この醜犬やまいぬ。君は、久遠即末法 ということすら知らないらしい。

 

■日寛上人

『久遠は今日今日は久遠なり。』

 

であるならば、久遠元初の下種仏法は鎌倉時代の大聖人の御化導と全く同じであった訳である。

 

■百六箇抄

『末法の時尅の弘通の本迹 本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは芥爾り計も違はざる勝劣なり云云。』

 

無始の本源の本地である久遠元初から、今からは計り知れない長遠の昔である五百塵点まで、凡夫の智慧ではやはり計り知れない時間が経過したことは誰でも分かる道理である。

その間、久遠元初の下種仏法の化導では解脱出来なかった多くの衆生が熟脱仏法に来入する。

 

久遠即末法 であるのだから、末法の下種仏法の流伝も久遠元初と同一なのである。

”久遠元初からたかだか750年で広宣流布が達成した”などという、文も義もましてや現証もどこにも発見できない。

”広宣流布”とは永劫ともいえる年月の弛まない本因下種仏法の弘通である。

久遠元初 や 五百塵点劫 との概念からすれば、”750年”など一瞬・一刹那・一弾指 である。

ある団体がある時期、そこそこに下種仏法を弘教したからといって、結局ある一定期間の後こぞって久遠元初の下種仏法の本源であらせられる人法一箇の戒壇の大御本尊から退転したら、何にもならない。

その情けなさを深く恥じ入ることはあっても、間違っても慢心を起こして自慢できる事柄ではない。

真の地涌の菩薩とは何があっても終生戒壇の大御本尊から退転しない者のことを言うのである。

 

というわけで、馬鹿犬の妄執など、ただ過去を讃ずる驕慢 に過ぎない。

そんな者は”地涌の菩薩”でもなんでもない、ただの 一闡提人 である。

『開眼のないニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 ということである。呵々大笑

 

駄犬やまいぬ。など、例えてみれば、波木井実長が、手続ぎの師匠である時の御法主・日興上人に背き、四箇の謗法を犯している状態で、かつて大聖人を我が所領へお迎えした功績を、くどくどと自慢しているような醜態である。

ああ、惨め。である。

馬鹿もいい加減で自分の馬鹿さかげんに気が付かないと、大聖人の下種仏法では最早救われず、永劫の年月地獄でもがき苦しんだ挙句に、熟脱仏法へ回される羽目になるぞ。呵々大笑(馬鹿にはこの意味すら分からないだろうが。も一つおまけに、呵々大笑)   以上