかもしれないほどの、馬鹿だな。
―――――――――――
【駄犬が反論不能になっている課題の再掲】

さて、出ました。
前から、徹底的に破折して置きたかった、箇所。
―――――――――――
> 久遠元初の三宝否定。(^o^) 坊や、堕ちるところまで堕ちたな。(^o^)
―――――――――――
この「久遠元初の三宝」これについて、駄犬の大矛盾を突く。
かつて駄犬はこう言った。

―――――――――――
▼あのねぇ樋田くん? ※1「久遠元初の三宝とは絶対信の対象」だよねぇ?
その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)

上記した堀日亨上人と同じだ。
※2「寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?」
「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を
顕された※3「蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。」
「戒壇の大御本尊様こそ根源」だと主張したいのだろう?
ならば「※4「蓮祖・興師の言で充分可能だわなぁ?」 はいどーぞ。(^o^)
―――――――――――
→この駄犬の※1 2 3 4 の主張を整頓すると

→絶対信の対象 は
→久遠元初の三宝 であるから
→蓮祖・の興師文証のみしか信じれない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その中には当然、日寛上人・日亨上人も含まれる。

ところが、である。

1、※1「久遠元初の三宝」なる表現は常に駄犬が拘る「蓮祖・興師の文証」には存在しない。

2、この※1「久遠元初の三宝」との語と概念は、駄犬が※3※4と侮蔑する日寛上人の御指南に於いて初めて出現するのである。
(当然、この教義信条は上古からの文献に垣間見ることはできるが、こうして明確に体系的に表示されたのは日寛上人が初めてである。)
中でも駄犬が根拠にしたい箇所はここであろう。

当流行事抄
■『久遠元初の仏宝豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大聖人なり。(中略)久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり。(←ここは、駄犬には実に都合が悪い箇所であるが。呵々)
(中略)
※5『久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり。』

中でも特に拘りたいところは※5「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」であり、日興上人以外の御歴代上人を無視する根拠としたいのである。

3、だが、この※5「久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり」との内容表現は「蓮祖・興師の文証」には皆無である。
御書には、僧宝の総括的な定義はあるが、それが、"日興上人そのものである。"とは全く明示されてない。
日興上人御自らも「我は、久遠元初の僧宝である」などと、大々的に仰せになられていないのである。

4、ここに駄犬の大いなる自己矛盾・論理破綻が炸裂する。呵々大笑

先ほどの駄犬の主張の図を再度点検してみよう。

→絶対信の対象
→@久遠元初の三宝 であるから
→A蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その”信じない・用いない”中には当然、B日寛上人・日亨上人も含まれる。
→ところが、駄犬がA「蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。」とした根拠である@「久遠元初の三宝」との御指南は、駄犬が信じない、用いないと軽侮したBの日寛上人の御指南なのである。
→しかし、駄犬はA「蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。」立場であり、「蓮祖・興師の文証」しか、用いないはずである。
→でも、そのA「蓮祖・興師の文証」しか用いないとする根拠の「文証」は駄犬が信じないはずの「蓮祖・興師」以外のB日寛上人の「文証」なのである。・・・・・・

呵々大笑。

当方は別に「循環論法」とやらに興味関心はない。
が、この駄犬の「大矛盾の無限ループ」は、どうしたら解けるのか?

さ、駄犬、この矛盾を「蓮祖・興師の文証のみ」で論理明快に解いて見せてくれたまえ。呵々大笑
できなければ、公式に謝罪して脱会は無理だろうから、せめて、
「自分が今まで書いてきた物は全て邪義でした。反論不能です。二度とこの板に来ません。ネット上でも悪さは致しません。どうぞお許し下さい。」
くらいの詫び状を書け。いいな。(-。-)y-゜゜゜

どうせ、道理・文証に則った反論は不可能なのだから、いつまでもみっともなく足掻いていないで、いい加減、きちんと謝罪して、詫びをいれたらどうだ?呵々大笑。
駄犬サイドのお仲間のはずの"セコンド"連中も、駄犬へは面と向かってはなかなか言えないが、(だから当方へ、もう止めた方がいいんじゃない?などと遠まわしに言ってくるのだろうが。呵々)これ以上駄犬が足掻いていると創価学会の面汚しになるから、いい加減止めて欲しいと思っているんじゃないのか?呵々大笑。
せいぜい、味方からタオル投げ込まれないうちに、潔く土下座して全面降伏したら?
もし、駄犬がまだ当板で往生際悪く、足掻き燻り続けるのなら、以前の駄犬の恥論が山ほどあるので、それを全て突き崩し、"標本"として晒しものにしていくだけである。
素材は大量にある。
駄犬は恥を更に募らせるだけである。
もし、それが耐えられないのなら、駄犬が詫び状を書いて降伏するならば、武士の情けでその大量の恥論を暴くのを留めてあげよう。
どちらでも、好きなほうを選びたまえ。
当方には申し訳ないが駄犬に比べて相当量の自由な時間があるので、駄犬の痴難を劈いていくことなど、さほど苦痛ではない。

さ、駄犬がどっちを選ぶのか、実に楽しみである。呵々大笑 【編集再掲以上】
―――――――――――
→駄犬、いつもとおり、またしらばっくれて遁走するか?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。202  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 9()131635 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

随分と駄犬、支離滅裂な書き込みをしてるようだが、お行儀よく、前のものから砕いていきましょうかね。

>
> ついでに坊やは甘々に考えて、「僧」をただ「在家」と立て分けた「出家」としたいので
> あろうが、では同じ「四恩抄」で何と仰せかなぁ?(^o^)
>
> 「世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ
> 候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて
> 妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは
> 在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり、是れ偏に法華経を信ずることの余人
> よりも少し経文の如く信をもむけたる故に悪鬼其の身に入つてそねみをなすかとをぼえ
> 候へば是れ程の卑賎無智無戒の者の二千余年已前に説かれて候法華経の文に
> のせられて留難に値うべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、
> 此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に
> 信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、 又信じて候い
> しかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに
> 一巻一品題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十
> 余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、」
>
> 「世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ
> 候か」――濁悪末世の堕落しきった僧の姿を、「させる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず
> 只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも
> 殺さざれども悪名一天に弥れり」と女犯も妻帯もせぬのに「法華経を弘めんとする失に
> よりて」云われなき誹謗を受けていると対比されておる。ここで挙げた「堕落僧」、法主を
> 筆頭とした宗門の坊主どもそのものではないか。
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^) (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^) (^o^)(^o^)
>
> 蓮祖にここまでボコボコにされては言い逃れの仕様もないわなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)
> 自分の挙げた文証で首落とされて、どうしてクズ法華講どもはこうも頭悪くて自虐的
>
> なのかね?(^o^)
―――――――――――
→あまりに馬鹿な愚論なのでこの辺で一端切りますか。

【僧侶の妻帯について】
―――――――――――
1、日興上人の『弟子分本尊目録』に、

■「同國高橋築前房の女子、豊前房の妻は、日興の弟子なり」

とあり、宗開両祖の時から、御弟子の中には「妻帯僧」がおられたことがわかる。
これは大聖人が妻帯を許されていたという証拠である。
―――――――――――
2、当該文について
この御文をこのように浅薄に稚拙にしか読めない駄犬はまさに人間以下の犬ですな。

まず、この駄犬が故意にか文意が読めぬが故にか、抜いた箇所から引文しましょう。

■『日蓮は■1『身に戒行なく』心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』随分世間の事おだやかならんと思ひき。』(←※以上駄犬が抜いた箇所)■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』もさてこそ候か。■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』、■5『只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』

ここでの意義は、そもそも小乗戒・大乗戒を喝破され、本門無作の大戒を打ち立てられ、末法無戒を標榜される大聖人はもともと■1『身に戒行なく』あらせられるが、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』当時、鎌倉時代に横溢する■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』という破壊無慙の妖僧等の振る舞いと簡異する為に、仮に■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』とのお姿を示し、断肉禁婬の聖僧を標せられたものと拝するのである。
にも拘らず、■5『只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』という、根拠の無い悪口雑言を浴びられた。と仰せなのである。

この御文のどこにも、大聖人門下の僧侶が妻帯をしてはならない。などという制誡は微塵もない。

駄犬のように、全体の文意を読めず、ただ、自分の醜見に当て嵌まりそうな箇所だけを抜き出して、醜怪な邪解をなす引文の仕方を、”切り文”といって低脳かつ卑劣・姑息・陰湿な謗法者がなす常套手段である。
―――――――――――
3、最蓮房御返事   文永一〇年一月二八日  五二歳
 一、御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり。彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑ひ無き故なり。但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給ふ故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり。

この御文からも大聖人の御真意が拝せられる。

→権教・謗法をなす僧侶は仮に魚鳥を食せず、妻帯しないという戒を持っていたとしても、正法を護持する破戒の在俗よりも百千万倍劣る。(況や僧侶と比した場合においてをや。との意が篭められておられると拝せる)
→前者は地獄に堕し、正法を持つ破戒の在俗は成仏間違いない。(大聖人の御心はそもそも在俗に持戒を求めてはおられないので、この「大俗」という御表現は邪僧との対極の意義としてであり、そこに僧俗共に含まれる事は、文意と道理から明らかである)
→権宗を捨て正法へ帰依することは最高の「持戒」(本門無作の大戒・金剛宝器戒)であり、まことの清浄の聖人である。

その上で、次下の御文で最蓮房が妻帯せず、魚鳥を食せず、という姿を愛でられておられるが、それは、上記の根本義の上における補足的・付加的な激励のお言葉ということが、大意として領解できるのである。

■尤も比丘と成りては権宗の人すら尚然るべし。況んや正法の行人をや。仮使権宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇はん時は、振り捨てゝ正法を弘通すべきの処に、地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し。相構へ相構へ向後も夫妻等の寄り来とも遠離して一身に障礙無く、国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉るべき者なり。
―――――――――――
4、大聖人様御自ら、妻帯僧であった羅什三蔵訳の法華経を多くの訳経の中から選ばれておられる。
これ、大聖人様が僧侶の妻帯等の小戒にとらわれておられなかった証拠である。(羅什三蔵の時代は、鎌倉時代以上に僧侶の妻帯が厳重な禁忌であったにも拘らず、である。)
―――――――――――
→概ね以上の論証により、駄犬の言い掛かりなど全くのお笑い草である。
まさに駄犬、自分の無能・愚鈍が故に文意・真意が読めず、以下自分で吐いた下衆な言葉をそのままその醜面に被るの醜態である。呵々大笑
駄犬、何か言えば言うほど、惨めである。

駄犬曰く

> 蓮祖にここまでボコボコにされては言い逃れの仕様もないわなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)
> 自分の挙げた文証で首落とされて、どうしてクズ【学会員】どもはこうも頭悪くて自虐的 なのかね?(^o^)

【】内だけ当方が変更。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。203  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 5 9()175255 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、駄論の続きにおつきあいしますか。
―――――――――――
> しかもここで、「法華経の行者」の在り様を描かれておる。
> 曰く、
> 「候法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ
> 申し尽くし難く候」
> つまり法華経に書かれている通りの「留難に値う」と仰せだわ。(^o^)
> さぁて、阿部日顕が、「ブクロの寛ちゃん」が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→しかし、ここまで頭の中がぐしゃぐしゃに崩れていると、さぞや職場での勤務評定も悪かろうな。呵々

前段の続きの御文

■恐らくは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。是偏に法華経を信ずる事の、余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼其の身に入ってそねみをなすかとをぼえ候へば、是程の卑賤無智無戒の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、留難に値ふべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ、申し尽くし難く候。

(駄犬、何を慌てたのか、「”候”法華経・・・」などと前文の結文から引文するとは。
このような杜撰な引文をしている無能者が大聖人の御文を正確に読める訳が無い。呵々大笑)

1、これまさに末法の御本仏日蓮大聖人御自らの事が、法華経への深い信仰の故に、多くの悪鬼入其身の謗法者からの迫害に遭い、留難に値う、と二千余年已前に既に明確に法華経に説かれてあることの有り難さを御述べになられたところである。

前段と今段での流れは、終始一貫大聖人様御自らの事についての御記述である。
この短い御文の一体どこに、
「後の大聖人門下の僧侶が大聖人と全く同じ留難に遭わなければならない」
と説かれているのか、明示してみよ。

2、当方は大聖人に続く修行者が難に遭うことを否定しているわけではない。
が、法難に遭う遭わないは、時・周辺の衆生の機根・当人の宿業等々によりまちまちであり、法難に遭う遭わないを以って正邪・善悪・信心の厚薄を論ずる基準の全てとはならない。ということである。

同抄

■是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有りがたくこそ候らめ。

との御文の如く、大聖人と全く同様の法難に遭うことは「有難い=非情に稀」である。と仰せなのである。
この御文からしても、末代の僧侶が大聖人と全く同じ法難に遭わなければならない。などということが暴論であること明白である。

3、その現証として日興上人御自らにしても、大聖人と全く同じ法難に遭われた訳ではない。
法難に遭われた大聖人へ”常髄給仕”されたのであって、鎌倉幕府からの法難を受けられた”主体者”ではない。

4、更に創価学会が販売しているニセ本尊の元になる御本尊は日寛上人のお手になる御本尊である。しかし、日寛上人は大聖人と全く同じ法難には遭われていない。
駄犬の言い分だと、日寛上人へ向かって、

> さぁて、【二十六世の日寛さん】が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

と、嘲弄していることになる。
実に馬鹿である。

駄犬がどれほど日寛上人を愚弄し、嘲弄するのも駄犬の悪業を積むだけだから止めはしないが、笑えるのは、その自分が馬鹿に仕切っている日寛上人が書写された「御本尊」に日夜手を合わせている無様な格好である。呵々大笑
今までも何度も駄犬の馬鹿さ加減を哂ってきたところである。

(註 むろん、日寛上人の書写された御本尊を基にしたニセ掛け軸であるが。
更に馬鹿な頭に繰り返し教え諭してやるが、駄犬の家にあるニセ本尊は大聖人が御図顕された曼荼羅そのものではない。
当たり前である。
大聖人が御図顕された戒壇の大御本尊の御内証を日寛上人が書写された御本尊を元にして作ったニセモノである。
書写された日寛上人御本人がそのような意義を仰せであるのだから、駄犬の聞き分けの無い頑迷な妄執など一蹴されている。
また、その証拠に、大聖人”御図顕”の御本尊と御相貌が違うではないか。)

(因みに、駄犬が日寛上人の御指南を”内部規定で内部規定を斬る”だけに用いる、というような恥言を吐いているが、これも上記と同様の馬鹿全開の恥論である。当該箇所にきたら思いっきり哂って切り刻んであげましょう。呵々大笑)

5、その上で、駄犬が如何に大聖人の御心に背いているか更にえぐってあげましょう。

同抄

■仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。

大聖人は仏法修行者の基本的姿勢として、報恩の誠を尽くすように教戒されている。
その内の第四において三宝の恩をお示しである。
その中の仏宝・法宝については今は本題ではないので暫く置く。

ここに今回の本題の僧宝の恩について御説きである。

■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。

駄犬の無信心を呵責する御文の意義

@衆生を成仏させる仏宝も法宝も僧がなくては存在しない。
→僧を否定したら、仏宝も法宝も存在しなくなる。
→駄犬のしていることは仏法ではない。

A「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」
この経文は

▼『> さぁて、阿部日顕が、「ブクロの寛ちゃん」が、いったいどんな「留難に値う」たのかなぁ?
> どんな「三類の強敵」に遭うたのかなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)』

などと、下品で野卑な堕言を吐きつける駄犬の所業を弾呵している御文まさにそのものである。

B駄犬のような極悪因縁の者が末代にはウジャウジャ生まれてくるから■「然れば僧の恩を報じ難し。」なのである。

C日寛上人の御本尊を持ち出してその御本尊を元に掛け軸を作って「本尊」とみなして拝んでいるのに、その日寛上人に向かって、

▼寛師とて現実にどれだけ広宣流布を進めたのだね?
「一閻浮提総与」と蓮祖が仰せであり、そうして一切衆生救済のためにこそ御本尊を顕された蓮祖の思いを実現できなかった人間の講釈など無用だよ。

などと嘯く駄犬は、まさに、■「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」と指摘される如く、成仏など思いの他である。(つまり堕地獄必定)

C更に今駄犬が日夜拝するその曼荼羅本尊・題目・数珠等々の所作などは元はといえば一体誰がそれを伝持してきたのか?
駄犬は大聖人から直接聴いたのか?
大聖人が御本仏であり、末法の教主である、と誰から教わったのだ?
身延の僧侶からか?立正佼成会の会員からか?呵々大笑

それら全て■「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」との御文の如くに、日興上人門流が正しく伝えてきたのであって、創価学会はその門流へ「入信」し、仏宝・法宝の御威徳に浴する事ができたのである。(今は勿論全くの似非日蓮仏法であるが)

大聖人の仰せでは、その大聖人の仏宝法宝を伝持されたきた僧宝への報恩が無いものは、つまりは大聖人の仏教徒ではない、と仰せである。

ここからしても、駄犬は大聖人の仏法から大きく逸脱した外道の謗法者であることは明白である。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。204  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 516()101437 p4043-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、またゴミ掃除を再開しますか。
―――――――――――
> ついでに、我らにはどーでもエエが、坊や達は絶対に逆らえない、坊やのところの絶対
> 権威の言葉で斬ってやろう。(^o^)
>
>■1 「(僧侶が:やまいぬ。註)自分から進んで『僧宝』なんだからもっと尊敬しろ』という
> ようなことを思ったならば、やはりこれは間違いです」
>
> いつの誰の言葉かは調べなさい。(知ってるよなぁ?(^o^) )
> 「思った」だけで間違い。まして「宗是」として規定など論外だ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> さ、唯授一人血脈相承法主に逆らってみなさい、坊や。(^o^)
―――――――――――
→この■1の御指南は以下の日顕上人猊下お言葉である

在勤式得度式祝賀会の砌 昭和五十五年三月二十八日 於 大講堂

駄犬の引文が如何に姑息か明確にするために少々長くなるが、その前後を引文させていただく。

■「(前略)

 また本日こうして得度式が済んだ以上、皆さん方の子供は自分の子供にして自分の子供ではなく、大聖人のお弟子として差し上げたわけですから、『いつまでも自分の子供である』という考え方は捨てて頂きたいと思います。■1「ですから、呼び名等においても、これからは僧侶としての名前を呼び捨てにしてはなりません。必ず「○○さん」というように敬って呼んで頂きたいと思います。」

 また新しく僧侶になった者達は、お父さんやお母さんからさんづけで呼ばれたからといって、それだけでお父さんやお母さんより偉くなったというような考えを持ってはいけません。在勤式のときに言ったように、やはり僧侶はあくまでも修行が中心であり、信心に基づいた修行を一生懸命にしていくことによって大聖人からほめられ、自然に在家の人達も尊敬してくださるようになるのであります。

 仏教の中に三宝≠ニいう言葉がありますが、その中の一つに僧宝というのがあって、僧侶はすべて世の中の宝である、という意味の言葉があります。しかし、そういう意味の言葉があるからといって『自分は僧侶であるから世の中の宝であり、偉いのである。だからもっともっと尊敬しろ』というふうなことを考えたり言ったりするならば、これは大きな間違いであります。
 本宗では、日蓮大聖人が末法の御本仏として仏宝であらせられ、御本尊が法宝であらせられます。そして僧宝として尊敬するお方は二祖日興上人ただお一人というこのとなっておるのであります。その故に、歴代の上人以下、一般の僧侶については、あえて僧宝とは申しません。■2「しかし僧宝という意味においては、それぞれの分に応じて、あるいは末寺に在って御奉公し、信徒を導き、育て、そして大聖人の仏法を守っていく僧侶は、すべて僧宝の意味はあります。」そういう意味はあるけれども、自分から進んで『僧宝なんだからもっと尊敬しろ』というようなことを思ったならば、やはりこれは間違いであります。本当に信心をもって修行をしていくならば、いやしくも信心のある信徒の方々は、自然にその僧侶を敬うであろうことは当然であります。そういう意味において、あくまでも修行が大切であるということを、しっかりと肚に入れておいて頂きたいと思います。  」 (引文以上)

→こうして前後の文意を読むと、とことん駄犬の根性の醜悪さに辟易するものである。


上記の御指南の意義は、

1、まず対象がこれから僧道を全うしようとされる得度された12歳前後の方々である。


2、父兄には、たとえ今まで自分の子だとしても今後は僧侶として尊敬して接していくべきことを示され、

3、逆に得度者には、父兄が僧侶として尊敬したとしても決して慢心を起こしてはいけない、修行をして徳を積む中で自然に尊敬される姿を目指す事を示されている。

4、ここで、三宝の意義の一端を示され、僧「宝」とはいっても、自ら慢心を起こして偉ぶるのは大きな間違いであることを再度お示しである。

5、最後に、別体三宝に於ける僧宝の意義と、住持三宝に於ける僧宝の意義の縦分けを平易なお言葉で示され、重ねて、これから生涯僧道を目指す得度した少年の方々へ、慢心を起こす事を戒められているのである。

僧宝の意義については、簡潔に以下の如く仰せである。

■2「しかし僧宝という意味においては、それぞれの分に応じて、あるいは末寺に在って御奉公し、信徒を導き、育て、そして大聖人の仏法を守っていく僧侶は、すべて僧宝の意味はあります。」

醜犬には大変お気の毒であるが、日顕上人が「僧宝」を否定している文意は全くない。
それは以下の御指南にも顕れている。

■1「ですから、呼び名等においても、これからは僧侶としての名前を呼び捨てにしてはなりません。必ず「○○さん」というように敬って呼んで頂きたいと思います。」

この御指南を通読させていただくと、その趣意は、
「在家はやはり僧侶を大聖人の御弟子として尊敬していくべきであるし、また僧侶は在家の方から真に尊敬されるように徳を積むための修行を怠ってはならない。」
ということである。

この段でもまた醜犬の根性の腐り果てた「切り文」の典型例を見た。
これで、またニセ本尊を拝む者が実に人間として最低のゴミ屑以下の醜悪で姑息極まりない卑劣漢となるかの良き実例が記録された。
醜犬が何か書くほどに、良識ある一般の閲覧者においては創価学会を忌避し厭離する要素が増えることになり、健全な社会を構成するには大いに喜ばしいことである。
それにしてもこのような腐り果てた根性の人間が平然と世の中に棲息していること自体がおぞましい限りである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。205  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 518()114227 p3150-ipbf210yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、以下のゴミ掃除を続けましょう。

―――――――――――
> ああ、73曰く、僣聖増上慢はいつからか「在家」になったんだそうだぜ。(^o^)
> 本人は「その文証出せ」と繰り返し問われて、グゥの音も出ずにずっと触れることさえ
> 出来ずにダンマリだが、さて坊や、どう説明するんだね?
> 樋田昌志くんにしがみついておるパラノイアを助けてやりなさい。(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――

まず、僣聖増上慢の衣文

『法華経勧持品』

「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎(きょうせん)するもの有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬(くぎょう)せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出ださん。而も是くの如き言(ことば)を作(な)さん、此の諸の比丘等は利養を貪るを為(もっ)ての故に外道の論議を説き、自ら此の教典を作りて世間の人を誑或(おうわく)す。名聞を求むるを為(もっ)ての故に分別して是の経を説く。常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって、誹謗(ひぼう)して我が悪を説いて「是邪見の人、外道の論議を説く」と謂(い)はん(唱法華題目抄 222)

この「僣聖増上慢」の件については、ある掲示板上での「戸田門下生」という方の論説が実に的確であると思うので、ここに転載させていただきます。(※は当方の加筆部分)

引用

「 この僣聖増上慢について、他の二種類の増上慢(俗衆増上慢と道門増上慢)と比較し、妙楽大師は

■「第三(※僣聖増上慢)最も甚はなはだし。後々の者は転うたた識り難がたきを以もっての故に」

と述べ、また日蓮大聖人は

■「三人の中に、第一の俗衆の毀そしりよりも、第二の比丘の毀りは猶なおしの忍びがたし。又、第二の比丘よりも、第三の大衣の阿練若の僧は甚はなはだし」(御書二二三頁)

と、非常に認識しがたいものである、と仰せられています。
 すなわち、俗衆よりも道門、道門よりも僣聖の方が、より大きな権威や名声をもって人々からの信頼を集めているので、その正体も見破りにくくなり、また、より強大な力を有することとなる、というのであります。
 以上のことから、僣聖増上慢とは、
「仏でもないのに周囲から仏のごとく思われている似非聖者が、衆生済度よりも栄誉・名声・財宝を得ることに執着し、大衆の中に入り込んで権力者や邪宗の僧俗と語らい、正法の行者を迫害してくること」

を指す、といえます。


釈尊の時代には提婆達多、日蓮大聖人の御在世には まやかしの戒律と慈善事業で「生き仏」のごとく装いながら、大聖人様を怨嫉して御命まで奪わんとした良観を、大聖人様は僣聖増上慢と断定あそばされています。


 今述べてきたことを現代に当てはめてみると、まさに池田大作の振る舞いこそが、その文々句々の一々に当てはまっていることが明白になります。

 すなわち、贅を尽くした閑静な所に籠もり( 空閑に在あって自ら眞の道を行ずと謂いて )、
 金と権力と名声に異様に執着するが故に、自称一千七百万人という会員を前に滔々とスピーチをして仏のごとくに敬われ( 利養に貪若するが故ゆえに白衣の与に法を説いて)、
 大衆の中に入り込んで、政権与党となった公明党やあらゆる権力・マスコミ等をフルに活用して、日蓮大聖人の血脈を承継する御法主上人はじめ日蓮正宗に 対する悪口誹謗の喧伝・攻撃に余念がないのが池田大作であり、
( 此の諸の比丘等は 利養を貪るを為っての故に 外道の論議を説き 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑し名聞を求むるを為っての故に 分別して此の経を説くと 常に大衆の中に在って我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん )

これこそ、現時の僣聖増上慢である、と断ぜざるをえません。

 しかるに、創価学会においては、「日蓮正宗、なかんずく日顕上人が僣聖増上慢」と言って憚らないのですが、その理由として挙げてくるのが、「経文には、僣聖増上慢は出家僧から出る、とある(池田は出家ではないので、僣聖増上慢にはなりえない)」という主張です。

 このことについてですが、日蓮大聖人は
■「或有阿練若より下の三偈は、即ち出家の処に一切の悪人を摂うす」(御書五六四頁)
と仰せられ、「惑有阿練若より以下の文は、出家という言葉の中に、その他の一切の悪人まで含めているのである」とお示しくださっています。
 ですから、逆に言えば、僣聖増上慢は出家僧侶に限らない、在家からも出る、ということが明らかであります。

※また、池田さんを筆頭に、今の創価学会の職業幹部は 「在家」(=一般会員)からの「供養」(=財務、広布基金等)で生きている、自ら一般社会に対しての生産活動に従事していない状態であり、姿は有髪でもあれ、その生活実態は、「出家」との意義をも含んでいる。

まさにこの「法華経勧持品」を説かれた釈尊の御言葉■「義に依って語に依らざれ」の如く、ただ浅薄に「出家」という語に拘泥するのではなく、「僣聖増上慢」とはどのような振る舞い、行動をするのか、社会的にどのような立場の者なのか、という「義」を見て判断すべきことである。)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。206  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 518()17104 p3150-ipbf210yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、続き。
―――――――――――
>
> >興師相伝云々、
> はまだ許してやるとして、さて、
>
> >御先師→御当代→次期御法主
>
> こんなこと、この「四恩抄」の坊やの挙げた箇所のどこに書いてあるんだね?
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> だから坊やの挙げる「文証」は「文証」になってすらいないと何度も教えてやったろう?
>
> あのなぁ、坊やの妄念が作り出した「創作」も「捏造」も無用なのだわ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >御先師→御当代→次期御法主
>
> さ、蓮祖・興師の文証挙げてもらおうか。(^o^) また首落とされにでしゃばって来た
> のかね?(^o^)
―――――――――――

ま、所詮ニセ本尊の猛毒に汚染されきった謗法の頭には何をどのように何回教えても覚えない。
それだけのことである。
いつまでも、その愚鈍な頭にお付き合いするほどの時間が、当方には勿体無い。
永久に無間地獄に堕ちてまでも「蓮祖・興師の文証を出せ〜!」を繰り返せば宜しい。
当方も同じことを繰り返しアップする無駄な労力を節約する為、駄犬が反論不能になっている箇所を整理して、ポイントを纏め始めた。

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

これも、駄犬が執拗に絡んでくれたお陰で、膨大な破折文が整理整頓されるということになり、ありがたい事である。
―――――――――――
>
> >■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。
> >本門寺に懸け奉るべし。(中略)
> >であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」と
> >いうことになり、御法主上人以外在り得ないのである。
>
> だーから1年前から訊いておろうが?(^o^)
> まさに「四恩抄」にある如くの、女犯も妻帯も平気でやらかすような文字通りの堕落僧で
> あろうとなんだろうと、「信」も「行躰」も問わず相承受けたら「内証は蓮祖」たる蓮祖・
> 興師の文証、いい加減に逃げ廻ってないで挙げてみな、ボクちゃん。(^o^)
―――――――――――

ここも同様。既に破折仕切ってある。

駄犬は以下の論述に対して教義的に「蓮祖・興師の文証」を的確に引文して反論でいていない。(※羅什三蔵については駄犬の痴難が出てきた箇所で後述する。)

まず【僧侶の妻帯について】
―――――――――――
1、日興上人の『弟子分本尊目録』に、

■「同國高橋築前房の女子、豊前房の妻は、日興の弟子なり。仍って之を申し與う」(歴代法主全集1-93)

とあり、宗開両祖の時から、御弟子の中には「妻帯僧」がおられたことがわかる。
これは大聖人が妻帯を許されていたという証拠である。

今回【補足】

同じく「弟子分本尊目録」には
■「岩本寺住の筑前房は、(豊前公同宿也)日興の弟子なり。仍って申し與うる所件の如し。但し聖人御滅後に背き了ぬ。」(歴代法主全集1-91)
とあり、この二つの御記述から以下のことが分かる。

@ 筑前房は、大聖人御生前中から日興上人門下であった。
A 女子がいた。→妻帯していた。→大聖人は築前房の妻帯を許されていた。
B その妻帯僧である筑前房に日興上人は御本尊を与えておられた。
C その筑前房と同宿であった豊前房は築前房の子である女性を妻としていた。
D 日興上人はその妻帯僧である豊前房を御弟子として認められておられ、御本尊も授与なされていた。

一方日興上人は御本尊はどのような方に授与されていたかといえば、

■日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。
  本尊人数等、又追放人等、頚切られ死を致す人等。(富士一跡門徒存知事    延慶二年)

つまり、妻帯していようがいなかろうが、■「身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、」授与為されていた。

以上の事実から、大聖人も日興上人も妻帯の是非云々よりもむしろ重要な点は、不自惜身命の信仰を貫き通すことに主眼をおかれておられたことが明白である。
―――――――――――
2、当該文について
この御文をこのように浅薄に稚拙にしか読めない駄犬はまさに人間以下の犬ですな。

まず、この駄犬が故意にか文意が読めぬが故にか、抜いた箇所から引文しましょう。

■『日蓮は■1『身に戒行なく』心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』随分世間の事おだやかならんと思ひき。』(←※以上駄犬が抜いた箇所)■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』もさてこそ候か。■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』、■5『只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』

ここでの意義は、そもそも小乗戒・大乗戒を喝破され、本門無作の大戒を打ち立てられ、末法無戒を標榜される大聖人はもともと■1『身に戒行なく』あらせられるが、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』当時、鎌倉時代に横溢する■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』という破壊無慙の妖僧等の振る舞いと簡異する為に、仮に■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』とのお姿を示し、断肉禁婬の聖僧を標せられたものと拝するのである。
にも拘らず、■5『只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』という、根拠の無い悪口雑言を浴びられた。と仰せなのである。

この御文のどこにも、大聖人門下の僧侶が妻帯をしてはならない。などという制誡は微塵もない。

駄犬のように、全体の文意を読めず、ただ、自分の醜見に当て嵌まりそうな箇所だけを抜き出して、醜怪な邪解をなす引文の仕方を、"切り文"といって低脳かつ卑劣・姑息・陰湿な謗法者がなす常套手段である。
―――――――――――
3、最蓮房御返事   文永一〇年一月二八日  五二歳
 一、御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり。彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑ひ無き故なり。但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給ふ故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり。

この御文からも大聖人の御真意が拝せられる。

→権教・謗法をなす僧侶は仮に魚鳥を食せず、妻帯しないという戒を持っていたとしても、正法を護持する破戒の在俗よりも百千万倍劣る。(況や僧侶と比した場合においてをや。との意が篭められておられると拝せる)
→前者は地獄に堕し、正法を持つ破戒の在俗は成仏間違いない。(大聖人の御心はそもそも在俗に持戒を求めてはおられないので、この「大俗」という御表現は邪僧との対極の意義としてであり、そこに僧俗共に含まれる事は、文意と道理から明らかである)
→権宗を捨て正法へ帰依することは最高の「持戒」(本門無作の大戒・金剛宝器戒)であり、まことの清浄の聖人である。

その上で、次下の御文で最蓮房が妻帯せず、魚鳥を食せず、という姿を愛でられておられるが、それは、上記の根本義の上における補足的・付加的な激励のお言葉ということが、大意として領解できるのである。

■尤も比丘と成りては権宗の人すら尚然るべし。況んや正法の行人をや。仮使権宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇はん時は、振り捨てゝ正法を弘通すべきの処に、地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し。相構へ相構へ向後も夫妻等の寄り来とも遠離して一身に障礙無く、国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉るべき者なり。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。207  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 520()21258 p6030-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、次いきましょう。
―――――――――――
>
> どーでもいいが、坊や、坊やの主張を成立させるためには何よりも、当然阿部日顕が
> 紛れもなく達師から相承受けたという事実が当然必要だわなぁ? それなしに坊やの
> 主張はそもそも成立せん。
> 裁判までやって立証できなかったものを、いまさら末端信徒の坊やが証明できる
> のかね?(^o^)(^o^) ああ、「坊主がそう云っているから」なんてガキの言い訳
> みたいなものはもとより無用。
> 一体いつ、どこで、何時から何時にかけて、誰の立会いのもとで「相承の儀」が
> 行われたのか客観事実・客観資料だけで証明してもらおうか。(^o^) 絶対無理だし。
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→本当に成長の無い駄犬である。

1、もし、日顕上人への御相承を云々するのであれば宗祖大聖人から連綿と続いた日達上人まで御相承は認めるのか。
当方は当然ながらその御相伝を拝信するが、駄犬はそもそもそれを否定しているのではないか。
御相伝が連綿と続いていたという前提根拠を否定していながら、今更ながら駄犬にとっては”ない”はずの”相承”を云々するとは、実に頭破七分の悩乱極まったりの恥言である。

2、日達上人から日顕上人への御相承客観性を要求するのであれば、当然の如く、
@ 日蓮大聖人から日興上人
A 日興上人から日目上人への御相承を

> 一体いつ、どこで、何時から何時にかけて、誰の立会いのもとで「相承の儀」が
> 行われたのか客観事実・客観資料だけで証明してもらおうか。(^o^)
ということになる。

ほとほと 馬鹿 である。呵々大笑

そしてそれは、

▼絶対無理だし。 (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

と自ら自分のその謗法で汚れきった醜面を嘲弄するはめとなる。
実に 馬鹿 である。呵々大笑。

つづく。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。208  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 520()213648 p6030-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

前段の詳細を続けようと思ったが、この愚犬相手には無駄な時間を使うのも勿体無いので、前段の2に明答できたら、詳細に答えてあげましょう。

でも、

▼絶対無理だし。 (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。209  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 520()232743 p6030-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

以下の駄言前々207段の2に答えられるはずもない駄犬にこそふさわしいのでは?呵々
>
▼> 出来ない言い訳にまたながっなが・ダラッダラと、いつもながらの延々たる泣き言と
> 言い訳など無用。(^o^) 「出来ません」ならその一言で充分だよ、坊や?(^o^)

→まさに駄犬の頑迷に凝固した脳髄に固着している妄執をただひたすら反芻する哀れさへ自分で唾を吐きつけてる様である。
謗法者というものは斯様に正法の者を誹謗しようとすればするほど、自らの謗法の醜悪さを暴き出すものである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。210 祝!210回!ありがとう!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 521()114614 p6030-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、ではつづき
―――――――――――
> >【現証】
> >御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という
> >正に「現証」である。創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を
> >「本尊」としている。
>
> (^o^) 「現証」とはね、実に750年も経って、蓮祖在世の邪宗教にすらいまだに負け
> 続けておる田舎零細カルトの在り様をこそ「現証」と云うのだわ。(^o^)
―――――――――――
→ここもあいも変わらず、の妄執。
既に完摧済み。

http://toyoda.tv/yamainu.point   ここの

↓ここに纏めて置きました。

http://toyoda.tv/yamain.point2.htm

駄犬がこうして謗法の頭にこびりついた妄執を際限無く繰り返してくれるたびに、逆に当方は資料の整理ができありがたい事である。
新しく当板に閲覧に来られた方々も以下のようにポイントごとに分類されていれば見易く、活用しやすい事でしょう。
もちろん以前からの方々にとっても、駄犬の妄執を項目ごとに分類してあれば破折の内容を再確認しやすい事でしょう。
こうしてみると、やはり謗法者というものは誹謗すればするほど、正法の者にとっては更なる行学研鑽の糧となり、ありがたいものである。
ちょうどゴミもそのままでは邪魔だが、火にくべて燃やせば熱となり、灯りとなり、エネルギーとなり・・と、世の為になるようなものである。
謗法者も駄犬のようにこうして正法の者に絡みついてくればその”使い方”次第で役に立つものである。

■「魔来たり鬼来たるとも騒乱(そうらん)する事なかれ。夫(それ)天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山(こんぜん)を摺(す)り、衆流(しゅる)の海に入り、薪(たきぎ)の火を盛んになし、風の求羅(ぐら)をま(増)すが如くせば、豈(あに)好(よ)き事にあらずや。」(聖愚問答抄  上   文永五年  四七歳)

大聖人様の御心もまさにこの御文の如くである。

と言うわけで、駄犬も大いに執拗に際限なく絡み付いてきてくれたまえ。
捉え方次第では”駄犬”は大いに役に立つ”犬”であった。
”駄犬”は的確ではなかったな。
今後は”狂犬””愚犬””醜犬””臭犬””執犬”とでも呼称しようか。
どれがいいか?呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。211  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 521()133914 p6030-ipbf09yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

では、午後の一第目
―――――――――――
▼> ▼1「折伏出来ません、広宣流布も進められません、」▼2「法主の相承も証明できません――」
> 坊や達、なーんも「出来ません」やないか。(^o^)

→▼1については前段同様。

http://toyoda.tv/yamainu.point   ←ここの

↓ここに纏めて置きました。

http://toyoda.tv/yamain.point2.htm

▼2について

http://toyoda.tv/yamainu.point ←ここの

↓ここに臭犬が返答不能の破折がアップされています。
http://toyoda.tv/yamainu.point3.htm

臭犬は以上について▼「なーんも「出来ません」やないか。(^o^)」呵々大笑。

乱雑な資料を整頓していく作業って、やり始めてみると、実に気持ちのいいものである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。212  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 521()15452 p1118-ipbf10yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

第二題目(因みに、先ほどは一第目は一題目の間違いである。)
―――――――――――
> ついでだ。(^o^)

> >御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という
> >正に「現証」である。創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を
> >「本尊」としている。
>
> では▼1「阿部日開が年代を誤写して謝ったり」、▼2「蓮祖が顕されてもいない「未来本尊」を
> 勝手に捏造」したのは、「法華を心得ていない不相伝」の「現証」なのだね?(^o^)(^o^)

―――――――――――
→馬鹿がいよいよ言う事が無くなってきて、いよいよ馬鹿さ加減が爛漫である。呵々大笑
しかも、臭犬が自分が返答不能になると決まって他人に向かって吼えて否定してきた「質問返し」「意趣返し」をこの場で自分自身でしているではないか。
実に馬鹿である。
謗法者の悩乱振りが実に分かりやすい御仁である。呵々大笑。
更にその「意趣返し」は、ことの本質をはぐらかして逃げ惑っているに過ぎない。
当方らがしているものは論題の本質を更に明確にすべき「反詰」であり、臭犬のように本質論から遁走する類のものではない。
さ、では持論には責任を持ちたまえ。「意趣返し」せずに、堂々と返答せよ。

■御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という 正に「現証」である。
創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を「本尊」としている。
これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。

もし、「法華を心得たる人」=御法主上人 ということを否定するのであれば、創価学会は何故「御法主上人」である日寛上人・日淳上人・日達上人の御本尊を用いる必要があるのか。
何故御法主上人でなければならないのか。
教義的に、客観的に明証して見せよ。
何度同じことを言わせるのだ。▼「グズ学会員。グズやまいぬ。よ。」とでもなるのか?呵々。

―――――――――――
▼1

http://toyoda.tv/tciken.saikai10.htm

で完摧済み。
臭犬、もう少し勉強してから何か書いたほうがいいんじゃないか?呵々大笑

▼2

@ まず「未来本尊」について

馬鹿はとことん馬鹿である。

大体が、御本尊の御事については御書にほとんど御記述が無い。
何度言っても学習効果のない犬である。

http://toyoda.tv/yamain.point1.htm

の如く、御本尊の御相貌については明示されていない。
つまり、御本尊の全てのその深い意義について御書にその全てが顕されていないのは明白である。
にも拘らず、未来本尊の意義についても、大聖人が仰せになっていなかった、と何故、何を根拠に臭犬ごときに断定できるのか。
全くの馬鹿の思い上がった思い込みである。

■「此の御本尊こそ冥途(めいど)のいしゃうなれ」(『寂日房御書』・新編一三九四頁)

未来御本尊の意義を否定するのなら、ではこの御文の意味は一体何なのか。

臭犬、その謗法で汚れ切った顔を洗って出直してくる事である。
でも、”犬”には顔を洗うのは無理か?呵々

A 導師曼荼羅 について

【論証と破折】

1、大聖人御真筆御本尊が現存しているのは百数十幅であり、大聖人時代に存在した全てではない。

2、従って今は現存しない大聖人御真筆御本尊の中に、「導師曼荼羅御本尊が絶対に存在しなかった」とは断定でき得ない。

3、御書にも
■「先世に三宝(さんぼう)の御前にして此の戒を受けし時、天には日月(にちがつ)・衆星・二十八宿・七星・九曜(くよう)・五星、地には五つの地神・七鬼神・十二神・三十六禽(きん)、又梵天・帝釈・四大天王・五道の冥官(みょうかん)等、此の五戒を受くる人を護らんと誓ひ給ひき。」

■「もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。」

とあり、大聖人におかせられても「閻魔大王(=法皇)」「五道冥官」との概念が御在りだったことは明白である。

4、その上で、仮に大聖人・日興上人時代に今の導師曼荼羅御本尊そのものは存在しなかったとしても別段問題は無い。
その件に関しては日顕上人が明晰な破折を為されているので、引文させていただく。

■「『大聖人が書かれた御本尊とは明らかに異なる』とも言っておるが、これは本尊の内証口伝を受けていない者が形式だけを見て、その曼荼羅弘通の規模の広さを知らない偏見であります。
 冥界へ向かう衆生への化導救済の意義より、天照大神、八幡大菩薩の代わりに閻魔法皇、五道冥官を書かれることは、『南無妙法蓮華経 日蓮在御判』を中心とする一念三千の本尊に在ってはいささかの違法もないのであり、これを『ニセものの本尊』とすることは、本尊相伝のない創価学会の短見・邪見なのであります。
 創価学会は歴代上人のなかで、日寛上人こそ大聖人直結の方であると讃しているが、その日寛上人の在家に授与された数幅の御本尊に、明らかに天照、八幡の代わりに閻魔法皇、五道冥官と書かれておる御本尊が現存しております。
また、日寛上人の御師・二十四世日永上人の書写にも閻魔法皇、五道冥官の書き方が拝され、さらに上代の御先師にも存在しております。
その血脈の上からの流れは、近年では日応上人、日亨上人、日開上人にも同様の書写の御本尊が拝せます。
特に先師日達上人はこの意味において導師御本尊をお示しであり、私もその上から伝承して、冥界へ向かう信徒の化導のための本尊として、いわゆる導師曼荼羅として『閻魔法皇、五道冥官』を書写申し上げておるのであります。」
(『御法主日顕上人猊下御講義・創価学会の偽造本尊義を破す』七十五頁)

5、なお、創価学会二代会長夫人の葬儀に、池田大作は欠礼。秋谷栄之助、和泉覚、粕原ヤスら、学会最高幹部三十名が参列し、細井尊師の唱導のもと、共々に導師曼荼羅に手を合わせていた。
導師曼荼羅御本尊に難癖をつけるのであれば、この連中↑は謗法となるのか?呵々

6、そもそも創価学会第二代会長戸田城聖氏をはじめ、学会破門以前の学会員は、皆、宗門の導師曼荼羅を奉掲し、僧侶の導師によって葬儀が行なわれていたではないか。それをどう説明するのか。
もしその御本尊が「ニセ本尊」で「謗法」だというなら、戸田二代会長はじめ数多の学会員は、皆、地獄に堕ちたことになるではないか。
 また、もし「導師曼荼羅はニセ本尊でも、本人の信心によって成仏できた」というなら、もはや本尊は何でもいいことになる。
 日蓮正宗憎しのあまり、好き勝手に誹謗の言を構え、大事の御本尊に対してまで邪見を差し挟(はさ)む――これを仏法破壊の大謗法というのである。

7、創価学会販売のニセ本尊は、御本尊に関する奥義を全く知らないただの門外漢が、"勝手に"撮影・文字削除・文字改竄・色調補正等して、大量に印刷し「開眼」なしで販売しているものであり、導師曼荼羅御本尊はあくまで御本尊に関する奥義を唯授一人・血脈相承されたお立場である御法主上人が為されていることであり、ここに決定的な相違があるのである。

―――――――――――
これで、また、臭犬の際限なく繰り返される妄執への破折論文の資料が追加され、実に気持ちがいいものである。呵々大笑

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。213  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 521()201758 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

臭犬、書けば書くほど隙だらけで、恥が上塗りされるだけである。
―――――――――――
> さらについでだ。(^o^)
> 鈴木日恭焼死は、▼1「覚悟の自殺」と主張すれば「仏法者そのものとして失格(^o^)」、
>
> 不慮の事故死で焼死となりゃ、「唯授一人血脈相承法主が無慚に焼死かよ?(^o^)」
>

> で嘲われてオシマイ。これもどう転んでも言い訳不可能。(^o^)
> 当然これも「法華を心得ていない不相伝」の「現証」だわなぁ?(^o^)
>
> おいおい、「血脈寸断」やないか?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず、門前に
> あった消防自動車は故障のため使へず、上井出から來た戰車學校の自動車はガソリンを忘れたため
> 是亦役に立たず、富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を
> 整へたのでありますが、署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過し上野署
> よりの應援要請で馳著けた時は火は既に客殿に移り、手の下しやうもないと云ふ
> 此上ない悪條件」、云々。
>
> こらアカンやろ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 焼け死んでこれだけ嘲われたらタマランわなぁ?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→まず、これだけ、誹謗したら、醜犬は今世で救われる余地は最早無いだろうな。

日恭上人が覚悟の御遷化であることは如何に詳細に論証してある。

http://toyoda.tv/tciken13.htm
http://toyoda.tv/tciken.saikai11.htm

さて、では、果たして▼1なのか。

まず用語用法から。

自殺=自分で自分の命を絶つこと。

であるから、臭犬の用法がまず失当である。やはり馬鹿である。

次に日寛上人の御遷化の様子を
池田大作監修の仏哲から。
―――――――――――
臨終について

日寛上人は享保十一年(一七二六年)正月、公儀へ年賀のために江戸に向かい、ゆかりの寺である常在寺で、信徒の要望にこたえ、観心本尊抄を講義したのであった。
講義満了の日に、日寛上人は「法華経を漢訳したことで有名な羅什三蔵は、つねづね自分の訳経に誤りがない証拠に、自分が死んで火葬する時に、身は灰となっても、舌だけは焼けずに残るであろうと語っていた。そして果せるかなそのとおりになったので、人々は羅什三蔵の訳経を信ずることができたのである。いま日寛上人が富楼都の弁を得、日蓮の神通力を現じて、仏法の肝要を述べたとしても、言うところが後に誤りとわかれば、信ずるに足りないであろう。そこで、ここに一つの予言をしておこう。私は平素からソバが好きだ。正に臨終の時におよんでソバを食べて、一声大いに笑い、題目を唱えて死ぬであろう。もしそのとおりになったら、私が説いた一文一句も疑惑を生じてはならない」と予言して、同年五月、大石寺に帰ったのである。
そして五月の頃から急速に衰弱していき、弟子が心配して薬をすすめたが服用せずひたすら入滅の準備を整えていったのであった。
すなわち、本門戒壇建立の資金、新法主の支度金、五重塔造営資金などを遺言とともに残した。
七月下旬、もはや再起不能であることを悟り、学頭目詳上人(日蓮正宗第二十八世) に法を相承し、滅後の諸事を遺言した。
この時、日詳上人が薬をすすめたが、服さず
「色香美味の大良薬を服するだけで充分である」といい、
また
「実は深く考えるところがあって、医療を用いないのである。そのわけは、天台の止観第五に『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る。乃至随う可らず、畏る可らず。之に随えば将に人をして悪道に向わしむ。之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。大聖人の仰せには
■『此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり』と。
また御書に
■『一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候』と。
当山は今、年を追って繁栄している。
まさに三類の強敵が競い起こるであろう。
私はこの春以来、三たび災を攘(はら)うことを三宝に祈願した。
それゆえ仏天はあわれみを垂れたまい、私自身の病魔をもって法敵に代えられたのである。
これこそ転重軽受なのであるから、決して憂えてはならない」

と甚深の教えを明かしたのである。
八月十六日、いよいよ暇乞いにまかろうといって、法衣を著し、駕寵に乗り、本堂に詣で読経唱題し、つぎに廟所に参詣し、ついで日宥上人の隠居所、学寮に寄り、暇乞いをすませたのである。
十八日夜、大曼荼羅を掛け、香華、灯明を捧げ、侍者に向かって種々の用心を教え、最後に末期の一偈一首をしたためたのである。

 本有の水風、凡聖常に同じ
 境智互に薫じ、朗然として終に臨む。
 末の世に咲くは色香は及ばねど
     種は昔しに替らざりけり。

書き終わって「ソバをつくってもらいたい。冥途の出立によかろう」と語り、七箸食して「ああ面白や、寂光の都は」といい、それから大曼荼羅に向かい、一心に合掌して題目を唱え、半眼半口にして眠るように円寂したのである。
時に享保十一年八月十九日の朝、八時、六十二歳であった。
―――――――――――
謗法の根性真っ黒な臭犬に事細かに書いてやる必要も無いが、日恭上人の御心もまさにこの日寛上人の御心に通じるものではないか。
清浄な信心を捨て果てた臭犬にはどうせ理解できるはずも無いが、一点だけ言えば、

覚悟の死

という点では同じお心なのであり、この点を指して、▼「仏法者そのものとして失格(^o^)」などと醜言を吐きつけられるとしたら、その者こそ、まさに自らが醜悪な謗法者の極悪根性であり、一閻浮提人で無間地獄行きであることを宣言しているに過ぎない。
また、創価学会はその「覚悟の死」を選ばれた▼「仏法者そのものとして失格(^o^)」である日寛上人の御本尊を用いて拝んでいる事になる。
やはり 馬鹿 である。
しかし、馬鹿も度を越せば醜悪である。
臭犬も謗法の悪言をたいがいにして置かないと、自らその極悪果報を頭からもろに被る事になるであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。214  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 521()233912 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さ、では次のゴミに取り掛かりますかね。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月 7日(月)23時49分9秒
> TITLE: 無能無責任管理人・樋田昌志くんよ。(^o^) 02
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
●> >その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない"本尊もどき"は、
>
▼> (^o^) まさしく「馬鹿の壁」だ。(^o^)
>
> 坊やねぇ、ここでの学会論客とのやり取り、何とはなしに見ておったが、坊やは
> いまだに「御本尊に法主の開眼が必要」に対して1行の蓮祖・興師の文証も挙げては
> おらんのよ。(^o^) それで何が悔しいのかまだこれだ。(^o^) 進歩なきボクちゃんよ。
> さ、早うせんかいな、愚図坊。(^o^)
―――――――――――
→ここでは「開眼の義」について資料を纏めてみましょうかね。

http://toyoda.tv/yamainu.point5.htm

↑にこれまでの開眼に関する論証を纏めた。
臭犬らはこれらに対して未だに教義的には全くの反論不能状態である。
そのくせイチャモンだけは人一倍である。呵々

蓮祖・興師の文証 云々については

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

に今までのほぼ全てを纏めて置きました。
臭犬はこれについても全く反論不能状態の癖に、ただ只管、蓮祖・興師の文証を出せ!と喚き続けているのである。
そうでもしていなければ、格好がつかないのだろう。
無能 ここに極まったり、である。
ま、永久に不毛な喚きを津続けるがいい。
無様さが いよいよ増して畜生界の低脳な惨めさが際立つだけである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。215  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()12391 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

はい、次。
―――――――――――
>
●> >「そのものズバリの蓮祖・興師の文証を出せ〜!」これだけである。
>
▼> 坊や、何度書かせるのだね?
>
> 「文証無きは邪の謂い」
>
> 以前坊やが身の程知らずにも、私に書いたのだよ。(^o^)
> 自分は平気で相手に書き、自分が書かれたら逃げ廻る。(^o^)
> だから馬鹿にされるのだよ、樋田昌志くん。(^o^)
>
> 泣き言無用。(^o^) 早うせんかいな、この愚図よ。(^o^) クヤチイの、坊や?(^o^)
―――――――――――
はい、以下の破折の随所に臭犬が反論できずに残してきている詰問箇所があるので、その宿題を片付けてから↑このような無能な繰り返しをするんですな。呵々

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

因みに、今回からこの中から一題づつ臭犬が回答不能になっている箇所を例示してみようか。
手始めにこれなどは如何?
―――――――――――
再掲
更に駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、

▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く聞く気はないが、そこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜

―――――――――――

さ、臭犬、昼夜にお忙しい中誠にご苦労な事ですが、これきちんとお答えくださいね。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。216  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()141520 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

次は少々興味を覚える内容である。
>
●> >では、この「興師の文証」はどう解釈するのか?
>
> >■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、
>
> >代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)
>
▼> 無知。(^o^)(^o^)
>
> 例えば興師・目師ともにその書写本尊において、日蓮在御判の代わりに「日蓮聖人」と
> 認めているのが現存するが、では興師も目師も坊やに云わせれば、「御本尊七箇
> 相承」を見たこともなくあるいは見ていても知らん振りで、「法華を心得ていない」、
> 「不相伝」の偽法主にして、「代々の聖人」でもないのだな?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> おいおい、一体どう反論するのだね、泣き虫坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 書けば書くほど、どんどん首が鋸で斬り刻まれて、もう何度も落ちた細首ながら、また
> 私が書く以前に、坊や自身の言葉自体でもう落ちかけておるぞ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 楽しんであげるよ、役立たずの能無しボクちゃん。(^o^)
>
> ああ、いつもながらの論旨ずれまくりの長々しい言い訳と泣き言などもとより無用。(^o^)
―――――――――――
●簡単である。
このような邪難は既に出ているので、その件も含めて破折しておく。

1、関連する本文。

■1「七、日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。
 師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり、当位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり、」■2「又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん、」

■3「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰はく深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」

【解釈】

■1「」の文は、大聖人御自らが顕された御本尊に関する御指南である。
■2以降が御本尊書写に関する御指南である。
この両義の筋目を見誤るとこの御文の真意が領解できなくなるので要注意である。
■1はつまり「日蓮即法界・法界即日蓮」を表示された姿が「日蓮と御判を」示される意義、ということである。
その上で■2御本尊書写するときには「日蓮即法界・法界即日蓮との意義を表示する為に、「日蓮御判」と書かなくてはならない。との意であり、あくまでも「日蓮という御仏即法界」という意義と拝するのである。
つまり、御本尊に表わされる法界全体の意義に対してその中央・中心に「日蓮と御判」があるべきである。という意義である。

その上で、そもそも「判」とはその顕された御当人が為して本当の意味があるのである。これは世間でも当然の理である。
であるから、大聖人御自ら御図顕の御本尊においては「判」がその御仏御本人を表わされる意義として極めて重要であり、その意義を表示する為に後の書写御本尊には「在御判=ここに大聖人の「判」が存在する」という意義を示されるのである。
であるから、ここの本義はあくまで「法界即日蓮(本仏自身)」ということであるから、後の書写御本尊において「在御判」を殊更に択ぶ絶対的な必然性はなくそこは本義の通り「聖人」でも全く問題はない訳である。

その上、更に重要な点は常随給仕・師資相伝・唯授一人・血脈相承による御本尊御書写の深義は簡明に文に表わされ切れるものでは有りえないということでもある。
その証拠に、未だ臭犬も返答不能である、例えば御本尊の御相貌の変遷については「七箇相承」には触れられていない。
大聖人が常随御給仕為された日興上人に様々な折に触れ、常に相伝された膨大な内容の重要・肝要の一部を日興上人が書き置かれたのが「御本尊七箇相承」であるから、御本尊の全ての御事を領せられておられるのは日興上人であり、七箇相承にその全てが表記されているわけではない。ということである。
同様の原理は、世間でも、師匠から伝持された全ての技や妙旨を文章化出来得ないのは、当然の理である。

もしそうではないと否定するならば、では聞くが、七箇相承を読んだ者は全て御本尊書写ができるのか?
ということになり、世界中で御本尊を書ける者は膨大な数となろう。
(まっ、臭犬の理論だと、「南無妙法蓮華経 在御判」と書けば誰が書いたってみんな「御本尊さま」なんだそうだから、今更「七箇相承」に拘る必要もないが。呵々大笑)

次に■3について

これは、「日蓮という御本仏」と「歴代上人」との関係に於いての御表示であられる。
つまり、「「日蓮在御判」とあり、その上、脇に「歴代上人の御名」を表示するのは、つまり、中央首題の「日蓮御本仏」からの代官であり、内証三宝一体により、内証は本仏日蓮である」との意義である。
であるから、■2と同様、「日蓮という御本仏」という意義に於いての「在御判」であるから、本義に於いて「聖人」でも全く問題など存在しない。

この相伝に迷うが故に、やはり不相伝家では「南無妙法蓮華経」の中央首題の直下にその時の法主(身延などの)の名と花押を平然と書いて、恬として羞じないのである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。217  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()150227 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

ついでに。

■ 御本尊七箇相承

一、十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり・経に云はく然るに我実に成仏してより已来乃至或は己身を説き云云、上行等の四菩薩は菩薩界なり、経に云はく一を上行と名づけ等云云、地涌千界乃至真浄大法等云云、舎利弗は声聞界なり・花光如来云云、縁覚界は其の縁覚を求むる者乃至具足の道を聞かんと欲す云云・縁覚界所具の十界なり云云、大梵天王は天界なり、経に云はく我等も亦是の如く必ず当に作仏することを得べし云云、転輪聖王は人界等なり、経に云はく衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す云云、若し人仏の為の故に皆已に仏道を成ず云云、婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云、竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく竜女乃至等正覚を成ず云云、十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく一名藍婆云云、提婆達多乃至天王如来は地獄界なり、已上是れは一代の大綱応仏の上の沙汰なり(此に於いて十界に摂するに二義あり常の如し)。
―――――――――――
→さて、臭犬も拝んでいる、創価学会販売のニセ本尊の元になった日寛上人御書写の常住御本尊には、上記の御本尊の十界互具を示された御文中の、

@ 舎利仏 (声聞・縁覚)
A 転輪聖王(人界)
B 阿修羅王(修羅界)
C 提婆達多(地獄)

等が表記されていない。

これを臭犬風にいえばこうなる。

▼> 例えば(俺は広宣流布もしね〜法主の寛師などもともと全く認めていね〜が、その)寛師も、学会の本尊の元になった書写本尊において、
@ 舎利仏 (声聞・縁覚)
A 転輪聖王(人界)
B 阿修羅王(修羅界)
C 提婆達多(地獄)
認めてないのだが、では寛師も「御本尊七箇相承」を見たこともなくあるいは見ていても知らん振りで、「法華を心得ていない」、  「不相伝」の偽法主にして、「代々の聖人」でもないのだな?(^o^)(^o^)(^o^)

→つまり、臭犬に言わせれば、日寛上人は「不相伝の偽法主」であって、しかし、臭犬ら創価学会員は、その”偽法主”が書写した本尊をありがたがって拝んでいる、という世にも奇奇怪怪な行為を真顔で日夜為している事になる。

とんだ、お笑いである。

ついでにこれもつけ足して置いてあげよう。
―――――――――――
> おいおい、一体どう反論するのだね、泣き虫坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 書けば書くほど、どんどん首が鋸で斬り刻まれて、もう何度も落ちた細首ながら、また
> 私が書く以前に、坊や自身の言葉自体でもう落ちかけておるぞ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 楽しんであげるよ、役立たずの能無しボクちゃん。(^o^)
>
> ああ、いつもながらの論旨ずれまくりの長々しい言い訳と泣き言などもとより無用。(^o^)
―――――――――――
→こうしてみると臭犬が吐いた自分の唾言が実にその醜い犬面に当てハマるではないか。呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。218  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()173016 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、次のゴミ処理を開始しますか。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月 9日(水)00時15分29秒
> TITLE: 無能管理人よ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
●> >ただ一言明言しておくが、このHN「やまいぬ。」と称する、IPを使用する者の
> >断定している投稿内容は事実無根である。以後、上記の投稿を厳に慎む
> >べきである。この警告を再三無視した場合は、法的処置も辞さないので
> >その旨念告しておく。
>
▼> 違うね、坊や。
>
> にほんごが読めるかね、ボクちゃん? 断定以前に一体何箇月、坊やに
> 問い続けてやったと思っておるのだね、この誤魔化しだらけの嘘っぱち
> すり替え坊やよ。再掲する。
>
> 『「ところで何度も問うたが、坊や、随分前、仕事中に宗教活動をして車でひとを
> 轢いたと当時ネットで頻繁に出ていたと記憶するが、あれは本当なのかね?
> もし本当なら、それが坊やの「現実」なのかね? 仕事中に宗教活動をすることが、
> そうして車でひとを轢くことが、坊や達の云う「蓮祖仏法の功徳」なのかね?
> 返答して御覧?」
>
> これなどもう何箇月、返答不能状態で逃げ廻っているのだね?(^o^)
> 逃げて逃げて逃げ廻って、返答不能のまま次々と「話題」を変え、すり替えながら
> 自分の現実の惨めさと向き合わないで逃避する日々とは、そんなに楽しいのかね、
> 50前にして現実生活の分別のない樋田昌志くんよ。』
>
> 上記箇所の問いに対する「事実無根」なる返答、確かにいま受けた。
>
> しかしそれと、わざと「せット」にして「事実無根」としたいらしいが坊や、こっちは
> 「事実無根」とは逃れようがないなぁ?
>
> 就業時間にもかかわらず、朝となく午後となく、せっせと長文のダラダラと凡長な
> 泣き言と言い訳実にもう200回? 記念すべき200回目も「15時22分12秒」、
> 続いて「17時17分」かね?(^o^) 「17時17分」にしても調べ始め、書き始めは
> 17時以前だろう。坊やの会社の就業規則規定の時間内ではないのかね?(^o^)
>
> 就業規則時間にせっせと宗教板に書き込むことが坊やの「就業」なのかね?
> 会社の定款にはそのように「宗教活動」と規定しておるのかね?
> 規定外なら就業規定違反を経営者本人が数年にわたってやらかしておるという
> ことだわなぁ?
―――――――――――
→少し時間があるので、この点についても資料作りしますか。
どうせ、際限なくこの恥言を繰り返すだろうから。

http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm

↑これについても臭犬は「蓮祖・興師の文証」を引き教義的な反論が全く出来ていない。
ただの自分の固執している妄念で吼えているだけである。
さ、挑戦してごらん。
お忙しい中大変だね。
頑張って。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。219  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()193713 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

次も臭犬がまた墓穴を掘った箇所なので、少々面白いかも知れない。
―――――――――――
>
●> >”そのものズバリと書いている文証”しか受け入れないとする
>
▼> 幼稚。(^o^) 「文証」とは何かね?
>
> 「文証とは、文献上の証拠をいい、その教えが仏の教説である経典を根拠として
> いるかどうかで正邪を判定することです。『涅槃経』には、「若し仏の所説に
> 随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあり、大聖人は、「経文に明らかならんを
> 用いよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄 新編389)と文証の重要性を
> 説かれ、文証のないものを用いてはならないと示されています。」
> (日蓮正宗入門)
>
> おいおい、おたくら宗門でさえこのように云うておるが?(^o^)
> 「文証とは、文献上の証拠」、つまり問われたことの「返答」が内容として書かれても
> いないものなど「証拠」足り得ないのだよ。(^o^)
> 「証拠」でもない頓珍漢な当てずっぽうを引っ張って、何が文証だね?(^o^)
―――――――――――
→では、この「日蓮正宗入門」の当該箇所を引用してみよう。

「日蓮大聖人の仏法を理解するために

三 証

三証とは、日蓮大聖人が宗教の正邪を見極めるために用いられた判定基準のことで、文証(証文)・理証(道理)・現証(実証)の三つをいいます。

■1「文証とは、文献上の証拠をいい、その教えが仏の教説である経典を根拠としているかどうかで正邪を判定することです。『涅槃経』には、
 「若し仏の所説に随わざる者有らば、是れ魔の眷属なり」とあり、大聖人は、
 「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄 新編389)
  と文証の重要性を説かれ、文証のないものを用いてはならないと示されています。」

■2「@「理証とは、その宗教の教えや主張が道理に適っているかどうかを基準として正邪を判定することです。その宗教が自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」それとは逆に、正しい道理に基づく宗教は、いかなる力をもってしても崩すことはできないのであり、これについて大聖人は、
 ■「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事 新編1179)
と仰せです。A「正しい宗教は普遍妥当性を有するものでなければならず」、この一大道理に貫かれた教えこそ法華経であり、その根本の法が大聖人の仏法なのです。」

現証とは現実の証拠をいい、その宗教を信仰して現れる実証をもって正邪を判定することです。こ
の現証について大聖人は、
 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」
と仰せられ、三証の中でも特に現証の大切さを説かれています。
正しい宗教には、因果の道理によって正しい現証があるのであり、邪な教えを信ずれば悪果を招くことになります。特に新興宗教などは現世利益を誇大に宣伝していますが、これらを理証も文証もない、その教祖の思いつきなどによるものであり、このような邪教を信ずれば、ついにはその身を滅ぼすことになります。これについて大聖人は、

 「法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(諫暁八幡抄 新編1531)

と仰せられ、邪宗教の現罰の相を教えられています。
これに対し、■3「大聖人の仏法でいう現証とは、正しい道理(理証)と経文(文証)に裏打ちされたもの」で、現実の身に成仏という最高の境界を得るという即身成仏に極まります。

■4「このように、文証・理証・現証の三証がともに整足していることが正しい宗教の証明となるのです。」」以上。
―――――――――――

@ この箇所は、読んでの通り、文証・理証・現証 の三証 について述べたところである。
A 臭犬はこの中の「文証」の項の説明のみを挙げている。
B しかし、■2には、理証の重要性を説いてある。
その中でも当方が常々主張してきた内容と全く同義が端的に示されている箇所。

@「理証とは、その宗教の教えや主張が道理に適っているかどうかを基準として正邪を判定することです。その宗教が自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」

■「仏法と申すは道理なり」(四条金吾殿御返事 新編1179)

A「正しい宗教は普遍妥当性を有するものでなければならず」

C そしてこの宗教の正邪を判定する基準の「三証」の結論として、

■3「大聖人の仏法でいう現証とは、正しい道理(理証)と経文(文証)に裏打ちされたもの」
■4「このように、文証・理証・現証の三証がともに整足していることが正しい宗教の証明となるのです。」

と示され、まさに当方が常々懇切丁寧に臭犬に教訓してきた内容と全く同一である。

特に、
■「自説の正当性をどんなに主張しても、それが道理に適ったものでなければ、必ず破綻をきたします。」
との指摘は、まさに臭犬の見苦しい醜態を的確に指し示しており、実に鮮やかである。

臭犬が慌て狼狽し、悪あがきをすればするほど、このように「切り文」の典型例を重ねて露呈することになり、見苦しい限りである。
その分、また創価学会を厭離し、忌避する良識ある方々が増えていくであろうから、総括的に考えれば喜ばしいことではあるが。
それにしても、やはり、見苦しい醜態である。

文証云々については↓に詳細に破折済み。

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

今回も、↑から、まだ臭犬が反論不能になっている箇所を再掲しておこう。
―――――――――――
再掲

●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。

■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。

この御文はまさに、駄犬のような愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。
「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」
あるいは、
「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」」
このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)
まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。
これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。

以上
―――――――――――
さ、臭犬君、これにも、自己の正当性を、「蓮祖・興師の文証」のみで反駁してご覧?呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。220 祝220回〜〜!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 522()234140 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

どれ、書ける時に書いておかないと、またいつ書けなくなるか分からないので。
―――――――――――
>
> 「日興上人を随一とする御歴代上人」が「この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に
> 宛てて唯授一人・血脈相承されている」などとどこにも書かれていない御聖訓
> 引っ張ってきて、それのどこが「文証」なのだね?(^o^)
>
> でだ、自分の主張など、引っ張り出した御聖訓にまったく書かれていないと
> 指摘してやると、「そのものズバリが云々」とまた泣き言だ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> あんまり嘲わせるな、就業時間にネット書き込みに没頭する50前のジャンキー坊や。
>
―――――――――――
→本当に 馬鹿で聞き分けのない犬を相手にすると骨が折れる。呵々

■日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

この御文から拝せられる事。

@ 大聖人が日興上人の「御身」へ戒壇の大御本尊を相伝された。
A 日興上人がそのまま戒壇の大御本尊を日目上人の「御身」へ相伝された。
B その戒壇の大御本尊は広宣流布の暁にには本門寺本堂(事相に於ける”事の戒壇”)へ御安置することを将来に厳命され託された。
C 戒壇の大御本尊は 日蓮大聖人→日興上人→日目上人の御身 へと相伝された基本が明確。
D この基本形は 御先師→御当代→次期御法主 という方程式である。
E 御先師が為された事をそのまま受け継ぎ後代へ伝持されるのが大聖人の仏法の本義である。
F であるから、次は 日興上人→日目上人→次の御法主 となり、その原型は永久に堅持されていくのである。

参考文証

■ 有師化儀抄註解 1-124
仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず(中略)師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、(中略)弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌(中略)師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、

以上の考察から、
●「日興上人を随一とする御歴代上人」が「この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されている」
との論は正当である。

もし、これが違うというのなら、何度も繰り返し言うが、臭犬こそ「蓮祖・興師の文証」を挙げて、これに反駁してみよ。
出来もしないで、ただ、いちゃもん・難癖をつけているだけだから 馬鹿 と呼ばれるのである。呵々大笑

文証云々については↓に完摧ずみである。

今回も↑から一題、臭犬が反論不能になったままでいる”宿題”を切り出して再提出させようか。呵々。
資料は整理すると使いやすくなるものだな。
や、これも臭犬のお陰。ありがとう。呵々大笑

http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

【再掲】

駄犬の矛盾に満ち満ちた錯乱状態を一刺し突いておこう。

まず、駄犬は常々「蓮祖・興師の文証をどーぞ」と、大聖人・日興上人の文証のみしか認知しない態度を表明しているが、
まずこの件から完摧しておく。

かつて、駄犬は以下の引用をしている。
―――――――――――
例1
「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、
日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」

今度は寛師否定かね、樋田昌志くん?
―――――――――――
例2
云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
(寛師・「文底秘沈抄」)
と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
上記の御文はまさしく日寛上人の御指南であり、駄犬は自らの主張を立証する為に、日寛上人の御文を引用している。

@これは、駄犬が常に口うるさく主張する態度「蓮祖・興師の文証をどーぞ」に自らが反している姿である。
Aまた逆に、駄犬自らが引用した日寛上人の御指南を他が引文した場合、何らそれを批判中傷できない立場である。

因みにここで、駄犬がニセ本尊の害毒によって如何に頭破七分と化しているか、ここに明示しておこう。
創価学会員の精神の悩乱ぶりが実に顕著であり、興味深い症例である。
―――――――――――
●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。
■「本尊書写豈化他に非ずや。」
>とは紛うことなき日寛上人の御指南である。

▼盲目ではないから見えておるよ。(^o^)
だーから寛師はどれほどの折伏弘教をしたというのだね?(^o^)
先に挙げた通り「後の五百歳」は、寛師存命時にすらとうに過ぎておるのだよ。(^o^)
折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)
―――――――――――
→どうであろうか。
実に無惨極まりない悩乱ぶり、自語相違ぶりである。
自らが引文して自分の主張の裏付けとしておきながら、自分の主張に都合が悪い御指南を引文すると、態度一変、主義の一貫性など全くなく、その同一人物を、
▼「折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)」
と罵るとは。

最早、この一事を以って、駄犬の駄言など取り合う必要など無い、まさに"狂人の戯言"もとい、"狂犬の狂い吼え"であることが十分認識できよう。

この辺の、駄犬の"言い訳"が実に見ものである。
どう足掻くであろうか。
今晩あたり、口汚く罵り、よだれを撒き散らし、喚き散らしながらの必死の足掻きが見れるかもしれない。
楽しみである。
少々見苦しい気もするが、しかし、創価学会の謗法の害毒が頭に回った、新鮮で、それなりに興味深い"症例"のサンプル採取には、多少の不潔感も我慢せねばならないか。   【以上】
―――――――――――
更に、

■後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。1461

と大聖人が仰せであるにも拘らず、「蓮祖・興師の文証」以外を認めない、というその根拠を「蓮祖・興師の文証」に依って明証しなくては、臭犬の主張は全く恥論である。

さ、やってもらおうか。

また”宿題”が増えたな。
お忙しい中、ご苦労さん。
もう、たまらん。と言うのなら、幾らでも当板から遁走していただいて結構だが?
そもそも当方は臭犬など招待した訳ではないのだから。
臭犬が勝手に纏わりついてきただけのことだから。呵々大笑
さ、今夜も”徹夜”かね?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。221  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()000025 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

それと。↓について。

HN「やまいぬ。」なる者の当方「樋田昌志」への発言

▼> あんまり嘲わせるな、就業時間にネット書き込みに没頭する50前のジャンキー坊や。

当方は実名で運営している。
当方がどこで何をしている人物なのか、大勢が認識している。
しかも、この掲示板も現時点でアクセス数が24万回を超えた模様である。

一方「やまいぬ。」は偽名であり、その人物の特定はされていない。
どこで何をしている者なのか、知る由もない。

気をつけたまえよ。
他のHN同士で中傷しあう形態のまま、当方に吐きかける言辞は、内容に依っては、そのまま、侮辱罪・名誉毀損等の犯罪行為となる場合もある。

▼「50前のジャンキー坊や」

この言辞は、まさに侮辱罪等に当て嵌まるのではないか。
当方は、ジャンキー(=麻薬中毒患者、もしくは何かに夢中になっている者への侮蔑表現 )ではない。
そうでない者へ、衆人環視の場で そうだと断定した場合、それは、侮辱罪あるいは名誉毀損罪を構成する。
当方は大いに迷惑しており、しかも大変不愉快であり、更に当方の関係者及び仕事関係へも悪影響が有りうる。
こういう表現は断固拒否しているということをここで明確に表示しておく。

正式な謝罪が無い場合は、相応の対応も考慮しなくてはならないであろう。

ここに、念告しておく。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。222  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()103754 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

では、更に進めていきましょうか。
―――――――――――
●> >平行四辺形
>
> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> もう見境もなく泣くわ泣くわ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 坊やの挙げた「文証」まがいにはな、「二組の平行線が交差して形成する四角形」たる
> レベルの記述すらないのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」がそのまま「歴代法主」だ?(^o^)
> 書いてねーんだよ、ボクちゃん。(^o^) 坊やの願望も妄想も無用だと何度
> 書かせるのだね、真面目に仕事もしないボクちゃんよ。(^o^)
―――――――――――
→こういう、 馬鹿 の狂乱の喚き吼えにそのままつきあっても、ただの繰り返しで、面白くも無いので、関連事項から臭犬の反論不能になっている箇所を提示していこうか。

まず、大聖人の仏法の全てが御歴代上人へ唯授一人・血脈相承されて口伝・伝持されているとの論証。

http://toyoda.tv/yamainu.point7.htm

↑ここに纏めておきました。

さて、では、この中から臭犬が未だに「蓮祖・興師の文証」で反論不能になっている点を再掲示していきますか。
―――――――――――
【再詰問】

駄犬のいう、その「蓮祖・興師の文証出さんか。」の「蓮祖の文証」に、以下の如く、大聖人が 口伝・相承・相伝 等によって深義を伝持された証拠があり、大聖人の御法門の全てが、御書の御文の上に顕れている訳ではないのである。

こうした明白な「蓮祖の文証」があるにも拘らず、何かといえば、「蓮祖・興師の文証出さんか。」と吼えまくる駄犬は、自己矛盾極まったり であり、やはり、どこか精神的に異常をきたしているといえよう。

まさにニセ本尊の猛毒その脳髄に染み込んで正常な判断ができない偏頗な人格が形成されている証左である。



■寿量品文底大事

 問うて云はく、開目抄の上に云はく「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣如何。

 仰せに云はく、当流の相伝惟に谷まれり。口外すべからずと雖も末代の為に一筆之を残さん、



■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。



■秘すべし秘すべし、口外も詮無し。



■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし



■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。



■相承の意を相伝せんが為なり



■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。



■日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。



■此の義は最上の難の義なり。口伝に在り



■口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。



■此に口伝有り。



■よくよく口伝あるべし。



■口伝を以て之を伝へん。



■口伝すべし。



■上行菩薩結要付嘱口伝



■日文字の口伝、産湯の口決



■本尊七箇の口伝



■就註法華経口伝〔御義口伝〕



■不動明王の尊形と口伝せり。



■四弘誓願をば一文に口伝せり。



■師に依らずして相承を失ふべし。



■根本大師の御相承ありげに候。



■筆受の相承



■日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。



■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。



■日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。



■当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。



■天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。



■当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、



■日蓮相承の法門血脈、慥かに之を註し奉る。



■此等は相承の法門なるべし。



■日蓮が己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。



■今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。



■当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門



■日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。



■三諦三観の口決相承と意同じ  再掲以上

―――――――――――

さ、臭犬、大聖人はこれだけ明白に「口伝」「相伝」「秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。」と仰せられているのに、大聖人の仏法の全てが文書として顕れ尽くされている、と「蓮祖・興師の文証」に依って証明して見せよ。



御本尊の御相貌の変遷の理由を、一言も「蓮祖・興師の文証」で説明できない臭犬に、出来るかな?呵々大笑

とにかく、自分の主張には責任を以って「蓮祖・興師の文証」だけで証明してみなさいよ。

さ、頑張れ。

毎日徹夜だな。こりゃ。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。223  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()125056 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さ、昼飯前に一題いきますか。
―――――――――――
●> >仏宝法宝は必ず僧によりて住す

▼> 破折済み。(^o^) 返答不能かね?(^o^)

↑どう破折したのかね?
「蓮祖・興師の文証」によって的確に反論できているのかな?呵々
では、ここの意義を詳細に論述するから、今一度、当方や閲覧している方がたに分かるように、”破折”してみてくれないか?呵々大笑
―――――――――――
【編集再掲】

■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。

との仰せの如く、仏宝・法宝は僧宝が護持・伝持なされなければ、存在し得ない。

2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。

3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。

A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
僧宝(大地)を否定して「蓮祖仏法がどうのこうの云々」などという輩は、草木(仏宝・法宝)が”空中浮遊”している様を云々しているがごときの大馬鹿者である。

■仏法と申すは道理なり

道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。(やまいぬ。君の場合は、痴犬に加え、臭犬 と今は呼称しているが。呵々)

4、であるから、末法今時に、■「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。

5、こういう道理が、痴犬(臭犬)のように見えなくなる者が多いから、■「僧の恩を報じ難し」なのである。

6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、■「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。【以上】
―――――――――――
さ、臭犬君、以上の論証に対して、「蓮祖・興師の文証」によってのみで、見事に反駁してみせてくれないか?
楽しみに待っていますが?
頑張れよ。呵々。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。224  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()204628 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さ、高氏が一撃で消え去ったので、またこの続きを始めますか。
―――――――――――
>
●> >駄犬が文証として認めないという「日蓮正宗」の「歴代法主」である、日寛上人の
> >仰せなのである。
>
> ▼1「内規で内規を斬ってやっておる」と何度書かせるのだね、「馬鹿の壁」坊や?(^o^)
>
> ▼2「我ら学会には何の関係もない。」しかし坊や達には絶対権威だ。
> きみらの土俵でわざわざ相手してやっておるのだ、それで返答不能かね?(^o^)
>
> 故に@、A、 Bの逃亡など無用。(^o^)
> わざわざそちらのルールに従って相手してやっておる。さ、返答してみな、坊や。(^o^)
―――――――――――
↑いよいよ、悪あがきの極みだな。

1、かつての臭犬の言

▼云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
(寛師・「文底秘沈抄」)
▼1「明言されている」通り当然である。(^o^)

↑この言に依って、日寛上人の御指南を用いて▼1「内規で内規を斬ってやっておる」▼2「我ら学会には何の関係もない。」などという臭犬の苦しい言い逃れは通らない。
自分の主張の根拠を▼「我ら学会には何の関係もない」はずの▼「内規」であるところの日寛上人の御指南に求めている内容である。

しかも、▼1「明言”されて”いる」という『されて』という語法は、敬語であり、明らかに、自分の主張の依拠として、依詫している姿である。

▼「我ら学会には何の関係もない」はずの日寛上人へなぜ「敬語」を用いる必要があるのか。

実に 馬鹿 である。呵々大笑
その上、馬鹿 の癖に見苦しい足掻きぶりである。

▼「さ、返答してみな、坊や。(^o^)」呵々大笑。

謗法者というものは足掻けば足掻くほどに惨めな醜態を晒すものである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。225  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()225030 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さ、淡々と続きを清掃して消毒していきましょうか。
―――――――――――
> そもそも
> >御書にないことを云々するものは謗法ではないのか?
>
> それを坊やが認めてしまったら、「唯授一人血脈相承」なる御書のどこにも存在しない
> 坊や達の絶対権威は、それだけで存在を許されないことになるが、いいのかね?(^o^)
―――――――――――
↑この臭犬が如何に文意を読めない、大馬鹿 であるか証明するために、面倒くさいが当該箇所を示してみよう。

【当該文】

●> >■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」
>
▼> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 「四恩抄」の前後の文を全部すっ飛ばしてここだけかね、坊や?(^o^)
> 教えてやろう、ボクちゃん。(^o^)
>
> 「然るに末代の凡夫三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
>
>
> さぁ、ここでいう「三宝」とは一体何かね? ▼1『久遠元初の三宝』なのかね、▼2『末法下種三宝』
> なのかね? もし久遠元初の三宝なら、いったいいつから日蓮正宗では、「歴代法主」が
> 久遠元初の三宝になったのかなぁ?(^o^)
> もし末法下種三宝なら、坊やのところの絶対権威・唯授一人血脈相承の法主は、▼3『僧宝の
> 一分として、誰が含まれると書いたのかなぁ?(^o^)』
>
> もうどっちを挙げても逃げ場なしなのだわ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
―――――――――――
→ほんと〜〜に馬鹿である。呵々大笑
馬鹿犬は躾されてもされても身につかない、という見本のような馬鹿さ加減である。

@ 駄犬のいう、この
▼1〜▼3全て、駄犬が文証として認めないという「日蓮正宗」の「歴代法主」である、日寛上人の仰せなのである。

Aそもそも、▼1『久遠元初の三宝』▼2『末法下種三宝』という語句も概念も御書の文の面には全くない。
もう、ここからして駄犬は大いに自己矛盾の"無限ループ"に陥っているのである。
馬鹿もここまで来ると天然記念物ものである。呵々大笑
さ、駄犬にききましょうか。

@ そもそも、この▼1▼2の語句と意義は御書のどこにあるのか明示せよ。
A 御書にないことを云々するものは謗法ではないのか?
B 駄犬は「蓮祖・興師の文証を出せ!」と常々喚いているのであるが、「蓮祖・興師の文証」にないことを駄犬こそが書き殴っているではないか。この矛盾を説明してみよ。
C 以上が出来ないなら、(出来るわけも無いが)正式に詫び状を書け。
D 下品で無能で卑怯極まりない駄犬。しかしいい加減、この件については逃げずに返答してみたら如何か。
E 悪口を喚き散らしながらまた遁走するか?

駄犬曰く

▼「> もうどっちを挙げても逃げ場なしなのだわ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)」

まさに自分が吐いた唾をそのまま自分の面に被っているような馬鹿である。呵々大笑

【以上】
―――――――――――

1、当方は最初から「大聖人の仏法の全てが御書に表れている訳ではない。(趣意)」と何度も主張している。
→ http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm

2、上記の A の意味は臭犬の妄執(「蓮祖・興師の文証を出せ!=大聖人の仏法は全て蓮祖・興師の文証にのみに表わされている」)の矛盾を突いた項目である。
当方の主張を表示したものでない事は、前後の文脈を見れば小学高学年程度でも理解できるところである。
それが出来ないから 馬鹿 と呼ばれるのである。呵々大笑

3、このAの項目は、臭犬の言で言えば

▼きみらの土俵でわざわざ相手してやっておるのだ、それで返答不能かね?(^o^)
> わざわざそちらのルールに従って相手してやっておる。さ、返答してみな、坊や。(^o^)

ということである。

さ、大聖人の仏法の全てが「蓮祖・興師の文証」にあると言い張って引かない馬鹿犬君、逃げるなよ。

臭犬が「蓮祖・興師の文証」にのみに拘るその根拠としている▼1『久遠元初の三宝』▼2『末法下種三宝』という語句が「蓮祖・興師の文証」のどこにあるのか、明示して見せよ。

出来なければ、素直に謝れ。

これ以上悪足掻きをすれば、創価学会に更に泥を塗る事になるんじゃないか?
それを感じるから、ここへ来て急に外野が”助け舟”を出してきているのではないか?(むろん何の”救援”にも為っていないが。)呵々大笑
やまいぬ。君、惨めな敗残の後姿である。
まっ、当方にしてみれば、聊か退屈な内容ではあるが、それなりにスパーリングの相手としては軽く汗をかく程度の運動にはなるので、何時までも絡んでいただいても、一向に構わないが。呵々大笑
まっ、とりあえず頑張りたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。226  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 523()232945 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さ、臭犬いよいよ、教義的に全く反論不能状態である。
まる投げ再掲しか出来ないとは!
臭犬も落ちぶれたものである。
ニセ本尊の猛毒が脳髄に沁み切って、最早、”邪智”すらも回らぬか?呵々大笑

こちらは、折角今日は時間がまだ取れるので、少しでも掃除して置きましょうか。
―――――――――――
▼> 別にこちらは一向にそれで構わないのだよ。(^o^) 「久遠元初」も「末法下種」も
> どうでもよく、ただ「三宝」の2文字だけで最早充分なのだよ。(^o^)
> 「唯授一人血脈相承」もヘッタクレも、我々には当然、どうでもいい。(^o^)
> が、それを完全に無視して坊や達の土俵に上がってやらねば、最早「対論」の
> 接点すら生まれない故に、こちらからわざわざ上がってやっておるまでだ。(^o^)
> 感謝しなさい、坊や。(^o^)
―――――――――――
↑さあ、いよいよ、支離滅裂、苦し紛れの言い訳全開。
自語相違のオンパレード、とでもいった様相だな。呵々大笑

ではここでかつて臭犬が「久遠元初の三宝」に如何に”御執心”だったか列挙してみよう。

【やまいぬ。君の自語相違録】

▼> あのねぇ樋田くん? 久遠元初の三宝とは絶対信の対象だよねぇ?
> その絶対信の対象たる蓮祖・興師の文引っ張らないでどうするのだね、坊や?(^o^)
> 何度も書く。文証挙げたいなら蓮祖・興師の御文を挙げんか。(^o^)

▼> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」とそのものズバリ仰った、蓮祖・興師の文証
挙げてみんか、坊や。(^o^)
> それとも「久遠元初の三宝」、蓮祖・興師では不足だとでもいうのかね?(^o^)(^o^)

▼> 久遠元初の三宝否定。(^o^) 坊や、堕ちるところまで堕ちたな。(^o^)

▼> さぁ、ここでいう「三宝」とは一体何かね? 『久遠元初の三宝』なのかね、『末法下種三宝』
> なのかね? もし久遠元初の三宝なら、いったいいつから日蓮正宗では、「歴代法主」が
> 久遠元初の三宝になったのかなぁ?(^o^)
> もし末法下種三宝なら、坊やのところの絶対権威・唯授一人血脈相承の法主は、僧宝の
> 一分として、誰が含まれると書いたのかなぁ?(^o^)
―――――――――――
↑ざっと以上だが、当初は「蓮祖・興師の文証」のみを引文することを強要する根拠として、あれほどまでに「久遠元初の三宝」に拘っていた臭犬が、当方からその矛盾を痛烈に突かれるや、今は、態度豹変、変節漢よろしく、

▼「久遠元初」も「末法下種」も どうでもよく、ただ「三宝」の2文字だけで最早充分なのだよ。(^o^)

と、よくもぬけぬけと言えたものである。
このような前言を覆して恬として羞じない厚顔無恥の者を「頭破七分」といって謗法の極悪果報というのである。
これも、臭犬が見苦しく足掻くほどに、創価学会員の醜さが露見して、一般常識人は大いに忌み嫌うであろうから、大いに喜ばしいことではある。
頑張れ!臭犬。
投稿まる投げ再掲などせず、大いに無理して足掻いて足掻いて足掻きまくって反論(らしきもの)をしてみたまえ。
応援するぞ。!呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。227  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 524()114443 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

これは実に哂えるのでまずは↓から砕いてゴミ処理していきますか。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月24日(木)01時39分45秒
> TITLE: さあて。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> しかしこのおっさんは、朝から深夜まで、如何にやることがないかよく解かる。(^o^)
> お前のダラダラと凡長な泣き言に、いちいちご丁寧に付き合う無駄がどれだけ貴重な
> 時間を失ってきたか、最近よく解かってきただけのことだ。(^o^)
―――――――――――
↑まずは、これは教義的に反論不能で遁走する伏線、といったところ。呵々
―――――――――――
>
> さて、相手してくれなくて寂しいらしい50前のネットジャンキーに、ちょっとだけ
> 付き合ってやるよ。(^o^)
>
> まず、
>
> 「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」
> 「四恩抄」の前後の文を全部すっ飛ばしてここだけかね、坊や?(^o^)
> 「然るに末代の凡夫三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
> さぁ、ここでいう「三宝」とは一体何かね? 『久遠元初の三宝』なのかね、『末法下種
> 三宝』なのかね? もし久遠元初の三宝なら、いったいいつから日蓮正宗では、「歴代
> 法主」が久遠元初の三宝になったのかなぁ?(^o^)
> もし末法下種三宝なら、坊やのところの絶対権威・唯授一人血脈相承の法主は、『僧宝の
> 一分として、誰が含まれると書いたのかなぁ?(^o^)』
> もうどっちを挙げても逃げ場なしなのだわ、坊や。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> >「日蓮正宗」の「歴代法主」である、日寛上人の仰せなのである。
>
> はい、すでに誤りだ。(^o^) 寛師の時代にこの世界に、「日蓮正宗」など存在しない。(^o^)
―――――――――――
↑いきなり、噴飯ものの 馬鹿 丸出しである。呵々大笑
教義的な本質論や、自分が吐いてきた多くの矛盾点、また返答不能に陥っている点、等々に全く反論できずに、このような、些事を論って言い掛かり・イチャモン・難癖をつけるしか最早、能が無い様が実に惨めである。
無様である。
御可愛そうで、かつお労しい。シクシク。

1、現在「日蓮正宗」と呼ばれる宗門は詰まるところ、戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信じその三大秘法の広宣流布を進める宗団である。(※註 魔札・鬼札のニセ本尊を広めることを広宣流布とは言わない。)
この教義信条は日蓮大聖人以来全くの不変である。
ただ、この宗団の呼称が時代と共に変遷してきただけである。
その宗団を現時の呼称で呼ぶ事が一番分かりやすいだけのことである。
仮に、
「「富士興門派」の「歴代法主」である、日寛上人」と表記して、一体多くの人の理解が得られるのか。
臭犬の苦し紛れの難癖は実に見苦しいものである。

2、日寛上人は「第26世」であるが、では、この「26」という数字は、誰から数えたのか?
臭犬、実に 馬鹿 である。呵々大笑
また創価学会が入門した当時の「日蓮正宗」という宗団の「第58世・59世・・・・」等は、一体、どこから繋がっている”連番”なのだ?
臭犬、ほとほと 馬鹿 である。呵々大笑

3、73氏も指摘されている通り、
牧口氏は「創価教育学会」の「会長」であり、「創価学会」の会長ではなかった。(当たり前である。呵々)
この臭犬の論法でいえば

▼1「> >「創価学会」の「初代会長」である、牧口常三郎氏の仰せなのである。」

と誰かが言ったとすると、
>
▼2「> はい、すでに誤りだ。(^o^) 牧口氏の時代にこの世界に、「創価学会」など存在しない。(^o^)」

と言い掛かりをつけることになる。

▼1と同様の表現は創価学会系サイトでも、出版物でも、常に為されている常套表現であり、臭犬は、その全てを
「はい、すでに誤りだ。(^o^)」と間抜けにも同胞を切りつけていることになる。呵々大笑

臭犬、とことん、 馬鹿 である。呵々。呵々。

さ、まず、これから言い訳してみたまえ。
頑張れよ。
臭犬、書けば書くほどに、自分の首を絞めてないか?呵々大笑。
それとも、いよいよ、そうっと遁走していつもまにか居なくなるかね?
いやいや、臭犬のその「気高い意気」では、そんな卑怯なことな為さるまい。
いつまにか、居なくなるなんて・・・呵々大笑
さ、応援するから、頑張りたまえ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。228  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 524()134143 p3090-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

では、次
―――――――――――
> しかも、だ。
> ▼「言葉の出自」に文句を云うだけ」で、まったく無返答のままだ。(^o^)(^o^)(^o^)
> いつもの手だよ、樋田昌志よ。(^o^)
―――――――――――
↑この臭犬とは本物の 馬鹿 らしい。呵々

▼「言葉の出自」に文句を云うだけ」・・・?

今まで、法門の道理と意義を示す御文を挙げて論証してきた内容に向かって、散々に、「蓮祖・興師の文証、そのものズバリを出せ〜」と喚き散らして▼「言葉の出自」に文句を云」ってきたのは臭犬自身ではないか。
この 馬鹿 はニセ本尊の猛毒沁み込んで、自分のしている行動が分からんようだ。呵々大笑
―――――――――――
>
> 『「然るに末代の凡夫三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
> さぁ、ここでいう「三宝」とは一体何かね? 『久遠元初の三宝』なのかね、『末法下種
> 三宝』なのかね? もし久遠元初の三宝なら、いったいいつから日蓮正宗では、「歴代
> 法主」が久遠元初の三宝になったのかなぁ?(^o^)
> もし末法下種三宝なら、坊やのところの絶対権威・唯授一人血脈相承の法主は、『僧宝の
> 一分として、誰が含まれると書いたのかなぁ?(^o^)』
>
> 返答不能かね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 坊やのところの内規の世界で問うてやっておるものが、返答不能なのかね、樋田昌志よ?(^o^)
―――――――――――
↑まずます、馬鹿 でしかも不勉強である。

三宝の定義は既に当HPで詳述してある。

http://toyoda.tv/neirakuji.htm#9
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#10
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#11
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#12
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#14
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#15
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#17
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#20
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#23
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#26

http://toyoda.tv/tciken3.htm
http://toyoda.tv/tciken15.htm
http://toyoda.tv/chiken.tetsui6.2htm.htm
http://toyoda.tv/chiken.tetsui9.htm
http://toyoda.tv/chiken.tetsui10.htm
http://toyoda.tv/chiken.tetsui11.htm
http://toyoda.tv/chiken.tetsui18.htm

これらに教義的に明晰に反論できてから上記のよな恥言を吐くんだな。
今、少々読み返してみると、「京都・奈良辺りの痴犬」のほうがやまいぬ。君より少々レベルが上だったな。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。229  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 525()121911 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

おや?やまいぬ。君ではないですか。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月25日(金)09時20分35秒
> TITLE: 阿呆丸出しの巻。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 客商売故土日もなく働くせいで、今日はのんびり午後出社。(^^)
> さて、▼「軽くラジオ体操程度」にやりますか。(^o^)
―――――――――――
↑出社前に当方への反論を▼”軽くラジオ体操程度”に出来なかったですかね?呵々大笑

こちらは、やまいぬ。君や読者の方に分かりやすいように、今度はやまいぬ。君の反論不能状態になっているポイントを細かく項目ごとにアップする作業を開始しました。
まず、手始めに。

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

さ、さ、遠慮はいりませんよ。
やまいぬ。君、頑張って反論してくださいな。
それとも徐々にそ〜とトーンダウンして、しまいにはフェードアウト(遁走)してしまいますかな?呵々大笑
当方は折伏の約束予定時間まで、今日もやまいぬ。君が吐き垂れていった汚物の清掃に精を出しましょう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。230 祝230回 ふ〜〜  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 525()122933 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

> そして「久遠元初の三宝」「末法下種三宝」の概念は、その通り寛師のものだ。
> つまりここまでで散々教えてやっておるように、坊や達の内規の中でやり取りしてやって
> おるのみで、
―――――――――――
↑については、

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno4.htm

↑でその矛盾に満ち満ちた姑息な言い逃れを粉砕してある。
どうぞ、遠慮せず反論してみてください。
もし、反証に成功したならば、↑この項目は

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

↑から削除してあげましょう。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。231  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 525()153216 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

このあと、▼1「我々にとっては“三宝”だけで充分」はまさにその通りなの
> だよ。(^o^) 久遠元初も末法下種も本来どーでもいい。それを「内規」で規定したのは
> 寛師だ。仏法における三宝でいえば、独立宗教法人の創価学会が自分達で規定すればいい。
> それがどう規定しようが、坊や達の泣き言など関係ないのだよ。(^o^)
―――――――――――
↑いよいよ、更に 馬鹿さ加減に磨きがかかってきた箇所である。

1、▼1「我々にとっては“三宝”だけで充分」
なんという不遜な物言いであろう。
我々は”三宝”坐しますがこそ、即身成仏の大果報を遂げさせていただけるのである。
その功徳の大なることを身に少しでも感じている者ならば、この▼「だけで充分」などとは口が裂けても言い得ない”言い草”である。
この一事を以って、”三宝”の御恩を蒙っていないこと、=成仏の功徳の無きこと、明々白々である。

■末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。

2、今までの臭犬の主張からすれば▼「僧宝とは日興上人だけ」ということだが、その妄執は既に以下の御文と矛盾している。

■「仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」

日興上人のみを僧宝とするのならば、日興上人が御遷化された後、仏宝と法宝は断絶する事になる。
この矛盾を「蓮祖・興師の文証」のみで答えよ。(出来るはずも無いが。呵々)

この件についての詳細な論述は

http://toyoda.tv/tciken.mokuji.htm

にある。
京都・奈良辺りの痴犬が出来なかった反論を、やまいぬ。君がしてみたまえ。頑張れよ。

3、日興上人のみを僧宝とする、「蓮祖・興師の文証」を示したまえ。(これも出来るわけないがね。呵々)

ついでながら、では、▼「独立宗教法人の創価学会が自分達で規定すればいい。」という、創価学会の規定する「三宝」を明示してみたまえ。
別に隠す事ではないし、また三宝があっての仏法であり、仏道修行であるから、堂々と、明示できるはずである。

仏宝=
法宝=
僧宝=

はい、では、明示してみてください。

やまいぬ。君、またまた、反論不能の事項が増えないように頑張ってね。呵々大笑
書けば書くほどに追い込まれてきましたね。
「嘘」というものは吐けば吐くほど苦しくなる、というのと同様、悪あがき、言い逃れ、言い訳、なども同様だな。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。230 あら〜祝230回〜〜!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 528()160518 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、では、”消毒”の続きを始めますか
―――――――――――
> こんな簡単なことに朝から晩までご苦労なこった。(^o^)
―――――――――――
↑”簡単なこと”ならば、↓これ全部早く答えたら如何か?呵々大笑

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

教義的に何の反論も出来もしないくせに、強がりだけの空回りでは惨めですよ。やまいぬ。君?
―――――――――――
> どれだけ暇かよく解かるな、樋田昌志よ。(^o^)
>
▼1「> いいかね? ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も広宣流布は進んでいない
> 時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、誰を励ます
> でもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん
> 1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。
> 坊やの長ったらしい女々しい書き込み、朝から深夜までご苦労なこったが、仕事そっち
> のけ、信仰活動そっちのけで、やる気があれば、やるべきことは何でもあろうものを
> 放ったらかしてせっせと書き込み――現実をひとつも動かさぬ、馬鹿馬鹿しい脳内カルト
> らしい在り方だ。(^o^)」
―――――――――――

1、ここが既に73氏も指弾しておられる通り、実に 馬鹿な内容 である。
この言葉は、そのまま例えばアク禁になって以降もIPを変え執拗に絡み付いてくる阿部日ケ〜ン(院政)なる者などをその筆頭として、執拗に痴難を吐きかけて投稿してくるやまいぬ。君自分自身も含めた全ての創価学会の”同士”へもそのまま当て嵌まる言である。

わかりやすく書き直してあげましょうか。

「どれだけ暇かよく解かるな、●●よ。(^o^)」

※●●には例えば、「阿部日ケ〜ン(院政)」でもいいし、「出張マグマグ」でもいい。また「日々更に決意」でも、「卞氏」でも「kusanone」でも「一支国」でもいいし・・・、もう取り取り見取である。呵々

▼> いいかね? ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も(※創価学会の)広宣流布は進んでいない
> 時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、誰を励ます
> でもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん
> 1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。
>※「 坊やの長ったらしい女々しい書き込み、朝から深夜までご苦労なこったが、」

※ここは、やまいぬ。君本人などには、

▼「坊やの野卑で粗野で知性のない、教義的には全く反論不能で、言い逃れと、悪あがきを際限ない繰り返す未練がましい書き込み、夕方から深夜・明け方までまでご苦労なこったが、」

となるであろうし、
HN「阿部日ケ〜ン(院政)」なる者には、

▼「坊やの陰湿で執拗、それで粘りっこい老獪な書き込み、「朝から深夜までご苦労なこったが、」(「」原文のまま)」

となるであろうし・・・
少し時間帯や、内容の説明を変えれば、ここへ書き込む幼稚で愚昧な創価学会員の全てに当て嵌まる非難である。

続き

▼「仕事そっち のけ、信仰活動そっちのけで」
※ここは、書き込む各自の時間帯によってはそのまま吐きつける事になる、

例えば、HN「阿部日ケ〜ン(院政)」なる者を筆頭に日中書いている者として、出張マグマグ、日々更に決意、等には、
▼「仕事そっちのけ」との罵倒をそのまま吐きつけて罵っている事になるし、

夜書いているやまいぬ。君を筆頭にしたものどもへは
▼「信仰活動そっちのけで」という罵倒をそのまま浴びせている訳である。

どうしてこれほど 馬鹿 になれるものなのか?というほど 馬鹿 である。呵々大笑

続き

▼やる気があれば、やるべきことは何でもあろうものを 放ったらかしてせっせと書き込み――現実をひとつも動かさぬ、馬鹿馬鹿しい脳内カルトらしい在り方だ。(^o^)」

これも全体の文意から見れば、

▼「書き込みをしているものはやるべきことを放ったらかしている現実をひとつも動かさぬ馬鹿馬鹿しい脳内カルト」

ということになる。
それはここへ書き込む全ての創価学会員へ吐きつける、またしても罵倒の言である。呵々大笑

いづれにせよ、やまいぬ。臭犬がどう言い訳・言い逃れしようが、

▼「ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も(創価学会の)広宣流布は進んでいない時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、誰を励ますでもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。」

という事であるから、やまいぬ。臭犬は、臭犬の好きな言い回しで表現したら

”ボクちゃん自身の言葉でボクちゃんの首を落としている”

ことになる。呵々大笑

それだけでなく、その振り回した刃で、周りの同胞の首まで傷つけたり、落としていることにもなる。

当方に教義的に反論できないことで悔しさ余って口汚く罵ろうとしたその言葉がじつはそのまま自分も同士を罵っているのである。
この姿こそ、怨念と怒りに燃え盛る修羅根性に駆られて見境無く吼えまくって、冷静な判断力を失っている、惨めで御可愛そうな境界というのである。
これなど、俗衆増上慢 とでも言うのであろう。(道門増上慢などにはおよそ教義的に届かないレベルだからである)

敵を攻撃しようとしたその砲弾で友軍を爆撃しているようなものである。
だから 馬鹿 だと言うのである。
ニセ本尊を拝むと斯様な 馬鹿 になる見本 だと言うのである。
世の中にニセ本尊のおぞましさを知らしめる良き標本だ というのである。

さて、この段も、(教義的な内容でなく実に下らんが、しかし、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』として)↓に掲示しておくので、しっかり万人が納得できる形で反論してみてもらおうかな。

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

反論に成功したら、↑から取り下げてあげましょう。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。231  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 528()205830 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

はい、以下の悪態も、

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

↑に反論・反証できてから言うべきではないですかね?呵々

▼> 220以上?(^o^) おいおい、50前の働き盛りの人間が、一つひとつが長ったらしい
> 書き込みを、それだけ積み上げてきたということだ。(^o^) ボクちゃん――何をして
> おるのかね?(^o^)(^o^)

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。232  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 528()215925 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

ここにもまだ、こんな↓”ゴミ”がこびりついていたようである。呵々
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月24日(木)23時19分40秒
> TITLE: あー。
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
▼> けいえいしゃ・樋田昌志よ。
> 今日も朝となく昼となくご苦労ちゃん。(^o^)
―――――――――――
↑について
http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
から

「当方は別に臭犬から“借金”している訳でもなく、臭犬から当方の仕事振りを云々される謂れはない。
臭犬は、自分が仕事中で書けない合間に、当方がどんどん破折文をアップすることが耐えられないのであろう。
そこに何とかブレーキをかけたいが為に懸命に揶揄して、当方が投稿するのを躊躇させようと必死なのである。
自分がアップし、何でもいいからがむしゃらに悪態さえ吐いていればそれで反論しているように見てもらえるし、少しは体面も保てるように思え、安心するのであろう。
が、その悪態を吐く時間まで、当方の破折文が衆人の目に触れる事を恐怖しているのであろう。
哀れな負け犬である。

臭犬こそそんなに仕事を頑張っているのなら創価学会員として”立派に社会に実証”を示しているのだろうから、今度、お互いの『所得証明書』でも発表して比較して見ないか?
まっ、“絶対無理だし。”呵々大笑」(以上)
―――――――――――
>
●> >今まで、法門の道理と意義を示す御文を挙げて論証してきた内容に向かって、
> >散々に、「蓮祖・興師の文証、そのものズバリを出せ〜」と喚き散らして
> >▼「言葉の出自」に文句を云」ってきたのは臭犬自身ではないか。
>
▼> はい、またはぐらかして摩り替えたね坊や。(^o^)
> 私は質問段階で、「蓮祖・興師の文証挙げよ」と問うておるのだわ。(^o^)
> 何故ならばそれだけが絶対基準だからだ。
―――――――――――
↑「蓮祖・興師の文証」”のみ”が「絶対基準」と言い切れる「蓮祖・興師の文証」などない。
もし、「ある!」と断定するのなら、その「蓮祖・興師の文証」を挙げて見よ。(絶対無理だし。呵々)

今まで、臭犬は「蓮祖・興師の文証」のみに拘るその根拠として、「久遠元初の三宝」を挙げていた。
しかし、当方がその前提根拠の矛盾を鋭く突くや、
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno18.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno3.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno4.htm

↑と反論不能のまま大いにうろたえて、今回、この臭犬はとうとう、こうのたまった。↓

▼「久遠元初」も「末法下種」もどうでもよく、ただ「三宝」の2文字だけで最早充分なのだよ。(^o^)

ではその「三宝」のうちの「僧宝」が日興上人のみである、との「蓮祖・興師の文証」を挙げよ。
出来なければ、▼「蓮祖・興師の文証」”のみ”が「絶対基準」(趣意)と言い切れる為の”絶対基準”内での”絶対根拠”が存在しない事になる。
であるならば、臭犬の主張の立脚点が全く無い事になり、臭犬の単なる妄執・我見・短見である。

根拠のない主張を際限なく繰り返してきた非を認め、謝罪せよ。呵々大笑

謝罪文 草案
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno19.htm

さ、頑張れ!やまいぬ。!

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。233  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 528()232321 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

しかし、よくもこうも↓反論も出来ないくせにこうもしつこく同じことを繰り返せると、呆れもするし、感心もさせられる。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』のやまいぬ。君でなければ出来ない”芸当”だな。呵々
―――――――――――
> で、もし蓮祖・興師の文証が存在しないなら「ありません」とだけ返答すればそれで済む。
> が、修羅に駆られて小学生でも書けるであろうその一言を書けないで、坊やは散々
> 「あーでもない、こーでもない」と逃げ廻って220回以上。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> ご愁傷様。(^o^)(^o^)
>
―――――――――――
↑これも、
http://toyoda.tv/yamainu.point1.htm
及び
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm
に少しは反論してから言ったらどうかね?

やまいぬ。君が反論しやすいように↑から少し引用しておこうか。
―――――――――――
1、【御本尊の御相貌の変遷について】

御書全編に亘って 以下の問題に対しての御教示がない。

★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?

↑「蓮祖・興師の文証」に依って明証してみよ。
↑絶対に出来ないのである。(出来るのならその回答を待ちましょう?馬鹿犬君?呵々大笑)
↑「蓮祖・興師の文証」=御書・日興上人の文書に大聖人の仏法の全てが表記されている訳ではない。
↑それを馬鹿犬はどんな内容でも「蓮祖・興師の文証」で挙げろ。と恥言を吐く。←馬鹿である。馬鹿以上の真馬鹿である。呵々大笑
↑上記の命題に「蓮祖・興師の文証」で答えられたら、馬鹿 と呼ぶのは止めてあげましょう。
そして、馬鹿犬が喚く全ての質問に「蓮祖・興師の文証」で答えてあげましょう。
↑自分が出来もしないことを人に要求してはいけないよね。
↑馬鹿 でもその位の”常識”は理解できるかな?
↑それも無理なほど『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』かな?馬鹿犬は?呵々大笑

さ、頑張れ。 馬鹿犬!呵々呵々大笑 (以上)
―――――――――――
さて、やまいぬ。君?

▼ ★何故大聖人御真筆御本尊は時代によって御相貌に変化があられるのか?
↑もし蓮祖・興師の文証が存在しないなら「ありません」とだけ返答すればそれで済む。
> が、修羅に駆られて小学生でも書けるであろうその一言を書けないで、坊やは散々
> 「あーでもない、こーでもない」とくどくど同じことを繰り返してざっと220回以上。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> ご愁傷様。(^o^)(^o^)
―――――――――――
である。↑呵々大笑
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』でも、こういう切り返しは理解できるか?重ねて呵々大笑。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。234  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 528()234618 p4136-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君に少し、「日本語」の勉強をさせましょうかね。

しゅうぎょう‐きそく【就業規則】

使用者が職場での労働者の労働条件や服務規律などについて定めた規則。労働基準法により、常時10人以上の労働者を使用する使用者はこれを作成し、行政官庁に届け出る義務がある。

さて、読めば中学生でも理解できるが、「就業規則」とはあくまで、”労働者(=雇用者=他人に雇われ、報酬を受けて働いている者。)の服務規律”である。
当方は「使用者」であって、労働者=雇用者=他人に雇われ、報酬を受けて働いている者。 ではない。
依って、そもそも服務規律の規制を受ける立場ではない。

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君が盛んに騒ぐ、前提根拠自体が、やまいぬ。君の全くの的外れの思い違いであり、ただ自分の無知を曝け出し、大恥をかいただけのことである。呵々大笑
ああ、恥ずかしい。

少しは”にほんご”を勉強し直したら如何か?大いに呵々大笑。

さ、では、また宿題が増えてお可哀想だが、この「就業規則」についても、少しは論理的でまとまな反論していただきましょうか。
読者の事も考えて、どうせ悪あがきするにも、もう少し品良く、頭の良い切り替えしはでいないものかね?呵々
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君には少し無理な注文かね?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。235  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 529()171948 p2188-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

以下のゴミの中にも破折すべき内容が散見されますな。
では、いきますか。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月25日(金)19時19分13秒
> TITLE: あーあ。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
―――――――――――
●> >2、今までの臭犬の主張からすれば▼「僧宝とは日興上人だけ」ということだが
>
▼> あーあ。やらかしよった、この阿呆が。(^o^)
>
> 「本宗は、大漫茶羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人
> 日興上人を僧宝とする。」
>
> あーあ。宗綱否定。(^o^) 「日蓮正宗 宗綱」は改変された後でさえ、「歴代法主が
> 僧宝」などとはただ1行とて書いていないわ。(^o^)(^o^)(^o^)(>_<)(>_<)(>_<)
> おい樋田昌志、坊や、どこの宗教団体に所属しておるんだね?(^o^)(^o^)(>_<)
> どうやら坊やの捏造宗綱は、「にちれんしょーしゅー」とかいう田舎零細カルトとは
> 違うらしいぜ?(^o^)(^o^)(^o^)(>_<)(>_<)(>_<) 笑いが止まらんわ。(^o^)
―――――――――――
↑ただ品が無く、知性も無く、教義も何も解らないくせに去勢だけは張り続ける惨めな修羅鬼ですな。

さて、宗綱についてはとうの昔に終わっているんだがね。
当方に最初に絡み付いてきたのはやまいぬ。君なのだから、当板での内容を少し調べてから来ればここまで恥をかくことは無かったかも知れないのに。
惨めなものである。
さて、では既に論述してある以下の破折文に反論していただこうか。
宗鋼を持ち出してきたのはやまいぬ。君である。
きちんと責任持って反駁したまえ。

http://toyoda.tv/neirakuji.htm#13

さ、頑張れよ。
やまいぬ。君やはり書けば書くほどに自分の首を締め上げることになるな。
さ、京都・奈良の痴犬の分まで頑張れ。
”同士”の雪辱を晴らしてみたまえ。呵々大笑
しかし、レベル的には京都・奈良の痴犬より少々見劣りするやまいぬ。君では大丈夫か?
心配である。呵々

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。236  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 529()224514 p2188-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

この辺から、最近の当板での話題で、またやまいぬ。君が新しく大恥をかく内容かな。
―――――――――――
▼> しっかもだ。(^o^)

●> >仏宝・法宝は必ず僧によて住す。
> >日興上人のみを僧宝とするのならば、日興上人が御遷化された後、仏宝と法宝は
> >断絶する事になる。この矛盾を「蓮祖・興師の文証」のみで答えよ。

▼> 「矛盾」しまへんのよ、ボクちゃん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 蓮祖を上行の再誕(本地は久遠元初自受用報身如来)として、地涌の菩薩を代表して
> 釈尊から末法流布を託されたとして、では▼2『天台は、伝教は、いったい誰から正法を
> 唯授一人血脈相承されたのだね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)』
> 説明してみな?(^o^)(^o^)(^o^) 絶対に無理なのだよ、坊やには。(^o^)
>
> 天台も伝教も、誰からも相承されていない、が、▼1『蓮祖まで正法は断絶せずに
> 脈々と流れてきた。』何故だ?(^o^)
> オシマイだよ、坊や。(^o^) ようちえんじ以下かね、元論客(? ホンマか?(^o^) )
> 樋田昌志よ?(^o^)(^o^) 堕ちぶれ果てたもんよなぁ、樋田昌志よ?(^o^)
―――――――――――
↑実に、教学が解っていない癖に背伸びして知ったかぶりをする、本当の 馬鹿 である。呵々大笑。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である。

1、大聖人の仏法は下種仏法であり、本未有善の衆生を度する仏法であり、天台・伝教の仏法は熟脱仏法であり、本已有善の衆生の為の仏法であり、本質的にその化導の法体も化導の対象も違う仏法である。
であるから、そもそも▼1『蓮祖まで正法は断絶せずに脈々と流れてきた。』との恥言は仏法の本筋を理解できていない全くの的外れである。
やまいぬ。君の基本が出来ていない無知さ加減が遺憾なく発揮された箇所である。呵々大笑

2、1でも少々触れたが、釈尊在世・正像の機は、久遠下種をうけた者が五百塵点以降の釈尊からの熟脱の化導で調機調養されてきた衆生である。
であるから、元々の仏法の善根を有しているのである。
この衆生は在世・正像の熟脱仏法を縁として度脱するのである。
故に、そこに教と行を受ければ元々に下種を受けているのであるから、機根純熟の衆生は自ずと開悟するのである。
特に「唯授一人・血脈相承」という法規をとられる必要は無い。

【文証】

■    教行証御書   建治三年三月二一日  五六歳
 夫正像二千年に小乗・権大乗を持依して、其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り。然りと雖も彼々の経々を修行せし人々は自依の経々にして益を得ると思へども、法華経を以て其の意を探れば一分の益なし。所以は何。仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否あり。円機純熟の者は在世にして仏に成り、根機微劣の者は正法に退転して、権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し。されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。

■取要抄文段
在世・正像の衆生は三五下種の輩なり。今末法に入りぬれば、皆これ本未有善の衆生なり。深くこれを思うべし云云。

であるから、やまいぬ。君の言う、▼2『天台は、伝教は、いったい誰から正法を唯授一人血脈相承されたのだね?』との恥言はこれまた、仏法の基本が全く成っていないやまいぬ。君の無知さ加減がいよいよ露呈したところである。呵々大笑

3、しかし、末法は本未有善の衆生であり、全く下種が為されていない衆生であるから、”自ずと自らが悟る”などという”因”自体がそもそもないのである。
因(下種)が無いのに果(悟り)が生じるはずが無く、そこには必ず大聖人から連綿と繋がる正統な”師”によって始めて下種仏法の法水が血脈として流れ通うのである。
またその”血脈”には、微塵も断絶があっては下種仏法の法水は流れ通わないのである。
であるから、大聖人以来の正統なる血脈相伝から離れて、ある日忽然と誰かが悟りを得る。などということは、末法の衆生には有り得ない”怪奇現象”である。
もし、末法今日に忽然と悟りを得られる、などと愚想している者がいたとしたら、(また、戸田氏もそうだ。などと妄執している者も同様だが)それは、ちょうど禅宗が”釈尊も苦行したり座禅を組んで悟ったのだから、自分達も同じように托鉢したり座禅を組めば悟れるはずだ”と愚昧に妄執しているのと同じである。
元々、久遠五百塵点劫の昔に既に南無妙法蓮華経を修行して仏に成っていた釈尊が衆生済度の為に、インド菩提樹下で悟りを開く相を現じた訳であるから、何の仏に成る因縁も無い末法の衆生がインドの釈尊の苦行の一端を真似してみても全く無駄。のみならず、有害である。
と、同様に、”日蓮大聖人と同様に法難に遭ったから(そう思い込んでいるだけであるが)何の師も無く悟れる。”などと妄想しているのは、末法に生まれた自分の機を知らぬ大虚け者である。

以上1〜3に関して、臭犬やまいぬ。君、頑張って反駁してみたまえ。

おっと、しかし、▼”ネット遊び”(←やまいぬ。君の談)などしていては、

▼「> いいかね? ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も広宣流布は進んでいない
> 時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、誰を励ます
> でもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん
> 1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。」

ということであるそうだから、やまいぬ。君、書き込むのもなかなか難しい問題だな?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。237  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()120711 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

↓法義に於いて反論できなくなったものは必ずといっていいほど以下の如くの、本来の法義以外の”話題”へ持ち込むものである。
その行為自体が既に教義的に反論不能であることの明証に他ならない。
では、刻んでいきますか。
―――――――――――
> 「樋田昌志 とおっしゃる 会社の責任者の発言の 社会的公益性 を
> 問うているにすぎません」
> 院政様、誰に強制された訳でもない、此奴が自分で好きで名乗っておるのみです。
> それをグッチャラグッチャラと今更泣き言とは、片腹痛いを通り過ぎて憐れだわ。(^o^)

> 何なら坊や、もうちょっとオープンな場で、樋田昌志たらいう地方のけいえいしゃが、
> 十中八九(というか99%)、会社の定款にもない宗教活動、あるいはそれに準ずる
> ネット書き込みに朝となく昼となく、実に数年も血道を挙げておる「事実」、知らしめて
> あげようか? 悪いがありのままの現実だわ。どこぞの田舎教団に転がり込んだ自称・
> 「軍師」とは違うから、なんらの嘘も虚構も作出しない、すべて紛れもない、坊やが
> 積み上げてきた「現実」だ。何一つ疚しいことも、困ることもなかろうて?(^o^)
>
> 坊や――これをこそ「現証」というのだよ。
―――――――――――
↑何をどうしたいのか知らないが、ここで、”定款”について、この臭犬の蒙昧を突いて置きましょうか。

当方の行動は、個人的なものであり、会社の”業務”ではない。
そんなことは誰が見ても一目瞭然である。
であるから、会社の”定款”を持ち出すこと自体が、大いに的外れ、見当違いの愚行である。
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』のやまいぬ。君の如何に愚鈍になっているかの”現証”である。呵々大笑

さて、では私個人がいつ、どのように投稿するか。
これについては何ら規制はないのである。
臭犬は、”就業規則”の件で、当方からの反論に全く返答できず、既に大赤っ恥をかいているが、

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm

経営者である当方は就業規則の規制を受けない。
当方の責務は”定款”に定められた業務が遅滞無く円滑に運転すべき組織をつくりそれを経営する事であって、その点については現時に於いて概ね円滑に行われているのである。

臭犬やまいぬ。君は、当然当方の会社の経営者側の者ではなく、また当方が給料を払っている従業員でもなく、かつまた、当方の会社から商品を供給される顧客でもない。(他県在住者はそもそも当方の会社の顧客には成り得ない)
そういう全くの部外者は、当方の個人的な宗教活動の是非を当方が経営する会社の定款や就業規則等で云々できる立場に無い。

臭犬やまいぬ。君は、当方の会社と、自分が全く損得関係に無い部外者であるにも拘らず、その他所の会社の経営者の個人的行動について、その会社の定款だの就業規則などを持ち出して、云々すること自体が、全くの愚行・痴行だということが分からないらしい。呵々

図らずも、同信の”ゆり根”氏にすら

→『世の中の仕事が全て9時〜5時というのはないですよ。
就業時間というのはいろいろです。』

と指摘されている通りである。呵々大笑
(ここはゆり根氏が73氏の文意を読み違いえている箇所ではあるが、実に臭犬やまいぬ。君の上記の如くの愚行には的確な”餞”である。呵々)


ではこの理性を失って、見境の無い愚行を何故執拗に繰り返しているかといえば、つまり、破折されて反論できないのが悔しいのである。呵々大笑
そして、何とかして、当方にやまいぬ。君への破折を止めさせたいのである。呵々大笑
その心理以外、この臭犬やまいぬ。君の痴行を説明でき得る理由がない。呵々大笑

さ、”定款”についての反駁、頑張ってしてみたまえ。
それと共に、同信のゆり根氏の上記の発言についても、当方へ為したのと同様の罵倒を浴びせるものなのか、見物である。呵々大笑
(因みに今回のゆり根氏の発言とほぼ同意の言は↓ここに掲示してある。)

http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm

それと、以下の臭犬やまいぬ。君が反論不能の件、早く反駁して欲しいのだが?
やはり『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君では最早無理か?呵々大笑

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。238  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()134938 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

以下も、見苦しい強がりと虚勢と悪足掻きにしかすぎない。
教義的に堂々と反論出来ない者は惨めなものである。
―――――――――――
>
> 「では、お二人で実り多き対話をなさいませ。」

> 耕治様、せっかくのお心遣いながら、私はこの坊やと「実り多い対話」をする気は
> 最初からありません。(^o^) 悪しからず。
>▼1『 長ったらしい泣き言と言い訳と捏造だらけ』の元論客・樋田昌志の、朝から晩まで
> ▼2『就業規則』も▼3『定款』も無視した出鱈目極まる「現証」でも皆様に晒すきっかけにでも
> なれば充分ですし、所詮50前のネットジャンキー、時折引っぱたき、時折首でも
> 落として遊んであげれば充分です。(^o^)
―――――――――――
▼1『長ったらしい泣き言と言い訳と捏造だらけ』について、

では、それをきちんと論理的に「蓮祖・興師の文証」のみで粉砕してみたら如何か?呵々大笑

http://toyoda.tv/yamainu.point
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

でも、そうか、やまいぬ。君説によると、↓だったな?
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno21.htm

これ↑では、なかなか書き込めないな?
どうする?この自己矛盾。
まさに頭破七分の成れの果てという”現証”ではないか。呵々
―――――――――――
▼2『就業規則』については↓
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm

▼3『定款』については↓
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno22.htm

さ、さ、遠慮はいらない。
頑張って反論してみたまえ。やまいぬ。君?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。239  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()151641 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

↓どこまでもくどくどしい無能の犬である。呵々
―――――――――――
▼1『樋田昌志』は歴然とその現証を顕しています。
> ▼2『仮にも企業の「けいえいしゃ」でありながら、つまりビジネスと顧客と従業員に、極めて
> 重い責任を持つ立場でありながら、皆様ご覧の通りの昼夜を分かたぬ長ったらしい
> 膨大な書き込み、実に230! はっきり云って阿呆です。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 何をやっておるのだね?(^o^) けいえいしゃなんだろう?(^o^)
> しごとはどーしたんだね? 従業員に隠れてせっせとPCでお遊びかね?』
> それが蓮祖仰せの
> ▼3『御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背
> せず」とは此れなり』
> の姿なのかね?』
> 蓮祖仏法の「道理」にも「文証」にも叛すれば、おのずと現証は出て当然です。
> それが現在の断末魔の姿です。
> みなに当然の指摘をされながら、自分の非など絶対に認めず、逆に相手を
> アクセス禁止? 幼稚極まる。(^o^) 坊やが落ち込んでいるところは、そんな
> サイト一つがどうこうなどという薄っぺらいものではないのだよ。それすらすでに
> 自覚不能。二重・三重に現証歴然。
>
> 未熟ながら、私の役割は此奴のこうした在り様を炙り出す「縁」であれば、彼自身に
> とっても充分かと思っています。我ながら優しいねぇ。(^o^)
―――――――――――
▼1『樋田昌志』について

既に指摘してあるごとく当方は実名で運営・投稿している。
その実名者に向かって、いくら反論できずに悔しいとはいえ、呼び捨ては如何なるものか。
HN同士で罵り合うのとは状況が違うのではないか。
まっ、所詮畜生界や修羅界にお住まいの、 犬 にはどう言っても無駄であろうが。呵々
―――――――――――
▼2について

当方は別にやまいぬ。君に”借金”がある訳でもなし、臭犬が当方の会社の株主でもあるまい。
その全く”部外者”が人の会社に云々できる立場かね?
いずれにせよ、このような的外れで悔し紛れの悪態については↓で完摧ずみ。
せいぜい、反論でもして見ることである。
頑張れ

http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno22.htm

―――――――――――
▼3について
http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
で完済ずみ。
未だに堂々とした論理的な反論がないまま、短い半径に繋がれた犬が同一場所を吼えながら際限なくグルグル巡るように、自分の妄執に繋がれたまま馬鹿の一つ覚えを繰り返しているだけの痴態である。
この無能さ加減では、新しいビジネスの構築など夢のまた夢、であろう。呵々大笑
もし、成功したら、是非所得証明を見せてくれないか?
それが”現証”であろう?
http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
では、それまでに↑について少しは教義的に反論してみましょう。

臭犬のレベルでは、それは所詮無理だとしても、せめて、もう少し別の教義的な内容のことでも喚いたら如何か?
当方も読者も相当に飽きてきたのだがね。
もう少し知的興奮を覚える内容は書けないかね?
やはり『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君ではこれ以上の深い内容は書けないかね?呵々大笑

 

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。240 なんと!祝240回〜〜!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()162656 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

いよいよ臭犬やまいぬ。君の書く内容が浅薄になってきた。
全く、これが創価学会員の実像だと思うと、あまりの無能さと命の濁り具合に、こんなものどもが社会に潜んでいるかと思うと肌寒くなるものである。
―――――――――――
> DATE: 2007年 5月28日(月)23時15分35秒
> TITLE: さあて。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
>
> 樋田昌志くんは昨年夏、自分で勝手にでっち上げた、▼1『「什宝あらばこそ宗門正しき」を、
> 蓮祖・興師の文証挙げてみなというこちらの問いに、たった1行の文証も挙げられずに
> 期限決められて斬首刑にされて』以降、加速度的に凋落傾向を見せておりましたが、
> 今回はまぁ見事に一切返答不能で質問返しのみ、という惨状を露呈するに至りました。(^o^)
> 見てみましょう。(^o^)(>_<)
―――――――――――
↑果たして、そうですかね。呵々
まず▼1について

この論難に対しての全体の経緯は↓にほぼ全文アップしている。

http://toyoda.tv/yamainu.poit.juho.htm

その中で臭犬やまいぬ。君が反論不能になっている点が以下である。

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno23.htm

↑これについて堂々と教義的に反論できてから、▼1と言えるのではないか。
それとも『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』やまいぬ。君には、その”順番”すら分からなくなったか?
ひとつ・ふたつ・みっつ・・・程度の勘定も出来なくなったか?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。241  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()205933 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、夕食後の”一運動”でもしますか。
―――――――――――
▼> 「こんな簡単なことに朝から晩までご苦労なこった。(^o^)」

●> >↑”簡単なこと”ならば、↓これ全部早く答えたら如何か?
>
▼> はい、まず一つ目。(^o^)
▼1『> 教義的に何の反論も出来もしないくせに、強がりだけの空回りでは惨めだよ、樋田昌志。(^o^)』
―――――――――――
↑こういうところにやまいぬ。君の人間としての実に見苦しい醜い心根が見て取れる。
実に醜怪である。

実際にはこの↓ように書いたのであり、やまいぬ。君は下のアドレスを隠蔽している。

●> >↑”簡単なこと”ならば、↓これ全部早く答えたら如何か?

http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.mokuji.htm

●1『教義的に何の反論も出来もしないくせに、強がりだけの空回りでは惨めですよ。やまいぬ。君?』』

↑このアドレスをクリックすればこれまでのやまいぬ。君が反論不能に陥って全く一語半句も返答できなくなっている”宿題”が山積になっている。(しかもこれですらまだほんの一部であって、これから徐々に整理してアップしていく予定である)
それらに今回も全く教義的に反論できていないくせに、当方の言をそのまま鸚鵡返しに使っているだけである。

●1『』→▼1『』

以上から、やまいぬ。君という人間が、如何に姑息で卑怯、陰湿にして狡猾、しかも頭もあまり良くないくせに、慢心は山の如く高く、強がりと虚勢を張る事だけは人一倍・・・という実に醜悪な腐臭を放つ人間であるかよく分かるところである。
このような人間が何にどう挑戦しても周囲の人々の顰蹙を買うだけである。
しかしまた創価学会の中にはこのような腐った者を多数見受けられることがおぞましいのである。
これまさに『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』の集団、創価学会である。
やまいぬ。君などはその腐りぶりが実に秀逸な実験例なのであろう。
このような腐った者がその辺をうろうろ徘徊しているのであるから、恐ろしいことである。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。242  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()211215 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

さて、次の腐ったゴミ処理
―――――――――――
>
●> >この言葉は、そのまま例えばアク禁になって、云々。

▼> (^o^) 阿呆よ。(^o^) 自分への非難を正面から受ける勇気もなく、現実を受け止める
> キャパもない人間が、云われたことを「他人」へ転化して自分が痛みを感じないように
> 逃げておる。(^o^)
―――――――――――
↑頭に血が上って、前後周囲の見境もなく、不用意に書き殴った内容が、論理破綻しているという”現実”を指摘してやったまでのこと。呵々大笑
姑息で卑怯な醜犬やまいぬ。君が敢えて抜いた箇所も、誤魔化されない為にも、如何に再掲して置きましょう。
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.17.htm

さて、当方の行動についての醜犬やまいぬ。君からの全くの的外れの言い掛かりは既に完摧し切ってあり、醜犬は未だ未回答である。

http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno22.htm

さ、では上記について、反論していただきましょうか。
出来ますか?『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』醜犬やまいぬ。君?呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。243  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()211643 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

あまりに内容が浅薄なので続けてザクザクいきますか。
―――――――――――
▼> 坊や、私はアザレ長野中北本舗たらいうところのけいえいしゃとかいういうボクちゃんに
> 投げておるのだよ、ド阿呆。(^o^) 何度書いたら返答できるのだね?
> アザレ長野中北本舗って会社の就業規則や定款に、「ネット遊び」とか「宗教活動」と、
> 書いているのかいないのか、この程度に何ヶ月かかるのだね、ようちえん坊や?(^o^)
―――――――――――
↑終わっている。
http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno22.htm

以上。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。244  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()212319 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

次、
―――――――――――
●> >※ここは、書き込む各自の時間帯によってはそのまま吐きつける事になる、

▼> (^o^)(^o^)(^o^)(>_<)(>_<)(>_<)
> なんじゃこの「吐きつける」とは? どんなにほんごだね、坊や?(^o^)(^o^)
> どこの辞書に「吐きつける」などというにほんごがあるのだね?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> おいおい坊や、73やせいぎやなおとレベルに堕ちたか、遂に。(^o^)(>_<)
> (えーっと、他にもいたような気がするなぁ、影の薄いのがチラホラ。(^o^) )
―――――――――――
↑ことの本題に反論不能になった者は必ずこのような瑣末のことを論うものである。呵々大笑

「吐きつける」→この言葉を聞いてその情景がイメージできないとは余程にイマジネーションの能力が欠如している証拠である。呵々大笑
そのような者が何にどう挑戦しても無駄である。
もし、万が一にも成功するようなことがあったら、所得証明書か納税証明書と資産表でも見せるんだな。呵々大笑。

おっと、ことの本題は
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno.17.htm

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。245  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 530()213738 p3235-ipbf211yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 


―――――――――――
▼> 「ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も(創価学会の)広宣流布は
> 進んでいない時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、
> 誰を励ますでもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、
> もちろん1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。」

●> >という事であるから、やまいぬ。臭犬は、臭犬の好きな言い回しで表現したら

▼> >”ボクちゃん自身の言葉でボクちゃんの首を落としている”

▼> 残念だな。(^o^)▼1『 私は仕事時間でもない、活動時間でもない、完全に自由裁量の
> 自由時間にのみ▼@『書き込んでおる。(^o^) 』完全に就業時間であるような午前中や
> 午後、夕方に、ナガッナガと中身のない書き込みせっせと書いておるクズとは
> 違うのだよ、ぼーや。(^o^)(^o^)(>_<)(>_<)
> それとも「2007年 5月28日(月)16時05分18秒」は、アザレ長野中北本舗は
> 休業中なのかね、坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(>_<)(>_<)(>_<)
> 返答してみ? 何ヶ月かかるんだね、愚図坊・樋田昌志?(^o^)(>_<)
―――――――――――
↑はい、これも終わっている。
http://toyoda.tv/yamainu.point6.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno20.htm
http://toyoda.tv/yamainu.hanronhuno22.htm
以上

おっと、見落としていた。

▼1『』であろうが、醜犬やまいぬ。君自身が言った、

▼1「> ▼A『いいかね? ここに書き込んでいる時間』とは、▼B『現実には一歩も広宣流布は進んでいない時間だということ』だ。▼C『ます唱題している時間ではない。』▼D『誰に会うでもなく、誰を励ます
> でもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん
> 1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。』

との指摘を自ら逃れられない。

つまり
▼@『書き込んでおる。(^o^) 』限り、それはやまいぬ。君自身が、
▼A『いいかね? ここに書き込んでいる時間』であり、
▼B『現実には一歩も広宣流布は進んでいない時間だということ』であり、
▼C『ます唱題している時間ではない。』ということであり、
▼D『誰に会うでもなく、誰を励ますでもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。』ということである。呵々大笑

実に 馬鹿 である。呵々大笑
『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』醜犬やまいぬ。君の見苦しい断末魔の悪あがきである。呵々呵々。

さ、次の弁解は?
どう言い逃れする?呵々大笑