やまいぬ。君の駄問を完摧す71  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1124()220828 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 ●次に以下の愚言についても、別の角度から粉砕しておきましょう。

駄犬の恥論のここも中核を為す所である。

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> どうやら当代法主なくんば人法一箇の御本尊は成立しないらしい。(^o^)(^o^)

> しかしすべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き

> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)

> 

> 云うまでもなく「人本尊」とは蓮祖そのお方であり、

> 「人本尊とは、即ち久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・

> 大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」

> (寛師・「文底秘沈抄」)

> と明言されている通り当然である。(^o^)

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→駄犬は、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”という。

ここが駄犬の妄執の中心である。

とんでもない妄見・愚見である。

「人法一箇の御当体」とは戒壇の大御本尊の御事である。

 

■観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す

 (序)

 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

 これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬え百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり」等云云。

 

■故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(日寛上人・観心本尊抄文段)