やまいぬ。君の駄問を完摧す。236  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:2007 529()224514 p2188-ipbf01yosida.nagano.ocn.ne.jp

   返信・引用

 

 この辺から、最近の当板での話題で、またやまいぬ。君が新しく大恥をかく内容かな。

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> しっかもだ。(^o^)

 

> >仏宝・法宝は必ず僧によて住す。

> >日興上人のみを僧宝とするのならば、日興上人が御遷化された後、仏宝と法宝は

> >断絶する事になる。この矛盾を「蓮祖・興師の文証」のみで答えよ。

 

> 「矛盾」しまへんのよ、ボクちゃん?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 

> 蓮祖を上行の再誕(本地は久遠元初自受用報身如来)として、地涌の菩薩を代表して

> 釈尊から末法流布を託されたとして、では▼2『天台は、伝教は、いったい誰から正法を

> 唯授一人血脈相承されたのだね?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)

> 説明してみな?(^o^)(^o^)(^o^) 絶対に無理なのだよ、坊やには。(^o^)

> 

> 天台も伝教も、誰からも相承されていない、が、▼1『蓮祖まで正法は断絶せずに

> 脈々と流れてきた。』何故だ?(^o^)

> オシマイだよ、坊や。(^o^) ようちえんじ以下かね、元論客(? ホンマか?(^o^) )

> 樋田昌志よ?(^o^)(^o^) 堕ちぶれ果てたもんよなぁ、樋田昌志よ?(^o^)

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↑実に、教学が解っていない癖に背伸びして知ったかぶりをする、本当の 馬鹿 である。呵々大笑。

『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』である。

 

1、大聖人の仏法は下種仏法であり、本未有善の衆生を度する仏法であり、天台・伝教の仏法は熟脱仏法であり、本已有善の衆生の為の仏法であり、本質的にその化導の法体も化導の対象も違う仏法である。

であるから、そもそも▼1『蓮祖まで正法は断絶せずに脈々と流れてきた。』との恥言は仏法の本筋を理解できていない全くの的外れである。

やまいぬ。君の基本が出来ていない無知さ加減が遺憾なく発揮された箇所である。呵々大笑

 

2、1でも少々触れたが、釈尊在世・正像の機は、久遠下種をうけた者が五百塵点以降の釈尊からの熟脱の化導で調機調養されてきた衆生である。

であるから、元々の仏法の善根を有しているのである。

この衆生は在世・正像の熟脱仏法を縁として度脱するのである。

故に、そこに教と行を受ければ元々に下種を受けているのであるから、機根純熟の衆生は自ずと開悟するのである。

特に「唯授一人・血脈相承」という法規をとられる必要は無い。

 

【文証】

 

■    教行証御書   建治三年三月二一日  五六歳

 夫正像二千年に小乗・権大乗を持依して、其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り。然りと雖も彼々の経々を修行せし人々は自依の経々にして益を得ると思へども、法華経を以て其の意を探れば一分の益なし。所以は何。仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否あり。円機純熟の者は在世にして仏に成り、根機微劣の者は正法に退転して、権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し。されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。

 

■取要抄文段

在世・正像の衆生は三五下種の輩なり。今末法に入りぬれば、皆これ本未有善の衆生なり。深くこれを思うべし云云。

 

であるから、やまいぬ。君の言う、▼2『天台は、伝教は、いったい誰から正法を唯授一人血脈相承されたのだね?』との恥言はこれまた、仏法の基本が全く成っていないやまいぬ。君の無知さ加減がいよいよ露呈したところである。呵々大笑

 

3、しかし、末法は本未有善の衆生であり、全く下種が為されていない衆生であるから、”自ずと自らが悟る”などという”因”自体がそもそもないのである。

因(下種)が無いのに果(悟り)が生じるはずが無く、そこには必ず大聖人から連綿と繋がる正統な”師”によって始めて下種仏法の法水が血脈として流れ通うのである。

またその”血脈”には、微塵も断絶があっては下種仏法の法水は流れ通わないのである。

であるから、大聖人以来の正統なる血脈相伝から離れて、ある日忽然と誰かが悟りを得る。などということは、末法の衆生には有り得ない”怪奇現象”である。

もし、末法今日に忽然と悟りを得られる、などと愚想している者がいたとしたら、(また、戸田氏もそうだ。などと妄執している者も同様だが)それは、ちょうど禅宗が”釈尊も苦行したり座禅を組んで悟ったのだから、自分達も同じように托鉢したり座禅を組めば悟れるはずだ”と愚昧に妄執しているのと同じである。

元々、久遠五百塵点劫の昔に既に南無妙法蓮華経を修行して仏に成っていた釈尊が衆生済度の為に、インド菩提樹下で悟りを開く相を現じた訳であるから、何の仏に成る因縁も無い末法の衆生がインドの釈尊の苦行の一端を真似してみても全く無駄。のみならず、有害である。

と、同様に、”日蓮大聖人と同様に法難に遭ったから(そう思い込んでいるだけであるが)何の師も無く悟れる。”などと妄想しているのは、末法に生まれた自分の機を知らぬ大虚け者である。

 

以上1〜3に関して、臭犬やまいぬ。君、頑張って反駁してみたまえ。

 

おっと、しかし、▼”ネット遊び”(←やまいぬ。君の談)などしていては、

 

▼「> いいかね? ここに書き込んでいる時間とは、現実には一歩も広宣流布は進んでいない

> 時間だということだ。まず唱題している時間ではない。誰に会うでもなく、誰を励ます

> でもなく誰の悩みを解決するでもなく、誰に信心の素晴らしさを語るでもなく、もちろん

> 1世帯の入信決意も折伏弘教も出来ている訳ではない。」

 

ということであるそうだから、やまいぬ。君、書き込むのもなかなか難しい問題だな?呵々大笑