やまいぬ。君の駄問を完摧す。111  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月10日(日)23時35分57秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

先に、以下の開眼に対しての邪難を粉砕しておこう。

―――――――――――

> >正統な草木成仏の"開眼"の義が全くない。

 

> まだこんなこと云ってるよ、坊や。(^o^)

>

> 「笑止な日顕宗の難癖

> すべての御本尊を法主が「開眼」「許可」は真っ赤なウソ

>

> 「すべての御本尊下附は血脈付法の御法主上人によって御開眼され、総本山より

> 下附されてきた」(平成五年九月七日「宗門文書」)

> 「御形木御本尊については、一体ごとの表具が行われる前に、すべて、総本山で

> 御法主上人猊下が開眼の御祈念をしておられる」(同年十月一日付「慧妙」)

>

> −−。日顕宗では、学会による御本尊授与には、法義的には何も言えないために、

> 法主の「許可」「開眼」がない、と必死になって強弁している。しかし宗門の御本尊

> 授与の歴史を検証すれば、“すべての御本尊”を法主が許可、開眼し、総本山から

> 下付されてきたとは、真っ赤なウソである。これは明白である。つまり、御本尊の功徳は、

> 法主の許可、開眼とは無関係なのである。宗内僧侶の情報を総合すると、昭和初期から

> 現在に至る御本尊授与の実態は次のようになる。これにより、日顕宗のウソは明白である。

>

>  ●昭和初期

> ・ 戦前戦後を通じ、東京周辺の大寺院を主体に、例えば妙光寺は五十五世日布上人、

> 法道院は五十六世日応上人、常在寺は五十七世日正上人など、各末寺から有縁の

> 法主の御形木御本尊が授与されてきた。

> ・ 遠隔地の信徒の場合、御本尊の印刷された和紙がそのまま授与され、信徒が自分で

> 表具店に出し、表装する場合もあった。

>

>  ●昭和30年代前半/日淳上人時代

>  ・東京・豊島区の法道院にある「大日蓮」で日寛上人御筆の御本尊を印刷。

> ・ 付き合いのある表具店を持つ末寺は表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚

> 一束で法道院から購入し、表装に出していた。

> ・ 専属の表具店をもたない末寺では、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの

> 御本尊を発送してもらっていた。

>

>  ●昭和30年代後半/日達上人時代

> ・ 法道院の「大日蓮」で印刷された日寛上人御筆の御本尊を法道院が表具店に出し、

> 表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。

>

>  ●昭和40年代〜54年/日達上人時代

>  ・日達上人御筆の御本尊を法道院で印刷。

>  ・法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊が法道院から各末寺へ発送されていた。

>

>  ●昭和54年以降/日顕時代

> ・ 本山に御本尊を取り扱う内事部第三課が設置されてからは、富士宮市内のK印刷が

> 日顕筆の御本尊を印刷。

> ・ 印刷会社から第三課に届けられた御本尊は、第三課の僧侶が印刷の状態と枚数を

> 点検、印刷状態の悪いものを破棄。

>  ・その後、群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。

>  ・表装された御本尊は、再び第三課に送り戻され、納品される。

> ・ 第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換え、末寺の入金に応じて、宅配便で

> 配送していた。

>

>  これらの実態は、長年宗門にいた多くの僧侶が認めている。

>  第三課に勤めていた複数の僧侶も「御形木御本尊の場合、表具の前にも後にも、日顕が

> 祈念などすることは一度もありませんでした」と証言している。

>  これらの実態からも明らかなように、本山で、法主がすべての御本尊を「開眼」していた

> というのは、真っ赤なウソなのである。」

>

> 反論してもらおうか、坊や。(^o^)

―――――――――――

1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。

裁判の例を挙げるまでもなく、

 

「宗内僧侶の情報を総合すると・・・」

「長年宗門にいた多くの僧侶が認めている」

「第三課に勤めていた複数の僧侶も・・・証言している」

 

などという、どこの誰かも解らぬ者たちの「証言」などという曖昧な根拠で、その「証言」そのものが「証拠」として採用される道理などない。

立場の明確でないものが「ああ言った」「こう言った」などということなど、所詮、何とでも捏造できるものである。

 

「明示してもらおうか、坊や。(^o^)」呵々大笑

―――――――――――

2、その上で、教義的にも破折しておく。

 

T 総本山大石寺とその末寺という本末関係が根本に於いて存在するところに、御法主上人の許認可の下に行われることであれば、何ら問題はないのである。

 

■大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。(第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁・H9.10)

―――――――――――

U 「開眼」の義に関する深い御指南

 

@開眼の義に於いての時間的空間的迷妄を破す。

 

■総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。

-----------------------

ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。

つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は成り立つのである。

その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

 

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

 

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

 

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

 

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。

―――――――――――

A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。

 

■但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)

 

→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。

師の命によって行うところに、その弟子分であられる御住職に血脈が流れ通い、開眼の意義が生まれるのである。

しかしまた、開眼の根本的意義は御法主上人による本山における祈念にあることは上記の御指南において明白である。

 

さ、「反論してもらおうか、坊や。(^o^)」 呵々大笑

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

> >1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、

> まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。

>

> 何を云っておるのだ、樋田昌志くん?

> 法道院の件など、坊やのとこの坊主が自ら発言しておるではないか。(^o^)

>

> http://jagihashaku.main.jp/matsuoka02/004.htm

―――――――――――

→ すり替え、捏造をこととする根性劣悪な駄犬は、ただ、目の前の一事一事にとにかく反論したいと足掻くが故に、全体の文意を全く見失っている、まことに愚かな者である。

こういうところにも、ニセ本尊の害毒が顕著である。

 

駄犬が示した、箇所とは以下の部分であろう。(便義の為に記号を加えた)

 

 

松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言を破す

4 法主による本尊の開眼と許可について≠破す

 

にある、以下の部分

 

 

 

日顕上人御指南

■「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について「開眼がない」と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります。」(創価学会の偽造本尊義を破す六二頁)

 

とあるように、ここで仰せの意味は、以前、法道院では、当時の日達上人の御命によって法道院主管であった観妙院日慈上人が御形木御本尊のお取り次ぎをなされ、全国の寺院に送付していたことについて、これは正式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていたのであるから、なんら総本山の正しい化儀に反してはいない、との御指南なのである。しかもこの御指南は

▼法道院から下附されていた御形木御本尊には開眼がない

との疑難に対して破折された箇所であり、むしろ開眼があったことについての御指南なのである。したがって一連の御指南において、

▼形木本尊には開眼の必要がない

などとはまったくいわれておらず、汝の歪んだ先入観による臆断であると言わざるを得ない。

 

 また

▼法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか

などとは、またまた汝の事実誤認である。日顕上人が仰せのように、御形木御本尊の御開眼は丑寅勤行において厳然となされているのであり、

▼許可のみで法魂が宿る≠ネどとは汝の臆測による愚問である。

 いっておくが、御法主上人による開眼の御祈念は、汝のような謗法者の想像に及ぶものではない。日應上人が、

■「此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(弁惑観心抄二一二頁)

■「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり(『法の道』・研教二七―四七四頁)

と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝」を御所持なされるお立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。

 また付言すれば、先述のごとく、過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではないのである。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。

―――――――――――

さて、馬鹿もここまで来ると、やはりお笑いである。

 

この段の痴難の趣意は、「開眼は不要。何故なら、上記のような末寺が開眼をせずして直接御本尊を下付していた事実があるからである」ということであろう。

 

@駄犬は自ら開眼の不用性を主張しながら、その痴難を粉砕する文を示すアドレスを掲載するとは。

全く、頭破七分の現証そのものである。こういう、自分が一体何をしているのか解っていない という狂態は、極悪謗法者ながら哀れを誘う。

■仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。

との御指南の通りに、駄犬は実生活でも、かくのごとくの惑乱振りを遺憾なく発揮し、以って周囲の方々から忌み嫌われていることであろう。

そして、常に"瞋"を強くして、"瞋"の生命に囚われて生きている・・・まことに哀れな者である。

これまさにニセ本尊の害毒である。心ある者には注視すべき"症状"である。

 

A上記の内容は、痴難文の★1『〜』についてだけ触れているだけで、他の全ての事案については、未だ全く立証が為されていない。

しかも、前述した通り、★1の件に関してでも、「開眼」の深義については全く否定されていない、むしろ、開眼の義を不審する者への痛烈な破折である。結論としては、駄犬の邪難を根底から突き崩している。駄犬、何を血迷ったか、自分の立論を態々崩す内容論文を引文しているのである。実に馬鹿丸出し。である。呵々大笑

 

であるから、★1以外の他の案件全てに対して以下の呵責は依然有効であり、駄犬は、苦し紛れに日顕上人の御指南を持ち出してきても、駄犬が邪難する「証拠」の真実性の立証すらまだ出来ていない。

毎日のお仕事でお疲れのところまことに申し訳ないが、やり直しである。呵々大笑

―――――――――――

1、これを論ずる前提として、この文献を「証拠」として提示するのであれば、まず、「証言者」の「住所」「氏名」「立場」等を明確にせよ。

裁判の例を挙げるまでもなく、

 

「宗内僧侶の情報を総合すると・・・」

「長年宗門にいた多くの僧侶が認めている」

「第三課に勤めていた複数の僧侶も・・・証言している」

 

などという、どこの誰かも解らぬ者たちの「証言」などという曖昧な根拠で、その「証言」そのものが「証拠」として採用される道理などない。

立場の明確でないものが「ああ言った」「こう言った」などということなど、所詮、何とでも捏造できるものである。

 

「明示してもらおうか、坊や。(^o^)」呵々大笑

 

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。126  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月16日(土)10時39分23秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、今日も始めますか。

―――――――――――

> ちなみに坊やが「文証」のつもりで挙げたものな、4つともどこにも、「法主の題目」

> などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)

> 坊や、アタマは大丈夫かね? というか、もう相当壊れておるね。(^o^)

―――――――――――

→ここも、125段 で駄犬の醜悪な迷妄を劈いたのと同様の「道理を理解できない者が文証!文証!」と騒ぐ、

 

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

 

そのままの醜態である。

 

以下の御文■が、

 

●開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人・血脈相承の御境界

> >よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を

> >超えて御法魂が具わることを仰せになられているのである。

> >つまり、客殿の御宝前に一切の御本尊がお供えされていなくとも、「開眼」の義は

> >成り立つのである。

> >その原理の一端を以下の御文に依っても窺い知る事ができる。

 

として、引文させていただいた御文である。

 

■題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし(『御講聞書』)

 

■一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。

 

■「当に知るべし身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」

 

■円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。

 

以上は、総じての辺に於いては、戒壇の大御本尊を身口意の三業相応して深く尊信する日蓮正宗の僧俗全ての方々に感得し得る功徳と境涯である。

ここでの意義は、戒壇の大御本尊を中心・根本としたところの正当な事の一念三千の唱題の功徳は、時間・空間を超越して法界全体に遍く、ということである。

その原理はこの同じ法界に住しておられる御法主上人に於いても適応せられることは当然の道理である。

であるから、この世でただお一人、御法主上人しか知り得ない「御開眼」の義に於いても、この原理は適応せられていると拝するのである。(開眼についての駄犬の再度の痴難は当該箇所で粉砕する)

しかし、確かに我々御法主上人以外の全ての者は、そのことそのものを知ることはできない。しかし、道理の指し示すところ明白であるから深く尊信するのである。

 

以上の如くの道理詳らかであるにも拘らず、

 

▼『4つともどこにも、「法主の題目」などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)』

 

などと以下の御文の如くに「文」や「語」に拘泥して、吼え喚く駄犬は、仏法を学ぶ者の基本姿勢さえ既に亡失し果てているのである。

 

■義に依って語に依らざれ

 

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

 

まさに、戒壇の大御本尊への信仰から退転し、ニセ本尊などを拝んでいるが故に、口でいくら「南無妙法蓮華経」を唱えても、もはやそれは「大聖人の仏法」ではなく、ただの謗法者の呪文に過ぎない、が故に、斯様に御仏の御指南から大きくずれて正反対の言動となるのである。

まさに、世に数多存在する「邪宗日蓮宗系教団」と同類である。

 

更に駄犬の妄執振りをもう一刺し呵責しておこう。

 

編集し再掲する。

―――――――――――

●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。

 

■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。

 

この御文はまさに、駄犬のような愚悪な"癡人"を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。

 

愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。

「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」

あるいは、

「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」

このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)

まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。

 

これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。

 

御文において、道理として、開眼の原理原則を詳らかにお示しであるにも拘らず、また、それは、他の御文と併せ拝すれば、大聖人様が開眼の義をも含めて一切の奥義を次の御法主上人へ「口伝・相伝・相承」されているいることは明白であるにも拘らず、一片の御文に▼『「法主の題目」などとは一言も書かれておらぬわ。(^o^)』だとして「文」や「語」に囚われて信じることが出来ない駄犬のような愚者は、この御文で呵責せられているが如くの、まさに"癡人"=謗法の害毒深くして、三毒強盛となり、「癡」が増し膨れ上がり、道理が全く理解できない者。"一闡提人""生き盲"である。

 

(この呵責の初出での詳細は http://toyoda.tv/yamainu2.htm 49段 にあります。

読者におかれては参考にして下さい。)

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。127  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)00時46分10秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

またもや浅薄な駄犬の愚解を詳細に粉砕していきますか。

―――――――――――

> >A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。

>

> >但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、

> >法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて

> >かへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)

> >→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。

>

> 坊や――相変わらず文証の出し方が出鱈目やなぁ?(^o^)

> いいかね坊や、眼は見えておるね?(^o^)

> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて

> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?

> (^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 笑いが止まらんなぁ、坊や?(^o^) 相当アタマがイカレてきたな、樋田昌志くん?(^o^)

> それが法華講の信心かね?(^o^) 呵々大笑 (^o^)

 

―――――――――――

→実に愚かしい者である。

 

1、総論

 

駄犬は

@「文」に囚われて「本義」「仏意」が見えないだけである。

あるいはまた、

A一往、附文・再往、元意による読み分けを知らない、あるいはできない、それだけ愚者なだけである。

そういう低級者が生意気に仏法を騙るから矛盾だらけで苦しくなるのである。

まっ、ニセ本尊を「魔札」と見抜けずに頭破七分が益々進むのもわからず有り難がって拝んでいるのであるから斯様な愚者でも無理もない。

 

@→駄犬は 経文=仏の説 を 文→義→意 と読むことで仏法を領解していく筋道が全く理解できていない痴者である。

大聖人様は講説・著述されるにあたっては以下のように「文」「義」「意」を説き分けておられる。

であるから大聖人の御文を読み解く場合は「文」→「義」→「意」へと通じる拝し方をしないと、駄犬の途方もない誤読となるのである。

 

■或は文を陰して義を取り、或は義を陰して文を取り、或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。

 

駄犬は以下のような邪僧どもと同類である。

 

■「像法決疑経に云はく「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随って義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」

―――――――――――

A→附文・元意 あるいは一往・再往

 

■附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり。

 

との如く、附文の辺にのみ囚われると、元意の辺が読み解けなくなる。

駄犬は幼稚の上にいよいよ癡かである故に、この@Aの誤りを常に犯しているのである。

つまり、 大謗法の上に馬鹿者  である。

―――――――――――

2、詳論

 

@ 真間釈迦仏御供養逐状 は  文永七年九月二六日  四九歳御作 であり、当然の如く佐前の御文であるから、佐後から開会して拝さなくては大聖人様の御真意を領することはできない。

 

■「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。」

 

つまり、「真間釈迦仏御供養逐状」は大聖人様の"方便の教え"である。

 

A大聖人御在世当時は、三秘顕現の草創期であるから、権宗の習気の機根も未だ多く、富木殿も大聖人から賜った他の御書を拝しても法門の領解に於いては未だ浅いものがあったことが理解できる。

であるから、

 

■釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。

 

と、富木殿の機根に合わせられ、権実相対の辺に於ける化儀の範疇を一往善巧方便として暫時容認せられるのである。

大聖人様が三大秘法の本義より「釈迦仏御造立」へ対して「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と根本的普遍的化儀として思われるはずがないのである。

それは、以下の

 

■いつぞや大黒を供養して候ひし、 云々

 

との仰せからも理解できるところである。大聖人様が「大黒」を三秘の本義から根本的化儀として供養される道理はない。

やはり、富木殿へ対しての暫時一往の善巧方便である。

 

B開眼について。

 

当該文

 

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

 

ここでは、「釈迦仏造立に際して、大聖人自ら開眼に行きたかったが、諸々の御事情があって直ぐには行けないので、弟子の伊予房を遣わし、大聖人の代理者として「開眼」を為さしめる。」という趣意である。

 

→1 ここでは■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」また■「いそぎいそぎ・・・はたしまいらせさせ給ひ候へ」と仰せであるから、大聖人は開眼の義そのものは重要な儀式とお考えになられていたことが拝せられる。

 

→2 大聖人自らが■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と仰せであるから、「釈迦像」を「本尊」としてお考えであったことが拝せられる。

しかし、「釈迦像」は暫時の方便、一往の辺であり、再往、佐後の御法門から開会して「本尊」との意義を拝するれば、まさに「曼荼羅御本尊」の御事である。

 

→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。

 

→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。

 

→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も同様に行われなければならない重要な儀である。

 

→6 であるからこの「開眼」の義に関する御指南は、この義を唯授一人・血脈相承された御歴代上人の文献に多数散見されるである。

 

ここに、読者参考の為に、当該御書全文を挙げさせていただこう。

 

    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳

 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。自身並びに子にあらずばいかんがと存じ候。

 御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がきゝて候。かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし。いつぞや大黒を供養して候ひし、其の後より世間なげかずしておはするか。此の度は大海のしほの満つるがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ。

 九月二十六日                        日蓮花押

進上 富木殿御返事

 

以上、上記駄犬の痴難が如何に浅薄かつ低劣かがよくよく知れるのである。

駄犬は常に何を書いてもその愚悪で醜怪な人間性が益々露呈するのみである。

 

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。130 祝130回!  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月18日(月)21時34分34秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、愚犬の蒙昧な足掻きぶりを更に細かく粉砕していきますか。

―――――――――――

> DATE: 12月14日(木)18時08分8秒

> TITLE: 続き。01

> NAME: やまいぬ。  MAIL:

>

> >2、「蓮祖御図顕本尊」のコピーは、本尊として成り立つか?

 

> >「開眼」がないので魔・鬼の入った札である。

>

> >木画の二像に於ては、云々。

> >画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。云々。

>

> まただ。(^o^) 坊や、不可思議極まるオツムだが、坊やが文証出す時には大抵、

> 自分の主張のなんらの証明にもなっていないのだよ。(^o^)

> 坊やが挙げた文証のどこに、「法主による開眼が必要」などと書かれているのだね?(^o^)

> また「傍証」とか「あるまいか」とか「ではないか」とかかね?(^o^)

―――――――――――

→この項の全文を挙げる。

 

■木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり(『観心本尊抄』)

 

→「木画の二像」を「本尊と為す其の義」は、「天台一家より出でた」ものであり一念三千の法門である。「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」とあるように、草木成仏の原理によって本尊の義が具わるのである。それには以下の御文のごとくに「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(※が)必要である。

 

■画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』御書993)

 

→「草木」(非情)である曼荼羅も「魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事」(開眼)によって「草木成仏」する。

―――――――――――

愚犬、何を書いても、愚昧なこと極まりない。実に浅薄・幼稚である。

―――――――――――

1、大聖人様御在世は、大聖人様御自らが「法主」という立場であられる。

 

■末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧共云はるゝなり。深覚円理名之為仏の故なり。円理とは法華経なり。

 

→この御文は、久遠本因下種の御本仏は末法では凡夫僧の姿で現れた日蓮大聖人様であり、更にその御一身に仏・法・僧の三宝を具しておられる一体三宝義を表示なされた明文と拝するのである。

であるから、大聖人御自らが「僧宝」であり、「法主」であられる。

―――――――――――

2、大聖人=僧宝(一体三宝と拝した時の「僧宝」との意)=法主=法華を心得たる人

 

※1■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

→「法華を心得たる人」が開眼供養しなければその本尊にはやはり鬼神が執り憑く、と仰せである。

では「法華を心得たる人」とは誰か。

 

@「法華」とは御本尊、就中、戒壇の大御本尊の御事である。

(↑の証明は http://toyoda.tv/yamainu2.htm   2 26 38 119 段 等に詳述済み)

→であるから、「法華を心得たる人」 とは御本尊を顕せる方 = 大聖人 である。

 

A「木画の二像」「木絵二像」「画木」等 とは、権実相対に於ける一往、附文の辺では、仏像・画像の本尊であるが、再往、元意の辺では、大聖人御顕示の曼荼羅御本尊のことである。

それは、

「木絵二像開眼の事」の前半に

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

 

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

とあり、この御文をただ表面的な「文」だけで読めば、

「仏像の前に法華経を置けばその仏像は本尊と為る」

また、

「法華経を御仏の心法と心得て、仏像・画像の前で開眼供養すれば仏像・画像がそのまま生きた仏身となり本尊となる」との解釈になってしまい、甚だ不可である。

大聖人様がそのようなことを本仏の真意として仰せに為るはずがないのである。

であるから、木絵の二像 とは 大聖人の御本意の法門、三大秘法から開会して拝せば、まさに「文字曼荼羅御本尊」となるのである。

更に詳細に閲すれば、「木絵二像」の

木像 とは 板曼荼羅

絵像 とは 紙幅の御本尊 と拝せよう。

 

@Aから、※1の御文を会通すれば、

 

御本尊を書き顕せる方=大聖人=当時の御当代「法主」が曼荼羅本尊の開眼供養をしなければ、その曼荼羅本尊には、盗賊のような魔やら、鬼神らが入り込む。

(ただし、大聖人は三宝一体であられるから、大聖人自らが顕された御本尊はそのまま開眼されておられることは自明の理である。)

―――――――――――

3、この「開眼」の義は唯授一人で血脈相承される。

 

その根拠の一端を明かせば、同じく「木絵二像開眼の事」に

 

■一念三千の肝心、草木成仏 云々 とあり、

 

この草木成仏の開眼の義は、一念三千の御法門の「肝心」である、と仰せである。

肝心=最も重要なこと。肝要。

という意であるから、大聖人の御法門の最要深義こそ、唯授一人で口伝・相伝・相承為されているのである。

(唯授一人・血脈相承 に関しては、

http://toyoda.tv/yamainu2.htm の76〜78 に詳述してある。)

 

であるから、開眼の義を唯一領せられる御歴代上人の御指南にのみ、その深義の一端が拝せられるのである。

 

■『本門如来寿量品廿三座』日俊上人

「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三n)

 

■『観心本尊抄文段』日寛上人

「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

 

■『日因上人御消息』

「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

 

■『法之道』日応上人

「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

 

■『日顕上人御講義』

「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。」(偽造本尊義を破す五九n)

―――――――――――

以上、愚犬の痴難など、風の前の塵 である。

因みに、愚犬はもはや無理して理解しようとしなくてもよろしい。

狂人に「汝は狂気である」と幾ら説いても理解できないのと同様で、所詮無理なのである。

むしろ、これを読む多くの方々に、ニセ本尊の猛毒で如何に愚犬の如くの人格破壊・理性溶解が起こるか、それを確認して、創価学会の恐怖性を認識していただくことが重要である。

世には愚犬と同様に人格が崩壊した学会員が多く棲息しているが、愚犬のようにこうして公で恥論をハデに展開してくれる蛮勇を有する学会員はそうは居ないのである。

その点、愚犬はその人格崩壊した"症例"としての使命を果たしてくれているわけであり、実に有り難い存在である。

今後も、大いに足掻いて、恥問を連発して、呵責され尽くされて、自分の使命を全うしてくれたまえ。

いよいよ、強盛に頑張れよ。

応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。131  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)00時21分58秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

愚犬の痴難、次いきますか。

―――――――――――

> 「画木に魂魄と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり」

>

> その通りだよ。「誰の唱題によらないと不可能」など何処にもないのだわ。(^o^)

―――――――――――

→しかし、何をどう書いてきても、愚犬の軽薄な御文の読み方は実に滑稽である。

 

ではまず、この段の当該全文を引文させていただく。

 

■されば※1「画像・木像の仏」の※2「開眼供養」は※3「法華経・天台宗」にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

 

※1 については、前130段で詳述した原理のごとく、四条殿の機及び領解に合わせられ、一往の義として暫時容認された造像のことである。

 

※2 再往、観心から拝するれば、”「本尊」には「開眼供養」が必要である”との仰せである。

 

※3 も、※1と同様、一往の義であり、再往は「大聖人様の三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊と、その戒壇の大御本尊を伝持・相伝する宗派」 ということである。現時に於いては日蓮正宗以外には存在しない。

 

以下を、簡単に通解させていただけば、

「一念三千の法義(一往は天台の一念三千の法理、再往は大聖人様の事の一念三千=戒壇の大御本尊の御事)は、三世間から成り立っている。その中で第三の国土世間のことをいえば、それは草木の世間相である。本尊といってみても、その素材そのもの(一往は仏像・絵像の木材や色彩・紙・布等を仰せであるが、再往は曼荼羅御本尊の紙や木や墨等であることは言うまでもない)は全て元はただの草であり、木である。であるが、この草木(紙や木等)に御仏の御魂を入れる(=開眼)ことができるのは法華経(再往は戒壇の大御本尊)の力である。これは天台大師(再往末法においては日蓮大聖人)の悟り=内証である。この原理は衆生の信心修行に約せば、即身成仏であり、元草木である「本尊」に約せば、草木成仏である。(この草木成仏の義によって「本尊」との意義が生じるのである)」

ということである。

 

@ であるから、この段は、「元草木である曼荼羅が、御仏の御魂の「本尊」としての意義を顕すには「開眼」が必要である。」との趣意であって、主眼は、ここにあるのである。

「誰が開眼供養をすべきか」というところに主題はないのである。

 

A しかし、詳細に御文を拝していけば、

 

※4■天台大師のさとりなり。

 

とあり、これは一義には、一念三千の法理から開眼の義が顕れるのであるから、"天台大師のさとり" との意義がある。

しかし、※5「当該全文や他の御書の御文を併せ拝すれば、開眼の義は「本尊」と為すにはその都度必要なのであり、常に誰かが為さねばならないのである。」

であるから、この※4の仰せは、権実相対の辺に於ける、権経を択んで、法華経を採る意義での仰せであって、末法今時に於いて、天台大師が、そのまま悟り=内証によって曼荼羅本尊が開眼されようはずがない。

では、大聖人御在世に於いて、天台大師の悟りを熟知されている方は誰かと言えば、大聖人以外に居られないのである。

であるから、開眼は大聖人が為される ということである。

では大聖人滅後は誰が為されるか、と言えば、

 

■血脈の次第 日蓮日興

 

とのお立場である、日興上人以外居られない。

では日興上人御遷化後は?と問えば、※5と摘示した如くに、常に誰かがリアルタイムで為されなくては大聖人の御心に反する。

で、誰かと言えば、前130段で論述した如くに、やはり御歴代上人しかおられないのである。

―――――――――――

愚犬の軽薄極まる、痴難など、実に塵芥 程度の軽さである。

もう少し、高度な問難ができぬものか。

実に残念である。

ニセ本尊を拝み続ければ、確かに深い思考能力など消し飛んでいくであろうから、愚犬に期待するのは無理というものか。

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。132  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)13時14分31秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

今日も愚犬の恥言を切り刻んでいきますか。

―――――――――――

> >形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

>

> →邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。

>

> ※1「詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして

> 権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の

> 草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意と成れる

> ゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人木絵

> 二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に

> 鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ

> 鬼をば奪命者といふ」

>

> おいおい、真言破折の文証かね?(^o^)

> しかもこの前段に何と書かれてあるのか、わざと切ったね。(^o^)

―――――――――――

→既に、130 131段で破折してある内容であるが、再度確認していきますか。

 

1、御書の御文は、対機・時期・所対等を深く考慮して拝さなければ、大聖人様の御心を読み誤ることになる。

その原理は以下の御文に依って知れる。

 

■了義・不了義は所対に随って不同なり。(※これは、釈尊の経についてであるが、その原理はそのまま大聖人様の佐前・佐後等、あるいは対機によって説き分けられる全ての御法門にも通じる)

 

■諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。(日寛上人)

 

2、この御書は権実相対を主軸に説かれている。であるから、三大秘法そのものをそのまま御説きになられていない。この場合は、文底秘沈の三大秘法の義から依義判文して拝さなくては大聖人様の御真意を諒することはできない。

 

その証拠とする文証

 

■木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、此の仏は輪王とひとし。十善論と云ふを置けば、帝釈とひとし。出欲論と云ふを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若(ぐうはんにゃ)を置けば、縁覚(えんがく)とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば、菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)経等の仏眼(ぶつげん)、大日の印・真言は、名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。

 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

 

この御文は内外相対→大小相対→権実相対の勝劣の筋目を、経典の高下浅深を十界の境界に即して説かれた箇所であり、その明示されている主意は法華経と爾前権教との相対、つまり権実相対にある。

つまり、本尊義そのものが論の主意ではないのである。

 

3、四条殿の機が未だ、久遠実成の釈尊像への執着が強い時期であったが故に、大聖人様が暫時の善巧方便として、木絵二像=仏像・絵像を面に立てて「開眼」の意義を御教示為されている。

これはこの下種仏法出現の草創期であればこそ未だ対機が熟さないが故に無理からぬ説相である。

 

4、以上の前提に立った上で、※1の当該文は、特に真言宗のみを破折されているのではなく、真言宗を代表として(権)、草木成仏を為し得る唯一の法門、一念三千の法門(実)を盗み取った華厳宗等(権)を含め呵責せられておられるのである。

 

その証拠とする文証

 

■妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶(とも)に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑(まど)はし心を驚かす」云云。華厳の澄観(ちょうかん)が天台の一念三千をぬす(盗)んで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。但し華厳は頓々(とんとん)さき(先)なれば、法華は漸頓(ぜんとん)のち(後)なれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意(こころ)山の如し。然りと雖も一念三千の肝心、草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。然りと雖も法華をも(以)て、或は華厳に同じ、或は大日経に同ず。其の義を論ずるに澄観の見(けん)を出でず。善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)に同ず。詮を以て之を謂はゞ、→当該文※1

 

5、であるから、※1当該文の主意は、「一念三千の肝心、草木成仏の義を知らぬ者ども(権)が、本尊を開眼すれば、魔仏であり、鬼神である。法華を心得たる人(実)=三大秘法の御本尊を書き顕せる人=大聖人が、本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきは、拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。」との御心である。

 

因みに、"敢えて本尊を真言等の邪法で開眼しなければ、そのような悪果報はないであろう、"と考えるのは早計である。

何故ならば、当該文を詳細に見ていくと、以下のように分類される。

 

■法華を心得たる人、木絵二像を★「開眼供養せざれば」、家に主のなきに

1「盗人(ぬすびと)」が入り、」

人の死するに其の身に

2「鬼神」入るが如し。」

 

今真言を以て日本の仏を供養すれば、

※3「鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。」

※4「魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。」

※5「鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。」

※6「魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す。」

 

法華を心得たる人=大聖人(=現時ではこの世で唯一御本尊を書写できる御方=御当代御法主上人) が本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきには ※1=魔 ※2=鬼 となり、※1=魔→※4、※6となり、※2=鬼→※3、※5 となるからである。

つまり、別段邪僧に開眼供養を頼まなくても、本尊を正当な資格者が開眼供養しなければ、邪僧が開眼供養したと同様に、魔が入り、鬼が入り、『拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。』のである。

 

これは、まさに、創価学会が販売しているニセ本尊であり、身延のみやげ掛け軸等である。(その他ありとあらゆる"本尊"と称するもの全てである。)

 

以上の如くに、愚犬の恥言は全く愚かそのものであり、反論としては全く通用しない。

毎日お仕事でお疲れでしょうが、残念ながらやり直しである。

再反論に挑戦したまえ。

諦めず、頑張れよ。

応援しているぞ。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。133  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月19日(火)15時50分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

愚犬、いよいよ迷乱の極みである。

―――――――――――

> 「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の

> 仏なり、草木成仏といへるは是なり」

>

> では心法とは何か?

>

> 「教意と仏意と仏智とは何れも同じ事なり、教は二十八品なり意は題目の五字なり

> 惣じて仏意とは法華経の異名なり、法華経を以て一切経の心法とせり又題目の五字を

> 以て一代説教本迹二門の神とせり、経に云く妙法蓮華経如来寿量品是なり、此の

> 題目の五字を以て三世の諸仏の命根とせりさて諸経の神法華経なりと云う証文は

> 妙法蓮華経方便品と題したる是なり云云。」

>

> 日々真剣に題目を唱え、方便品・寿量品まで読誦して現実に広宣流布に励む学会は

> 上記御聖訓に仰せの通りである。(^o^)

> 坊や、この何処に「法主による開眼」などという言葉があるのかね?(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 坊やはホンマに「文証」出すたびにボロボロだな、樋田昌志くん?(^o^)

―――――――――――

→論理が飛躍しすぎ、あまりに破れ、ほつれ過ぎて、修繕の不可能なぼろきれの様な有様である。

我田引水もここまで酷くなると、やはり、狂人の域である。

やまいぬ。変じて駄犬、駄犬変じて愚犬、愚犬変じて狂犬 である。呵々大笑。

 

1、まず、大前提として、愚犬は、この

 

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

との御文を依用するということは、「開眼」の義そのものを認めている、ということである。

 

印する=光・影などを物の上になげかける。

 

とあり、この場合では

「法華経を心法とさだめて」→印する(=本尊の上になげかける)→「木絵の像」→生身の仏→草木成仏 ということであるから、前後の御文から拝してこの「印する」は開眼供養の義であることは顕然である。

 

2、では、ここに仰せの「心法」とは何か。

わざわざ、別の意趣で説かれている御講聞書の御文を強引に引文するまでもなく、この当該文の前に既に解き明かされている。

 

■ 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。故に普賢(ふげん)経に法華経の仏を説いて云はく「仏の三種の身は方等より生ず」文。是の方等は方等部の方等に非ず、法華を方等といふなり。又云はく「此の大乗経は是諸仏の眼なり。諸仏是に因(よ)って五眼(ごげん)を具することを得る」等云云。法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす、是は随他意(ずいたい)の声。自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二(にに)とあらはれて、仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり。故に天台の釈に云はく「請を受けて説く時は只是(ただこれ)教の意を説く。教の意は是仏意、仏意即ち是仏智なり。仏智至って深し。是の故に三止四請(さんしししょう)す。此くの如き艱難(かんなん)あり。余経に比するに余経は則ち易し」文。此の釈の中に仏意と申すは、色法をおさ(抑)へて心法という釈なり。

 

解りやすくするために"「心法」が何であるか"という関係部分だけを謹択させていただく。

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

 

■法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

 

■自身の思ひを声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法。心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕はすなり。色心不二なるが故に而二(にに)とあらはれて、仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり。

 

■仏意と申すは、色法をおさ(抑)へて心法という釈なり。

 

つまり、この当該文で言われる「心法」とは、「仏の御意」のことであり、それはそのまま「法華経の"文字"として顕れている。」との意義である。

(更に再往、文底、観心から見れば、法華経→曼荼羅御本尊→三大秘法→一大秘法→戒壇の大御本尊 であるから、曼荼羅御本尊、就中戒壇の大御本尊はそのまま久遠元初の本仏の御意である、との意である。)

 

その上で、当該文を会通させていただくと、

「文字である法華経をそのまま御仏の御意である(→上記同様、文底、観心から拝すれば、戒壇の大御本尊こそ、そのまま久遠元初の本仏の御意=御命である)と悟り定めて、梵音声のない三十一相の木絵の二像(再往は曼荼羅本尊)を開眼供養すれば、その「本尊」はそのまま生身の仏(再往、久遠元初自受用報身如来の仏身)となり、これが草木成仏の原理である。」

となる。

ここでは、「開眼供養の"原理"」そのものを説かれている箇所であって、「"誰"が開眼供養するか」に主意があるのではない。

では、この「開眼供養」は「誰が」為さるのか、誰でなければならないのか。

それは、次下の御文に明確に説かれている。

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

 

との御文に明々赫々である。

 

ここでいう「法華を心得たる人」とは、既に130〜132段で詳述した通り、当時では日蓮大聖人、その後は日興上人、その後は御歴代上人である。

それは、御本尊書写を為される正統な立場の御方にのみに伝わる唯授一人の血脈相承なのである。

 

なお、駄犬の(否、狂犬の)支離滅裂な御講聞書の御文の醜釈に対する呵責は、次回。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。134 

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。137  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)10時59分39秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、細部を粉砕していきましょう。

―――――――――――

> 「真間釈迦仏御供養逐状」、云々。

>

> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて

> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?

>

> →以下意味もなく凡長。(^o^)

―――――――――――

→まさに駄犬「反論不能」の図。呵々大笑。

 

道理・文証を以って正当に反論できていない。

毎日お仕事で忙しいところまことにお可愛そうであるが、やり直し、である。

もし、次回も道理・文証を以って正当に反論できなければ、潔く、自らの不勉強さを認め、公式に謝罪し、この件では承服したことを宣言せよ。

更に駄犬がもう少し潔ければ、脱会手続きを取るであろう。が、駄犬の捻じ曲がって腐り果てた根性では無理であろうな。

では、読者の皆様には大変申し訳ないが、この狂った謗法者を呵責するために、当該箇所を編集し再掲します。

―――――――――――

またもや浅薄な駄犬の愚解を詳細に粉砕していきますか。

―――――――――――

> >A御法主上人の命により御名代である末寺の御住職にも開眼の儀は成し得る。

>

> >但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給い候へ、

> >法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて

> >かへりて迎い入れまいらせさせ給へ(『真間釈迦仏御供養逐状』)

> >→大聖人は、御弟子(御僧侶)に命じて開眼を為さしめておられた。

>

> 坊や――相変わらず文証の出し方が出鱈目やなぁ?(^o^)

> いいかね坊や、眼は見えておるね?(^o^)

> 「真間釈迦仏御供養逐状」とは釈迦仏像の開眼を伊予房に行わせたことを述べられて

> おるのだぞ???(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> 「釈迦仏像」と蓮祖御図顕本尊、いつから「おんなじもの」になったんだね、クズ坊?

―――――――――――

→実に愚かしい者である。

 

1、総論

 

駄犬は

@「文」に囚われて「本義」「仏意」が見えないだけである。

あるいはまた、

A一往、附文・再往、元意による読み分けを知らない、あるいはできない、それだけ愚者なだけである。

そういう低級者が生意気に仏法を騙るから矛盾だらけで苦しくなるのである。

まっ、ニセ本尊を「魔札」と見抜けずに頭破七分が益々進むのもわからず有り難がって拝んでいるのであるから斯様な愚者でも無理もない。

 

@→駄犬は 経文=仏の説 を 文→義→意 と読むことで仏法を領解していく筋道が全く理解できていない痴者である。

大聖人様は講説・著述されるにあたっては以下のように「文」「義」「意」を説き分けておられる。

であるから大聖人の御文を読み解く場合は「文」→「義」→「意」へと通じる拝し方をしないと、駄犬の途方もない誤読となるのである。

 

■或は文を陰して義を取り、或は義を陰して文を取り、或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。

 

駄犬は以下のような邪僧どもと同類である。

 

■「像法決疑経に云はく「諸の悪比丘、我が意を解せず、己が所見を執して十二部経を宣説し、文に随って義を取り、決定の説と作さん。当に知るべし、此の人は三世の諸仏の怨なり。速やかに我が法を滅せん」

―――――――――――

A→附文・元意 あるいは一往・再往

 

■附文の辺は権実本迹なり。元意の辺は種脱本迹なり。

 

との如く、附文の辺にのみ囚われると、元意の辺が読み解けなくなる。

駄犬は幼稚の上にいよいよ癡かである故に、この@Aの誤りを常に犯しているのである。

つまり、 大謗法の上に馬鹿者  である。

―――――――――――

2、詳論

 

@ 真間釈迦仏御供養逐状 は  文永七年九月二六日  四九歳御作 であり、当然の如く佐前の御文であるから、佐後から開会して拝さなくては大聖人様の御真意を領することはできない。

 

■「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。」

 

つまり、「真間釈迦仏御供養逐状」は大聖人様の"方便の教え"である。

であるから、特に「本尊義」については三秘開顕後の御法門から開会して拝さなくては御真意を諒することはできない。

つまり、この御書で言われる「釈迦像」も、再往の辺では「曼荼羅本尊」という義である。

 

A大聖人御在世当時は、三秘顕現の草創期であるから、権宗の習気の機根も未だ多く、富木殿も大聖人から賜った他の御書を拝しても法門の領解に於いては未だ浅いものがあったことが理解できる。

であるから、

 

■釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。

 

と、富木殿の機根に合わせられ、権実相対の辺に於ける化儀の範疇を一往善巧方便として暫時容認せられるのである。

大聖人様が三大秘法の本義より「釈迦仏御造立」へ対して「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と根本的普遍的化儀として思われるはずがないのである。

それは、以下の

 

■いつぞや大黒を供養して候ひし、 云々

 

との仰せからも理解できるところである。大聖人様が「大黒」を三秘の本義から根本的化儀として供養される道理はない。

やはり、富木殿へ対しての暫時一往の善巧方便である。

 

B開眼について。

 

当該文

 

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

 

ここでは、「釈迦仏造立に際して、大聖人自ら開眼に行きたかったが、諸々の御事情があって直ぐには行けないので、弟子の伊予房を遣わし、大聖人の代理者として「開眼」を為さしめる。」という趣意である。

 

→1 ここでは■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」また■「いそぎいそぎ・・・はたしまいらせさせ給ひ候へ」と仰せであるから、大聖人は開眼の義そのものは重要な儀式とお考えになられていたことが拝せられる。

 

→2 大聖人自らが■「はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」と仰せであるから、「釈迦像」を「本尊」としてお考えであったことが拝せられる。

しかし、「釈迦像」は暫時の方便、一往の辺であり、再往、佐後の御法門から開会して「本尊」との意義を拝するれば、まさに「曼荼羅御本尊」の御事である。

 

→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。

 

→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。

 

→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も同様に行われなければならない重要な儀である。

 

→6 であるからこの「開眼」の義に関する御指南は、この義を唯授一人・血脈相承された御歴代上人の文献に多数散見されるである。

 

以上、上記駄犬の痴難が如何に浅薄かつ低劣かがよくよく知れるのである。

駄犬は常に何を書いてもその愚悪で醜怪な人間性が益々露呈するのみである。

―――――――――――

さ、駄犬、上記の「開眼が必要であり、尚且つそれは弟子の僧侶でも成し得る」との論証のどこが、どのように、「意味もなく冗長」なのか、証明してみせよ。

ただし、"正当な道理・文証によって"である。

さ、遠慮せずにやってみたまえ。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。138  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)12時27分43秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

この項目まで、完全に反論不能か。呵々大笑

―――――――――――

> >→3 ただし、大聖人様御自らが顕された曼荼羅本尊はそのまま大聖人の魂を墨に

> >染め流して書かれているのであるから、敢えて「開眼」の義は必要ない。が故に、

> >御書全編中に「曼荼羅御本尊の開眼」の御文が皆無なのである。

>

> 坊やはマゾかね? それとも「一人ボケ・一人突っ込み」がしたかったのかね?(^o^)

>

> 「真間釈迦仏御供養逐状」を蓮祖御図顕本尊開眼の文証として出したのは

> 坊やだよ。(^o^) それを論証する中で、自分で「敢えて「開眼」の義は必要ない」、

> オシマイではないか、樋田昌志くん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

>

> >→4 しかし、この「釈迦造立」は他人の手によるものであるから、大聖人もしくは

> >大聖人から派遣された弟子=僧分の「開眼」が必要となるのである。

> >→5 この原理原則が大聖人滅後に俄かに消滅する道理はなく、大聖人滅後も

> >同様に行われなければならない重要な儀である。

>

> それは仮に釈迦像などの場合についてであって、まさに坊やが書いてしまった通り、

> 蓮祖御図顕本尊に「敢えて「開眼」の義は必要ない」のだよ。(^o^)(^o^)

―――――――――――

→またも出ました。駄犬のすり替え。

しかし実に根性の曲がった、性根の卑しい者である。

これは、生来のものか、ニセ本尊の害毒によるものか、それともその両方か。

いずれにせよ、ほとほと姑息・愚悪の者である。

これは"頭が悪いうえに、根性がひね曲がっていると、こういう途方もない妄説を捻り出す"、という"症例"としては、"理想的"なパターンといえよう。

また、いいサンプル採取ができた。

駄犬の言動一つ一つが、ニセ本尊を信じる者の実態を鮮明に現してくれて、有り難い。

 

では、↑この駄犬の頭が悪い上に根性が曲がっている醜釈を粉砕しましょう。

 

確かに、大聖人が御自ら「開眼供養」の儀式を化儀として為されたかどうかは、文献的には明白ではない。

ただ、本義としては御本仏御自らが顕された御本尊は、そのままそこに「開眼」の意義が篭められているのであるから、敢えて殊更に「開眼の儀」を御指南される必要はないし、また大聖人御自らが顕された御本尊を他の誰人も「開眼」する道理はないので、御書全編を通しても「曼荼羅御本尊」の開眼の御指南は全くないのである。当たり前の道理である。

しかし、大聖人が"「開眼供養」をしなければ本尊としては成立しない"と御教示されていることは紛れもない事実である。

以下の御文の如くである。

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

 

この御文についての駄犬の邪難は既に、130〜132段 及び 135段 において完全に粉砕してある。

駄犬、何か言いがかりをつけたければ以上の全ての論証に"正当な道理・文証を以って反証してから"いいたまえ。いいね。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。139  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月20日(水)14時59分47秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、また、「開眼」についての駄犬の迷妄を破していた、続きに戻ろう。

―――――――――――

> >『日寛上人文段集』

>

> ここにも「法主」の2文字すらないなぁ、ボクちゃん?(^o^)

> 坊や、何のために“文証(らしきもの)”を出したのだね?(^o^)

>

> >「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。

 

> まず、ボーズによらねばならないなどとはどこにもないのだわ。(^o^)

―――――――――――

ここもこの項の全文をまず、掲載しておく。

―――――――――――

■木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり(中略)草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』)

 

→日寛上人は、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)についても「一念三千の仏種の魂魄を入るる」こと(開眼)によって「草木成仏」すると明言されている。つまり、「開眼」が無きものは、「本尊」とは成り得ない。ということである。

―――――――――――

では、この日寛上人の御指南の全文を挙げて以って駄犬の迷妄を呵責する。(便宜の為に記号を挿入させていただく)

 

 木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、

1「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」

と云云。文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く

2「三十一相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」

と云云。若しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

 

この御指南の中の、※1、※2、については、既に130〜132段 及び 135段で詳述してあるがごとく、

『「法華を心得た方」(=大聖人→現時では唯一御本尊書写の正当な権能を御所持される御法主上人)が「開眼」しなければ、「本尊」とは成り得ない』のである。

 

駄犬の下品な暴難など、全く道理・文証のない、ただの"難癖"であり、道理・文証の伴わない難癖・いいがかり・文句・批判 等 など誰でも出来る。実に低劣で知能の低い者の為せる業、である。

所詮 ニセ本尊などを拝むからこのような馬鹿で野卑で愚劣で姑息な人間と成り果てるのである。

いや、違った、ただの謗法(ホウボウ)"犬"だった。呵々大笑

 

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やまいぬ。君の駄問を完摧す。181 か?  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007年 4月23日(月)13時13分52秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  返信・引用

 

 

諸々の所用がほぼ片付きましたので、久しぶりに再開します。

ご無沙汰の間、当掲示板で正義の主張をされていた方々、本当にありがとうございました。

 

ですが、最近の流れは全く分かりません。

そこで、当方が最後に掲示したその直後からの邪義・邪説を砕いていきましょう。

 

まず、一番目がこれですね。

一読してみると、実に成長のなさが明白な御仁ですな。

何度でも指摘するが如く、ニセ本尊の害毒とはかくも人の知能を溶解していしてしまうものなのだと、この御仁をみているとよくわかります。

では、いきますか。

―――――――――――

やまいぬ。とか名乗る、狂犬へ。

―――――――――――

↓これは沖浦氏の言であろう。

 

> ▼1「法主が蓮祖のご本尊様を開眼せねば御本尊様は魔札でゴミクズ。

> この文証出してごらんよ。」

>

 

↓ここからがやまいぬ。君

 

> そうなんですね。(^o^)

> 樋田昌志くんは相変わらず自己陶酔のダラッダラとした長文連ねて

> いますが、要はこの1点の論証が成されていなければまったく意味が

> ありません。(^o^)

>

> 蓮祖はただ「法華経による開眼」とのみ書かれているのであって、

> 「法主による開眼」などどこにも書かれてはおりません。(^o^)

>

> 「樋田偽造教学・満開」。ご愁傷様。(^o^)

>

> 「貴方は、蓮祖御図顕のご本尊様に日蓮正宗法主の開眼が絶対に必要と言う。

> ではね、御書にそのように書かれてあるところを具体的に引用してください。

> 私の要求はそれだけすよ。それではどうぞ。」

―――――――――――

お二人とも、残念ながら実に"幼稚"と言わざるをえませんね。

 

1の邪説に対しての破折

 

@大聖人御在世当時は大聖人が御自ら御本尊を顕され授与していたのであるから、第二祖以降の御本尊の開眼に関する甚深の御法門を、一般僧俗に宛てた総じての法門であるところの御文に敢えて直接的に説き示す必要はあられなかった。

 

A当時は直筆御本尊を授与されていたのであり、形木・印刷等の具体例は大聖人御在世にはなく、現時の御本尊下付の状況とは全く違う。が故に、現時に於ける開眼供養の御法門を解き明かされる現実的事例がない。

 

Bそのものズバリの文証にのみ固執する者どもを、『守文の徒』というのであり、仏法を学ぶ基本姿勢が歪んでいる機根であり、正しく仏法を学んでいない証左である。

 

編集再掲

 

■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108

 

→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。

 

■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。

 

→このままである。正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。

 

そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。

 

■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。

 

■仏法と申すは道理なり

 

■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々

 

■只道理と経文とを本とすべし。

 

つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。

まことに恥ずかしい限りである。

ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという"症状"が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。

―――――――――――

以上の破折の上で、現時の印刷御本尊に御法主上人の御開眼が絶対必要不可欠であることを編集再掲する。

―――――――――――

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

 

大聖人御在世当時は「法華を心得たる人」とは、大聖人御自らである。(また大聖人様からの御名を受けて代参される御僧侶にも「師弟相対」の次第によりこの義が含まれる)

 

しかして、この法華=法華経とは三大秘法のことである。

三大秘法はそのまま一大秘法に括られる。

その一大秘法の体とはまさに戒壇の大御本尊である。

この戒壇の大御本尊様をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが日興上人を随一とする御歴代上人である。

 

【文証】

 

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

 

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

 

仏宝法宝=人法一箇の戒壇の大御本尊に究竟せられ、その人法一箇の戒壇の大御本尊は大聖人様の出世の本懐であり、「日蓮一期の弘法」の究極の御法体である。

その御法体は、「血脈の次第 日蓮日興」として日興上人に相伝・伝持せられたが、この

「次第」 とは、=物事が行われる際の一定の順序。

という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず「物事が行われる際の一定の順序」として

「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」

とお決めになるという道理である。

 

更に補足すれば、この「血脈の次第 日蓮日興」との御文は、

 

釈尊

→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)

→日興上人

 

という基本形を示し、これはつまりは、

 

御先師

→御当代

→次期御法主

 

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

 

この道理は以下の御文証に依っても明白である。

 

■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

 

つまり、法華=三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊 は

大聖人→日興上人→日目上人  と伝持され 御先師→御当代→次期御法主 との基本形は末法万年に向けて伝承されるのである。

 

であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」ということになり、御法主上人以外在り得ないのである。

 

【現証】

 

御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という正に「現証」である。

創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を「本尊」としている。

これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。

―――――――――――

 

その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない"本尊もどき"は、魔であり鬼である。

よって、創価学会の販売している掛け軸は魔札・鬼札である。

実に簡単な道理である。

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【道理】

 

1、大聖人御在世には「御本尊の印刷による流布」という姿がなかった。

現実に無い事を具に述べられる必然性はない。

 

2、大聖人御自らが顕された御本尊はそのまま「開眼」為され草木成仏して生身の仏であらせられる。

御自らしか為さない深旨を態々その行為を為す立場でもない方々へ具に御述べになる必然性もない。

 

3、しかし、元々草木である紙・木・墨等が、曼荼羅本尊として生身の仏と成るには「法華を心得たる人」が「開眼供養」しなければならない原理をきちんと説き置かれておられる。

 

4、しかも、大聖人御遷化後の「法華を心得たる人」という立場をきちんと定めて置かれておられる。

 

5、もし、その「法華を心得たる人」の「開眼」が不要、とするのならば、この世に存在する「南無妙法蓮華経の文字曼荼羅」は全て"正当な本尊"ということになってしまう。

つまり、●1「誰が書いても、誰が印刷しても、何に書いても、どこに映しても、全部"本尊"ということになり、まさに本尊雑乱の大狂態を容認すること」となり、大聖人の厳格な仏法の本義からいって甚だ不可である。

 

■富士一跡門徒存知事    延慶二年

 

一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。

  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

 

→もし、唯授一人の御法主上人の「開眼」を認めないとするならば、この御文に御指摘の

■「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)」

との行為を容認することとなり、日蓮大聖人・日興上人への背反・師敵対の謗法行為である。

 

因みに「創価学会は"不信の輩"ではない」と強弁する向きもあろうが、全く認められない。

日興上人門流ではあくまで、時の御法主上人である日興上人が書写された御本尊を授与される。のであり、たとえ大聖人お筆の御本尊の形木といえども、時の御法主上人である日興上人のお認めならないものは不可なのである。

創価学会がしている行為はまさにこの、■1「御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。」と同類である。

時の御法主上人の開眼を認めないということは、●1「」と言う結果を必然的に生み出し、それは■1「」と日興上人が制誡された謗法行為となるのである。

つまり、やまいぬ。君や妄犬マゴマゴ君の主張は結果的に日興上人が厳禁された謗法行為を容認することになるのであって、全くの邪義・魍説というべきである。

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3、【御歴代上人の書写御本尊を用いる根拠】

 

そもそも、大聖人様の御書には「大聖人御図顕の曼荼羅本尊を信行せよ。」との御教示はあるが、御遷化後の僧俗の日頃の信行に関する「本尊」については述べられておられない。

大聖人時代には「大石寺」すら存在しなかったのであり、大聖人は後の江戸時代の第26世日寛上人のことも、歴史的な具体的な存在者として御記述になっておられない。(当然過ぎるほど当然である。)

 

では、何故に創価学会はその御書に説かれていない、「大石寺の第26世の「書写」された曼荼羅御本尊」を用いるのか。

やまいぬ。君にその理由を「蓮祖・興師の文証」で出してもらいましょうか。

もちろんそのものズバリの表現でしてもらうことは当然である。

 

御書には大聖人御遷化後の僧俗の日頃の信行の対境としての御本尊を説き示されていないにも拘らず、その「開眼」を示すそのものズバリの御文を出せ!と喚き続ける幼稚なやまいぬ。君は、自分が拝んでいる、本尊(を似せた掛け軸)のことも、御書に出ているのか証明する義務があろう。

人に道理が外れている痴難を吹っかけるのであれば、自分の行動にも同様な条件に依っての説明責任があるのは当然である。

それとも創価学会で「人間革命」すると、そういう社会生活の当然のルールも守れなくなるのか?

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→さて、駄犬は以上の論証について、一点もの教義的・論理的反論も出来ない。

ただ馬鹿の一つ覚えの一点、「そのものズバリの蓮祖・興師の文証を出せ〜!」これだけである。(今回の段では「蓮祖の文証」と「蓮祖」のみに限定しているが、これは常の如く「蓮祖・興師の文証」としてかいたつもりなのであろう?まさか妙な伏線を敷いていたわけではあるまい?)

 

では、この「興師の文証」はどう解釈するのか?

 

■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)

 

@この御文は日興上人の御文ではないのか?

Aそれを否定するのなら文献学的・歴史考証学的に立証できるのか。

Bこの御文を日興上人のご指南であることを否定できないのなら、この内容を認めるべきであろう。

つまり、「代々の聖人悉く日蓮である」と大聖人様が日興上人に仰せになった。ということではないか。

 

さ、駄犬、(今更ながらの気もするが、)この御文を認めるのか否か。

 

1、認めるのなら、今までの御歴代上人に対しての非礼に対して詫び状を書いて、ここへ掲示せよ。

 

例文 草案

 

「私ことHN「やまいぬ。」は、上記日興上人の御指南の意義を理解できず、今まで散々に御歴代上人に対して悪口雑言を吐いてきた事を心底反省してお詫び申し上げます。

どうか平に平に御容赦のほど、宜しくお願い致します。

本当にすみませんでした。

今までの所業は万死に値します。

依って、今後一生謹慎し反省懺悔の余生を過ごしますので、どうかお許し下さい。」

 

2、認めないのなら、その論理的理由を明示してみよ。(←これを切り裂くのもまた楽しみである。)

 

駄犬も、ただ愚かに吼えているだけではなく、少しは頭を使って、価値のある内容を書いたら如何か?

いつまでも進歩の無い駄言を吼えていると、法華講や、世間の良識ある読者の方々からは勿論、心ある創価学会員からも飽きられ、さらにまた呆れられるのではないか?

実に惨めで恥ずかしい有様である。

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陰性君の痴問を一蹴する。10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月20日(火)15時00分37秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> そもそも「開眼がない」とはどういったことがされていない状態ですか?

―――――――――――

↑ほとほと、馬鹿 である。呵々大笑

 

■総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』59頁)。

 

↑この仰せに明確である。

つまり、このように御法主上人に「開眼供養」していただいてない全ての本尊状のゴミ屑を「開眼がないニセ本尊」と言うのである。

 

■天を地といゐ、東を西といゐ、火を水とをしへ、星は月にすぐれたり、ありづかは須弥山にこへたりなんど申す人々を信じて候はん人々は、ならわざらん悪人にははるかをとりてあしかりぬべし。

 

のような極悪謗法人は、「信心」を全く失ったが故に、正言をそのままに聞けなくなっている。それだけのことである。

 

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陰性君の痴問を一蹴する。14  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月20日(火)20時56分45秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

何を書いてもゴミですな。陰性君。

―――――――――――

> DATE:  2月20日(火)15時10分2秒

> TITLE: 樋田さんの逃走劇 act2

> NAME: 阿部日ケ〜ン(陰性)  MAIL:

> 画像: 有

>

> ※総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、■1「下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念」を申し上げておるのであります

>

> つまり、このように御法主上人に「開眼供養」していただいてない全ての本尊状のゴミ屑を「開眼がないニセ本尊」と言うのである。

>

>    ↑

>

> ▼1「上記には「開眼供養」のことはかいておりませんが」

> ▼2「ニセ血脈」をもってすれば これが「開眼の義」 になるわけですね

> くっさ〜

―――――――――――

▼1 ■1の御指南こそがまさに「開眼」の深旨ではないか。

 

この深旨こそ唯授一人・血脈相承に依って「ただ御一人から御一人へ」相伝・伝持されているのである。

ここは「信」を以って拝するしかないのであって、ここの「信」を亡失した者を退転者・謗法者というのである。

 

■『日因上人御消息』

「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」

 

■『法之道』日応上人

「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四n)

―――――――――――

▼2を証明してみよ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

【破折】

 

「木画の二像」「木絵二像」「画木」等 とは、権実相対に於ける一往、附文の辺では、仏像・画像の本尊であるが、再往、元意の辺では、大聖人御顕示の曼荼羅御本尊のことである。

それは、

「木絵二像開眼の事」の前半に

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

 

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

とあり、この御文をただ表面的な「文」だけで読めば、

「仏像の前に法華経を置けばその仏像は本尊と為る」

また、

「法華経を御仏の心法と心得て、仏像・画像の前で開眼供養すれば仏像・画像がそのまま生きた仏身となり本尊となる」との解釈になってしまい、甚だ不可である。

下種の御本仏である大聖人様が上記のような"本尊"を本仏の真意としてお認めになる道理はない。

末法適時の本尊は文字曼荼羅本尊であることは大聖人の他の様々の御教示より明白である。

であるから、この御文の 木絵の二像 とは 大聖人の御本意の法門、三大秘法から開会して拝せば、まさに「文字曼荼羅御本尊」となるのである。

更に詳細に閲すれば、「木絵二像」の

木像 とは 板曼荼羅

絵像 とは 紙幅の御本尊 と拝せよう。

 

それは以下の日寛上人の御指南で「木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。」と表現される御本尊が「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。」と配されることからも明白である。

 

■『観心本尊抄文段』日寛上人

「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇n)

―――――――――――

【再度、詳細に破折】

 

●当方の主張→> >形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。 (木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)

>

> →邪法を以って本尊を開眼供養すれば、その本尊には魔や鬼が入り込む、との仰せである。

 

▼↑に対してやまいぬ。君の主張→> ※1「詮を以て之を謂わば今の木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏に非ずして

> 権仏なり権仏にも非ず形は仏に似たれども意は本の非情の草木なり、又本の非情の

> 草木にも非ず魔なり鬼なり、真言師が邪義印真言と成つて木絵二像の意と成れる

> ゆへに例せば人の思変じて石と成り倶留と黄夫石が如し、法華を心得たる人木絵

> 二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に

> 鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ

> 鬼をば奪命者といふ」

>

> おいおい、真言破折の文証かね?(^o^)

> しかもこの前段に何と書かれてあるのか、わざと切ったね。(^o^)

―――――――――――

 

1、御書の御文は、対機・時期・所対等を深く考慮して拝さなければ、大聖人様の御心を読み誤ることになる。

その原理は以下の御文に依って知れる。

 

■了義・不了義は所対に随って不同なり。(※これは、釈尊の経についてであるが、その原理はそのまま大聖人様の佐前・佐後等、あるいは対機によって説き分けられる全ての御法門にも通じる)

 

■諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。(日寛上人)

 

2、この御書は権実相対を主軸に説かれている。であるから、三大秘法そのものをそのまま御説きになられていない。この場合は、文底秘沈の三大秘法の義から依義判文して拝さなくては大聖人様の御真意を諒することはできない。

 

【その証拠とする文証】

 

■木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、此の仏は輪王とひとし。十善論と云ふを置けば、帝釈とひとし。出欲論と云ふを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。又木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若(ぐうはんにゃ)を置けば、縁覚(えんがく)とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば、菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)経等の仏眼(ぶつげん)、大日の印・真言は、名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。

 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

 

この御文は内外相対→大小相対→権実相対の勝劣の筋目を、経典の高下浅深を十界の境界に即して説かれた箇所であり、その明示されている主意は法華経と爾前権教との相対、つまり権実相対にある。

つまり、本尊義そのものが論の主意ではないのである。

 

3、四条殿の機が未だ、久遠実成の釈尊像への執着が強い時期であったが故に、大聖人様が暫時の善巧方便として、木絵二像=仏像・絵像を面に立てて「開眼」の意義を御教示為されている。

これは下種仏法出現の草創期であればこそ未だ対機が熟さないが故に無理からぬ説相である。

 

4、以上の前提に立った上で、※1の当該文は、特に真言宗のみを破折されているのではなく、真言宗を代表として(権)、草木成仏を為し得る唯一の法門、一念三千の法門(実)を盗み取った華厳宗等(権)を含め呵責せられておられるのである。

 

【その証拠とする文証】

 

■妙楽是をうけて釈するに「然るに亦倶(とも)に色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑(まど)はし心を驚かす」云云。華厳の澄観(ちょうかん)が天台の一念三千をぬす(盗)んで華厳にさしいれ、法華・華厳ともに一念三千なり。但し華厳は頓々(とんとん)さき(先)なれば、法華は漸頓(ぜんとん)のち(後)なれば、華厳は根本さき(魁)をしぬれば、法華は枝葉等といふて、我れ理をえたりとおもへる意(こころ)山の如し。然りと雖も一念三千の肝心、草木成仏を知らざる事を妙楽のわらひ給へる事なり。今の天台の学者等、我れ一念三千を得たりと思ふ。然りと雖も法華をも(以)て、或は華厳に同じ、或は大日経に同ず。其の義を論ずるに澄観の見(けん)を出でず。善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)に同ず。詮を以て之を謂はゞ、→当該文※1

 

5、であるから、※1当該文の主意は、「一念三千の肝心、草木成仏の義を知らぬ者ども(権)が、本尊を開眼すれば、魔仏であり、鬼神である。法華を心得たる人(実)=三大秘法の御本尊を正統な立場に於いて書き顕せる人=大聖人 が、本尊を開眼供養しなければ、その本尊もどきは、拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。」との御心である。

 

因みに、"敢えて本尊を真言等の邪法で開眼しなければ、そのような悪果報はないであろう、"と考えるのは早計である。

何故ならば、当該文を詳細に見ていくと、以下のように分類される。

 

■1 法華を心得たる人、木絵二像を「開眼供養せざれば」、家に主のなきに

1「盗人(ぬすびと)」が入り、」

人の死するに其の身に

2「鬼神」入るが如し。」

 

■2 今真言を以て日本の仏を供養すれば、

※3「鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ。」

※4「魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪(だつ)功徳者といふ。」

※5「鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。」

※6「魔をたと(尊)むゆへに、後生には無間の獄に堕す。」

 

■1■2の両文を並立して閲すれば、

※1と※4

※2と※3  が相応している。

 

よって、

 

@ 法華を心得たる人=大聖人(=現時ではこの世で唯一御本尊を正統な立場に於いて書写できる御方=御当代御法主上人) が本尊を開眼供養が為されない”本尊もどき”と

A 真言宗に於いて開眼供養する”本尊もどき”は、

 

双方、

 

1=※4=魔

2=※3=鬼 となり、

 

結果

@A双方、

※5・※6となるのである。

 

つまり、わざわざ邪僧に開眼供養を頼まないとしても、本尊となるべき草木→木画二像→紙幅・板曼荼羅 を正当な資格者が開眼供養しなければ、邪僧が開眼供養したと同様に、魔が入り、鬼が入り、『拝む者の生気や寿命や功徳を吸い取り、今生には本人・家族・地域社会・・・果ては国家を滅ぼし、死後は無間地獄に堕ちる。』のである。

 

これは、まさに、創価学会が販売しているニセ本尊であり、身延のみやげ掛け軸等である。(その他ありとあらゆる"本尊"と称するもの全てである。)

 

以上の如くに、愚犬の恥言は全く愚かそのものであり、反論としては全く通用しない。

―――――――――――

つづく。

 

ジダン氏の質問に返答す 6  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月10日(土)23時41分16秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

では、つづきいきましょう。

>

> それから更に質問ですが、『法華を心得たる人』がどうして=『法主』となるのでしょうか?法華を心得たる人とは『法華経の行者』と言いかえることができると思いますが、それでは「中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」(可延定業書)との御文を管理人様の読み方で読むとき、『四条金吾=法主=御本尊の開眼ができる』というようになってしまいますが、如何でしょうか?

 

―――――――――――

↑ここもやはり「文」に囚われた、浅見というべきでしょう。

 

まず、『法華を心得たる人』がどうして=御歴代上人 となるのか、を論証します。

といっても、こでも既に破折し尽くしている内容なので、編集・再掲いたします。

―――――――――――

【簡釈】

 

1、「法華」=法華経 とは末法今時、究竟するところ 戒壇の大御本尊 の御事である。

 

【文証】

 

■法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。( 三大秘法稟承事    弘安五年四月八日  六一歳)

 

■問ふ、所説の要言の法とは何物ぞや。

答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(三大秘法稟承事)

 

【現証】

 

「本門戒壇」 との銘があられる御本尊は弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の大御本尊のみである。

―――――――――――

 

2、その法華経=戒壇の大御本尊をそのまま御身に宛てて唯授一人・血脈相承されているのが日興上人を随一とする御歴代上人である。

 

【文証】

 

■日蓮一期弘法付嘱書   日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日  日蓮 花押   血脈の次第 日蓮日興

 

■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す」

 

仏宝法宝=人法一箇の戒壇の大御本尊に究竟せられ、その人法一箇の戒壇の大御本尊は大聖人様の出世の本懐であり、「日蓮一期の弘法」の究極の御法体である。

その御法体は、「血脈の次第 日蓮日興」として日興上人に相伝・伝持せられたが、この

「次第」 とは、=物事が行われる際の一定の順序。

という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず

「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」

とお決めになるという道理である。

 

更に補足すれば、この「血脈の次第 日蓮日興」との御文は、

 

釈尊

→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)

→日興上人

 

という基本形を示し、これはつまりは、

 

御先師

→御当代

→次期御法主

 

との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。

 

その道理は以下の御文証に依っても明白である。

 

■ 一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

 

であるから現時で、「法華を心得たる人」とは「戒壇の大御本尊を相伝された方」ということになり、御法主上人以外在り得ないのである。

 

【現証】

 

御法主上人こそが御本尊を書写できる。=これこそ、「法華を心得たる人」という正に「現証」である。

創価学会ですら、"日蓮正宗の御歴代上人の書写御本尊"を「本尊」としている。

これまた、「法華を心得たる人」とは、御歴代上人でしか在り得ないことを、無意識の内に認めている証左である。

―――――――――――

 

3、その「法華を心得たる人」である御法主上人が開眼供養為されない"本尊もどき"は、魔であり鬼である。

よって、創価学会の販売している掛け軸は魔札・鬼札である。

実に簡単な道理である。

 

つづく

 

ジダン氏の質問に返答す 7  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月12日(月)21時35分14秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

外野の"ノイズ"が多くてその処理に時間を割かれ、少々遅れましたが、では、以下について返答します。

―――――――――――

Re: 何だかヒートアップしてますねー。

 

> 私の書き込みが遅いもので、知らない間にいろいろな方を巻き込んでしまっているようですね。段々と収集がつかなくなってきていますが、できる限りで書き込ませていただきます。

>

> 『木絵二像開眼之事』の解釈から始まった御本尊の開眼についての議論ですが、先ず管理人様の反論に対してお答えしたいと思います。

>

> 以下、引用

> (中略)

> それから『法華を心得たる人』についてですが、

>

> 【簡釈】

>

> 1、「法華」=法華経 とは末法今時、究竟するところ 戒壇の大御本尊 の御事である。

>

>

> ということですが、いきなり【簡釈】しすぎでは?

> 引かれている御文もこの『木絵二像開眼之事』よりも10年も後にご執筆された『三大秘法稟承事』からですしね。

―――――――――――

↑まず、10年ほどで三世を通暁される御本仏日蓮大聖人様の仏法の本義が変遷することなど在り得ないでしょう。

10年後の御文だと、どこが、どのように変なのでしょうか?

―――――――――――

▼『法華を心得たる人』とは『法華経の行者』と同義であると思います。『如説修行の法華経の行者』をこそ『法華を心得たる人』と言い、法主ただ一人を指している言葉ではありません。ですから、法主による開眼供養など、私には必要ありません。

―――――――――――

1、その根拠を、文証・道理をもって挙げて下さい。

でなければ、それはただの個人的な感想・意見であって、そのような個人的な見解を元として仏法を論ずることは基本的な姿勢として不可ですね。

 

■文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。(法華真言勝劣事 307)

 

■証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。(題目弥陀名号勝劣事 332)

―――――――――――

2、訳としても大いに意味が異なります。

 

心得る=物事の事情や意味するところをよく理解する。のみこむ。わきまえる。

行者=仏道を修行する人。修行者。

―――――――――――

3、草木成仏・非情成仏を為せる方こそ、「法華を心得たる人」

 

草木成仏

 

@−1 法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

 −2 法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

非情成仏

 

A法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。

 

この@Aの両文は、草木成仏・非情成仏を明示された同義の御文です。

この開眼供養や死骨成仏を為すことが、以前にも言われていましたが、四条金吾殿等の有力檀越といえども為せる道理も文証もありません。

 

■但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

 

大聖人様は富木殿ほどの有力檀越にさへ、このように、開眼は許されておりません。

大聖人の御名代として御僧侶である伊予公殿に「開眼供養」を御命されておられるのです。

 

その大聖人様が

■「血脈の次第 日蓮日興」

■「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」

と末法万年の僧宝の御立場を明示されておられるのですから、僧宝の立場であられる方の「開眼供養」なき本尊状の物は間違いなく、魔札・鬼札であり、それを拝む者は、今生には我が身・家庭・子孫を滅ぼし、後生には無間地獄に必ず堕すのです。

創価学会発売の曼荼羅掛け軸などはその代表的な代物です。

よくよく、忌み嫌い、戒めるべき、汚物・毒物であります。

 

ジダン氏の質問に返答す 8  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)11時14分47秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

ジダンさんへ。

 

「開眼」の必要な事についての、御書での論証は以下の、沖浦さんへの投稿に示してあります。

もし、この中でご不明な点がおありでしたら、どこの、どういう点で、ご納得いかないのか、ポイントを挙げて、仰せ下さい。

再度、詳細にご説明いたしましょう。

 

【引用再掲】

 

沖浦さん、以下の内容は少々問題が多いですね。

直接対面対論とは別に、当掲示板上で教義的な内容に触れる限り、破折させていただきます。

―――――――――――

Re: 木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が

 

>  木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。

>

>  大層簡潔な道理ですよ。

>

>  それともね、蓮祖建立の木像や絵像が大石寺にあって法主以下が拝んでいるのですか??

>

>  木像〜板曼荼羅。

>  絵像〜紙幅のご本尊様。

>

>  これはね、こじつけにすぎませんよ。

>  ですからね、詭弁を弄するより、

>

>  日蓮正宗ではしきたりとして法主が開眼をしております。

>

>  これでいいんですよ。

―――――――――――

1、大聖人が、御正意・御真意として釈尊等の絵像木像の類を本尊として帰依することを後々までお認めになるわけがない。

それは、大聖人の仏法を学ぶ者の"常識"です。

(もちろん不相伝家では、これすら理解していませんが。)

さて、では問題となるのは、発迹顕本以降の佐後である文永9年に、何故「木絵二像」の「開眼」の御抄があるのか。ということでしょう。

 

そもそも、この御書中には、

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

 

とあり、この御文を文字だけで読めば、「釈尊の絵像・木像の前に法華経を置けば、必ずその木絵の二像は純実円満の生身の仏となる」

との意味になり、大聖人様が釈尊の絵像・木像を本尊としてお認めになっていることになり、沖浦さんのいう、▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖」という前提自体と大いに矛盾してしまいます。

つまり、この御書は、既に何らかの方便を含ませてお説きである。ということが分かります。

方便があるからには真実・真意がその奥に存在するのが道理です。

我々修行者は方便の言に囚われ、大聖人様の真意を見誤るような軽薄な読み方をしては浅識・計我・不解との謗法となりましょう。

謗法は地獄行きですから、よくよく恐れなければならないところです。

 

そこで、大聖人様は「開眼」の意義についてどのようにお考えになっていたかを検証すれば、自ずと該抄「木絵二像開眼の事」の真意が領解できるものと思います。

 

この御抄の中に、

 

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

とあり、この「印する」という語には「跡を残す。しるす。光・影などを物の上になげかける。」等の意味あり、"ある主体者が対象へ向かって為す行為"であることが分かります。

更に、この御文直後の

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、云々」

 

との御文と併せ拝すれば、

■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」と

■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養」とは同義ですから

「印する」とは「開眼・開眼供養」の意義であることが分かります。

 

ここで分かる事は、

【1】"「開眼供養」により「草木成仏」する。草木成仏をした"木絵二像"は生身の仏"になる"

ということでしょう。

 

では、草木成仏 とはどういうことでしょうか?

 

そこで、ちょうどこの年、文永9年、人本尊開顕の重書「開目抄」が説かれた同じ月に顕された「草木成仏口決」に拝してみましょう。

 

■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決  文永九年二月二〇日  五一歳)

 

草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。

しかし、ここで注意を要するのは、【1】"「開眼供養」により「草木成仏」する。"ということです。

そこでここをまとめると、

【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が"仏と成る"ということである。

 

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

 

塔婆はそのままでは非情である。であるから、その非情である塔婆を「開眼供養」することにより、草木成仏せしめて故人の成仏を期するのである。

その根拠は以下の御文でも明瞭である。

 

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。

 

この御文は、塔婆にも通じ、曼荼羅御本尊を御本尊として信行の対境とする意義へも通じる文証である。

であるから、直後に以下の曼荼羅御本尊に関するお言葉へと続くのである。

 

■此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。

 

では、ここまでをおさらいして纏めて見ましょう。

 

【小結】

 

開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

 

さて、では、

【小結】開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

について、更に他の御書に詳細を拝していきましょう。

 

■四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳

 

されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰(ごおん)世間、三には国土世間なり。前の二は且(しばら)く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

 

この御文には、更に詳細に「草木成仏」の意義が示されています。

 

■画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

 

ここも、"絵像木像の「開眼供養」は法華経・天台宗でしか為し得ない。"と仰せでありますが、この御文をそのまま字の面だけで読めば、"絵像仏像等の釈迦像を開眼供養するのは、法華経と天台宗でしか出来ない"となり、大聖人様が仏像を容認し、法華経をそのまま用い、しかも像法過時の宗派である天台宗を容認することになってしまい、大聖人様の御真意の御法門ではないことになってしまいます。

 

【参考御書】

 

■今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。

■天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にはあたらず。(撰時抄      建治元年六月一〇日  五四歳)

 

ですから、ここもやはり方便で御説きであり、御真意は更に深いところにあると拝さねばなりません。

そこで、この後の御文を拝すると、いよいよ大聖人様のご真意が明瞭となってまいります。

 

■草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。

 

ここで、大聖人様が仰せになった、「絵像・木像=木絵の二像」の意義が鮮明に現れてまりました。

つまり、「画像」の意味は、「絵の具」→つまり、"本尊"として書いた素材そのものを仰せであり、「木像」との意味は、「木」=木材、というやはり「素材・原料材」を指しておられることが分かります。

つまり、「絵像・木像=木絵二像」と仰せになった御真意は、表面上の「釈迦の絵像木像」という意味では決してなく、その原料素材としての「絵の具・木材」という「非情」のことであった訳です。

ここで、今までの考証の深意が詳らかになってきました。

 

【小結2】

 

大聖人様は機根が未だ"曼荼羅本尊正意"という深旨まで熟さない対告衆に対して表向き「釈尊像造立」を容認しつつ、そこに、原料素材である非情の絵の具・木材等の開眼供養による草木成仏により生身の仏身と為す一念三千の悟りの法門とその絶対必要性を説き篭められていたのであります。

この点を踏まえて以下の御文を拝すればいよいよ大聖人様の御真意がいや増して明瞭となる事でしょう。

 

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

 

こここそが開眼供養の本義を方便の御文の内に明確に篭められて仰せ御遊ばされた御文であります。

つまり、

この画(=原料素材としての絵の具。当然、"墨"も含まれることは自明の理である)、木材に、魂魄という神を入れること(=開眼供養)は、法華経(=三大秘法)の力である。これは天台大師の悟り(=大聖人様の悟り)である。この法門は生きた衆生に即して言えば即身成仏であり、非情である墨などの絵の具や木材で言えば草木成仏である。(=生身の仏と成ること)

 

以上の論証から導き出される結論は、

 

【結論】

 

曼荼羅御本尊も木絵二像と全く同じく、紙・木材・墨等の非情である素材で出来ているのであるから、そこには法華経を心得た智者(鎌倉時代で言えば大聖人様。また大聖人様より御命を賜った御僧侶方)によっての開眼供養により、草木成仏為されなければ生身の仏として成立しない。

(ただしこの時代は大聖人様が直接御本尊を顕されていたのですから、殊更に曼荼羅御本尊に関しての「開眼供養」の御指南が無いのは当然です。が、現時では、殆どの信徒に下付されるのは御形木御本尊、つまりは"印刷された御本尊"ですから、素材が非情で出来ている限り、開眼供養によって草木成仏を為し、生身の仏と顕現しなければ「本尊」として成立しないということが、以上の、「木絵二像開眼の事」「草木成仏口決」「四条金吾釈迦仏供養事」等の御書を併せ拝し、検証すれば自ずと明瞭となってくるのであります。そうは言っても毒気深入の頭破七分者にはそう簡単には理解できないでしょうが。)

 

ということで、

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

 

との御文は、やはり創価学会発売の本尊らしき様相を偽装した掛け軸を指すのであります。(もちろん、その他世の中に存在する一切の本尊状の"モノ"も含む)

 

【後述】

 

さて、以上の論証に反駁したい向きは沖浦さんをはじめ大勢いらっしゃるでしょうが、くれぐれも正当なる道理・文証を以っての反論にを心掛ける様にご留意いただきたい。

ただ、無闇矢鱈に「自分はそうは思えない!」というだけの我意・我見のごり押しでは、反論として成立しないことを銘記されたい。

また、そのような低次元の遠吠えの繰り返しは、そのまま自らの敗北を意味することになるので、創価学会の恥晒しとならないように十分にお気をつけ下さい。

 

では、宜しくお願い致します。

 

 

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しょうがなく新シリーズ マゴマゴの妄犬を呵責す。23  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月15日(月)13時05分36秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

つづき、いきましょう。

今改めて全文を斜め読みしたが、妄犬マゴマゴ君の物陰から遠吠えしているがごとくの駄文には、御書の御文が全く引文されていない。

全て最初から終わりまで、ニセ本尊の魔が取り憑いた僻脳が思いつくただの歪んだ"感想"に過ぎない。

つまり、もはやこの妄犬マゴマゴ君は正当な文証と道理を元に教義的に反論することが不可能な程度の妄犬に成り果てている。

こういう点もニセ本尊の猛毒に侵された者がいかに低劣・愚劣・幼稚に成り下がるか、よく見て取れる箇所なので留意しておきたい。

 

では、駄文の破折にいきますか。

―――――――――――

> Aそして話題は急に『結要付嘱』と『(本尊の)開眼』の比較話しへと飛躍し、元々kusanone様が書いておられたものを原文(オリジナル)として一つの翻案(下手なコピー、笑)を作成したが(=秘伝・鸚鵡返しの術、笑)、話しはどんどん『開眼』から離れてしまった。

 

↑ここなども、もはや相手にすることも馬鹿馬鹿しいほどの愚論である。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜

馬鹿にはそのレベルに腰を落として目線を合わせて教えなければならないから、ほとほと面倒くさいがやりますか。ほんと、ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜 である。

 

@ 創価学会発売のニセ本尊は当然「開眼」がされていない。

(因みにこのニセ本尊は基本的には 低下・・もとい、定価\3000らしい。だが、現場で創価学会員から聞いた結果、人によって金額に差が在るとのこと。差額は誰の下へ行くのか?所詮、魔札・鬼札であるから、金額の大小の問題ではないが・・)

 

A 「開眼」のないニセ本尊(魔札・鬼札)を、あろうことか「本尊」として拝むのであるから、創価学会員は「開眼」を否定せざるをえない。

 

B御書には”「草木成仏・開眼の義」がなければ「本尊」として成立しない。”と明確に仰せであるが、創価学会員はこの意義を何とか否定しなければ、自分等が拝んでいるニセ本尊(魔札・鬼札)の正当性が主張できない。

 

Cそこで、今回の”臭っ!いのね”君のように、邪問を構えて、御法主上人が為される開眼の儀を貶め、貶し、嘲笑い、何としても否定しようとする大馬鹿者が現れてくる。

 

Dしかし、恥犬など狂った創価学会員がどう「開眼の義」に難癖をつけ、否定しようと躍起になっても、「草木成仏・開眼の義」そのものは大聖人の御法門として厳然として存在するのである。

 

Eしかし、その深義・具体的な内容については明示されていない。ただ御歴代上人へ唯授一人・血脈相承されているという文証と道理があるだけである。

 

Fであるからここはただただ純真な「信」を以って拝する以外にはない。

 

Gそれと同様に大聖人の御法門にはただただ、純真な「信」を以って拝するしかない深秘深遠な深義が多く存在する。

 

Hその一例が、「大聖人が久遠元初の自受用報身如来である」ということである。

 

Iこのことは客観的で具体的、かつ物理的に詳細な証明は不可能である。

 

J今回”臭っ!いのね”君の難癖はまさに、開眼について表向きは”客観的で具体的、かつ物理的に詳細な証明”を求めた形をとって、その内心は、開眼の義そのものを否定せんがための、単なるいちゃもん・言い掛かりの類である。

 

Kであるから、もし、大聖人が明言されている「草木成仏・開眼の義」を不信・否定するのであれば、同様に大聖人が、「大聖人が久遠元初の自受用報身如来である」ということに対しても、”臭っ!いのね”君は”客観的で具体的、かつ物理的に詳細な証明”を求め、その証明が不可能な場合には、、「大聖人が久遠元初の自受用報身如来である」ということを不信・否定するのか?という論理の筋道に則った寓意を、例えを以って提示したのである。

 

L『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』どもには、斯様に丁寧に説明してやらなければ(してやってもか?呵々)小児ほどにも理解できないほど脳髄が腐り果てた、ということが今回の妄犬マゴマゴ君の駄文で再認識させられた。ということである。呵々大笑

 

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しょうがなく新シリーズ マゴマゴの妄犬を呵責す。26  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月16日(火)21時57分0秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、次はどんな内容の駄文であろうか。

 

> C極めつけは原文(オリジナル)にない登場人物が翻案(この場合、パクリ)の舞台に登場することであり、大論客の空想力の逞しさが読者に伝わる一種の名場面でもあるが(笑)、これは前後の話しの流れからしてもまったく関係のない、無意味な脚色であり蛇足でもある。

 

↑やはり、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』妄犬マゴマゴ君には当方の「論理の平行移動」が理解できなかったようである。

http://toyoda.tv/magomago.htm ←この経緯からすれば、妄犬マゴマゴ君がこのように幼稚な思考回路しか持ち合わせていないことは容易に理解できるところであるが、こうして繰り返し更にその頑迷さを上塗りする愚行には何か哀れを誘う。

 

聡明な読者には大変申し訳ないが、この妄犬マゴマゴ君のレベルへ腰を落として再度詳細に解説し呵責し直すので、もう十分趣旨を理解し、馬鹿馬鹿しいと思われる方は以下を読む必要はありません。

今までの経緯を御存知ない方のみお読み下さい。

 

まず"臭っ!いのね"君の愚論

―――――――――――

> いわゆる★1【「開眼された御形木御本尊」と、そうでない(開眼されていない)御形木御本尊(同じ相貌)を何体かお並べして瞬時にそれを見極めることができてこそ、事の上から君の言う『真実の開眼』といえるであろう。でなければ、ただの儀式、おまじないの範疇を出ることは理のうえから有り得ない。】

> 「法主自ら開眼した本尊がどれか判らない?」・・お笑いだよ。パロディーだよ!!

> 君が学会下附の御本尊を「開眼がない」「魔札」などと難癖をつける前に、上記を証明すべきでではないのか?

> 「開眼!開眼!」と騒ぎ立てて解答不能はないであろう?

> 義務はなくとも、樋田君にも、法主にお伺いする「権利」ぐらいはあるだろう?

> 違うか? 解答不能くん。

―――――――――――

で、これに対しての当方の反駁に編集・補足を加え再掲し、以って妄犬マゴマゴ君の軽薄さを摧破する。

―――――――――――

再掲文+補足・補注

 

●↑ここまで馬鹿だと、今世はまず修復不可能だな。

ここに醜犬がいかに「信」を亡失したか、一目瞭然である。

 

大聖人は明確に「開眼」についてその存在の重要性を明示されている。

「開眼がないものは魔・鬼が入る(趣意)」とも仰せである。

(註1 文証

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。638

創価学会販売のニセ本尊は「開眼」がないのであるからまさに魔札・鬼札である。

しかし、醜犬"臭っ!いのね"君は、自ら妄執による『仮定条件』(註2 ★1【】)を設定して、その証明がなければ「開眼」を信じない。否定する。

しかし、『「開眼」は唯授一人で、ただお一人からお一人にしか伝持されていない。』(註3 この証明はhttp://toyoda.tv/yamainu2.htmの130 137段等に詳述)

つまりその方=御法主上人以外には知り得ない。また、余人へ伝え漏らしてもいけない。

しかし、醜犬はそれを聞け、と妄要する。

これこそ、▼「・・お笑いだよ。パロディーだよ!!」である。呵々大笑

 

で、この醜犬の「不信」の様を分かりやすく別の「お一人にしか知り得ない案件」に置き換えてみると(註4 ここが"臭っ!いのね"君の立論の矛盾の突く当方の「論理の平行移動」を摘示した箇所である。)、醜犬"臭っ!いのね"君が如何に愚かで、醜悪極まりないかが鮮明に浮かび上がってくる。

 

大聖人は法華経神力品で上行菩薩として結要付嘱を承けられた。

しかし、このことは大聖人以外誰も知り得ない。(註5 「開眼の義」と同様である)

ただ「信」を以って拝する以外ない。

この結要付嘱の大事は、まさに「開眼」の義にも通じる秘事である。(註6 結要付嘱の深義の中に「草木成仏・開眼の深秘・深遠な法門」が含まれるのである。

 

「文証」

■一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず。

■草木成仏は死人の成仏なり。此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ

■一念三千の肝心、草木成仏 云々

■草木成仏の証人とは、日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るを指すなり。

■此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

■大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。

詳細な解釈は略)

そこで、醜犬"臭っ!いのね"君の言い分をこの結要付嘱に準えてみると↓かくなる。(「開眼」と同様に「結要付嘱」も、ただただ信を以ってしか拝すことができない重要肝心な御法門である)

 

"臭っ!いのね"君の「開眼」に対しての邪難の論理を「結要付嘱」へ平行移動して表記してみた』

 

> いわゆる★2【『大聖人が結要付嘱を承けたその確たる具体的・客観的証拠を見せてくれ』】てこそ、事の上から

>★3【 (当時の御信徒の誰でもいいが、仮に四条殿としてみよう。)】(註 結要付嘱を信じ主張する→)四条君の言う★4【『真実の『結要付嘱』』といえるであろう。】でなければ、★5【『幾ら虚空会の儀式がどうのこうのと大聖人が言ったって』ただの儀式、おまじないの範疇を出ることは理のうえから有り得ない。】

> 「『大聖人が神力付嘱の具体的かつ客観的な証拠を明示できない?』」・・お笑いだよ。パロディーだよ!!

>★6【 『四条君が、念仏の御本尊を無間地獄』などと難癖をつける前に】、上記を証明すべきでで(←※ママ)はないのか?

> 『神力付嘱、結要付嘱!』と騒ぎ立てて『具体的・客観的な証拠を出せずに』解答不能はないであろう?

> 義務はなくとも、四条君にも、『大聖人』にお伺いして『明確なる具体的・客観的な証拠を要求』する「権利」ぐらいはあるだろう?

> 違うか? 解答不能くん。

 

註7 ★2【】の言い分は、"臭っ!いのね"君がいう★1【】の言い分にそのまま配当される。

註8 ★3 妄犬マゴマゴ君などの愚者はここにいうただ"四条金吾殿"という有名な御信徒の名を当方が挙げさせていただいたことを嘲笑うのであるが、ここに明示した如く、当時の純真に大聖人を自受用報身如来の再誕と信じる方ならば誰を例えに挙げても全く問題は無いのである。

たまたま双方で認識度の高い四条金吾殿に登場願っただけである。しかし、詳細に閲すれば、四条殿が大聖人を自受用報身如来の再誕と深く拝していたかは少々疑問の残るところであるが。

註9 ★4も、"臭っ!いのね"君が、★1を証明できてこそ、「開眼」の義は在り得る。と主張している論理と全く同様の立論を設定しているのである。

10 ★5 この論理の組み立て方も★1が証明できなければ「開眼の義」などは在り得ない。とする"臭っ!いのね"君の立論と同様の設定である。

11 ★6 ここは、当方が「開眼のないニセ本尊などは魔札・鬼札である」と呵責することを、権実相対の辺に置き換え、阿弥陀仏を破折する設定にしているのであり、法門の論理性から言って順当である。

 

以下は、あまりに容易に理解できるが故に、これ以上解釈する必要もなかろう。

これほど平易な、"立論の設定を別のテーマに置き換えてその矛盾を突く、"という方法論が理解できない、とすれば、もはや単なる 馬鹿 に過ぎない。まことに ご愁傷様 である。

妄犬マゴマゴ君などは横合いから口を出してきて、自分がまさに『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』であると宣言・宣揚したようなものである。呵々大笑。

 

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しょうがなく新シリーズ マゴマゴの妄犬を呵責す。29  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 1月17日(水)15時49分39秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

つづき

―――――――――――

再掲文

 

醜犬"臭っ!いのね"君は、「開眼」を否定したいのであろう?

(醜犬が拝んでいるニセ本尊は開眼が為されてないこと明白であるから、"臭っ!いのね"君は「開眼」の義を肯定する訳にはいかない立場である。もし肯定するのならば、遠慮せず申し出てくれたまえ。それに似合った破折をしよう。)→

 

(註1 ここは"臭っ!いのね"君の主張全体を読むと明確に「開眼」を否定していることが分かる。)

―――――――――――

→つづき

 

●「草木成仏・開眼の御法門」を否定する謗法者が、

 

▼※2 『日蓮正宗の法主は、いわゆる「開眼された御形木御本尊」と、そうでない(開眼されていない)御形木御本尊を何体かお並べして瞬時にそれを見極めることができるのであろうか。』

 

などと悪意を以って邪難してきても、当の本人が開眼の意義そのものを否定するのであるから、態々▼「法主もしくは住職に質問して答える」義務や責任は全くない。

当たり前の道理である。

 

追駁

 

(註2 以下の寓話もニセ本尊で脳髄を蕩かされてしまった妄犬マゴマゴ君には一見では理解できないそうなので、まことに馬鹿馬鹿しい限りであるが註解を加えましょう。)

 

例えば

【『万病に効く。』という仙薬】(註3 戒壇の大御本尊 及び、御法主上人が開眼し、許可・認可された御本尊)

があり、

【その調合法は世界で一人の医師の家系にしか伝えられていない。

決して他へ漏らしてはならない。一子相伝である。

それが古くからのこの家の家訓である。】(註3 御本尊の深秘・深義 及び開眼の義は、唯授一人・血脈相承によって御歴代上人にしか伝持・相伝されていない。)

 

一方、

【かつてはその仙薬をいただいて飲んでいて実に健康そのものだった者達が居た】(註4 創価学会員がかつて真面目に日蓮正宗の教義に基づいて信行をしていた頃のこと)

のだが、

【ある一人の驕慢な者】(註5 池田大作君)

に誑かされて、

【その医師】(註6 御法主上人)

を嫌い、

【その仙薬を飲むのを止めた者達】(註7 戒壇の大御本尊から退転した創価学会員のこと)

が居る。

 

しかし、この者達は

【毎日薬を飲む習慣の為】(註8 表面的には勤行等の「仏教信仰」の形態をとって会員達を誑惑してきたこと。あるいは中には純真に日蓮正宗の御本尊を信じ毎日信行していた者たちも当然いる)、

【仙薬】(註3)

の替わりに痴人達に何かを与えなければならなくなった

【この一人の驕慢な男】(註9 池田大作君)

は、その

【秘伝の仙薬】(註3)

を真似て、

【見た目は色も質感も似ている粉ものを自己流にかき集め混ぜあわせ】(註10 創価学会販売のニセ本尊)

【痴人達】(註11 ニセ本尊に疑問を抱かない大馬鹿者の会員達)

に与えた。

【痴人達】(註11)

は、

【何も分からず日々そのまがい物を飲んでいる。】(註12 ニセ本尊を拝む姿)

【その驕慢の男】(註12 池田大作君)

は、自分の下に大勢の痴人を繋ぎ止めて置きたいが為に(それは

【日々この男へ莫大な貢物が上がるからである】)(註13 財務 と称しての多額の寄付金集め。公明党 と称して権力を行使できる政権与党での勢力維持。他 聖教新聞 という名目での資金集め。等等、莫大な資金と、政治的背景を形成する多数の票 等が、池田大作君へ集中する、中央集権的な機構体制が構築されている。)

【自分】(註5 池田大作君)が

【適当に掻き集めて混ぜ併せたまがい物】(註14 ニセ本尊)

を正当化する為に、

【その、秘伝の仙薬と調合法】(註15 御法主上人にしか伝持・相伝されない開眼の義も含む御本尊の御大事・深秘・深義)

を、

【繰り返し繰り返し、あえて嘲笑し侮蔑した。】(註16 「戒壇の大御本尊 モノ 発言」 等。例証繁多につき略す)

すると

【痴人達】(註17 ニセ本尊をニセと見抜けない大馬鹿者の創価学会員達)

【その男】(註 池田大作君)に追従して、いつしか

【その秘伝の仙薬と調合法】(註15)

【侮蔑し嘲弄しだした。】(註18 今回の"臭っ!いのね"君の邪問等)

 

しかし、

【その唯一調合法を知る医師】(註 御法主上人)

は、

【そのまがい物】(註 ニセ本尊)

【調べ、毒薬であることを見抜き広く伝える。】(註19 御法主上人がニセ本尊を呵責されること。証文繁多 略)

 

が、

【日々その毒薬を食らう痴人等】(註20 『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である、妄犬マゴマゴ君、"臭っ!いのね"君、やまいぬ。君、沖浦君、陰性君 等などの大馬鹿ものども)

は、

【その医師】(註 御法主上人)の言を聞き入れない。

 

それは、

【自分等の毒薬にも麻薬的な効果があって、一時的に強い快感が生じるため】(註21 魔の通力によってニセ本尊でも利益らしきものが出ることがある。との意。http://toyoda.tv/okiura.tonso7.htm に詳述)

であり、また

【その毒薬を飲み続けていくと、正常な思考や情緒が破壊され、物事を正しく見聞きし、正しい判断をし、正しく行動することが出来なくなってしまうからである。】(註22 大聖人ははっきりと開眼のない本尊には魔・鬼が入る。と仰せである。その魔・鬼がニセ本尊を拝む者の心身に深く入り込み斯様な状態になるのである。)

それは、

【酒に酷く酔った時に正常な判断能力を失う姿と同様である。】(註23 御書にも類文あり)

 

さて、

【その毒薬に酔い痴れている痴人の一人】(註24 魔札・鬼札のニセ本尊をありがたがって拝む"臭っ!いのね"君のような者)が、その

【仙薬や調合法】(註15)を否定したいが為に、

【秘伝の調合法の内容に関することについて、その仙薬を飲む者へ底意地悪い質問をしてきた。】(註25 今回の▼※2等の邪問)

【その邪問を受けた者】(註26 当方)

【その泥酔した酔漢の如くの痴人】(註27 "臭っ!いのね"君及び妄犬マゴマゴ君など)

に対して、

【もとより一子相伝で外部に漏らしてはならない決まりの調合法】(註15)

を、態々

【医師】(註 御法主上人)

に伺って(そもそも秘伝であるからその

【医師】(註 御法主上人)

が内容を開示されるはずもないが)

【その内容】(註15)

を示す必要があるのか。

 

それよりも、まずは

【痴人】(註24)

【毒薬】(註 ニセ本尊)

を一刻も早く止めさせ、

【酔いを冷まさせ】(註28 激しく呵責すること)、

【正しい仙薬を飲むことを強く勧める】(註29 ニセ本尊を速やかに破却し、創価学会を脱会し、日蓮正宗へ帰伏し、懺悔滅罪の日々を過ごす事を強く勧めること)

のが先決であろう。

であるから以下の再掲文と続くのである。

 

あ〜〜、『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』を相手にすると、実に骨の折れるものである。

妄犬マゴマゴ君などは知性の欠片も持ち合わせていないから、このような詳細な解説をしてやらないと理解でいないようである。(どうせ、これでも分からないだろうがね。ヤレヤレゝ(-_-;)〜〜)

だが、これを読む他の有識具眼の方が領とせられれば、それで十分であろう。

 

つづく

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沖浦氏の教義的矛盾を問う 1  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月13日(火)11時44分40秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

沖浦さん、以下の内容は少々問題が多いですね。

直接対面対論とは別に、当掲示板上で教義的な内容に触れる限り、破折させていただきます。

―――――――――――

Re: 木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が

 

>  木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。

>

>  大層簡潔な道理ですよ。

>

>  それともね、蓮祖建立の木像や絵像が大石寺にあって法主以下が拝んでいるのですか??

>

>  木像〜板曼荼羅。

>  絵像〜紙幅のご本尊様。

>

>  これはね、こじつけにすぎませんよ。

>  ですからね、詭弁を弄するより、

>

>  日蓮正宗ではしきたりとして法主が開眼をしております。

>

>  これでいいんですよ。

―――――――――――

1、大聖人が、御正意・御真意として釈尊等の絵像木像の類を本尊として帰依することを後々までお認めになるわけがない。

それは、大聖人の仏法を学ぶ者の"常識"です。

(もちろん不相伝家では、これすら理解していませんが。)

さて、では問題となるのは、発迹顕本以降の佐後である文永9年に、何故「木絵二像」の「開眼」の御抄があるのか。ということでしょう。

 

そもそも、この御書中には、

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり

 

とあり、この御文を文字だけで読めば、「釈尊の絵像・木像の前に法華経を置けば、必ずその木絵の二像は純実円満の生身の仏となる」

との意味になり、大聖人様が釈尊の絵像・木像を本尊としてお認めになっていることになり、沖浦さんのいう、▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖」という前提自体と大いに矛盾してしまいます。

つまり、この御書は、既に何らかの方便を含ませてお説きである。ということが分かります。

方便があるからには真実・真意がその奥に存在するのが道理です。

我々修行者は方便の言に囚われ、大聖人様の真意を見誤るような軽薄な読み方をしては浅識・計我・不解との謗法となりましょう。

謗法は地獄行きですから、よくよく恐れなければならないところです。

 

そこで、大聖人様は「開眼」の意義についてどのようにお考えになっていたかを検証すれば、自ずと該抄「木絵二像開眼の事」の真意が領解できるものと思います。

 

この御抄の中に、

 

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。

 

とあり、この「印する」という語には「跡を残す。しるす。光・影などを物の上になげかける。」等の意味あり、"ある主体者が対象へ向かって為す行為"であることが分かります。

更に、この御文直後の

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、云々」

 

との御文と併せ拝すれば、

■「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば」と

■「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養」とは同義ですから

「印する」とは「開眼・開眼供養」の意義であることが分かります。

 

ここで分かる事は、

【1】"「開眼供養」により「草木成仏」する。草木成仏をした"木絵二像"は生身の仏"になる"

ということでしょう。

 

では、草木成仏 とはどういうことでしょうか?

 

そこで、ちょうどこの年、文永9年、人本尊開顕の重書「開目抄」が説かれた同じ月に顕された「草木成仏口決」に拝してみましょう。

 

■草木成仏とは非情の成仏なり。(草木成仏口決  文永九年二月二〇日  五一歳)

 

草木成仏とはつまり、非情が成仏することである。

しかし、ここで注意を要するのは、【1】"「開眼供養」により「草木成仏」する。"ということです。

そこでここをまとめると、

【2】草木成仏は開眼供養に依って為されるが、それは非情の成仏ということである。非情が"仏と成る"ということである。

 

■我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。

 

塔婆はそのままでは非情である。であるから、その非情である塔婆を「開眼供養」することにより、草木成仏せしめて故人の成仏を期するのである。

その根拠は以下の御文でも明瞭である。

 

■我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。

 

この御文は、塔婆にも通じ、曼荼羅御本尊を御本尊として信行の対境とする意義へも通じる文証である。

であるから、直後に以下の曼荼羅御本尊に関するお言葉へと続くのである。

 

■此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰(ごおん)世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。

 

では、ここまでをおさらいして纏めて見ましょう。

 

【小結】

 

開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

 

つづく

 

沖浦氏の教義的矛盾を問う 2  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月13日(火)23時53分43秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、では、

【小結】開眼供養によって、非情は草木成仏する。草木成仏とは非情が仏と成ること、つまり、生身の仏となることである。

について、更に他の御書に詳細を拝していきましょう。

 

■四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳

 

されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰(ごおん)世間、三には国土世間なり。前の二は且(しばら)く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

 

この御文には、更に詳細に「草木成仏」の意義が示されています。

 

■画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

 

ここも、"絵像木像の「開眼供養」は法華経・天台宗でしか為し得ない。"と仰せでありますが、この御文をそのまま字の面だけで読めば、"絵像仏像等の釈迦像を開眼供養するのは、法華経と天台宗でしか出来ない"となり、大聖人様が仏像を容認し、法華経をそのまま用い、しかも像法過時の宗派である天台宗を容認することになってしまい、大聖人様の御真意の御法門ではないことになってしまいます。

 

【参考御書】

 

■今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。

■天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にはあたらず。(撰時抄      建治元年六月一〇日  五四歳)

 

ですから、ここもやはり方便で御説きであり、御真意は更に深いところにあると拝さねばなりません。

そこで、この後の御文を拝すると、いよいよ大聖人様のご真意が明瞭となってまいります。

 

■草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。

 

ここで、大聖人様が仰せになった、「絵像・木像=木絵の二像」の意義が鮮明に現れてまりました。

つまり、「画像」の意味は、「絵の具」→つまり、"本尊"として書いた素材そのものを仰せであり、「木像」との意味は、「木」=木材、というやはり「素材・原料材」を指しておられることが分かります。

つまり、「絵像・木像=木絵二像」と仰せになった御真意は、表面上の「釈迦の絵像木像」という意味では決してなく、その原料素材としての「絵の具・木材」という「非情」のことであった訳です。

ここで、今までの考証の深意が詳らかになってきました。

 

【小結2】

 

大聖人様は機根が未だ"曼荼羅本尊正意"という深旨まで熟さない対告衆に対して表向き「釈尊像造立」を容認しつつ、そこに、原料素材である非情の絵の具・木材等の開眼供養による草木成仏により生身の仏身と為す一念三千の悟りの法門とその絶対必要性を説き篭められていたのであります。

この点を踏まえて以下の御文を拝すればいよいよ大聖人様の御真意がいや増して明瞭となる事でしょう。

 

■此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入(い)るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。

 

こここそが開眼供養の本義を方便の御文の内に明確に篭められて仰せ御遊ばされた御文であります。

つまり、

この画(=原料素材としての絵の具。当然、"墨"も含まれることは自明の理である)、木材に、魂魄という神を入れること(=開眼供養)は、法華経(=三大秘法)の力である。これは天台大師の悟り(=大聖人様の悟り)である。この法門は生きた衆生に即して言えば即身成仏であり、非情である墨などの絵の具や木材で言えば草木成仏である。(=生身の仏と成ること)

 

以上の論証から導き出される結論は、

 

【結論】

 

曼荼羅御本尊も木絵二像と全く同じく、紙・木材・墨等の非情である素材で出来ているのであるから、そこには法華経を心得た智者(鎌倉時代で言えば大聖人様。また大聖人様より御命を賜った御僧侶方)によっての開眼供養により、草木成仏為されなければ生身の仏として成立しない。

(ただしこの時代は大聖人様が直接御本尊を顕されていたのですから、殊更に曼荼羅御本尊に関しての「開眼供養」の御指南が無いのは当然です。が、現時では、殆どの信徒に下付されるのは御形木御本尊、つまりは"印刷された御本尊"ですから、素材が非情で出来ている限り、開眼供養によって草木成仏を為し、生身の仏と顕現しなければ「本尊」として成立しないということが、以上の、「木絵二像開眼の事」「草木成仏口決」「四条金吾釈迦仏供養事」等の御書を併せ拝し、検証すれば自ずと明瞭となってくるのであります。そうは言っても毒気深入の頭破七分者にはそう簡単には理解できないでしょうが。)

 

ということで、

 

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

 

との御文は、やはり創価学会発売の本尊らしき様相を偽装した掛け軸を指すのであります。(もちろん、その他世の中に存在する一切の本尊状の"モノ"も含む)

 

【後述】

 

さて、以上の論証に反駁したい向きは沖浦さんをはじめ大勢いらっしゃるでしょうが、くれぐれも正当なる道理・文証を以っての反論にを心掛ける様にご留意いただきたい。

ただ、無闇矢鱈に「自分はそうは思えない!」というだけの我意・我見のごり押しでは、反論として成立しないことを銘記されたい。

また、そのような低次元の遠吠えの繰り返しは、そのまま自らの敗北を意味することになるので、創価学会の恥晒しとならないように十分にお気をつけ下さい。

 

では、宜しくお願い致します。

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沖浦氏の教義的矛盾を問う 3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)12時03分47秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

沖浦さんへ

 

以下のご意見について大聖人の御文をもとに述べさせていただきます。

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Re: 樋田さん

 

>  『日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。』

>

>  (富士一跡門徒存知の事)

>  これほど明確に唯授一人の興師が、木絵二像を本尊として否定されておられます。

>

>  木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。

>

>  大層簡潔な道理ですよ。

―――――――――――

これは、既に簡単に触れておきましたが、沖浦さんの立論は大変な矛盾を孕んでますね。

 

1、この「開眼供養」をお説きになられた『木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳』 に

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。

 

とおおせであり、「木絵二像」が生身の仏=本尊と成る、としてお認めになってるこの御文はどう解釈するのでしょうか?

 

2、他の御書にも、木絵二像等を「開眼」し「本尊」としてお認めになる御文があります。

 

@ ■    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳

 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

 

この御文は明らかに「釈尊の仏像」への「開眼供養」を為す事によって、生身の教主釈尊=本尊 と為すことをお示しです。

しかも、大聖人御自ら「急いで参詣し参拝したい」と仰せです。

ここでも、沖浦さんの言う▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。」との主張は、事実の上で錯誤しておりませんか?

 

■いつぞや大黒を供養して候ひし、其の後より世間なげかずしておはするか。

 

このように"大黒"を"供養"したことをもお認めですが、これなども大いに沖浦説とは矛盾しますが、どう解釈したらいのでしょうか?

 

A ■    四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳

 御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。

 開眼(かいげん)の事、(中略) されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

 

この御文もまさに釈尊の木像一体を「開眼」する意義を説かれております。

もし、大聖人様が"木絵二像を本尊とすることを絶対にお許しにならない"のなら、何故四条殿を叱責なされなかったのでしょうか?

 

B ■本尊問答抄   弘安元年九月  五七歳

木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。

 

これほど、明白に仰せのこの御文の意義はどう解釈するのでしょう?

ここも、やはり▼木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。」と主張される沖浦さんの説とは大いに矛盾します。

 

C ■ 日眼女釈迦仏供養事    弘安二年二月二日  五八歳

 ■御守り書きてまいらせ候。三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(にちげんにょ)。

 ■釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。

 ■今教主釈尊を造立(ぞうりゅう)し奉れば下女が太子をうめるが如し。国王尚此の女を敬ひ給ふ。何に況んや大臣已下をや。

 ■一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべし

 ■今日眼女(にちげんにょ)は今生の祈りのやう(様)なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとをぼ(思)しめすべし。

 

これ程までに、釈尊像を造立した日眼女を称嘆されるとはどういう理由でしょうか?

いすれにせよ、沖浦説とは大いに矛盾しています。

 

沖浦さん。

以上の矛盾点について、御書の御文のみで、説明して下さい。

宜しくお願い致します。

 

つづく

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沖浦氏の教義的矛盾を問う 7  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)21時48分11秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

それでは、また詳細にいきますか。

―――――――――――

> DATE:  3月16日(金)20時01分29秒

> TITLE: それでは樋田さん

> NAME: 沖浦克治  MAIL:

>

>  簡単に説明致します。

>  ご本尊様に日蓮正宗の法主の開眼が必要かどうか?

>

>  御書には、自らの御図顕の御本尊様に蓮祖以外の誰かの開眼が必要。とは一言もかかれてはいません。

>

>  開眼に関するご文を引用しておきます。

―――――――――――

■仏法と申すは道理なり。(四条金吾殿御返事   建治三年秋  五六歳)

 

道理として、大聖人様が顕された御本尊に他の誰かが開眼をする必要がないことなど、小児ほどの智慧でもさほど難しくなく理解できるでしょう。

今沖浦さんと論じ合う内容は現実の問題として、今時の御形木御本尊のことを言っているのであります。

大聖人様の御書には御形木御本尊についての記述がありませんから、当然そのお取り扱いについても御指南はありません。

しかしまた、非情である"物質"を草木成仏為さしめ、生身の仏と為し、本尊と為す原理については明確に示されています。

御形木御本尊も当然その素材原料は非情の物質です。

非情の物質はそのままでは生身の仏=本尊とは成りえないのですね。

何故なら、もし、非情の物質が全て「本尊」としての存在ならば、この世に存在する石でも、水でも、木でも、空気でも、・・・・はたまた、自分の髪の毛でも、爪でも、魚の目でも、切って痛くないものは全て、本尊・・・・というようなことになってしまします。つまり、それこそ森羅万物全て「本尊」ということに成ってしまい、それはつまりは「本尊」としての意味を成しません。

また、文字曼荼羅であればすべて「本尊」ならば、身延の貫首が書いた物でも、(御書には文字曼荼羅御本尊の相貌については詳しく書かれておりませんから、御書だけで判断するのであれば、他門流の曼荼羅本尊も全て許されることになります)誰かがいたずら書きしたものでも、ワープロで打ったものでも、更にそれを何万回とコンビニでコピーしたものでも、全部「本尊」ということになってしまいます。

つまり、開眼を否定すると、非情の物質である本尊はどこまでが本尊に成り得て、どこからが謗法物なのかのけじめが全くつかなくなるという奇奇怪怪な現象が起こるということです。

大事な本尊に関して

■諸宗は本尊にまどへり( 開目抄上   文永九年二月  五一歳)

と仰せになる大聖人様がこのような支離滅裂な様相を呈することに成りうるようなことをお定めにならないはずはなく、「開眼」の一事に依って、この本尊雑乱の大混乱の狂態が起きないのであります。

 

■仏法と申すは道理なり。(四条金吾殿御返事   建治三年秋  五六歳)ですから、

道理として非論理的なことは大聖人様の仏法ではないのであります。

 

まず、この点について、開眼を否定する立場の沖浦さんの見解を再度伺いたいと思います。

宜しくお願い致します。

 

沖浦氏の教義的矛盾を問う 8  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)21時56分27秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次は以下の点について。

―――――――――――

> DATE:  3月16日(金)20時05分24秒

> TITLE: 木絵二像が、

> NAME: 沖浦克治  MAIL:

>

>  蓮祖御図顕の板曼荼羅と紙幅の曼荼羅。と、何処に書いてありますか??

>

>  ありませんよ。

>

>  それどころか、興師は、

>  木絵二像を持って本尊としない。と、言明をなされておられます。

>  どうして素直に読めませんか?

―――――――――――

これは既に再三指摘しておりますが?

では、再度この発言の矛盾について指摘します。

 

1、大聖人が、御正意・御真意として釈尊等の絵像木像の類を本尊として帰依することを後々までお認めになるわけがない。

それは、大聖人の仏法を学ぶ者の"常識"です。

(もちろん不相伝家では、これすら理解していませんが。)

さて、では問題となるのは、発迹顕本以降の佐後である文永9年に、何故「木絵二像」の「開眼」の御抄があるのか。ということでしょう。

―――――――――――

沖浦氏の教義的矛盾を問う 3  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)12時03分47秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp   引用

 

  沖浦さんへ

 

以下のご意見について大聖人の御文をもとに述べさせていただきます。

―――――――――――

Re: 樋田さん

 

>  『日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。』

>

>  (富士一跡門徒存知の事)

>  これほど明確に唯授一人の興師が、木絵二像を本尊として否定されておられます。

>

>  木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。

>

>  大層簡潔な道理ですよ。

―――――――――――

これは、既に簡単に触れておきましたが、沖浦さんの立論は大変な矛盾を孕んでますね。

 

1、この「開眼供養」をお説きになられた『木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳』 に

 

■三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり云々。

■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。

 

とおおせであり、「木絵二像」が生身の仏=本尊と成る、としてお認めになってるこの御文はどう解釈するのでしょうか?

 

2、他の御書にも、木絵二像等を「開眼」し「本尊」としてお認めになる御文があります。

 

@ ■    真間釈迦仏御供養逐状   文永七年九月二六日  四九歳

 釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ(予)房をも(以)てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。

 

この御文は明らかに「釈尊の仏像」への「開眼供養」を為す事によって、生身の教主釈尊=本尊 と為すことをお示しです。

しかも、大聖人御自ら「急いで参詣し参拝したい」と仰せです。

ここでも、沖浦さんの言う▼「木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。」との主張は、事実の上で錯誤しておりませんか?

 

■いつぞや大黒を供養して候ひし、其の後より世間なげかずしておはするか。

 

このように"大黒"を"供養"したことをもお認めですが、これなども大いに沖浦説とは矛盾しますが、どう解釈したらいのでしょうか?

 

A ■    四条金吾釈迦仏供養事      建治二年七月一五日  五五歳

 御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。

 開眼(かいげん)の事、(中略) されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

 

この御文もまさに釈尊の木像一体を「開眼」する意義を説かれております。

もし、大聖人様が"木絵二像を本尊とすることを絶対にお許しにならない"のなら、何故四条殿を叱責なされなかったのでしょうか?

 

B ■本尊問答抄   弘安元年九月  五七歳

木像画(え)像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。

 

これほど、明白に仰せのこの御文の意義はどう解釈するのでしょう?

ここも、やはり▼木絵二像を本尊と絶対にしない蓮祖が、 木絵二像を引用しご本尊様の開眼を説かれるわけが無い。」と主張される沖浦さんの説とは大いに矛盾します。

 

C ■ 日眼女釈迦仏供養事    弘安二年二月二日  五八歳

 ■御守り書きてまいらせ候。三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(にちげんにょ)。

 ■釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。

 ■今教主釈尊を造立(ぞうりゅう)し奉れば下女が太子をうめるが如し。国王尚此の女を敬ひ給ふ。何に況んや大臣已下をや。

 ■一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべし

 ■今日眼女(にちげんにょ)は今生の祈りのやう(様)なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとをぼ(思)しめすべし。

 

これ程までに、釈尊像を造立した日眼女を称嘆されるとはどういう理由でしょうか?

いすれにせよ、沖浦説とは大いに矛盾しています。

 

沖浦さん。

以上の矛盾点について、御書の御文のみで、説明して下さい。

宜しくお願い致します。

 

沖浦氏の教義的矛盾を問う 9  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)22時06分9秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

次は以下の点について。

―――――――――――

> DATE:  3月16日(金)20時13分11秒

> TITLE: すなわちですね

> NAME: 沖浦克治  MAIL:

>

>  貴方は

>

>  1 木絵二像の開眼を蓮祖が御書で触れておられれる。

>  2 その木絵二像は蓮祖御図顕の板曼荼羅と、紙幅の曼荼羅である。

>  3 故に蓮祖はご本尊様の開眼が法主により必要だと仰せである。

>

>  このように読んでいるのです。

>

>  これは無理ですよ、そのように無理やり読むためにいろな理屈をややこしく構築しなければなりません。

―――――――――――

沖浦さんの主張では、

『何故大聖人様が木絵二像(←日興上人が禁止されている)の開眼供養を勧められたのか?』

に対しての明快な返答がありません。

どうか、"理屈をややこしく構築"せずに、"単純明快"にご説明ください。

宜しくお願い致します。

 

沖浦氏の教義的矛盾を問う 10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月16日(金)22時19分48秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

>  ところがですね、蓮祖の法は単純明快なんです。

>  自行化他の御題目をご本尊様に唱える。

>  これだけの教えです。

>  ややこしいルールは一切ありませんよ。

>  ですから真の大乗仏法です。

>  お分かりですな。

 

>  ややこしく複雑な手続きは不要なんです。

>  これが根本精神ですね、蓮祖の法の。

>  貴方はそれを捻じ曲げて極めて複雑な手続きを踏まねばならないと言う。

>  間違いですよ。

>  蓮祖はそのような事はお仰せではありません。

>

>  理解していただけますか?

 

―――――――――――

では、その"ご本尊様"について、御書には、

”日興上人門流の二十六代目の法主が書いた本尊から、授与書きは削り落として、印刷して(≒形木にして摺って)、そのまま拝め。”

"蓮祖はそのような事はお仰せではありません。"のに、どうして、態々自分達が否定している門流のそれも、態々二十六代目の書かれた本尊を選ぶなどという、"ややこしく複雑な手続き"を踏むのか、説明していただけませんか?

それがどう「根本精神ですね、蓮祖の法の。」なのかも説明して下さいませんか。

どうか、宜しくお願い致します。

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沖浦氏の教義的矛盾を問う 16  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月19日(月)11時25分35秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

少々時間がとれたのでまずはこれからいきましょうか。

―――――――――――

Re: 樋田さん、余りにも見苦しいですよ

 

> >当方は、開眼に関する御文を引いて、その御文を元に開眼の必要性を論証しています。

>

>  全く論証出来ていませんよ。

>  蓮祖滅後、ご本尊様が大量に必要になる時が来る。

>  当然広宣流布をするのですから当たり前の事ですね。

>  そのときのご本尊様の作成方法を蓮祖がお忘れになるはずがありませんよ。

>  もし法主と言う存在がそれを請け負えと仰せならね、蓮祖がその点をぼかしたまま御入滅なされるはずがないでしょう。

>  広宣流布はね、ご本尊様が無ければ不可能なんですよ。

>  御書をお読みなさい。

 

>  貴方は、蓮祖御図顕のご本尊様に日蓮正宗法主の開眼が絶対に必要と言う。

>  ではね、御書にそのように書かれてあるところを具体的に引用してください。

>  私の要求はそれだけすよ。

>  それではどうぞ。

 

―――――――――――

では沖浦さんに訊きますか。

 

そもそも、その「ご本尊様が大量に必要になる時が来」たら、何を広めろと、御書には書いてあるのですか?

 

”大聖人御図顕の御本尊” では答えに成っていませんよ。

「大聖人御図顕の御本尊」とは、まさに"大聖人が図にして顕した御本尊"との意味ですから、大聖人御真筆の御曼荼羅御本尊を意味します。

また、御書には「形木本尊を広めろ」との御指南もありません。

 

創価学会がかつて創立以来広めてきた御本尊は

【1】「日興上人から正統な唯授一人・血脈相承を相伝された御歴代上人が"大聖人御図顕"の戒壇の大御本尊の御内証を書写された御本尊(常住御本尊)と、同じくそのようにして書写された御本尊を印刷した御形木御本尊」です。

決して、「大聖人御図顕の曼荼羅御本尊」ではありません。

 

沖浦さん、まずこういう基本的な語句の意味や用法をきとんとしていきましょうね。

 

では、御書のどこに、"【1】という御本尊を広める事が「広宣流布」なのだ。"と書かれているのでしょうか?

沖浦さんの言葉で言えば▼「御書にそのように書かれてあるところを具体的に引用してください。」

ということですね。

 

それが明示できなければ、沖浦さん自身も▼「御書にそのように書かれてあるところを具体的に引用してください。」と、当方へ要求する根拠がなくなるのではないですか?

自分ができない事を他人へ強要する事は「世間の常識」豊かな沖浦さんとしては決してしてはならない愚行ですよね?

 

それでは、宜しくお願い致します。

 

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沖浦氏の教義的矛盾を問う 19  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 3月19日(月)22時45分47秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

以下の内容も随分と強引ではないですかね?

―――――――――――

Re: 開眼ってなんでしょうね〜〜?

 

>  目を開く事ですね。

>  絶対条件として開かれるべき目を持っていないといけません。

>

>  『日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、』(報恩抄)

>

>  大聖人様様はね、開眼をこの様に仰せです。

>

>  一切衆生の盲目を開くのだ。

>  そして、無間地獄への道をなんとしても塞いでしまう。

>

>  明快でしょう。

>  法華講さん方。

>  御書を素直に読みましょうね。

>

>  法主の開眼???

>  何ですか〜〜????

>  それは?????????

―――――――――――

余りの牽強付会にこちらが一瞬たじろいでしまうような主張ですね。

 

1、この「盲目」とは、末法弘通の教法の正体を知らない衆生の根本無明惑を表された御文と拝します。

この段を引文致します。

 

■ 問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、何物ぞや。答へて云はく、

三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正

法なり。求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊

とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。

三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてゝ南無妙法蓮華経と唱ふべ

し。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮

華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。(中略)日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。

 

通読すれば容易に領解できるところです。

この段の趣意は"末法弘通の正体は三大秘法であり、衆生の不幸の原因である根本の迷いの煩悩である根本無明惑を断破し、開かしむる功徳がある。衆生が無間地獄に堕ちる根本原因である無明を断尽するのであるから、無間地獄へ堕ちる道を塞ぐ事ができるのである。"

ということであり、「盲目」の「盲」とは迷い、「目」とは衆生本来の覚体、と言えましょう。

つまり、あくまで衆生の機に約した表現であります。

 

一方「開眼」とは、非情の草木を一念三千の悟りから開かれたところの原理によって、草木成仏為さしめ、以って生身の仏=本尊と為す。との意義ですから、法体に約した概念であり、表現であります。

【傍証】

■所詮眼の一字は一念三千の法門なり。

 

この「衆生の機情に約した語」と、「法体に約した語」を混同・錯誤しているのが沖浦さんの主張です。

 

当該御文に戻りますと、「三大秘法は衆生の根本無明惑を破り、開く(趣意)」ですが、その"三大秘法"といってもその本尊としての対境・法体は、まさか空中に浮かんでいる訳ではなく、確たる存在物である訳です。

ここに示される、

■「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」という本尊=存在物 ということです。

 

「開眼」とはその「元草木である本尊=存在物 を草木成仏為さしめる。」ということです。

その意義関係は以下の如く

 

非情の草木

→本尊としての形状を形成

→法華を心得た智者による『開眼』

→草木成仏

→生身の仏=衆生の『盲目』をひらく真の力用を備えた御本尊

 

という構図になり、「開眼」された御本尊によって衆生の「盲目」がひらかれる、という能開・所開の関係になります。

この能開・所開には厳然たるけじめがあり、これを混同・錯乱してならないのですね。

 

―――――――――――

2、沖浦さんは、

■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

との御文を"そのまま"読むべきであり、この「木絵二像とは釈尊像との意味しかない。(趣意)」と主張されてますよね。

 

では今回の引文中の

■「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」

の中の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。」とは、沖浦さんの読み方である"そのまま"読めば「釈尊像」ということになってしまいませんか?(事実他門流では未だにそうですが。)

一方沖浦さんは本尊とは「宗祖御図顕の曼荼羅御本尊である。」とも主張されていますよね。

では、御文を"そのまま"読まれる沖浦さんは、どういう根拠で、この「本門の教主釈尊を本尊とすべし。」が「宗祖御図顕の御曼荼羅御本尊」となるのでしょうか?

そこの思考順路をご説明願えませんかね。

 

(因みに当方は、「木絵二像」とは他の御文とを併せ拝した場合、大聖人様の一往方便、再往は御曼荼羅御本尊として形成される原料素材としての物質である非情の木材・墨・紙等の意義を含ませての仰せであり、その意義から拝考するに「法華を心得たる人」が開眼をされる前の板曼荼羅・紙幅曼荼羅と解しております。)

 

是非、「教主釈尊」を「曼荼羅御本尊」と認識される沖浦さんの根拠をお聞きしたいものです。

それがもし、他の御文等との並立による類推であるならば、当方の思考手順と同等であり、当方の論証のみを排斥できないと考えますが。

自らには甘い基準判定で、他人へは酷評・批判する、などという不公平な評価・評論は、沖浦さんの最も軽蔑する卑怯な行為ですものね。

 

では、宜しくお願い致します。