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【富木五郎左衛門尉胤継】 ときごろうさえもんのじょうたねつぐ   仏教哲学大辞典 昭和47年7月17日 三版 から

下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市)の領主(〜 一二九九年)。

弱冠にして富木家をついで若宮の地を領し、鎌倉幕府の問注所に仕えていた文官である。
日蓮大聖人御在世中の強信者であり、よく外護の任に励んだ。
祖先が代々因幡国(現在の鳥取県)富城郡(ときごおり)を領していたことから富木氏と称し、土木とも富城とも書く。
美濃国(現在の岐阜県)の豪族である土岐氏と同族であるとする説もある。

 富木胤継の生いたち、事蹟等に関しては、信頼できる文献、資料が非常に乏しく、さらに俗伝等が加わって種々の説があり、不明確な点が多い。
父は左衛門尉光行といい、母は富木家の宗家にあたる下総の豪族、千葉胤正(たねまさ)の娘であるという。

生年は大聖人御誕生の二年前の承久二年(一二二〇年)とする説もあるが、正安元年(一二九九年)三月二十日に八十四歳で寂したという池上正喜庵日長の著した「別頭統紀難得意条々記(べつずとうきなんとくいじょうじょうき)」を引用した「富士年表上」の記載から逆算し.て、建保三年(一二一五年)もしくは建保四年とするのが正しいと思われる。
出世地に関しても下総国若宮とする説、鎌倉とする説、さらに因幡国富城郡とする伝(因幡常忍寺寺伝)もあり、何れか明らかではない。
はじめ同郷の大田乗明の姉を娶ったが、不幸にも早くに死別したと伝えられ、その後に富木尼御前と大聖人から呼ばれた妙常を後妻として迎え、その子、伊予房日頂を養子にしたといわれている。
日頂は建長四年(一二五二年)駿河国富士郡重須に生まれ、後に六老僧の一人となった。
胤継と妙常の間にも一男一女がめぐまれた。
弘長二年(一二六二年)に生まれ、後に富士重須の談所の初代学頭になった寂仙房日澄と乙御前(日妙聖人の娘とは別人) の二人である。

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@ 胤継の入信前後 

建長五年(一二五三年)四月二十八日、日蓮大聖人は安房国清澄寺の持仏堂で立宗宣言をなされた。

聖人御難事に
■「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡の内東条の郷・今ほ郡なり……此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏房の持仏堂の南面にして午の時に此の法
門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり」

とおしたための如くである。
胤継の入信はその翌年の建長六年(一二五四年)である。
胤継の入信のいきさつについて、俗伝の中には
「建長の頃、鎌倉への途次、たまたま大聖人と同船して相識り、資縁家となりまた化を受けるにいたった」とか
「鎌倉で大聖人の辻説法を聞いて」とかいったものがある。
しかし世にいう辻説法なるものが存在しないことからも、これらの伝は信じ難い。(※注 現在では辻説法は史実とみなされているの。)
あるいは日蓮大聖人は建長六年当時、鎌倉の名越に住まわれていたが、由あって下総におもむかれた折、胤継を折伏なされたものと思われる。
また日蓮大聖人と胤継の間に俗縁があったとか、大聖人御遊学当時、大田、曾谷氏とともに資嫁したとか伝えられるが明確ではない。

 胤継は入道して常忍と称し、大聖人より常修院日常と法諱(ほうい)を賜わり、妻の妙常も胤継が入道するとすぐに落飾して尼となった。

忘持経事には
■「常忍貴辺は末代の愚者にして見息末断の凡夫なり、身は俗に非ず道に非ず禿居士心は善に非ず悪に非ず羝羊のみ」  とある。

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A 松葉ケ谷の法難と胤継の外護 

日蓮大聖人は立宗より七年目の文応元年(一二六〇年)七月十六日、三十九歳の御時、鎌倉において「立正安国論」をおしたためになり、宿屋光則を通して北条時頼に上書し、第一回目の国家諌暁をなされ、幕府当局者の迷蒙に対し、一大警告を発せられたのである。

立正安国論にいわく
■「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし?公+心(いそ)で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり」  と。

またいわく
■「帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来って其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を?(いの)らん者か」と。

さらに
■「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」  と。

 これに対し、その後幕府当局からは何の沙汰もなく、ほぼ一か月の間沈黙が続いたが、同年八月二十七日になって突如として、念仏僧を交えた一団が鎌倉松葉ケ谷の大聖人の草庵を襲撃してきた。
すなわち松葉ケ谷の法難である。
大聖人は御弟子のかたがたと裏山に逃れ、からくもこの難を免がれたのであるが、もはや鎌倉にいることは不可能となり、いったん下総の富木胤継の邸に身を寄せられたのである。
やがて、胤継が自邸に造営した法華堂に移られ、そこで百日間の説法をなされた。
この時に太田乗明、曾谷教信、秋元太郎、比企能本(よしもと)等があいついで大聖人に帰依し、ここに松葉ケ谷の法難を通して下総における教勢は一時に拡大したのである。

 翌弘長元年(一二六一年)の春、大聖人は鎌倉にお帰りになられたが、依然として迫害、謀略の炎は激しく、いやまさり、同年五月十二日には伊豆伊東へ配流となった。
このような情勢のもとで富木胤継は門下の重鎮として日蓮大聖人をお護り申しあげ、よく外護の任に励んだ。
その後文永四年(一二六七年)、大聖人は安房から上総藻原を経て下総にいたり、胤継の邸で越年なされた。
この時に次子の寂仙房日澄が得度したのである。

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B 胤継等問注所へ召喚のこと 

文永五年(一二六八年)正月、蒙古の国書を携えた高麗の使者潘阜(はんぷ)が太宰府にいたり、鎮西奉行少弐資能(すけよし)がこれを幕府に報告するに及んで緊張が高まり、世上は騒然としてきた。
ここに日蓮大聖人が「立正安国論」を著わされてより九年にして、その御予言が的中したのである。
しかるに幕府の迷蒙は依然ひらかれず、四月には諸社寺に蒙古降伏の祈願を行なわせている。
 こういった状況の中で、大聖人は四月五日に安国論御勘由来を著わされ

■「勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し」

■「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」 

と御予言が的中したことをもって、幕府に対し安国論の返答を促がされたのである。
さらに十月には時の執権北条時宗をはじめとして平左衛門尉頼綱、北条弥源太、宿屋左衛門光則
さらに建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺にあてて十一過の書をしたためられきびしく公場対決をせまったのである。

北条時宗への御状には
■「所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」 と申されている。

大聖人の烈々たる国家諌暁を幕府としてもいつまでも無視し、捨て置くことができず、このため翌文永六年(一二六九年)五月九日に富木胤継、四条金吾、大田乗明の三名が幕府の問注所に召喚されたのである。
そのことを聞かれた大聖人は胤継他二人にあてて

問注得意抄を送られ、
■「今日召し合せ御問注の由承り候、各各御所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に植えるの身か……一期の幸何事か之に如かん」 と激励されている。

また
■「設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の事・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず「鹿×3」言(そげん)を出さず?語(なんご)を以て申す可
し」
等々こと細やかに御注意を寄せられている。

そして
■「此等の矯言を出す事恐を存すと雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為」
と、三名の問注所召換から公場対決に発展することを期待されているのである。
しかしことは簡単に片付けられ、幕府当局はついに十一過の書さえも無視同然の扱いをしたのである。

翌文永七年(一二七〇年)十一月、三名のうちの一人、大田乗明への金吾殿御返事には
■「抑此の法門の事・勘文の有無に依って弘まるべきか弘まらざるか・去年方方に申して候いしかども・いなせ(否応)の返事候はず候」  とある。

種種御振舞御書にも
■「此の僧につ(託)いて日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに・さはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず」   と申されている。

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C 佐渡御流罪と胤継 

文永八年(一二七一年)九月十二日、平左衛門尉頼綱は再度松葉ケ谷の草庵を襲い、大聖人を捕縄し竜の口で斬罪に処せんとした。
この事件は同年六月十八日から七日間の雨乞いに破れた極楽寺良観の讒言によるものであった。

種種御振舞御書に
■「各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし」 とある。

同書には、草庵の襲撃の様子を
■「去(いぬる)文永八年太歳辛未九月十二日御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ……平左衛門尉・大将として数百人の兵者(つわもの)にどうまろ(胴丸)き(著)せてゑぼうし(鳥帽子)かけして眼をいからし声をあらうす……又九巻の法華経を兵者(つわもの)ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき(板敷)・たたみ(畳)等・家の二三間にちらさぬ所もなし」   とつぶさに書かれている。

下山御消息に
■「去る文永八年九月十二日に都(すべ)て一分の科(とが)もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ」  
とあるごとく、この事件は最初から大聖人をなきものにせんとする企てであったのである。
しかしいかに平左衛門の権力をもってしても終に末法の御本仏日蓮大聖人を殺害することはできなかった。

種種御振舞御書に
■「江のしま(島)のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戊亥のかたへ・ひかりわたる……太刀取(たちとり)目くらみ・たふれ臥し兵共(つわものども)おぢ怖れ・けうさ(興醒)めて一町計りはせのき……さてよ(夜)あけば・いかにいかに頸切(くびきる)べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんと・すすめしかどもへんじ(返事)もなし」   とある。

 竜の口の虎口をまぬがれた大聖人は、二日後の九月十四日、相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の邸から富木胤継にあてて土木殿御返事をおしたためになり、状況をお知らせになっている。
再往は弟子檀那にお知らせになったものであり、このことからも当時外護の任において、胤継は大聖人の信頼がもっとも深かったものと思われる。

 佐渡配流ときまった大聖人は依智に約一か月御滞在の後、十月十日に依智を出発なされ、十二日間の旅を経て、十月二十二日に越後国寺泊にお着きになり、そこから胤継にあてて寺泊御書を送られている。
二十八日に佐渡にお渡りになり、十一月一日塚原に庵を結ばれた後もまず、十一月二十三日に胤継にあてて富木入道殿御返事を送られ、

■「此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや」

と佐渡のきびしい状態をお知らせになっているのである。

 大聖人佐渡御流罪という逆境の中を、胤継は門下の重鎮として房総関東方面の中心的存在として、付近の大田乗明、曾谷教信等と一致協力し連絡を取り合って、憶することもなく戦っていた。
この胤継の戦に対して、大聖人は佐渡から激励につぐ激励を寄せられているのである。

富木入道殿御返事に
■「流罪の事痛く歎せ給ふべからず、勧持品に云く不軽品に云く、命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」  と。

佐渡御書に
■「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」  と。

富木殿御返事に
■「日蓮が臨終一分も疑無く頭を別ねらるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易(か)ゆと思う可きか」 と。

土木殿御返事に
■「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か」  と。

さらに 法華行者逢難事では

■「夫れ在世と滅後と正像二千年の間に法華経の行者・唯三人有り 所謂仏と天台・伝教となり……之を以て之を案ずるに末法の始に仏説の如く行者世に出現せんか」

と申され、大聖人の御内証を明かされた甚深の法門を送られているのである。

あるいは御書散逸によるかもしれないが、佐渡御流罪中に一時にこれほど集中して大聖人から御書をいただいた信徒は他にはいない。
四条金吾ですら開目抄を賜わったとはいえ、この間の賜書は少ないのである。
これひとえに大聖人の御信頼の深さと、俗弟子の中心者の一人としての戦いを委ねられたゆえであろうと思われる。

 文永十一年(一二七四年)二月十四日に大聖人は御赦免となり、三月二十六日には鎌倉に戻られた。
この三年半の間、胤継は佐渡で御窮状の大聖人に対し、はるばると便を向けて誠心からの御供養を申し上げているのである。

寺泊御書に
■「鷲目一括(ゆい)給び了んぬ」。

土木殿御返事に
■「鷲目二貫給候い畢んぬ」  と大聖人は諸御書において御供養に対する御礼を申されている。

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D 観心本尊抄を賜わる 

佐渡で二度目の春を迎えられた大聖人は、文永十年(一二七三年)四月二十五日、一の谷で観心本尊抄をおしたためになり、翌二十六日、観心本尊抄送状をそえて富木胤継に授けられている。
ただ本抄に対告衆の名が記されていないことから、

本尊抄送状の
■「観心の法門少少之を注して大田殿・教信御房等に奉る」
の御文の誤った解釈によって、曾谷教信への賜書としたり、大田、・曾谷両氏への賜書で富木胤継をも兼ねたものとする等の異説が存在する。
しかしこのことは建治元年(一二七五年)十一月二十三日におしたための

観心本尊得意抄に
■「教信の御房・観心本尊抄の未得等の文字に付て迹門をよまじ(不読)と疑心の候なる事・不相伝の僻見にて候か、去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り
候しが其の通りを以て御教訓あるべく候」

とあることから、胤継に賜わったことが明瞭である。

 観心本尊抄は最大深秘の法門たる「観心の本尊」すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経を明かされた法本尊開顕の書であり、前年の文永九年二月に四条金吾に与えられた人本尊開顕の書たる関目抄上下二巻と合わせて、ここに人法一箇の御本尊の当体が明らかになるのである。

観心本尊抄に
■「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」  と受持即観心を明かされ、

同抄に
■「其の本尊の為体(ていたらく)本師の婆婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勤等は四菩薩の眷属として末座に居し……是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る……末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」  

と文底下種の三大秘法の御本尊を明かされているのである。

 観心本尊抄送状に

■「此の書は難多く答少し未聞(みもん)の事なれば人耳目を驚動す可きか、設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ」  と誠められている。

したがって当時は俗弟子門下のなかでは、富木胤継のほか下総の一部の人のみが本抄を拝読できたと思われる。
直弟子門下の方でも、日興上人のように大聖人に常随給仕なされていた方以外は、おそらくは本抄の相伝はなかったであろう。

現存する御遺文の中でも安国論は二十余か所に、開目抄も四か所に出典をみているのに対し、観心本尊抄は観心本尊得意抄のみなのである。
したがって送状の三人四人並座の誠めのごとく、本抄は厳格に護持され、後世に伝えられたのである。
胤継への賜書とはいえ、大聖人の御真意はあくまでも末代の弟子檀都に向けられており、ひとえに広宣流布、令法久住のためであることは明らかである。

 重書中の重書である観心本尊抄を富木胤継が、開目抄を四条金吾が賜わったということは、富木、四条の両名が日蓮大聖人外護の任の双翼であり、門下の二大亀鑑であったことを如実に示すものである。

弟子檀那等列伝(四)に
●「付近の大田曾谷等の武人と連盟し鎌倉の四条氏と結合して外護に当り……此を以って信徒の首領として老弟子等と比肩するに到り本門第一の重書たる観心本尊抄を始め数十の義抄を賜わって居り、又関東の重鎮として…」  とある。

 胤継は大聖人から数十編にものぼる御書を賜わっているが、そのうち主要なものは観心本尊抄の他に
法華取要抄(文永十一年)、
四信五品抄(建治三年)、
法華行者逢難事(文永十一年)、
聖人知三世事(建治元年)、
始聞仏乗義(建治四年)、
四菩薩造立抄(弘安二年)、
佐渡御書(文永九年)、
常忍抄(建治三年)、
治病大小権実遠目(弘安五年)等がある。

このうち

法華取要抄、
四倍五品抄は十大部であり、

始聞仏乗義、
聖人知三世事等は宗旨の肝要を述べたいずれも重要な御書である。

このことから教学面においても胤継は相当に力のあった人であることがうかがわれる。

しかし四菩薩道立抄に
■「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云」
とあるような質問を大聖人にしていることから、どの程度まで大聖人の法門を理解していたか疑問である。
佐渡以後のことであり、本尊抄、法華取要抄を賜わった後のことであるからなおさらである。

 日蓮大聖人が御書をおしたためになられた御内意は、とくに重要な御書については、一往は大聖人御在世の弟子檀那のためであるが、再往は令法久住のため、末代の衆生のためなのである。
当時の社会的政治的に不安定な状態を考える時、大聖人の御書を保管する事は非常に困難なことであったろう。
こうした中で大聖人が富木胤継に対し、これ程数多くの御書を賜わったということは、胤継を後世に御書を大事に残す人と信頼されて、その最適任者と考えられて、厳護を託されたものと推察することができる。

現在胤継所縁の中山法華経寺には大聖人の御真蹟四十五編が現存している。

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E 中山法華経寺と真間弘法寺 

文応元年(一二六〇年)八月、松葉ケ谷の法難で鎌倉を去られた大聖人に胤継は法華堂を寄進した。
現在の中山法華経寺若宮奥之院である。
大田乗明もその住地に中山本妙寺を創設した。
この両寺が日祐の代になって元徳三年(一三三一年)合併されて中山法華経寺となり、開基を富木胤継としたのである。
現在中山は謗法の山と化しているが、富木、太田、曾谷氏等への賜書があつまり、厳護されている。
これひとえに胤継の功績といえよう。

 真間弘法寺は富木氏、とくに伊予房日頂有縁の寺である。
はじめは関東における天台の大寺であったが、寺主の天台の学匠了性房を胤継が論破(真間問答)し、これを走らしたところから伊予房日頂の住むところとなったのである。
胤継と了性房との問答の内容は常忍抄にくわしい。
日頂は弘法寺を拠点として修学弘教につとめた。

富木殿女房尼御前御書に
■ 「いよ(伊予)房は学生になりて候ぞ……さてはえち(越)後房しもつけ(下野)房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へ」  とある。

すなわち胤継と尼御前は弘安二年(一二七九年) の熱原の法難に際し、富士から一時逃がれてきた下野房日秀、越後房日弁の両房をかくまい、弘法寺に住まわせ保護したのである。

 富木胤継は釈迦仏を造立し、これを弘法寺に供養したことがある。
大聖人は文永七年(一二七〇年)の

真間釈迦仏御供養逐状に
■「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」  と称歎なされている。

佐渡以前のことであり、本尊についての容認の辺もあったわけである。
この事を誤解して、釈迦像を本尊とするはじめであるとか、釈迦を本尊としても良い等の説があるが、ことごとく不相伝の大僻見である。

この点に関して日蓮正宗第二十六世の日寛上人は末法相応抄(富要三巻一五九)に
●「本尊に非ずと雖も而も之を称歎する、略して三意有り、
一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか、
二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適釈尊を造立す豈称歎せざらんや、
三には吾が祖の観見の前には一体仏.の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり、
学者宜しく善く之を思うべし」   と述べられているのである。

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F 大聖人身延入山以後と胤継の晩年

文永十一年(一二七四年)三月二十六日、佐渡から鎌倉に戻られた大聖人は、四月八日には平左衛門尉と会い三度目の国家諌暁をなされたのである。
しかし、これも聞き入れられず、五月十二日、鎌倉を出でられて身延に入山なされた。
この時も、その様子を五月十七日に富木殿御書をしたためられて胤継にお知らせになっている。

 建治二年(一二七六年)三月、胤継は亡き母の遺骨を奉じて、身延の大聖人のもとに参じた。
その折に、夫人の病気のことを話したと思われ、すぐに大聖人は富木尼御前御返事をしたためられて激励されでいる。
さらに同書で尼御前の内助の労と姑への孝養を讃められ、その強情な信心をめでられているのである。
この時、胤継は持経を身延に置き忘れた。

大聖人は忘持経事に
■「夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か」   と申されている。
                
 胤継は 観心本尊得意抄に
■「鷲目一貫文厚綿の白小袖一つ筆十管墨五丁給び畢んぬ」  とあるように、身延の大聖人に折にふれて数多くの御供養をしている。

 大聖人身延入山五年目の弘安二年(一二七九年)九月に熱原の法難がおこり、胤継は尼御前とともに日秀、日弁の両名を保護し、外護の任にあたったが、胤継は熱原の法難をさほど重大事とは考えていなかったようである。

 日蓮正宗第五十九世堀日亨上人は富士日興上人詳伝に
●「大聖人は熱原法難を御自身の大法難と『聖人御難事』におおせられてあっても、下総に避難した日秀・日弁等には、刻心鏤骨(※鏤骨 骨を刻むような苦労・苦心をすること。)忘るることのできぬ恨事であっても、富木殿以下の人々は、さほど重事には扱わなかった」  ときびしく述べられている。
胤継がついに日興上人につくことができなかった因もここに帰すると思われる。

 大聖人は弘安二年十月十二日に出世の本懐を遂げられ、弘安五年(一二八二年)十月十三日に安祥として御入滅なされた。
御葬送の折、胤継は門下の重鎮として、香炉を持って参列している。
しかしながら、その後は身延にも、日興上人の御教示にも疎遠となり、一人下総の自邸にこもりがちであったことは非常に惜しまれるのである。

弘安八年(一二八五年)、身延で日興上人が営なまれた大聖人の三回忌法要にも参列せず、ひとり下総でとり行ない、ついに日興上人から離れてしまったのである。

 胤継は大聖人滅後十七年目の正安元年(一二九九年)先きに自邸をあげて寺とした法華堂を帥(そつ)阿闍梨日高に付し、三月二十日、八十四歳で没した。


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