▲9 第六十五条【五十七条】、

法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(※けはい・かいはい・そむき反すること。)の別名なる故なり、
門徒の僧俗の中に加様の人有る時は・再三私にて教訓して用ひずんば師範の方へ披露すべきなり、
其義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。

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▲59世 日亨上人  ○註解。

■「大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり」

とは謗法に付いて適切なる解釈なり、

(中略)

対内的には宗綱に違反して信行の途立たざるが「謗法」なれば、「謗法」の名は至つて重く「謗法」の罪は門徒の極刑なり、
自ら律して針「石+乏」に供するは随意なりといへども・濫に他人を憎みて「謗法」の罪名を被らしむるは・「若実若不実」(※→参照)却つて其重罪を我身に招く恐るべし、

近来間々巷途の説に聞く・「何誰は何を為したり謗法なり」と・
悪言謹まずんばあるべからず、


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【現代語意訳】

法華講組織内では、日蓮正宗宗規などに違反して、信行退転することが「謗法」であって、講員を「謗法」と呼ぶことは大変重大な意味を持つのであり、「謗法」の罪とは、日蓮正宗信徒としての極刑を言い渡されたようなものである。
法華講員が自分に対して『謗法厳誡』の精神で厳しく律するのは自由だが、他の講員に対して例えば憎しみにより、安易に「謗法だ。」とか決めつけることは、例えそれが真実であっても、ましていわんやそれが真実でなかった場合はもちろんのこと、その他の講員を「謗法」呼ばわりした重罪は、言った自分自身に返って来ることを恐れるべきである。

最近、しばしば、こういう風聞を聞く。
「誰々は、何々をした。 これは「謗法」だ。」と。
こういう悪言は、厳に慎まなくてはならない。

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【参照】

▲ 若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん。若し之を軽笑(きょうしょう)すること有らん者は当に世々に牙歯疎(げしす)き欠(か)け・醜(みにく)き脣(くちびる)平める鼻・手脚繚戻(しゅきゃくりょうらい)し、眼目角(目+來)(がんもくかくらい)に、身体臭穢(しゅうえ)・悪瘡(あくそう)・膿血(のうけつ)・水腹(すいふく)・短気(たんけ)諸の悪重病あるべし
(十法界明因果抄 210)


過悪-------過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等。

白癩---皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種。
手脚繚戻→手足が曲がり自由に伸びない状態。
眼目角(目+來) ---瞳の方角が偏り、正常に者を見る事が出来ない事。
悪瘡---------悪性のできもの、腫れ物。
水腹---------腹部に濁水が充満する病気。
短気------息が詰まり呼吸が困難になること。

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宗祖聖人も阿仏房尼に告げて・
■「謗法にも浅深軽重の次第ありて強ちに悉く取り返へしのつかぬ重罪にあらず、軽き浅き謗法を知らず知らず行ふといへども・其人が色心相応の強信者ならば、強い信心の為に弱い謗法は打消されて罪とはなるべからず」
と云ふ風の仰せがありしは、全く門外折伏・門内摂受の意もありて・信徒を将護し給ふ大慈なるべし、

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【現代語意訳】

日蓮大聖人も、阿仏房尼に概要以下のように御指南されている。
「謗法にも、浅い・深い、軽い・重いの違いがあって、その全てが全く取り返しのつかないような重罪となる訳ではない。
軽い謗法、浅い謗法などを知らず知らずのうちに行ったとしても、その当人が、身でも一生懸命で真剣に動き、心でも正統・正当な信心を清浄に実践する強信者ならば、その強い信心の功徳によって、弱い、浅い、軽い、謗法の罪は打ち消され、消し飛んでしまって、罪障となって罰を受けるような罪とはならない。」

これは、まさに、日蓮正宗に入信していない謗法者に対しては、一向に邪宗・邪義・謗法 破折・折伏が表であり、その一方で一端御受戒を受けられた日蓮正宗信徒に対しては、摂受を表に立てて、相手の言い分を直ちに手折るようなことはせずに、徐々に正しい信仰へ誘引しながら教導・育成すべきという御意であり、信徒を、善導し護られる御本仏・日蓮大聖人の大慈悲の御指南である。

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参照

■ 謗法の者にも浅深軽重の異(こと)なりあり。法華経を持(たも)ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれなり。此等の人は介爾(けに)ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小水をけ(消)すが如し。(阿仏房尼御前御返事 建治元年九月三日 五四歳 905)

■ 軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてを(置)くも候べし。自然になを(直)る辺あるべし。せめて自他の罪を脱(まぬか)れて、さてゆる(免)すべし。906

■ 浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。906


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況んや末輩にありては・自他互に警策(※1)し勧奨(よいことだとすすめて励ますこと。)して、寛厳宜しきを得て・異体同心の実を挙ぐべきなり、
厳にも寛にも、折にも摂にも・根底に大慈大悲の溢るゝあらずんば・万行徒に虚戯に帰せんのみ、

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【現代語意訳】

いわんや、末弟・末信徒の立場においては、講員同士お互いに、時に注意しあったり、あるいは、誉めあって励まし合ったりして、優しさと厳しさをあんばい良く使いこなしながら、異体同心の姿を実現して広宣流布へ向けての名実共の発展、拡充、前進の実効をあげるべきである。
厳しく接する時でも、優しく接する時でも、あるいは、時に破折する時でも、あるいは相手の言い分をそのまま受け止めるような時でも、常に根底には大慈悲心を持ち、それが溢れ出るようでなければ、何をどう活動し、折伏・育成に動いてみても、全て無駄事・徒労となってしまう。

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※1 禅堂で用いる用具。「けいさく」ともいう。木製の扁平な,長さ 1.2mほどの棒で,修行者が坐禅中に睡気に襲われたとき,また自分の精神を鼓舞させたいときに巡回中の僧にこれで打ってもらう。

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即ち六十五条の
■「門徒の僧俗の中に等」 

及び六十六条の
■「門徒の僧俗の謗法罪を見隠し」

等の文は・其教訓も披露も共に異体同心の情熱の溢ふれたる結果にして、決して浮薄なる、不親切なる、嫉妬なる底の・表面計りの与同罪呼ばゝりにあらず、

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■  門徒の僧俗の中に加様の人有る時は・再三私にて教訓して用ひずんば師範の方へ披露すべきなり、其義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。

■ 門徒の僧俗の謗法罪を見隠し聞隠すべからず、与同罪遁れ難き故なり、内々教訓して用ひざらんは師範に披露を為すべきなり云云。

【現代語意訳】

ここに御指南されている、門内に謗法行為が認められる信徒に対しての対処の方法は、例えば、相手に対する教訓も、また、御住職への報告も、異体同心して何としても共に広宣流布へ向って闘って行こう!との異体同心の大情熱から来るところの行動でなければならない。
決して、軽はずみな思いや、親切心のない、あるいは心の奥底では相手に嫉妬心を抱いているとか、人から誉められたい、良く想われたい、、などの表面を取り繕うような根性において、相手を「謗法」呼ばわりし、自分が「謗法与同」しないために、こう言っているんだ。などという行動では絶対にいけない。

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然るに他人に謗法の行為あることを見聞して、直に本条の御示しに依らず・再三再四は愚ろか一回の面談すら為さずして・濫に江湖(こうこ・世の中。世間。一般社会。)に悪声を放ち、朋党に私語を為すの類は異体同心行にあらず、

又他人の行為に疑義あるときは、此を朋党の茶話に止めず、謗法と認めなば直に本条所示の如く、本人に勧告もすべきなり、

但し謗法とも正行とも決せざるときは明師に決断を仰ぎ、又は直に本人の意見を叩くが急務なり、
決して多人の耳に軽々しく入るべきにあらず、然らざれば破和合茲に基いす慎むべし。

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【現代語意訳】

他の講員に謗法の行為があることを見聞きしたとしても、化儀抄の第六十五条・六十六条に御指南されている誡めの通りに、その謗法行為があとるとされる本人に再三・再四、面談して、教訓すべきであるのに、その御指南を守らず、たった一回の面談・教訓もせずして、直ぐに、軽々に、みだりに、講中で悪口を放言したり、あるいは、気の合う者達とグループを作って、そこで陰口を言い合っている者の類は、異体同心の者ではない。

また、他の講員の行為が、謗法かどうか疑いがあるときには、これを、気の合う者達のグループ内での、茶飲み話(陰口の類)だけで終わらせるのではなく、間違いなく謗法であると明確に証明できるのであるならば、この第六十五条、六十六条に御指南されるように、その本人へ勧告すべきである。

ただし、本当に謗法行為なのか、そう断定して本当にいいものであるかどうか、判然としない時には、所属の指導教師に正確に偽りなく報告し、その判断を仰ぐか、もしくは、当人に直接問い質して、本人の意見を訊くことこそが、まず早急になすべきことである。

それをしないうちに、講中の大勢の人へ軽々しく吹聴して回ることはしてはならないことである。
もし、こういうきちんとした手順を踏んだ上での言動でなければ、まさに、五逆罪の破和合僧(講)の重罪であり、講中が分断してしまう原因となる。
慎まなければならない。

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第六十七条【五十八条】、(化儀抄・日有上人)

『門徒の中に人を教えて仏法の義理を背かせらるゝ事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失と申すなり、自身の謗法よりも堅く誡むべきなり。』

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○註解。(日亨上人)

■「人を教て仏法の義理を」

等とは・僧俗自身が他の僧俗を教唆して、大は宗旨の大綱に背く如き謗法を行はしめ・小は宗門の信条に違ふ如き非行を為さしむる・
其為せし本人は勿論、謗法背信の罪に堕する事必然なりといへども、其自ら為さゞる教唆人も亦此を為さしめし咎に依りて同罪に堕す・

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【現代語意訳】

僧侶も、法華講員も、他の日蓮正宗の僧侶や法華講員をそそのかして、大きな謗法罪で言えば、日蓮正宗の宗旨の根幹に関わる教義に背くような大謗法行為を行うようにしむけること、小さい謗法でいえば、日蓮正宗宗門の教義・信条に従わないような言動をさせること、
(←※僧侶においてはまさに正信会や、創価に堕ちた脱落僧らが、そして在家で言えば、まさに池田大作・浅井昭衛がその代表であろう。)

例え人からそそのかされてしまって、これらの大小の謗法行為をしてしまった講員はもちろん、謗法・背逆・背信の重罪を犯したことになり、三悪道に堕することは間違いないことであるが、自分は実際にその大小の謗法行為をしていなくても、人をそそのかした講員もまた、他の講員に謗法行為をさせた、けしからぬ言動・罪により、自分自身も大小の謗法罪を犯したことになり、応分の三悪道に堕ちることになる。

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其教唆の方法は自ら直接に言説を以てしたるものは、其罪重きこと勿論なれども・或は態度を以つて暗示を以つて教唆を加へたる者、亦此に準すべし、
仮令教唆の意志なしといへども・信徒を有する僧分・弟子を有する僧分・信徒を有する講頭等の非徳が、冥々の間に他を悪感化する其罪、亦己(おのれ)に帰することゝ知るべし、

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【現代語意訳】

そのそそのかす方法は、自分自身の言葉で直接したものは、その罪が重いことは言うまでもないことであるが、あるいは態度で暗示するようにそそのかす者も、その重罪は、直接、言って語ってそそのかした者に準ずるくらい重い。

また、たとえそそのかす意志がないとはいえ、僧侶、また在家でも指導的立場にある者の、信仰に対しての信解・行解・学解の未熟さ、あるいは自身の行動の非徳・不徳によって、知らず知らずのうちに他の講員へ悪影響を与えて、正しい信仰の道を曲げさせてしまう罪は、それが自分自身に帰ってきて、自分が大重罪業を積むことになるということをよくよく知るべきである。

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■「五戒の中には破和合僧」

等とは、五戒とは通途の殺盗等にあらずして、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪の事を云へるなり、
一人を僧といはず四人已上の共行集団を僧といふ定義なれば・其共心同行の団体中に自ら異義を唱へて退くも不可なり、
況んや他を教唆して同心共行を破するに於いてをや、

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【現代語意訳】

(中略) 法華講として共に信行に励んでいる仲間・組織に対して、自分勝手にあれこれ判断して、ああでもない、こうでもない、といって建設的でない不満・批判などを言い出し、講で推進する信行の活動に参加しない、などという行為は許されないことである。
ましていわんや、他の講員をそそのかして、異体同心で前進する法華講の仲間・組織を分断・破壊するなど、もっての外の大重罪行為である。

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提婆達多が釈迦牟尼仏に反抗する為に・仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したるは・提婆の破和合僧罪とて・其罪の尤なるものなり、
現代に於いては破和合僧又破和合講に通用すべし、

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【現代語意訳】

提婆達多が釈尊に反抗するために、仏弟子の一部をそそのかして誘惑し洗脳し、新教団を組織したのは、「提婆達多の破和合僧罪」として、その大重罪は当然すぎる程当然の大逆罪である。
現代では、指導教師である御住職と、法華講員との僧俗一致の関係を乱したり、あるいは法華講組織内で様々なこと吹聴して講員をそそのかし、誘惑し、異体同心の講中を乱す、分断する、等の行為は、まさに「提婆達多の破和合僧」という大逆罪と同様の大重罪行為である。

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宗門に於いては大なる背教破和合の徒少し、宗祖御時代の大進房の如き、中古の真超(※1)の如き、日好(※2)の如きに過ぎざるも、小背信・小破和合の徒は僧俗共に多かりしなるべし、

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※1 日蓮宗から天台宗に転じ日蓮宗批判を行った元京都妙蓮寺貫主・舜統院真超(1596〜1659)

※2 堅樹派のこと(学会そっくり)

  第三十五世日穏上人の頃(江戸後期)、日朗門下の堅樹院日好という僧が、大石寺に帰伏した。
この時代は、幕府の政策により、宗門は布教が大変難しかった、
そこでひたすら令法久住に勤めていた。
日好は、たちまち慢心を起こし、折伏をしないから謗法であると、大石寺を攻撃した。
宗内や、あろうことか猊下まで非難した。
そして「我こそ日興上人の正統である」と言って、唯授一人を否定する。
「唱題に加えて、四箇格言を唱えるべきだ」と主張し、「戒壇の大御本尊は、我胸中にあり」と大御本尊までも否定する邪義を唱えだした。
明治になり、その流れを汲んで、完器講ができ、一時は一大勢力となった。
しかれども、時の猊下、僧俗の破折・折伏で、再び富士の正義に目覚め、日好の流れを汲む者は、跡形もなく滅んでしまった。
異流義の行く末は明らかなり。
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現代に於いて信心薄き地方にては大謗法大背教に意を注ぎ、信仰強き地方にありては大謗法大背教者なんど出づべきにあらざれば、却つて小謗法小背信に意を注ぎ・自他互に戒飾して破和合・悪宣伝・悪感化の起らざる様・未然に予防する事肝要ならんか、

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【現代語意訳】

(※日亨上人がこの「有師化儀抄註解」を書かれた時代からすれば、現代は全国的に日蓮正宗の正しい信行学の徹底が図られているので、この御指南の中で特に留意すべきことは、以下の点であろう。)

現代では、僧俗一致を乱す指導教師への師敵対行為とか、異体同心の輪を乱す、講中での十四誹謗とかの小謗法とか、小背信の発生に特に注意して、講員同士お互いに、戒めあったり、讃えあったりして、僧俗一致・異体同心の団結を乱すような悪しき言動や悪影響が横行しないように、常日頃から講中一丸となって、油断せず、誡め合い、気を引き締めて信行に励むことが実に大事である。

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■「自身の謗法よりも」

等とは・他を教へて仏法の義理を背かしむる罪は自ら為す罪よりも罪積も多くなり、且つ無智の他人を無間に苦しむる事になれば・深く誡めて此罪に触れざるやうに心すべしと訓誡し給へるなり

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【現代語意訳】

他の講員をそそのかして、仏法の本義、根本的な教義から背かせるような罪は、自分自身が行う罪より重く、罪障を積むのであり、さらにまた、いまだ入信浅い、あるいは信行学において進んでいない講員をたぶらかして無間地獄の苦しみを与えることになってしまうので、講中一致団結して、このような悪知識が発生しないように、また仮に発生してたとしても、他の講員に悪影響が及ばないように、くれぐれも用心し、誡め合っていくべきであることを、日有上人は厳しく御指南されているのである。

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【参照】

■ 涅槃経に云はく「菩薩摩訶薩(まかさつ)悪象等に於ては心に怖畏(ふい)すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に。是の悪象等は唯(ただ)能(よ)く身を壊りて心を壊ること能はず、悪知識は二倶(とも)に壊るが故に。是の悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。是の悪象等は唯能く不浄の臭き身を破壊(はえ)し、悪知識は能く浄身及以(および)浄心を壊る。是の悪象等は能く肉身を壊り、悪知識は法身(ほっしん)を壊る。悪象の為に殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友の為に殺されては必ず三悪に至る。是の悪象等は但身の怨(あだ)と為る、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離(おんり)すべし」(守護国家論 正元元年 三八歳 148)

■ 法華経をば経のごとく持つ人々も、法華経の行者を或は貪瞋癡(とんじんち)により、或は世間の事により、或はしなじな(品品)のふるまひ(振舞)によって憎む人あり。此は法華経を信ずれども信ずる功徳なし。かへりて罰をかほ(蒙)るなり。(日女御前御返事   弘安元年六月二五日  五七歳 1232)

■ 悪知識と申すは甘くかたらひ詐(いつわ)り媚(こ)び言(ことば)を巧(たく)みにして愚癡(ぐち)の人の心を取って善心を破るといふ事なり。(唱法華題目抄 224)

■ 大魔のつきたる者どもは、一人をけうくん(教訓)しを(堕)としつれば、それをひっかけ(引懸)にして多くの人をせ(攻)めを(落)とすなり。
日蓮が弟子にせう(少輔)房と申し、のと(能登)房といゐ、なごえ(名越)の尼なんど申せし物どもは、よく(欲)ふか(深)く、心をくびゃう(臆病)に、愚痴にして而も智者となのりしやつばら(奴原)なりしかば、事のを(起)こりし時、たよ(便)りをえ(得)ておほ(多)くの人をおとせしなり。 (上野殿御返事  建治三年五月一五日 五六歳 1123)