●> >仏宝法宝は必ず僧によりて住す

▼> 破折済み。(^o^) 返答不能かね?(^o^)

↑どう破折したのかね?
「蓮祖・興師の文証」によって的確に反論できているのかな?呵々
では、ここの意義を詳細に論述するから、今一度、当方や閲覧している方がたに分かるように、”破折”してみてくれないか?呵々大笑
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【編集再掲】

■次に僧の恩をいはゞ、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。故に大集経に云はく「五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅せんと思へ」と説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちがひとなし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。

との仰せの如く、仏宝・法宝は僧宝が護持・伝持なされなければ、存在し得ない。

2、仏宝・法宝は「僧」によって、永遠に存在できる。⇒「僧」がいなければ、存在し得ない。

3、その道理は、譬えで更に明確である。
@火=仏宝・法宝 は 薪=僧宝 があるからはじめて存在し得るのである。
火は何も無いところで、空中でいきなり燃えることはない。
言い換えれば、薪=僧宝 がおわさなければ、火=仏宝・法宝は存在し得ないのである。
であるから、例えば、「歴代の何々上人は僧宝ではない。」などという馬鹿者は、「仏宝・法宝も消えた。」と言っているに等しい愚かさなのである。
ここの意を「三宝一体」と言うのである。
だから、如何なる理由があれ「僧宝」であられる歴代上人を謗ることは「仏法の大灯明を滅する行為」であり、まさに「謗法」なのである。

A次の譬えでも更に更に明確である。
大地=僧宝 がなければ 草木=仏宝・法宝 も存在し得ない。まさに道理である。
僧宝(大地)を否定して「蓮祖仏法がどうのこうの云々」などという輩は、草木(仏宝・法宝)が”空中浮遊”している様を云々しているがごときの大馬鹿者である。

■仏法と申すは道理なり

道理が分からない者を 癡(おろか)というのである。
ニセ本尊を拝んでる者は、この「癡」が増して、道理が全く分からなくなるのである。だから人間の皮かぶった畜生以下であるから、痴犬 と呼ぶのである。(やまいぬ。君の場合は、痴犬に加え、臭犬 と今は呼称しているが。呵々)

4、であるから、末法今時に、■「無智無戒なる沙門(=御歴代上人・更には御法主上人に連なる御尊師等)を失ありと云って是を悩ますは、この人仏法の大灯明を滅」する大謗法行為である。

5、こういう道理が、痴犬(臭犬)のように見えなくなる者が多いから、■「僧の恩を報じ難し」なのである。

6、そういう三宝一体義を分からず、僧宝を謗ればそれがそのまま仏宝・法宝を滅することになることも分からず、痴論を喚く痴犬どもがあまりに多いので、■「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん。」との如く、成仏など思いの外、堕獄必定とお嘆きであり、お叱りなされているのである。【以上】
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さ、臭犬君、以上の論証に対して、「蓮祖・興師の文証」によってのみで、見事に反駁してみせてくれないか?
楽しみに待っていますが?
頑張れよ。呵々。