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    弥源太入道殿御返事 文永一一年九月一七日  五三歳

 別の事候まじ。憑(たの)み奉り候上は最後はかうと思(おぼ)し食(め)し候へ。
河野辺(かわのべの)入道殿(※1日蓮大聖人御在世当時の信徒の一人。詳細は不明)のこひしく候に、漸(ようやく)く後(おく)れ進(まい)らせて其のかたみと見まいらせ候はん。さるにても候へば如何(いかん)が空(むな)しかるべきや。さこそ覚え候へ。

 但(ただ)し当世は我も法華経をしりたりと人毎に申し候。
時に法華経の行者はあまた候。
但し法華経と申す経は転子病と申す病の様に候。
転子と申すは親の様なる子は少なく候へども、此の病は必ず伝はり候なり。
例せば犬の子は母の吠(とおぼえ)を伝へ、猫の子は母の用(はたらき)を伝へて鼠(ねずみ)を取る。

日本国は六十六箇国島二つ、其の中に仏の御寺は一万一千三十七所、其の内に僧尼或は三千、或は一万、或は一千一百、或は十人、或は一人候へども、其の源は弘法大師・慈覚(じかく)大師・智証(ちしょう)大師、此の三大師の御弟子にて候。

山の座主(ざす)、東寺(とうじ)・御室(おむろ)※2・七大寺※3の検校(けんぎょう)※4、園城寺(おんじょうじ)※5の長吏(ちょうり)※6、※3伊豆・箱根・日光・慈光等の寺々の別当(べっとう)等も、皆此の三大師の嫡々(ちゃくちゃく)なり。

此の人々は三大師の如く読むべし。
其れ此の三大師、法華経と一切経との勝劣を読み候ひしには、弘法大師は法華経最第三、慈覚・智証は法華経最第二、或は戯論(けろん)なんどこそ読み候ひしか。
今又是くの如し。

 但し日蓮が眼には僻目(ひがめ)にてや候らん。
法華経最第一・皆是真実と、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏は説いて証明せさせ給へり。
此の三大師には水火の相違にて候。
其の末を受くる人々、彼の跡を継いで彼の所領田畠を我が物とせさせ給ひぬれば、何に諍(あらそ)はせ給ふとも三大師の僻事(ひがごと)ならば此の科(とが)遁(まぬか)れがたくやおはすらんと見え候へども、日蓮は怯弱(こうにゃく)(※微力)の者にて候へば、かく申す事をも人御用ひなし。

されば今日本国の人々の、我も我も経を読むといへども申す事用ふべしとも覚えず候。 

 是はさて置き候ひぬ。御音信(おんおとずれ)も候はねば何にと思ひて候ひつるに御使ひうれしく候。
御所労の御平癒(へいゆ)の由うれしく候、うれしく候。尚仰せを蒙(こうむ)るべく候。恐々謹言。
 九月十七日                日  蓮 花押
弥源太入道殿御返事
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※2
 仁和寺門跡(もんぜき)御室門跡

たまきはる(1219)「御むろのまゐらせ給る」
[2]
[一] (宇多天皇が建て、退位後、寺内に閑室をもうけて隠棲し、「御室」と称されたところから) 京都市右京区御室にある仁和寺の異称御室御所


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※3
南都七大寺(なんとしちだいじ)は、奈良時代平城京(南都・奈良)およびその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの官寺を指す[1]。初出は平安時代『扶桑略記延長4年(926年)12月9日条で、「七大寺、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺」とされた。

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※4

検校(けんぎょう)は、平安時代鎌倉時代に置かれた荘官社寺荘園監督役職名である。
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※5
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山寺院山号は長等山(ながらさん)。本尊弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。
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※6
古代に中国から伝わった語で,県吏・村町吏の頭立った役の者をさし,《平家物語》にも〈京師(けいし)(都)ノ長吏〉という表現がみえるが,ことに寺院社会において一寺の寺務を統轄する役職名として適用され,長老,座主(ざす),長者,別当などの語と同義であった。

伊豆
 静岡県熱海市にある伊豆山神社のこと。古来、伊豆大権現、走湯権現と号する。源頼朝(一一四七年〜一一九九年)は夫人・政子とともにこれを崇拝した。箱根権現とともに二所と呼ばれ、厚く崇敬をうけた。
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箱根
 神奈川県足柄下郡にある箱根神社のこと。古来、箱根権現と号する。源頼朝は石橋山の戦に敗れた時、別当の行実を頼ってここに潜んだことがある。鎌倉時代後も多くの武将の信仰を集めた。
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日光
 栃木県日光市にある寺社。もと二荒山と称して二荒神を祀っていた。天平神護二年(七六六年)勝道が、四本龍寺・中禅寺・二荒神祠を創建した。嘉祥元年(八四八年)慈覚が、常行・法華の二堂を建立し鎮護国家の道場とした。鎌倉時代には別院を鎌倉に設けた。
〈追記〉
 日光の名は、二荒を音読して呼んだとも、勝道が日光菩薩に因んで命名したともいわれる。鎌倉時代頃には、現日光の御神体が日光権現と呼ばれた(平家物語)。四本龍寺はもと紫雲立寺といい、現在の輪王寺の基である。治承元年(一一七七年)座主職争いで五年の間山内が争乱し、四本龍寺などが焼けた。
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慈光
 埼玉県比企郡にある天台宗寺院慈光寺。都幾山(ときさん)一乗法華院と号する。開山は鑑真和尚の高弟釈道忠(しゃくどうちゅう)。建久二年(一一九一年)源頼朝が藤原泰衡追討の際、戦勝祈願を行った寺として知られる。
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通解
 特別の事はないであろう。法華経に祈った以上は、最後はかならずそのようになっていくと思い定めなさい。河野辺入道殿を恋しく思っていたが、すでに先立たれた今は、あなたをその形見と拝している。そうであるからは、なんで(亡くなられたからといって)空しいことがあろうか。たしかにそう思われるのである。

 ただし、今の世は自分も法華経を知ったと人毎(ごと)にいっている。それゆえ法華経の行者は沢山いるのである。ただし、法華経という経は転子病という病のようなものである。転子というのは親の生き写しのような子は少ないけれども、この病はかならず伝わるのである。たとえば、犬の子は母の吠えるのを伝えうけ、猫の子は母の働きを伝えうけて鼠を捕る。

 日本国は六十六か国と島が二つである。そのなかに仏の御寺は一万一千三十七か所、その内の僧尼の数は、あるいは三千、あるいは一万、あるいは一千一百、あるいは十人、あるいは一人であるが、その源は弘法大師・慈覚大師・智証大師、この三大師の御弟子である。比叡山の座主、東寺・御室・七大寺の検校、園城寺の長吏、伊豆・箱根・日光・慈光等の寺々の別当等も、みなこの三大師の嫡流である。この人々は三大師のように法華経を読んでいるのである。
 さて、この三大師が法華経と一切経との勝劣を読んだことには、弘法大師は法華経第三と、慈覚・智証は法華経第二、あるいは戯論(けろん)などと読んだのである。今また(嫡流の弟子達においても)同じである。
 ただし、日蓮の眼には、法華経最第一、「皆是真実」と釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏が説いて証明されたとみえるのは、見誤りなのであろうか。これら三大師とは水火の相違である。その末流の人々は彼らの跡を継いで、寺領の田畠をわがものとして所有されているのであるから、何を言い争うとも三大師の立義が誤りであるならば、その謗法の罪を免れることは難しいと思われる。だが日蓮は微力の者であるから、このようにいうことをも、人は用いないのである。
 それゆえ、今日本国の人々は、われもわれも法華経を読むというけれども、日蓮の立てる法門を用いるとも思われない。
 このことはさておき、お便りもなかったので、どうされたかと案じていたところに、このお便りは嬉しいことである。ご病気も快復されたとのこと、ことに喜ばしい。なお仰せを承ることを期しております。