本因妙抄の御文

■血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。

が「後加文であるから用いられない」との疑難は全く不可である。

 

この御文は後加文であるが、義に於いて正当であるが故に「一重線」であり、創価学会員が用いる御書全集にも掲載されているのである。

■「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり。』(日亨上人上人

 

もし、この御文が不適当な内容で、“邪義”というならば、何故、創価学会版「御書全集」に未だに掲載されているのか?

創価学会は“邪義”を容認するのか?

創価学会は邪義容認の団体なのか?

甚だしい自己矛盾である。

 

■日淳上人

百六箇抄(※1)について香浦氏「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

 

▼3【池田指導】(百六箇抄講義)

本抄(百六箇抄(※1))には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

(※1 これは相伝書という意味では、本因妙抄も同様である。)

―――――――――――

更に別角度での検証

―――――――――――

両巻抄

 

百六箇抄・本因妙抄について。

 

創価学会側は、「富士宗門史」の中の、日亨上人のお言葉

 

■「日時上人の書かれた本因妙抄のお写しが大石寺にある」

■「ヾ残念なのは、百六箇抄が本山に残ってない。本因妙抄が残っているから、百六箇抄もむろんあつたに違いない。本山でもですね、あの時代は直接の法門に関係あるものは大事にしたか知れませんけれども、そういう難しいものは、平常は使わない。大事にしすぎて使わないでいて、なくなったかしらんと思う。あまり大事にすると、しよっちゆう、みないですからね、いつかし見ないうちに無くなってしまう。大事にして、しょっちゅう、写し、写ししているといると、どっかに転写本がありますけれども。写しもしないで大事にどっかに、しまっておくというと無くなってしまう。」

 

を引文して、▼「大石寺には百六箇抄・本因妙抄の、大聖人御真筆はない。」と言い切る。

確かに、上記の日亨上人のお言葉からすれば、その通りであるかも知れない。

しかし、創価学会側が主張したいのはそれだけではない。

つまり、

 

”▼「百六箇抄・本因妙抄は、御真筆が無いだけではなく、要山系から逆輸入されたものであり、全く信用するに足らない文書である。だから、この書の、しかも後加文である、

■「但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」

を根拠に、歴代上人を僧宝として拝信することなど、到底出来かねる。

あるいは、本因妙抄の

■「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。」との後加文を以って、御本尊に関する一切の権能が御歴代上人だけに属する。との日蓮正宗側の主張には承服しない。”

 

概ね、こういうことであろう。

 

では、これも既に言い尽くされていることではあるが、その日亨上人御自ら、

 

■「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり。』

 

とおおせの如く、要山・房山系の「百六箇抄」に一線・二線の便を施されておられる。

(※しかも、今回の問難の対象である本因妙抄は上記日亨上人の仰せのごとく、「日時上人時代の書写」が存在する。)

 

では、この一線・二線のない箇所は、一体どういう御文と考えたらいいのか?

 

この件について日顕上人の大変貴重な御指南があるので謹んで引用させて頂く。

―――――――――――

■「この所で彼等は『百六箇抄』の後加文について色々言っています。まず、「支吾」という語についてのお笑い草を一言しましょう。

 彼等は、「支吾」とは「枝梧」が正しいなどと言っているが、支吾と枝梧は同義であり、その意味は「ささえる」「さからう」「ごまかす」等の意であります。

したがって、日亨上人が仰せの「義に於いて支吾なき所」とは、彼等が言うような「ひっかかりがない」などという軽い意味ではなく、はっきり、義において「支障なき所」「抵抗なき所」等と解すべきであり、法義において正しい所に一線を引かれたのであります。

 ですから、日寛上人も『六巻抄』等において、この傍線部分の所をしばしば引用せられ、法義の正当性を闡明、かつ、強調されているではありませんか。

(中略)

 要するに、日興上人より日尊師に対する、正和元年十月十三日の『百六箇抄』に関する付嘱の記事は、日亨上人が二線を引かれて疑義を呈しておりますが、与えてこれを採るとしても、その以前において『百六箇抄』を含めた一切の法門相承書は、唯授一人の付嘱に伴って日目上人へ当然、授与されているのです。

日興上人は、日尊師の弘通の功績を認められつつも、それ以上に日目上人の弘通の功績を賞しておられます。

かつ、日尊師は日目上人の弟子として富士へ上り日興上人門下に列したのだから、正和年間に日興上人より日尊師に授与されたと言われる『百六箇抄』が、それ以前に日目上人に伝えられていることは理在絶言です。

 

 その後、日尊師より要法寺系統へ伝承された同抄について、その一門の書き加えがあっても、それ以前の書き加えとはおのずから異なるのです。

つまり、書き加えのなかでも、本末、軽重があることを見る目もないのが、素人・創価学会の浅ましさです。

故に、日興上人より日目上人、さらに正系への伝承に付嘱相承に関する中心・根幹が存するのであり、富士の僧俗が要法寺の血脈を受けることなど、あろうはずもないことです。

 故に、これらは、文書伝承の筋道を正しく拝する力もない、創価学会の誣言に過ぎません。

 

 要するに、この所における創価学会の悪口の主意は「この文が『百六箇抄』の後加文である。

あとの時代のだれが書き込んだか判らない言は基準にしてはならない、拒否せよ」というのであります。

しかし、この文の後加か否かに関わらず、また、文の位置も、その意義も確かめず、まさしくこの文の趣意をもって日有上人も日亨上人も仏法の正義の伝承を明らかに説かれているのを「拒否する」とは、まことに厚顔無恥な輩です。

その日有上人や日亨上人が示された文を、創価学会はいつでも切り文にして隠しているが、事実は白日の如く、隠し通せません。

(中略)

さらに言えば、この文は、

 ■「已上種の本迹勝劣畢んぬ」(御書一七〇二骰)

の文の直後であり、日興上人門下の最も基本の事柄を述べた部分であります。

―――――――――――

更に、以下の御指南も極めて重大である。

―――――――――――

■「『本因妙抄』『百六箇抄』の書き加えには、この書が日興上人から日目上人というように、ただ一人に宛てて相承されたものではなく、実質上、そのほかの器用の弟子等にもこれを披見せしめていることが明らかです。これについては、皆さんも御承知と思います。したがって、『本因妙抄』『百六箇抄』が直ちに唯授一人の相承の内容であるということはいえないのであります。

(中略)

 この金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、 身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです。

(中略)

金口の内容において深い仏意の上から、文書としての金紙が存するのであります。

(中略)

この金紙は、簡単に申し上げれば、文献ということであります。しかし、当然、この文献とは、いわゆる『本因妙抄』『百六箇抄』ではありません。文献といっても、これは金口の文献でありますから、金口のなかにすべて含まれるのです。

(中略)

もちろん、大聖人様から日興上人様への相承は金口であります。しかし、日興上人様も大聖人様の御講義を『御義口伝』として記し置かれたように、やはり唯授一人の金口の内容を御自身の御境界においてお示しになったものが存するわけです。それが、すなわち金紙であります。したがって、金紙そのものが金口の意義を持っておるのです。

―――――――――――

以上の重大で貴重な御指南を併せ拝すれば、自ずと領解できるのはずである。

 

つまり、要山・房山その他へ相伝された、いわゆる「百六箇抄・本因妙抄」の元となる甚深の御法門は「金紙」として、まさに日興上人より唯授一人で日目上人に御相伝されており、その「金紙」は大石寺、なかんずく、御歴代上人にのみに伝わるものであり、日亨上人はその御相伝を御所持される御立場から、要山・房山系の両巻相承書の内容を閲し、無線・一線・二線の縦分けをされたと拝するのである。

 

であるから、創価学会側が言うように、両巻抄の御真筆があるか、ないか、ということは全く問題ではない。

大聖人様からの金口の御相承が日興上人お筆の金紙として唯授一人・金口嫡々・血脈相承されて歴代上人が御所持され、伝持されておられることが、真に有り難い極みなのである。

このことこそ、まさに信を以って拝さなければ全く領解できない、成仏の要諦なのである。

 

ここの御大事へ、池田大作らの魔王・魔軍らに誑惑されて、正信の清浄な心を奪われ、謗法の邪心に汚染された根性で邪推し邪難を吐きかけている創価学会員らは、このまま改心しなければ、未来永劫に成仏など思いの外、無間地獄へ沈倫することとなるのである。

よくよく恐るべきことである。