> 一昨日の足掛け14時間、昨日の午前中から深夜まで、今日は遂に朝の7時台からこの必死の

> 書き込み。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 次に10時前、11時台、等々。

> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間ではないか。(^o^)

> しかも最後は23時台かね?(^o^)

> 止めようのない無慚な修羅で燃え立って、仕事そっちのけで焼かれておる惨状、

> 見るに忍びないね。(^o^)

 

●ここも、一言。世の中には雇用する側と雇用される側がある。

雇用される側の論理で雇用する側の行動原理は理解できまい。

貴公の想像を超える世界なのだよ。

 

更に、こういう教義的な内容と全く関係ないことで懸命に相手を貶めようとするところも、創価学会員の大きな特徴である。

自分が一撃で倒されていることをはぐらかす為に、「あいつ、俺と比べて練習時間がたくさんあるから、卑怯っすよね?ね?」と、上記と同様、周りの同意を求めている空寂しい醜態である。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

やまいぬ。君の駄問を完摧す。51  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)10時54分25秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

そうそう、更に、もう一点。

やまいぬ。君は自分の能力や境涯で他人の状態を邪推する、極めて視野狭窄な痴れ者である。

当方の投稿の時間と回数に随分と御執心のようだが、終日駄犬の粉砕文を書いている訳でもない。

投稿と投稿の合間には信心も仕事もこなしているのである。

ここなども、やはり時間から時間まで拘束されて働かなくてはならない被雇用者の思考習性の悲しい性が露呈したといえよう。

しかも、駄犬程度の破折文をものするに、さほどの時間は必要ない。

実に快調に書き綴っているのである。

自身が辛苦呻吟して、ない邪知を搾り出して、毎回投稿している低境涯と同様に考えていただいては少々迷惑である。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

追記

 

当方は別に臭犬から“借金”している訳でもなく、臭犬から当方の仕事振りを云々される謂れはない。

臭犬は、自分が仕事中で書けない合間に、当方がどんどん破折文をアップすることが耐えられないのであろう。

そこに何とかブレーキをかけたいが為に懸命に揶揄して、当方が投稿するのを躊躇させようと必死なのである。

自分がアップし、何でもいいからがむしゃらに悪態さえ吐いていればそれで反論しているように見えるし、少しは体面も保てる。が、その悪態を吐く時間まで、当方の破折文が衆人の目に触れる事を恐怖しているのであろう。

哀れな負け犬である。

 

臭犬こそそんなに仕事頑張っているのなら“社会に実証”を示しているのだろうから、今度、お互いの所得証明書でも発表して比較して見ないか?

まっ、“絶対無理だし。”呵々大笑

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

やまいぬ。君の駄問を完摧す。54  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月10日(金)11時50分3秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「仕事もまた信心」と捉えて、真剣勝負で全力で闘いなさいとの意だ。

> 朝7時台にはじまって、次に10時前、11時台、等々。

> 夜間の仕事でもない限り、フツーの人間のバリバリの仕事時間だ。(^o^)

> いいかね? 周囲にバレるか否かではないのだよ。少なくとも民間企業のトップがこんな

> おちゃらけた仕事振りで、どうして長く発展などするかね? 坊や自身、よほどの馬鹿で

> なければ、客観的に考えればそれくらいのことは解かるだろう。

> だから云ってやった。「長くはない」と。

> 坊やが挙げた通り、

> >■「仏法と申すは道理なり。」

> >道理が分からない、ということは既に正しい仏法を行じていない証拠なのである。

> の姿そのものだよ。(^o^) 自分の言葉で自己否定してどうするのだね、坊や?(^o^)

 

●どうも、というか、やはりというか、当方が引文した御文の御意が理解できなかったようである。

当然予測していたが。

ここは、教義的に少々複雑な内容となるので詳細にいきますか。

まず、破折文の再掲。

 

『●駄犬は御書で仰せのある一面のみしか見ていないが故に、斯様な浅見に陥るのである。

 

では以下の御文との整合性はどうとるのか?

まずは、その言い訳が見ものである。

といっても、もはや反論できるだけの気力も知力も失せたか?(-。-)y-゜゜゜

今ではただ口汚く、既に破折され切っていることを馬鹿の一つ覚え状態で吼えているだけの醜態を晒しているだけである。

 

■或時(あるとき)は人に生まれて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成りて、「是程のたのしみなし」と思ひ、少なきを得て足りぬと思ひ悦びあへり。是を仏は「夢の中のさか(栄)へまぼろしのたのしみなり、唯法華経を持ち奉り速やかに仏になるべし」と説き給へり。主師親御書

 

■願はくは一切の道俗(どうぞく)、一時の世事を止めて永劫(えいごう)の善苗(ぜんみょう)を種(う)ゑよ。守護国家論

 

■今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり。聖愚問答抄

 

■生涯幾くならず。一夜の仮の宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼に遮り耳にみてり。持妙法華問答抄

 

■寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。

持妙法華問答抄

 

■悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳未だ無常を免れず。?利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。

 

■誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。

 

■いづくも定めなし。仏になる事こそつゐ(終)のすみか(栖)にては候へとをも(思)ひ切らせ給ふべし。

 

■いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思ふめ(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしヽとをぼすとも死しては他人の物、すでにさか(栄)へて年久し、すこしも惜(お)しむ事なかれ。

 

■涅槃経に云はく「人命の停(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)存(そん)すと雖も明日保(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀羅(せんだら)の羊を駈(か)って屠家(とか)に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、猶(なお)火宅の如し。衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし」等云云。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。然りと雖も須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を発(お)こさず、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ(飾)らんがために、いとまを入れ衣を重(かさ)ねんとはげ(励)む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、塵(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと(跡)もみへずなるべき身を養(やしな)はんとて多くの財(たから)をたくは(貯)ふ。松野殿御返事

 

■地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からん」と願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。

 

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとを

もう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。

 

少し、難しい課題だが、頑張れよ。(-。-)y-゜゜゜ 』以上。

 

→やはり、御文だけでは理解できないようである。

以前当方と一戦を交えた創価学会員の中には、御文を挙げればそれで自身がどう破折されるか既に先を読んで、沈黙するか、話題を変えたりした者もおり、それなりに楽しかったものだが、この駄犬はどうもそのような二手・三手先を読む知性は持ち合わせていないようである。

実に世話が焼けるが、ある意味、"一般向けのサンプル"としては有用かも知れない。

ではいきますか。

この

■「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」 とは此なり。 かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。」

との御文を以って、「ただ仕事を懸命にこなすことをそのまま「法華経」の修行である。」と浅薄に捉えるところに錯誤があるのである。

もしそのように捉えると、上掲の御文の御心と大きな矛盾を生じてしまう。(詳細は略す)

 

この御書の全文をよくよく拝すれば、それは駄犬らが捉えるような軽薄な意味ではないことが知れるのである。

短い御書なのでまずは全文掲載させていただこう。

 

    檀越某御返事   弘安元年四月一一日  五七歳

 御文(おんふみ)うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。

 日蓮流罪して先々(さきざき)にわざわいども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば用ひて候はんには百千万億倍のさいわ(幸)いなり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山(せっせん)童子の跡ををひ、不軽(ふきょう)菩薩の身になり候はん。いたずらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。をいじに(老死)ヽや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はヾや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかひ、今度心み候ばや。事々さてをき候ぬ。各々の御身の事は此より申しはからうべし。さでをはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給ふにては候らめ。あなかしこあなかしこ。

 御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背(いはい)せず」は此なり。かへすがへす御文の心こそをもいやられ候へ。恐々謹言。

 四月十一日               日 蓮 花押

 

まず、大聖人様へある俗弟子の方がお手紙を差し上げた。その御返答が当御書である。

このある檀越の方には何か、のっぴきならない、切羽詰った問題が発生していたことが御文から拝される。

そこで、ここでは大聖人様が御自らの御難について仰せになられ、法華経故の難に遭ってこそ生死の縛を離れられるのであり、このことこそが今生の人界に生を受けた者の本当の意義ある生き方である。と御身に準えて御教示下さるのである。

その御意は上掲の全ての御文と同義であらせられる。

その上で、そのような法華経流布の為に一身を投げ打って難に遭う姿そのものがそのまま四六時中法華経を行じている行体であることを仰せ下さり、ここに末法での法華経の信心の心構えを暗に御教示なされ、その決意を促されておられる、と拝するのである。

そのような決意、心構えを心中深く抱いて、その上で今の自分の仕事に取り組むとき、その仕事に拘束されている時間全部も法華経を修行していることに為るのである、とお示し下さっているのである。

であるから、その全体の流れを見ずにただ「仕事に精を出すのが法華経の修行だ」などと浅はかに怪釈することは全く御聖意に通じてない浅識なのである。

 

因みに当方が目指す姿勢は、

■仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。

であり、この中の「国主等」の御言葉の中に先ほどの「御みやづかい(仕官)」が含まれることは当然である。

 

さ、やまいぬ。君、駄犬なりに精一杯頭使って、以上の論証に反駁を試みたらいかがか?

もし、それが出来ないならば、自分の浅識謗法によって当方を故無く誹謗中傷したのであるから、当然、公式に謝罪し脱会するのが筋であろう?

さ、頑張りたまえ。

当方は姑息な「期限」など設定しないから、安心して反論文を書きたまえ。

貴公の足掻き振りは貴公の浅はかな心根が手に取るように分かり易く、実にいい標本採取となるので、楽しみなのである。(-。-)y-゜゜゜