三、文証の引き方
このやまいぬ。君という駄犬は、御書と日興上人の御指南しか信用しないという立場で、しかも日寛上人の御指南も当然用いないという大馬鹿さ加減、大炸裂の痴犬であるが、以下の矛盾に気がつかないとすれば、もはや常人の域を逸脱している狂気の世界の住人である。
このやまいぬ。君ら狂気の駄犬の矛盾に満ち満ちた言い分はこうであろう。(学会員の心中を説明するとこうなるか。)
★日寛(上人)が言うことは「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」であるから、全くあてにならないし、信用していないが、日寛(上人)が信じていた戒壇本尊というニセ物を書写した本尊の中で、
1、淨円寺の住職だった大行阿闇梨本證坊日證授与の本尊だけが何故か特に気に入って、
2、きっとこの本尊だけが宇宙本源の法を顕しているような気がするので、
3、それを写真に撮って、
4、画像をパソコンへ取り込んで、
5、でもこの『本證坊日證』という個人宛の授与書きは、全世界の学会員に販売するにはちょっと具合が悪いので、
6、そこの文字はザックリ削り落として、
7、他も全体に古くて痛んでいたから、コントラストや白黒のレベルを調整したり、
8、シミなどの部分は漂白するように白く補正して、
9、字も外人にもうけがいいように見栄え良く伸ばしたり書き加えたりして
10、大いに修正・加筆・補正を加え、
11、安く仕上げる為には、和紙だの表具だの言っていたら儲からんから、
12、一枚多色刷りで掛け軸状にみせかた本尊だから、
13、実にありがたくて、
14、功徳もバンバン出るというし、
15、最初はちょっと気味が悪かったけれども、
16、みんな平気な顔して拝んでるし、
17、きっと『みんなで拝めば怖くない』だから、自分も拝んでいる。
↑この中学生が読んでも容易に理解できる噴飯ものの大矛盾に気がつかないとすれば、まさに頭破七分で正気を失っている姿である。
更に、やまいぬ。君は、身延のみやげ掛け軸でさえ条件付で"御本尊"なり得ると言うのであるから、もはや馬鹿につける薬なし。馬鹿は死ななきゃ治らない、的に重症である。(因みにこの件を知り合いの学会員に詰問したら、はっきり身延のみやげ掛け軸は謗法だ。と言下に即答したが?同じ学会員同士でこうも真反対に見解が違う状態が、まさに■「諸宗は本尊にまどへり」であり、もはや創価学会が邪宗と成り果てた証左である。)
やまいぬ。君、もし日寛上人だけが他の御歴代上人と別格と言いたいのならば、貴公の理屈である、▼「広宣流布もろくざま進められなかった、そもそも自身どの程度折伏したかも知れぬ途中の坊主」でないことを具体的な数値を示して立証して見せたまえ。
頭のよくない駄犬には本当に苦労させられる。もう少し頭のいい学会員なら、さすがにやまいぬ。君のような稚拙な理屈は振り回さないがね。
さすがに恥ずかしくて。それが分からないところが痴犬の痴犬たる所以か。実に謗法の害毒恐ろしいものがある。
自分が糞臭いということに気がつかないで平然と市中を闊歩しているようなものである。
■臭きを溷厠に忘る。善言を聞いて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑って悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。
とのご叱責の通りのぶざまさである。
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因みに駄犬は▼「蓮祖・興師の文証どーぞ。(^o^)」と馬鹿の一つ覚えを繰り返すが、歴代上人の御指南は全て"御文証"である。
■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。
【池田大作指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。
再掲
更に駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜
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●ここもポイント。
繰り返しになって聡明な読者には恐縮だが、この駄犬は「道理」が分からない低脳者に成り果てたようなので、世話が焼けるのです。
日興上人は、お示しになられたそのものが尊く「正しい」から「大事にせよ」と仰せになった、ということは小児でも理解できる理屈である。
もし、そうでないとするならば、日興上人は正しくもないものを大事にせよ、と仰ったことになり、甚だ不自然極まる。
●ここで、こういう道理が既に理解できなくなった者をして大聖人がどのように呵責しておられるか拝そう。
■癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。
この御文はまさに、駄犬のような愚悪な者を痛烈に呵責せられている箇所なので、少し詳しく見ていきましょう。
愚かな者、道理に暝い者は、疑い深く邪心をもって執拗に訊いて来る。
「我々は南の空しか見ていない。その南の空には確かに「太陽」は一つだが、しかし、見ていない東西北の空にだって、「太陽」以外の別の「太陽」に匹敵する「日」があるのではないか?」
あるいは、
「山の向こう側から煙が昇るのを見て、「確かに煙は確認できるがしかし、現地に行って直にその元の「火」を見ない限りは、その煙が「火」から出ている、ということは信じない。」」
このように言う者どもは一闡提人である。→(一闡提=仏の正法を信ぜず、誹謗をし、また、誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。(中略)今、末法においては、日蓮大聖人の仏法を信ぜず、誹謗をし、御本尊を拝めない者、また一切の邪宗邪義に執着する僧尼及び俗男俗女のことである。堕地獄の衆をさす。池田大作監修・仏哲から)
まさに生き盲である。→つまり、道理が全く見えない者との意。
これ、まさにやまいぬ。駄犬のそのままの姿である。
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▼> 苦しいなぁ、樋田くん?(^o^) 法華講やめたら?(^o^)(^o^)(^o^)
> さ、とっとと「什宝あるから正しい」を、蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)
●ここについてもやはり大聖人様は既にかく仰せである。
■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。
まさに駄犬はこれである。
既に文証も提示し、道理としても理路整然であり、その道理が見えないのは自分の愚癡によるにも拘らず、
▼蓮祖・興師の文証挙げて返答しなさい。(^o^)
を馬鹿の一つ覚えの如く繰り返す。
馬鹿が馬鹿の一つ覚えしか出来ないのはけだし当然か。(-。-)y-゜゜゜
しかし、これは"邪宗の者"の習性である、と大聖人は御指弾されているのであるから、やまいぬ。君の言動は自らが「邪宗の徒」であるとまさに証明しているようなものである。
謗法者の謗法者たる振る舞いである。
実に分かり易い"サンプル"採取ができた、と言えよう。
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論証
@駄犬は常に、「唯授一人・血脈相承の「御内証」を明示しろ。」と馬鹿騒ぎしているのだから、「内証」というものの内容が明示できると思い込んでいる。
Aまた、駄犬は「内証」の内容を明示できなければ、その存在を否定する、という立場を貫いている。
Bであるならば、大聖人の御文中の「内証」との文言があれば、それについて、これも駄犬の固執する「蓮祖・興師の文証」を以って摘示できなければ、大聖人の御文中の「内証」との文言の意義の存在をも否定することになる。
C駄犬は「蓮祖仏法」を心より信奉している(つもり)なのであるから、まさか、大聖人の御言葉の一言一句なりとも否定もしくは無視はできないはずである。
Dであるから、駄犬は是が非でもこの御文内の「内証」との文言の内容について、文証を以って明証しなければ、自らの主張を貫くことはできない。
Eつまり、「「内証」の内容を明示せよ。」などと、他に向かって決して言えない道理になる。
Fであるから、まず、当方の主張を否定する根拠として、以上@〜Eの事由により、駄犬は自ら「内証」について明示する責務がある。
では、この筋道を踏まえて再問する。
■此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
とある、この「南無妙法蓮華経の内証」とは何か。
「蓮祖・興師の文証」を以って明示して見せよ。
それが出来なければ、駄犬の当初から愚問全てが、その前提根拠を失い、全く失当である。
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そこで、その論証の前に、駄犬の矛盾に満ち満ちた錯乱状態を一刺し突いておこう。
まず、駄犬は常々「蓮祖・興師の文証をどーぞ」と、大聖人・日興上人の文証のみしか認知しない態度を表明しているが、
まずこの件から完摧しておく。
かつて、駄犬は以下の引用をしている。
―――――――――――
例1
「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、
日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」
今度は寛師否定かね、樋田昌志くん?
―――――――――――
例2
云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、
「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・
大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」
(寛師・「文底秘沈抄」)
と明言されている通り当然である。(^o^)
―――――――――――
上記の御文はまさしく日寛上人の御指南であり、駄犬は自らの主張を立証する為に、日寛上人の御文を引用している。
@これは、駄犬が常に口うるさく主張する態度「蓮祖・興師の文証をどーぞ」に自らが反している姿である。
Aまた逆に、駄犬自らが引用した日寛上人の御指南を他が引文した場合、何らそれを批判中傷できない立場である。
因みにここで、駄犬がニセ本尊の害毒によって如何に頭破七分と化しているか、ここに明示しておこう。
創価学会員の精神の悩乱ぶりが実に顕著であり、興味深い症例である。
―――――――――――
>●はいここで、やまいぬ。君、思いっきり日寛上人の御指南へ唾を吐きました。
>■「本尊書写豈化他に非ずや。」
>とは紛うことなき日寛上人の御指南である。
▼盲目ではないから見えておるよ。(^o^)
だーから寛師はどれほどの折伏弘教をしたというのだね?(^o^)
先に挙げた通り「後の五百歳」は、寛師存命時にすらとうに過ぎておるのだよ。(^o^)
折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)
―――――――――――
→どうであろうか。
実に無惨極まりない悩乱ぶり、自語相違ぶりである。
自らが引文して自分の主張の裏付けとしておきながら、自分の主張に都合が悪い御指南を引文すると、態度一変、主義の一貫性など全くなく、その同一人物を、
▼「折伏弘教も出来ぬ法主の戯言だ。(^^) だから何度も云うておるじゃろ?
文証は、蓮祖・興師の言を挙げよと。(^o^)」
と罵るとは。
最早、この一事を以って、駄犬の駄言など取り合う必要など無い、まさに"狂人の戯言"もとい、"狂犬の狂い吼え"であることが十分認識できよう。
この辺の、駄犬の"言い訳"が実に見ものである。
どう足掻くであろうか。
今晩あたり、口汚く罵り、よだれを撒き散らし、喚き散らしながらの必死の足掻きが見れるかもしれない。
楽しみである。
少々見苦しい気もするが、しかし、創価学会の謗法の害毒が頭に回った、新鮮で、それなりに興味深い"症例"のサンプル採取には、多少の不潔感も我慢せねばならないか。
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1、駄犬は「蓮祖・興師の文証出さんか。」と常に吼えてるが、この言はそのまま自分にも当て嵌まる道理である。
つまり、
▼”万一「蓮祖そのものが三大秘法である」と云いたいなら、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせていたという資料明示のこと。”
と、"手を合わせる"ということをまずもって言い出したのは駄犬であるから、
★”「蓮祖そのものが三大秘法である」のならば必ずいつ如何なる時に於いても、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせ」なければならない、また、「当時の門下・信徒が蓮祖に手を合わせ」なければ、「蓮祖そのものが三大秘法である」とはいえない、という「蓮祖・興師の文証出さんか。」”と、こうなる道理である。
そして、これは、「
絶対無理だし。」となり、
▼> はい、坊やの思い込みは無用。蓮祖・興師の文証出さんか。
> 何度云わせるのだ、坊や。学習能力のカケラもないな。(^o^)
と、天に吐いた唾を自らの醜面にもろに被る、という醜態となる訳である。
まことに、正統な一大秘法の戒壇の大御本尊から転げ落ち、ニセ本尊を真顔で拝んでいる謗法者は、智慧がなくなり限りなく愚かになるが故に、一言もの言うたびに斯くも惨めな様となる、との、やはりよき標本である。
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3、駄犬のいう、その「蓮祖・興師の文証出さんか。」の「蓮祖の文証」に、以下の如く、大聖人が 口伝・相承・相伝 等によって深義を伝持された証拠があり、大聖人の御法門の全てが、御書の御文の上に顕れている訳ではないのである。
こうした明白な「蓮祖の文証」があるにも拘らず、何かといえば、「蓮祖・興師の文証出さんか。」と吼えまくる駄犬は、自己矛盾極まったり であり、やはり、どこか精神的に異常をきたしているといえよう。
まさにニセ本尊の猛毒その脳髄に染み込んで正常な判断ができない偏頗な人格が形成されている証左である。
■寿量品文底大事
問うて云はく、開目抄の上に云はく「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」と云ふ意趣如何。
仰せに云はく、当流の相伝惟に谷まれり。口外すべからずと雖も末代の為に一筆之を残さん、
■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。
■秘すべし秘すべし、口外も詮無し。
■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし
■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。
■相承の意を相伝せんが為なり
■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。
■日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。
■此の義は最上の難の義なり。口伝に在り
■口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。
■此に口伝有り。
■よくよく口伝あるべし。
■口伝を以て之を伝へん。
■口伝すべし。
■上行菩薩結要付嘱口伝
■日文字の口伝、産湯の口決
■本尊七箇の口伝
■就註法華経口伝〔御義口伝〕
■不動明王の尊形と口伝せり。
■四弘誓願をば一文に口伝せり。
■師に依らずして相承を失ふべし。
■根本大師の御相承ありげに候。
■筆受の相承
■日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。
■只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ。
■日蓮が相承の法門等前々かき進らせ候ひき。
■当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。
■天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり。
■当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失ふ故に、天台の血脈相承の秘法を習ひ失ひて、我と一心三観の血脈とて我が意に任せて書を造り、
■日蓮相承の法門血脈、慥かに之を註し奉る。
■此等は相承の法門なるべし。
■日蓮が己心に相承せる秘法を此の答へに顕はすべきなり。
■今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。
■当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門
■日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。
■聖人言はく、此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり、神妙神妙と言給ひて留め畢んぬ。
■三諦三観の口決相承と意同じ
■秘すべし秘すべし、唯受一人の相承なり、口外すべからず。
■相承の意を相伝せんが為なり
■所詮今末法に入りての如法相是は塔中相承の本尊なり。
■慥かに塔中相承の秘文なり。下種の証文秘すべし
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やまいぬ。君の駄問を完摧す。77 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:12月 6日(水)16時11分6秒
p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
引用
4、 3、で明示した口伝・相伝・相承の極まった形のものが唯授一人・血脈相承である。
■日蓮一期弘法付嘱書 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年=壬午=九月 日 日蓮 花押 血脈の次第 日蓮日興
■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
この二箇の御相承書を拝すれば、大聖人が御自らの全ての仏法を日興上人へ御相伝されたことは誰にでもわかる。が、そのことはまた
釈尊
→上行菩薩(本地久遠元初自受用身・末法再誕日蓮大聖人←■本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。)
→日興上人
という基本形を示し、これはつまりは、
御先師
→御当代
→次期御法主
との基本の方程式をお定めになった濫觴であり、末法万年の伝持・相伝の次第は次代へ唯授一人・血脈相承で必ず伝持・相伝されていくという大聖人御自らの御決判である。
それは、
■「血脈の次第」の
【次第】には=物事が行われる際の一定の順序。
という意義があり、大聖人亡き後、次の法嗣であられる日興上人は必ず
「血脈の次第 日興⇒次の法嗣(日目上人)」
とお決めになるという道理である。
このことはまた次の御文からも領解できるのである。(ニセ本尊で正常な思考を破戒された駄犬らには無理であろうが。)
■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す』
上記の「次第」とこの御文の御心とあわせよくよく拝すれば
ただ唯授一人・血脈相承は日興上人のみにとどまらないことが拝せられる。
つまり、大聖人の仏宝法宝は必ず■「僧によりて住す」つまり、必ず次から次の法嗣の方へとの次第によって流伝→久住 していくのである。
そこに
■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」
の御文のごとくの意義が拝せられ、
仏宝法宝を御所持される「僧」=歴代法主上人を謗ることは、大謗法であり、成仏は絶対に不可能。堕獄行きなのである。
であるから、御書の表に顕然でない、相伝・口伝・相承の類のその枢要は御歴代上人のみしか知り得ないのであり、御書の御文のみで大聖人の仏法の全てを知ることは不可能なのである。
つまりは、御歴代上人の御指南は全て"御文証"である。
■但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。
■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。
【池田大作指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。
かくのごとくである。
それを、常にヨダレを撒き散らしながら「蓮祖・興師の文証出さんか。」と、偏頗な恥言に拘泥するざまは、その「蓮祖・興師」の御聖意にも叶わない、程遠い邪見であり、愚見の見本である。
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やまいぬ。君の駄問を完摧す。78 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:12月 6日(水)18時57分5秒
p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
引用
5、以下は池田大作せんせ〜〜監修・仏哲からである。
これを見れば、かつてのまだ正しい教義(全分ではないにしても)を普及していた頃の創価学会の相伝・相承観が明白である。
教義的な事項を扱う普遍妥当性を要求される「辞典」において論述された主張は、その教義的な内容を覆すに足る歴史的発見等がない限り改変できる根拠を持たない。
もし、現時で以下の論述に反する主張をするならば、それなりの教義的裏付けをもった反証が必要である。
もしそれができず、尚且つ、下記の主張に反駁するならば、それはただ、かつての正しい"信仰心"を失った、つまり"退転"しただけに過ぎない。
―――――――――――
【唯受一人の相承】抜粋
総付属に対する別付属であり、血脈相承のことをいう。
★師よりただ一人の弟子を大導師と定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。
仏法上の肝要である。★
(中略)日蓮大聖人は身延相承書において「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す......血脈の次第 日蓮日興」とお認めのごとく日興上人ただ一人にその所持の大法を相承している。
―――――――――――
【血脈相承】
★仏法は、三世にわたって、一切衆生を救うべき大法であるから、血脈相承の付属が大原則であり、清純に後世へ伝弘されていくのである。
仏法を流通するには師匠から弟子への、唯授一人の血脈相承によるのである。★
★日蓮正宗の法門は、日蓮大聖人から日興上人へ、日興上人から日日上人へと、その後、代々と相承され、法燈連綿として、七百有余年間、広宣流布、王仏冥合の時を待ちつつ、清らかに伝授され、血脈相承されているのである。★
日蓮大聖人はこの血脈相承について、本因妙抄(八七七) に「日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ」とあり、
また、御義口伝(七八三) に「秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず」と、
★唯授一人の血脈相承であることは明々白々である。★
日蓮大聖人から、二祖日興上人におゆずりなされたことは、身延相承書に「血脈の次第 日蓮日興」とおしたためになっている。
血脈相承の大事なことは、立正観抄(五三〇)に「当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり」とある。
★相承とは、ゆずった者とゆずられた者がなくてはならない。
仏法の奥義は、あくまでも師弟相対のうえに立っての、唯授一人の血脈相承以外にないのである。★
―――――――――――
そうでん【相伝】
師より弟子に法門を伝えること。相続・伝授・直授の意。付属・相承と同義。
★相伝は仏法においては不可欠なものである。★
師資相承(師匠から弟子への相承)血脈相承である。
ただ一人の大導師を定めて、民衆救済の大法を伝授するのである。
(中略)末法においては、末法の大白法たる日蓮大聖人の大仏法は二箇相承に明らかなごとく、日興上人を初めとして
★現在まで、代々六十五人の御法主上人猊下に順々と相伝されているのである。★
このように仏法においては相伝は非常に大切である。顕仏未来記(五〇八頁)に「然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」とある。また一代聖教大意(三九八頁)に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」とある。
ゆえに
★日蓮大聖人の法門は不相伝の徒輩には何も知ることができず、況や功徳を得ることは到底できず、自身木石に等しいのである。★
生死一大事血脈抄(二二三八頁)には「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」とあり、仏法において相伝がいかにだいじであるかを明かしている。
―――――――――――
そうじょう 【相承】
相伝、付属と同義。詳しくは血脈相承、師資相承などという。相は相対、承は授承のことであり、師弟相対して、師より弟子へ、ただ一人の大導師を定めて民衆救済の大法を伝授することをいう。
★このことは仏法上、もっとも大事なことがらであり、★
釈迦は迦葉に、天台は章安に、伝教は義真に、そして日蓮大聖人は日興上人にその所持の大法を相承している。
(中略)なお相承に経巻相承と称するものがある。日蓮大聖入滅後百年ごろ、顕本法華宗を開いた日什が主張したもので、
★後世の者が経巻をよんで師の真意を悟り、付属を受けたと自称するものである。これはまったくの誤りで、経巻から思い思い学んでいくうちにいろいろな解釈や主張の乱れを生ずるので、そこで仏の意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。★
経典に文証もないのに、ただ「悟った」「譲られた」などと主張するのは、根本的に誤りである。
―――――――――――
ふそうでんけ 【不相伝家】
相伝のないもの、付属のないもの。相伝とは師匠より弟子に法門を伝えること。仏法では唯授一人がその原則とされる。
★邪宗邪義はかならず不相伝家よりでているのも仏法の定理より明らかである。★
日蓮大聖入滅後一〇○年頃、日什が出て経巻相承の邪義をたてた。当時直弟子はすでになく、元老の門下はみなそれぞれ己義を構え、いずれが大聖人の正統なのか不明のため、日什門徒等存知す可き事に「大聖の御門弟六門跡、ならびに天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背くところ有るによって同心せざるところなり」とあり、日運記には「中絶の法水を大聖人の御内証より続け奉る可し、これすなわち経巻相承の一分なり」とたてた。この什門流は妙満寺派とも顕本法華宗とも称したが、明治三十年(一八九七年)頃、顕本の学者とうたわれた本多日生が多数の聴衆の前で日蓮正宗の阿部日正上人から経巻相承を破折された史実がある。
(中略)
★日蓮大聖人の正義は相伝がなければわからないのである。★
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以上、池田センセ~~も、大聖人の仏法は相伝に依ってしか分からないと繰り返し断言しているのである。
であるから、以上1〜5までの論証に依って、駄犬がヨダレまみれで吼える「蓮祖・興師の文証出さんか」との大聖人・日興上人にのみに対しての固執は、全く無意味な偏執であって、相手をするべき要求ではない。
また、この仏哲が著された時から今までに、何か従来の御書の内容を否定するような御文でも発見されたのだろうか。
そんな事実はないのであって、この時期、日蓮正宗の信仰を(辛うじて)全うしていた創価学会の教義的な主張を覆す正統な根拠など皆無なのである。
あるというのなら、駄犬やまいぬ。君、「蓮祖・興師の文証出してみよ」できなければ、やはり、公式に謝罪して脱会コース。
さ、頑張れ。
因みに駄犬は、都合の悪い箇所は全く頬被りしてしらばっくれる悪癖があるようであるから、自分勝手にただヨダレ垂れ流しながら吼えているだけでなく、きちんと反駁してみたまえ。
まっ、できれば、の話だが。
がしかし、できなければやはり謝罪&脱会 であろう?(-。-)y-゜゜゜
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因みに、駄犬の「日寛上人の御指南は信じない。」との罵言は、
▼「個人折伏の世帯数で日寛上人を凌ぐというそこいらの学会婦人部の方が日寛上人より偉いから、日寛上人の言う事は全く訊く気はないが、そのそこいらの学会婦人部より劣る、弛んだ、日寛上人の書いた御本尊の方は有難く用いる。」という、小学生高学年が聞いても大笑いの馬鹿丸出しの大矛盾を、大聖人と日興上人の御文だけで論理明快に解いたらきいてあげますね。それまではお預け、である。(-。-)y-゜゜゜
さ、では、「個人折伏の世帯数によって尊崇しその発言を聞くべきであり、歴代法主上人の言は用いてはいけない。」との恥論を証明する「蓮祖・興師の文証あげんか!早くせよ!」
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2、その上で、駄犬の引文の的外れ振りを哂う。
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> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
この御文を、一体何を立証したいが為に引文したのか。
解説してやるにも、余りにばかばかしいので、駄犬の好きな常套句一言で済む。
「宗祖滅後750年内で、必ず広宣流布しなくてはならない。」という意義を、
”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。"
と、こうなる訳である。呵々大笑
やまいぬ。君の駄問を完摧す。94 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:12月 8日(金)12時38分9秒
p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp
引用
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
これも、同様であった。
「宗祖滅後"750年以内"で、必ず広宣流布を達成しなくてはならない。」という厳命があるのなら、
”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。"
である。(-。-)y-゜゜゜
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▼> あのねぇ、坊や、「らしい」とか「あるまいか」とか「傍証」とか「窺い知る事ができる」とか、
> そんな坊やの曖昧な願望などどーでもいいと何度書かせるのだね?(^o^)
> 文証出せ、文証を。(^o^) まさか蓮祖・興師の文証では不充分・不満・不足とでも
> 云いたいのかね? さ、そもそも「御本尊の開眼は法主しか出来ぬ」という、蓮祖・興師の
> 文証出せ、坊や。(^o^)
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→実に、大聖人様が呵責なされた通りの醜い謗法の愚者である。
駄犬の↑このような狂態はまさに以下の御文の如くである。
■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108
→「文証を出せ、文証を。(^o^) 」などと道理も解らず「強(あなが)ちに証文を尋」ね吼えまくる暗愚な謗法者そのものの姿が、駄犬である。
■非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。
→仏法の道理を理解できない暗愚な謗法者(一往・付文の辺では禅宗の者)は、人の説く道理も、自分らが何を根拠にどう教義を立てているのかも理解できておらず、(もっぱら座禅によって悟りを得ようとし、経典の研究をおろそかにする禅宗の僧侶のように、)
大聖人様の御文の深意を汲み取ることもできずに、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と誰が書いても「御本尊さま」として成り立つ、だなどと恥ずかしげもなく嘯くものどもである。
■「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。
→このままである。正信の者は「道理=正しい筋道の通った論理性」を尊重し、愚昧な謗法者どもは「文」にのみ固執し、囚われておる。
そもそも仏法を体達していく為の信行学の内の「学」の修行に於いては、あくまで、道理=物事の正しい筋道の通った論理性と、仏説の経文 が枢要であり、道理と文証は常に補完関係にあるのである。
■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。
■仏法と申すは道理なり
■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々
■只道理と経文とを本とすべし。
つまり道理も解らず「文証を出せ。出せ。」と喚き散らす駄犬は、まさに自らが「邪宗の者ども」であり、「非学匠」であり、「暗証の者」であり、「暗者」「くらき者」であると、立証し続けている訳である。
まことに恥ずかしい限りである。
ここも、やはりニセ本尊などに唱題などしていると、斯く精神や知性が破壊されるという"症状"が顕著であり、まだ少しでも正常な知性が残存している創価学会員に於いては、大いに怪しみ恐れるべきであろう。
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【編集再掲】
ここに駄犬の大いなる自己矛盾・論理破綻が炸裂する。呵々大笑
駄犬の主張の図を再度点検してみよう。
→やまいぬ。君の主張→「絶対信の対象は@久遠元初の三宝」 であるから
→やまいぬ。君はA蓮祖・の興師文証のみしか信じない。用いない。
→他の御歴代法主上人の言は信じない。他者が依用しても用いない。
→その中には当然、B日寛上人・日亨上人も含まれる。
→ところが、駄犬がAと信じる根拠の@「久遠元初の三宝」との御指南は、駄犬が信じない、用いないと軽侮したBの日寛上人の御指南なのである。(大笑い!)
→しかし、駄犬の妄執はAのごとくであり、「蓮祖・興師の文証」しか、用いないはずである。
→でも、そのA「蓮祖・興師の文証」しか用いないとする根拠の「文証」は駄犬が信じないはずの「蓮祖・興師」以外のB日寛上人の「文証」なのである。・・・・・・
実に矛盾の「大無限ループ」である。
呵々大笑。
当方は別に「循環論法」とやらに興味関心はない。
が、この駄犬の「大矛盾の無限ループ」は、どうしたら解けるのか?
さ、駄犬、この矛盾を「蓮祖・興師の文証のみ」で論理明快に解いて見せてくれたまえ。呵々大笑
できなければ、公式に謝罪して脱会は無理だろうから、せめて、
「自分が今まで書いてきたものは全て邪義でした。反論不能です。二度とこの板に来ません。ネット上でも悪さは致しません。どうぞお許し下さい。」
くらいの詫び状を書け。いいな。(-。-)y-゜゜゜
どうせ、道理・文証に則った反論は不可能なのだから、いつまでもみっともなく足掻いていないで、いい加減、きちんと謝罪して、詫びをいれたらどうだ?呵々大笑。
駄犬サイドのお仲間のはずの"セコンド"連中も、駄犬へは面と向かってはなかなか言えないが、(だから当方へ、もう止めた方がいいんじゃない?などと遠まわしに言ってくるのだろうが。呵々)これ以上駄犬が足掻いていると創価学会の面汚しになるから、いい加減止めて欲しいと思っているんじゃないのか?呵々大笑。
せいぜい、味方からタオル投げ込まれないうちに、潔く土下座して全面降伏したら?
もし、駄犬がまだ当板で往生際悪く、足掻き燻り続けるのなら、以前の駄犬の恥論が山ほどあるので、それを全て突き崩し、"標本"として晒しものにしていくだけである。
素材は大量にある。
駄犬は恥を更に募らせるだけである。
もし、それが耐えられないのなら、駄犬が詫び状を書いて降伏するならば、武士の情けでその大量の恥論を暴くのを留めてあげよう。
どちらでも、好きなほうを選びたまえ。
当方には駄犬に比べて相当量の自由な時間があるので、駄犬の痴難を劈いていくことなど、さほど苦痛ではない。
さ、駄犬がどっちを選ぶのか、実に楽しみである。呵々大笑
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→やまいぬ。君は何か書けば書くほどに創価学会の恥さらしのようですね。
お可愛そう。シクシク。
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> >当方は再三再四、駄犬が要求する”文証”の存在根拠自体が道理に合わない。
> >と破折しているのである。
>
> ▼1「蓮祖を破折」してどうするのだ、坊や。
> ▼2「泣き言無用と何度書かせるのだね?」 ダラダラ長いだけで中身のない寝言など
> 無用なのだよ。早くしなさい、愚図よ。
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→
【概況】
やまいぬ。君、この駄犬は最早完全に「死に体」となっているようである。
当方の破折に全くの反論不能となり、全く同じ事の繰り返ししか出来ない状態である。
思考停止状態の馬鹿丸出し状態。
こういう無様な姿を
■「内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。」(立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳)というのであろう。
当方からここまで言われて悔しさの余り、何か言い返してやりたいが、しかし、かといって、まともには全く反論できず、頭も働かず、邪智も尽きて、ただ口を開けてパクパクと同じことを繰り返してみるしか能がなくなった状態である。
だから、お仲間からも「学会活動が忙しい事ですし、もう止めましょう」などと、体よくタオルが投げ込まれるのである。呵々大笑。
御同信のお友達からしても、やまいぬ。君は最早見苦しい足掻きにしか見えないのであろう。
足掻くほどに無様な傷口が大きく開いていくだけである。
実に創価学会の恥曝しである。
【本題】
1、▼1
馬鹿には当方が大聖人を破折しているようにみえているらしい。
実に馬鹿もここに極まったり。である。
法義の正当性の証明には
■「文証無きは悉く是れ邪の謂ひ」との如く、覚者である仏の教説による裏づけがなくてはならない。という面と、
■「仏法と申すは道理なり」という、道理=普遍妥当性のある正しい筋道に則った論理性による証明という面、
その両面が必要なのである。
そのことを明確にお示しになられたのが以下の御文である。
■内外典の詮を承るに道理には過ぎず。
→この御文は「道理」の面を強調されている。
■仏法と申すは道理なり
→この御文も、同様に、道理のという論理性の面を強調なされた御文である。
■問うて云はく、証文如何。答へて云はく、道理顕然なり。其の上次下の文に云はく 云々
→この御文は、問者が文証の明示を要求したの対して、大聖人が、まず以ってその件については道理が明白ではないか。と示され、その上で文証においてもかくかくしかじかである、と明証為されていく筋道を示された箇所である。
■只道理と経文とを本とすべし。
→この御文は、まさに、教義の証明には道理と文証双方を基本にしていくべきであることを示された箇所である。
まさに、大聖人は道理と文証の両面に於いて仏法の正義を検証すべきことを示されておられる。
馬鹿犬にはこの御文が見えない、読めないらしい。それとも駄犬の持つ御書全集にはこの箇所が欠損しているのか?
だったら早急に聖教新聞社にでも言って、取り替えてもらった方がいいぞ。呵々大笑。
駄犬はこの「道理と文証両面を基本としていけ。」という大聖人の御心を読めずして、ただ「文証」という一側面にのみ拘泥し、囚われているのである。
これもニセ本尊の害毒によって、心が変形・歪曲・屈折してしまって、我見による間違った仏法解釈に執着して、正しい大聖人の御言葉が心に入らないのである。
■法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、云々(土篭御書 文永八年一〇月九日 五〇歳)
という、様である。
よくあるパターンで言えば、ある人を「山田さん」と思い込んだらその人が本当は「山口さん」で、何度教えてもやはり「山田さん」としか呼べない、という方がいるが、(最近のコマーシャルでもあるようだが)これなどは、人間臭いお笑いで済むが、こと大事の御法門において駄犬のように、自らの偏曲した思い込みをどう指摘してあげても治らないとすれば、これは笑い事では済まされない。
このやまいぬ。君という馬鹿犬の言い分だと、
大聖人が道理を重んじられた御指南に対して▼2「泣き言無用と何度書かせるのだね?」と唾を吐きかけていることになる。
実に馬鹿丸出しのダメ犬である。呵々大笑。
そういう馬鹿な謗法者に対して大聖人ははっきりこう仰せられているのである。
■邪宗の者どもの習ひとして強(あなが)ちに証文を尋ぬる事之有り。1108
ここまで言われてやまいぬ。君には全く理解できないかね?
馬鹿もここまで極まると最早結晶体のように堅固になってどうにもならないのかね?
いやはや、ニセ本尊の猛毒とは恐ろしいものだわ。
それとも元々からそういう馬鹿になる因縁で生まれてきたのか?
その辺は定かではない。
だが創価学会にしてみれば、やまいぬ。君が生来の馬鹿で、理解力の無い、聞き分けのない、素直でない、強情で、負けず嫌い人一倍で、でも愚かだから正当な反論もできない・・・であったとしても、それが「全てニセ本尊のせい」と言われたのではたまったものではないだろうな。
「いい迷惑だ。いい加減消え去れ。」とでも思っている人は以外に多いかも。
もし、次に何かを書くのであれば、もう少し気の効いたことを書いた方がいいのではないか?
老婆心ながら忠告しておこう。
やまいぬ。君の駄問を完摧す。196 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2007年 4月26日(木)18時06分0秒 p2176-ipbf203yosida.nagano.ocn.ne.jp |
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さて、以下の駄言の中でもなかなか味わい深い箇所がまだあるので、更に追求してみましょう。 |