創価学会教育学会各理事
                       殿
仝            各支部長
                理事長 戸田城外
  通諜
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
 
一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一 皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。                                                    以上
六月廿五日
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やはり学会文書「通諜」は実在した
返還された押収書類の中に約三十通
事実無根説¢黒れ・ これが実物カラー写真だ
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 偽造写真事件で窮地に立たされている学会では、会員から疑惑の眼が向くのを必死にかわそうとして、インチキ新聞『創価新報』を使い、かの戦中の学会文書「通諜」を「戦後の偽書」「捏造文書のプロの仕業」「宗門の愚かな画策」であるとするキャンペーンを打ち上げた。だが、この必死の悪あがきも、正真正銘の「通諜」の実物が提示されてしまえば、すべて崩壊する。ここに本紙は、学会の「愚かな画策」を粉砕すべく、「通諜」の実物カラー写真を初公開し、併せて同文書の伝わった経緯と背景を明らかにするものである。
 
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「通諜」の所在と伝わった経緯
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 一つの事実は百万の言葉に勝る。まず、このカラー写真をご覧いただきたい。これが、かねて騒がれてきた、昭和十八年六月二十五日付・戸田城外(後に城聖と改め)理事長名の「通諜」・・その実物である。
 この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたもので、かつてフリーライターの溝口敦氏も『池田大作・創価王国の野望』(紀尾井書房刊)中に
 「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない」
と述べ、これを『妙観』紙(平成四年五月十五日付)でも引用掲載したことがある。
 しかるに今回の新報のキャンペーンでは、何故か稲葉氏の名には少しも触れず、ひたすら、野島辰次氏(元副理事長)作成説を批判してみたり、「戦後に入信した、ある特定の法華講員」による後世の偽作と勝手に決めつけたりしている。おそらく、稲葉氏について触れれば、同氏宅に「通諜」の実物が保管されていることがクローズアップされてしまい、それがもし実物鑑定≠ノまで発展してしまえば、同文書が戦中のものと判明してしまう・・それが、学会にとっては至極、都合が悪かったからであろう。
 だが、そうした姑息な考えに基づく策謀も、ここに「通諜」の実物を提示したことで、すべて吹っ飛んでしまった。すなわち、いかに「通諜が存在しなかった証拠」をあれこれ考え出してみたところで、実物が存在している以上、すべてが空論と化してしまうからである。
 さて、動かぬ証拠ともいうべき「通諜」の実物を提示した上で、さらに、これが稲葉氏宅に伝わった経緯と背景について述べる。
 昭和十八年七月六日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
 稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後十年も経った昭和三十年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
 その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の息子・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を二人分(二個口)持ち帰ってきた。
 そして、当時すでに二代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
 「それは荘君が保管していてくれ」
との指示であった。
 そこで稲葉氏宅では、いったん二個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和三十五年に池田が三代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
 「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡してほしい」
旨、申し入れがなされた。
 こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、二個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引き渡し洩れが生じたのであった。そして・・この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ三十枚・・。
 稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして三通の「通諜」の現存が確認されている)。
 以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。
 
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「通諜」にまつわる謎を解明
傍証となる学会側記録も明らか
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 このことから、さらに立ち入って考えてみると、「通諜」が入っていたのは、おそらく牧口氏宅から押収された資料の中、と考えて間違いない。
 何故ならば、もし稲葉氏宅からの押収資料の中にあったとすれば、少なくとも昭和十八年七月六日の逮捕前に、「通諜」は稲葉伊之助氏に渡されていたことになる(それも三十枚も)。
 むろん、「通諜」の宛て先が当時の「各理事・各支部長」となっていることからすれば、理事であった稲葉伊之助氏に渡っていても不思議はないが、だとすれば、当時の副理事長であった野島辰次氏が「通諜」の存在を知らない(と思われる)ことや、稲葉氏宅以外で見つかっていないことは、どうにも不自然に感じられる。
 では、この「通諜」が稲葉氏宅から押収された資料の中になかった、とするならば、あと残る可能性としては、牧口氏宅からの押収分の包みの中に入っており、しかも学会への引き渡しから洩れた分の中にあった、ということになる。
 つまり「通諜」は、昭和十八年六月二十五日付で文章が作られ、その翌日くらいまでに約三十枚がガリ版印刷された後、牧口氏宅に届けられたが、折しも六月二十九日には、理事の陣野忠夫らが非常識な罰論を使ったことが原因で逮捕され、そのゴタツキが起きたためであろうか、牧口氏は「通諜」を配布する機会のないまま、七月二日早朝から地方布教に出かけ(おそらく氏は、幹部の一斉逮捕などというほど、事態がさし迫っているとは思っていなかったであろう)、七月六日の下田での逮捕となったから、「通諜」は誰の手にも渡らないまま、約三十枚がそっくり牧口氏宅から官憲に押収されたものと考えられる。
 されば、今回の新報がいうような、「獄中の野島を見ても『通諜』は一切出てこない」「『通諜』が実在していたのなら、野島は当然それを供述しているはず」「当時の理事・支部長だった人達にも配られていない」等というのも、むしろ状況としては当然のことといえよう。野島氏以下ほとんどの幹部達は、「通諜」の存在を知らなかったであろうから。
 また、新報のいう「もし『通諜』があれば、とくに高齢だった牧口会長に対しては、保釈も検討されたであろう。(略)尋問調書や裁判書類には『通諜』は一切出てこないし、押収書類のなかにも『通諜』はないのである」等という疑難はどうであろうか。
 じつは、当時の特高警察は、先に逮捕してあった陣野氏らを激しく取り調べ、学会弾圧の罪状を作成した上で、一挙に、牧口氏以下二十一名の幹部を逮捕に踏み切っている。つまり、学会を潰滅せしめる意志決定が、あらかじめなされていたのだ。
 それであれば、まだ配布もされていない「通諜」なる文書が牧口氏宅からの押収資料中にあったとしても、当局としては、これを取り挙げるどころか無視を決め込むであろうし、ましてや「保釈を検討」したり、わざわざ「尋問調書」等の中に記録を残すようなヘマをするはずがない。悪名高い戦時中の特高は、人の良い民主警察ではないのである。
 これで、「通諜」に関する大きな謎・・戦時中の証言や資料が出てこない理由・・が解明されたが、では、この「通諜」の存在についての、古い証言や資料はまったく皆無なのかといえば、それは否である。『冨士宗学要集』(五十九世日亨上人編)の第九巻の法難編・第十三章「昭和度」に、
 「左の一編は小平芳平氏(※当時の学会教学部長)の記に依る」(四二九頁)
として、学会側から寄せられた弾圧記録が載せられている。そこに、
 「十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を、時の渡辺部長より忠告を受けた。牧口会長は、その場で暫く、柔らかにお受けした。(中略)合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には、牧口会長の折伏が治安を害するといい、また神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから、会長の応急策もすでに遅し(※以下、次々と牧口氏ら学会大幹部が逮捕された状況が述べられている)」(四三一頁)
との文を見ることができるのである。
 この文中、すでに手遅れだった「会長の応急策」とは、まさに六月二十五日付「通牒」をさすことは明白である。もし、そうでないというなら、六月二十日に総本山で「忠告を受けた」後、七月六日に逮捕されるまでの間に打った「会長の応急策」とは、いったい何だったのか、また、どうして「すでに遅し」だったのか、それらを明らかにした上で反論しなければなるまい。
 ともあれ、この宗学要集掲載の文が、「通諜」実在の傍証であることはもはや確実であり、このことは、とりもなおさず、学会の首脳陣は「通諜」の存在も、作成の経緯も知っていた≠ニいうことを、雄弁に物語っているのである。
 嗚呼(ああ)、なんたる不正直の謀略組織であることか・・。
 
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崩壊した学会側の疑難!
自己矛盾と幼稚な妄説を破す
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 なお、右の宗学要集掲載の文中、「牧口会長は、その場では暫く、柔らかに(宗門の忠告を)お受けした」とあることについて、新報では、野島辰次氏の遺稿集『我が心の遍歴』(平成四年六月十九日発行)を頼りに、
 「野島の記述は、当時の学会が、本山の申し出を後にも先にも、まったく受け入れなかったから弾圧された、ということであり、その意味で『通諜』などまったくなかったことの重要な証言といえよう」
などと、はしゃいでいる。
 だが、この野島氏の遺稿は、氏自身の心に感じた、主観的な見方を書き綴(つづ)ったところの、まさに『我が心の遍歴』であり、一方の、小平教学部長の手による宗学要集掲載の文は、昭和十八年六月二十日の「忠告」の場に立ち合われた日亨上人が允可(いんか)されたものであり、また学会の公式見解ともいうべき記録である。
 それを、その時の都合次第で猫の目のように変節し、これまで「裏切り者」「退転者」と罵ってきた野島氏の遺稿を利用して、自ら公認してきた記録の方を知らぬ顔で引っ込める、この破廉恥ぶり。信仰者として、恥ずかしくないのか、と言いたい。
 これについては、稲葉荘氏夫妻が、昭和十八年六月下旬当時の出来事として、
 「学会では、慌てて神札の取り扱い方を変え、いちおう受け取るよう、指示を流しました。私の家も、他の家も、それで神札を受け取ったんです。それが、おそらく本山からのお話のあった直後のことだった、と思います」
と証言していることだけ紹介しておこう。
 最後に、今回新報が述べたてた「宗門、『野島作成説』で命取り」という論調については、宗門ではこれまで「野島作成説」など主張したことはない、ということをここに明記し、また「(通諜は)戦後に入信し、戦前の学会とは何の関係もない、ある特定の法華講員が作成した」との妄説については、ならば、その「特定の法華講員」の氏名と、その人物が「作成した」という根拠を責任をもって明示せよ、(どうだ、できまい? それは学会のムリな言い掛かりだからだ!)と申し伝えておく。

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「通諜」の存在暴かれ、学会タジタジ
核心ぼかして逃げ打つ『地涌』
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 本紙前号で述べたとおり、戦中の創価学会が用意していた「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はぬ様」等と書かれた「通諜」は、たしかに実在していた。
 これの実在が明らかになれば、神札の受け取り拒否しぬいた≠ニする、戦中の学会史が崩壊してしまう。それ故、学会は、「捏造文書」「宗門の愚かな画策」として、これを闇に葬り去ろうとキャンペーンを張ってきたのである。
 しかるに、本紙前号では、現存する「通諜」の実物カラー写真と、当文書の出所および伝わった経緯等を明示。これによって追い詰められた学会は、『地涌』を使って反撃の挙に出てみたが、これまた、核心をぼかした逃げの一手で、何ら反論になっていないのであ
る。
 たとえば、本紙は、『富士宗学要集』に収録された小平芳平氏(執筆当時・学会教学部長)の一文、
 「会長の応急策もすでに遅し」
を引き、状況として、この「応急策」とは、六月二十五日付「通諜」のことであるとし、
 「もし、そうでないというならば、(昭和十八年)六月二十二日に総本山で『忠告を受けた』後、七月二日に地方へ発つまでの間に打った『会長の応急策』とは、いったい何だったのか、また、どうして『すでに遅し』だったのか、それらを明らかにした上で反論せよ」
と要求した。にもかかわらず、『地涌』は、「小平氏文面中の『牧口会長はその場で(※宗門の申し出を)暫く柔かにお受けした』が史実でないから、『慧妙』の推論は前提から崩れている」(主旨)と、ムリヤリ矛先を交わし、「会長の応急策」「すでに遅し」が何のことであったかについては、一言も触れていない。
 答えられないこと自体
に、「通諜」の存在を認めざるをえないという、学会の苦しい心境が見え隠れしているではないか。
 また、本紙が、
 「『ある特定の法華講員が作成した』というならば、その人物の氏名と、『作成した』という根拠を明示せよ」
と要求したことについて
は、『地涌』末文で、またしても、
 「念を押しておくが、謀略文書『通諜』の筆者は判明しているのである」
との一文を述べているの
み。
 明確な根拠があるなら、回りくどい言い訳などせずとも、その筆者とやらの氏名と根拠をスパッと出せ
ば、それで事は終わるハズ。それができないこと自体
に、「謀略説」が単なる言い掛かりにすぎないという証明がある。
 
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「通諜」の実在を疑難する
 創価学会の屁理屈を破す (上)
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 創価学会の謀略文書『地涌』が、連日、狂ったように、通諜実在=i※本紙六月一日号で既報)に対する反論を繰り返している。
 その様は、まさしく「狂ったように」で、毎回、同じことを反復して述べ続けたり、本紙の反論も待たずに勝手な勝利宣言をしたり、はたまた、邪推と嘘を史実のごとく言い切ったり、変質者丸出しの表現をもって罵詈(めり)したり・・等々。
 まあ、そうした異常心理もわからぬでもない。二、三ヶ月前、「合成写真事件」「椎名夫妻爆弾証言」等で、あそこまで派手な報道合戦を繰り広げたあげく、無残にも本紙に完敗し、大恥を晒(さら)したご連中としては、ともかく休みなく吠え続けておらなければ、「また、やられるかもしれない……」との恐れが、つい、込み上げてきてしまうのだろう。
 『地涌』が吠えれば吠えるほど、そんな哀れな心中が、誰の目にも明らかに映るばかり・・、じつに気の毒なことだ。
 ともあれ、本紙は、この「通諜」問題についても引き下がるつもりはない。真実は一つだ、とことん決着をつけようではないか。
 
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「通諜」は「明らかな謗法」か
教学力ない悪意の言い掛かり
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 まず第一に、『地涌』は、
 「『慧妙』は、通諜を戦中の本物とすることで、宗門と同様の教義違背者として創価学会学会を汚泥にまみれさせようと計っているのである。いやいや戦中の宗門の爲体を評するに汚泥は穏当すぎる。宗門がまみれている糞尿にまみれさせようとしている、あるいは宗門が全身嵌まり込んでいた野壷(肥だめ)に時代を遡って引きずり込もうとしているのが、『慧妙』の編集意図である。(中略)この文書を本物というならば、『皇祖天照大神 皇宗神武天皇』及びそれに連なる代々の天皇への報恩、そして神を敬い『国運の隆昌』『武運長久』を祈ることが、初座の祈願目的であると『御本山の御指示』が出ていたことを認めることになる。これは国家神道を支える皇国史観に額突くものである。宗門は明らかな謗法を犯していたことになる。(中略)このような謗法の『御本山の御指示』が出ていたと認めるのであろうか。まずこう『慧妙』に尋ねたいのである」(第六六六号)
等といって、矛先(ほこさき)逃がれの言い掛かりをつけている。
 これについては、かつて『妙観』紙(平成四年五月十五日号)でも触れているが、昭和十六年八月二十二日改訂の御観念文においては、初座は
 「謹みて、皇祖天照太神・皇宗神武天皇肇国(ちょうこく)以来御代々の鴻恩(こうおん)を謝し、併せて皇国守護の日月天等の諸神に法味を捧げ奉る」
となっており、学会文書「通諜」の第一項は、明らかにこの文を引用したものである(このことは、むしろ、「通諜」が当時に作られたもの、という傍証となっている)。
 『地涌』は、これを指して「国家神道」「明らかな謗法」というのだが、「皇祖天照大神」云々については、『神国王御書』に
 「神と申すは又国国の国主等の崩去し給えるを生身のごとく・あがめ給う」
                           (全集一五一八頁)
とあるように、国王(天皇制の時代なら天皇)が崩御(ほうぎょ)して善神となるのだから、天皇家の祖先(皇祖)が、天照大神等の諸神として、善神につらなることは、法義上あたりまえのことなのである。
 次に「皇国守護」という表現については、もとより諸天善神には、法華守護の働きと国土守護の働きとの両面があり、また、天皇制であった当時の我が国は「皇国」と称していたのだから、「皇国守護の日月天等の諸神」とは国土守護の諸神の別名にすぎない。
 いったい、どこが「明らかな謗法」であるというのであろうか(※ただし、「通諜」中の「敬神の誠を致し国運の隆昌・武運長久」云々は、初座の御観念文にもなく、宗門とは無関係である)。
 たいした教学力もない者が、ともかく日蓮正宗を誹謗しようという悪意で言い掛かりをつけるから、こんなオソマツな所論となるのだ。それも、一年以上も前に『妙観』紙上でメッタ切りに破折され、一言も反論できぬまま沈黙し、忘れた頃になって、またぞろ同じ疑難を持ち出す厚顔ぶり・・本当に呆れさせられるではないか。
 そのくせ、「汚泥(おでい)まみれ」「糞尿(ふんにょう)まみれ」「野壷(肥えだめ)に引きずり込む」等々と、罵(ののし)り言葉の口汚なさだけは、まさに変質者並みの一級品・・。なんと素晴らしい教養ぶりか、東洋哲学研究所のメンバーとやらにだけは、たとえ頼まれてもなるものではない。
 
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「押証番号ない」から戦後の物か
この異常な短絡思考の哀れ
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 第二に、『地涌』は、
 「『慧妙』に聞きたい、『これも返還された押収書類の一部』と写真説明された『大善生活實證録 第五回總曾報告』と題する創価学会教育学会発行の本の表紙には、『治安維持法違反事件 被疑者 稲葉伊之助 證第二号』との文字がくっきりと読める。『慧妙』が気張ってカラー印刷にした効果は抜群である。他にも短冊様の小さな紙が張られており押証番号がかすかに読み取れる。だがどうだ、肝心な『通諜』にはそれらのものはない。すなわち『通諜』は、戦中、押収されたものではなかったのである」(同号)
等と称し、以後、第六七二号・六七三号・六七四号および創価新報(六月十六日号)などに、繰り返し繰り返し、同じことを述べ続けている。
 まあ、これくらいしか、「通諜」そのものに対する批判ができないのだろうから、同じ繰り返しになるのも仕方ないが、それにしてもオソマツである。
 まず、『大善生活実証録』に貼(は)られていた「証第二号」の紙であるが、これは読んで字のごとし、「証拠として採用した第二番目の書類」という意であって、べつに押収書類のすべてに貼られていたわけではない(※ちなみに「押証番号」なる呼称は、学会が勝手に付けたものである)。
 しかも、まったく同じ内容の書類が三十枚もあれば、仮にそれを証拠として採用したとしても、「証第○○号」と貼るのはそのうち一枚だけで、三十枚すべてに貼ったりしないのは当然のことである。
 子供でもわかりそうな、この程度の道理も常識もわからず、短絡して、「すなわち『通諜』は、戦中、押収されたものではなかったのである」と断定してしまう筆者の「不破」君は、どうやら、そのペンネームに反して、謗法の果報でそうとうに頭が破(わ)れているようだ。
 その上、あまりの馬鹿らしさに、本紙前号(六月十六日号)でも取り挙げずに放置しておいたところ、
 「これについて『慧妙』は、どのような反論もしていない」
 「押証番号がないのだから、ただ『通諜』が押収品でないことのみが真実だということになる」
 「その事実を認めず、虚勢を張って嘘を通そうとするから、世の笑い者となる」 「フンドシ担ぎは、急には横綱相撲はとれぬ」
等々・・と、「在家童子」だの「編集部」だのという連中が、「不破」に付和雷同して騒ぎはじめた。まったく、この子供たちときたら、自分たちの非論理性こそが「世の笑い者」となっていることに、まだ気づかぬらしい。
 それも謗法の果報なれば、やむをえぬことか・・、せいぜい、自分達だけの狂える世界の中で、互いにうなずきあい自己満足にひたっていればよかろう。哀れ、哀れ。
 
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「稲葉証言は信用できない」か
下衆な憶測で書いた嘘物語
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 第三に、『地涌』は、
 「稲葉証言は信用できない」(第六六六号)
として、
 「稲葉伊之助は、法難の只中、恐怖に囚(とら)われ精神に異常をきたしており、その事実を厳しく評価した戸田会長に対し、息子である稲葉荘が深い恨みを持った。そして、稲葉荘は、昭和二十七年前後、父・伊之助も所属していた砂町教会(白蓮院)に所属し、野島辰次と共に竜門講を結成して学会切り崩しを行なったのである。ゆえに稲葉証言は信憑(しんぴょう)性に欠ける」
                      (第六六六号・六六七号趣意)
という。
 ところが、これがまた真っ赤な嘘なのだから、救われない。
 まず、稲葉伊之助氏が「精神に異常をきたした」などというのは、まったくの事実無根のことであるし、氏は昭和二十五年に亡くなるまで、一貫して学会員として通した人だったのである。
 しかるを、子息の荘氏憎さのあまりとはいえ、生涯を通じて学会員であった伊之助氏に対し、気違い呼ばわりはするわ、造反者扱いはするわ・・もう、ムチャクチャである。
 また、荘氏本人についても、氏は戸田会長とは最後まで親交を貫いていたから、氏が戸田会長を深く恨んでいた、などというのはまったくの大嘘である。
 ただ、狸祭り事件を契機に、荘氏は「学会組織の暴力的体質にだけは、どうしても付いていけない」として、戸田会長にことわった上で円満に砂町教会へと移ったのだが、その時は、すでに竜門講は存在していたから、「野島や稲葉は竜門講を結成し」などというのも、もちろん事実に反している。また、それからの氏が、竜門講の中核メンバーとして学会切り崩しを行なった、などという事実はどこにもない。
 要するに『地涌』の記事は、すべてが下衆(げす)な憶測によって組み立てられ、執筆された嘘物語≠セったのである。
 そもそも、稲葉荘氏が戸田会長を深く恨んでおり、それ故に、この「通諜」なる偽書を世に出した≠ニいうなら、何故、戸田会長の没後、二十年も三十年も経ってから出したというのか。論理的にも不自然極まりないではないか。
 あまり、ムリな邪推をするものではない。
 いずれにしても、これで、稲葉証言が信憑性に欠ける≠ニの言い掛かりは崩れ去った。
 
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「記憶が正確」だから「不可解」か
愚にもつかない粗捜しを笑う
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 第四に、『地涌』は、稲葉証言は「不可解極まる」として、
 「稲葉は『およそ三十枚』という正確な記憶をなしているのに、どうしてそれが牧口会長分の押収資料か自分の父親分の押収資料であるかの判別についての記憶がないのであろうか。(中略)この『通諜』について所蔵に関する記憶の定かでない稲葉が、『およそ三十枚』という意外なほど鮮やかな記憶を有していることが気になるのである」(第六六八号)
などといっているが、そもそも稲葉氏が、とくに「通諜」の存在を意識し、「三十枚」という枚数を確認したのは、昭和三十五年以降、学会に資料引き渡しをした後のことで、一方、当局から返還されてきた牧口・稲葉両家の押収資料を、包みから出して一緒に保管したのは、昭和三十年のことである。つまり、時期が何年もズレている上、「通諜」は昭和三十五年以降も稲葉家に残ったのだから、枚数については幾度か見て記憶していた・・ただ、それだけのことであって、なんら「不可解」でも不自然でもないのである。
 むしろ、このような、愚にもつかない粗捜し(にもなっていないが)を得手とする「不破」君の精神構造こそ「不可解」であり、彼の後生のいかんが「気になるのである」。
 
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稲葉夫妻は「独身」で「外地にいた」か
もっと正確な取材を心がけよ
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 第五に、『地涌』は、
 「稲葉荘は大正十一年十一月二十一日の生まれ。昭和十八年六月当時、満二十歳。『稲葉荘夫妻』は、すでに結婚していたであろうか。稲葉荘は、昭和十五年、渋谷の第一商業(旧制中学)卒業後、日満商事に就職して昭和十六年頃から満州(現在の中国・東北地方)に行き、徴兵検査で一度短期間日本に帰ってきただけで、昭和二十一年まで外地にいたという。すなわち稲葉は、『昭和十八年六月下旬』には、日本に居ないのである。その稲葉がこの当時の創価教育学会についての『証言』をすること事態が不可解なのである」(第六六八号)
といっているが、ここまで調べ上げておきながら、どうして、もう少し正確な取材ができないのか、いぶかしく感じられる。
 すなわち、稲葉荘氏の夫人は、昭和十八年、荘氏の兄嫁として嫁(とつ)いだが、御主人の戦死により、戦後になって荘氏と再婚したのである(昔はこうした形が多く、まさに戦争のもたらした悲劇でもあった)。
 昭和十八年六月下旬、稲葉家が学会本部からの指示で神札についての取り扱いを変えた際、まさに、これを間近で見たのは夫人であり、荘氏は外地より戻ってきてから、父・伊之助氏より、その事情を聞いたのであった。
 ゆえに本紙は、「稲葉荘氏夫妻の証言」と報じたのであり、これまた、どこも「不可解」な点はないのである。(以下次号)
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「通諜」の実在を疑難する
 創価学会の屁理屈を破す(中)
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 創価学会では、何が何でも「通諜」を否定しようとして、お得意の捏造=iねつぞう)記事をもち出してきた。
 なかでも、よく学会の手口を物語っているのが、『地涌』(第六六八号)掲載の昭和二十七年に起きた砂町教会との対立°L事である(同記事の筆者は、例の「頭破」もとい「不破」クンである)。
 同記事の狙いは、「通諜」所蔵者である稲葉荘(さかり)氏が、戸田会長を怨んで砂町教会(後の白蓮院)へ移籍し、竜門講を結成して学会と深刻に対立した、だから稲葉氏の証言には客観的な信憑(しんぴょう)性がない・・と言おうとして、当時のわずかな聖教記事に基づき、砂町教会と学会との間に「極限までの対立」があったことにしてしまおう、というものである。
 少し長くなるが引用しておくと、同記事では
 「創価学会と砂町教会との対立が顕在化したのは、狸祭り事件(昭和27年4月)の直前であったようだ。
 当時、砂町教会の住職は、千種法輝。この千種法輝の実母(千種花子)が、なかなかのやり手で、檀徒とも親しく法務にも影響力を持った。この砂町教会と創価学会が、ほんの一時的ではあるが表立って実に深刻に対立した。
 昭和27年3月20日付の『聖教新聞』にその片鱗(へんりん)を認めることができる。『寸鉄』に次のように書かれている。
<六、折伏してお寺へ新しい同志を一人案内する時の嬉しさ、折伏の苦しみを知った者でなければ味わえない境地である。
七、それを喜ばない坊主がいると聞く、うそとは思うが若しいたとすれば、そんな坊主は日蓮門下というのではなくて天魔門下だ
八、御授戒するとかせぬとかいう事は御僧侶の権威だと思っていたら、あるお寺のくそ婆が御授戒をするとかしないとか威張ったそうな、イヤハヤ世の中も闇だ
九、それは紹介者が悪いからだろう。書式がととのっていなかったに違いないと思う奴は大ちがい、紹介者が会長先生で折伏も会長さ。
十、とんでもないくそ婆だ、それは創價学会にけんかを賣る氣だ、見事に買ってやろうではないか、といきまいた青年がいる、その時寸鉄居士曰く婆というものは先に死ぬものだ、あわてるなあわてるな、いや大聖人様からしかられてお尻に大かいおできでも出來てウンウンうなって死ぬさ=
 同年4月1日付『聖教新聞』の『寸鉄』にも、次のような件がある。
<六、会長先生にたてついた婆さんのいるお寺で、御授戒になまけ出したとさ、支部長幹部ががまんの緒(お)を切って何故かと伺ったら御彼岸まわりで忙しいそう な
七、日蓮正宗にお彼岸ってあるのかい、即身成佛の教ぢゃないか
八、口の惡いのがおってそれはお彼岸廻りではない、お布施廻りだよとさ、
九、お布施まわりでもよいから御授戒だけちゃんとやったらいゝじゃないか、所化さんの手が足りないんだとさ
十、迷案を言上する、レコードにお経をふき込んで三人程手わけして信者の家でかけて居て、坊さんが自転車にのって、まわって歩けば間に合うじゃないか>
 野島や稲葉らが檀徒(だんと)として所属していた砂町教会が反創価学会色を強め、創価学会の折伏した者の御授戒をしなくなったことが、この『寸鉄』からうかがえるのである。それに対する創価学会側のエキサイトぶりが充分伝わってくる。
 ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう。創価学会に対抗するために砂町教会内に竜門講が結成された。野島、稲葉らは、その中核となって活動した。
 だが、この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至っている。創価学会は同年(昭和27年)6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め、7月には寄進している」
等といっている。
 聖教新聞「寸鉄」欄のいいかげんさは、今に始まったことではないが、それよりも、そのわずかな記事を膨大(ぼうだい)な資料の中から見つけだし、かかる捏造ストーリーをデッチ上げていく異才ぶり(言い換えれば、多数の学会員をダマシて地獄へ連れて行く、人並み外れた才能ということ)に驚嘆せざるをえない。
 このようなマネは、とても常人にはできえないであろう。
 とはいえ、やはり捏造は捏造でしかないから、真実の前には崩れ去るほかないのである。
 まず、当時の「寸鉄」が記述している出来事であるが、実際の経過は次のとおりである。
 
 当時、砂町教会に在勤していたA師という僧侶があった。A師は、頻繁(ひんぱん)に学会本部に立ち寄っていたが、ある時、戸田会長の紹介で御授戒を受けることになった人があり、学会本部において「そのことを御住職に伝えておいてほしい」と頼まれた。
 ところが、A師はこれを御住職に伝言せず、やがて、御授戒を受けたいという本人が、直接、砂町教会に来てしまったのである。
 その際、「御授戒願」とか「紹介状」などの書類を持っていなかったことと、しかも寺院としては一言も「伝言」を聞いていなかったために、応対した御住職の御母堂は御授戒を断わらざるをえなかった。
 すると、前掲「寸鉄」にもあるように、学会幹部の中から「とんでもないくそ婆だ、それは創価学会にけんかを売る気だ。見事に買ってやろうではないか」などと、常軌を逸(いっ)して「いきまいた青年」が出て、まず、昭和二十七年三月二十日付・聖教に「寸鉄」記事を載せ、砂町教会への攻撃を始めたのである。
 そのとき「いきまいた」ヤクザ顔まけの「青年」とは誰であったか? じつは当時、砂町教会の所在していたエリアの学会組織は文京支部であり、その文京支部の実質的責任者は、支部長代理の池田太作(当時、名のっていた本名)青年であった。これだけ言えば(そして、本紙五月一日号・三面に載せた、当時の池田青年の写真を見れば)「いきまいた青年」のおよその見当がつくであろう。
 それはさておき、驕(おご)り昂(たかぶ)り「いきまいた青年」は、こんなささいなことから「極限までエキサイト」し、「見事にけんかを買ってやる!」との宣言どおり、実際の行動に移った。
 具体的には、文京地区における学会員の御授戒を、すべて池袋の寺院へ連れて行くようにして、砂町教会の御宝前には御授戒の御供養が上がらぬようにし、一方、他寺院の御授戒の時間に間に合わないような時間外≠フ御授戒にかぎっては、急に砂町教会へ連れて行く、という戦術に出たのである。
 そして、その時間外≠フ御授戒が寺院の時間的都合と折り合わなかった、といっては、同年四月一日付、聖教の「寸鉄」に見るごとく、
 「御授戒になまけ出した」「御彼岸まわりで忙しいそうな」「御授戒だけちゃんとやったらいゝじゃないか、所化さんの手が足りないんだとさ」
等々の悪口をもって、さらに攻撃を加えたのであった。
 まったく、「寸鉄」の記述のいいかげんさと偏向ぶりに、うんざりさせられるではないか。
 
 しかも、これが『地涌』の「不破」クンの手にかかると、
 「学会側のエキサイトぶりが充分伝わってくる。ということは一方で、砂町教会側も極限までエキサイトしていたことになる。もともと創価学会嫌いの野島などは、ここぞとばかりに創価学会や戸田会長の悪口を言ったことだろう」
等ということにされてしまうのだが、あまり、邪推・憶測を膨(ふく)らませて勝手な作り話をするものではない。
 すなわち、すでに述べてきたように、実際は、ささいなことから「いきまいた青年」等が、勝手に「エキサイト」し、砂町教会に対して一方的に悪口・嫌がらせを仕掛けていたのであり、なにも「両者の極限までの対立」などという事態は起こっていなかったのである。
 その証拠に、『地涌』では、「この両者の極限までの対立も、すぐさま氷解するに至って」「学会は同年6月、白蓮院鶴見支院を寄進することを決め」たなどと書いているが、「すぐさま氷解」という不可解さについては、何の説明もできていない。実際は、「両者の極限までの対立」など最初から起きておらず、また、戸田会長と白蓮院の御住職・御母堂とは互いに理解しあっていたから、一部の「いきまいた青年」等が仕掛けた悪口・嫌がらせも大事に発展することなく解消し、鶴見支院の寄進という慶事(けいじ)が成ったのである。
 以上、当時の状況も知らない「不破」クンが、短い「寸鉄」記事に基づき、勝手な私情でデッチ上げた捏造ストーリーを粉砕した。
 もう一つ付け加えておくならば、本紙前号でも明らかにしたとおり、稲葉荘氏が砂町教会へ移籍したのは、狸祭り事件(昭和二十七年四月■日)を契機として、それ以後のことであるから、『地涌』が「狸祭り事件の直前」に起きたと言う「学会と砂町教会との対立」「両者(学会と砂町教会竜門講)の極限までの対立」とは、時期的にみても前後が逆であり、稲葉氏と極限までの対立(?)≠ニは全く無関係であることが判(わか)るのである。
 さて、砂町教会との対立°L事について、ここまで詳しく述べてきたのは、不破クン達のいつものやり口(スリカエとゴマカシの手口)を暴くのに、ちょうど適した題材だったからに他ならない。
 これまでも、不破クン達は、まったく無関係な古い記事や資料を見つけ出し、そこに邪推・憶測によって何倍もの肉付けを行ない、捏造の宗門史等をデッチ上げてきた・・、その手口が、今回の虚構性をみても、よくわかるではないか。
 こんな連中は、宗史や教学のことを論ずべきではない、彼らに相応(ふさわ)しいのは、小説の作家・・それも、異常なまでの表現の汚ならしさからいって変態≠ニ名の付く小説であろう。とっとと転職せよ、不破クン、君にはそれがお似合いだ。
 
 ところで、一事が万事というように、この砂町教会との対立°L事にかぎらず、一連の学会の「通諜」報道はムリな捏造だらけである。以下、そのいくつかの例を挙げておこう。
 第一に、『地涌』(第六六九号)に
 「牧口会長らに対し、宗門は総本山第62世日恭上人、御隠尊の第59世日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡辺慈海より『神札』を一応受けるようにと申し渡された。その申し渡しに対し、牧口会長は日蓮大聖人の法義に違背(いはい)することとして、明確にそれを拒否した」
などと述べているが、この記述は、小平芳平(当時・学会教学部長)が『富士宗学要宗』第十三巻に
 「十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた。牧口会長はその場では暫(しばら)く柔らかにお受けした。が、心中には次の様に考えられていた」云々
と書いた公式記録の内容とまったく異なっている。学会というところは、ことほどさように、以前の記録や歴史を平気で塗り変え、学会史の捏造≠行なうのだ。
 第二に、『地涌』は、「通諜」は、戦後に入信した、ある特定の法華講員が偽造したもの≠ニ決めつけておきながら、本紙からの「ならば、その根拠と法華講員の名を明かせ」との責めに対し、
 「これは故なきことではない。このことを日顕宗の者らは肝に銘ずるべきである」(第六六六号)
 「たしかに『通諜』の筆者の名を明かせばこと足りる。だがそれをしない。理由はただ一つ。言い訳にもならぬ言い訳を、『慧妙』編集部に代表される日顕宗の「非学匠」の者らにさんざんさせ、自らの屁理屈≠ノよってガンジガラメになるのを見て楽しみたいのである」(第六七二号)
等々と、仏法者とも思えぬ変質者的な言い訳を弄(ろう)し、あげくは
 「ここで指摘しておかなければならないことは、『通諜』の筆者が、戦後入信した法華講員≠ナあるという事実である。それなのになぜ戦後入信した法華講員≠ェデッチ上げた偽書である『通諜』を稲葉が所持しているのか。稲葉がその理由を知らぬはずはあるまい」(第六七三号)
とまで言い切っている。自らの勝手な決めつけを根拠に、ここまで言い切る異常・・、捏造はこうした異常人格から生まれるのだ。
 第三に、聖教新聞(六月六日付)に、
 「しかもこれ(※国家権力の牧口らに対する弾圧)に加担したのが、こともあろうに宗門であった」
 「宗門の卑劣な裏切りは、『創価の父』である牧口先生、戸田先生を投獄せしめ、牧口先生を獄死に至らしめた」(5・5の池田スピーチ)
等とあるが、いったい、何をどう考えれば、このような言い掛かりがつけられるのか。日蓮正宗宗門が弾圧に加担した≠セの獄死に至らしめた≠セの・・、これは、もはや短絡などという域ではなく、事実と全くかけ離れた造り話となってしまっており、これまた捏造と呼ぶほかないであろう(捏造でないというなら、気違いの所論≠ニいおうか)。
 最後に、『地涌』(第六七二号)に
 「(『慧妙』は)日本の宗教弾圧史についての何某(なにがし)かの研鑚も蓄積もなく、いきなり『通諜』問題をカラー刷りでモノしようとしたところに無理があった。フンドシ担(かつ)ぎは、急には横綱相撲はとれぬ」
等の文があったが、「宗教弾圧史」と「いきなりカラー刷り」との相関関係については次回の『地涌』でコジツケ解説を願うとして、今回、明らかになった学会による「捏造」の手口の前には、何らの「宗教弾圧史についての研鑚」も不要であろう。何故なら彼らは、どんな歴史でも好き勝手にデッチ上げてしまうのだから・・。(以下次号)

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 学会は、本紙との間で続いていた「通諜」問題に関する論争を、途中で放棄し、自ら逃避してしまった。
 すなわち、これまで本紙が、七月一日号・十六日号に掲載してきた「通諜の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す」(上)(中)に対し、学会は、何ひとつ反論・弁駁(べんばく)もできぬまま、『創価新報』(七月二十一日号)に、「通諜問題・学会の主張の正しさ明白に 『慧妙』ついに論証不能、ピリオド打たれる」とのカコミ記事を掲載、勝手に論争に「ピリオド」を打って終結宣言としてしまったのである。
 これは、本紙からの追及・破折により、答えに窮した学会側が、無節操にも、強がりを言い散らかしつつ逃避する、という戦法に出たものといえよう。
 本紙として、ここで勝利宣言をすることもたやすいが、本紙掲載中の「・・屁理屈を破す」も、まだ未掲載分を残していることもでもあるので、ここに、学会の無節操を叱ると共に、もし、このまま頬っかむりを決め込むつもりなら、今度こそ、学会が通諜論争から敗走したものと、正式に断定することを予告しておく次第である。(次号は「・・屁理屈を破す」下を掲載)

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▼お笑いの世界で、メチャクチャやられたくせに「今度だけは許してやる」と言うネタがある。状況的に完全に敗北しているにもかかわらず、本人だけが見えすいた負け惜しみのセリフを吐くから滑稽(こっけい)なのだ。▼まったく同じネタを創価新報が披露してくれた。注目の笑い話は、同紙七月二十一日付に掲載されたカコミ記事「通諜問題・慧妙ついに論証不能・ピリオド打たれる」である。▼本紙が「『通諜』の実在を疑難する創価学会の屁理屈を破す」を連載中であるのに、途中で勝手にピリオドを打つこと自体、論争からの逃避であり、負け惜しみなのだ。▼本紙では、これまでも、創価新報に何回も論争から逃げられている教訓の上から、今回こそ逃がさないために、「この通諜問題についても引き下がるつもりはない。真実は一つだ、とことん決着をつけようではないか(七月一日号)」と紙上で発表しておいた。にもかかわらず、この体たらくときては、お笑いのネタとして笑うしかない。ついでに、今後は『笑加新報』と紙名変更したらよろしい。▼なおまた、創価新報と発行母体を同じくする怪文書『地涌』も、同様のネタでは負けていない。七月二十三日付・第六百八十二号において「日恭(上人)仏罰焼死事件にまつわる『慧妙』との論争において『地涌』が完全勝利したことは衆目の一致するところだ」と自己陶酔の見出しをつけ、訳の分からんミニコミ紙を引用する形で綴(つづ)っている。しかし、やはり都合が悪いのか、池田代作の『人間革命』の中に描写された日恭上人の御遷化には詳しく触れていない。触れられないこと自体、先ほどの見出しも負け惜しみの見出しでしかない。▼重ねて笑えることは、「『地涌からの通信・資料編』を発行したのは『日蓮正宗自由通信同盟』であって、創価学会ではない」という幼稚な逃げ論法だ。▼すでに『地涌』の正体は、『妙観』紙上で暴かれている。また、その紙面の性質上からも、発行の実態=創価学会と断定できるのだ。しかるを、名称の違いだけでシラをきれるその顔の厚さが、まさに創価学会らしくて逆に笑えてしまう。笑止  ▼かくのごとく、すでに逃げの態勢に入ってきた創価新報・創価学会ではあるが、本紙としては、さらなる破折を加え続けることを読者の皆様に宣言する。
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 何としても「通諜」実在を否定したい学会は、これまで池田離れが噂されていた小平芳平氏(元・学会教学部長で、池田を折伏した人物)を創価新報(六月十六日号)に登場させ、インタビュー記事の形での談話を発表した。
 ところが、これまた、史実に反する嘘と苦しい言い訳に終始しており、まったく用をなしておらない。
 以下、まとめて指摘しておこう。
 
 まず第一に、小平氏は
 「(牧口会長は)日本軍が占領した海外の各地に神社をつくり、他民族に礼拝を強制したことに対して、日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難していました」
等、さも、牧口氏が日本の侵略戦争に反対していたかのごとく述べているが、これは当時の史実に反する真っ赤な嘘である(でなければ、小平氏も学会の洗脳によって、そう思い込んでいるのか)。
 すなわち、戸田会長著の『人間革命』によれば、戦時中、牧口氏は
 「森田君、しっかりやってきて下さい。日本の兵隊は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、登乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺進するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい」
 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」
 「国家諌暁をしなければ、日本は惨担たる敗戦を招く!」
等々の発言をしていたことが明らかだし、また、『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行)によれば、創価教育学会第五回総会(むろん牧口氏が主催した)の席上、理事の一人に
 「いまや、皇国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙彊満州に至るのは広大な戦域に亘り、嚇々たる選果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問はず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸とな
り、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」
との発表をさせている。そればかりか、当時の学会の総会においては、毎回のように、
 「牧口会長の発声で天皇陛下の万歳を三唱し奉って」(第四回総会)
 「吉田理事の指導にて、遠く戦野にある牧口会長令息・洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、(中略)牧口会長の発声にて、聖寿(天皇の年齢をさす)の万歳を三唱し奉って」(第五回総会)
いたのである。
 かかる思想であった当時の牧口氏が、日本の占領地政策等に対し「日本民族の思い上がりも甚だしいと激しく非難」などするハズがなかろう。牧口氏(および氏の弟子達)は、明確に、日本の侵略戦争を翼賛し、日本による諸国征服を期待していたのだ。
 このような明らかな史実を、なぜ、小平氏は覆い隠そうとするのか。もし、史実を忘れてしまった、あるいは曲げて記憶していた、というなら、それが学会による洗脳(マインド・コントロール)の成果であると知るべきであろう。
 
 第二に、小平氏は
 「牧口先生の尋問調書を読めば、先生の言い分が神社参拝を否定してきた本来の日蓮正宗の教えに基づくことは、すぐに分かります」
などと述べている。
 しかしながら、牧口氏の本心がより明らかに表われているのは、取り調べ検事が押収書籍(堀日亨上人の『日蓮正宗綱要』など)の内容を盛り込んで作成した尋問調書≠謔閧焉A牧口氏の自発意志で行なわれた総会での講演°L録であろう。そこには、牧口氏の記録として
 「我々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった、有難うございます』といふお札、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違つた話はない。
 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神(あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお礼をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神宗祖することが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)
と述べられており、牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容していた)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。
 また、小平氏は、「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む合法的なひとつの便法として、指導・徹底されたもの」とも言っているが、そもそも一方で靖国神社参拝容認発言≠ェあるのに、これでは、まったく苦しい言い逃がれにしか見えぬであろう。
 
 第三に、小平氏は
 「そもそも、いまコピーで出回っている『通諜』なるものは、字が間違っています。正しくは『通牒』ですよね。こんなひどい間違いを、戦時中、厳格な教育者であった牧口先生や戸田先生が」云々
などと、何故か創価新報(■月■日号)の論旨丸写しの発言をしているが、だいたい、非常時下、慌(あわ)てふためいて作った文書(それも、ガリ版の原紙を書くのは、牧口・戸田両氏が直接ではなく、担当者がいたことだろう)であれば、字の間違いがあっても何ら不思議ではない。
 それよりも、むしろ後年の偽作だとした場合には、時間の余裕もある中で、念入りに作るであろうから、字の間違いなど起こりえぬであろう。したがって、逆に、この単純ミスが「通諜」の信憑性を高めている、とすら感ぜられるのである。
 
 第四に、小平氏は、自らが『富士宗学要集』第九巻に記載した文について、
 「『暫く柔らかにお受けした』というのは、本山からの話を無下に拒否するのではなく、一応、話はお受け≠オた、つまり聞いたという意味で、別に本山の忠告を受け入れた∴モ味ではありません。したがって『その場では』と記しているのです。(中略)実際、本山の話の内容を受け入れなかったことは、すぐ次下にが、心中には牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた≠ニ記した通りなんです」
等々と、訳のわからぬ言い訳をしている。
 いったい、氏には日本語の意味(それも自身の書いた文の意味)がわからぬのか。「一応、話はお受け≠オた」「が、心中には、牧口会長は、神札を拝むべきでない等と、日蓮大聖人、日興上人の正義を主張されていた=vとの表現は、誰が考えても、内心は不本意だったが、忠告には従った≠ニの意味ではないか。
 この他にも氏は、「当時は、そういう言い方をしたんですよね。話はお受けして帰ってきた≠ニいったように」等、ますます訳のわからぬ弁明を試みているが、まったく見苦しいかぎり、という他はない。
 
 第五に、小平氏は、本紙が投げかけてあったすでに手遅れだった会長の応急策とは何か≠ニの疑問に対し、
 「この応急策≠フ記述は、六月本山から帰った後のことではありません。当局の弾圧の準備は、この年に入って急速に進み、四月、五月ごろには、理事クラスの逮捕や先ほども述べた牧口会長の中野署での取り調べのように、もう現実段階に入っていました。
 そこで、これらの当局の不穏な動きに対して、牧口会長のもと弁護士なども入って真剣に対応策を練っていたんです。ただ、もはや弾圧の流れは止まらない勢いになっていたため、間に合わなかったのです」
等と述べ、『会長の応急策』とは『弁護士なども入って』練っていた『対応策』にすぎない、としている。
 しかし氏よ、よくよく、当時の状況を思い出してみるがよかろう。
 学会は当時、治安維持法違反(要するに思想犯)の容疑で当局から狙われ、取り締まりを受けた。思想犯に荷担(かたん)する者は、また思想犯の一味と見なされる時代であったから、学会には、弾圧以前も以後も、弁護士などつかなかったのである(それを証明する当時の記録も数多ある)。
 しかるを、牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが「会長の応急策」だった、などとは、よくも言えたもの。どうせ五十年も前のことだから、何を言っても大丈夫、と思ったのかもしれないが、あまり白々しいゴマカシは止めることだ。
 以上、新報(六月十六日号)掲載の小平談話≠フ誤りと嘘について指摘してきたが、このデタラメ度合いからして、これが本当に小平氏の語ったとおりの内容なのか、どうか・・それすら疑わしくなってくるのである。(次号「完結編」へ続く)

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 連載してきた「・・屁理屈を破す」も、いちおう今回をもって終了する。
 そこで今回は、これまで論述してきた内容についての若干の補足、及び追加説明を加えておこう。
 まず、本紙第十五号で述べた、
 「牧口氏が弁護士と共に対応策を練った、それが『会長の応急策』だった・・というのは大ウソ。思想犯と睨(にら)まれた学会には、牧口逮捕後においてすら弁護士がつかなかった」(要旨)
という点について、かつて学会側で出していた資料を紹介する。
 「牧口会長は、8月(※昭和十八年)に東京・巣鴨の東京拘置所に移され、同じく戸田理事長も、同拘置所で、本格的な取り調べをうけた。しかし、思想犯ということで、弁護士もなかなかつかず、取り調べも、進まなかった。」
                  (創価学会発行『創価学会四十年史』)
  「治安維持法違反と不敬罪という罪名のために、後難を恐れて弁護士さえなかなか決まらなかった。」(聖教新聞社発行・創価学会四十五年史『革命の大河』)
 「牧口に弁護士をつけようと努力した有志もいた。十九年春、藤森富作が『弁護届け』をもって東京拘置所へ行った。牧口の拇印をもらいにである。典獄(現在の所長にあたる)は、さっそく部下を通じて拇印をとりに行かせた。その部下は『弁護届け』を差し出した。しかし、牧口は拇印を押そうとしなかった。
 ところが、藤森が戻ってきた部下に『藤森がきておりますと伝えてください』と頼むと、今度は、牧口は珍しくニコニコして『そうか、そうか』といって気持ちよく拇印を押した。弟子の心づかいがうれしかったのであろう。」
                     (聖教新聞社編『牧口常三郎』)
 これらを見ても明らかなように、思想犯として当局から睨まれ、(学会側の説によれば)すでに昭和十八年初頭から二度にわたって警視庁で取り調べを受けていた牧口らを支援する弁護士は、一人としていなかった。いなかったからこそ、逮捕後も弁護士が見つからなかったし、逮捕の翌十九年になって、はじめて弁護士を捜す手続きを開始しているのである。
 これで学会の嘘は明白だ。学会よ、もう観念して、いいかげんな作り話はよせ。だいたい、ほとんど寝たきりになっている小平芳平氏の名を利用し、こんな嘘を発表するなんて、良識ある人間のすることではあるまい。
 次に、稲葉荘(さかり)氏が『通諜』を世に出した経緯につき、触れておく。
 昭和五十一年春、学会系企業「シナノ企画」により、映画『続・人間革命』が製作された。四十八年の本編に続き、この続編についても日蓮正宗宗門は、学会からの要請で製作に全面協力をした。
 が、その内容に関し、史実の歪められている箇処があるとして、不快に思った僧侶Y師が、旧知の間柄だった稲葉氏に胸の内を語った。
 その会話の中で、稲葉氏が「学会では、本山は神札を受けて謗法を犯したが、学会だけはこれを拒否して弾圧された≠ネどと言っているけども、それは事実と違う。その証拠に、うちには、こんなものが残っている」といって、自宅地下室から持ち出したのが、かの、「戸田城外理事長」名での『通諜』だったのである。
 これがY師の手を経て、五十二年問題の時にコピーとなって宗内に出廻った、という次第であって、そこには、学会側の妄想するような「戦後入信の、ある特定の法華講員」など、まったく介在しておらない。
 なお、稲葉氏のことに触れたついでに、本紙第十二号で述べた、
 「稲葉荘氏が戸田会長と学会を深く恨んでいた≠ネどは真っ赤な嘘。氏は戸田会長と最後まで親交を貫いていた」(要旨)
という点をもう少し詳しく補足しておく。
 稲葉氏は、牧口常三郎氏とは身内の関係(稲葉氏の姉は牧口家に嫁いでいる)になる上、戦後、稲葉氏夫妻の仲人を務めたのは戸田会長であり、そのような関係上、戸田会長も講義の帰り途、しばしば稲葉氏宅に寄っては酒を飲む、というほど親密な間柄を続けたのであった。
 ゆえに、稲葉氏が、牧口氏や戸田氏や学会を恨むような事は、何ひとつないのである。ただ、氏としては、あくまでも事実を事実として述べたい、との、実直な考えの上から、当時あったこと(神札問題と通諜の件)をありのまま語っているにすぎない。
 どす黒い腹の学会幹部には、そうした氏の心情はまったく理解できず、戸田会長への深い恨みがあるに違いない≠ニしか思えないらしい。じつに哀れな連中ではある。
 次に、学会側の反論・批判の支離滅裂ぶり、狂いぶりについて、二、三、指摘しておきたい。
 創価新報(六月十六日号・四面)に、「通諜問題」と題して、
 「何とカラー写真で逆に押収物でないことを証明」
 「『慧妙』も認めた・『通諜』はだれも見ず知らずの幽霊」
 「化けの皮はがされた『戦中作成説』」
等の見出し付き記事が掲載されている。
 このうち、最初の見出しに示される「カラー写真で逆に押収物でないことを証明」云々という言い掛かりについては、すでに本紙第十二号で粉砕済み(それに対して学会側は、真摯な対応をせず居直りを決め込んでいる)。
 残る二つの見出しの趣旨は、
 「『慧妙』の通諜論で化けの皮がはがされたのは、戦時中『通諜』を見た者はだれもいなかった、ということである。これは重要な記述である。『慧妙』では野島氏以下ほとんどの幹部達は『通諜』の現物を見てすらいなかった∞まだ配布されていない『通諜』なる文書が牧口氏宅からの押収資料の中にあった≠ツまり、だれも見ず、知らず、聞かず、だというのである」(要旨)
というものだが、これがまったく呆れ果てたゴマカシなのである。
 すなわち、新報が本紙からの引用として挙げている二文の末尾には、それぞれ、「であろう」と「としても」の字句が故意に削除されており、本紙が、論を進める途中の推測および仮定として述べた文を、あたかも既定の新事実を明かした「重要な記述である」かのごとく改ざんしているのだ。
 このように、相手側の主張を勝手に歪曲しておいて、それを得意気に批判してみせる手口は、平成三年以降、学会が使ってきた常套(じょうとう)手段であり、これは、相手側を打ち破るというより、むしろ、自らの陣営側(学会員)に、学会の正しさを印象づける目的で行なわれている洗脳報道であり、戦時中の大本営発表と全く同じ性質のものである。もはや、学会には良識のカケラもない、といえよう。
 なお、新報の同記事の末尾には、
 「それにしても『慧妙』編集子の程度の低さ。支離滅裂な推理といい、手の内を何でも明かしたがる幼稚さといい、話にもならない幼年探偵団だ」
などという捨てゼリフが吐き捨てられてあったが、学会に都合の悪い事実は全て隠蔽(いんぺい)し、宗門攻撃の材料として使えそうな話だけを選別して、断定的かつ針小棒大に報道するのが常識の悪徳編集子≠フ眼から見れば、取材結果をそのつど全てオープンに報道し、推測は推測として有り体に記述する本紙の姿勢が、かように異和感を伴って映ずるのであろう。したがって、これは、新報から本紙に対する、ある意味で正しい評価ともいえるが、あえて嫌味な御礼までは言わないでおく。
 最後に、この通諜問題での論争中、可笑(おか)しくて可笑しくて仕方のなかった、学会側の一文を引いて紹介したい。
 「どうして日蓮大聖人の末流に、謗法厳誡にして神札を峻拒した健気(けなげ)な信徒団体があったことを認めないのであろうか。(略)依って立つべき聖なる地の無い者は、他を穢(けが)すことのみを喜びとするのである。誇るべき信も行も学も無い者の哀れな排泄行為である。」(『地涌』六六六号・不破優)
 僧誹謗、摧尊入卑、現代仏陀論、0分勤行、本尊模刻・・等々等々、こんな輩が「謗法厳誡の健気な信徒団体」だなどと自讃しては、もう完全なブラック・ユーモアだ。
 その上、このような、まさに「依って立つべき聖なる地の無い者」が、無責任な怪文書をバラまくなどして「他を穢すことのみを喜び」としているのだから、後半の文は全て彼ら自身のことを言い当てた文ではないか。だとすれば彼らは、自らの「哀れな排泄行為」によって生じた排泄物を、自らの顔面にかぶって喜ぶ狂人のようなものだ。何とも悲哀の漂(ただよ)う、あまりに馬鹿げた姿ではないか。
 以上、通諜問題に関する学会の屁理屈を、おおむね破し了(おわ)った。もし、学会側が再反論に及ぶ気力を持ちあわせていたら、あらためて、とことんまで論じ合う所存である。