■ 神がかり 編

神がかりは精神分裂と同じ

出口なお も「お筆先」があるが、中山みきの主張と全く異なる。どちらが正しいのか?

結局 天理教の神 とは?

「敬うものは無し、何の楽しみも無い」

● みき 「人間の寿命は150歳」 と説いてきた ← 本当ですか?
そのみき自身がなぜ90歳で死んだのですか?

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■ 泥海古記 編

泥海古記 の矛盾


天理王神 中山ミキの体に天下るまで、いったいどこで何をしていたのやら、天保以前の民衆はどうやら見捨てられていたようである。


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■ 教団の矛盾 編

教祖の没後、教団は天皇制国家との共存路線を選択し、昭和13年には文部省の指示に従って『御筆先』と『おさしづ』を信者から回収

中山みき 弾圧されるが主張を曲げない

みきの死後 別派独立 どちらが正しいのか? 今の天理が正しいと言える根拠は?

てんりおう 改名の変遷

多数の分派を生んだ天理教 分派の主張とどちらが正しいのか? 

甘露台は 道教からのパクリ 

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■ 貧に落ちきれ 編

貧に落ち切れ では 国家の存続は不可能

「貧に落ちきれ」という人生教訓

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■ たんのうの理 編

どんな苦労でも、親神の心一つであるから我慢しなければいけない

陽気暮らし ならぬ 陰気暮らし へ

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■ 八つの埃 の矛盾

人間の本質を見抜くことができず、「八つの埃を払う」修行を必要不可欠であると説く天理教では、一切衆生を真の幸福へと導くことは不可能と知るべき

幸せになりたい というのも「欲」

生まれた直後の赤ん坊の事故死・病死は「八つの埃」が原因なのか?

肉体は親神からの借り物 → 生まれつきの欠陥は神からの贈り物なのか?

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折伏教典 簡潔編

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■ 現証 編

宗教団体「天理教 法奥金澤分教会」の建物が全焼する火事

うつ病

修養科

天理教被害

長野の教会長の息子  車箱乗り 橋の欄干に頭をぶつけて川に落下 死亡

YouTube から

一部の悪質な教団幹部などによるものだと思いますが、「私財は全て教団に寄付せよ」というとんでもない恐喝を行っている

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● 「をしい(惜)」「ほしい(欲)」「にくい(憎)」「かわい(可愛い)」「うらみ(怨)」「はらだち(怒)」「よく(貪)」「こうまん(慢)」の八つの「ほこり(埃)」
をなくしたら、人間に何が残るのか?
人間が生きていく限り、このような感情はよ欲望は常につきまとうもの。

「生きたい」という生存欲ですら、「欲」ではないか。

人間を人間でなくなれ、と言っているようなもの。

「陽気暮らし」を願うことすら「欲」ではないか。

「幸せになりたい」というのも「欲」

● 親神 「敬うものは無し、何の楽しみも無い」 ← こう言ったのか? それ自体不幸の塊ではないか。

● どんな苦労でも、親神の心一つであるから我慢しなければいけない → 「たんのうの理」
→ 結局 何も改善、転換、解決できない無力さを誤魔化しているに過ぎないのではないか。 

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実家 天理教 子供のころから教会にも行き 毎年夏 おぢばがえりもしていた。

本当の自分が素直に現せない
人間不信
笑いも忘れ

突然の物事への対処ができずパニック状態にも

天理教の父方の親戚 皆熱心な信者 そのほとんどが離婚や別居
未婚の母も

両親はいつも喧嘩
自分も友人関係で悩み 自殺も考えていた

およそ「陽気暮らし」などとはほど遠い生活

父方親戚 貧に落ちきれ 「人の心は自分が物・金を持っていたのでは理解できない。他人に与え貧乏になりきってこそ本当の人間になれる」 真面目に実践
叔父 他人の借金の保証人に 本人逃げる 借金取りに追われ、家族の住む家を取られる。
体験談者 中学生の時、黒スーツの者が家の周りに張り付き、怯えて名札を隠して登下校する。

   

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■ 神がかりは精神分裂と同じ

大本や金光教などの項でも書きましたが、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。

もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 
普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。
「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしている
わけです。

このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。

「万物創造の親神」などというものは、単なる妄想の産物です。

■ 社会生活を破壊する「貧に落ちきれ」

「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」
これは昔、世間の人々が天理教を揶揄(やゆ)したものです。
人は、特別な金持ちになる必要はなくても、「生活に最低限必要な金銭・財産は確保したい」と思うのが当たり前です。
そうでなければ、当たり前の社会生活に破綻をきたすからです。
ところが天理教では「貧に落ちきれ」と言い、「どんな境遇でも心の持ち方一つで陽気暮らしができる」などと無責任な人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。

あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を破綻に追い込みかねないことまで言っています。
これでは、信者は単なる「教団の奴隷(どれい)」でしかありません。
こうして信者から集めた莫大な金で、真柱(しんばしら)やら教団幹部がどのような暮らしをしているのか、ぜひ見てみたいものです。
彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。


■ 人間の本質を無視した「八つの埃」説

天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。
では、天理教で懸命に天理王命を信じて、「はらだち(怒)」が消えてなくなった人はいるでしょうか。いるはずがありません。
すべての欲がなくなった人がいるでしょうか。いるはずがありません。
まったく怒りがない人間などいません。
「病気を治したい」と願うことも欲です。
こうした人間本来の姿を無視して、しかもそれがすべての不幸の原因であるなどとは、因果の道理を無視した妄説でしかありません。

「五欲を離れず」、「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い、低劣な外道教団と呼ばざるを得ません。

以上、ごく簡単ではありますが、天理教の教義についてその邪宗教である理由を述べました。
皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

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 天理教は、中山みきによって幕末に創立された新興宗教の草分けともいうべき教団です。

他の新興宗教の成立過程と同じように、天理教も教祖の異常心理による神懸かり現象が開教の起因となります。
中山みきは四一歳の時、神懸かりにあったとされています。

 その昔、釈尊が生老病死を救わんと志しての出家、また、世の乱れ、苦しみへの疑問解決のため出家された日蓮大聖人とは、もともとの出発点が違うことを、まず初めに知っておかなければなりません。

 教団では、信仰の対象として、「ぢば・親神天理王命・教祖中山みき」の三つを挙げています。

「ぢば」は、親神が人間創造の際に最初に人間を宿した親里だとしています。

「親神天理王命」は、人間をはじめ世界を創造した根元の神として、教祖中山みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人間を一切の苦から解放して喜びづくめの生活(陽気ぐらし)へと導き、守護すると説いています。

親神は、キリスト教における神とよく似ており、この世を創造した創造主という概念になってます。

 また
「教祖中山みき」は、死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在しているとし、親神による人類救済はこの「ぢば」を中心として行われるとされています。

 しかし、この万物創造の親神は、教祖みきに神懸かるまで一体何をしていたのでしょうか。
親神の教えによってはじめて人類が救われるとするならば、それ以前の人類は救われないことになります。
所詮、万物創造の親神は、中山みきが神がかりという精神医学でいう妄想の産物であり、因果を説かれる仏教には程遠い因行の無い外道神なのです。

 また、天理教では、親神が「どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた」と述べています。
しかし、「どじょうが人間のたね」などというのはあまりにも非科学的な教えであり、このような話が元となった宗教は人間を不幸に導く邪教です。

 また天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり、「人の幸せは物や金ではなく、心の安住が大事」と説き、教祖が全財産を貧しい人に施した事を、陽気暮らしの手本であるとし、信者は欲の原因となる金銭を親神に供え、教会に行き、人のために奉仕する事を実践の徳目としていますが、このような集金手法も新興宗教の特徴です。

 親神は、人間を助けたいとの親心で天理教を開いたとし、子である人間は親神の心を心として生きることが重要で、親神の思いにひたすら添うことが道であるとしています。そして、踊りや歌によって、陽気ぐらしの世界をこの地上に実現するといいます。

 天理教では、人間の肉体は親神から借りたもので、心だけが人間所有のものとして、親神の心を知ればどのような境遇でも心の持ち方一つで″陽気ぐらし″ができると主張しています。
しかし、心の持ち方一つで真の幸福など得られるはずもなく、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、社会の安寧、また個々の将来は安泰でしょうか。
それらを考えるとき、厳正な宗教教義でないことが判ります。

 日蓮大聖大の教えは「神懸かり」「どじょう」と違い、道理に基づいた因果が説かれています。
また「陽気暮らし」と正反対の、人間の苦悩を正面から見つめ、苦難を乗り越えて人生を全うし、社会の安寧「立正安国」を説かれた真実の教えです。
是非、お近くの日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。


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【天理教の歴史】

 天理教は江戸幕末、「中山みき」という女性によって創立された新興宗教です。
 
「中山みき」が四十一歳のとき、みき夫婦と長男・秀司は、自分たちの病気平癒の祈祷を修験者に依頼しました。
その怪しげな祈祷の最中、突然「みき」が異様な言動を取るようになりました。
「みき」が言うには、みき自身に「元の神・実の神」と名乗る得体の知れない神が取り憑(つ)き、
 「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)として、みきの体をもらい受けたい」
 「不承知なら、中山家を、元も子もないようにしてしまう」
と神が脅迫してきた
というのです。(←※ そんな独善的・強圧的・無慈悲な「神」だとしたらその時点で既に信じる対象ではない。)
その言葉を信じ、恐ろしくなった夫・善兵衛は、いとも簡単に「みき」を「やしろ」として神に差し出しました。
天理教では、「中山みき」が「神のやしろ」と定まった天保9(1838)年10月26日を立教の日としています。

 「みき」の神がかり以後中山家は没落しはじめ、ついに自身の食べ物にも事欠くような状態になりました。
その原因は「貧(ひん)におちきれ」という親神からの命令に従い、「施し」と称して全財産を人々にばらまいてしまったことに依ります。
天理教団では、こうした「みき」の行動は、どんな境遇でも心の持ち方一つで、「陽気ぐらし」ができるという手本(ひながた)であると教えています。

 神がかりから15年目の嘉永6(1853)年、夫・善兵衛が死去しました。
その直後「みき」は、自分の五女「こかん」を浪速(なにわ)(現大阪)の街頭に立たせ、拍子木を打ちながら「南無天理王命」と叫ぶよう命じました。
天理教団ではこれを、「においがけ」(布教活動)のはじまりとしています。

 明治8年6月、みきは自宅を入念に掃除させると、庭をウロウロと歩き出しました。
しばらくすると足が地面に吸(す)い付いて前後左右に動けなくなり、「みき」はその場所に印をつけました。
そして、その場所こそ親神(おやがみ)が最初に人間を創造した場所「ぢば」であるといい、「かんろだい」と称する台をすえました。
現在、この場所を天理教では根本道場としています。

(※科学的根拠はどこにあるのか? )

 天理教団では、「中山みき」を「教祖(おやさま)」と称し、それ以後の教団代表者を「真柱(しんばしら)」と呼んで、今日に至るまで中山家の直系男子によって教団が継承(けいしよう)されています。

(※直系男子が継承できる根拠は?)

 なお、天理教から分派・独立したものには、「天輪王教会」「大道教」「朝日神社」「ほんみち」「世界心道教」「赤坂神様の家」「ほんぶしん」「修養団体誠会」「天理三輪講」「神一条教」「(財)モラロジー研究所」「太道教」「自然真道」「日月教」「八楽会教団」「神光苑」「天真教真祐殿教会」など多数の新興宗教があります。

まさに天理教は、新興宗教を次々と生み出す母(ぼ)胎(たい)となっているといっても過言ではありません。

(※ これらの分派は正しいのかどうか?)


【天理教の教え】

 天理教では、信仰の対象を「目標(めど)」と称します。
目標(めど)とは、「ぢば」「親神・天理王命」「教祖中山みき」の三つをさします。

@ 「ぢば」は、親神(おやがみ)が人間を創造した際に、最初に人間を宿した場所であり、親神が鎮(しず)まっている「親里(おやざと)」であるとします。
現在の教団本部(奈良県天理市三島町)の神殿中央には、この「ぢば」の目印として「かんろだい」が設置され、その場所自体が信仰の対象となっています。

A 「親神(おやがみ)・天理王命」は、人間をはじめ世界を創造した根元の神であるといいます。
この神は、「中山みき」の体を借りてこの世に現われ、世界中を苦しみから解放して、喜びづくめの生活(陽気ぐらし)へと導くと天理教では教えます。
 天理教の教会では、天理王命の象徴(しょうちよう)としての神鏡(しんきょう)を、教祖・中山みきの象徴として御幣(ごへい)を祀(まつ)り、信者は「神実(かんざね)」と呼ばれる小さな神鏡を祀ります。
 

 【教えの中心】

 ○ 親神(おやがみ)が人間を創造した「元初(もとはじ)まりの話」を説いています。
 この説話では、昔、月日の神(天理王命の別名)は、まず泥海に住んでいた「ぎ魚」と「白ぐつな」を夫婦の雛形として口に入れ、さらに鯱(しやち)、亀、うなぎ、かれい、などを道具として食し、そのうえに「どじょう」を食べて「たね」として人間を産んだ(趣意)とあります。
そして「月日の神」が子供を宿した場所が、中山家の敷地内にあった「ぢば」であるとしているのです。
天理教では「ぢば」を、すべての人間の生まれ故郷と教え、天理市の本部へ参拝することを「おぢばがえり」といって信者の重要な修行としています。
 
 ○ 天理教では、人間の身体は、親神からの「かりもの」であり、心だけが人間独自のものであるとします。
人間は日頃、無意識のうちに心に
「をしい(惜)」「ほしい(欲)」「にくい(憎)」「かわい(可愛い)」「うらみ(怨)」「はらだち(怒)」「よく(貪)」「こうまん(慢)」の八つの「ほこり(埃)」
を積んでいるとし、このほこりが積み重なると、親神は、人間の心得違いを改めさせようとして、病気、不幸、災難を人間に起こすと教えています。
よって人間は、親神(おやがみ)の教えを「ほうき」として使い、常に心を掃除するようにと天理教では説き、教えの理が理解できるようになると徐々に陽気づとめへと進むことができると教えているのです。

 以上のことから、天理教では信者の主な修行法としては、欲を離れるために、まず第一にその欲を起こす原因となる「金銭」「財産」「家屋敷」などは親神にお供え(おつくし)し、仕事を離れて教会に出向き(はこび)、他人のために奉仕する(ひのきしん)ことを実践徳目としているのです。



【天理教が「間違っている」と考えるおもな理由】

 @ 天理教で教える万物創造の親神(おやがみ)は、天保9(1838)年、突如として出現して「中山みき」(教祖・おやさま)に取り憑(つ)きました。
しかし、それでは親神さまは、それまで一体、どこで何をしていたのでしょうか? 
親神の教えによって人間は始めて救われるというなら、1838年以前の人類は、いったい、誰が救ってきたというのでしょうか?。

 残念ながら万物創造の親神(おやがみ)(天理王命)は、現代に至るまで「中山みき」の空想世界にしか出現していません。
 怪(あや)しげな修験者の祈祷(きとう)がきっかけとなり、「中山みき」の心の中に生まれた妄想の産物〜それが親神(おやがみ)さまです。
同じような神の出現(妄想)は、現代精神的医学の治療において、日常茶飯事に、多くの症例を見ることができることからも明白です。

(※同様の主張をする他教団の「神」とは同一なのか?違うのか?同一とするならばその主張する内容は全く異なっている。どこを信じたらいいのか。
違うのなら、なぜ天理教の神だけが正しい、と言えるのか?その根拠は?)

 A 天理教は、「元の理」と称して、親神が「どろ海中のどぢょうを皆食べて、その心根を味わい、これを人間のたねとされた」(天理教教典二十七ページ)と述べています。
 しかし、「どじょう」が人間の「たね」などとは、あまりにも非科学的、低級な思考と言えるのではないでしょうか。
もしかすると、「中山みき」は、よほど「どじょう」料理が好きで、その大好物が忘れられず、シャーマン(狐憑(きつねつ)きのようなもの)となってからも心に染みついていたのかもしれません。
 いずれにせよ、そうした妄想(もうそう)を基とする信仰では、現実社会のなかで生死にかかわる重大な苦悩にあえぐ衆生を、心底から救済することは不可能と断言します。

 B 天理教では、人間の肉体は親神(おやがみ)から借りたもので、心だけが人間個人の所有であるとします。
そして親神(おやがみ)の心を知れば、どのような境遇(きょうぐう)でも、その心の持ち方ひとつで「陽気ぐらし」ができると教えます。
しかし、自分では「何とか元気に暮らしていきたい」と願っていても、真の幸福を得られず、人生の意義、生きがいを見つけることができない。
そんな厳しい時代だからこそ、我々は苦労するのです。
「心根ひとつで、陽気(ようき)に暮らせる」などという「のんき」なことを言っている場合でないのが、末法時代(人々の心が暗闇に支配される)なのです。

 C 天理教では、人間本来の心に、八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害を起こす原因であると教えます。
しかし八つの埃(ほこり)それぞれを観察すると、そのすべては、誰でもが生まれながらに持っているものです。
人間として生きていく以上、それらのすべてを取り除くことは到底不可能といえます。

 また、「欲」ということ一つ見ても、「悪い欲望」はともかく、「病気を治したい」「元気に働きたい」「家族をもっと幸せにしたい」と願うこともまた「欲望」の一つなのです。
そんな前向きで素直な「欲」まで奪ってしまって、何が人間らしい人生と言えましょうか?

 このような人間の本質を見抜くことができず、「八つの埃を払う」修行を必要不可欠であると説く天理教では、一切衆生を真の幸福へと導くことは不可能と知るべきなのです。

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天理教(折伏教典より)

「宗教なら何でもよい」、
「それなら君は天理教をやるか」、
「天理教は困る」、

こんな問答を時々、聞かされる。

天理教が、世間一般から、このように邪宗教の代名詞として見られる理由は、「屋敷を払うて田売り給え云々」の金言通り、純真に信じたら最後、トコトンまでしぼり上げられる現実を見ているからである。(中略)

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天理王命.

この世界を作り、生きとし生けるもに生命を与えられる元の神、その神たる親神を「天理王命」としてたたえて祈念し奉る」とあるから、キリスト教に信服する程度の人間なら本気にするのも無理はない。

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かりもの人間.

「にんげんといい、みのうちというは、かみのかりものかりもの、こころ一つがわがの理」‥中山みきの言葉そのままである。
人間の身体は神様の借りもので、心だけは自分のものだという。

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目的と修行.

「親神は人々の陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくにより、人間を創られた」‥よほどどうかしていなければ納得できない理屈をのべて、陽気ぐらしは人類窮極の目的であると断じている。

そこで信者は何をしているか、どうすればよいのか。
まず、以上の理を聞かされて納得し、悟って毎日の収入の一割から二割は協会に納入する。

納めに行ったついでに、神様を喜ばせるために陽気づとめ(変てこな踊り)をしてご覧に入れる。

おたすけを頂いた喜びを外に出して人助けをする。
これを「たすけ普請(ふしん)の用材となる」といって、用僕として病人探しに出かける。
これを「おにおいかけ」と称する。

社会奉仕はおてのもので、共同募金、努力奉仕、なんでも引き受ける。
これを「ひのきしん」と称す。

こうして大体の訓練が出来ると大和学校へ入学、まんせきだかたんせきだかの階級を頂いてますます深みに押し込められる。
どんなに素直に踊ってあげて奉仕しても生活などよくなる訳がない。
反対に悪いことばかりが続出する。


この時に出す手が「因縁」であり、この因縁を解消するために有り金全部を奉納する。

金がなければ家財全部、即、屋敷を払って田を売るのである。
こうなるとますます苦しくなる。
普通の馬鹿はおこってしまう。
このときに待ち伏せしているのが「たんのうの理」である。
どんな苦しみもなげきも、親神の心一つであれば我慢しろ、そうして陽気であれというのである。

どう考えてみても、何の取り柄のないこの馬鹿らしい教えが、こんなに多くの信者を持つか、その理由は他の邪宗教と共通である。

1.民衆の宗教に対する無知による。

2.溺れる者は藁をも掴むの心理。

3.「おさづけ」と称して、指導者の類が病人の前で手を振る祈念によって病気が癒えることがある。

4.「おさとし」と称して、毎日の起居動作に対して、こと細かに理由づけをしてくれる。

5.何より恐ろしいのは「天しゃく=お道に背けば罰がある」といわれることである。


以上が、折伏教典に登場する天理教の姿です。
今、ネットで天理教を調べても、何が何だかよくわからない。
仏教ではないようです。ウィキペディアには次のように書かれています。
「江戸時代末期に成立した宗教で、中山みきを教祖(おやさま)とする。
この天理教では、この教祖の魂は今でもこの世に生きており、人々の暮らしを見守っているとする。人は死んでもまた生まれ変わるとしている。しかし、教祖だけは地上(天理教教会本部)にあり、「在命の理」と呼ぶ」
何でしょうか、この宗教は?という感じです。

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大白法・平成5年7月16日、8月16日刊(第390・392号)新興宗教破折より転載
天 理 教

 概 略

 天理教の教祖は中山みきといいます。
 一八三八年(天保九年)十月二十六日、中山みきが神がかったこの日を「立教の日」と定め、天理教では毎年その日に大祭を行なっています。
 大和国山辺郡三昧田さんまいでん村に生まれたみきは、隣の庄屋敷村の中山家へ十三才の時に嫁ぎ、そこが今の天理教本部(天理市三島町)の中心であります。
 小さいときから、みきは信仰心が厚く、近くの念仏寺の参詣を条件に嫁入りしたといわれます。
 嫁ぎ先の中山家は裕福な家だったのですが、夫善兵衛が非常に身持ちが悪く、夫婦仲が悪くなっていくにしたがって家運も落ちていきました。
 百姓のほかに綿商もしていた中山家は、人の出入りが多く、若くして嫁入りしてきたみきにとっては、思いの外気苦労が多かったようです。
そんな中で、十七年間に一男五女の子をもうけて、そのうち二人を亡くしています。

 みき四十一才の時、一人息子の長男が足を病み、夫が眼を病み、自分は出産の肥立ちが悪いので、これを祈祷によって治そうと修験者・市兵衛を呼びました。
 修験者の祈祷には、加持台という神が降りる中継人が必要だったのですが、それを努めるべき巫女みこが不在で、みきがその代理を行なったことによって神がかり、天理教発生のきっかけになったのです。
 詳しくは後述いたします。

 さて、天理教は、天理王命てんりおうのみことを崇拝対象とし、これを親神おやがみといい、創始者中山みきを、教祖〈おやさま〉と呼んでいます。そして、教祖以後の代表者を真柱しんばしらと言います。
 教典としては、みきの著作になる「御お筆先ふでさき」「御み神か楽ぐら歌うた」があり、また、教えを後人がまとめたところの「御指図おさしず」を加えて、天理教の三原典としています。


 開 教 起 因

 新興宗教の成立過程はどれもよく似ています。
教祖の個人的事情によって引き起こされた異常心理による神がかり現象、これが最も共通する点です。

 その昔、釈尊が城外に住む国民の老病死を視みて、それを救わんと志しての出家、あるいは、天下の乱れ、万民の苦しみは何故起こっているのだろうかと疑問解決のため出家された大聖人様とは、もともとその出発点が違う事を、まず第一に知っておかねばなりません。

 天理教は、その典型的な一つであります。
 では、開教起因と過程をみてみましょう。

 祈祷の加持台となった中山みきは、三日三晩神がかり状態が続き、その後夫に対し

「われは天の将軍、大神宮である。この屋敷親子もろとも貰いうけたい。聞き入れるならば、三千世界を助ける。もし不承知ならば、この家もろとも、もともこもないようにしてしまう、それでもいいか(取意)

と言ったのです。
夫は、種々押し問答をしたが、みきの強引さにとうとう「差し上げ申す」と返事をさせられてしまったという内容が、教団の教祖伝に載っています。

 これは、神の声と称して中山みきが、夫や、いきづまった家庭に対し行ったクーデター以外の何物でもありません。

 跡取り息子の難病、家業を省みないグウタラ亭主との不和、子供の死、不安定な社会情勢からくる家業不振の悪条件が、内気なみきに究極の選択を迫ったものです。
そしてみきは、神々の総元締、伊勢大神宮の力を借りました。
また、地上の支配者徳川将軍に対して、それよりも威力ある天の将軍を引き合いに出し、何物にも負けない、この世で一番強いみきに生まれ変わったのであります。

 みきは、神がかりという儀式を経て、日常の不満と日々の苦悩から一挙に解放されたことになります。
しかしこれは、自己回復という単なるみき個人の自己満足であって、当初から世直しのメシア(救世主)などではなかったことを物語っています。

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 教 団 名 へ の 批 判

 天理教は、もともと転輪教だったことをご存知でしょうか?

 そもそも天輪とは、転輪聖王のことであって、武力を用いず正法によって全世界を統治する理想の王と仏教一般に言われ、化城喩品にも出てまいります。

 また、念仏信仰では、阿弥陀仏が理想の王たる転輪王である等とも説いています。

 教祖みきが、念仏信仰に深く関わってきた経緯をみれば、転輪王との結びつきは十分考えられることです。
ましてや、天理と言う名称の発想等は、もともとみきの頭にあろうはずもありません。

教祖のお筆先はもちろん仮名書きではありますが、しかし、その「てんりん」を、教団自身「転輪」「天輪」「天倫」等と漢字を充てて出版した書物が今に残っていることからも、初めは転輪だったことがよく判ります。

 では、いつ、どうして「転輪」が「天理」に変わったのか、その辺を述べてみましょう。

 明治七年から十九年までの間に、みきは官憲に十八回も拘留されています。
そのたびに、とりまきの幹部は危険と不安に怯おびえていました。
体制批判を続けてきたみきが明治二十年に死亡し、お陰で当局と話し合いが出来るようになった教団幹部は大いに喜びました。
そして、教団の独立認可が欲しかった彼等は、ついに、明治政府の意向に従って、神道色の濃い教団に変身させます。

 明治五年、政府は各宗派宛に三条教憲なるものを発布していました。
 その三条教憲とは

「第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
第二条、天理人道ヲ明ニスベキ事
第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

の内容です。

この中で、第二条の「天理」が「転輪」と語呂が合い、しかも当局の意に添うものであるため、これなら独立認可をもらえるだろうと思った教団が明治二十一年から使い始めた名称、これが「天理」だったというわけです。

 教祖・中山みきの神がかった元の神、即ち親神が「転輪王」ならば、その意に背く今の天理教は虚偽の教団と破折されるでしょうし、
一方、今の天理教が正しいというのであれば、この教団は、教祖中山みきとは何ら関係のない宗団、というべきでしょう。

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 教 義 批 判

 はじめに、天理教の神の観念について述べてみましょう。

 天理教の親神「天理王命」とは、キリスト教における神とよく似ており、この世の万物万人を意のままに創造した創造主という概念になっています。

 初めは「神」と呼んでいましたが、途中から「月日」と変わり、後には「おや」と呼ぶようになっています。
こうした変化も不自然ですが、特に一般世間の神と区別するために、「元の神」「真実の神」「元こしらえた神」等と、親神を強調しているのも天理教ならではと思います。

 ともかく、神と人とを隔絶する神人隔別のとらえ方であることは確かです。

そして面白いのは、作られるその人間も、もとはドジョウであった等と、神話「泥海古記」の中に説明していることです。
その神話では、十全の神(手抜かりのない完全な神)として次のような名前が挙げられます。

 クニトコタチノミコト、ヲモタリノミコト、クニサヅチノミコト等ですが、よく見ると「古事記」「日本書紀」に出てくる神名そのままとも思えます。
ところが、その中で、クモヨミノミコト と タイショク天ノミコトは記紀に出てこないから記紀の真似ではない、と天理教では反論しています。
いずれにしても、これら十柱の神を統理し総称する神のことを天理王命だと説きます。

 天理教の神とは、日本人特有の氏神信仰と怨霊信仰に加えて、八百万の神等が底辺にあり、そこへ念仏信仰の仏教が加わり、終には伊勢信仰までもが加えられて仕上がったものとみるべきでしょう。

因縁話と陽気暮らしの理が、よくそれを物語っています。

 仏の垂迹、あるいは仏道修行者を護るところの諸天善神の神観念を説く仏教とでは、凡そその意は異なります。
また、神は親として人を産むが、子供として生まれた人間は、決して親たる神にはなれない、と言っています。
その点、仏法では、「悉有仏性・悉皆成仏」と説き、凡夫も仏も本来は同質のもの、との理もあります。
正法の信心と修行によって境智冥合するとき、九仏は一体、凡聖は一如なりとの理がそれであります。

 次に、天理教の教えに基づく人生観を述べてみましょう。

 教祖・中山みきの教えは陽気暮らしが大前提になっています。
歌を作り、歌に合わせて皆を踊らせることも、この陽気暮らしの表現化であり、楽天主義を異常なまでに誇張させたともいえます。

 人がこの世にある姿として、仏が初めて見て教えたものは「苦」でありました。
その苦を解決してこそ人としての本当の幸せがあるとする仏教からは、天理教の陽気暮らしは強く批判されます。
つまり、人生の根本問題も解決せず、皮相的な人生観のもとに生活を謳歌しようとする思想であるからです。

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 天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり

人の幸せは物・金ではない、心の安住が一番大事な事だ
人の心は自分が物・金をもっていたのでは理解できない、他人に与え、貧乏になりきってこそ本物の人間になれる

と教えています。

 世間の人は、これを
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」
等とやゆったこともあります。

 遊蕩三昧の亭主へのあてつけと、心身共に疲れた家業からの解放が教祖・みきのクーデターの第一目的と判れば、この発想もうなずけます。

 しかし、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、国の安寧は計られるでしょうか。

また、個々の将来は安泰でしょうか。
それらを考える時、厳正な宗教教義でないことが十分判ります。

 天理教には一貫した三世の思想はありません。
現世だけが中心です。
過去は、仏法の業を採り入れた因縁話に終始し、未来は現世に出直すための仮の世とします。
ですから、人の死を「出直し」と呼んでいます。

教祖・みきがかかわった浄土思想、即ち未来での楽しみでは遅すぎるという抵抗心が、このような徹底した現世主義を作り上げたのではないでしょうか。

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 「心と肉体は別の物」と説くのも天理教の特徴です。
肉体は親神から借りたもので、心だけが自分独自のものとしています。
(※ 心は何から発生したのか? この宇宙 万物の中に存在するものではないか? ならばそも「心」も神が作ったものではないか?
なぜ、心だけ分離して、個人個人のものとしたのか?
神は「陽気暮らし」を見たいと思って人間を造ったのだから、はじめから、変な心の働きなど作らず、誕生直後から「陽気暮らし」できるように作り上げておけば良かったではないか?

自分の心は、本来は清く正しいはずなのだが、いつの間にか埃ほこりがつき、汚く、けがわらしくなってしまった。
※ 天地万物の神なのに、なぜ汚れである、八つの埃 を作ったのか?これがなければ最初から「陽気暮らし」ができたではないか?

とし、その汚れた心は八つあるといいます。
おしい(惜)・ほしい(欲)・にくい(憎)・かわい(可愛い)・うらみ(怨)・はらだち(怒)・よく(貧)・こうまん(慢)の八つです。
この八つの埃は、天理王命に祈ることによって、ほうきで塵を払うが如く払ってもらえると教えています。
※ 自分で作っておいて、その制御ができずに、人間の心を汚し、陽気暮らしができないようになってしまった、八つの埃を、それをコントロールできなかった、神に頼んでも、浄化できる力などない、ということではないか

 大聖人様は、人は本来仏性をもった本有の尊形であり、色心も不二にして一体なもの、またその心も一念三千十界互具といわれ、煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳と転ずることができる、と説かれています。

経文の「不断煩悩・不離五欲」等を加えて考える時、天理教の教えの低さがよく判ります。

 八つの埃とは人の五欲を指しているようですが、これらを払っただけで五欲等は取れるはずもありません。
ところが、天理教では、この埃が全ての不幸を招くともいいます。
中でも病気の根元はすべてこの埃だと断定するところから、病人を一番の布教対象にしています。
今日ある天理病院はこのような教えに深く関係しているのです。

 また、天理教では「そもそも病気とは、親神が人々の悪しき心を反省させるために人間に与えた試練だ」といい、これを「身上(みじょう)」と呼んでいます。
更には、家庭の不和や事業の失敗等も、その人の反省を促すところの神意であるとし、これを「事情(じじょう)」と呼んで、すべて自分の「心得違い」からくる不幸だと教えます。

 しかし、心と直接、関係のない病気もあれば、また、戦争やまきぞえ事故、あるいは天災等による不幸も世の中には沢山あります。
これをすべて個人の「悪しき心のため」と片づけられてよいものでしょうか。
(※ 生まれた直後の赤ん坊が車に轢き殺された場合、この赤ん坊に 八つの埃があるというのか?

しかも、その中で陽気暮らしをせよとは、これまた矛盾といわざるを得ません。

 最後に、御書を挙げて破折の文証といたします。
「御病を勘(かんが)ふるに六病を出でず。
其の中の五病は且(しばら)く之を置く。
第六の業病最も治し難し。
将又業病に軽有り重有り、多少定まらず。
就中(なかんずく)法華誹謗の業病最第一なり」(太田入道殿御返事 御書912頁)

「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥(いよいよ)病は倍増すべし」(種々御振舞御書 御書1067頁)

「能説に付いては釈迦なり。衆生の業病を消除する方では薬王薬師如来なり」(御義口伝 御書1812頁)

「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(太田左衛門尉御返事 御書1222頁)


天理教の概要
教 祖…………中山みき
現真柱…………中山善衛
立 教…………1838年(天保9年)
崇拝対象………天理王命
教 典…………「御筆先」「御神楽歌」「御指図」の三原典
信者数…………1.855.282人
教会・布教所数…38.431
    参考:宗教年鑑(平成4年版)
 
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新興宗教にだまされないために
1/2/2017

新興宗教総括破折

新興宗教の発生の背景が、「食・病・争」の不安要素が社会全体に及んだ時に起こることは、既に述べましたが、新興宗教に騙(だま)されて入信動機を起こすこともこれに比例します。
(また最近では、これらに加えて「精神世界への幼稚な好奇心」が動機になるケースもみられます。)

経済的に苦しんでいる人はお金が欲しい、
病気に苦しむ人は早く病苦から逃れたい、
対人関係や社会闘争に悩み、
極度のストレスを感じている人はそれを解決したい・・。

残念ながら、現代社会でそれらの苦しみや悩みを根本から解決する方法を知らない人は、新興宗教の発する狂言におおどらされ、うっかり飛びついてしまう傾向にあります。

既成宗教では、これらの問題を即効的に解決し、表面的に満足させるといった手法をあまりとりません。

そこに「病気が治る!」だの、「金持ちになれる!」だのという宣伝文句を無責任に垂れ流す新興宗教が現れて、信者を増やしていく状況があります。


現世利益や奇跡話を吹聴する新興宗教

新興宗教は概(がい)して、「病気治し」を大々的に宣伝して大きくなってきました。

天理教、金光教、霊友会、生長の家などはその典型であるといえます。

何かの新興宗教に入って、教祖の祈祷(きとう)や、ヘンンテコな修行の結果、たまたま病気が治ったりすると、それに後から尾ひれが付いて大変な奇跡体験や御利益話になったりします。

こうした奇跡信仰的な御利益こそが、新興宗教の教義そのもの、骨格であるともいえます。

また、カリスマ教祖の霊能力。
超能力やらを喧伝(けんでん)して、人々の興味を惹(ひ)こうとする者たちもいます。

例えば、かのオウム真理教(現アーレフ)の麻原彰晃が水中に何十分も潜っていられたとか、座ったまま何十センチも飛び上がったなどという奇想天外な話がこれに該当します。

いずれにしても、病気治しを大々的に宣伝したり、おかしな祈祷や怪しい修行による、精神的・奇跡的な話を掲げたり、カリスマ教祖の霊能力やらを宣伝広告にして興味を惹こうとするなど、現世利益や奇跡話を吹聴して、さまざまな手法で迫ってくるのが新興宗教です。

■ 巨利をむさぼる詐欺宗教

宗教法人を取得すると免税特権があります。
多くの新興宗教法人は金儲けシステムとして存在すると言っても過言ではありません。
布施や寄付だけでなく、教団が出版社を持ち、教祖の著書を信者に売りつけて金儲けしたり、中には「本を読んだだけで病気が治る」というような馬鹿げたことを宣伝している宗団も多くあります。

また、統一教会のような霊感商法もありますし、一時、世間を騒がせた法の華三法行(ほうのはなさんぽうぎょう)の足裏診断で「ガンになるぞ!」等と脅して大金を巻き上げたり、高額な品物を買わせたりなどの悪質な例も数多く存在します。

また、「たくさんのお金を出せば、それだけ大きな御利益がある」
「あの人は百万円も寄付した。あなたも頑張りなさい」などと信者を煽って大金を出させる教団も少なくありません。
結局、「幸せになりたい」と願う心に付け込んで、巨利をむさぼる宗教の名を悪用しているのが新興宗教なのです。

■ なぜ新興宗教にだまされてしまうのか

一見、世間の常識を弁(わきま)えていれば、冷静に判断できそうな話と思えます。
しかし、実際、医学博士や化学者などといった、高度な教育を受けてきた人たちが、いい加減な教祖の妄言に騙(だま)され、マインドコントロールされ、挙句は、反社会的な行為を犯したり、殺人などの重犯罪に安易に手を染めるというような、新興宗教関係者による奇怪な事件が後を絶ちません。

これらの新興宗教の落とし穴に落ちてしまう人が後を絶たないのはなぜでしょうか。
そこには、現代の日本人の悪しき宗教観の背景になった明治以降の宗教政策や、敗戦後の基本的教育の欠如として「日本国民の宗教ばなれ」が強く影響しています。

■ 日本国民の宗教離れ

日本国民の宗教離れ

要するに、現代の日本国民は、宗教に対する定まった物差しを持っていないということです。

■ 新興宗教に騙されないために

宗教の正邪を判断する方法として、「文証・理証・現証」の三証があります。
つまり、
教えの基をなす経典を根拠としているか(文証)、
またその教えそのものが道理に適っているか(理証)、
そしてその宗教を信仰して実証が現れるか(現証)ということです。

この三証に照らして判断し、如何に新興宗教が狂言や洗脳に満ちた邪宗教かを知る事が大切です。

また、総本山第二十六世日寛上人は、『法華題目抄文段』に「疑い無きを信と曰(い)う」の義について、天台大師の『摩訶止観』に説かれる「三つの疑い」と、それを解釈した妙楽大師の『弘決』の文を併用して、次のように示されています。

「止観の第四五十六に三種の疑を明かす云云。
弘(ぐ)の四の末四十四に云(い)わく
『疑いに過(とが)有りと雖(いえど)も然(しか)も須(すべから)く思択(しちゃく)すべし、
自身に於いては決して疑うべからず。
師法の二は疑いて須く暁(あきら)むべし。
故に応(まさ)に塾(よ)く疑い善く思い之(これ)を択(えら)ぶべし。
疑を解(げ)の津(しん)とすとは此れの謂(い)なり。
師法己(すで)に正ならば、法に依って修行せよ。
爾(そ)の時、三疑は永(なが)く須く棄(す)つべし』」
(日寛上人 御書文段 六五五)

つまり、

「仏教では、疑うことは決してよいことではないけれども、しかし疑うことを通してよく考えて選択しなさい。
ただ善悪・迷悟の両面を具えていても妙法に縁して成仏の主体となるべき自分自身に対しては、疑ってはいけません。
しかし、信ずべき師匠と法、この二つについては一度、疑ってみた上で、冷静に判断すべきです。
もし一度も疑わないで頭から信じ込んでしまうと、その時に誤った師や法に騙される危険があります。
だからこそ、一度疑って、よく考えた上で、択(えら)びなさい。
疑ういうことが物事を正しく理解する出発点になるということです。
そのようにして、師と法がすでに間違いないことがはっきりしたならば、その法によってしっかりと修行に励みなさい。
そしてその決断ができた時には、(先の)三つの疑いを永く棄てなさい」

と御指南されています。

もし、周りに新興宗教の狂言や洗脳に誑(たぶら)かされている人がいるのであれば、具体的に
● 「あなたの宗教の教祖が本当に救ってくれるかどうか一度、冷静に考えてごらん」
とか、
● 「あなたの教団では、奇跡話や御利益話ばかりを言うけれど、それが現実離れしていると思わない?」
と、
「疑う」ことから物事を正しく理解する方法を教えてあげることが大切です。

少し勇気がいるかもしれませんが、疑いを持たせてあげることこそが、新興宗教の呪縛(じゅばく)から早く救うきっかけになると思います。

(妙教 平成二十四年 3月号)

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omu********さん2012/2/1517:33:16
天理教被害について
私も同じような経験があるのですが、以下のような書き込みが被害者の会に載っていました。
みなさんどう思われますか?
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事の発端は、私の嫁の実家の兄夫婦が実家に帰ってくるというところから始まったのですが、元々嫁の実家の母が天理教の信者で、嫁を含めて兄妹3人共天理教に入信(嫁は結婚を機にわたしと同じキリスト教に改宗)しており、信仰としては嫁の母もそれほどまでに深くにまで進攻している感じではなく、嫁にしてもさほどではなかったのですが、義妹は精神的に弱いところもありそれなりに信心していたようです。

去年の春ごろまで、嫁の実家の方は実家の両親と義妹の3人暮らしをしており、それなりに落ち着いた生活をしていたのですが、実家に兄家族が戻ってくるというところから、嫁の実家の父と、兄の関係が徐々にぎくしゃくして行き、それに巻き込まれるような形で義妹も実家での居場所がなくなって来た様子で、精神に不調をきたす様になり、抗精神薬を処方され何とか生活をしていたようなのですが、去年の秋辺りから実家を離れて生活をすることとなり少しは落ち着くかと思っていたのですが、一人暮らしも長く続かず天理教の教会に身を寄せることとなり、嫁の実家の母も信者ですからこれで一安心といったところだったのでしょう。

ところが、教会に身を寄せることとなったとたん、教会長が抗精神薬を飲まなくても神様がお助けになるのだから飲むのをやめなさいと話し、義妹はその通り薬の服用をまったく止めてしまったのです。

その後、詳しい経緯は分かりませんが、義妹の通帳、印鑑、キャッシュカード等を教会長があずかるということになってしまい、自分で動かせる現金がごくわずかとなってしまい、教会で生活をする以外に方法がなくなり、昨年12月28日に100万円、教会長にお布施(と表現すればよいのでしょうか?)として通帳から引き出され、それで病気も治ると言われたそうですが、すでに病状は悪化しており、年が明けて嫁の実家にも義妹の状態が悪化しているので、天理のよろず相談病院の名医を紹介するので200万を出しなさいと言ってきたそうです。
・・・
http://9317.teacup.com/higaisha/bbs/2343


補足
(省略)
義妹の口座よりさらに40万円引き出されているのです。
(省略)
教会より嫁の実家に教会では面倒を見るのが困難なほどに義妹が精神に異常をきたしているとの事で、
(省略)
教会長と心療内科へ受診するも、教会長は用事があるとの事で、義母、義妹を置いたまま帰る始末・・・・
(省略)
義妹はすでに感情表現すらろくにできず、体力も相当落ちている状態で、歩くのもままならないといった状態で、
(省略)

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ベストアンサーに選ばれた回答

noz********さん 2012/2/1615:03:35

最悪なケースですね。
天理教の教会長が大きな勘違いをしているのです。
適当に教理を勉強し、跡継ぎみたいな形で教会長をしているから
アホな教会長が増えている
んですよ。
すぐその教会と縁を切らなくてはいけません。

本当に教理を理解しているなら信者でもわかるはずです。
神様は「心」を見ているのであってお供え物を見ているわけではありません。
教会に助けを求めたら教会長がその信者のために「何か」をするのです。
助けていただきたいと思う心が本当ならばすぐに受け取りすぐに返すと
言われているんですよ。
助けたい気持ちが無いから病もひどくなるんです。

それはあなた方にも言えることです。
宗教の違いは関係ありません。
家族に助かってもらいたい気持ちがあったとしても
うわべだけなら神様は受け取りません。
「真実の心」で思うなら必ずそれは個々に行動に現れるはずです。
神様はそれを望んでいるのです。

助かった時、初めて感謝の気持ちで大金でもお供えできるでしょう。
それを受け取るのが教会です。

早く教会から縁を切った方がいいです。
教会にだまされてはいけません。
詐欺で訴えてもいいくらい
ですよ。

10年以上も前に私の教会の信者さんが心臓の病気で倒れ
いつ死んでもおかしくない状態になったとき、
教会長が心定めをして、毎日夜中の12時から十二下りのおてふりをさせていただく様になりました。
一日も欠かさず今でも続けています。
心臓病の信者さんは教会長がおてふりを始めた頃から徐々に体力も回復し
バイパス手術も受けれるようになり、今でも元気にしておられます。

人も助けられないで、教会長なんかやってんじゃないよ!と、代わりに言っといてください。

ナイス 9
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質問した人からのコメント2012/2/19 23:22:19
nozonotamagoさんご回答ありがとうございます。昨日も、今日も分教会長が私を尋ねてくれました。(その会長は天理教の話題は、私の前では一切しません)
ひどいのは、大教会長だけのようです。
nozonotamagoさんの会長さんも、良い人のようですね。
私が修養科に行っていたときの、担任の先生も「天理教は腐りきっている」と、私の前でだけ言っていました。


yap********さん 2012/2/1600:07:59
ちょっと驚きました。
私は別の方への回答で「天理教組織全体がカルトではない」と申し上げました。
それは私が信仰篤い天理教信者の家庭で育ち、私自身天理高校用木コースの出身であることから、天理教の「良い面」を見てきたからです。

また、別の方への回答の中で、「おふでさき、天理教教祖伝、天理教教祖伝逸話篇どれを見てもお供えしろなんて一言も書いていない」と申し上げました。
お供えは中山みきの教えではありません。
いつから天理教お供えお供えと言うようになったのでしょうね。
1つ誤解していただくと困るのですが、私はかなり前に天理教をやめています。
したがって、これを信者からの回答とは思わないでいただきたいのです。

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ble********さん 2012/2/1523:29:53
これは天理教の「悪い例」ですね。
すべての教会がそういうわけではないのですがやはりこういうことをする教会はあります。
ウチの上級教会がそうですが信者からのお布施のみで生活しておりそういう所はお金の確保に全力を注ぐ傾向があります。
また、大きいところでも極端に大きいとやはりお金関係でもめますね。
そういうところにとって精神疾患はいいカモです。
「神様の与えた試練。乗り越えられない試練は与えない」とでも言ってるんですね。
純粋に教えを説き尚且つ、常識的な範囲で動ける教会も存在しますが上記の教会はかなり常識が無いですね。

ちなみに私の知り合いは重い心臓病の手術の際、神頼みにおまいりしたら「成功したかったら100万円払いなさい」と協会長に言われたそうです。
天理教の中ではそこそこ大きなある教会での出来事です。


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ID非公開さん2012/10/1312:38:28

天理教、修養科では男女でいかがわしい行為が営まれている

という噂は本当ですか?
真剣な質問ですので回答宜しくお願いします

補足
もう、何を信じればいいのかわかりません


もう少し他の方の意見も聞きたいです

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omu********さん 編集あり2012/10/1720:31:08
約十年前に修養科に行きました。
当時でも、修養科は会長の子らの合コンのような感じでした。
私は妻と一緒に参加しましたが、同じ詰所の女の子に誘惑されました。(20歳下)
なお、その女の子は数か月後に、その月詰所の修養科担当の先生(教養掛?名称を忘れました)と結婚し(修養科中に妊娠)、その後離婚しています。

追記:
tsuki7to7taiyoさんが、まだあなたの追加質問に答えられていないので、追記します。
私と同期の同じ詰所の人が、修養科中精神が病んでしまいました。
私はその人に「あなたは今、躁うつ病に罹患しています。心臓が悪い人は薬を飲まなければ、死んでしまうでしょう?同じことです。是非ともすぐに精神科に行って下さい」と頼み、幸い素直に精神科に受診に行ってくれました。お医者さんから私と同じことを言われたと、非常に感謝されました。
また、修養科の同じクラスの人は、同じ詰所の人が自殺未遂をしたことを非常に怒っていました。
私と同室で、同期の人は、前回修養科に来たときに、ある朝起きたら同室の人が死んでいたと言っていました。

修養科での男女関係について、同じ詰所の中で数組カップルができていました。
詰所は普段空いているので、空き部屋で自由に男女の交わりが出来たようです。
また同じ詰所で、天理教ではない新妻が、教会長と結婚したので、修養科に来、さっそく不倫をしているとの噂がありました。というか、本人が言っていたように思います。

下半身麻痺の方の話は、単におむつを替えていただけではないでしょうか?

tsuki7to7taiyoさんが言われたことは、天理教の修養科という特別な世界で、人間の最も醜い面を見れば、実社会で醜悪なことを見聞しても、慣れて何とも思わない人間になれるということでしょう。

再追記
私も修養科3か月目で、鬱病に罹患し、10年間天理教経営の「憩いの家病院」に通院しています。(天理教の信者は、憩いの家の医師に絶対になりません。理由:知能が低いから)、むしろ憩いの家病院は、天理教被害者の患者が過半数を占めているのでは?
修養科生を終え「よふぼく」に与えられる「おかきさげ」をゴミ箱に捨てた途端、急激に症状が改善しましたが、天理教本部、xx大教会への恨みは、一生忘れません。
現在でも、「天理教被害者の会」 http://9317.teacup.com/higaisha/bbs や、Yahoo!知恵袋に、新たな被害者が出ないように投稿しています。

ナイス 7
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質問した人からのコメント2012/10/20 03:50:33
追記ありがとうございました。そして他の方々も回答ありがとうございました。


太陽と月さん、リクエストの回答宜しくお願いします…(>_<)


tsu********さん 2012/10/1601:21:58
私が訊いた話では…

神様に呼ばれてるから修養科に入る
男女間のそういう感情を持つとしたら
それは因縁で見せられてる。

元々そういうモノを持ってるから
おぢばにいる時に出て来てしまう

修養科中に結ばれた2人は
いつかは別れる

そういう話を観るのも聞くのも因縁

そういう事が
いつかは自分の身にふりかかる

…そう訊かされました

確かに納得です

修養科中は半身不随の方の世話や
男女間のそういう事を見せられました

精神を患い自殺未遂した方など…

あれから15年以上経ちますが
現実で同じような事に遭遇

しかし先に見せられてるから
慌てずに対処出来ています

自分の目や耳で感じた事を
先ずは信じましょう

それが一番大事だと思います

ナイス 1
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yoj********さん 2012/10/1315:46:58
自分は天理教の信者詰所に勤めています。
そんな噂は初めて聞きました。
全くもってデマです。
修養科は天理教教典、天理教教祖伝を元に教理の勉強をする天理教の学校というものです。
また、おてふりを学び、ひのきしんに勇むところでもあります。
不安がありましたら、お近くの教会の会長さんに聞いてみるのが良いと思います。
誤解を無くして頂けたら幸いです(^^)

ナイス 3

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ID非公開さん2017/5/2901:41:12
友達が天理教の修養科に3ヶ月行き、そこで彼氏ができて処女を奪われ、後半の1ヶ月半くらいは研修所でえっちばっかりしてたそうです。
研修が終わると同時に彼は別人みたいに冷たくなり二度と会ってくれなくなって友達は身体目当ての男に騙されたとショックを受けています。

質問なのですが、
天理教というのは研修所で自由にえっちができるようなフリーセックスの危ない宗教なのですか?
違ったとして、こういうことは研修所ではよくあることなんでしょうか?
3ヶ月の研修の中ではこんな純粋な恋愛感情を利用してえっちするようなゲスな行為はダメっていうことすら教えないんでしょうか?

騙された友達にも非はあるとは思いますが、研修所で毎日のようにえっちできるような宗教施設って問題だと思います。

簡単に騙されるような子でも軽い子でもなかったのに処女まで奪われて、3ヶ月の研修で普段のまともな判断力を失ってたんだと思う、自分が悪いとひどく落ち込んでいます。
正直自殺しても不思議じゃない状態で怖いです。

やり切れなくてここに質問させてもらいました。
天理教に詳しい方、同じような経験をされた方、回答お願いします。

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han********さん 2017/5/2908:23:45
詰所ですか?男女別の部屋ですしひのきしんや修練もあり同性の同部屋のかたもいるしあまり聞かないです
何しに修養科に行ってんだと思いますよ
お二人のお立場が不明ですが女性が被害者としての感情を持たれてるようなので所属教会を通じて相手の教会に正式に申し入れをすればいいし詰所もそういう行為があったことを放置するわけにはいかないので報告してもらったほうが天理教としてはありがたいです

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質問者 ID非公開さん2017/5/2909:53:08
詰所というのが何なのか私は行ったことがないのでよく分かりませんが、夜中にお互いに部屋を抜け出して研修所の4階の部屋で会っていたそうです。
毎晩のように部屋を抜け出していたのだからお互いの同部屋の人達も知らないわけはなかったと思うんですが。
なので、そういうことが日常的にある宗教施設なのかと思っていました。

友達は会社の規則で新人研修として行っていました。
彼氏の方が参加していた経緯はわかりませんが、同じような感じだと思います。

友達は早く全てを忘れたいようなので教会への申し入れなど勧めることはできません。

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han********さん2017/5/2912:26:16
会社の研修なら信仰があって参加ではないですね
本人がうごかなければどうにもならないし
会社の研修でそういう行為とならば逆に彼女の立場もわるくなりますね
本来修養科は修養施設男女交際などとんでもないです
合意の上とはいえそれは天理教云々ではないけど当事者二人の問題です

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han********さん2017/5/2912:29:55
他の方への補足回答見ました
自己負担での参加でしたらまずは労働基準監督署にいって会社側の指示いかされたことをなんとかした方がいいとおもいますよ
15万もの費用を自腹させて研修ってそれが天理教とか問題ではなくブラック企業です

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質問者ID非公開さん2017/5/2922:20:05
仰る通り当事者2人の問題だとは思いますが、第三者の私からすればそういうことを自由に行える宗教施設にも疑問を感じます。

研修に行く前から労基に訴えたら?って話はしましたが、採用前の最終面接の際に誓約書にサインしたのは自分だし、何より職を失いたくないと言っています。
社長が天理教の信者のようで3ヶ月の研修以外にも何万円もの交通費を自腹で負担して天理教のイベントの時には奈良まで行っているそうです。
信者さんは何も悪くないですが、天理教という宗教そのものにも疑問を感じます。

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han********さん2017/5/3012:17:56
他の回答みましたが賃金発生してない時点で労働基準法違反ですよ
修養科に社員をいかせる会社は基本業務でいかせてるので男女関係に友人のこれ以上あなたができることはないし天理教としていえば修養科以前に詰所でそういうことをするのはその人たちのモラルの問題であって
どこか問題点をみいだすとしたらそこの会社であって誓約書は無効で職をうしないたくなくても慰謝料も請求できるレベル
すぐ労働基準監督署へいくべき
6ヶ月以内

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質問者ID非公開さん2017/5/3015:21:49
労基の件については友達がもう少し立ち直ってからもう一度言ってみます。

確かに本人達のモラルの問題と言われればその通りですね。
でもそういうことが出来てしまう施設の管理にも問題があると思うんですが。
他の方から詰所は夜中は鍵がかかっているの一点張りの回答を頂いてるんですが、本来はそうあるべきだと思うんです。

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質問した人からのコメント2017/5/31 00:37:09
天理教の信者さんがみんなあなたのような方だったら宗教施設の管理についても今みたいな状態にはなってなかったと思います。
でももうひとりの信者さんの回答をみていると今後も期待できそうにないですね。
いつか大きな事件や事故が起こる前に改善されればと思います。


yay********さん 2017/5/2904:57:40
修養科はそう言う所じゃないし詰所でもそう言う事は出来ません。付き合う事が出来てもエッチするまでは出来ないと思います。修養科が休みの時もひのきしんとうで忙しいし必ず詰所でも誰かいますからね

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asq********さん 2017/5/2902:02:12
私は以前、天理教の方(天理教の法被と拍子木)を街頭でみて
、話が弾んで、天理教の方は家族ずれでしたが、一緒に車で何処かに連れて行かれそうになった事があります。

コレが事実だとしても、天理教側も、こんな事想定していないので、対策のしようがないでしょ。

二人のやりとりなので、天理教関係なく、完全に当人同士の問題ですよ。

どの様な気構え、目的意識をもって行ったのでしょうか?バカンスですか?
貴方が彼女を叱るべきですよ。

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石川県野々市市中林にある住宅兼宗教施設で10月26日未明、4人が死亡する比較的大規模な火事が発生しました。

発表によると26日午前5時15分ころ、石川県野々市市中林3丁目122-4にある住宅を兼ねた宗教団体「天理教 法奥金澤分教会」の建物が全焼する火事があったということです。

火は約3時間後、消防により消し止められましたが、焼け跡からは女性2人・幼児2人の計4人の遺体が見つかりました。

現在、火災当時に天理教法奥金澤分教会にいたとみられる、高渕亜也子さん(37)、長男の高渕善成くん(4)、次男の高渕智行くん(2)、また東京から遊びにきていた高渕亜也子さんの実の母親・立松ハルミさん(60代)の4人と連絡が取れなくなっています。

立松ハルミ=たてまつ はるみ
高渕亜也子=たかぶち あやこ
  善成=よしあき
  智行=ともゆき

出火当時、この4人のほかに男性信者1人が建物内にいましたが、逃げ出して無事でした。

なお、この宗教施設には普段、信者ら23人が寝泊まりしているということですが、この日は天理教の催しのために奈良県へ出かけていたとのこと。

燃えたのは天理教の教会を兼ねた2階建ての木造住宅。約300uを全焼して建物は骨組みだけの状態になっており、火災の激しさが見てとれます。

石川県警は、見つかった遺体が高渕亜也子さん一家の4人とみて身元の特定を急ぐとともに、出火原因などについて詳しく捜査を進めています。

現場の住宅兼宗教施設は、高渕亜也子さんの義理の父親で教会長・高渕徹(たかぶち とおる)さんの所有。

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今回は、現在話題となっている「中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?信者の芸能人は?」です。

まさに日本の元祖歌姫とも言える中島みゆき、個人的に知らなかったのですが彼女は以前天理教に入っていて脱退したということですが何故信仰していた宗教から離れたのでしょうか?

天理教には他にも数多くの芸能人が入信していると言われています、誰が信者なのかまずはご紹介していきましょう!

天理教とはどんな宗教?

中島みゆきも以前は信仰していたという天理教とは、いったいどんな宗教なのでしょうか?

江戸時代末に成立した天理教は、新宗教の一つで中山みきを教祖としている宗教団体になります!

中山みきは、寛政10年に現在の天理市見昧田町にあった前川家の長女として誕生します。

この家は大庄屋だったと言われていて信心深い心優しい人間へと成長し、13歳で中山家に嫁ぎます!

天保9年41歳のときに神の啓示を受け、彼女の体に親神様が入りました。

嘉永7年に妊婦が安心して出産できるように「をびや許し」を始め、これが日本全国へと広まりました!

彼女の言動を快く思わない他の宗教から迫害を受けながらも、天理教は人々から親しまれ広まっていったそうです。

をびや許しは、妊娠6ヶ月以上の女性やその夫、夫婦の両親であれば代理で受けることが出来ます。

奈良県天理市に本拠所を置いていて、信者と教祖で作る法人格を持った包括宗教団体で、天理教の傘下にある一般教会は各地に存在します!

天理教の神名は天理王命(てんりおうのみこと)で、別名親神、親神様とも呼ばれています!

そして、芸能人の中島みゆきも所属していた天理教は「陽気ぐらし」というのを世界に実現しようとしている団体です!

教祖の中山みきは明治20年に死去していますが、天理教では目に見える現身(げんしん)を隠しただけで、その魂は教会本部に留まっていて人々の暮らしを見守り守護していると考えています!

この「教祖存命の理」という考え方が、天理教の信者にとって精神的な支柱になっているということです!

2018年2月11日現在の統理者は「真柱(しんばしら)・中山善司」になります!

天理教の信者は基本的にハッピを平服の上に着るのですが、黒字で背中には天理教と書かれています。

そして、天理教は神道の影響が強く根本教義には次のようなことが書かれています!

「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」

人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしを実現することで、親神の守護と恵みによって生かされているという謙虚な気持ちを持って欲を捨てて、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要。

さらに、天理教では人間社会の根本理念として親子関係や夫婦関係が重要視されています!

結婚に関して天理教では男女の両性が愛し合うことが前提ですが、離婚は否定していません。

全国各地の天理教の教会は、ぢばの方角に建てられていて信仰している人たちは、ぢばに向かって人の幸せや救いを親神様に向かって祈ります!

本部神殿は、365日24時間開かれていていつでも参拝出来ます!

天理教信仰の中心になるぢば一帯はもともとは、大和の国の庄屋敷村と名づけられた小さな村だったのですが多くの人がやってくるようになり、親里村と呼ばれるようになりました。

親里は人間の帰りを待っていてくれる親神様がいて、人類の故郷であると考えています。

そして、芸能人にも信者が多いと言われる天理教は明治時代から海外へも広がっています!

集団移民した日本人がいる場所やアメリカのハワイ、ブラジル、ペルー、コロンビア、アルゼンチン、パラグアイ、インド、オーストラリア、英国、フランス、メキシコ、チリ、香港、ニュージーランド、ウガンダ、ゴンゴ、ケニア、フィリピン、ネパール、シンガポール、タイなどの世界各国にあります!

教義の基礎は「お筆先(おふでさき)」「神楽歌(みかぐらうた)」「御指図(おさしづ)」の3種類の掲示書に示されています!

毎年1月5〜7日に教会本部で「お節会」という行事が行われていて、この期間中は人類の故郷と考えられているぢばに帰り、参拝した人には鏡餅を雑煮にしたものが振る舞われています!

現在の宗教法人天理教の教えは、元祖の教祖であった中山みきの教えと明らかな違いがあるという指摘がされています!

天理教信者の芸能人一覧
ここからは、天理教の信者だと言われる芸能人をご紹介していきましょう!

● 李香蘭(山口淑子)
天理教信者であったのは事実のようで、神殿で見たという目撃情報が多いのです!

● 元チェッカーズ 高杢禎彦
がんになったことで、天理教の信者になったと言われています

● 加護亜依
子供の頃に、天理教が毎年夏休みに行っている子供向けのお泊まり会「こどもおぢばがえり」に参加していたと語ったことがありますが、これは信者でなくても参加出来るのでそうであるのかは不明です!

● 渡辺徹
ご両親は天理教だったことから、渡辺徹もそうではといった説や一時期週刊誌にもそう書かれていたと言われています

● 伊東美咲
学生時代素行が悪かったことから、大阪の天理教の分教会に下宿に出されたそうです。

● 畑恵
目撃情報が多いようで、信者だったのではという説が浮上しています!

中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?

芸能人の中島みゆきは天理教の信者だったといいますが、脱退した理由はいったいなんでしょうか?

それを紐解いて行く前に、中島みゆきとはどんな人物なのかご紹介していきましょう!

1952年2月23日北海道札幌市生まれの65歳(2018年で66歳)、日本のシンガー・ソングライターでラジオパーソナリティでもあります。

1975年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー、父親は産婦人科医だったといいます。

ご存知のとおり、芸能人として日本で知らない人はいないと思われる中島みゆきは数々のヒット作を自身が歌う以外にも、他の歌手に楽曲提供して世の中に送り出しています!

1979年にニッポン放送の「中島みゆきのオールナイトニッポン」が放送開始され、リスナーから大きな支持を受けます。

1983年になると、柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞で作曲賞を受賞するなど数多くの賞をもらい、日本の音楽業界を牽引していきました!

さまざまな活躍をしてきた中島みゆきは、2009年11月3日に紫綬褒章を受賞しています!

芸能人としての中島みゆきの活躍の裏には、天理教が色濃く影響されていると言われていて、言葉遣いや衣装などに強い影響を与えていたといいます。

両親が信者で、父は産婦人科医だったのに赤ひげ先生のような生き方を実践しお金のない人からは出産費用を取らなかったと言われているほど、熱心に天理教の教えを守っていたといいます。

その意志を引き継いで、中島みゆきは芸能人として活躍をしながら天理教の教えを歌の歌詞に込めて、多くの人に広めていったと言われています。

1992年に発表された「糸」という曲は、天理教の代表者「中山善司氏」の結婚式のために作られた曲だと、天理教機関新聞1992年4月12日号に書かれているそうです!

この歌の歌詞に次のようなものがあり、脱退の噂がある中島みゆきの歌詞が好きすぎて天理教に入りたくなるファンもいると言われています。

「縦の糸はあなた、横の糸は私、会うべき糸に出会えることを人は幸せと呼びます」

この曲は、人を糸にたとえて人と人が出会うことで布が出来上がる、という意味がある素敵な作品となっているそうです!

そんな中島みゆきが天理教を脱退したという噂が出ていますが、実はこれに関しては本当か噂なのか憶測の域を出ていないと言われています。

ただ、先程も書いたように中山みきが生きていた頃から考えると現在の天理教はただお布施集めに熱心で、教えが捻じ曲げられている面があると言われていて、それにうんざりしている信者の方もいるようですから、芸能人の中島みゆきがそれにうんざりして脱退した可能性は否定できないと考えることも出来るようです!

どんなものを信仰するかは個人の自由です!

こんな映画もありますので、参考にされてください!

宗教大国欧米の大手メデイアが唸ったと言われる、個人的にも好きな作品です。

ちなみに、PKとは酔っ払いという意味です!


現実はひとつではありませんね!

今回は、芸能人の中島みゆきが天理教を脱退したのかといった情報をまとめていきました!




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この教理からすると天理教は素晴らしい教えを説いていると見えますが、教理には極端な部分もあることから一部ではカルト教団と呼ばれているようです。

天理教
出典:https://upload.wikimedia.org/

天理教はカルト教?

新興宗教には利益目的で設立された信者を食物にするだけのカルト教団が存在しますが、天理教もそのひとつだと言われています。

天理教がカルト教団だと言われる理由は、『貧に落ちよ』という教えであり、これは「どんなに貧困に落ちても、考え方一つで陽気に生きることができる」というものです。

教祖・中山みきは民衆のために教義をひらがな表記で伝え広め、自身の財を売って民衆を救うために用いたのかもしれませんが、時代を経ると共にこの『貧に落ちよ』という教えが利用されている傾向があったようです。

それも一部の悪質な教団幹部などによるものだと思いますが、「私財は全て教団に寄付せよ」というとんでもない恐喝を行っているようです。

こうした側面からも天理教は一部でカルト教団だと言われるようになったようですが、当然真面目に人のために信仰をしている人が大多数を占めているようですね。

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新宗教の世界 学研





 大和国(奈良県)に、「陽気暮らし」を唱える宗教が誕生した。
すなわち、「人間は苦しむためでなく、陽気ぐらしをするために生まれてきた」として、病や不幸のない理想社会の実現を志向する天理教である。

 この教団の開祖である中山みきは、大和国山辺郡三味田村(奈良県天理市)の庄屋の前川家に生まれた。
生家は近在の大和神社の氏子総代だったが、浄土宗の熱心な信者でもあり、みきもその影響を強く受け、尼僧になることを望んだほどで、18歳で浄土宗の奥儀である五重相伝を授かっている。
 そして、12歳で隣村の中山家に嫁ぎ、1男5女をもうけている。
中山家は寒村の一農家ではあったが、使用人もおく地主であり、裕福な家だった。
みきの半生については、封建的な制度にしばられた陰鬱なものだったと見られることもあるようだが、家族の仲も決して険悪なものではなく、むしろ彼女は農家の主婦として、当時としては比較的恵まれた暮らしを送っていたとすらいえそうである。

 ところが、40歳を過ぎたころ、一人息子で跡取りの長男が足の奇病に悩まされ、自身や夫も病を思い、一家に次々と不幸が襲いかかる。
 みきは、近在の修験者・中野市兵衛にたびたび寄加持を依頼して息子の病魔退散を願ったが、病状は好転しない。
寄加持は多額の費用がかかり、修験者のほかに、加持台として巫女を要する大がかりなものだったが、何度目かの祈?のおり、ふだん巫女役をつとめる女性がたまたま不在だったため、みきがその代役をつとめることになった。
そして、市兵衛が護摩を焚き、呪文を唱えたところ、御幣を捧持したみきは突如、3日間にわたる激しい神憑り状態に陥ったのである。
                     


中山みき(なかやま・みき)1798〜1887年。天理教教祖(おやさま)。
大和国山辺郡三昧田村(現・奈良県天理市)の庄屋・前川家に生まれる。
12歳で同郡庄屋敷村の中山家に嫁ぐ。
天保9年(1838)より神憑るようになり、布教活動をはじめる。
(写真は、戦前期に作成された中山みきを描いたとされる肖像画。
なお、天理教が公認した中山みきの肖像画・写真は存在しない。)


『これから、世界のふしんに掛(かか)る。祝うて下され』
―−中山みき(『稿天理教教祖伝』より

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  このとき、みきの口から発せられたのが 「我は天の将軍である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一れつ(=全人類)をたすけるために天降った。
みきを神の社にもらい受けたい」という言葉で、後に天理王命(てんりおうのみこと)と呼ばれるようになる神の託宣だった。
天理教では、この神憑りがおさまり、みきが神の社に定まった天保9年(1838)10月26日を立教の日としている。

 一家3人の病は神霊の降下とともに全治したが、みきは「貧に落ち切らねば難儀なる者の味わいが分からん」という神命にしたがって、貧者への施しに家財を傾けて、貧の谷底へ落ちきる道を選んだ。
一方で、安産の守護(「帯屋ゆるし」)や病気治しを通して、民衆の救済に取り組んでゆく。

 70歳を過ぎてからは、神言や天啓をみずから筆録するようになるが、その際には明かりのまったくない深夜でも筆がひとりでに動いたという。

 そうした筆録のひとつ『おふでさき』のなかに、「ぢば(しバ)」という語がみえる。
これは人類発祥の聖地を意味し、みきによって中山家の屋敷の庭の一点がそれと定められた。
そして、標識として、天からの霊薬を受けるという「甘露台」と呼ばれる石柱を設置し、それを囲んで祭儀「かぐらづとめ」を実行することに、晩年のみきは情熱をそそいだ。

 甘露台は教祖の存命中には完成しなかったが、「おやさま」と仰がれた聖女は、陽気なかぐらづとめの鳴り物の音に聞き入ったのち、88歳で眠るように神上(かむあ)がりしている。

 現在、甘露台がすえられた「ぢば」は巨大な神殿によって荘厳され、かつての大和の一農村は、巨大な宗教都市に成長した。
偶像崇拝を認めない天理教において、信者たちから最も篤い崇敬が注がれる甘露台は、強烈な吸引力を放ちつづける教祖のカリスマ性を象徴しているかのようだ。


 みきが神上(かむあ)がりした翌日に撮影された、屋敷に集まった信者たち。
教団初期の様子を伝える貴重な−枚である。(写真=天理教)

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既存の権威・権力を刺す棘のような神話が、幕末以降、民衆レベルから次々と生まれてきた。その典型が、中山みきの天理教なのである。

★「泥の海」の混沌から

 天理教の創世神話は『泥海古記(どろうみこうき)』という(正式には『こふき』)。
みきが口述した神話を側近がまとめたもので、原本はなく、明治14年の写本を最古として30余種の諸本が伝えられている。

 最古の写本は、
「このよふ(世)ハほんもと(本元)なるハどろのうみ、もとなるかみハ月日さまなり」
からはじまる。
如来教と同じく、みきの神話も「泥の海」の混沌から幕が開く。

 その泥海に、天地万物の親神である月日様がいた。
(※泥海は誰が作ったのか?)

月日様は泥海世界を味気なく思い、人間を造り、その「陽気暮らし」を見て楽しもうと考えて泥海を見わたした。
(※天地万物の「親」ならば、なぜ、味気ない「泥海」を作ったのか?初めから楽しい世界を作れば良いではないか?

すると、たくさんのドジョウのなかにウオとミ(蛇)がいたので、
(※どじょうは誰が作ったのか?
泥海が味気ないのならば最初から人間をダイレクトに造ればいいのでは?)

将来は神として奉ると約束して彼らをもらい受け
(※天地万物の神ならば、なぜ、そんな遠慮しながら謙る必要があるのか?

それぞれにシャチとカメを仕込み夫婦の雛形とした。
(※鯱と亀は誰が作ったのか?)
 
これが男女の雛形のイザナミノミコト、イザナギノミコトとなる。
(※ 記紀神話と全く異なるが、記紀神話は間違いなのか?正しいのか?どちらか?もし泥海古記を正しいとすれば記紀神話は間違っていることになる。
重要な出来事である「人類創造」に食い違いがあるということは重大な問題ではないか?)

ほかにウナギ、カレイ、クログツナ(黒蛇)、フグを人体に使う諸道具として創造に参加させた。
(※人類誕生の科学的見地と全く異なる話だが、定説となっている科学的見解との相違はどう解釈したらいいのか)

 親神はまず泥海のドジョウをすべて食べて、人間の種とした。
(※人間の主原料は「どじょう」ということか?その科学的な根拠は?)

ついで月様(クニトコタチノミコト)がイザナギ、日様(デモタリノミコト)がイザナミの体内に入り、三日三夜のうちに9億9万9999人の子数をイザナミの胎に宿し込んで産ませたが、99年後、身長が3寸になった時点で全部の子が出直した(死んだ)。
(※記紀神話との矛盾は前述。)
(※三日三夜のうちに9億9万9999人の子数 とはあまりにも思いつき的な、語呂合わせ的な、荒唐無稽な幼稚な話ではないか。)
(※なぜ天地万物の神が「失敗」するのか?)

二度目の出産では3寸5分まで育って出直しとなり、
三度目は4寸で出直した。

(※同上(「どじょう」だけに。。。(^^ゞ)

その後、人間は虫、鳥、獣など8008度も生まれ変わり、
(※ 人間を造ろうとしたのに、結局、その子種のほとんどが「失敗」して、他の畜生・昆虫にしか成れなかったのか?
(※ 8008度 の意味 科学的な根拠は?)

最後に残った一匹のメスザルの胎に5人の男と5人の女が宿り、これが人祖となった。
(※その場所は?年代は?そのその猿が男女五人づつの10人を生んだのか?
(※サルからいきなり人間が生まれたのか?)
(※どういう経緯でサルの子宮に人間が宿るのか?そのプロセスを詳細に知りたい)

 その後、泥海から大地ができ世界ができて、今の世となったのだが、
(※ 地球誕生が約46億年前。地球上に地殻が誕生したのが約45億年前。 生物が誕生したのが40億年前(±2億年) - この頃、原始生命が誕生したと考えられている。     人類誕生が概ね400万年前。
この科学的定説から見れば時系列がめちゃくちゃではないか?)

この間、人類は9億9万年を水中で暮らし陸に上がって6000年は智慧を仕込まれ、3999年は文字を仕込まれた。
(※人類誕生約400万年前 しかも陸上を二本足歩行していた。この科学的定説と全く違う。この矛盾は?
(※泥がいつ陸地になったのか? 陸にあがったのはいつか? 

そのすべてを行ったのが月日の親神であり、親神が「世界一列たすけ」るために神憑りしたのが「女雛形の魂」であるイザナミ、すなわち中山みきなのである。

 天理教では、みきこそが世界人類の生みの母であり、みきの屋敷(現・天理教教会本部)は親神が種を宿し込んだ人類発祥の地であるとする。
(※ 遺伝子研究では、人類発生は南アフリカであることは特定されている。 奈良県天理市と主張する科学的根拠は?)

 みきを通していま親神が顕れたのは、人類創造のそもそもの動機である「陽気暮らし」の世を完成させるためで、みきを通して出る教えは「だめの教え」(最後の教え)であると説かれる。
(※なぜ最初から「陽気暮らし」ができるように人間を造らなかったのか?そんな無力な「神」なのか?そんな無力な「神」ならばすがっても無意味ではないか。

 記紀神話にもとづく秩序とヒエラルキーを完全に否定するこの神話は、当然ながら当局の忌避するところとなり、みきはくりかえし逮捕された。
天皇神話との激突については第五節で書く。


『泥海古記』(『こふき』)写本とされる表紙と見返し。
かつて厳重に秘匿されていたが、戦後復元され、現教典に収められている。



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出口なお も「お筆先」があるが、中山みきの主張と全く異なる。
どちらが正しいのか?

中山みきが正しいと主張するならば、その根拠は?
どちらも正しいというのならば、その主張の違いの矛盾はどう解釈すればいいのか?
     

概要[編集]

明治時代後期、大本の開祖出口なお(直)(以下なお(直)と表記)は天地の創造主神国常立尊の帰神から、1918年(大正7年)に逝去するまでの約27年間、自動書記により「お筆先」と呼ばれる一連の文章を残した[1]。お筆先はほとんどひらがなで記されたが、これを娘婿にして大本の聖師の出口王仁三郎(以下王仁三郎と表記)が漢字をあてて発表したものが『大本神諭』である[2]。「神のお告げ」による啓示系の教典である[3]。現代文明に対する強烈な批判と、国常立尊の復活に伴う終末と再生預言した[4]。大本において『大本神諭』は、なお(直)の死後に発表された王仁三郎の『霊界物語』と併せ、大本二大教典の一つとして扱われる。

内容[編集]

大本神諭は『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ』という宣言を機軸とする[5][注 1]。神の名前や啓示そのものは、当時のなお(直)が置かれた極貧生活や明治時代という社会情勢、金光教九鬼家の影響が見られるが、それだけで解釈できない点もある[6]。王仁三郎は、艮の金神の正体を古事記日本書紀で国祖神とされる国之常立神(国常立尊)と審神した[7]。国祖神の治世は厳格を極めたため、不満を募らせた八百万の神々により国常立尊は艮の方角(鬼門)に封印されて「艮の金神」となり、妻神豊雲野尊坤の方角にこもって「坤の金神」となったという[8][注 2]。神諭は、節分(豆まき)、鏡餅門松など日本の多くの宗教的儀式に国常立尊を調伏・呪詛する目的が隠されていると指摘する[9]。だが国常立尊が再び現れる日は迫っており、それにともない体主霊従の文明から霊主体従の文明へと、価値観が大転換すると説く[10]。変革が行われたあとに到来する理想世界はみろくの世とされる[11]。「水晶の神世」「松の世」とも表現される[12]。独特の神話観と、個人的利益・救済の域を超えた強烈な終末論・千年王国思想は従来日本宗教の中でも特徴的である[13]



中山みきの『御筆先』も、同じく天皇を項点とする権力層を、強い調子で否定している。
その典型が 「高山の真の柱は唐人や、これが第一神の立腹」 という筆先だ。

 この「高山」は権力者、「其の柱」は高山の中軸、つまり天皇を暗示している。
その天皇が「唐人」すなわち外国人であり、そのことがなによりも「神の立腹」だというのである(ただし教団側は「真の柱」を天皇とは限定せず、「唐人」も教祖の教えの行き届いていない人々と解釈している)。

 天皇と名指しはしていないものの、みきの筆先は天皇と高山の国家を鋭く糾弾し、当局から儀礼・祭祀のあり方や祭神などに関してたびたび指導を受け、あるいは逮捕拘留といった弾圧を受けても信念を曲げず、明治20年に逝去した。

 ところが教祖の没後、教団は天皇制国家との共存路線を選択し、昭和13年には文部省の指示に従って『御筆先』と『おさしづ』を信者から回収するなど、信仰のあり方の大転換をはかったのである。

 これに対しみきの教えと神話を絶対原理として死守すべしと考える信者は、別派独立した。
その代表的人物に、「ほんみち」の大西愛治郎がいる。
 愛治郎は、みきの筆先に出る「唐人」を、「現在日本の皇室の事であって、その皇室に真から心よせてこの神の道の精神を受けられん者も、また唐人の一部」だと大胆に明記し(『研究資料』)、天皇制国家の神話をことごとく否定した。
なかでも天照大神にまつわる独自の神話は、国家を刺戟せずにおかなかった。

 ほんみちによると、天照大神とは記紀神話の神ではなく、天理王命の社と生まれ変わった中山みきその人のことだという。
それゆえ、記紀が描く天の岩戸隠れ、天孫降臨、三種の神器の授与などの神話も、ことごとく読み替えられる。

 岩戸隠れとは明治22年のみきの昇天であり、天孫降臨とは愛治郎が「人間甘露台」(人間の姿で現れた天地宇宙の中心軸)となってみきを後継したこと、したがって天孫もニニギノミコトではなく、愛治郎のことだと解釈される。

 三種の神器説は、さらに秘教めいている。
神器とは、モノではなく太古神と因縁の魂のことであって、具体的にはみきの長男・秀司、五女・小寒、御本席と呼ばれたみきの継承者の飯降伊蔵の三人を指す。
この三人は、その後、人間甘露台である愛治郎の子として生まれ変わった。
それが長男・愛信(よしのぶ)、長女・愛子、次男・正憲であり、この三人こそが「真正の三種の神器」だというのである。

○ 弥勧菩薩・甘露台・ヨハネは異名同人

 天理教を母胎とする分派からは、驚くべき主張が次々
と飛び出した。
 昭和8年にほんみちから分派した「天理三輪講」の勝ひさのは、自分を愛治郎の後を嗣いだ甘露台であるとみなし、自らこう書いている。
「弥勅菩薩、甘露台、ヨハネの三者は異名同人にして、勝ひさの″が今日 (仏教・天理教・基督教の)三教の教典を開き、神通自在を受得する迄に符号せられた名前であった。
是よりは天命に依り(自分の)呼名を甘露台と改め、世界大救済の大道に立って月日 (親神のこと) の実在の世を示し、神風豊かなる極楽世界を築く」(『神通開闢』)

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○天理教系分派の特徴

 大和の中山みきが1838 (天保9)年に天啓を受けたことにはじまる天理教は、中山家のあった「ぢば」と呼ばれる場所が、全人類が創造された地であり、親神・天理王命が鎮まっている聖地として甘露台(木製の「雛形かんろだい」)を建て、信仰礼拝の中心としている。

天理教では中山みきを親神の啓示の体現者(親様)として位置づけている。

1887(明治20)年のみき死後は、飯降伊蔵が1907年まで本席として啓示を取り次いだ。



 飯降の存命中に上田ナライトが本席の後継として個人の「病たすけ」や救済手段である「おさづけ」を渡す役に決定し、おさづけの取り次ぎを開始したが、飯降の死後、上田は心身の不調などにより表舞台から姿を消した。

そのため、以後「おさづけ」を渡す役は儀礼的なものとなったという見方もある。
天理教では上田を「啓示の後継者」ではなく、「おさづけの取り次ぎの後継者」として位置づけるとともに、神の啓示は中山みき教祖と飯降伊蔵本席で完結したとする教義を固め、それが既定路線となって今日にいたっている。
要するに教祖と本席の言説以外、天啓を認めないというのが天理教の立場である。

 しかし、の啓示・霊統は天理教の教義的な枠を超え、分派を生ずる母体にもなっているようだ。
親神の啓示を受けたと主張し、立教した天啓者は少なくないのである。

 その代表例が、天理教の最大の分派「ほんみち」の大西愛治郎である。
天理教の教師資格者であった大西は、1913(大正2)年、自らが天理教の霊統の継承者であると自覚し、「甘露台人の理」を説き、自身が「人間甘露台」(天啓者)であると主張した。

天理教は大西の主張を否定し、教師資格を剥奪。
そこで大西は1925年、天理研究会(ほんみちの前身)を発会し、独立したのである。

 天理教の分派の大ざっばな分類としては、
天理教からの直系分派と、ほんみちを源流とする教団の2種類に大別できる。
最近では、宗教学者によって天理教の分派構造を次の3種に分ける方法が提示されている (弓山達也『天啓のゆくえ』など)。

@天理教直系教団(天理教からの直接の分派)

Aほんみち−天理三輪講系教団(ほんみちとその分派)

B天理神之口明場所系教団(ほんみち系の分派からの再分派)




○天理教直系の教団

 @から詰を進めると、中山みきの生前より分派は生じていた。
みきの弟子の一人、今井新治郎(助造)が1865(慶応元)年に天輪王教会を設置し、彼が住む針ケ別所が本地で、ぢばが垂迹と唱えて活動したのが最初の分派である。
天理教ではこれを助造事件と称している。

翌年には新泊郎の弟、今井惣治郎が分家し、転輪王教会を設立している。

みきの死の翌年には奥六兵衛らが天輪王明誠教団を立教した。

 1896年(明治29)年には、天理教の本部准役員・飯田岩治郎が神憑って大通教を設立、同所の井戸から汲んだ「水の授け」による救済の秘儀を行った。

天理教ではこれを深刻な異端としてとらえ、水屋敷事件(安堵事件)と呼んだ。

 本席が死去した年の1907年には、「二代教祖」を名のった井出クニが現れて、朝日神社を創立した。
当時、天理教内には天啓者の出現を待望する空気があり、ク二は「播州の親様」とも称された。

1911年には天理教北大教会初代会長の茨木基敬(もとよし)が天啓を受けたとして取り次ぎを行い、教団を追われるかたちで分派し独自の活動(真道会)を行った。

 1926年(大正15)年には天理教教育顧問・天理中学校校長だった廣池千九郎が独立してモラロジー研究所を立ち上げた。

 このほか、@には中村しげと中村政道の太道教、前島麗祈の自然真道、松木天村と松木草垣(そうえん)の神光苑、前田トクの日月(ひかわ)教、嘉納寅三の日月(ひかわ)神一条などが該当する。

 最近では1990(平成2)年に福留修司が「おみち」を創設。

2006年には山田博明が天理教豊文教会という名称で独立した。



○ほんみち−天理三輪帯系教団

 Aは、大西愛治郎のほんみちと、彼の影響下によって成立した分派で、いずれも天啓者を中心とした理想世界の実現をめざしているという特徴がある。
その背景には、中山みきが予言していた終末と理想世界の実現、さらに親神の意志を取り次ぐ天啓者への待望論があった。
中山みきや飯降伊蔵が亡き後、天啓者がいないため、また天理教が時流に迎合して変質したため、世界の混乱があり、原点に立ち返るべきであるとする再生運動とも連動
している。

Bなどとも重なる部分があるが、
中山みきやその家族の生まれ変わり、再来などと称する天啓者たちが次々と出現して分派を起こしたのである。

 たとえば、ほんみちから分流した「ほんぶしん」は、大西愛治郎の娘大西玉が1958(昭和33)年のほんみちの祭典時に、自分は中山みきの再生者であり真の天啓者であると宣言。
一時的に混乱したが、結局「ほんみち」の主導権を得ることはできず、天理みろく会(ほんぶしんの前身)を組織して独立した。

ほんぶしんからはさらに枝分かれし、斎藤昭吾が自ら「人間甘露台」を称して岐阜にほんみち(大阪府高石市のほんみちとは別)を創立した。

一方、ほんみち事件を契機にほんみちから離脱した勝ひさのは、1933年に天理三輪講を立ち上げ、天変地異の予言や唯一絶対の天啓者による「甘露台世界」の実現などを精力的に説いた。
その影響によって出現した教団には石々川駒吉の三理三腹元、渡辺よその天理神の打開場所、会田ヒデの世界心道教、米谷くにの神一条教などがある。

 ほんみち系の修養団体としては、出居清太郎の修養団捧誠会がある。
出居がほんみち事件に連座後、天啓を受けて1941年に創設したものである。

○ 天理神之口明場所系教団



 Bは、中山みきが初期に行っていた扇で神意を伺う秘法「扇の伺い」や息を吹きかけて治す「息の授け」などの霊的秘儀を昭和に復活させた山田梅次郎を創始者とする教団群である。
個人の救済に重点をおき、親神との霊的交流ができる秘儀の伝授や、病気治しを行う霊能者の育成などの活動に熱心といわれる。
そうした霊能者が増えることにより親神の理想世界が築かれていくという思想がみられる。

 山田梅次郎は天理三輪講系に属していたが、離脱して天理神之口明場所を組織し、その後、
おうかんみちの教祖にもなった。

中山みきの夫善兵衛の生まれ変わりと称した梅次郎は「甘露水授け」と呼ばれる秘儀を開発しそれ飲んで修行すれば神意がわかるようになると説いた。

 要するに、天理教のごく初期のころに行われていた神秘的な呪法を現代に再興して現世利益的な要素を強調する指向性が強い。
こうした霊能の秘儀は天理教ではすでに廃止されてしまったものである。

 このグループには、山田そめの月日二世の道真知岳(みちまちだけ)本部、斎藤年男の甘露台霊理斯道会、深沢まつ枝の月日大還道などがある。
基本的に中山みきの言動などを崇拝し、神秘的な直感を重視する傾向が強いようである。

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神示を克明に記した根本聖典
おふでさき他

中山みき=書記・述
 
中山みきが残した代表的な啓示書には『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の3つがあり、これを三原典という。

『おふでさき』は神からの教えを、明治2年〜15年にみき自身が記したもの。
1711首の和歌の形式で説かれ、たとえば「このよふハ一れつハみな月日なり/にんけんハみな月日かしもの」などとあり、ここでは、この世のものはみな月日(親神天理王命)であって、人間の生命や肉体は親神から貸与されたものだと示されている。

『みかぐらうた』は舞踊の「かぐら」と「てをどり」の地歌であり、やはり教義が表現されている。
「一ッ/ひとがなにごと/いはうとも/かみがみている/きをしずめ」。

『おさしづ』は、みきおよび高弟の飯降伊蔵が神の指図を述べたもので、側近による筆録である。
大部分は飯降の口によるが、みきと同じく神からの啓示とされている。

みきの口述をもとにした筆録本に『泥海古記』がある。これは独自の創造神話で、「こふき(こうき)」とも称される。

収録書=天理教道友社「天理教原典集」

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 信心探い農家の主婦だった中山みきは、長男秀司の病気治しのために招いた山伏の加持台(神の憑坐(よりまし))を務めたところ、三日三晩におよぶ激しい神憑りに襲われた。
「この屋敷にいんねんあり。この度世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろにもらいうけたい」
――憑いた神はみきにこう語らしめたという。
ときに天保9年(1838)、親神(=天理王命)による最初の啓示であった。
以来、教祖中山みきは、親神の命じるままに「たすけ一条」の雛型の道を進むことになる。

 最初は周囲に理解されなかったが、安産の「たすけ」(帯屋(おびや)ゆるし)や疱瘡などの病気治しの効験もあり、みきは徐々に周囲の支持を得る。

慶応3年(1867)には教義を詠み込んだ数え歌「みかぐらうた」を編纂。
明治2年には「おふでさき」の執筆にとりかかった。

 そこには、親神の人類に対する慈愛とともに、人類の平等と親心、男女平等、家族主義など、人間性の開放を指向する近代的なべクトルと、根源神への崇敬、「高山」(権力者)からではなく、「谷底」からの救済という、始源回帰のベクトルが同居している。

 このため、宗教統制を進める明治政府との軌轢は避けられず、みきの警察からの拘留処分は、じつに18回ほどにおよんだ。
それでもみきは、信仰がいかなる世俗の掟にも優先することを説きつづけた。

明治20年にみきはこの世を去るが、その魂は存命中同様、今日にいたるまで人間を見守り救済しっづけているという。

 礼拝の対象となる「かんろだい」は、親神が人間を創造した地点(「ぢば」)に建設されたものとされ、この「ぢば・かんろだい」を囲んで、全人類の福祉と世界の平和を祈る「かんろだいのつとめ」が勤行される。

一方、信者は親神の守護の下で生かされている報恩感謝から他者への奉仕へ向かう「ひのきしん」の態度をもつことが孤んじられている。

本部=奈良県天理市三島町271/創始者=中山みき/現後継者(真柱)=
中山幸司/信仰対象=天理王命/教典=『天理数教典J(原典は「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」)/祭典=元旦祭、春季大祭(1/26)、教祖誕生祭(4/18)、秋季大祭(10/26)など/教会数=17,141/信者数=約170万人

 高さ11メートルの南門(黒門)越しに望む教会本部の礼拝場。
 その奥に神殿がある。

新宗教の本  学研 

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天理教

[創   立]天保九 (一八三八)年一〇月二六日
[創 始 者]中山みき(教祖)
[現後継者]四代真柱・中山善司
[信仰の対象]親神天理王命・ぢば(親神が人間を創造した場所)・教祖の中山みき
[教典]『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』
[本部所在地]奈良娯天理市三島町二七一
[信 者 数]一、七五八、四三六
[名称の変遷]
転輪王講社(明治一三年) 
神道天理教会(明治二一年) 
天理教(明治四一年)


【沿革】
 天理教は、中山みきによって幕末に創立された新興宗教の草分けともいうべき教団である。

 中山みきは、寛政一〇 (一七九八)年四月一八日、大和国山辺郡三味田村(現奈良県天理市三味田町) の前川家の長女として生まれた。
一三歳のとき、庄屋敷村(現同市三島町) の中山善兵衛に嫁ぎ、一九歳で浄土宗の菩提寺より相伝(授戒)をうけ、戒名を授けられた。

 みきが四一歳のとき、みき夫婦と長男秀司の病気平癒の祈?を修験者に依頼した。その際、みきに「元の神・実の神」と名のる神がとりつき、「この世のすべての人を救うため、神の住む社として、みきの体をもらいうけたい」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまう」
と脅迫してため、善兵衛はみきをやしろ″として差し出した。
天理教では、みきが「神のやしろ」と定まった天保九(一八三八)年一〇月二六日を、立教の日としている。

 みきの神懸かり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物もない状態になった。その原因は、みきが神からの「貧におちきれ」という命令に従い、全財産を貧しい人に施したことによる。
教団では、みきの行動はどのような境遇でも心の持ち方一つで陽気ぐらし″ができる、という手本(ひながた) であるとする。

 神懸かりから一五年目の嘉永六(一八五三)年、みきの夫善兵衛が死去した。
善兵衛の死後まもなく、みきは一七歳の五女こかんに、浪速(現大阪)の街頭で拍子木を打ちながら「南無天理王命」と連呼するように命じた。
教団では、これが「においがけ」(布教活動)のはじまりとしている。

 翌七年、みきが五七歳のとき、お産のために里帰りした三女はるに、「をびや許し」という安産の祈?をはじめて行った。
三女はるが無事に出産したことが評判となり、みきは近隣の妊婦にも依頼によって安産の祈?を行い、次第に「をびや神様」と称されるようになった。

 みきの「をびや許し」と病気治しで信者が増えはじめ、神懸かってから二十七年目にあたる元治元(一八六四)年、大工であった飯降伊蔵等の信徒から寄付と労働奉仕(ひのきしん)によって、親神を祀って修行する場所「つとめ場所」が完成した。

 みきは慶応二 (一八六六)年より『みかぐらうた』を作って「つとめ」の形式を定め、明治二(一八六九)年から『おふでさき』の執筆を開始し、教義の体系化をすすめた。

 さらに明治八年六月、みきは、屋敷内を入念に掃除させ、庭を歩き出し、足が地面に吸いつき、前後左右に勤けなくなった地点に標(しるし)をつけた。
みきは、そこを親神が最初に人間を創造した場所「ぢば」と定め、「かんろだい」
と称する台をすえた。

 同一三年九月、天理教は、明治政府による取締りをのがれるため、仏教宗派を偽装して転輪王講社を設立し、金剛山地福寺住職を所長にたて、長男秀司が副所長となり布教をしようとした。
しかし翌一四年、秀司の死去によりこの計画は頓挫し、結局、みき等関係者は官憲に摘発され、みきの逮捕、拘留は同一九年一月まで一〇数回に及んだ。

 その間、すでに講中が二〇ほど結成されていた教団は、大阪府に数度にわたり教会設立の申請をしたが許可されず、明治二〇年一月二六日、みきは九〇歳で死去した。

 みきの死後、中山眞之亮が初代の教団代表者「真柱」として跡を継いだが、教団の実質的な中心者は飯降伊蔵であった。
みきにかわって信徒の悩み事・相談事に対する神意を取り次ぐ資格「言上のゆるし」を与えられていた伊蔵は、みき死後の神意の取り次ぎ者「本席」となった。

 教団は明治二一年四月、東京府より「神道天理教会」設置の認可を得、同年、本部を現在地に移転した。

同四〇年、飯降伊蔵は七五歳で死去し、翌四一年、教団は天理教として独立した。

 大正三年、初代真柱の死去により、一一歳で二代真柱となった中山正善は、昭和二四年に現『天理教教典』を、昭和三〇年に『稿本天理教教祖伝』をそれぞれ刊行するなど、今日の教団の教義の基礎をつくった。

 昭利四二年、三代真柱に就任した中山善衛は、昭和五一年の教祖九〇年祭、同六一年の一〇〇年祭を行っている。

 現四代真柱は、善衛の長男善司で、平成一〇年四月二六日に真柱を継承した。
教団ではみきを教祖と称し、それ以後の代表者は真柱と呼び、今日に至るまで中山家の直系の男子によって教団が継承されている。

 なお、天理教から分派・独立した主な教団は以下である。


【教義の概要】

 教団では、信仰の対象を「目標」と称し、ぢば・親神天理王命・教祖中山みきの三つを挙げている。

 「ぢば」は、親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所であり、親神が鎮まっている親里であるとしている。

教団本部(天理市三島町) の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」がすえられ、信仰の対象としている。

親神天理王命は、人間をはじめ世界を創造した根元の神であるとする。
この神は、教祖中山みきの体をかりてこの世に現れ、世界中の人間を一切の苦から解放して喜びづくめの生活(陽気ぐらし) へと導き、また一切の人々を守護すると説いている。

また教祖みきは、死後もその命をぢばにとどめて永遠に存在しているとし、親神に
よる人類救済はこのぢばを中心として行われるとする。

 なお、教団の教会では天理王命の象徴として神鏡を、教祖の象徴として御幣を祀り、信者は「神実(かんざね)」と呼ばれる小さな神鏡を祀る。

 天理教では、『みかぐらうた』『おふでさき』『おさしづ』を三原典とする。

『みかぐらうた』は、みきがつくつた数え歌で、人間が陽気ぐらしを実現するための方法を示しているとする。

『おふでさき』は、みきが親神の教えの内容を歌形式で記したもので、明治二年から一五年まで一、七一一首が記されている。

『おさしづ』は、教祖みきや本席飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を、側近信者が筆記したものである。
そのうち、みきのおさしづは明治二〇年に死去する直前の二〇日間だけのもので、大部分は明治四〇年に死去するまでの伊蔵によるものである。

この三原典に基づいて昭和二四年に編集したものが 『天理教教典』 である。

 教団は、天理教の教えは 「たすけ一条の道である」と説く。
親神は、人間を助けたいとの親心で天理教を開いたとし、子である人間は親神の心を心として生きることが重要で、親神の思いにひたすら添うことが道であるとする。
そして、親神は人間を助ける方法として「つとめ」や「さづけ」を示し、陽気ぐらしの世界をこの地上に実現するという。

 「つとめ」は、「本づとめ」と 「朝夕のつとめ」 の二種類がある。
本づとめは、ぢば・かんろだいを囲んで行うもので、「かぐらづとめ」と「ておどり」を勤める。
かぐらづとめは、男女各五人がかぐら面をつけ、鳴物の伴奏によってみかぐらうたを歌い、それに合わせて踊るものである。
ておどりは、黒い紋付を着た男女各三人が鳴物と歌に合わせて行う手振りをいう。
朝夕のつとめは、信者が自宅の目標の前で、手振りだけか拍子木によって朝と夕に行う勤めである。
教団では、この本づとめにより心が橙み切り、親神と人間がともに陽気がみなぎり、守讃がゆきわたり、全世界を陽気ぐらしの世界に立て替えていくと主張している。

 「さづけ」は、さづけの理を取り次ぐことで親神の守護が得られるとし、病気なおしの手段である。
教祖みきと本席飯降伊蔵が存命中は、米粒や清水に白砂糖を入れたものなど種々のさづけがあったが、本席の死後は 「あしきはらいのさづけ」 のみである。
このさづけは、決まった手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ、てん
りおうのみこと…」と三遍唱えて三回撫で、これを三回繰り返すものである。

 なお、教団では存命の教祖が着たと称する赤衣を切ったものを「おまもり」として、妊婦にぢばに供えた洗米を「安産の許し」として信者に下付している。

 天理教では、親神が人間を創造したという「元初まりの話」を説いている。

 この話は 『泥海古記』 と呼ばれ、立教四四年目の明治一四年に、みきが教団の側近信者に「古記を作れ」と命じ、みきが口述した内容をまとめた神話である。

  この神話には「月日の神(天理王命の異称) は、まず泥海に住んでいた『ぎ魚』と『白ぐつな』を夫婦の雛型として口に入れ、さらにシャチ、亀、うなぎ、かれいなどを道具として食し、その上にどじょうを食べて『たね』として人間を産んだ」(趣意)とあり、そして月日の神が子を宿した場所が、中山家の敷地内の「ぢば」であるという。

天理教ではこのぢばを、すべての人間の生まれ故郷と教え、天理市の本部へ参拝することを「お地場へ帰る」とか「おぢばがえり」といい、信徒の重要な修行とする。

 天理教では、人間の身体は親神からの「かりもの」でであり、心だけが人間のものであるとする。
人間は、日ごろ、意識しないうちに心に「をしい(惜)、ほしい(欲)にくい(憎)、かわい(可愛い)、うらみ(怨)、はらだち(怒)、よく(貪)、こうまん (慢)」の八つの「ほこり」を積んでいるとし、人間がこのほこりを積み重ねると、神はその心得違いを改めさせようと病気、不幸、災難を人間に示すとする。

そこで人間は、親神の教えを「ほうき」として、常に心を掃除するようにと天理教は教え、教えの理が分かるにつれ大難から小難へ、小難から無難へ導かれ、陽気づとめへとすすむと説く。

教団では、教祖みきが神からの「貧におちきれ」という命令に従って全財産を貧しい人に施したように、みきの行数はどのような境遇でも心の持ち方一つで陽気ぐらし≠ェできるという手本(ひながた)であると教える。

信者は欲の心を離れて、欲をおこす原因となる金銭を親神にお供え(おつくし)し、自らのために働く日常生活を離れて教会に行き(はこび)、人のための奉仕する(ひのきしん) ことを実践の徳目としている。


【破折の要点】

■ 天理教でいう万物創造の親神は、天保九(一八三八)年一〇月、教祖みきに神懸かるまで一体何をしていたのであろうか。

親神の教えによってはじめて人類が救われるとするならば、それ以前の人類は救われないことになる。

■ 万物創造の親神は、中山みきが神懸ったという現代精神医学でいう妄想の産物であり、所詮、因行さえも明らかでない外道の神である。

■ 天理教は、元の理と称して、親神が「どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた」(天理教教典二七)と述べている。
しかし、「どじょうが人間のたね」などとはあまりにも非科学的な教えである。
このような話がもととなった宗教は人間を不幸に導く邪教である。

■ 天理教では、人間の肉体は親神から借りたもので、心だけが人間所有のものとする。
そして、親神の心を知ればどのような境遇でも、心の持ち方一つで陽気ぐらし
ができると主張する。
しかし、心の持ち方一つで真の幸福など得られるはずもない。

■ 天理教では、人間の清く正しい本来の心に八つの埃がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因であると主張する。

しかし、、八つの埃のうちの「よく」ということだけを挙げても、病気を治したいということも欲であり、また実際に人間が完全に欲をなくすことなどは不可能なことである。
天理教は、人間の本質に暗い外道の教えにほかならない。

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ー天理教一

はじめに

 天保九年(一八三人)十月二十六日、教祖中山みきが精神的異常を訴える中、親神天理王命の啓示を受けたとして始めた教団です。

 貧に落ちきらねば、人の心は本当に正しくはならないと教えますが、これは放蕩三昧だった自分の夫に対する怒りがもととなっています。

物、金を惜しみなく他人に恵み与え、世にも希な慈悲の人と教祖を美化しますが、実態は倒産による家の没落だったようです。

 ともあれ、医療制度の不備と経済不安の社会情勢の中、まじないによる人助けが大衆の関心を集め、当時大きく発展した教団です。

 今でも約一八〇万人の信徒がいます。

 教義としては、教祖直筆の「おふでさき」「みかぐらうた」と、高弟の伊降伊蔵が書き残した「おさしず」とが原典です。
但し、内容は日常生活における道徳的規範が中心であって、それを神の声として威厳をもたせ、人々に伝えただけです。


一、崇拝対象である天理王命の実体が明らかでありません。

 はじめは元の神、実の神といっていた神の表現が、途中から月日、親に変わります。
もともと天啓という神懸りの神ですから、変々自在、時には転輪王、天輪王、天倫王、そして明治十八年神道天理教会設立当時には、天理大神とも称していました。

 教祖の神観念は月日、神、理、誠、おやさま等であって、実体がつかめるようでつかめません。

物には本体と力用(はたらき) が具わるものとの判断からすれば、十全の神々と称する十柱(くにとこたちのみこと、をもたりのみこと等)も実在しない神々といえます。

十柱の神の総称といわれる親神天理王命が、あまりにも抽象的で実体のないものだからです。

大根、人参、ほうれん草を野菜とはいいますが、その総称するところの野菜には実体がないのと同じです。

もし御利益があったといっても、それは梅干を想像(実体のない) して唾液(利益)がでたのを、実際に梅干を食べたことのように錯覚しているのと同じです。



二、実際に拝んでいるものが鏡では功徳もありません

各地における礼拝観念は、当然親神天理王命 そして教祖(中山みき)を村象とせよと教えますが、その実体は鏡です。

 天理教は拝む対象を本尊といわず、「目標」といいます。
単なる礼拝の目標、ないし標識(めじるし)なのです。地方教会には「天理王命目標」「教祖目標」が、本部から下付されます。
そして、一般信徒の自宅では礼拝目標として「神実(かんざね)」と称するものが祀られます。
神実もまた小型の鏡です。

教祖みきの主旨からすれば鏡など不必要なはずです。
これは教祖死後、教団の発展と防衛を計るため、伊勢系吉田神道色を採り入れたときの副産物の何ものでもありません。
最近注連縄(しめなわ)は止めましたが、鏡だけが残ったのです。


 三、荒唐無稽な人間創造説

 ○ 親神は、この世が泥海で味気なく思い、人間を造り、陽気ぐらしを見て共に楽しもうと思った。

 ○ 親神は、泥海のどじょうを食べて、これを人間の種にした。

 ○ 人間は虫、鳥、畜類など八千八度生まれかわり、最後に女猿一匹が残り、その胎から人間が生まれた。

 今も教えの根底になっているこの神話を「泥海古記」といいます。

古事記、日本書紀の神話がもとになつていることは確実でしょうが、天理教団では否定しています。

中国の神話、盤古(ばんこ)や女?(じょか)の国造り、人造りにも似ています。

 ともあれ、神話はどこまでも神話です。
人を導く教えとしては到底通用しません。


四、まじないから始まった宗教です

 「おさずけの理」とは特別な救済手段のことをいう、と説明していますが、要は病気治しのまじないのことです。
教団ではまじないにあらずといっていますが、過去の事実が物語っています。

扇の動き方で神意をさとる「扇さずけ」と、病人に息をかける「いきのさづけ」、清水を器に入れ、先に三口飲んで、これを病人に与える「水のさずけ」等ですが、今は全部廃止され、
「あしきはらいのさずけ」だけが今も次のような形でおこなわれています。

 「あしきはらいたすけたまえ、てんりおうのみこと」を三回唱え手を振り、「なむたすけたまえ、てんりおうのみこと」と唱えながら、患う個所を上から下へ三回なでる。
これを三回繰り返す。
  (はじめてシリーズEおさずけの理二七頁)

 もともと「をびや許し」という安産まじないがこの教団の始まりですから、推して知るべしです。


五、教えに対するひとこと破折

○ 体は神からの借り物で、心だけが自分のものといいますが、色(肉体)心(精神)は一体にして不二なることを知らないようです。

○ 死を「出直し」だとすれば、あくまでも現在を中心とし、未来を否定することになり三世の理が破綻します。
また、念仏浄土思想が仏教のすべてだと思いこんで、それを否定せんがために現世中心主義をとったようです。これも間違っています。


○「八つのほこり」 (惜しい、欲しい、憎い、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢)が不幸の根源だといい、神のほうきで払えと教えます。

しかし、あらゆる不幸がその心がけ次第で全部解決するというのは無理があります。

感情や欲望はほどほどにとは大事ですが、捨てさせる教えでは、すでに邪教といわねばなりません。
悪心とはいえ、心の否定では人間の否定につながるからです。


六、甘露台のルーツは道教(中国宗教) にあったのでは?

 天理本部の神殿の真ん中には、高さ二.四八メートルの六角形の甘露台があり、信徒はそれを四方から拝みます。

最上段には平鉢がのっていて、天からの甘露、すなわち病まず死なずの寿命薬を受けとるといいます。

 ところが、似たようなことが中国道教にあって、甘露を次のように説明しています。

 「不死の神薬、天上の霊酒。・・・・・・支那にありては古より道教にて甘露を貴び、神仙の天上より降す所の霊薬とし、高く承露盤を.造りて之れを受くべしとせり」

 と。つまり、甘露台とは承露盤のことだったのです。
(※ 天地万物の神 への儀式が 実は既に天理教以前に存在していた「道教」のパクリ ということ。

但し、天理教では、このことについて一切ふれていません、やはり都合が悪いのでしょうか。




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      天  理  教

 発生と歴史 

教派神道系に属す。

天理教は天保九年(西紀一八三八年)に、農婦・中山ミキが四十歳の時、魔と感応して開いた邪教で、天理王命なるものを仮定し、親神と称してあがめる。

この親神は「万物に生命を授けた元の神、実の神」とかで、われわれ人間も「陽気暮らしをさせたいとのおぼしめしでつくられた」のだそうである。
この 陽気暮らし″ が天理教信仰の究極であり、修行の目的である。

 しかし、そんなに慈悲深い神なら、中山ミキの体に天下るまで、いったいどこで何をしていたのやら、天保以前の民衆はどうやら見捨てられていたようである。
となると、実に無慈悲このうえない悪神ということになる。

(※ 天保以前の民衆を救えなかった、無力・無慈悲であった、ということは、それ以後民衆も救えない ということではないか。)

 教義と破折 

《因縁の理》 

彼らは、まず信者にミタマ(鏡)を祭らせ、この陽気暮らしの出発点として「因縁の理」を説き、これをオサトシと称する。
一例をあげれば、ガン(癌) になると「ガンコですなおでないから」眼病を患うと「目上の人をバカにしたから」子供が発熱すると「夫婦の心のすれあいが原因」頭痛が起こると「頭が高いから」等々と、どれもこれもナンセンスな語呂合わせで、コジツケもここまでくるとコッケイだが、立正佼成会がこれを輸入して平気で使っている。
これでも仏教の因果律と同格のつもりらしい。

 そして、この因縁をきろうとすれば、さらにオツクシが必要となる。
あげきったはては、無一物になって教会で一生養われて終わる人も多い。
教会へ住み込んでハン天姿で働いている人たちがそれで、いわゆる「最後は身でツクシて」 いる姿である。

 《陽気暮らし》 

しかし、よくなるどころか、悪化する一方で、教えとは逆にだんだん深刻な陰気暮らしに変わっていく。

苦しさは、いっそうつのるから、疑いをもったり、不平をいいだす者がでてくるのは当然である。
すると「心づかいが悪いからだ」と教訓される。

すなわち、彼らはこの「おしい、ほしい、憎い、かわいい、うらみ、腹立ち、欲、高慢」の八つのホコリを掃除しないかぎり、幸せになれないという。
これは誰にでも、どんな場所でも際限なく適用できる仕組みの論法である。

 そして、最後に教えられるのが「たんのうの理」だ。
「どんな苦しみも悲しみも、親神の心ひとつであればガマンしろ」しかして「陽気であれ」と…‥・。

このように、天理の教えは徹底して人の理性をゴマ化し、人間性を抑圧している。

抑圧 二面性 偽善性 性格が歪曲 

信徒の奴隷化 無力化 無気力化 隷属 


        
 現状 

「屋敷を払うて田売り給え天貧乏の命」と冷やかされているように、天理教の強信者は 

一様に財産を失い、貧乏のドン底に落ちている。
これは世間にかくれもない事実である。
なにしろ、入信早々から徹頭徹尾しぼりとられるのだから、それも当然であろうが、天理教信者の前途に、この運命がたちふさがっているわけである。
それとも知らず、この人々は朝夕の勤行に踊りをおどって、邪神をたよりに暮らしている。

 《献金主義》 

天理教本部のあの豪奢で広大な殿堂、校舎は、みな信者の献金とヒノキシン(無償の勤労奉仕)によって建設されたものである。

また、維持費をはじめ、すべてがそうだ。
年間予算をみても昭和三十三年度は八億六千四百万円、七十年祭のときには、実に五十億円の予算だったという。
この経費は、大教会、分教会と天下り、やがて信者に献金のオハチがまわってくる。

 分教会の数は全国で約一万五千、分教会長は信者のオツクシ(献金のこと)で生計を立て、教会の運営も図る。
各分教会には布教師が数人いるが、彼らの大部分は、分教会長から生活費を支給されているため、外交員よろしく、目標額達成を目指して、集金に追い回されざるをえない。
これら一切を背負わされる信者の負担額を計算したら、いったい、どのくらいになるだろうか。

 《身はかりもの》 

教典「おふでさき」には「人間というものは、身は借り物、心一つがわがもの」と実に奇妙な教えも説かれているが、天理教信者になったら、身に大ケガをしても、身
はわがものじゃないからといって、すましていられるだろうか。
わがものだからこそ、身にも心にも痛みを感じょうし、手当てに力を尽くしもしよう。
肉体と心は、言葉では分けても実際には分けられるものではない。
低劣、不合理、不自然の見本で、あえて日蓮大聖人の色心不二の生命哲学と比べるまでもない。

 ひろまったわけ 

こんなたわいもない教えが、どうして全国的に弘まったのだろう?

一、民衆の宗教に対する無知。

二、広大な建て物で荘厳して、人の心を驚かせる手を用いた。
 
三、宗教行事に名を借りた慰安行事で恵まれぬ下層生活者(信者)を魅惑してきた。

四、毎日の起居動作を幼稚な「おさとし」で、こと細かに理屈づけた。

五、「おさずけ」 と称して、指導者が病人の前で祈祷を行ない、それで病気が治る場合がある。

六、不幸を不幸と感じさせぬ邪宗教特有の思想訓練。
 
大きな理由はざっとこんなだが、いずれにしても、天理教の行なっていることは、神の美名に隠れた大々的なサギ行為である。

もし、信者のなかに冷静な心を失わないでいる人があったら、入信当初と現在の生活を比較してみるがよい。あまりにもみじめに変わりはてた自分の姿、生活にびっくりすることだろう。

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 成立の歴史

 天理教の教祖は、中山みき(一七九八−一八八七年)といい、みきが神懸かりにあった天保九年(一八三八
年) 十月二十六日を立教の日とする。

 中山みきは、寛政十年(一七九八年)、大和国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町) に生まれ、
十三歳の時に近隣の庄屋敷村(現在の天理市三島町=天
理数本部の所在地) の地主であった中山家に嫁いだ。みきは、もともと信仰熱心で、嫁いで間もなく、念仏の寺院で授戒を受けたという。

 その後、夫・善兵衛との間に一男五女をもうけたが、
天保八年、十七歳になる跡取り息子の秀司が激しい足痛
を訴え、医師に診せても治らなかったことから、中山家
では、近所に住む修験者に加持祈祷を依頼し、以後、秀
司の足痛が始まるたびに、修験者を家に呼んで加持を施
すようになった。

翌、天保九年二十三日、その時、たまたま、加持台(神が降りる中継人)となる巫女が不在だったために、みきが代わりを務めることになった。
ところが、その祈祷の最中、突然、みきが神懸かりの狂乱状態に陥った。

 みきの神懸かりは三日三晩にわたる程激しいもので、その中でみきは、修験者の問いかけに答える形で「我は天の将軍なり」と言い放ち、「我は元の神・実の神である」「この屋敷にいんねんあり、このたび、世界一列を救けるために天降った。
みきをかみのやしろに貰い受けたい」との言葉を繰り返した。
断わり続ける夫に対して、最後には、「もし不承知とあらば、この家、粉(こ)もないようにする」と迫り、その脅迫に怯えた夫が、みきを神のやしろ″ として差し出すことを承知すると、ようやくみきの狂乱状態が鎮まったという。

 天理教では、みきが「神のやしろ」として差し出されることになった天保九年(一八三八年)十月二十六日のこの日を、親神さまが降りた日″ とし、立教の日と定めている。

 以後、みきは、家にある物を持ち出しては道端に置いて、それを拾った人に施す、という行為を練り返した。

夫や親戚がこれを咎めても、みきは、「貧におちきれ」との神からの命令である、と言って聞き入れず、この噂を聞いた貧乏人や物乞いが中山家に集まるようになって、そのために中山家は没落の一途をたどった。

 後に教団では、このみきの行為を、「物を施し、執着を去れば、心に明るさが生まれ、自ずから陽気ぐらし″ への道が開ける」などと説明し、天理教の教えである「陽気ぐらし」の「ひながた」(手本)としている。

 嘉永六年(一八五三年)に夫が五十六歳で他界すると同時に、みきは、重石が取れたように、ますます信仰活動に拍車をかけた。

 まず、貧乏のどん底″を目指して、母屋の取り壊しを急ぎ、末娘・こかんに、浪速(現在の大阪)に出向いて拍子木を打ちながら、「南無てんりん王のみこと」と連呼することを命じた。
後に教団では、これを「においがけ」(布教活動) のはじまりとしている。
 
さらに、安政元年(一八五七年)、三女の初産に際して「をびやゆるし」と称する安産祈願をしたことを皮切りに、近隣の産婦達にもこれを施すようになって、やがて、安産と病気治しを表看板にした布教活動を本格化させ、周囲の農民や職人に「てんりん王」の信仰を説くようになった。

 当初は「南無てんりん王の命」と繰り返し唱えることを「おつとめ」としていたようであるが、慶応二年(一八六六年)からは、『みかぐらうた』と称する地歌を作りだし、それを歌いながら手踊りをする、という「おつとめ」の形式を定めて、さらに明治二年(一八六九年)からは、親神・天理王命の教えを記したものとして『おふでさき』の執筆を始め、教義の体系化を進めた。

 なお、明治政府が宗教統合政策を打ち出した際、みきは、既存の神道と対立する路線を押し進めたために、官憲から目を付けられた。
政府の取り締まりを逃れるため、明治十三年には真言宗寺院所属の「転輪王講社」を結成したが、その偽装工作はすぐに頓挫し、結局、みきをはじめとする教団関係者は、明治十九年一月まで十数回にわたって、逮捕・拘留されることとなった。

 みきが明治二十年(一八八七年)に死亡すると、教団幹部らはすぐに既存神道にすり寄り、翌年、「神道天理教会」の名称で正式に教団設置の認可を受けた。
この時初めて、「天理」 の文字が使われるようになったのである。

 なお、現荏の教団名でもある「天理教」として独立したのは、それから二十年後の明治四十一年のことであった。

 みきの死亡後、「真柱」と呼ばれる教団代表者は、中山家の直系男子によって世襲され、現在は四代目の中山善司がこれを継承している。

 天理教の本部は奈良県天理市にあり、現在の教勢は、教会・布教所が約四万一千ケ所、信者数は約一八七万人と公称されている。

 なお、天理教から分派や枝分かれした教団は二十五、六にものばるが、いずれも弱小教団にとどまり、わずかに次の二教団のみが、それなりの教勢を保持している。

 「ほんみち」……大正四年設立。本部=大阪府高石市。
信者数=約三一万人。

 「世界心道教」……昭和一九年設立。本部=愛知県豊川市。信者数=約一〇万人。


  二、教義と本尊

 天理教では、「親神天理王命」 「おやさま (教祖・中
山みき)」を信仰の根本として崇める。
すなわち、親神”である天理王命は、この世と人間を創った 「元の神」 であり、この世の一切のものや人間の身の内に入り込んで真実の助けをする「実の神」 である″とし、その親神が、中山みきをやしろ″ として現実世界に現われ、人々を救う教えを説いた、というのである。
 そして、礼拝の対象物としては、天理王命の象徴として神鏡を祀り、教祖の象徴として御幣(紙を細く切って木に挟んだ物)を祀る。

 また、天理教では、独特な人間・天地・世界創造説≠唱えるが、中山みきが口述したとされる『元初まりの話』(「泥海古記」)を要約すると、

 この世の元初まりは泥海で、そにはたくさんのドジョウが住んでいた)親神は、これを味気なく思い、人間を創って陽気ぐらしをさせ、共に楽しもうと考えた。そして、泥海の中に「うを」(龍)と「み」(白蛇)を見つけ、男と女の土台にするため口に入れた。
さらに、「道具」 (性質) を作るために鯱(シャチ)・亀・鰻・黒蛇・フグを口に入れた。
こうして作られた男女の雛型を、それぞれ、「いざなぎのみこと」 「いざなみのみこと」と名づけた。

さらに親神は、泥海の中のドジョウを全部食べて人間の「種」とし、九億九千九百九十九人の子数を「いざなみのみこと」 の胎内に宿し込ませた。
そして産み落とされた人間が、八千八回の転生を繰り返しているうちに、時に虫・鳥などに生まれ変わったりして畜生煩ができ、また、長遠の年月の中で泥も固まってきて、海山・天地・世界が創られた″
というもの。

要するに、親神は、陽気ぐらしを見て楽しむために、ドジョウから人間を作った、というのである。

 そして、人間の身体は親神からの 「かりもの (借り
物)」 であるが、心だけは自分のものとして自由が与え
られており、親神の思いに添った心づかい≠すれば「陽気ぐらし」ができるところを、自分中心に心を使おうとするから、それを改めさせようとして、親神が病気.災難などの不幸を示す、と説く。

その 自分中心の心づかい″ とは、「惜しい・欲しい・可愛い・欲・高慢・憎い・恨み・腹立ち」という心持ちのことで、これを 「八つのほこり (埃)」 と称する。

さらに、前世において自分や先祖が悪い心づかいをしたことによって、親神から「いんねん」(不幸)を見せられる場合もあるが、どんなに辛く苦しい中でも不足や疑いの心を持たず、親神の心に身を任せていけば、心は明るくなり「陽気ぐらし」ができる、ともいう。

 信仰の具体的実践法としては、「つとめ」 「さづけ」
「ひのきしん」 「においがけ」などがある。

 「つとめ」 には 本づとめ″と朝夕のつとめ″ があるが、「本づとめ」 とは、天理教の祭儀で、「ぢば」(親神が初めて人間を創った場所であるとされる地点=天理市の本部の神殿) に設(しつら)えた「かんろだい」と称する柱を囲んで行なう「かぐらづとめ」 (男女五人ずつが鳴り物しに合わせて 「かぐらうた」を歌いながら踊る) と、その後の 「てをどり」 (男女三人ずつが並んで、鳴り物と歌に合わせて行なう手振り) をワンセットにしたもの。
各地の教会でも、これに準じて行なわれる。

 また、朝夕のつとめ″ は、信者が、自宅の祭壇の前で手振りか拍子木に合わせて行なうもの。

「さづけ」とは、病気治しの手段で、「あしきはらいのさづけ」ともいい、手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ、てんりおうのみこと」と」と唱え、患部を撫でる、というもの。

「ひのきしん」とほ、奉仕の心のことで、常に親神への感謝の気持ちで他人の喜ぶことをすれば、心づかい″ が正される、とする。

 「においがけ」とは、布教活動のこと。

 これらを実践していくことによって、「陽気ぐらし」を得ることができる、とするのが、天理教の基本的な教えである。


  三、破 折

   親神・天理王命の矛盾

 天理教では、この世の始まりは泥海で、それを味気なく思った親神・天理王命が、人間を創って陽気ぐらしをさせ、それを見て楽しもうと思いつき、泥海に住んでいたドジョウを種にして人間を創り、さらに人間の住む天地・環境世界を創った≠ニ説く。

 もし、そうであれば、人間は親神の楽しみのために創られたオモチヤ、ということになってしまう。

 なおまた、人間および天地を創ったという親神自身は、どこから生じ、どうやって親神になったのであろうか。

およそ、物事には全て、原因と結果があるのが道理であり、親神だけが原因がなく存在した≠ニいうのでは、道理から外れてしまう。
道理から外れた真理などあるはずがないではないか。
                            また、ドジョウから人間を創った、とは、何とも滑稽で、まともな人間が聞けば、誰もが吹き出してしまうような話であるが、天理教の信者はこれを信じているのである。

 次に、「天理王命」という名称であるが、この漢字は、中山みきの死亡後に作られた当て字である。

 そもそも、小山みき自身が書いた「かぐらうた」や「おふでがき」は、ほとんど平仮名で表記され、親神の名称も「てんりん王のみこと」(あるいは、「てんりわうのみこと」) としている。
 この「てんりん王」とは、みき存命中の明治十三年に、教団が「転輪王講社」という名称を使っていることからも明らかなように、もともとは「転輪王」 のつもりだったようである。

 「転輪王」とは、仏教全般に、正義によって全世界を統治する王″として説かれているものであり、みきはもともと、念仏信仰と深く関わってきた人物であるから、この名称が出てきたものといえよう。

 ところが、みきの死亡後の明治二十一年、それまで適(かな)わなかった政府の認可を何としても得たかった教団は、
既存神道に迎合するとともに、明治五年に明治政府が各宗派に宛てて発布した「三条教憲」 の第二条に「天理人道ヲ明ニスベキ事」とあること、また「転輪」と「天理」の語呂が合うことに目を付け、教団名を「神道天理教会」として申請した。
そして、この時から、教団では、「転輪王」が「天理王」に統一されるようになったのである。

 信仰の根本であるはずの親神″が、信者例の政治的な都合によって名称を変更されるとは、何ともお粗末な話ではないか。
所詮、親神″などというのは、人間によってデッチ上げたものだから、人間によって変えても問題はない、ということなのであろう。

    教祖の妄想による教え
                            次に、「親神」などいないのに、なぜ、中山みきが神懸かったのか、ということについても述べておこう。

 みきの神懸かりは、修験者による加持祈祷の最中に起こったものであり、低級邪悪な本尊や教えに感応して正気を失ったがゆえの現象であることは論をまたないが、これを機縁にして、みき自身の深層心理に巣くっていたものが一気に噴出したのであろう。
 そもそも中山みきは、弱冠十三歳にして中山家に嫁いだが、十六歳で家事一切を任され、次々と生まれた六人の子供(うち二人は夭折(ようせつ)の育児に追われ、さらには夫の身持ちが悪かったために、気苦労が絶えなかったといわれる。
 そうした中でも、家長である夫への従順を強いられ、自分を押し殺して生きてきたみきにとって、神懸かりによって理性のタガが外れたことは、夫への逆襲のチャンスでもあった。
 明確に反逆の自覚があった否かは別にして、その心理が働いたからこそ、「我は天の将宣なり」と言い放って、夫の上に立とうとし、また、「みきをかみのやしろに貰い受けたい」と言って、自らの解放を得ようとした。
さらに、「もし不承知とあらば、この家、粉もないようにする」 と言って夫を脅迫したことも、積年の恨みの表われといえよう。

 以後、「神のやしろ」 として生きていくしかなくなったみきは、妄想や思い付きで 神の言葉″ を作り上げていったのである。

 こうして考えてみれば、天理教の信者は、一人の女性の妄想に振り回されて人生を送ることになるのだから、気の毒としか言いようがない。


    欺瞞に満ちた「陽気ぐらし」

 また、天理教は、信仰の目的は 「陽気ぐらし」 だとし、どんなに辛く苦しい目に遭ったとしても、貪乏のどん底に落ちても明るく生きた教祖の苦労を 「ひながた」 (手本) として、自らの境遇を素直に受け入れ、不足を感じてはいけない、等と説く。

 しかし、これは現実逃避であり、真のの救いにはならない。
人は、.貧乏のどん底に落ちれば、不足を感じ、そこから這い上がりたいと思うのが自然の姿であり、また、その苦境を脱してこそ、救われたと感じるのである。
心の持ちようで幸福になる、などというのは人間の本性を無視した欺瞞の教えである。

 現に、教祖・中山みきとて、一時は、夫への当てつけのように家中の金品を人に施し、ついには貧乏のどん底に落ちたと言われるが、しかし、本当に食うや食わずの生活を送ったのは数年間だけで、その後、信者ができてからは、「貧におちきれ」 と説いて信者達に教団への寄附を督励し、そうして集めた金銭で自らは何一つ不自由のない生活を送ったではないか。
何ともお粗末な 「ひながた」 であり、自家撞着の極みである。

 なお、このような天理教の信仰に励む信者は、とことんまで教団に搾取され尽くしてしまうため、かつては世間の人々から、「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりわうのみこと」 という「かぐらうた」 の一節をもじって、
 「屋敷を払うて 田売りたまえ テン貧乏のみこと」
と椰輸されたほどである。

                           
 いずれにしても、天理教は、デタラメも甚だしい低級邪悪な教えで、これを信仰していけば、やがて、「陽気ぐらし」などと言っていられないような苦悩に堕ちることになるのである。