やまいぬ。君の駄問を完摧す。142  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:1221()001147 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

   引用

 

 

 

 

 

 さて、この項では、駄犬姑息にも論点の摩り替えに躍起である。

ではその矛盾を突こう。

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> 坊や、連日朝から深夜までダラダラ書きこむうちに、何について書いておるのかも

> 解からなくなったようやね?(^o^)

 

※1ここで私も坊やもやり取りしておるのは「本尊について」、

> つまり「根本尊敬」の対象である※2「紙幅について」だよ。(^o^)

 

坊やは本尊で「鼻をかむ」のかも

> しれないが、悪いが我々は、「根本尊敬」の対象でそのようなことはせぬ。(^o^)

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→実に、姑息・卑怯・根性醜悪のゴミである。

 

※1 について

駄犬の謬説では、(駄犬の妄執の根本であるから、何度でも形を変えて追求しましょうね。)

 

@ 「本尊」=「根本尊敬」の対象  →誰でも書写して良し。

 

A 「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書かれた「本尊」は全て「人法一箇の御当体」(=久遠元初本仏の命)

 

すると、この@とAを総合して「本尊」義を考察すると、

B『誰が書いても良いのだから、小学生でも、パソコンでも、禅宗も坊主でも、身延の管長でも、自分が書いても、本尊になる。・・・もう何でもあり、である。呵々大笑

しかし、Aによって、それなりに”条件”があるらしい。

つまり、「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と書かれてないと、どうも「人法一箇」の「本尊」とは認めないらしい。

でも、全然平気、平気。↑↑↑この部分も「人法一箇」の「本尊」なのだから、もう、大丈夫!

どこででも、誰でも、何時でも 「人法一箇」の「本尊」が作り出せる。湧いて出てくる。・・・・とこうなる訳である。』

 

→ などと言うことが、誰が考えても、そんな馬鹿なことが有り得る訳がない。

 

およそ「本尊」とは、※1で駄犬も同意見であるが「根本尊敬」の対象であることは間違いない。

 

根本=物事が成り立っている基礎になるもの。おおもと。

おおもと=物事の最も基本となるもの。根本(こんぽん)。根源。

根源=物事の一番もとになっているもの。おおもと。根本。

 

であるから、「根本尊敬」の対象である「本尊」とは、「一番根源として、おおもととして尊敬する対象」ということである。

その根源であるはずの「本尊」がBのように「粗製濫造」され得るべきものでないことぐらい、子供が聞いていも分かる道理である。

 

しかし、流石に駄犬もこの点を突かれるのが痛いのか、今回姑息にもこっそりすり替えを行っている。

それが、※2の「紙幅について」という語である。

これは、当方が駄犬の恥論の矛盾を突くのをかわす為に、駄犬がそっと忍び込ませた老獪な語句である。

つまり、駄犬は暗々裏に、従来から存在する「曼荼羅本尊」へ、当方の追求の矛先をかわそうと企んだのである。

まことに馬鹿の癖に小狡い謗法の醜悪な下衆である。

 

そんな姑息な小手先の策謀は認めない。

あくまで、駄犬は@Aの主張をしているのであるから、結果はBの本尊が世界中に出現できる理屈である。

この迷妄は今後とも鋭く呵責していく。

 

ここでは、創価学会の活動家としての駄犬の小狡い醜怪で見苦しい人間性が暴露されただけのことである。

ご苦労様。(--)y-゜゜゜