●> <1、また、▼「歴代法主は「嫡々付法」であればという条件付きであり」というが、
> 「嫡々付法」であるか、否かは
> @、誰が、
> A、何を基準にして
> 判断するのか。
> 文証を用い、教義的に証明せよ。
>
―――――――――――
▼> (゜o゜)正しく受持信行する法華経の行者が大聖人の御書を基準にして判断するに決まってるでしょうが

●正しく⇒
1、何を
2、どう信じることが、正しいのか。
文証を挙げ明確に証明せよ。
―――――――――――
▼> 仏の遺言に云く「我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり」云云。             (行敏訴状御会通)
>
●一体、現宗門の誰が、「我が経」=三大秘法=一大秘法=戒壇の大御本尊 の他に、「正法有り」と言ったのか?
明確に証明せよ。
―――――――――――
▼> ●聖人の教義はあくまで聖人の御書によって依て判断せられなければならない。  (日淳上人全集下P884)
> ●聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって決定されなければならない            (日淳上人全集下P885)
> ●次に日蓮大聖人の御書を拝読すれば御一代の弘教に三段があらせられることは何人にも うかがわれるところである。               (日淳上人全集下P886)

●全くの引文した文意を取り違えている、大虚け者である。
だから、「痴犬」と言うのである。
以下の原文の一段を見れば明確であるが、

    日蓮聖人と法華経

 日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこうとする。此の二つの立場が基礎となって、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義が成立しておる。
 そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とはいえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。

上人が仰せの御意は、

×「法華経は仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とはいえない。
○「聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。」

であり、「法華経を中心として、大聖人の仏法を見ていってはいけない。あくまでも大聖人の御書を元として判断していかなくてはいけない。」趣意
である。
つまり、「法華経」と「御書」の相対に於いては法華経でなく「御書」によって判断せよ。とのお言葉である。
相伝を受けていない者が、御書の文を元に、唯授一人・血脈相承の御法主上人を批判してよい、だなどとはどこをどう拝しても仰せになっていない。
こういう文献の引き方をまさに「切り文」といって、知らずにやっているなら幼稚・稚拙・愚昧・愚劣、知っててやっているなら、狡猾・卑劣、な。実に唾棄すべき態度である。

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では痴犬は同じ日淳上人の以下の御指南をどう拝すのか。
日淳上人のお言葉を出した限りは、以下のお言葉にも従うのが道理である。

■65日淳上人
「仏教は必ず相伝による」(日淳上人全集七四四n)

●65『日淳上人全集』
「大聖人様が『血脈の次第日蓮日興』と仰せ遊ばされてございますが、今日その血脈を承継致しましてただ感激に打たれる所でございます」(一八四n)

●65『日淳上人全集』 194
真に大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でございまする。で私共は未熟でありましても宗開両祖、歴代上人の御跡を継ぎまして仏法の正統の家にあるのでございますから、この身の有難さをつくづく思いまして信心に励まねばならないと強く考へる次第でありまする。

●65『日淳上人全集』1442
「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。
大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。御文中「血脈の次第日蓮・日興」とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。
しかしてそのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。
内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。
(中略)
大聖人が「経を手に握らない法門は信ずるな」と仰せられしは「仮令師資相承があると言っても経文にないことは信ずるな」との聖訓であらせられる。経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には「此経は相伝に非ずんば知りがたし」と仰せられて居る。
(中略)
信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。法華一会の時一切の菩薩や人天の方々を、「止みなん善男子」といって制止し給ひ、上行菩薩に付嘱し給ひしは、信心の有る無しにより給ひしものか。
(中略)
また大聖人が「仏法―最大深秘の正法」と仰せ給ふ秘法、また「末法には持ち難し」と仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう?倒(てんどう)の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。


●65日淳上人猊下
仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。

● 仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。

●65『日淳上人全集』聖典相伝部に寄せて
「申す迄もなく御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切でありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります」(一一五〇n)

さあ、痴犬ども、この日淳上人のお言葉からすれば、痴犬たちは、間違いなく、仏法に混乱している、魔の所行のものども、ということだが。
何か反論できるか?

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