次は少々興味を覚える内容である。
>
●> >では、この「興師の文証」はどう解釈するのか?
>
> >■ 一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘なり、
>
> >代々の聖人悉く日蓮と申す意なり。(御本尊七箇之相承)
>
▼> 無知。(^o^)(^o^)
>
> 例えば興師・目師ともにその書写本尊において、日蓮在御判の代わりに「日蓮聖人」と
> 認めているのが現存するが、では興師も目師も坊やに云わせれば、「御本尊七箇
> 相承」を見たこともなくあるいは見ていても知らん振りで、「法華を心得ていない」、
> 「不相伝」の偽法主にして、「代々の聖人」でもないのだな?(^o^)(^o^)(^o^)
>
> おいおい、一体どう反論するのだね、泣き虫坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 書けば書くほど、どんどん首が鋸で斬り刻まれて、もう何度も落ちた細首ながら、また
> 私が書く以前に、坊や自身の言葉自体でもう落ちかけておるぞ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 楽しんであげるよ、役立たずの能無しボクちゃん。(^o^)
>
> ああ、いつもながらの論旨ずれまくりの長々しい言い訳と泣き言などもとより無用。(^o^)
―――――――――――
●簡単である。
このような邪難は既に出ているので、その件も含めて破折しておく。

1、関連する本文。

■1「七、日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。
 師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり、当位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり、」■2「又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん、」

■3「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰はく深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」

【解釈】

■1「」の文は、大聖人御自らが顕された御本尊に関する御指南である。
■2以降が御本尊書写に関する御指南である。
この両義の筋目を見誤るとこの御文の真意が領解できなくなるので要注意である。
■1はつまり「日蓮即法界・法界即日蓮」を表示された姿が「日蓮と御判を」示される意義、ということである。
その上で■2御本尊書写するときには「日蓮即法界・法界即日蓮との意義を表示する為に、「日蓮御判」と書かなくてはならない。との意であり、あくまでも「日蓮という御仏即法界」という意義と拝するのである。
つまり、御本尊に表わされる法界全体の意義に対してその中央・中心に「日蓮と御判」があるべきである。という意義である。

その上で、そもそも「判」とはその顕された御当人が為して本当の意味があるのである。これは世間でも当然の理である。
であるから、大聖人御自ら御図顕の御本尊においては「判」がその御仏御本人を表わされる意義として極めて重要であり、その意義を表示する為に後の書写御本尊には「在御判=ここに大聖人の「判」が存在する」という意義を示されるのである。
であるから、ここの本義はあくまで「法界即日蓮(本仏自身)」ということであるから、後の書写御本尊において「在御判」を殊更に択ぶ絶対的な必然性はなくそこは本義の通り「聖人」でも全く問題はない訳である。

その上、更に重要な点は常随給仕・師資相伝・唯授一人・血脈相承による御本尊御書写の深義は簡明に文に表わされ切れるものでは有りえないということでもある。
その証拠に、未だ臭犬も返答不能である、例えば御本尊の御相貌の変遷については「七箇相承」には触れられていない。
大聖人が常随御給仕為された日興上人に様々な折に触れ、常に相伝された膨大な内容の重要・肝要の一部を日興上人が書き置かれたのが「御本尊七箇相承」であるから、御本尊の全ての御事を領せられておられるのは日興上人であり、七箇相承にその全てが表記されているわけではない。ということである。
同様の原理は、世間でも、師匠から伝持された全ての技や妙旨を文章化出来得ないのは、当然の理である。

もしそうではないと否定するならば、では聞くが、七箇相承を読んだ者は全て御本尊書写ができるのか?
ということになり、世界中で御本尊を書ける者は膨大な数となろう。
(まっ、臭犬の理論だと、「南無妙法蓮華経 在御判」と書けば誰が書いたってみんな「御本尊さま」なんだそうだから、今更「七箇相承」に拘る必要もないが。呵々大笑)

次に■3について

これは、「日蓮という御本仏」と「歴代上人」との関係に於いての御表示であられる。
つまり、「「日蓮在御判」とあり、その上、脇に「歴代上人の御名」を表示するのは、つまり、中央首題の「日蓮御本仏」からの代官であり、内証三宝一体により、内証は本仏日蓮である」との意義である。
であるから、■2と同様、「日蓮という御本仏」という意義に於いての「在御判」であるから、本義に於いて「聖人」でも全く問題など存在しない。

この相伝に迷うが故に、やはり不相伝家では「南無妙法蓮華経」の中央首題の直下にその時の法主(身延などの)の名と花押を平然と書いて、恬として羞じないのである。

 

ついでに。

■ 御本尊七箇相承

一、十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり・経に云はく然るに我実に成仏してより已来乃至或は己身を説き云云、上行等の四菩薩は菩薩界なり、経に云はく一を上行と名づけ等云云、地涌千界乃至真浄大法等云云、舎利弗は声聞界なり・花光如来云云、縁覚界は其の縁覚を求むる者乃至具足の道を聞かんと欲す云云・縁覚界所具の十界なり云云、大梵天王は天界なり、経に云はく我等も亦是の如く必ず当に作仏することを得べし云云、転輪聖王は人界等なり、経に云はく衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す云云、若し人仏の為の故に皆已に仏道を成ず云云、婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云、竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく竜女乃至等正覚を成ず云云、十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく一名藍婆云云、提婆達多乃至天王如来は地獄界なり、已上是れは一代の大綱応仏の上の沙汰なり(此に於いて十界に摂するに二義あり常の如し)。
―――――――――――
→さて、臭犬も拝んでいる、創価学会販売のニセ本尊の元になった日寛上人御書写の常住御本尊には、上記の御本尊の十界互具を示された御文中の、

@ 舎利仏 (声聞・縁覚)
A 転輪聖王(人界)
B 阿修羅王(修羅界)
C 提婆達多(地獄)

等が表記されていない。

これを臭犬風にいえばこうなる。

▼> 例えば(俺は広宣流布もしね〜法主の寛師などもともと全く認めていね〜が、その)寛師も、学会の本尊の元になった書写本尊において、
@ 舎利仏 (声聞・縁覚)
A 転輪聖王(人界)
B 阿修羅王(修羅界)
C 提婆達多(地獄)
認めてないのだが、では寛師も「御本尊七箇相承」を見たこともなくあるいは見ていても知らん振りで、「法華を心得ていない」、  「不相伝」の偽法主にして、「代々の聖人」でもないのだな?(^o^)(^o^)(^o^)

→つまり、臭犬に言わせれば、日寛上人は「不相伝の偽法主」であって、しかし、臭犬ら創価学会員は、その”偽法主”が書写した本尊をありがたがって拝んでいる、という世にも奇奇怪怪な行為を真顔で日夜為している事になる。

とんだ、お笑いである。

ついでにこれもつけ足して置いてあげよう。
―――――――――――
> おいおい、一体どう反論するのだね、泣き虫坊や?(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
> 書けば書くほど、どんどん首が鋸で斬り刻まれて、もう何度も落ちた細首ながら、また
> 私が書く以前に、坊や自身の言葉自体でもう落ちかけておるぞ。(^o^)(^o^)(^o^)
>
> 楽しんであげるよ、役立たずの能無しボクちゃん。(^o^)
>
> ああ、いつもながらの論旨ずれまくりの長々しい言い訳と泣き言などもとより無用。(^o^)
―――――――――――
→こうしてみると臭犬が吐いた自分の唾言が実にその醜い犬面に当てハマるではないか。呵々大笑。