24・25日と夏期講習でした。

大聖人様尊極の御尊体である戒壇の大御本尊を目の当たりに拝し、御開山日興上人の譲座御本尊の御前で七百年来の法統正しい丑寅勤行に御供させていただき、そして第68世日如上人が親しく仰せになられた御指南を拝し涙が止まりませんでした。

 

こうした大聖人様以来の正当な歴史と伝統を拝することが出来ない、しようともしない、創価学会員は本当に哀れなものですね。

創価学会などに何の什宝がありますかね?

大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?

日興上人の御本尊様は?

御真筆の御書は?

 

創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。

あるのは大量のニセ本尊の在庫でしょう。

 

■止観の五に云はく「瓦礫(がりゃく)を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎ(握)りて珠とおもふ。

 

成仏の道程からすれば、ただの瓦礫に過ぎない"勲章"。

その"勲章"を池田さんが外道の国からもらっている姿を有難がっている、せいぜい、その程度ですね。

全く大聖人様の仏法と程遠いものです。

 

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> >@「内証」とはそもそも何か?

> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。

>

> なんとも見事なモノ信仰ですね。自慢の「お肉牙」はお忘れですか?(^o^)

> ついでに宗門が「金科玉条」のように誇りたがる

※@唯授一人血脈相承の基たる「二箇相承書」と

> 「御本尊七箇相承」の真筆でも出して頂きたいところですし、云々

 

―――――――――――

●※@「御真筆でなければ信用でいない。」というのであれば、貴公ら創価学会が自らに血脈が通う根拠としてよく用いる、「生死一大事血脈抄」の御真筆は今どこか?

 

@あるのなら即明示してください。

Aないのであればその内容は貴公は信用しない、ということになり、創価学会の血脈の主張を貴公は否定することになるが、それでいいのか。

 

この矛盾に明確に返答してください。

 

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> しかもきみはなんと書いたのだね?

> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。

>

> 見事な「モノ」信仰である。(^o^) そしてこれらの「モノ」あらば正しいと、蓮祖の文証挙げて

> 証明しなさいと問われて、一体なんだね、この返答は?(^o^)

 

●ここも悩乱して文脈が理解できなくなった駄犬そのままの醜態である。

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。

一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。

その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。

身延のみやげ掛け軸を"御本尊"にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

 

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

つまり、やまいぬ。君は

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

Aその延長線上として、現に存在する「物体」としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

概ね、以上の妄執に取り付かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。

これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

 

当方の破折はこれらに対する破折である。

やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。

それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。

しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

> >学会に何の什宝、大聖人様の御真筆御本尊、日興上人の御本尊、御真筆の御書、云々。

>

> と、これらの「モノ」ある故に正しいが如き見事な「モノ」信仰披瀝のあと突然これだ。(^o^)

―――――――――――

●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

 

再掲

 

当方が書いた趣意は、

 

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。

一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。

その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

 

との意味である。

 

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。

身延のみやげ掛け軸を"御本尊"にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

 

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

つまり、やまいぬ。君は

 

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

 

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

 

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

 

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。

これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

 

当方の破折はこれらに対する破折である。

やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。

それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。

しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

> まして「什宝」? 「真筆本尊」? 「興師書写本尊」? 「真筆の御書」?(^o^)

> だーから何度も書いておろう? 「モノ」信仰だと。(^o^)

>

> しっかし小学生以下のくだらんはぐらかしだ。(^^) 坊やはこう書いたのだよ。

>

> >創価学会などに何の什宝がありますかね?

> >大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?

> >日興上人の御本尊様は?

> >御真筆の御書は?

> >創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。

>

> これらの「モノ」あらば正しいことを証明せえと問えば、草木成仏だとか「お前らの御本尊も

> モノだろう」とか、長々と論旨を捻じ曲げて得体の知れぬ「反論」のつもり。(^o^)

> 当たり前だ、寛師書写本尊も「物体」だ。しかし「特定の物体あるから正しい」など

> 我らは主張せぬし蓮祖の御聖訓にもそのような主張はない。(^o^)

> しかも先に坊やが挙げた「文証」は、見事にどれも、坊やの主張の「文証」には

> なっておらん。(^o^)(^o^)(^o^)

> 3ヶ月以上の遊戯雑談の結果がこれかね、坊や?(^o^) さっさとしてもらおうか。(^o^)

―――――――――――

●ここも、やまいぬ。君こそが的を外して空回りしているので、再度(再々度)忍耐強く躾けますか。

本当に躾けの成っていない氏育ちの悪い駄犬には苦労させられるわ。

 

再掲(再々掲)

―――――――――――

●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

 

再掲

 

当方が書いた趣意は、

 

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。

一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。

その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

 

との意味である。

 

それを「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。

身延のみやげ掛け軸を"御本尊"にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

 

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

つまり、やまいぬ。君は

 

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

 

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

 

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

 

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。

これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

 

当方の破折はこれらに対する破折である。

やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。

それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。

しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

―――――――――――

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

●本物の馬鹿にはやはり反復学習が必要である。

―――――――――――

> DATE: 11月 6日(月)22時55分17秒

> TITLE: 樋田坊さぁ。(^o^)

> NAME: やまいぬ。  MAIL:

>

> なんでもエエが、3連休明けの超多忙な筈の月曜日に、午前中から熱心に

> ネットの書き込みかね? 世間を舐めとるね。まぁ見てて御覧、坊やの会社も

> 長くはない。道理を外れて仏法はないよ。

>

> でね、平日から足掛け8時間も書き込んでおるのはいいが、どうでもいいけど

> 坊やは3ヶ月半前の、

> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」

> という坊やの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問いにいまだ

> 返答不能なんだわ。

>

> だらだら書き込んで、ヒマな坊やが時間を浪費するのにこっちまで付き合わせる前に、

> 3ヵ月半前の「本論」に入る以前のたった1問、まず返答せんかいな。(^o^)

>

> それとも次々と書き込んで、前のはなかったことにでもするつもりかね?(^o^)

>

> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)

>

> 上記問いへの返答あった場合、こちらからの返答は明日夜。

>

―――――――――――

●馬鹿には繰り返し反復学習が何よりも大事であるから、ここも躾けておきましょう。

 

再編集しつつ再掲

 

当方が書いた趣意は、

 

●「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。

一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。

その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

 

との意味である。

 

それを▼「見事な「モノ」信仰である。(^o^)」などと、わざわざ顔文字まで入れて、妄断しているだけのことである。

身延のみやげ掛け軸を"御本尊"にでも出来る馬鹿だから、文が読めなくなるのも当然至極である。

大石寺に宗祖大聖人以来の数々の"重宝"が厳護されているのは、大石寺が正しい歴史を有している「傍証」である。との意が読めず、ただ闇雲に「文証を挙げろ」と吼え憑いているだけの駄犬の遠吠えである。

 

当方は既にやまいぬ。君の邪心の根本を突いて破折しているのである。

つまり、やまいぬ。君は

 

@戒壇の大御本尊への絶対信(二もなく、また三もなし。との信)を喪失し、惑乱している。

 

Aその延長線上として、現に存在する”御仏の色身不二の御当体”(既に書いた「物体」との語をかく修正する)としての”御本尊”への信仰の真意をも喪失し悩乱している。(開眼による草木成仏の義が成じていなければ”御本尊”として成り立たない。)

 

Bつまりは大聖人様御図顕の曼荼羅状の様相を呈していれば、それが誰が書いても、誰が複製しても、それらは全て”御本尊”と認めるほどの大馬鹿者に成り果てている。

 

概ね、以上の妄執にとり憑かれ、■「諸宗は本尊にまどへり」の通りに落ちぶれ果てているのである。

これは沖浦老醜をはじめ、多くの創価学会員も同様である。

 

当方の破折はこれらに対する破折である。

やまいぬ。君などが邪難の入り口でうろうろしている間に、既にその醜首は斬り折ってあるのである。

それが二手先、三手先なので駄犬やまいぬ。君には理解できなかっただけである。

しっかし心底頭の悪い癖に妄執だけは人一倍、って者には、本当に骨の折れるものである。

 

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。

また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。

およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。

そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。

こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。

あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。

―――――――――――

■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

 

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり

仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺

に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。

 

―――――――――――

さ、明日の夜の駄犬の足掻きに足掻いた返答とやらを楽しみに待つか。(-。-)y-゜゜゜

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

> それだけの時間かけて、きみはいまだに3ヵ月半前の「本論」以前の1問に返答できて

> おらんのだ。(^o^)

>

> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」

> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。

> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」

 

●聞き分けのない小児である。(あっ、それ以前に”畜生界”であったか。(-。-)y-゜゜゜)

以下が、既述の破折文だが、駄犬にはどうも理解できなかったようであるので解説しますか。

実に世話の焼ける知能の低さである。

―――――――――――

再掲

 

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。

また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。

※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。

―――――――――――

●ここである。

 

1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。

日興上人は明白に

■本門寺重宝たるべきなり

■万年の重宝たるべきものなり

と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

 

重宝=貴重な宝物

貴重=とうとびおもんじること。非常に大切にすること。 得がたいものであるさま。

一方「正」とは「一に止まる」と言う意であるから、これらを併せ考察するに

 

「重宝」とは極めて得がたい宝物であり、それは他の数多のものにはない、つまり、数多の中からの「一つしかない」という意味において「正」しい宝物であり、尊び、重んじるべきもの。という意義である。

「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。

―――――――――――

そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。

こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。

あくせく働かなくてはやっていけない身の上で、わざわざ人の会社の心配は実に有難いが、怨念で呪詛する前に、自分の腐り果てた悪因縁を深く見つめなおしたら如何か。

―――――――――――

■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

 

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり

仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺

に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                             東京 法道院。

―――――――――――

2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、

@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が為されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?

Aその場所はどこか?

Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?

なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?

それは「重宝」がなければできないのではないか?

それは駄犬の言う、"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)"との文言からすれば

”日興上人仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)"と自らを罵倒することにならないか?

ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。

また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

 

これを明晰に返答してごらん?

もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。

貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。

今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。

教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。

もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。

もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。

心して、責任ある返答をしたまえよ。

 

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> 苦しいなぁ、樋田くん?(^o^) 法華講やめたら?(^o^)(^o^)(^o^)

> さ、とっとと「什宝あるから正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)

 

●ここについてもやはり大聖人様は既にかく仰せである。

 

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。

 

まさに駄犬はこれである。

既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、その道理が見えないのは自分の愚癡によるにも拘らず、

▼蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)

を馬鹿の一つ覚えの如く繰り返す。

馬鹿が馬鹿の一つ覚えしか出来ないのはけだし当然か。(-。-)y-゜゜゜

しかし、これは"邪宗の者"の習性である、と大聖人は御指弾されているのであるから、やまいぬ。君の言動は自らが「邪宗の徒」であるとまさに証明しているようなものである。

謗法者の謗法者たる振る舞いである。

実に分かり易い"サンプル"採取ができた、と言えよう。

―――――――――――

> 当然脱講届はもう出したろうな、樋田昌志くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

●ここは、当方からの詰問に反論不能であるが、その醜態を覆い隠す為に、当方が提示している「謝罪&脱会」という条件をそのまま意趣返しし、以って自分の優位性を強引に演出しようとしているところである。

人の二番煎じしか出来ない、自分では何も独自に生み出せない、創造性に欠けた、惨めな境涯がよく看取できる箇所である。

更に、当方の実名をフルネームで呼称したり、(^o^) を連打するところなど、内心の怒りが仄見えて、微笑ましくもある。

いすれにせよ、やまいぬ。君の境涯の低さが良く顕れた箇所として、秀逸な箇所である。

創価学会員の愚行の標本としては、いい出来、である。

―――――――――――>

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」

> というきみの主張に対し、蓮祖・興師の文証挙げよというこちらの問い、云々。

> さ、脱講届準備して、上記返答してもらおうか。(^o^)(^o^)」

>

> >以下が、既述の破折文だが、云々。

> >再掲

 

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^) だーから「什宝だかの特定のモノあらば正しい」の坊やの主張の

> 文証になっていない御書を「再掲」して何の意味があるのだね、坊や?

> いよいよ狂ったかね?(^o^)

>

> >更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。

> >また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。

> >※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。

> >●ここである。

> >1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。

>

>

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 「傍証」に続いて今度は「あるまいか」?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 何度同じことを書かせるのだね? 坊やの希望的観測や願望など、3ヵ月半前から

> 誰も訊いてはおらんのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)

>

> >日興上人は明白に

> >■本門寺重宝たるべきなり

> >■万年の重宝たるべきものなり

> >と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

>

> あーあ...。幼稚園児以下のどっかいりょくの樋田昌志くんよ。(^o^)

> 「重宝がある」「大事にせえ」と、「それらがあるからその宗派は正しい」は、まったく

> 問題が違うのだよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」のだろうよ?

> 3ヵ月半前の坊やのその主張、さっさと蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか、クズ坊。(^o^)

>

> >「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、

> >その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。

 

> では身延その他、蓮祖真筆本尊を厳護している多宗派の寺は正しいんだな?(^o^)(^o^)

> と書けば、「いや違う」とまたダラダラ言い訳するのも眼に見えておる。(^o^)

>

> 「モノあらば正しい」と主張し、蓮祖・興師の文証何一つ挙げられず、「他宗派にだって

> モノはあるぜ」と問えば、「それは違う」と全く別のことをどうせ並べる。(^o^)

>

>

> 坊やの「モノ信仰」はね、それを書いた3ヶ月半前に、すでに破綻しておるのだよ。(^o^)

> だから書いてやったろう?

> 「本論に入る前のこのやり取りで、すでに“勝負”あった」と。(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 坊やのつまらぬ「傍証」も「あるまいか」も基より無用。(^o^)

> 「什宝だかの特定のモノあらば正しい」とそのものズバリ仰った、蓮祖・興師の文証

挙げてみんか、坊や。(^o^)

> それとも「久遠元初の三宝」、蓮祖・興師では不足だとでもいうのかね?(^o^)(^o^)

―――――――――――

●この辺で一区切りつけようか。

 

大聖人は駄犬のような道理が分からない、しかも執拗に無闇に文証を問う謗難者にかくのごとく鮮やかに返されている。

 

■問ふ、天台大師の止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併ら法華経に依ると云ふ証拠如何。

答ふ、予反詰して云はく、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出だして云はく「此の止観は天台智者の己心中の所行の法門を説くなり」と。

 

駄犬にこの意を領することは難しかろうから簡単に説明すると、

 

問者が問う。

天台大師の「一念三千・一心三観・己心証得の妙観」は法華経に依拠する、法華経を根拠とする、とは、その証拠や文証とはどこにあるのか?

大聖人が、(その愚問に直接返答されずに)反対に詰問される。

では、訊くが法華経を依拠としない、根拠としない、との文証はあるのか?

(そして道理を御説きに為る。)

この摩訶止観は天台大師の己心の中での観念観法の修行の法門を説くのである。(であるから、法華経の文上に直接の文証はないのは理の当然である。との意味が篭められている)

 

さて、今回の駄犬の妄難。「重宝(もしくは什宝)があれば正しい。という大聖人・日興上人の文証を挙げよ」であるが、

この邪問について、当方では道理に基づき、詳細に説明した。

だが駄犬は、もはや道理が理解できる知性を失っている状態である。

そこで、当方は駄犬にその邪問自体が稚拙かつ暴難である旨を突く為に、反詰しているのである。

ここで、編集し再掲する。

―――――――――――

※ さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、

@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?

Aその場所はどこか?

Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?

なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?

それは「重宝」がなければできないのではないか?

それは駄犬の言う、

"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば

”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?

ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。

また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

 

追加

 

『更に、重宝の中の重宝、秘法中の秘法こそ、まさに戒壇の大御本尊である。

重宝云々と言っても、戒壇の大御本尊の存在に尽きるのである。

その戒壇の大御本尊を伝持されていない創価学会などは、広宣流布の暁に建立せねばならない「本門寺の本堂の事の戒壇」の更に中央須弥壇に一体何を安置できるのか?

駄犬が「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と問うその底意は、「創価学会こそが正しい」と主張したいのであり、そのこと自体は戒壇の大御本尊の一事を以って、既に打ち砕かれている。

正しい・正しくない、でいったら、まさにこの一時に尽きるのであり、戒壇の大御本尊が御相伝される大石寺は最強の現証としてまさに"正しい"のであり、戒壇の大御本尊の相伝のない創価学会などはまさに"正しくない=邪な団体"、ということ明白なのである。

 

■道理・証文、現証に如かず

 

である。

 

更にまた、「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬に、

反詰して曰く、「では重宝が伝持・相伝されていないことが正しくない、とする文証を挙げてみよ」となり、また更に踏み込んで「創価学会が正しい、という文証を大聖人・日興上人の文証のみで挙げてみよ」

仏法を少しく学んだ者は皆口々に言う「ニセ本尊などを世界中にばら撒いている創価学会に正義など微塵もないのである。

のみならず、個々の衆生を国を世界を破滅させる諸悪の根源中の根源、汚物の中の汚物である。」と。

 

大聖人の反駁の方程式をそのまま準えさせていただけばかくのごとくとなり、駄犬の妄執・妄難など一撃である。』

 

これを明晰に返答してごらん?

もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。

貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHPであるが当方は実名である。

今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。

教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。

もし、それが嫌なら、さ、精一杯足掻いて陳腐な反論文を書いてみたまえ。

もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。

心して、責任ある返答をしたまえよ。 ※

―――――――――――

●何度もその謗法の害毒で破戒されきった頭に教え込むが、「仏法と申すは道理なり」で、「道理」が分からない者こそ、正しい仏道修行をしていない証左なのである。

やまいぬ。君の野卑で理性を欠いた(欠き切った)言動がそのまま謗法による人格破壊の良き(悪き)現証そのものである。

やまいぬ。君当人には自らの人格破壊の現証は当然意識できるものではないだろうが、この双方の投稿のほぼ全文は末永くHP上で閲覧できるよう保存されるので、世の有識具眼の方々が「正しい」宗教を選択する資料として大いに参考にして頂こうではないか。

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●後、少々、この品性のない罵言とおつきあいしましょうか。

閲覧者の皆様にはまことに申し訳ございません。

かなり飽きてきておられる、と思いますので、錯乱した妄執深き謗法の頭破七分者の、悔し紛れの感情的な足掻きの遠吠えに対しての躾には区切りをつけて、当初の駄犬からの邪難の摧破に取り掛かりましょう。

>

―――――――――――

> >●以下、既に摧破し尽くしている。

 

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 「什宝あるから正しい」との、蓮祖・興師の文証ただ一つも挙げられないクズが、

> 「既に摧破し尽くしている」と逃亡しておる様、とくと御覧あれ。(^o^)

>

> >慢心強い者は成仏しない、と「蓮祖・興師の文証」にはあるのだが、如何か?

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> なにを必死ではぐらかしておるのだね、クズ法華講よ。(^o^)

> 誰がそんな文証挙げろと云ったのだね?

>

> 坊やが実に3ヵ月半逃げ続けておるのは、

> 「什宝あらばこそ宗門は正しい」たる、坊やの主張に対する蓮祖・興師の文証だわ。

>

>

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^) 毒気深入しておるな、坊や?(^o^)

>

> 「 きみの首は公共の面前で、3ヵ月半前から野晒しにされて転がっておるよ、

> 樋田昌志くん。(^o^)」

>

> >日興上人は、お示しになられたそのものが尊く「正しい」から「大事にせよ」と仰せになった、

> >ということは小児でも理解できる理屈である。

> >もし、そうでないとするならば、日興上人は正しくもないものを大事にせよ、と仰ったことに

> >なり、甚だ不自然極まる。

 

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 何度同じことを書かせるんだね、樋田昌志くん。(^o^)

> 「粗末にする理由無し」、そんあことは当方からも何度も書いておる。

> しかし「粗末にしない」「大事にする」と、「什宝あらばこそ宗門は正しい」は、まったく

> 別問題だわ。(^o^)(^o^)

>

> 自分の負けを認めたくないばかりに、必死で論点をずらして逃げ惑う。(^o^)

> 惨めな3ヵ月半だわなぁ、樋田昌志くん?(^o^)

>

> さ、とっとと「什宝あらばこそ宗門は正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか。(^o^)

>

> >既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、

 

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> いいかね、坊や?

> 坊やはこの3ヵ月半、ただ1度として坊やの主張した、「什宝あらばこそ宗門は正しい」を、

> 蓮祖・興師の文証挙げて証明などしておらんのだよ。(^o^)

>

> 泣き言無用。「これらの品々あらばこそ、我が宗門は正しい」との蓮祖・興師の文証、

> さっさと挙げんかいな、坊や。(^o^)

>

> でだ。いつまでもこのエンドレスな樋田昌志くん返答不能状態に付き合うのも無駄だ。

>

> もう3ヵ月半も経過した。(しかもまだ本論にすら入る前の最初の1問である。(^o^) )

>

> >あるいは将棋でいったら既に詰んでいる

 

> 坊や、3ヵ月半前から"詰んでいる"のはこちらなのだよ。(^o^)

>

> 期限を設定する。

> 11/9深夜24時、つまり正確には11/10、0時。

> それまでに樋田昌志くんが主張した、「什宝あらばこそ宗門は正しい」に対して3ヵ月半前に

> こちらの問うた、「その旨の蓮祖・興師の文証挙げよ」に返答不能の場合、樋田昌志くん

> 敗退を確定した上で、謝罪及び脱講届の提出を要求する。(^o^)

>

> もう3ヵ月半前に、実は勝負はついていたのだよ。(^o^)

> それをいまさら必死になって、「傍証」だの「あるまいか」だの「ならないか」だの、

> 自分勝手に腰の引けたことしか書けなくなった、この無慚。(^o^)

>

> かつては一端の「法華講論客」と(一部かもしれないが(^o^) )認識されていた

> 樋田昌志くんのこの落ちぶれよう。

> たった1問で首落とされて実に3ヵ月半――樋田昌志くん、潮時だよ。

> 沈む泥舟・宗門に、いつまで意地でしがみつく気だね?

―――――――――――

→まあ、通読するのも時間の無駄、との感が否めないほどの、内容の無さ、であるが、これ、既に呵責したとおり、

 

■「邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。」

 

との大聖人の御指弾そのものの振る舞いである。

 

道理が見えない愚者とはかくも無慙な痴態を晒すものであり、またその醜悪さに己は気がつかない、というところがまた一段と惨めである。

狂人が自分が狂っていると自覚でできないで、さも正気の如く思い込み、他へ向かって、大声で意味不明で野卑な妄言を喚いているのと何ら替わりの無い狂態である。

創価学会の謗法の害毒の怖さを体現してまざまざと示している姿は、世間に創価学会の不当性や有害性を認識していただくためにもそれなりの価値ある存在、と言わねばならない。

まさに"価値創造"の一役を担っており、立派な"『創価』学会員"ということでもある。

 

さて、その上で、斯様に、自分で勝手に期限を設定し、その期限に間に合わなければ敗北とみなす。

との手法は、これ、表向きには体面を取り繕い、実質は既に腰の引けている、内心、これ以上追求してほしくない、との願望の顕れであり、そのような実力も無いのに、虚栄心だけは強い、甚だ、傲慢で、慢心高き者が、しばしば用いる、遁走する為の常套手段である。

自分がそのような恥ずべき醜策を提示した、ということすら把握できないほど狼狽している、といえよう。

 

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クズいぬの、クズたる所以(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)  投稿者:73  投稿日:12月21日(木)21時53分45秒 p2199-ipbf403hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

  引用

 

 

反論不能のクズいぬ、術は「文証を出せ」

 

創価の腐ったクズは、何ヶ月も前から

「什宝あらばこそ宗門は正しい」の蓮祖・興師の文証を出せ、と

循環論法の如く叫んでいる。昨夜も私宛に

 

>残念だね、坊や。(^o^)

>樋田昌志くんは「什宝あらばこそ宗門は正しい」も、坊や捏造の「南無――の内証は

>戒壇本尊」も、「御本尊に法主の開眼が必要」も、一切、1行たりとも蓮祖・興師の文証

>挙げられずに首落ちてこれで3度目。(^o^)

 

と述べているが、

既に、樋田氏は何度も何度もこの件に関しては正論を述べられている。

 

そもそも、この件の樋田氏の最初の書き込みは、

 

「創価学会などに何の什宝がありますかね? 」

「大聖人様の御真筆御本尊が格護されてますかね?」

「日興上人の御本尊様は?」

「御真筆の御書は?」

「創価学会になど大聖人様の仏法を示す什宝など何もないではないですか。」

 

というもの。このクズの術は、「文証を出せ」に尽きるのだが、

この件についてもやはり「文証を出せ」と唯一の錆びた宝刀を抜いてきた。

 

創価が大聖人直結という文証も出せないクズが、である。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

そもそも、大聖人御在世において、大聖人様御自らの「什宝」に関する御文など、

無くて当然(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

こんな一般常識もわからぬ幼稚園児以下のクズに対して、

樋田氏は懇切丁寧に、

 

◇以下樋田氏の書き込み

 

当方が書いた趣意は、

「宗祖大聖人以来の重宝が大石寺には多数厳護されてきている。実に尊いことである。正統である証拠でもある。何故なら正統門家以外には重宝中の重宝などが代を重ねて伝持される信心・環境・資格・条件等がないからである。

一方創価学会などはその700年間続いた正統宗門が伝えた大聖人の仏法にたったの60〜70年前に入信し、派生、今はその自らが入門した宗門からも破門され(当然破門されるようなことをしてきたからだが)全くの根無し草の新興宗教に落ちぶれた下らない、のみならず危険極まりない団体である。

その傍証としては大聖人様以来の重宝など全く伝持されてきていないではないか。口では大聖人直結などを叫びながら、それは実は口先だけであり、大聖人様からの連綿と続く正統門家などには今後どのように時代が下ろうが、成り得ない。」

との意味である。

 

と返答された。

これに対し、教学など全くないクズは、またまた「蓮祖・興師の文証を出せ」。

 

この後、このみっともない恥さらしの戯言の繰り返しが、幾度も続いた。

 

このクズの腐った性根に、樋田氏は更に一歩踏み込んで回答された。

 

◇樋田氏の書き込み

 

更に日興上人は以下の如く「重宝」を尊重せられておる。

また遠く未来までも「重宝」として厳護せられよと仰せである。

※およそ正統性のないものを日興上人が「重宝」と書かれる筈はないのである。

―――――――――――

●ここである。

 

1、正統性、もしくは正当性があるからこそ、「重宝」とするのではあるまいか。

日興上人は明白に

■本門寺重宝たるべきなり

■万年の重宝たるべきものなり

と大聖人御真筆の御本尊に御遺し下されているのである。

 

重宝=貴重な宝物

貴重=とうとびおもんじること。非常に大切にすること。 得がたいものであるさま。

一方「正」とは「一に止まる」と言う意であるから、これらを併せ考察するに

 

「重宝」とは極めて得がたい宝物であり、それは他の数多のものにはない、つまり、数多の中からの「一つしかない」という意味において「正」しい宝物であり、尊び、重んじるべきもの。という意義である。

「重宝」の存在は、その「重宝」を歴史を重ねながら多数厳護している大石寺が、その発生・因縁・歴史・教義信条等、これまた「正しい」。という根拠と為るに何ら問題はない。

―――――――――――

そして、この日興上人の仰せ通りに忠実に今日にまで厳護せられてあるが故に、今総本山に開山上人の御時と同様に「重宝」がましますのである。

こんな簡明な道理と証拠すら理解できず、しかもこれを尊いと思わないとすれば、やまいぬ。駄犬は、謗法の害毒によって根性がねじ腐り果てているだけのことである。

 

■弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり、   同 上。(※総本山に格護されている。との意)

 

■弘安三年太才庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少鋪公日禅は日興第一の弟子なり

仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺

に懸け奉りて万年の重宝たるべきものなり。                                     東京 法道院。

 

 

以上わかるように、この件に関しては完全に「破折済」なのである。

そもそも、

「此の経は相伝に有らざれば知り難し」

の御文でこのクズの首は転がり落ちているのだが、

その転がり落ちた首で、更にみっともなく

「文証・文証」とさけぶ様は何ともみっともない負けイヌである。

 

腐ったいぬよ、以下を返答してご覧?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

―――――――――――

2、さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、

@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が為されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?

Aその場所はどこか?

Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を「重宝」として奉掲せよ。と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?

なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?

それは「重宝」がなければできないのではないか?

それは駄犬の言う、"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)"との文言からすれば

”日興上人仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)"と自らを罵倒することにならないか?

ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。

また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

 

どーぞ、クズちゃん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

 

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さて、今回の駄犬の妄難。

▼「重宝(もしくは什宝)があれば正しい。という大聖人・日興上人の文証を挙げよ」であるが、

この邪問について、当方では道理に基づき、詳細に説明した。

だが駄犬は、もはや道理が理解できる知性を失っている状態である。

そこで、当方は駄犬にその邪問自体が稚拙かつ暴難である旨を突く為に、反詰しているのである。

ここで、編集し再掲する。(※〜※)

―――――――――――

 

※「さて、次に駄犬に課題を出しておくが、

ここで日興上人が仰せの「本門寺」とは広宣流布の暁に「本門、事の戒壇」が建立される広宣流布の根本・根源の寺院だが、

@創価学会が広まって、創価学会の「広宣流布」が成されたとして、この「本門寺」の本堂には一体、どんな本尊を掲げて、「事の戒壇」とするのか?

Aその場所はどこか?

Bその時に、日興上人は、例えばこの大聖人様が日禅師へ授与なされた御本尊を■「同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是偏(ひとえ)に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期(とき)まで深く敬重し奉るべし。」と仰せだが、創価学会には日興上人がお定めになられた「重宝」があるのか?

なければ日興上人の仰せをどのようにして守るのか?

それは「重宝」がなければできないのではないか?

それは駄犬の言う、

"蓮祖の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" との文言からすれば

”日興上人の仰せなどハナから舐め切っておるね。(^o^) オシマイだよ。(^o^)" と自らを罵倒することにならないか?

ならば、「重宝」がなければ日興上人の仰せを守れない、→つまり、正しくない。ということにならないか。

また逆に、日興上人の仰せを厳守できる「重宝」を厳護する大石寺はまさに「正しい」という道理にならないか?

 

追加

 

更に、重宝の中の重宝、秘法中の秘法こそ、まさに戒壇の大御本尊である。

重宝云々と言っても、戒壇の大御本尊の存在に尽きるのである。

その戒壇の大御本尊を伝持されていない創価学会などは、広宣流布の暁に建立せねばならない「本門寺の本堂の事の戒壇」の更に中央須弥壇に一体何を安置できるのか?

駄犬が「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と問うその底意は、「創価学会こそが正しい」と主張したいのであり、そのこと自体は戒壇の大御本尊の一事を以って、既に打ち砕かれている。

正しい・正しくない、でいったら、まさにこの一事に尽きるのであり、戒壇の大御本尊が御相伝される大石寺は最強の現証としてまさに"正しい"のであり、戒壇の大御本尊の相伝のない創価学会などはまさに"正しくない=邪な団体"、ということ明白なのである。

 

■道理・証文、現証に如かず

 

である。

 

更にまた、「重宝を所持する大石寺が正しい、と言える文証は?」と執拗に偏執的に問う、道理が理解できない愚癡の駄犬には、

反詰して曰く、「では重宝が伝持・相伝されていることが正しくない、とする文証を挙げてみよ」となり、また更に踏み込んで「創価学会が正しい、ということを大聖人・日興上人の文証のみでそのものズバリで挙げてみよ」ということにあるのである。

大聖人の反駁の方程式をそのまま準えさせていただけばかくのごとくとなり、駄犬の妄執・妄難など一撃である。

 

さ、以上に対して全てに明晰に反駁してごらん?

もちろん、できなければ公式に謝罪し、脱会したまえ。

貴公は「やまいぬ。」などというふざけ切ったHNであるが当方は実名である。

今までの貴公からの投稿内に相当量、名誉毀損に該当する内容が含まれている。

教義的論争において反論不能状態になった上は、この無礼に対しては相応の反省・謝罪をすべきであろう。

 

(※注 最近(2007.5.8現在)は根拠のない事実無根の憶測による中傷内容が多々見られるが、教義的に反論不能に陥った者どもの常の哀れな姿ではあるが、執拗に繰り返した場合は看過できない。

法的処置も視野に入れて対応するかもしれないので、その点、十分に留意して投稿したまえ)

 

もし必要とあらば貴公個人を特定することなど、そう難解なことではない。

心して、責任ある返答をしたまえよ。 ※

―――――――――――

●何度もその謗法の害毒で破戒されきった頭に教え込むが、「仏法と申すは道理なり」で、「道理」が分からない者こそ、正しい仏道修行をしていない証左なのである。

やまいぬ。君の野卑で理性を欠け切った言動がそのまま謗法による人格破壊の良き(悪き)現証そのものである。

やまいぬ。君当人には自らの人格破壊の現証は当然意識できるものではないだろうが、この双方の投稿のほぼ全文は末永くHP上で閲覧できるよう保存されるので、世の有識具眼の方々が「正しい」宗教を選択する資料として大いに参考にして頂こうではないか。 【修正再掲以上】

―――――――――――

→ではやまいぬ。君、"お勤め"から帰ったら、頑張って以上の宿題に取り組みなさいね。

ご苦労さん。呵々大笑

 

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