やまいぬ。君の駄問を完摧す。114  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1211()153044 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 

 

 

 

 以下も、狂犬は、「本尊とすべき対境の正邪」の論議と、「本尊への信行の有無」の論議との違いが判然とせず、惑乱しているだけのことである。

―――――――――――

> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き

> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」

―――――――――――

(↓以下の部分を何故抜くのか?狂犬?なにか都合がわるいのではないか?(--)y-゜゜゜)

 

●『→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。』

―――――――――――

> >であるならば、

 

> >@身延のみやげ本尊をコピーし、それを更にコピーしそれをまたコピーし・・・と

>何万回コピーしたものも、全て”人法一箇の御当体”ということになり、

> >”御当体さま”が何億枚、何千億枚も”発生”することになり、しかも、いつ何時でも、

> >誰でも、コンビ二でも、会社のオフィスでも、どこでも”御当体さま”を作れることになり、

> >まさに「本尊雑乱」の狂態である。

> 

> 坊やの悩乱した妄想も、まぁ酷いものだわねぇ?(^o^)

> 

> まず前提として、自分の人生の“背骨”として蓮祖仏法を信仰しようという者でない限り、

> コピーしてまで本尊を欲しいとは思わぬ。(^o^)

―――――――――――

→ん?なぜ、そうと断言できるのか?

ただ何となく、「日蓮さん」に惹かれていて、「御曼荼羅も一枚くらい家にあってもいいな。」とでも思うじいさんが、身延のみやげ掛け軸を持っている友達にお願いして、「それ、わりぃ−けんどもよ、コピーさせて、くんねかね?もし、だめなら写真撮らせてくれや」と頼むケースは、容易に想定できるが?

狂犬の断定など、斯様に根拠薄弱極まりない、独りよがりだらけである。妄想に過ぎない。

まっ、独りよがりが極まった形が狂人であるから、狂犬がこのような自己中心的な妄想に凝り固まるのもニセ本尊の害毒としては当然だが。

ここも、やはり、ニセ本尊で人格が如何に破戒するか、のいいサンプルが採取できた。や、ありがとう。狂犬の狂いぶりも、このように記録に残して置けば、世の人の為になる。

―――――――――――

> しかも真剣に信仰しようというそのひとは、きっちり折伏されて本尊を頂く。(^o^)

―――――――――――

→は?本物の馬鹿らしい。例えば上記のケースなども想定できるから、全く狂犬の思い込みに過ぎない。

―――――――――――

> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、

> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・

> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。

―――――――――――

ここも、狂犬が略した箇所

『駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑』

―――――――――――

> (^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)

> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも

> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)

> 

> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)

―――――――――――

→頭が悪いのも、ここまで来ると御愛嬌だな。(--)y-゜゜゜

馬鹿には繰り返し躾けてやるしかない。

 

狂犬は”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”と断定した。

その余りの馬鹿さ加減を、具体的な姿ではどうなるのかを解り易く例示してあげたのが、上記の例えである。

つまり、狂犬の痴論だと、ティッシュ一枚にでも、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックかなんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という大馬鹿な恥論であることを、示したものである。

狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にそのティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、ということになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、である。(ああ、ダメだ。もう、可笑しくて。たまらん。(^_^;)

しかも、その家人は「人法一箇のご当体さま」を御不敬したのであるから、大罰があたることになる。

自分で、マジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いたティッシュで鼻かんだら、である。呵々大笑。

 

で、■仏法と申すは道理なり で、斯様な「本尊」など有り得ない。と言っているのである。

 

ここまで読んできて、以下の狂犬の駄文を読むと、もう噴飯モノである。呵々大笑

―――――――――――

> 頂いた蓮祖御図顕本尊を、「我が生命」として大切にするか粗末にするか、最終的には

> その人間以外の誰にも決められない。

> 粗末にし、鼻をかみたくばそうしてみるがいい。

> 成仏するも堕地獄も、坊やの自由だよ。(^o^)呵々大笑。

―――――――――――

→これも、狂犬の恥論を根拠にして書き換えるこうなる。

 

> 自分でマジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いた、「人法一箇の当体」であるティッシュの”御本尊”を、「我が生命」として大切にするか粗末にするか、最終的には

> その人間以外の誰にも決められない。

> 粗末にし、鼻をかみたくばそうしてみるがいい。

> 成仏するも堕地獄も、坊やの自由だよ。(^o^)呵々大笑。

―――――――――――

→、ああ、もう、本当にもうダメ。呵々大笑。呵々大笑。呵々大笑。

 

いあやはや・・・では、気を取り直し、

 

当方は、「本尊とすべき対境の正邪」を論じているのであって、「信行者の信仰状態」を論じているのではない。

 

■「凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。」

 

まず、依って拝すべき「本尊」の邪正を選別し、正しい本尊を特定してこそ、次にその正しい本尊への「信行のあり方」が云々できるのである。

 

誰が見ても、誰が聞いても、狂犬の言う「人法一箇の当体」が本尊に成り得る訳がない。

もし、それでも自説を曲げずに、それのティッシュ一枚も本尊 と言うのならば、もはや、病院へ行った方がよい。

改めるのなら、ここで正式に謝罪し、脱会の手続きをとれ。

狂犬よ、どっちを択ぶのか?

 

『境若し邪なる則は智行も随って邪なり。』

ニセ本尊の元で、いくら「信行」に励んでみても、『智行も随って邪なり。』結局、堕地獄行きの邪行である。といういい見本がやまいぬ。君である。

今の、頭破七分の状態をよくよく自覚し(もはや、無理か・・)今生・後生を怖れ、よくよく反省慙愧すべきである。