やまいぬ。君の駄問を完摧す。141  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1220()200549 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 

 

 

 

 以下も、駄犬の妄見→”「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体” との最高に哂える定義を、からかっている箇所へ、駄犬がまたもやピント外れに絡んできている箇所である。

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> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、

> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・

> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。

> 

> (^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)

> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも

> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)

> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)

> 

> >ティッシュ一枚にでも、”「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックか

> >なんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という

> >大馬鹿な恥論であることを、示したものである。

> >狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にその

> >ティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、という

> >ことになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、

> >である。

 

―――――――――――

↑頭が悪いうえその中身が”頭破七分”で整頓されずに混沌としている者が、無闇にオリジナルを切り貼りして書き込むと、実に読みにくい。

それとも、自分の滑稽な恥論が鮮明になるのが怖くて、態と読みにくく”編集”を加えているのか?呵々

ここも、オリジナルへ戻して再掲してから、とことん粉砕してあげよう。

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※3ー@ ●> >しかも、その”紙”はどこにでもベタベタ張れて、例えば家の壁にでも、駅の構内でも、

> >地下道の壁でも、果ては、ティッシュペーパーにでも印刷してハナでもかめる、・・・

> >これら全てが”御当体さま”・・・ということになる。

『駄犬は、この大狂乱の態を正しい「蓮祖仏法」だというのだから、その狂人(否、狂犬だった)振りが知れるのである。呵々大笑』(←駄犬が略した箇所)

 

> (^o^)(^o^)(^o^) 完全に狂った。(^o^)

> 信仰の根幹たる本尊を、どこにでもベタベタ貼り、鼻をかむような人間は、そもそも

> 本尊を「根本尊敬」の対象とは考えていないということだ。(^o^)

> 坊や、難癖つけたい一心で、もう話の前提まで喪くしておるよ。(^o^)

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●→頭が悪いのも、ここまで来ると御愛嬌だな。(--)y-゜゜゜

馬鹿には繰り返し躾けてやるしかない。

 

狂犬は"「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体"と断定した。

その余りの馬鹿さ加減を、具体的な姿ではどうなるのかを解り易く例示してあげたのが、上記の例えである。

3−A つまり、狂犬の痴論だと、ティッシュ一枚にでも、"「南無―― 日蓮在御判」と認めてあれば、(自分でマジックかなんかで書いても。呵々大笑)「本尊」=根本尊仰の対境 になってしまう、という大馬鹿な恥論であることを、示したものである。

狂犬はそれも「本尊」として成立する、というのであるから、かたや、壁にそのティッシュをセロテープかなんかで貼り付けて拝んでも、即身成仏できる、ということになる。その同じ部屋で、家人がその同じティッシュで鼻をかんでいても、である。(ああ、ダメだ。もう、可笑しくて。たまらん。(^_^;)

しかも、その家人は「人法一箇のご当体さま」を御不敬したのであるから、大罰があたることになる。

自分で、マジックで「南無―― 日蓮在御判」と書いたティッシュで鼻かんだら、である。呵々大笑。 (以上再掲文)

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→今回これに対しての駄犬の反論文↓

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4> 「お縋り信仰」「お守り信仰」法華講の面目躍如たるところだなぁ、坊や?(^o^)

> 

>1 「此の本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶文殊薬王等にも之を付属し

> 給はず。何に況や其の已外をや。但地涌千界を召して八品を説て之を付属し給ふ。

> 其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に

> 釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として

> 末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如し。」

> 

2 > 末法の衆生救済のために蓮祖が御図顕された南無――本尊を、その通りに「根本尊敬」の

> 対象として信仰し、かつ仰せの通りに創価学会は(法華講ちゃんと違って)広宣流布を

> 進めてきた。(^o^)

> 「根本尊敬」せぬ「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)

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→もはや頭破七分の進行が酷くて、支離滅裂極まりない。

自分でも何を論証しているのか解っているのか?

 

T ※1の引文が全く的外れで、何を引証したいのか全く不明瞭である。

この御文は、法華経宝塔品の儀式に擬して末法相応の曼荼羅本尊の相貌を明かす御文である。

それが、以下※2 の駄犬の主張の証文としてどういう関係にあるのか。

全く、主張の証文となっていない。

 

U ※2 の文意が、今段の文脈から全く外れており、支離滅裂である。

ほんと、謗法の頭破七分者で尚且つ、もともと頭もよくない者を相手にすると余計な労力が居るものである。

 

@ 駄犬の恥論→

@ 本尊は誰が書写しても良い。

A 「南無―― 日蓮在御判」と認めてある本尊は全て人法一箇の当体"

この@Aを合わせると、

『誰が、どこでも、どんな用具ででも「「南無―― 日蓮在御判」と書けば、本尊 となり、人法一箇の当体=久遠元初の御本仏の命 となる。』

ということである。

 

A その矛盾を哂うために例示したのが ※3−@ と※3ーA である。

 

→ティッシュ紙に誰でもいいから例えばマジックか何かで(マジックだと破けてしまって無理か。呵々)「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書けば、その途端に、そのティッシュ紙があら不思議!”人法一箇の御本尊ざま”に早変わり〜!ということである。呵々大笑!

 

Bで、この大笑いの呵責に対する反駁(らしきもの)が※4 ※1の引文 ※2 である。

※4← 何を以って 「お縋り信仰」「お守り信仰」法華講の面目躍如 なのか。全く論旨不明である。

反駁にも為っていない。→駄犬が頭破七分の狂人と成り果ててきたことの証明である。

 

※2→ 「末法の衆生救済のために蓮祖が御図顕された南無――本尊を、その通りに「根本尊敬」の

> 対象として信仰し、かつ仰せの通りに創価学会は(法華講ちゃんと違って)広宣流布を

> 進めてきた。(^o^)

 

との言もまた、論旨不明。文脈からも外れ、反駁にもなっていない。

 

※2→ > 「根本尊敬」せぬ「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)

 

これもまた、全く意味不明である。

 

『駄犬の恥論に依って何時でもどこでも誰でも書けてしまう→ティッシュ紙に例えばマジックか何かで(マジックだと破けてしまって無理か。呵々)「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書けば、その途端に、そのティッシュ紙があら不思議!”人法一箇の御本尊ざま”に早変わり〜!

だなんてものが「本尊」と成り得るはずがないではないか!』

との当方の詰問への何ら反論に為っていない。

むしろ、↑このような「「根本尊敬」”できぬ”「紙」を、いつから「本尊」と名付けるようになったのだね?(^o^)」とこちらから駄犬を詰問すべき文言である。

いずれにせよ、駄犬の珍回答は、あまりにポイントがずれ過ぎているが故に、「全く話にもならない。」の一語に尽きる。

顔を洗って出直して来な。(--)y-゜゜゜ である。呵々大笑