まず【僧侶の妻帯について】

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1、日興上人の『弟子分本尊目録』に、

 

■「同國高橋築前房の女子、豊前房の妻は、日興の弟子なり。仍って之を申し與う」(歴代法主全集1-93

 

とあり、宗開両祖の時から、御弟子の中には「妻帯僧」がおられたことがわかる。

これは大聖人が妻帯を許されていたという証拠である。

 

今回【補足】

 

同じく「弟子分本尊目録」には

■「岩本寺住の筑前房は、(豊前公同宿也)日興の弟子なり。仍って申し與うる所件の如し。但し聖人御滅後に背き了。」(歴代法主全集1-91

とあり、この二つの御記述から以下のことが分かる。

 

@ 筑前房は、大聖人御生前中から日興上人門下であった。

A 女子がいた。→妻帯していた。→大聖人は築前房の妻帯を許されていた。

B その妻帯僧である筑前房に日興上人は御本尊を与えておられた。

C その筑前房と同宿であった豊前房は築前房の子である女性を妻としていた。

D 日興上人はその妻帯僧である豊前房を御弟子として認められておられ、御本尊も授与なされていた。

 

一方日興上人御本尊どのような方に授与されていたかといえば、

 

■日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

  本尊人数等、又追放人等、頚切られ死を致す人等。(富士一跡門徒存知事    延慶二年)

 

つまり、妻帯していようがいなかろうが、■「身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、」授与為されていた。

 

以上の事実から、大聖人も日興上人も妻帯の是非云々よりもむしろ重要な点は、不自惜身命の信仰を貫き通すことに主眼をおかれておられたことが明白である。

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2、当該文について

この御文をこのように浅薄に稚拙にしか読めない駄犬はまさに人間以下の犬ですな。

 

まず、この駄犬が故意に文意が読めぬが故に、抜いた箇所から引文しましょう。

 

■『日蓮は■1『身に戒行なく』心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』随分世間の事おだやかならんと思ひき。』(←※以上駄犬が抜いた箇所)■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』もさてこそ候か。■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』、■5『只法華経を弘めんとする失により、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』

 

ここでの意義は、そもそも小乗戒・大乗戒を喝破され、本門無作の大戒を打ち立てられ、末法無戒を標榜される大聖人はもともと■1『身に戒行なく』あらせられるが、■2『人にも縁を結ばしむるかと思ひて』当時、鎌倉時代に横溢する■3『世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧』という破壊無慙の妖僧等の振る舞いと簡異する為に、仮に■4『日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず』とのお姿を示し、断肉禁婬の聖僧を標せられたものと拝するのである。

にも拘らず、■5『只法華経を弘めんとする失により、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名一天に弥れり。』という、根拠の無い悪口雑言を浴びられた。と仰せなのである。

 

この御文のどこにも、大聖人門下の僧侶が妻帯をしてはならない。などという制誡は微塵もない。

 

駄犬のように、全体の文意を読めず、ただ、自分の醜見に当て嵌まりそうな箇所だけを抜き出して、醜怪な邪解をなす引文の仕方を、"切り文"といって低脳かつ卑劣・姑息・陰湿な謗法者がなす常套手段である。

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3、最蓮房御返事   文永一〇年一月二八日  五二歳

 一、御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり。彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑無き故なり。但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり。

 

この御文からも大聖人の御真意が拝せられる。

 

→権教・謗法をなす僧侶は仮に魚鳥を食せず、妻帯しないという戒を持っていたとしても、正法を護持する破戒の在俗よりも百千万倍劣る。(況や僧侶と比した場合においてをや。との意が篭められておられると拝せる)

→前者は地獄に堕し、正法を持つ破戒の在俗は成仏間違いない。(大聖人の御心はそもそも在俗に持戒を求めてはおられないので、この「大俗」という御表現は邪僧との対極の意義としてあり、そこに僧俗共に含まれる事は、文意と道理から明らかである)

→権宗を捨て正法へ帰依することは最高の「持戒」(本門無作の大戒・金剛宝器戒)であり、まことの清浄の聖人である。

 

その上で、次下の御文で最蓮房が妻帯せず、魚鳥を食せず、という姿を愛でられておられるが、それは、上記の根本義の上における補足的・付加的な激励のお言葉ということが、大意として領解できるのである。

 

■尤も比丘と成りては権宗の人すら尚然るべし。況んや正法の行人を。仮使権宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇はん時は、振り捨て正法を弘通すべき処に、地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し相構へ相構へ向後も夫妻等の寄り来とも遠離して一身に障礙無く、国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉るべき者なり。