やまいぬ。君の駄問を完摧す。115  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1211()180949 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 

 

 

 

 狂犬、実に誤魔化し、すり替えの常習犯である。

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> >■仏法と申すは道理なり で、@の状態が正しい本尊である訳がない。

 

> 坊や、難癖つけたくば、「南無―― 日蓮在御判」と認められている本尊が、

> 蓮祖御図顕本尊ではないという蓮祖・興師の文証挙げて噛みつきなさい。(^o^)

> 坊やのくだらぬ妄想も身勝手な決めつけも無用だと何度書かせるのだね?(^o^)

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→ここにもまた、すり替えの手口が露見した。

全く、姑息な 駄犬 である。

 

T 駄犬はこう言ったのである。

> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、法主如き

> 焼死しようと野たれ死のうと、まさに御本尊は人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」

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↑これをすっきりさせると、↓

 

> 「すべての御本尊には、「南無―― 日蓮在御判」と厳然と認められており、・・・まさに・・・人法一箇の当体そのものだわ。(^o^)」

 

ということは、つまり駄犬は、「本尊」として成立する要素としては”「南無―― 日蓮在御判」と認められていればいい”ことになり、こうなる訳である。↓

 

●『→つまり”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体”ということである。』

(先ほども指摘したが、こ↑部分を駄犬は姑息にも抜き飛ばして、恥論を重ねていた。)

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U 一方、別の箇所で、駄犬は「本尊は誰が書写しても、かまわない」と言っている。

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証拠

 

1、

>● 我々が即身成仏させていただける正統な御本尊様は一体誰が書写出来るというのか。

(中略)

>2、誰ならいいのか。

(中略)

誰もヘッタクレもない、蓮祖御図顕本尊なら結構。

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2、

どの坊主が書写したものであれ、「蓮祖御図顕の南無――曼荼羅」に変わりなし。

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3、

Aやまいぬ。君は愚かにも、この「蓮祖御図顕・一閻浮提総与・末法事の一念三千の南無――曼荼羅」を、今度は誰が書写してもいい、と妄見している。(もし、違うというのなら、では、誰でなければ書写できないのか明示したまえ)

 

(と、再三の破折にたいし、未だ反駁がされていない。という事実)

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以上、T U を併せ考察するに、駄犬の主張は↓こうなる。

 

『誰でもいいから、「南無―― 日蓮在御判」と書けば、その紙(他、塩ビ版でも、布でも、床板でも、・・・何でもいいんだろうが。)は「人法一箇の御当体」として「御本尊」となる。』

 

 

更に、追撃すれば、「南無―― 日蓮在御判」とある本尊は、大聖人様御自筆いわゆる「蓮祖御図顕」の御本尊には在り得ない。

大聖人様御自筆御本尊は「南無妙法蓮華経 日蓮 花押」であるからである。(もちろん、全てがこの形ではないが、「在御判」 の意味するところは、歴代の御法主上人が戒壇の大御本尊の御内証を「書写」される時に「戒壇の大御本尊にはこの箇所に大聖人の御花押=御判が「在」られる。」という意義であるから、駄犬の言う「南無―― 日蓮在御判」との本尊とは、大聖人以外の「書写」本尊のことであり、駄犬が口癖のようにほざいている「蓮祖御図顕の本尊」とは全く違う。呵々大笑。

駄犬の言葉で言えば、

 

> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)

 

とでもなろうか。呵々大笑。

 

また、「図顕」 と 「書写」 を混同し迷乱している駄犬の恥言については既に 113 で突き崩してある。