やまいぬ。君の駄問を完摧す。10  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:10月31日(火)22時31分54秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

2、広宣流布の定義

再三再四その謗法根性へ教えるが、創価学会販売のニセ本尊などを幾ら世界中に売りさばいても、それは「広宣流布」などではない。
真の「広宣流布」ができない者どもに、真の広宣流布を云々できる資格などないし、道理もない。
立正佼成会の者が当宗の「広宣流布」を云々できるはずがないのと同様である。
真の広宣流布とは三大秘法を広めることである。
三大秘法とは一大秘法に究竟されるのであるから、つまりは戒壇の大御本尊様へ一切が収斂されるのである。
戒壇の大御本尊様以外の全ての日蓮正宗からの正統な御本尊は義の戒壇であり、事の戒壇の裏付けがあって始めて三大秘法の義が成立するのである。
つまり、ここを分かりやすく言えば、戒壇の大御本尊様の御許で血脈嗣法の御法主上人の大導師を賜り唱題が出来てこそ、事の戒壇であり、真の三大秘法が整足するのであり、そのことが出来うる人を増やすことが「広宣流布」の本義である。
そういう方々が日蓮正宗からの正統な御本尊を受持し、日々修行に励むところがその義、事の戒壇に通じるが故に義の戒壇の意義が生じるのである。
創価学会員などは、その大聖人様の出世の本懐、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊へ参詣できないのであるから、そんな会員が幾ら増えても世の中にただ謗法者を増やしているだけであり、国が滅ぶ元である。
やまいぬ。君はこういう基本中の基本が領解できていないので、「広宣流布」という意味自体に迷って狂っているのである。
まさに■「若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」の醜態を地でいく勇ましさである。
であるから実に愚かであるにも拘らず、驕慢であり、生意気なことを平然と言ってのけるのである。
こういう者を無慙の人というのである。
日蓮正宗の正統な広宣流布を云々する前に、自分が堕ちる地獄の様子などを先に調べて今から心の準備などをして置くべきであろう。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。64  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:11月17日(金)17時30分18秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

●あいも変わらず、同じことを執拗に繰り返しているだけの無能振りを遺憾なく晒しているようである。
教義的には全く無内容となってきたので、相手にする必要もなくなってきた。
であるから、また、少々前の愚論を粉々にしていきましょう。
―――――――――――>
> 叶うどころか750年も経ってロクに進んでもいないものを「咎なし」?(^o^)
>
> 随分前から何度も問うて、誰一人返答不能だね。
> 宗門は現在、何カ国・何人なのだね? こんな簡単なことに何故誰一人返答出来ん?
>
> 学会の丁度10倍ほどの歴史を持ちながら、まさか「謗法」と規定したその学会の
> 足許にも及ばぬ惨敗をしておるのではなかろうね、坊や?(^o^)
> 学会以前は邪宗に負け続け、学会成立後は学会にも負け続けて、それでなにが
> 蓮祖正統だね? 負けて負けて負け続けの蓮祖仏法などというものがあるのかね?
> (^o^)「広宣流布の大願」叶えられずば「日蓮が弟子檀那」などではないわ。

●まっ、とにかくこの愚人の執着は、ここに尽きるようである。
しかも、そこに固着した邪想から全くの正視眼を失って、聞き分けのないただの幼児と化しているだけである。
(そんな可愛いものではないな。やはり、人界の言葉が理解すら出来ない畜類、つまり駄犬・狂犬の類か。)

既に、この妄執は斬り倒している。
以下、編集を加え再掲する。
―――――――――――
→この駄犬の妄執は、単純である。
ただただ、「宗門は七百年間「広宣流布」してこなかった。だから日蓮正宗には大聖人の仏法の精神などない。創価学会は宗門が七百年間してこなかった弘教を多数したから正しい。それを斬った宗門が間違っている。」程度のものである。
これについては、既に詳細に破折済みである。

ここで、簡単に纏めてみよう。

1、創価学会が戦後「広宣流布」を目指し、多くの人々へ弘教をしていたことを当方は否定していない。

2、しかし、現時ではその当時弘教をしていた行動と全く正反対の姿勢である。

3、「広宣流布」とは大聖人の御悟りの根本、衆生救済の根源であられる戒壇の大御本尊を信仰する者を増やすことであり、究極の目的はこの世の中全ての人をそうせしむることである。

4、今の創価学会がやっていることは、3、に全く相当しない。のみならず、大いに邪魔をしている。

5、1、の時代の創価学会は、この3、を忠実に行っていた。

6、駄犬は、この1、の時代の創価学会の功績を楯にとって、それと全く正反対の行動をしている現時の創価学会を正当化しようとしている。
また、戦後創価学会が多数の信徒を増やしたその数だけに捉われ、それ以前の日蓮正宗を蔑如している。
甚だ的外れで、ものの本質が見えていない浅はかな邪解である。
―――――――――――
別箇所から再掲

一時期、創価学会が戒壇の大御本尊へ参詣し、各末寺の御住職から御本尊を受け流布していた、確かに「広宣流布」を推進していた、と言える時代もあった。
がそれも、一大秘法の根源の御当体であられる戒壇の大御本尊を侮蔑し、不信し、更には三宝をことごとく破戒している今となっては、その功徳も功績も全て灰燼に帰したといえよう。
もし、今の創価学会の行為が正しいのなら、破門以前の行動は全て謗法であった、ということになる。
逆に過去の創価学会の行為が正しいのなら、今の行動は完全な謗法行為である。
どちらを是認しても結局は創価学会の存在そのものの否定という大自己矛盾に逢着するのである。
それはなぜかといえば、創価学会の教義的解釈の根本が大きく180度変質してしまったからである。
―――――――――――
一度入信し大きな功績を残しその後退転する者など別に珍しいことではない。
かつての五老僧然り、波木井実長然りである。
創価学会が、またそうだっただけである。
別にかつて三大秘法を流布し「広宣流布」に貢献したからといって、今それと全く正反対のことをしておれば、結局はただの謗法者・謗法団体・地獄行き、である。
―――――――――――
これは、新鮮だった魚の美味さや効用を幾ら説いてみても、またその思い出にすがったり、懐かしんでみても、それが腐ってしまえば、全く美味いはずもないし、効用どころか、むしろそれを食すれば害となる、との原理である。

創価学会は今は既に腐ってしまった鯖と同様、否、そんな生易しい害毒ではなく、立正安国論の原理からすれば、まさに、衆生を、家庭を、地域を、国を、全世界を滅ぼす元凶であるところの世界で最悪の極悪邪宗である。

これは本物に似たものほど紛らわしく、そして人数が多い所ほど、社会的な影響が大きいが故である。
まさに、現在の国情不安、異常気象、人心荒廃等の元凶であるところの、安国論に説かれる、現時於ける「この一凶」である。
―――――――――――
●駄犬は弘教人数のみでさも創価学会が正しい、と迂闊に信じているようであるが、馬鹿である。
あくまでも根本の法門の正邪が重要なのである。

■汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ(『聖愚問答抄』)

ここに仰せの「正理」とは何か。

■凡そ正とは一の止まる所なり。(日寛上人・安国論愚記)

との仰せからも明白であるが、大聖人一期の御化導中、正中が正の戒壇の大御本尊へ窮尽される。
つまりは、戒壇の大御本尊への信仰のあり方をまず以って探索し検証し、正邪を判定すべきであって、人数の多寡を以って正邪を云々すべきではない。増してや、人数の多さを楯にとり、そのことのみで正しいと妄執するなど愚の骨頂である。との御心である。

■一、多人数も仏法に非ず・(中略)仍って信心無二して筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり。(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻146頁)

ここに仰せの「信心無二して筋目を違へず」という意義は、

1、戒壇の大御本尊への信仰⇔そのまま御内証を顕された各末寺の御本尊への信仰⇔各末寺から御下付された各家庭の御本尊への信仰、という縦に一筋を「無二」に信じる「筋目」

2、戒壇の大御本尊の御内証を伝持・相伝される御歴代上人への尊信⇔その御法主上人に連なる御尊師方への尊信、という縦に一筋を「無二」に信じる「筋目」

という、この二意を違えない、という意味である。

創価学会などこの御指南に全く反しているが故に、「広宣流布している」などとは天地が逆さになっても言えない。

■『日達上人全集』
    「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(二―六―二九五n)

まさにこの御指南の通り、創価学会などが広めているものは人を、家庭を、地域を、国を、世界を地獄に突き落とすニセ本尊・魔・鬼の類であって、決して「広宣流布」などとは呼べないのである。
かつてそれなりに正しかったからといって今が正しい根拠とはならないことは既述した通りである。

8、駄犬やまいぬ。君は「創価学会が何であれ正しい!」という頑強な妄執に取り憑かれて、以上のこんな簡明な道理が全く理解できない、頑迷固陋で暗愚な精神レベルに変形・転落している、ということである。

9.これは駄犬やまいぬ。君に限らず、今、邪教創価学会に残留する多くの学会員に共通する迷妄である。

10、実に愚かである。

11、このままでは間違いなく今生では不幸に喘ぎ、死して後は確実に地獄行き、である。

さて、その血統正しい、日蓮正宗から正式に御下付された御本尊様の御元で夕の勤行をさせていただきましょう。
駄犬などには逆立ちしてもできないことである。
そうか、犬は逆立ちも出来ないか。呵々。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。92  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)10時24分56秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

さて、駄犬の内容の薄い恥言になどをいつまでもかまっていられないが、そうかといって、かつて駄犬から寄せられた駄言に対しては相応の応対をしてあげなければ可哀想である。
では、遡って、続き、いきますか。(06.8.26の駄犬の投稿)
―――――――――――
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
>
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。」
>
―――――――――――
→こうして過去の駄言を今更に眺めてみると、あまりの幼稚さに破折欲もなかなか昂揚してこないような代物である。

1、まず、
宗教の根本は本尊である。
本尊なくして宗教は成り立ち得ない。人も救えない。
自宗の本尊の正当性が明確に定義出来ない→本尊が不確か→結局、本尊が不当
である”宗派”が、本尊の正当性が道理・文証・現証によって明白な宗派の、過去の布教の歴史について云々してみたところで、ただの悔し紛れの言いがかりに過ぎない。
例えれば、家も、家族も、もちろん、資産も、能力も、体力も、人徳も、何もない貧相で落ちぶれた者が、きちんとした家を持ち、家庭も平和で、慎ましく幸せに暮らしている家の中を窓から覗き込んで、「この家の何代前のじいさんがこうだった、」とか、「江戸時代はこんな下衆な仕事をした経歴があるんだ」とか、言っているに等しい。
しかも、その当人、実は昔この家の奉公人だった、というではないか。 といったような話である。呵々大笑。

であるから、まず、自宗の正しさを証明するに於いて、何よりも先にしなければならないのは、本尊の正当性の立証 である。
で、駄犬に訊く。(再詰する)

1、御法主上人以外は誰が書写できるのか?
2、もし出来る者がいない場合、では何故御法主上人にしかできないのか、
3、できるとすれば、誰か?その理由は?

以上を「蓮祖・興師の御文のみ」で明証せよ。

これが出来なければ、今までの駄犬の主張からいって駄犬が拝む創価学会販売の、身延みやげ本尊より劣る、ニセ本尊の正当性は立証されない。
繰り返すが、本尊の正当性が立証されない者が、あるいは宗派が、本尊の正統性が明々白々の宗派の歴史について云々するのはただの邪難であり、全くの愚行である。およそ取り上げるべき内容とはならない。

■仏法と申すは道理なり。

であり、道理が通らないものは、仏法ではない。

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。93  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)12時34分35秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

2、その上で、駄犬の引文の的外れ振りを哂う。
―――――――――――
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」

この御文を、一体何を立証したいが為に引文したのか。
解説してやるにも、余りにばかばかしいので、駄犬の好きな常套句一言で済む。
「宗祖滅後750年内で、必ず広宣流布しなくてはならない。」という意義を、

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

と、こうなる訳である。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。94  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 8日(金)12時38分9秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」

これも、同様であった。

「宗祖滅後”750年以内”で、必ず広宣流布を達成しなくてはならない。」という厳命があるのなら、

”蓮祖・興師の文証挙げて、エエ加減に立証せんか、クズよ。(^o^)
さ、とっととせえ。やまいぬ。君、坊やはノロマなんだよ。

である。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。105  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日:12月 9日(土)13時29分33秒 p4032-ipbf07yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

> >では、遡って、続き、いきますか。(06.8.26の駄犬の投稿)

> 「続き」?(^o^) 4ヶ月返答不能で、それを糊塗するために「続き」とは、
> 坊やの日本語が出鱈目なのと、その必死の格好つけ、なんとも無様だわ。(^o^)
>
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
―――――――――――
以上の御文も全く的外れであるが、特に
はい、また、やりました。この馬鹿は。(-。-)y-゜゜゜
―――――――――――
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば
> 釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も
> 芭蕉の如くならん。」
―――――――――――
→この御文の意義とされるところは、「末法に上行再誕・日蓮が出でて、寿量文底の南無妙法蓮華経を三大秘法として建立する。」というところに主眼があるのである。まず、@法体(=本尊)の建立あって、Aその流布 という筋目である。
その意義を証する文を当御書「法華取要抄」から摘示させていただこう。

■問うて曰く、法華経は誰人の為に之を説くや。答へて曰く、(中略)滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。

■問うて曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答へて曰く、寿量品の一品二半は始めより終はりに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。

■寿量品に云はく「是の好き良薬を今留(とど)めて此に在(お)く」等云云。文の心は上(かみ)は過去の事を説くに似たる様なれども、此の文を以て之を案ずるに滅後を以て本と為す。

■問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。

■疑って云はく、何ぞ広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、(中略)日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝(しょでん)の妙法蓮華経の五字なり。

■仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当(あ)て五字を授与せんこと当世異義有るべからず。

■疑って云はく、今世に此の法を流布せば先相之有るや。(中略)答へて曰く、去ぬる正嘉(しょうか)年中の大地震、文永の大彗星、其れより已後今に種々の大なる天変地夭(てんぺんちよう)此等は此の先相なり。

■是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。

以上の御文から当該文の意義を拝するに、

「正像二千年の間未(いま)だ広宣流布せざる法華経(※三大秘法の南無妙法蓮華経)を当世(とうせい)に当たって流布(※建立)せしめずんば釈尊は大妄語(だいもうご)の仏、多宝仏の証明は泡沫(ほうまつ)に同じく、十方分身の仏の助舌(じょぜつ)も芭蕉(ばしょう)の如くならん。」

となるのである。

これにも関連するが、以下のテーマに対する駄犬の回答がまだだが?

”宗祖滅後750年以内に、必ず広宣流布を達成しなければならぬ。”とするのなら、その蓮祖・興師の文証を挙げてみせよ。

を、
以下の駄犬の品性のない野卑な罵声の中の、団体名を「創価学会員」に、当方の個人名を「やまいぬ。」に変えて、駄犬へそのまま詰問する。

いったいいつまでかかるんだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げてからモノを云え、クズ法華講・樋田昌志くんよ。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げんか。いい加減にせんか、逃亡に次ぐ逃亡ばかりのクズ法華講よ。(^o^)
早うせんか、鈍臭いクズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)
全く愚図やなぁ、お前は。(^o^) 早うせんか、クズ法華講・樋田昌志よ。(^o^)
蓮祖・興師の文証挙げんか。
クズ法華講のクズ坊や。(^o^)
蓮祖・興師の文証、いったいいつになったら出せるのだね、クズ法華講・樋田昌志くんよ?
蓮祖・興師の文証挙げて証明せんか、クズ法華講・樋田昌志くんよ?(^o^)

呵々大笑。(-。-)y-゜゜゜

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。176  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 6日(火)23時47分46秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

もはや、完全に同じ痴論しか繰り返せない馬鹿犬は、狂人と同様。
普通の人間の言葉を全く理解できず、ただ妄想を際限なく大声で喚き続けるしか、自分の存在の意味が確認できないのであろう。
まさに 『ニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 である。
こういう狂人の発展性のない狂気の言を相手にしても何の価値も見出せないので、馬鹿犬お待ちかね、かつての愚論を切り刻んで砕いていきますか。
馬鹿犬これに対しても猛然と突っかかってくるであろうから、その必死さを眺めてみるのもまた一興である。

では、ボチボチといきますかね。
―――――――――――
> DATE:  8月26日(土)17時40分50秒
> TITLE: さてと。(^o^)
> NAME: やまいぬ。  MAIL:
―――――――――――
> 蓮祖曰く
> 「仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・
> 伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、
> 末法の始に一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり。 わたうども
> (和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。」
>
> 蓮祖が「さきがけ」されたものに続かないで、いったい何が蓮祖仏法ですか?(^o^)
> 「いつまで経っても我が仏法は広宣流布しない」と蓮祖が書いておられますか?(^o^)
―――――――――――
↑ここでもう馬鹿丸出しである。

久遠即末法 ということすら知らないらしい。

■日寛上人
『久遠は今日今日は久遠なり。』

であるならば、久遠元初の下種仏法は鎌倉時代の大聖人の御化導と全く同じであった訳である。

■百六箇抄
『末法の時尅の弘通の本迹 本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは芥爾り計も違はざる勝劣なり云云。』

無始の本源の本地である久遠元初から、今からは計り知れない長遠の昔である五百塵点まで、凡夫の智慧ではやはり計り知れない時間が経過したことは誰でも分かる道理である。
その間、久遠元初の下種仏法の化導では解脱出来なかった多くの衆生が熟脱仏法に来入する。

日顕上人御説法 昭和63年虫払会 曽谷入道殿許御書 昭和63年04月06日 於 総本山・御影堂
■久遠元初に凡夫即座開悟の釈尊が衆生に根本の仏種を下し、それによって当座に即身成仏の利益を得る衆生も無数であったと思われますが、また久遠元初の仏法を信解できなかった衆生は仏道に退転を起こして六道に流転し、それ以来、多塵劫を経て衆生の機を調え、道心を養うに応じて仏も衆生も次第に仏道の高位に至り、ついに五百塵点劫の古に本果第一番の仏として顕れ、方便の相をもって身を厳り、方便の四教、八教を説いて衆生の機根を調え、法華経を説いて実に入らしめられたことが御書の意に明らかであります。
 以来、五百塵点劫という算数譬喩も及ばざる永い間、本果の仏として出現し、久遠元初下種結縁して以来、退転の衆生の機を調えて化導の実を挙げ、三千年前インドに出現して久遠元初以来のすべての過去下種有縁の衆生を脱せしめ、すなわち成仏せしめ、収羅結撮してその化導を終わられたと示されるのであります。

久遠即末法 であるのだから、末法の下種仏法の流伝も久遠元初と同一なのである。
”久遠元初からたかだか750年で広宣流布が達成した”などという、文も義もましてや現証もどこにも発見できない。
”広宣流布”とは永劫ともいえる年月の弛まない本因下種仏法の弘通である。
久遠元初 や 五百塵点劫 との概念からすれば、”750年”など一瞬・一刹那・一弾指 である。
ある団体がある時期、そこそこに下種仏法を弘教したからといって、結局ある一定期間の後こぞって久遠元初の下種仏法の本源であらせられる人法一箇の戒壇の大御本尊から退転したら、何にもならない。
その情けなさを深く恥じ入ることはあっても、間違っても慢心を起こして自慢できる事柄ではない。
真の地涌の菩薩とは何があっても終生戒壇の大御本尊から退転しない者のことを言うのである。

というわけで、馬鹿犬の妄執など、ただ過去を讃ずる驕慢 に過ぎない。
そんな者は”地涌の菩薩”でもなんでもない、ただの 一闡提人 である。
『開眼のないニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 ということである。呵々大笑

 

やまいぬ。君の駄問を完摧す。177  投稿者:管理人(樋田昌志)  投稿日: 2月 7日(水)16時00分40秒 p7150-ipbf08yosida.nagano.ocn.ne.jp

  引用

 

 

はい、では次行こうか。
―――――――――――
▼1『> こう書くと法華講さんは、なんとかの一つ覚えで「蓮祖仏法でないものがいくら広まっても」と
> 泣き言云います。情けない。泣き言など100万回繰り返しても広宣流布は一歩も進まない
> のですよ。宗門・法華講が学会よりも広まってから、そういう言葉は吐くものです。
>
> まさか蓮祖も、立宗より実に750年も経って、仮にも「日蓮正宗」と称する集団が、そんな
> 負け惜しみと言い訳しておろうとは思いもよらないでしょう。』
>
> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、
> 王をば自在となづけたり。」
> 「大願とは法華弘通なり」
> 「願くは我が弟子等大願ををこせ」
>
> そして、
> 「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば釈尊は
> 大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。」
―――――――――――
↑つくづく”馬鹿に付ける薬なし。”である。
▼1『』については、前段で呵責済み である。

【一部再掲】

久遠即末法 であるのだから、末法の下種仏法の流伝も久遠元初と同一なのである。
”久遠元初からたかだか750年で広宣流布が達成した”などという、文も義もましてや現証もどこにも発見できない。
”広宣流布”とは永劫ともいえる年月の弛まない本因下種仏法の弘通である。
久遠元初 や 五百塵点劫 との概念からすれば、”750年”など一瞬・一刹那・一弾指 である。
ある団体がある時期、そこそこに下種仏法を弘教したからといって、結局ある一定期間の後こぞって久遠元初の下種仏法の本源であらせられる人法一箇の戒壇の大御本尊から退転したら、何にもならない。
その情けなさを深く恥じ入ることはあっても、間違っても慢心を起こして自慢できる事柄ではない。
真の地涌の菩薩とは何があっても終生戒壇の大御本尊から退転しない者のことを言うのである。

というわけで、馬鹿犬の妄執など、ただ過去を讃ずる驕慢 に過ぎない。
そんな者は”地涌の菩薩”でもなんでもない、ただの 一闡提人 である。
『開眼のないニセ本尊を拝むと斯様に馬鹿に為るという標本』 ということである。呵々大笑
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次に御文の引文の仕方が全く為っていないので呵責しておきましょう。

> 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり。」
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↑「仏法は勝負」 について

 御書の中で仰せの「仏法は勝負」とは、道理を根本とすることが大前提となっている。
それは、理・文・現の三証の上からも明らかである。
つまり、正しい道理と文証とによって正邪を判じ、そして現証によって決するのである。
したがって、道理の上から一切の教法や思想を見れば、おのずとそれらの高低、浅深の相違が判別される。
このように、様々な教法や思想に高低、浅深の相違があるならば、必然的にそれらを基とした一切の主張や価値観にも、現実的な勝劣、正邪の別が顕れてくる。したがって、特に道理をもって根本とするのである。

 大聖人の仏法における道理とは、教理的には五重相対であり、従浅至探して顕された文底下種独一本門が、一切の道理の根本となる。また、信仰的には、文底独一本門の所詮である本門戒壇の大御本尊、およぴ大御本尊と二而不二である唯授一人の血脈に対して、深く信順することが道理の本である。

 『四条金吾殿御返事』では、たとえ主君(ここでは四条金吾殿の主君である江間氏)が威圧し、弾圧しようとも、文底下種の妙法を固く受持していくならば、封建的な主従の世界に在っても、道理の上からおのずと勝負は決すると示されたのである。
つまり、当抄の意は、四条金吾に対して、主従の道は貫きながらも、各々の持つ教法の浅深が、道理の上から、宛然(えんねん)として現実世界に顕れてくることを説かれたものなのである。

 つまり、仏法では、まず道理の上から妙法は勝、その他の一切の教法や思想は劣と判じて、勝法である文底独一本門の妙法を受持することが大本であり、それを「仏法は勝負をさき」とお示しなのである。
さらにいえば、仏道修行における敵とは、正法に背く邪法邪師の邪義であり、それを粉砕して正法を宣布し、平和な国家を建設することにあると知らなければならない。

であるから、駄犬やまいぬ。君など創価学会は、その”勝中の最勝”の法である戒壇の大御本尊への信を一度は持ったが、高々約50年で退転しただけのことであって、かつて”勝”法を広めたことを”自慢”しても、今はその”勝”たる実体は全く存在しないのである。
むしろ、その勝妙の大法・戒壇の大御本尊を

▼「興師・目師の文献のどこにも記述がないという巨大な「戒壇板本尊」を身延から、興師たったお一人で間違いなく背負ってきたと是非立証して頂きたいものですね。(^^)(身延で完成していた板本尊にノコギリ入れて、バラして背負ってきたのでしょうか?(^o^))(←やまいぬ。筆)

などと徹底的に愚弄している大馬鹿者など”勝負”でいったらむしろ”負けが中の負け”である。

駄犬やまいぬ。など、例えてみれば、波木井実長が、手続ぎの師匠である時の御法主・日興上人に背き、四箇の謗法を犯している状態で、かつて大聖人を我が所領へお迎えした功績を、くどくどと自慢しているような醜態である。
ああ、惨め。である。
馬鹿もいい加減で自分の馬鹿さかげんに気が付かないと、大聖人の下種仏法では最早救われず、永劫の年月地獄でもがき苦しんだ挙句に、熟脱仏法へ回される羽目になるぞ。呵々大笑(馬鹿にはこの意味すら分からないだろうが。も一つおまけに、呵々大笑)