やまいぬ。君の駄問を完摧す。76  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)15時19分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

3、駄犬のいう、その「蓮祖・興師の文証出さんか。」の「蓮祖の文証」に、以下の如く、大聖人が 口伝・相承・相伝 等によって深義を伝持された証拠があり、大聖人の御法門の全てが、御書の御文の上に顕れている訳ではないのである。

こうした明白な「蓮祖の文証」があるにも拘らず、何かといえば、「蓮祖・興師の文証出さんか。」と吼えまくる駄犬は、自己矛盾極まったり であり、やはり、どこか精神的に異常をきたしているといえよう。

まさにニセ本尊の猛毒その脳髄に染み込んで正常な判断ができない偏頗な人格が形成されている証左である。

 

■寿量品文底大事

 問うて云はく、開目抄の上に云はく「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣如何。

 仰せに云はく、当流の相伝惟に谷まれり。口外すべからずと雖も末代の為に一筆之を残さん、

 

■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。

 

■秘すべし秘すべし、口外も詮無し。

 

■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし

 

■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。

 

■相承の意を相伝せんが為なり

 

■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。

 

■日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。

 

■此の義は最上の難の義なり。口伝に在り

 

■口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。

 

■此に口伝有り。

 

■よくよく口伝あるべし。

 

■口伝を以て之を伝へん。

 

■口伝すべし。

 

■上行菩薩結要付嘱口伝

 

■日文字の口伝、産湯の口決

 

■本尊七箇の口伝

 

■就註法華経口伝〔御義口伝〕

 

■不動明王の尊形と口伝せり。

 

■四弘誓願をば一文に口伝せり。

 

■師に依らずして相承を失ふべし。

 

■根本大師の御相承ありげに候。

 

■筆受の相承

 

■日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。

 

■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。

 

■日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。

 

■当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。

 

■天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。

 

■当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、

 

■日蓮相承の法門血脈、慥かに之を註し奉る。

 

■此等は相承の法門なるべし。

 

■日蓮が己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。

 

■今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。

 

■当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門

 

■日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

 

■三諦三観の口決相承と意同じ

 

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。77  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)16時11分6秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

4、 3、で明示した口伝・相伝・相承の極まった形のものが唯授一人・血脈相承である。

 

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

 

■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

 

この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が御自らの全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことはまた

 

釈尊

→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)

→日興上人

 

という基本形を示し、これはつまりは、

 

御先師

→御当代

→次期御法主

 

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

 

それは、

■「血脈の次第」の

【次第】には=物事が行われる際の一定の順序。

 

という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず

「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」

とお決めになるという道理である。

 

このことはまた次の御文からも領解できるのである。(ニセ本尊で正常な思考を破戒された駄犬らには無理であろうが。)

 

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す』

 

上記の「次第」とこの御文の御心とあわせよくよく拝すれば

ただ唯授一人・血脈相承は日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。

つまり、大聖人の仏宝法宝は必ず■「僧によりて住す」つまり、必ず次から次の法嗣の方へとの次第によって流伝→久住 していくのである。

 

そこに

■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」

の御文のごとくの意義が拝せられ、

仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。

 

であるから、御書の表に顕然でない、相伝・口伝・相承の類のその枢要は御歴代上人のみしか知り得ないのであり、御書の御文のみで大聖人の仏法の全てを知ることは不可能なのである。

つまりは、御歴代上人の御指南は全て"御文証"である。

 

■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

 

■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

 

【池田大作指導】(百六箇抄講義)

本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

 

かくのごとくである。

 

それを、常にヨダレを撒き散らしながら「蓮祖・興師の文証出さんか。」と、偏頗な恥言に拘泥するざまは、その「蓮祖・興師」の御聖意にも叶わない、程遠い邪見であり、愚見の見本である。

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。78  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 6日(水)18時57分5秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

5、以下は池田大作せんせ〜〜監修・仏哲からである。

これを見れば、かつてのまだ正しい教義(全分ではないにしても)を普及していた頃の創価学会の相伝・相承観が明白である。

 

教義的な事項を扱う普遍妥当性を要求される「辞典」において論述された主張は、その教義的な内容を覆すに足る歴史的発見等がない限り改変できる根拠を持たない。

もし、現時で以下の論述に反する主張をするならば、それなりの教義的裏付けをもった反証が必要である。

もしそれができず、尚且つ、下記の主張に反駁するならば、それはただ、かつての正しい"信仰心"を失った、つまり"退転"しただけに過ぎない。

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【唯受一人の相承】抜粋

 

 総付属に対する別付属であり、血脈相承のことをいう。

★師よりただ一人の弟子を大導師と定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。

仏法上の肝要である。★

(中略)日蓮大聖人は身延相承書において「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す......血脈の次第 日蓮日興」とお認めのごとく日興上人ただ一人にその所持の大法を相承している。

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【血脈相承】

 

★仏法は、三世にわたって、一切衆生を救うべき大法であるから、血脈相承の付属が大原則であり、清純に後世へ伝弘されていくのである。

仏法を流通するには師匠から弟子への、唯授一人の血脈相承によるのである。★

 

★日蓮正宗の法門は、日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日日上人へと、その後、代々と相承され、法燈連綿として、七百有余年間、広宣流布、王仏冥合の時を待ちつつ、清らかに伝授され、血脈相承されているのである。★

 

日蓮大聖人はこの血脈相承について、本因妙抄(八七七) に「日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」とあり、

また、御義口伝(七八三) に「秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず」と、

★唯授一人の血脈相承であることは明々白々である。★

 

日蓮大聖人から、二祖日興上人におゆずりなされたことは、身延相承書に「血脈の次第 日蓮日興」とおしたためになっている。

 

血脈相承の大事なことは、立正観抄(五三〇)に「当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり」とある。

 

★相承とは、ゆずった者とゆずられた者がなくてはならない。

仏法の奥義は、あくまでも師弟相対のうえに立っての、唯授一人の血脈相承以外にないのである。★

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そうでん【相伝】

 

師より弟子に法門を伝えること。相続・伝授・直授の意。付属・相承と同義。

★相伝は仏法においては不可欠なものである。★

師資相承(師匠から弟子への相承)血脈相承である。

ただ一人の大導師を定めて、民衆救済の大法を伝授するのである。

(中略)末法においては、末法の大白法たる日蓮大聖人の大仏法は二箇相承に明らかなごとく、日興上人を初めとして

★現在まで、代々六十五人の御法主上人猊下に順々と相伝されているのである。★

このように仏法においては相伝は非常に大切である。顕仏未来記(五〇八頁)に「然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」とある。また一代聖教大意(三九八頁)に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」とある。

ゆえに

★日蓮大聖人の法門は不相伝の徒輩には何も知ることができず、況や功徳を得ることは到底できず、自身木石に等しいのである。★

生死一大事血脈抄(二二三八頁)には「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」とあり、仏法において相伝がいかにだいじであるかを明かしている。

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そうじょう 【相承】

 

相伝、付属と同義。詳しくは血脈相承、師資相承などという。相は相対、承は授承のことであり、師弟相対して、師より弟子へ、ただ一人の大導師を定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。

★このことは仏法上、もっとも大事なことがらであり、★

釈迦は迦葉に、天台は章安に、伝教は義真に、そして日蓮大聖人は日興上人にその所持の大法を相承している。

(中略)なお相承に経巻相承と称するものがある。日蓮大聖入滅後百年ごろ、顕本法華宗を開いた日什が主張したもので、

★後世の者が経巻をよんで師の真意を悟り、付属を受けたと自称するものである。これはまったくの誤りで、経巻から思い思い学んでいくうちにいろいろな解釈や主張の乱れを生ずるので、そこで仏の意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。★

経典に文証もないのに、ただ「悟った」「譲られた」などと主張するのは、根本的に誤りである。

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ふそうでんけ 【不相伝家】

 

相伝のないもの、付属のないもの。相伝とは師匠より弟子に法門を伝えること。仏法では唯授一人がその原則とされる。

★邪宗邪義はかならず不相伝家よりでているのも仏法の定理より明らかである。★

日蓮大聖入滅後一〇○年頃、日什が出て経巻相承の邪義をたてた。当時直弟子はすでになく、元老の門下はみなそれぞれ己義を構え、いずれが大聖人の正統なのか不明のため、日什門徒等存知す可き事に「大聖の御門弟六門跡、ならびに天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背くところ有るによって同心せざるところなり」とあり、日運記には「中絶の法水を大聖人の御内証より続け奉る可し、これすなわち経巻相承の一分なり」とたてた。この什門流は妙満寺派とも顕本法華宗とも称したが、明治三十年(一八九七年)頃、顕本の学者とうたわれた本多日生が多数の聴衆の前で日蓮正宗の阿部日正上人から経巻相承を破折された史実がある。

(中略)

★日蓮大聖人の正義は相伝がなければわからないのである。★

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以上、池田センセ~~も、大聖人の仏法は相伝に依ってしか分からないと繰り返し断言しているのである。

であるから、以上1〜5までの論証に依って、駄犬がヨダレまみれで吼える「蓮祖・興師の文証出さんか」との大聖人・日興上人にのみに対しての固執は、全く無意味な偏執であって、相手をするべき要求ではない。

 

また、この仏哲が著された時から今までに、何か従来の御書の内容を否定するような御文でも発見されたのだろうか。

そんな事実はないのであって、この時期、日蓮正宗の信仰を(辛うじて)全うしていた創価学会の教義的な主張を覆す正統な根拠など皆無なのである。

あるというのなら、駄犬やまいぬ。君、「蓮祖・興師の文証出してみよ」できなければ、やはり、公式に謝罪して脱会コース。

さ、頑張れ。

因みに駄犬は、都合の悪い箇所は全く頬被りしてしらばっくれる悪癖があるようであるから、自分勝手にただヨダレ垂れ流しながら吼えているだけでなく、きちんと反駁してみたまえ。

まっ、できれば、の話だが。

がしかし、できなければやはり謝罪&脱会 であろう?(-。-)y-゜゜゜

 

では、次回からお待ちかねの駄犬の取って置きの恥論摧破と進みましょうか。